デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.593-616(DK390280k) ページ画像

昭和4年7月25日(1929年)

是日栄一、アメリカ合衆国新聞記者団ヲ、飛鳥山邸ニ招待シテ茶話会ヲ催シ、歓迎ノ辞ヲ述ブ。更ニ三十日、同団団長格タルジョージ・エス・ジョーンズニ長文ノ書翰ヲ送ル。


■資料

竜門雑誌 第四九一号・第五一頁昭和四年八月 青淵先生動静大要(DK390280k-0001)
第39巻 p.593 ページ画像

竜門雑誌  第四九一号・第五一頁昭和四年八月
    青淵先生動静大要
      七月中
廿五日 米国新聞記者団招待茶話会(曖依村荘)


招客書類(三) 【昭和四年七月廿五日(木)午後三時半、於飛鳥山子爵邸 米国新聞記者団招待茶話会】(DK390280k-0002)
第39巻 p.593-594 ページ画像

招客書類(三)              (渋沢子爵家所蔵)
 昭和四年七月廿五日(木)午後三時半、於飛鳥山子爵邸
  米国新聞記者団招待茶話会
            来賓
             (太丸・太字ハ朱書)
             ○ジヨジ・エス・ジヨーンズ
             ○ギデオン・エー・ライオン
             欠フランシス・ダブルユー・クラーク
             欠ウヰリアム・フイリツプ・シムス
             ○ハーリー・ビー・ウエークフイールド
             欠ウヰルバー・フオーレスト
             ○ハーバート・エル・マシウス
             ○フランシス・イー・レーガル
             欠フレツド・ホーグ
             欠パウロ・ライト
             ○ジヤツド・エム・ルイス
             ○ジヨージ・エー・フインチ
             記者団案内役
             ○ヘンリー・ダブリユ・キンネー
             欠通商局長 武富敏彦
             ○情報部長 斎藤博
                  欠白鳥敏夫
                  欠加来美知雄
                  欠姉崎正治
                男爵○団琢磨
                  欠藤山雷太
 - 第39巻 p.594 -ページ画像 
                  欠服部文四郎
                  欠井上準之助
                  ○串田万蔵
                男爵欠森村市左衛門
  外務省次官○吉田茂     男爵○阪谷芳郎
  同情報部 ○鶴見憲       欠内田嘉吉
  同〃   ○筒井潔       ○頭本元貞

                  ○主人
                  ○小畑久五郎
                  ○岡田純夫
   以上〆三十三人 内出席十九人
            欠席十四人
 一、順備《(準)》 レモン、サンドウヰツチ、洋菓子、果物、アイスクリーム、冷紅茶
          レモンは青淵文庫に於て供すること
 一、接待場所 待合室 青淵文庫
        食堂 書院


