デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
6節 国際災害援助
1款 広東地方水害罹災民救恤義捐金募集
■綱文

第40巻 p.5-10(DK400001k) ページ画像

大正4年7月22日(1915年)

是年六月、中華民国広東地方水害甚シ。是日栄一、帝国ホテルニ中国関係実業家ノ参集ヲ請ヒ、罹災民救恤義捐金募集ノ事ヲ議ス。後、八月金二万円ヲ得テ、外務省ヲ通ジテ中華民国政府ニ贈ル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK400001k-0001)
第40巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
七月廿二日 晴
○上略 午前十時帝国ホテルニ抵リ、広東水害ニ付寄附金ノ事ヲ支那関係者ト協議ス○下略
   ○中略。
八月八日 曇
○上略 中日会社倉知氏ヘ広東水害寄附金ノ事ニ付各方面ヘノ書状ヲ作リ和田氏帰京便ニ托ス○下略
   ○中略。
八月十日 曇
○上略 午飧後、中日会社倉知氏ヨリ来状アリ、広東水害寄附金ノ事ニ付事情ノ報告アリシモ、既ニ昨日出状シテ取扱方ヲ申遣シタレハ、回答ヲ要セス○下略
   ○中略。
八月十二日 曇
○上略 三時頃事務所ニ抵リ、留守中ノ庶務ヲ処理ス、広東水害ニ関スル寄附金募集ノ件、其他雑件輻輳スルヲ処分シテ、午後六時頃帰宿ス
○下略
八月十三日 半晴 暑気強シ
○上略 広東水害寄附金ノ件ニ付書状ヲ認メ、増田ヲシテ諸方ニ勧誘セシム○下略


東京日日新聞 第一三九〇七号 大正四年七月二四日 広東水害の救恤 我実業団の同情(DK400001k-0002)
第40巻 p.5-6 ページ画像

東京日日新聞 第一三九〇七号 大正四年七月二四日
    広東水害の救恤
      我実業団の同情
渋沢男の発意にて支那関係各実業家は、廿二日帝国ホテルに集会し、広東水害罹災民救恤に関する協議を遂げたる結果、金二万円を醵出し之を被害地に送りて救済の資に充つることとなれり、当日の出席者左の如し
 - 第40巻 p.6 -ページ画像 
 井上準之助・大橋新太郎・大倉喜八郎・中野武営・中島久万吉・倉知鉄吉・山成喬六・藤瀬政次郎・古市公威・水町袈裟六・三村君平・渋沢栄一・安田善三郎・和田豊治・白岩竜平・馬越恭平・尾崎敬義


中外商業新報 第一〇五一一号 大正四年七月二四日 広東災害醵金 渋沢男爵の発意(DK400001k-0003)
第40巻 p.6 ページ画像

中外商業新報 第一〇五一一号 大正四年七月二四日
    ○広東災害醵金
      渋沢男爵の発意
広東地方の水火災に対し、渋沢男爵の発意にて支那関係の各実業家は二十二日午後帝国ホテルに集会し、罹災民救恤方に関する協議を遂げ此際取敢へず二万円を醵出し之を被害地に送り救済の資に充つることとせり、当日の出席者如左
 井上準之助・大橋新太郎・大倉喜八郎・中野武営・中島久万吉・倉知鉄吉・山成喬六・藤瀬政次郎・古市公威・水町袈裟六・三村君平・渋沢栄一・安田善三郎・和田豊治・白岩竜平・馬越恭平・尾崎敬義
右の外阪神地方にも支那関係実業家間に醵金の計画ありと


竜門雑誌 第三二七号・第六七―六八頁 大正八年八月 ○広東水害の救恤(DK400001k-0004)
第40巻 p.6 ページ画像

竜門雑誌 第三二七号・第六七―六八頁 大正八年八月
○広東水害の救恤 青淵先生の発意にて、七月二十二日午前十時より帝国ホテルに支那関係各実業家の参集を請ひて、広東水害罹災民救恤に関する協議を遂げたる結果、取敢えず金弐万円を醵出し、之を被害地に送りて救済資金に充つることに決したる由、当日の出席者は左の如し
 青淵先生 井上準之助・大橋新太郎・大倉喜八郎・中野武営・中島久万吉・倉知鉄吉・山成喬六・藤瀬政次郎・古市公威・水町袈裟六・三村君平・安田善三郎・和田豊治・白岩竜平・馬越恭平・尾崎敬義


