デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
2款 日米関係諸資料
■綱文

第40巻 p.352-360(DK400113k) ページ画像

大正8年8月7日(1919年)

是日栄一、アメリカ合衆国シアトル市ノ新聞ポスト・インテリジェンサー紙ノ「日本号」ノタメニ執筆セル「日米両国の親善に就て」ト題スル原稿ノ修正ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK400113k-0001)
第40巻 p.352 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
八月七日 晴 涼
午前六時起床、先ツ入浴シテ後朝飧ヲ食ス、畢テ武信氏ニ約セシ米国新聞紙ニ掲載スヘキ日米国交ニ就テノ意見ヲ演説セシ筆記ノ修正ヲ為ス○下略
八月八日 半晴 涼
午前六時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後昨日ヨリ着手シタル演説筆記ノ修正ニ努力ス、武信氏依頼ノ稿ヲ了リテ、更ニフライシヤー氏ヨリ依嘱セラレシ太平洋紙上掲載ノ原稿ヲ修正ス○下略
  ○栄一、八月六日ヨリ塩原ニ滞留ス。


竜門雑誌 第三七六号・第一六―二四頁 大正八年九月 ○日米両国の親善に就て 青淵先生(DK400113k-0002)
第40巻 p.352-358 ページ画像

竜門雑誌  第三七六号・第一六―二四頁 大正八年九月
    ○日米両国の親善に就て
                      青淵先生
 本篇は米国シヤトル市新聞社ポスト・インテリゼンサー社に於て今秋発行する日本号に、青淵先生の日米に関する意見を登載したしと同社の東洋派遣員よりの依頼に対し、述らべれたるものなり。(編者識)
 日米両国の親善と云ふ問題は今玆に喋々を要することでありませぬ此事に関しては私は殆ど十数年以前から深く心を労し力を尽して居る特に今職分を有つて居る訳でないから、重要の事に関係するのでないけれども、国民の外交として両国の交情を厚うしやうと云ふことに就ては関係せぬ事はないと申して宜い位である、私の亜米利加に対する関係が青年の時と、実業界に従事して居る頃と、実業界を隠退した今日と、一身の変化から其感想に多少の変化はあるけれども、それは唯自已の境遇に付ての変化で、両国の国交を親善にせねばならぬと云ふ
 - 第40巻 p.353 -ページ画像 
念慮に至つては、年一年に進んで行つて益々厚くなると申すより外はありませぬ。私は青年の時には海外の国々、即ち欧羅巴、亜米利加抔は功利を重んじ侵略を事とする国々である、日本は之に反して君士国である、他の国と利益を争ふと云ふことなどは避けて、成るたけ道理を以て交際したい、他国の侵害を受けることは日本国民上下挙つて国辱とする所であると、其頃の青年殊に漢学生は多く斯う云ふ意見で、当時は鎖国の政体であつたから、外国の者が来れば直に吾々を欺くものである、侵略する為めであると云ふやうな観念を強く有つて居つたのである。私も其学生の仲間であつて、亜米利加の使節が日本へ来て外交を求められるのを侵略主義から来たものと誤解して、一時は大層悪意を以て見たことすらあつたのである、コンモンドル・ペリーが嘉永六年に日本へ来られた後が、最も日本にさう云ふ物議の強く興つた時であつた。然るに亜米利加の日本に対する外交は後から見ると侵略どころでなく、実に親切にして私なく、世界の真理を未開の人民に伝へたいと云ふ厚意で、日本に対して鎖国主義は宜くなからうと忠告誘導して呉れる趣意であつた。其事に就ては当時の公使として日本に来られたタウンセント・ハリスと云ふ人が容易ならぬ苦心で、亜米利加の正義人道を重んじたことが、後年に至りて能く了解して、私共大に前非を後悔したのである。