竜門雑誌 第四九一号・第四三―四八頁昭和四年八月 米国新聞記者団招待会(DK390280k-0003)
第39巻 p.594-597 ページ画像

竜門雑誌  第四九一号・第四三―四八頁昭和四年八月
    米国新聞記者団招待会
昭和四年七月廿五日午後三時半より、米国新聞記者団を曖依村荘に招待して茶話会を開いたが、当日の出席者は
  ジヨージ・エス・ジョーンズ
  ギデオン・エー・ライオン
  ハーリー・ビー・ウエークフィールド
  ハーバート・エル・マシウス
  フランシス・イー・レーガル
  ジヤッド・エム・ルイス
  ジョージ・エー・フインチ
諸氏の外、同団案内役たるヘンリー・ダブルユー・キンネー氏及び陪賓たる団琢磨男・串田万蔵、阪谷芳郎男、頭本元貞、吉田茂、斎藤博鶴見憲、筒井潔の諸氏で、先づ青淵文庫に一行を迎へ、種々懇談を重ね、出席者の揃ふを俟つて一同庭園を逍遥の上、書院に於て茶菓の饗応を為し、席上青淵先生は左記の如き演説をせられ、之に対し団長格たるジョージ・エス・ジョーンズ氏が答辞を述べ、五時近く一行は引上げた。
      青淵先生演説
 今日御出でいたゞきましたことを嬉しく存じますと同時に恐縮に存じます。私は英語が話せないので通訳によつてお話せねばならぬ。従つて充分に懇談出来ませぬことを遺憾とする次第であります。然し言葉は出来ませんでも、米国に対しては早くから深い感情を持つて居ります。其の初め私は外国嫌であつた。外国は夷狄であると云ふ風に考へて居たのですが、民部公子に従ひ仏国へ行つて後は、海外の事柄を
 - 第39巻 p.595 -ページ画像 
速かに学ばねばならぬとするやうになりました。殊にタウンセンド・ハリスの行動が如何にも武士道的であり、日本の為めを心配してくれた事実を、後に聞き知りまして深く敬服し、それからは米国の方に接するのに非常な親しみを覚えるやうになりました。更に今から五十年前ゼネラル・グラントがお出でになつた所、此処で歓迎会を開き、また私達が主となつて上野に明治大帝の御臨幸を乞ひ、国民的な大歓迎会を挙行致しました。其の後私も幾度か米国を訪問しましたが、常に知名の方と懇談して居りまして、ルーズベルト大統領とも親しく会談し、米国が日本に対して親切であると云ふ感じを一層強めました。ただ私は前にも申す通り、英語が話せないので、直接に懇談を為し得られないのを遺憾としますが、米日両国の間の親善が厚く且つ大であると申して憚りないと存じます。故に此度皆様の斯かる御旅行を非常に喜ぶ訳でありまして、どうか東洋殊に日本の真相をよくよく御覧の上公平なる御批評を願ひ度いと存じます。重ねて申しますれば、儀礼として御褒め下さるのみでなく、斯かる点は斯うしたらよいと注意して下さることを喜ぶのであります。ハリスの既往を顧みましても、日本の政治に対して中々多くの指導を与へられましたことが、安藤対島守の記録などにも明かであるのであります。されば皆様は御職掌柄からも、充分に日本に対して深厚なる御示教を御与へ下さるやう希望して已みませぬ。
 今日は御寸暇を以て御出で下されたことを有難く存じますが、充分感謝の意を表し得ないのを残念と致します。此処に重ねて御礼を申上げ、皆様の益々御健勝の程を願ひ上げます。
      ジョーンズ氏答辞
  日本に対する希望は到る処で申述べましたから、特に申上げません。たゞ此処に参りまして渋沢子爵初め皆さんと相語るを得ましたことを喜ぶのであります。私達は東洋諸国を視察致しましたが、之れに対しては、米国に帰つて話す時にも筆にする時にも常に公平であることは勿論であります。扨て先日日本と米国との技術者が相協力して造つた立派な建物(三井のビルディング)を見ましたが、ああ云ふ風に日本と米国とは協同して世界平和の殿堂を築設せねばならないと存じます。今日御招待下さいましたことを厚く御礼申上げます。
 尚青淵先生は、当日の会見にては、時間の短かかつた関係から、充分意を尽し得なかつたとして、更に七月三十日附を以て左の如き書面をジョーンス氏宛に発送せられた。
 拝啓
 近代的新知識と雄大なる健筆とを有せられ、現に世界文化の尖端に立たるゝ米国新聞各社の諸君が、過日滝野川の拙宅を御訪問下されしことは、老生の欣快に堪へざる所に御座候、随て当日御談話申上度儀も多々有之候ひしが、折柄口中に痛所有之殊に英語を以て直接御話を致兼候為め、其の意を尽し得ざりしは遺憾の涯に御座候、殊に諸君は朝鮮・満洲・支那の各地をも御巡歴相成り、新東洋の実情を充分に御観察被成候こと故、種々御高見も有之事と存候も短時間
 - 第39巻 p.596 -ページ画像 
の御会見とて、是亦十分御教示を請ふことを得ず、重ね重ね残懐の事に候