当社の沿革(六)(DK400001k-0005)
第40巻 p.6-8 ページ画像

当社の沿革(六)         (中日実業株式会社所蔵)
大正四年六月、湖南・湖北・江西・安徽等、長江流域数省の地に水災あり、其被害少なからさりしが、之と前後して広東省珠江の洪水は附近一帯沢国と化し、家屋の流失人畜の死傷等惨禍の甚大なる、百年来罕に見る所にて、被害民の窮状言語に絶せるものあり、広州駐在赤塚総領事の報告に基つき、当社相談役渋沢子爵は人道上座視するに忍ひすとし、此等罹災民救恤の一助とすべく、約二万円程度を我重なる実業家より醵出し、赤塚総領事を経て同地の官憲に送付せんとの趣旨により、七月二十二日帝国ホテルに会合を催し、大体の方針を協議決定し本件の取扱方を当社に委嘱され、翌二十三日各方面へ左の書状をなせり
 拝啓、益御清適奉賀候、陳者過日書面を以て申上候通、今回支那広東地方に於て稀有の水害有之候に付ては、此際義捐金醵集の件にて御相談申上度、御会合御願申上候処、昨日会合の結果、大約金弐万円を醵出致すことに決議相成、其割当方を小生に御依嘱相成候に付き、大体別紙案の通決定致候考に有之候間、御一覧の上何卒御同意被下度懇願仕候、尚右取扱を中日実業株式会社へ委托致候間、御捐金は同会社へ御交付被下候様致度候、右は今一度拝芝の上御協議可
 - 第40巻 p.7 -ページ画像 
申上筈に御座候へ共、御承知の通差急き候場合に有之、甚た勝手なから右様御願申上度、早々如此に御座候 敬具
  大正四年七月二十三日          渋沢栄一
当社は左記各方面より金弐万円を醵出し、外務省を通し赤塚広東総領事より、広東省主席振武上将軍竜済光氏並に巡按使張鳴岐氏に宛て、公信を添へ、右金額の広東通貨換算銀弐万七千六百九元弐毫六分を送付せる処、右の内銀壱万元は同地の七十二行商有力者の設立に係り、今回の水害に因る傷病者を収容し、必要なる手当を行ひ、又医院を地方に派し施療の任に膺り居る城西方便医院に頒ち、罹災病者救治の資に充て、残余の銀壱万七千六百九元弐毫六分は広東賑務善後局に寄贈せる由にて、将軍巡按使広東賑務善後局及城西方便医院より夫れ夫れ謝状あり、且つ巡按使は同省の官報たる広東公報紙上に賑務善後局及城西方便医院に交付したる通達書写を掲載し、一般に示せし趣の鄭重なる礼状を赤塚総領事に送り来たりたる旨、同総領事より九月二十四日附公文を以て外務大臣大隈伯爵に宛て報告ありたり
    広東水災救恤資金義捐者氏名
 (一)株式会社第一銀行頭取男爵渋沢栄一、(二)株式会社台湾銀行、(三)三井物産株式会社、(四)日本郵船株式会社、(五)横浜正金銀行、(六)南満洲鉄道株式会社、(七)三菱合資会社々長男爵岩崎久弥、(八)子爵三島弥太郎、(九)日清汽船株式会社、(一〇)株式会社大倉組、(一一)大日本麦酒株式会社々長馬越恭平、(一二)大日本製糖株式会社、(一三)合資会社高田商会社長高田慎蔵、(一四)安田善三郎、(一五)古河虎之助、(一六)株式会社日本勧業銀行、(一七)鐘淵紡績株式会社、(一八)富士瓦斯紡績株式会社、(一九)服部金太郎、(二〇)東洋汽船株式会社、(二一)東亜通商株式会社社長高木陸郎、(二二)東亜興業株式会社、(二三)中日実業株式会社、(二四)大橋新太郎、(二五)王子製紙株式会社、(二六)台湾製糖株式会社、(二七)富士製紙株式会社、(二八)中野武営 以上
○中略
斯くて当社は渋沢男爵の名を以て出資各方面に対し、外務大臣宛赤塚総領事の公信並同総領事と支那官憲其他との往復文書写を添へ、左の報告書を発送せり
 拝啓、愈御清適奉賀候、陳者過般御醵出相願候広東水害義捐金総計金弐万円也、外務省を通し、在広東赤塚総領事を経て支那側に交付致候段、八月三十日附敞書を以て得貴意置候処、今般同総領事より外務大臣に宛て、同義捐金配付顛末及同地方官民側への影響情況の報告に添へ、別紙の通各方面よりの感謝状・新聞広告等送付有之候趣にて、外務次官より可然転達方申越相成候に付、事情御報告に代へ、右書類写全部御手許に差上候間、御閲覧被下度願上候、先は右迄申上度 匆々敬具○別紙略ス
  大正四年十月二十日           渋沢栄一
当時我実業界の対支国民外交機関としては、未た日華実業協会組織せられす、同仁会・日華学会・日華倶楽部の如きも或は孕胎し或は出生し或は襁褓の中に在りて、対支国民外交は渋沢男爵常に其中心となり
 - 第40巻 p.8 -ページ画像 
当社は之か実務執行機関たるの観あり、其後支那関係銀行会社間に支那懇話会の組織され、尋て日華実業協会の設立さるゝに及ひ、挙けて其手に移せり