 先日拝晤の際、断片的に申上候通り、老生青年の頃は東洋にては欧米諸国を親愛せず、寧ろ排斥する者多く有之候為め、老生等も最初は排外思想持主の一人に候ひき、然し後年諸外国の実情をも聞知し殊に千八百六十七年仏国に渡航仕候後は、西洋の科学を修め其文明は何処までも取入れざるべからずと思惟するに至り候、就中米国に対しては早くより其感触を深くする所有之候、即ち先づタウンセンド・ハリス氏が今より七十四年前総領事として我邦に赴任せられ、後に公使となり条約の締結、関税の規定等に就て、従来経験なき我が国に対し厚意ある指導を与へられ、而も尚ほ日本の排外思想は一部に強く根を下し居候ひしかば、遂にはハリス公使の通訳官たりしヒユースケン氏は暴徒の兇刃に仆れ候、然るにハリス氏は寛大の度量を以て後進国の開発には或る程度の犠牲は免れざる所なりとて、飽迄も穏和の手段をとり他国公使の如く強圧的行動に出でざりし次第に候、此事は小生後年に至り親友より聞知致し、忠恕に富めるハリス氏の心事に深く敬服仕候、されば先年伊豆下田なる氏の旧蹟に碑を樹て、永く其功績を記念致し候、此の間の事情は別に進呈する冊子に詳しく記載致し有之候、又別冊マクヴェー大使の演説筆記は同記念碑除幕式当日のものにて候
 次に老生の記憶致居候はグラント将軍の我邦来訪に御座候、同将軍は五十一年前来遊せられ、当時老生は東京商法会議所の会頭として同志と謀りて大いに歓迎致し、拙宅へも来臨せられ候、殊に将軍は我が明治大帝に両三回謁見せられ、其意見を進言せられし由にて、日本国民は深く感佩致し、其為め陛下の御臨幸を仰ぎ、上野公園に於て国民的大歓迎会を開催し、日本の古武術を観覧に供し、将軍には非常に満悦の意を表せられ候
 爾来米国より渡来の知名の人々は、大抵拙宅へ来訪せられ、又老生渡米の節も同じく重なる方々を訪問して御懇談を重ね候が、中にも大統領ルーズベルト氏には千九百二年ホワイトハウスにて謁見し、老生の言説に興味を持たれ、再渡米国行の折には、オイスター・ベーの邸を訪問して色々の物語致候、氏は日本に対し特殊の心情を有せられたるやに察せしが、幾もなく他界せられて、再び相見ゆるを得ざりしは残懐の極に候、ボストンの書肆ミレツト氏は故ルーズベルト氏の知人にて同じく老生の親交を訂せし人なるが、ル氏逝去の後ル氏の日本に対する意見を掲載せる小冊子を贈られたれば、翻訳して熟読せしに真に正義に立脚せる大政治家の見解と存ぜられ、欣喜に堪へず候まゝ、直に右訳文を原文と共に印刷して、各方面の同志に配布せしが、其の内容は欧洲大戦の当初、独逸が東洋の攪乱を図り、米日両国間の確執を希図するが如き宣伝を為したるに対するル氏の公明なる意見にして、此書は残本無之候へば玆に其一冊のみ進呈致し候、尚其他ハーバート大学のエリオット氏、ヂヤッヂ・ゲーリー氏・ヂエームス・ヒル氏、ヂヨン・ワナメーカー氏等とは、特に懇親を厚ふし居りしが、此等の諸君は皆既に故人と成られ、老
 - 第39巻 p.597 -ページ画像 
生のみ独り余生を保ち居候ことの心淋しさは殆ど忍び得ざる程にて候、実に既往の感慨を物語れば尽くることなく候得共、今回諸君の如き重大なる任務を持して渡来せられたる有為の人士と会晤するを得て、そゞろに若返りたる心地を生じ候事に候
 老生は米国の学問をも言語をも学ばざりし為め、諸君と相会するも実に靴隔掻痒の感に堪へず候、然し乍ら心情は自ら相通ずるものありて、何等の故障も無之候、就中米国と日本とは、国の広狭、立国の新旧、富の豊慊等悉く相反すと雖も、所謂武士道的人情に於ては聊かも異なる所なく、両者全く相同じく候間、互に相敬愛して共に忠恕の念を失はず、常に過激の言動を慎み、以て世界の文化を進め平和を保持するやう努力せざるべからずと存候、たゞそれ斯くの如く、国家として、又個人として頗る親善なる間にありながら、貴国が千九百二十四年に制定せられたる彼の移民法は、老生の最も遺憾とする所に候こと、夙に諸君の知悉せらるゝ事と存候へば事新しく多言を費さず候、何卒諸君の真実にして公平なる東洋観が全米の人士を正しく指導する日のあるを期待し、玆に重ねて今般の御来訪を感謝仕候
 尚ほ聞く所に依れば諸君はカーネギー国際平和財団の主催にて、東洋の観光を試みられたる由なるが、老生も往年渡米の節、カーネギー夫人を訪ねて懇談し、且つカーネギー氏の自叙伝を日本文に翻訳して、読書界に提供したることも有之候間為念申添候
 以上申上候事柄は、過日御来訪の節十分所懐を尽さゞりし憾み有之候故、更に一書を呈し候次第に候間、貴台より御一同へ可然御伝へ被下候様願上候 頓首
  昭和四年七月卅日
                      渋沢栄一
    ジョージ・エス・ジョンス様
  追て老生の写真十三葉、ハリス関係の冊子各十三部御届申上候間諸君へ御分配被下度候、尚ほルーズベルト氏日本観は一部丈け御手許へ差上申候


中外商業新報 第一五六一七号昭和四年八月一日 米国記者団送別 昨夜東京会館の盛会 一行を送る諸氏の言葉(DK390280k-0004)
第39巻 p.597-599 ページ画像

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(小畑久五郎)書翰控 ジョージ・エス・ジョーンズ宛一九二九年九月三〇日(DK390280k-0005)
第39巻 p.599 ページ画像

(小畑久五郎)書翰控  ジョージ・エス・ジョーンズ宛一九二九年九月三〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
             (COPY)
            K. Obata,
        c/o Shibusawa-Jimusho,
        2 Itchome, Marunouchi,
         Kojimachi-ku, Tokyo.
                 Sept. 30, 1929
Mr. George S. Johns,
  Editor, St. Louis Post Dispatch,
  St. Louis, Missouri,
Dear Mr. Johns,
  A few days ago, Viscount Shibusawa, one of whose secretaries I am, was remarking among other things as to whether or not any news came from America about the recent visit of the party headed by your good self. He seems to be anxious to get your reaction to his rather lengthy letter, especially to the sentiment expressed in those few words with regard to the anti-Japanese immigration law of 1924. You may remember that I personally delivered the letter to you at the Imperial Hotel.
  I am quite aware of the fact that you are very busy and your time is most valuable, but I shall be pleased to hear from you on the immigration question particularly, so that I may convey to the Viscount your ideas about, and attitude to, it.
  With my best wishes and kindest regards to you, I beg to remain,
            Yours most sincerely,
               (Signed) K. Obata


(ジョージ・エス・ジョーンズ)書翰 小畑久五郎宛一九二九年一〇月二九日(DK390280k-0006)
第39巻 p.599-601 ページ画像

(ジョージ・エス・ジョーンズ)書翰  小畑久五郎宛一九二九年一〇月二九日
                   (渋沢子爵家所蔵)
         ST. LOUIS POST-DISPATCH
EDITORIAL DEPARTMENT
              ST. LOUIS, MO. Oct. 29, 1929
 - 第39巻 p.600 -ページ画像 
Mr. K. Obata,
 Care of Shibusawa Jimusho
  2 Itchome Marunouchi,
  Kojimachi-ku, TOKYO,
      Japan.
My dear Mr. Obata :
  I read the letter of Viscount Shibusawa which you put into my hands in Tokyo rather hastily at the time and put it in my baggage to read more carefully when I returned home. I saw it there during the journey, but when the baggage was unpacked at home it must have been misplaced because I have been unable to find it since.
  I recall, however, the point concerning which you ask me in your letter. When the exclusion act was passed I wrote several editorials criticizing the action of Congress and particularly the brusque offensive manner in which the subject was handled. Nothing can be done now to wipe out the feeling of resentment on the part of the Japanese, which I feel sure from conversations with friends in Japan is softening. But my own view is that our Government should put Japan on a quota basis. The Government, supported by popular sentiment, is determined to restrict immigration from all countries and the Japanese quota would probably be small, but it will place Japan on an equality in mode of treatment with other nations. I found to my very great gratification a strong sentiment in Japan in favor of peaceful cooperative relations with the United States and a desire to foster trade between the two countries. To my mind war between Japan and the United States is unthinkable, but I am anxious to do everything in my power to foster a spirit of goodwill. I want to see in place of battleships on the Pacific fleets of merchant ships contributing to the prosperity of both Japan and America.
  I still have a vivid recollection of our very interesting meeting with Viscount Shibusawa on the occasion of the very delightful lunch he served at his villa. Please give him my highest regards.
                Yours sincerely,
                (Signed) Geo. S. Johns
(右訳文)
 東京市               (十一月十八日入手)
  渋沢事務所
   小畑久五郎様
   一千九百廿九年十月廿九日
           米国ミズーリ州セントルイ市
            セントルイ・ポスト、デイスパツチ紙
 - 第39巻 p.601 -ページ画像 
               編輯局にて
                ジヨージ・エス・ヂヨーンス
拝啓、益御清適奉賀候、然ば小生滞京中貴下より拝受致候渋沢子爵の御書簡は、其際早々拝読仕り帰米後悠々熟読致す積にて他の荷物と共に仕舞込み、旅行中は慥に其処に見受申候処、帰宅荷解の際紛失したるものに候や、其後今日迄発見し得ざる次第に御座候
乍併貴翰に依り御照会の点は記憶致居候、排日法通過の際小生は数度社説を草して議会の行動、特に該問題を取扱へる軽卒不謹慎なる行動を批評仕候、今更日本人の忿恚の感情を一掃し得る手段無候得共、日本に於ける友人諸氏の会談より推するに此感情は和らぎつゝあること確実と感得仕候、乍併小生自身は我米国政府は日本をコータ法に依らしむべしの意見に御座候、米国政府は輿論に基き各国の移民を制限する決心に有之候へば、日本移民の割合は僅少なることゝ存候、然れども之れに依つて待遇上日本を諸外国と同等の地位に置くことゝ相成可申候、米国と平和的協同関係を維持せんとする日本の強き感情、及び両国間の貿易を発達せしめんとする希望あるを見て、小生は甚大なる満足を覚ゆるものに御座候、日米戦争は小生の予想し能はざる所に御座候得共、親善精神を促進するため微力の及ぶ限りを尽したき希望に有之候、太平洋上に游戈する戦闘艦の代りに日米両国の繁栄を助成する商船隊を見るは、小生の願望に御座候
渋沢子爵の御私邸にて賜はれる甚だ愉快なりし茶会に於て、子爵と興味深き御会見の栄を得たるは今猶記憶に新にして眼前に髣髴致候、何卒此儀子爵閣下へ宜しく御伝達被下候様願上候
右得貴意度如此御座候 敬具