渋沢栄一書翰 増田明六宛 (大正四年)八月八日(DK400001k-0006)
第40巻 p.8 ページ画像

渋沢栄一書翰 増田明六宛 (大正四年)八月八日 (増田正純氏所蔵)
○上略
広東水害ニ関する寄附金ニ付而ハ、此際倉知氏ヘ詳細書通し、且昨日同会社上海支店主任之者来訪ニ付、其帰京便ニ伝言もいたし置候
○中略
  八月八日                渋沢栄一
    増田明六殿
        貴酬
「大正六、八」
   ○右ハ欄外鉛筆ニテ大正六年トアルモ、同四年ノ誤リナラン。


中外商業新報 第一〇五二九号 大正四年八月一一日 「事務室」 渋沢栄一男(DK400001k-0007)
第40巻 p.8 ページ画像

中外商業新報 第一〇五二九号 大正四年八月一一日
  「事務室」
    渋沢栄一男
○上略○話は広東に於ける罹災救護金に始まる「隣人の困苦を救ふは憐憫の心から来るもので、差当り有志に謀つて二万円を送る様に取計つた次第である、日貨排斥を遣るやうな国民に憐憫もないものだと云ふものがあるが、是は間違つて居はせぬかと思ふ、救護金を送るとしても之によつて恩を売らうなどの考は毛頭ない」○下略



〔参考〕中外商業新報 第一〇五〇四号 大正四年七月一七日 広東水害公報 在留邦人は無事(DK400001k-0008)
第40巻 p.8 ページ画像

中外商業新報 第一〇五〇四号 大正四年七月一七日
    ○広東水害公報
      在留邦人は無事
△第一報 七月十一日梧州発広東を経て避難せる本邦人の語る処によれば、広東広西の水害は未曾有の惨状にて途中死屍水面に流れ居り、偶々広東に避難せるものも同地の水害に遭ひ多数の死者を出し、生存者は常食飲料水なく惨状目も当てられず、何れ当地本邦人外国人も救済の手段を講ずる筈、当地広東間郵便電信不通(今井香港総領事発電)
△第二報 七月十四日在広東赤塚総領事来電によれば、広東は未曾有の大洪水にて支那街並に沙面浸水五尺乃至一丈に達し、支那街住民は家族を纏め屋上に避難しつゝある次第なり、十三日午後二時火災起り十四日朝十時まで尚鎮火せず、市民は水火の難に遭ひ死傷者著しき見込、但し沙面及び支那街の本邦人は安全なり(今井香港総領事発電)