(ジョージ・エス・ジョーンズ)書翰 渋沢栄一宛一九二九年一一月一二日(DK390280k-0007)
第39巻 p.601-602 ページ画像

(ジョージ・エス・ジョーンズ)書翰  渋沢栄一宛一九二九年一一月一二日
                   (渋沢子爵家所蔵)
         ST. LOUIS POST-DISPATCH
EDITORIAL DEPARTMEN
               ST. LOUIS, MO. Nov. 12, 1929
Viscount Shibusawa,
  TOKYO, JAPAN.
My dear Viscount :
  I wrote your secretary recently saying that I was unable to find the letter which he put in my hands in Tokyo. Subsequently I found it in a drawer where it had been placed by a servant who unpacked my baggage. I read it again carefully, with pleasure.
  I am enclosing an editorial page of the Post-Dispatch containing a brief article I wrote, based upon your statement submitted to the Institute of Pacific Relations at Kioto, on the Japanese exclusion act. I thought it would be timely, since you had brought up the subject, to tell the story of your con
 - 第39巻 p.602 -ページ画像 
version to foregin intercourse through Townsend Harris, and of your activities for peace and good will and the general sentiment of the Japanese people on that subject so far as I could learn it from my personal intercourse with them. I put in the article a plea for Congress to do something to heal the wound caused by the exclusion act in Japan. I hope the article will be satisfactory to you, and I hope that Congress will find a way to remove the sentiment of sorrow and resentment over that act in the minds of the Japanese people.
  I still have a lively recollection of the pleasant hours we spent at your villa and your very interesting discourse.
  With highest regards, I am
               Yours sincerely,
               (Signed) George S. Johns
(右訳文)
          (別筆)
          昭和五年四月七日御一覧済 要回答
 東京市                 (十二月三日入手)
  渋沢子爵閣下
   一九二九年十一月十二日
        ミゾーリ州セントルヰ市
          セントルヰ・ポスト・デイスパツチ社
                 ジヨージ・エス・ジヨンス
拝啓、益御清適奉賀候、陳者過日閣下の秘書宛にて小生東京滞在中、同氏より受領仕候貴翰紛失致候旨申上候処、其後該書簡が荷解きせる家僕に依り抽出中に仕舞込まれあるを発見致し、再度熟読仕り欣幸に存候
閣下が太平洋会議に提出せられたる声明書に基き、日本人排斥移民法に関する小生の社説掲載のポスト・デイスパツチ紙切抜玆に同封仕候閣下が該問題を御提出相成候故之に関聯して昔閣下がタウンセンド・ハリスの事蹟に感激して外交擁護者となり、平和親善のため御活動被遊事及び小生直接貴国人と交際して、該問題に関し小生の知り得たる一般日本人の感情を報道するは時機に叶へることゝ存候、右論説中に排日法が日本に与へたる創痍を癒すため何等かの手段を講ずべきことを国会に訴へ申候、本論説が閣下の御満足を得んことを希望し且つ該排日法に関して日本人の胸中に蟠まる悲哀と憤怒の感情を一掃すべき方法を、国会が見出さんことを希望致居候
閣下の御邸宅に参上の上、非常に興味ある御高話を拝聴仕候愉快なりし数時間は、今猶記憶に鮮かに有之候
右得貴意度如此御座候 敬具
  ○同封ポスト・デイスパツチ紙切抜次掲。


St. Louis Post-Dispatch Nov. 12 The Japanese Exclusion Act(DK390280k-0008)
第39巻 p.602-607 ページ画像

St. Louis Post-Dispatch  Nov. 12, 1929.
        The Japanese Exclusion Act
Viscount Shibusawa makes a friendly protest against immigra
 - 第39巻 p.603 -ページ画像 
tion policy of U. S.; says the Japanese don't talk about slight, but resentment and grief still rankle; statesman, 86, tells how he was converted to friendship for U. S.; other leaders, eager to co-operate for peace, share sentiment, granting of small quota might be solution.
          ―――――――
     By George S. Johns, Associate Editor.
  At the recent conference on Pacific relations, held in Kyoto, Japan, Viscount Eiichi Shibusawa of Tokio revived the issue of the Japanese exclusion act of 1924. In a paper presented to the conference the Viscount made a friendly protest against the act. He siad that the Japanese were very courteous and reticent and refrained from talking about the slight put upon them by the American Congress, yet the resentment and grief caused by it still rankled in the minds of the Japanese. He expressed the hope that America would find some way to right that wrong and thus remove the one obstacle to complete understanding and cordial co-operation for peace and friendly intercourse.
  The protest comes with peculiar force from Viscount Shibusawa, whose admiration and warm friendship for America are universally recognized in Japan. His influence is strong for cordial relations and peace. The Viscount is one of the great old men of Japan, continually striving to establish understanding and appreciation of each other's good qualities between America and Japan.
          ―――――――
  At a luncheon given in his home to the American newspaper men traveling in the Orient under the auspices of the Carnegie Endowment for International Peace, the Viscount told an interesting story about his conversion from a bitter opponent of the opening of Japan to foreign intercourse and trade with other nations to an ardent supporter of the cause of progress under the leadership of America. He is 86 years old, but vigorous physically and mentally. As a young man, he said, he violently opposed any change in the hermit policy of Japan. He resented the intrusion fo foreigners. He thought Americans were barbarians, without understanding of Bushido or any code of honor or ethics. Bushido, literally "the way of the warrior," was the unwritten traditional code of the Samurai, the warrior class of Japan. Bushido inculcates courage and loyalty in the highest degree, self-sacrifice, self-discipline and chivalrous treatment of inferiors and enemies; in short, honorable conduct and a poignant sense of shame at the least taint
 - 第39巻 p.604 -ページ画像 
of dishonor. While the code was practiced only by the Samurai, it had a potent influence on the ideals, manners and customs of all the Japanese.
  As the ruling class, whose superiority was recognized by the Japanese people, the Samurai was a strong force and contributed invaluable service in the transition from feudalism to imperial parliamentary government. It was their work more than anything else that enabled Japan to establish a stable government after the restoration of the imperial family and to become a great military and economic Power.
          ――――――――
  Townsend Harris was the first American Consul-General sent to Japan, afterward being promoted to the office of Envoy Plenipotentiary. He raised the first foreign flag in Japan when he unfurled the Stars and Stripes at his residence in the Gyokusenji Temple at Kakizaki, Shimoda, Idsu. It was through his patient, persistent efforts and honorable conduct that the first commercial treaty between Japan and America was signed by the then Japanese Government. His treaty was the model of others and to his influence is ascribed the beginning of modern progress in Japan.
  When Henry C.J. Heusken, the interpreter of Mr. Harris, was assassinated by rowdies, all the foreign Ministers except Harris closed their legations and declared that the Japanese authorities were neither able nor willing to protect them. They moved elsewhere. Minister Harris took the opposite course, saying that the unfortunate incident might happen in any country and expressing confidence in the good intentions of the Japanese Shogunate. He stuck to his post.
  Viscount Shibusawa said this courageous and fair conduct of Townsend Harris revolutionized his opinion of Americans and of the opening of Japan to foreign intercourse. He was convinced that Americans understood Bushido and were governed by a high code of honor and ethics.
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  The Viscount led the visitors through the spacious and beautiful grounds and gardens of his villa in Tokio to an eminence overlooking the city. His home was built in the far suburbs of Tokio, but the city has reached it. In front is a great industrial district as evidences of the great changes which have taken place in Japan. He ascribed the steps which had enabled Japan to become the progressive nation of the Orient and one of the five great Powers of the world to the example and leadership of America. He expressed heartfelt gratitude
 - 第39巻 p.605 -ページ画像 
 to America, not only for her aid in progress, but for her generous benefactions, especially in the earthquake disaster which destroyed Tokio and Yokohama.
  Everyone who mingles with the Japanese people, particularly Government officials, leading business and professional men, is convinced that the sentiment of Viscount Shibusawa is generally shared by the Japanese. Japan has the will to peace toward America. Gratitude and good will and desire for cooperation for peace and commerce were expressed by all with whom I came in contact. They are, however, exceedingly sensitive and the sting of the exclusion act, especially the rough and offensive manner in which it was passed after the demonstrations of Japan's good faith under the gentlemen's agreement, rankles in their hearts. The utterances I heard were expressed "more in sorrow than in anger" that the slight had been put upon them by a friend.
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  Now when we are co-operating with Japan for limitation of armaments and for peace, not only in the Pacific but in the world, we should consider ways and means to remove that sting. The responsibility for peace and good relations in the Far East rests mainly upon the United States and Japan, and there should be no removable obstacle to complete accord.
  Perhaps the best way would be to give Japan a quota. It would be small, and with the co-operation of the Government probably would be more effective in holding down immigration than exclusion. The border of Mexico is a tempting line for the smuggling in of immigrants. The price of an airplane ride across the Canadian or Mexican borders is only $50.
  Congress ought seriously to consider what can be done to make amends for the exclusion blow. The healing of that wound would clear the sky in the Pacific. We owe it to our Japanese friends.
(右訳文)
  一九二九年十一月十二日火曜日発行
  セントルヰ・ポスト・デイスパツチ紙社説
    排日法に就きて
米国の移民法に対して渋沢子爵は友情ある抗議をなす。曰く、日本人は侮辱に就きて喋々せざれども悲憤の情猶鬱勃たり、九十歳の老政治家たる子爵は如何にして親米家となれるかを述ぶ、他の有力者も平和のため熱心に協力し、感情を同じふす、コータ法を許可せば問題解決せん
                ジヨージ・エス・ジヨンス
 - 第39巻 p.606 -ページ画像 
 最近日本国京都市に開催せられたる太平洋問題調査会大会に於て、東京の渋沢子爵は一千九百二十四年の排日移民法問題を復活した、大会に提出せる声明書中に子爵は該法に対して友情ある抗議をなして、日本人は甚だ礼譲に厚く言葉少なく、国会が与へたる侮辱に関しては遠慮して喋々せざるも、それに依つて生じたる悲憤の情は今猶日本人の胸中に鬱勃として居ると言はれた。子爵の希望する所は、亜米利加が其過誤を正して平和と親善なる国交に対する、完全なる理解と誠意ある協力とを妨ぐる唯一の障碍を一掃せんことであると述べられた。
 渋沢子爵の亜米利加に対する賞讃と温情とは、日本に於て一般に認められ居るから子爵の此抗議には異常なる力があるのである。親善と平和とに対する子爵の勢力は強大である。子爵は日本の老偉人の一人で日米間の理解を謀り、且つ相互の長所を諒解称揚せんがために不断に努力して居らるゝのである。