〔参考〕中外商業新報 第一〇五〇五号 大正四年七月一八日 広東水害公報 未曾有の災害(DK400001k-0009)
第40巻 p.8-9 ページ画像

中外商業新報 第一〇五〇五号 大正四年七月一八日
    ○広東水害公報
      未曾有の災害
△逓信省着電 去る二十九日より連日大雨、北江は増水の為十二日未明より沙面に浸水し、十三日は道路は人の肩に、家屋は床上に及び、局舎と官舎は床上二尺余、今尚増しつゝあり、支那町は破壊に及びし
 - 第40巻 p.9 -ページ画像 
所多く人畜死傷多数、此洪水中沙面を去る七・八丁の十二行に昨日午後三時大火あり、今少し火勢衰ふ、西江附近は昨日迄も雨降れりと、此水と合せば漸次増水すべし、十二日より各国局とも閉局しメール逓送の途なし、香港より船来るも激流にて連絡とれず、電信電話不通、水道・電灯止まり、食料品欠乏求むるに途なし、沙面外人状報一切不明なるも村落の全滅せしもの無数ならんと、最上の老人の談に斯る災害は嘗てなしと、右本日万死を決して香港に出づるものに託送、タコママル無線に依る(七月十四日広東郵便局発)
△第二報 本日漸く英局のみ香港倶楽部内にて二時間非常の郵便を取扱ふ、同局にては切手を始め器具悉く浸水し局長一人のみ事務を執る差立「メール」は当分の中英局長と交渉の上直接汽船会社に交付す、到着物は沙面まで運搬不可能、昨日に比し水量五寸減ず、常陸丸無線に託す(十五日広東郵便局長発電)
△外務省着電 七月十四日赤塚総領事よりの来電に曰く、今回広東の水害は西江・北江・東江・珠江の流域の全面に及び、人畜家屋の被害甚大なるが如く、広東市の大火災は更に惨烈を加へ真に同情に堪へず就ては本館は取敢ず三井物産会社・台湾銀行と共同して、昨日支那市街に炊出所を設け罹災者を救助の事に取計り置きたり、火災は昨日午後五時鎮火す、浸水未だ減ぜず(十六日香港今井総領事発電)



〔参考〕中外商業新報 第一〇五〇五号 大正四年七月一八日 広東洪水救護 救護策の協議(DK400001k-0010)
第40巻 p.9 ページ画像

中外商業新報 第一〇五〇五号 大正四年七月一八日
    ○広東洪水救護
      救護策の協議
広東省西江は海賊の巣窟として有名なるが、又河水の氾濫を以て知られたる地にして、洪水は例年のことに属するも、今回の洪水は余程激しかりしが如し、広東沙面は外国居留地にして一段高き所なるも尚且つ五尺乃至一丈の浸水を為し、死屍水面に流れ惨状目も当てられずといへば、明治四十二年辰丸事件後に於ける洪水以来の大洪水なるが如し、当時は辰丸事件ボイコツト緩和策として莫大なる寄附金を為して罹災者の救護を為したるが、今回は日支条約締結後、各地に排貨運動起れるに独り広東のみは之に加はらず同情に堪へず、されば広東にては既に十六日より三井物産・台湾銀行協同して罹災者の救助を為し居れるが、香港にても英人・本邦人間に救護策に就き協議中なるが如し
                  (広田通商局第一課長談)



〔参考〕中外商業新報 第一〇五〇七号 大正四年七月二〇日 広東水害救助 其費用五万弗(DK400001k-0011)
第40巻 p.9 ページ画像

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〔参考〕中外商業新報 第一〇五一〇号 大正四年七月二三日 広東出水被害 死者一万余人(DK400001k-0012)
第40巻 p.10 ページ画像

中外商業新報 第一〇五一〇号 大正四年七月二三日
    ○広東出水被害
      死者一万余人
出水地方は未だ減水せず、電信鉄道其他交通杜絶し居れり、水災区域広漠なるため被害の程度未だ分明せず、広東政府にて今日迄接受したる報告により全体を推す時は、救済を要する罹災民地方三・四百万、市内三十万内外、溺死又は圧死者の数一万の見当なる由、第一回米作の残部全滅、第二回は全く見込なく、来年第一回米作まで救助を要するならんと云ふ、而て広東商民と聯して救済公司を設け救済に従事し居るも、未だ充分手廻らず地方より救助を訴へ来るもの頻々たり、日本救済団の成績は至つて良好にして、門前市を為すの景況なり、救済区域を広東市に退りたるは、之を一般に及ぼす時は際限なき為めなり
           (沙面赤塚総領事発廿二日外務省著電)