 カーネギー国際平和財団主催の下に、東洋漫遊中の米国新聞記者を其私邸に招待して茶の会を催され、其席上で子爵は一場の興味ある談話をせられた。それは子爵が外国と交通貿易せんがため日本を開放することに大反対をして居られたのが、何故に翻つて亜米利加の教導の下に進歩主義を採ることを熱心に主張する様になられたかと云ふことに就いてゞあつた。子爵は九十歳の老人だが肉体的にも精神的にも元気旺盛である。其云ふ所に依ると子爵は青年時代には日本の鎖国主義を変更することに烈しく反対し、外国人の侵入を憤つた。亜米利加人は武士道も又は何等君子の道も道徳も解せざる蛮人であると思つた。武士道は「武士の守るべき道」にして、日本の武人階級たるサムライの遵守すべき古来の不文律である。武士道は勇と忠とを第一位に置き次いで犠牲・克己及び弱者、並に敵を遇するに仁侠の精神を以てすること、即ち約言すれば、名誉ある行為を重んじ不名誉は微細なりとも仮借せずと云ふ、敏感なる廉恥心を有することである。此信条は武士に依つてのみ実行されて居つたが、日本人全体の理想・行動・習慣の上に強き感化力を有して居つた。
 其優秀なることを全国民に認められて居る支配階級として、武士は強き力であつた、而して封建制度より帝国議会政治に至る変革に当り貴重なる奉仕をなした。日本をして王政復古の後、強固なる政府を樹立し、進んで軍事上及び経済上一大強国とならしめたものは何よりも武士の仕事が第一であつた。

 タウンセンド・ハリスは日本に派遣された亜米利加最初の総領事であつた。後に全権公使に昇進したが、日本に初めて外国の国旗を掲げたのは此人であつた。伊豆国下田の柿崎にある玉泉寺に駐在中、星条旗を掲揚したのであつた。最初の日米商業条約が当時の日本政府(幕府)の調印を得たのはハリス氏の忍耐に富み終始渝はらざる努力と、尊敬すべき行為とに依るのである。ハリス案に基いた日米通商条約は他の条約の手本となつた。而して近代日本の進歩の始まりは同氏の力に依ると言はれて居る。ハリスの通訳ヘンリー・シー・ジエー・ヒユ
 - 第39巻 p.607 -ページ画像 
ースケンが暴徒に依つて暗殺せられた時、ハリス以外の外国公使は皆其公使館を閉鎖して、日本当局者は彼等を保護する力もなく又保護せんとする意志もないと公言して他処に引移つて仕舞つたが、ハリス公使は反対の方針を取られ、此様な不祥事は如何なる国にても起り得べき事であると言つて、幕府の誠意を信ずる旨を言明され、依然として其居住を移しませんでした。
 タウンセンド・ハリスの此の勇気あり且つ公平なる行為は、亜米利加人、日本開国及び外国交通に関する子爵の意見を覆したと子爵は言はれた。亜米利加人は武士道を解し名誉と道徳の高尚なる信条に依つて支配されて居ることを子爵は確信せられたのである。

 子爵は記者連を案内して広い立派な庭園を通り、工場地帯を俯瞰する高所に導かれた。邸宅は遠い郊外に建てられたのであつたが、今は市と町続きになり、前面には大工場地が展開して居る。膨脹する都会と工場地とを指して、日本に起りつゝあつた大変革の証拠となし、日本が東洋の進歩的国民となり更に世界の五大強国の一となることの出来たのは、亜米利加の実例と指導とに依ると言はれ、亜米利加が日本の進歩を幇けたこと及び其寛大なる恩恵、特に東京及び横浜を壊滅した震災当時の救済に対して衷心より感謝して居られた。日本人、特に政府当局者、主なる実業家及び学者と交はる人は、誰でも此子爵の感想が一般日本人の感想であることを確信するのである。日本は亜米利加に対して平和を希望して居る。私の接触した人々は悉く、感謝と好意とを示し且つ平和と貿易のため協力せんことを希望して居る旨を述べて居る。併し乍ら極めて敏感であるが故に排日法の刺撃、特に日本が紳士協約の下に其誠実を表示したる後に該案を通過したる粗暴傲慢な態度は、日本人の胸中に蟠まつて居る。私の耳にした詞は「忿怒よりも寧ろ悲哀の調を帯びて居つた」、蓋し此侮辱が平素信頼して居つた友人より与へられたからであらう。

 扨単に太平洋のみならず全世界に於ける軍備縮少及び平和のため、日本と協力しつゝある際に吾々は此悪感情を一掃する手段方法を考慮すべきであると思ふ。極東に於ける平和と親善関係に対する責任は主に米国及び日本にある、而して両国間に於ける完全なる一致に対する障碍となるものは如何なるものなりとも排除せねばならぬ。
 最善の方法は日本にコータ法を許すことであらう、之れに依つて入国し得る率は少なく、政府の協力を得れば移民を抑止するに効果あることは排斥法に勝るだらうと思ふ。メキシコ国境は移民密輸入の誘惑線であり、カナダ或はメキシコ国境を横断する飛行機の搭乗賃金は僅かに五十弗である。
 排日法の与へた打撃を恢復するために如何なる方法を採り得るか、之は我国会の真面目に考慮すべきことである。此創痍が癒えれば太平洋上の雲霧は晴れるでせう。我々の親友なる日本人に対して私共は之れを実現すべき義務があるのである。   (終)

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渋沢栄一書翰控 ジョージ・エス・ジョーンズ宛 昭和五年五月九日(DK390280k-0009)
第39巻 p.608 ページ画像

渋沢栄一書翰控  ジョージ・エス・ジョーンズ宛昭和五年五月九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
              (別筆)
              昭和五年四月十九日御承認済
 米国ミゾリー州セントルイ市
  セントルイ・ポスト・デイスパツチ社
   ジヨージ・エス・ジヨンズ殿
                   東京 渋沢栄一
拝復、昨年十一月十二日附尊書並に御同封の貴台御起稿にかゝる論説切抜正に拝受難有奉存候、御承知の通り老生は英文を不解候為め翻訳を命し候処、稍長文なりし為め多少の時間を要し、其内歳末年始と相成自然遷延致候内一月十日流行感冒にかゝり、老齢の故か恢復意外に遅々として捗らず、爾来三閲月籠居静養の已むなきに到り遂に今日迄御返書遅延致候次第に御座候処、幸に頃者漸く快方致候に付翻訳により全部を通読致、玆に本書拝呈仕候義に御座候
昨年御来遊の際拝呈仕候拙書御再読被下候由拝承感佩罷在候、又昨秋京都に開催の太平洋問題調査会第三回大会に対する老生のステートメントも亦御一読被下候趣、重ね重ねの御厚情拝謝の至に御座候、右に関聯して御起稿被成候由の御論説を熟読致、其透徹せる論理と饒なる同情とに感服仕候、正義人道の高き立場より、友情の温き基調を以て大衆に向つて敢然正論を発表被成候義真に感銘の至に御座候、殊にクオータ法に就て具体的に指摘せられ、老生の言はんとする所を遺憾なく否望外の徹底さを以て御発表被下候義感激の至に御座候、軈て貴国民一般の輿論となり、排日移民法の改正も近からんことを思ひ、貴台の如き公平にして理解同情ある有力者が正義人道の為め御活動相成候事を考へ欣慰の至に御座候、一日も早く移民法の改正を見、太平洋の浪永へに静かならんことを祈候、此上ながら御高配被下候様切望の至に御座候、老来九十、日暮れて途遠き感有之候得共、日米親善増進の為め一層努力致候覚悟に御座候間、何卒御高援被下度候
右遷延ながら拝答旁得貴意度如此御座候 敬具
  昭和五年五月九日
  ○右英文書翰ハ同日付ニテ発送セラレタリ。


(ジョージ・エー・フィンチ)書翰 渋沢栄一宛一九三一年三月三一日(DK390280k-0010)
第39巻 p.608-609 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

Maryland Clubwoman Apri, 1931 A Bit of Unrecorded History(DK390280k-0011)
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