是は私が亜米利加を知つた当初の事で殆ど六十年以前の懐旧談である。其後、私の一身は種々変遷し終に政治界を去りて実業界に身を置くことになつて、大正五年迄四十五年許り其位置に居つた。本職は銀行者であつたが、日本の実業を進めるには金融・商業・海陸運輸又は工業保険と、総て新らしい欧米に行はれて居る所の物質的の事業を起すと云ふことに、関係せぬものはないと云ふて宜い位に努力をした。私の身が富豪になつたのではないけれども、私の経営した事物が日本の富を増したと云ふことは、自分も心に愉快を感ずるのであります。又世人も知つて呉れるのだらうと思ふと同時に亜米利加の友人も多少其事は認め下さるだらうと思ふのである。実業界に居る間の私は殊更に亜米利加に対して物質的に深い友情を以て交はらなければならぬと云ふ観念を有つたのである。地図から見ると唯太平洋の海を隔つるだけであるけれども、其距離は中々遠い、又亜米利加は広い国である。日本は小さい国である、亜米利加は新らしい国に反して、日本は古い歴史をもつて居る。亜米利加は世界的の国であるが、日本は三百年以前に国を鎖して、外国を知らぬと云ふ国であつた。日本は万世一系の君主を戴いて居るが、亜米利加は国民の投票に依つて主裁者を選挙する。斯の如き大差があるから、国風から言へば大分違ふけれども、併し両国民の人情に至つては一致する所があるやうに思ふ、即ち正義を貴び、人道を重んじ、好むで人の為になることを努め、善事を人に勧むると云ふことは、亜米利加人総体の意気である。日本人も又国民性が忠孝を重んじ、義を見て勇み、難に逢ふて忌避せざるを主義とする国である故に、国民として種々違ふ所の多いに拘らず、国民性は大に合するものがあるから、此気風を相調和して行きたいものである。又経済上から見ると、日本は亜米利加に向つて大に学ぶべきことがある。日本の重なる物産は亜米利加と云ふ顧客が
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あつて益々繁昌すると云ふて宜い、それは即ち生糸である、不思議にも日本は養蚕に適応して居つて、外国貿易の開けて以来、年一年と生糸の輸出が進んで行つて、其進歩は今尚盛である。而して其生糸の需要は欧羅巴にも多少行くけれども、主として亜米利加であつて、亜米利加の富の増す程其需要が進んで行くことは疑ふべからざることである。蓋し人生は先づ着る、食する、住む、即ち此衣食住にあると云ふて宜い。文明でも、野蛮でも、亦貴い人でも、賤しい人でも、富む人も、貧しい人も衣食住を欠くことは出来ぬものである。其中の主なるものが日本に産して亜米利加が使用する。又反対に亜米利加からどうしても仰がなければならぬものが多い。それは鉄類、穀物抔である、機械類に至つては日本も追々に進めて行きたいと思ふけれども、到底自国のみで満足と云へないのである。既に前に述べた如く、一般の国民に両国の国民には相互に離るべからざる気質を有つて居る、況んや日本をして世界の仲間入をさして呉れたのは亜米利加である。而して其外交に就ても当初より親切に誘導をして呉れたのである。斯う云ふ観念は国民全体に注入して居るから、此有様を益々進めて、精神上の融和貿易上の進歩を拡張して東西両洋の物質上の文明を両国の和合から進めて行きたいと云ふことを私は始終念として居るのであります。貿易上の関係は、進んで金融を今一層密接にさせたいと云ふことをも企望して居るのである。斯の如く両国の親善は進みつゝあると思ひきや、今を去る十四五年以前から両国の間に不快を感ずる事柄が生じたそれは主として加州方面に移住した日本人が、亜米利加の加州の人民との間に調和を欠き、不満を惹起すると云ふことが屡々起つた。但し此事は亜米利加全体に亘つて居るのではない、殊に其関係が多く経済上であつて、決して人種的の意味ではなかつたやうに見えるけれども両国民の調和を欠くの事実が数々あつたものだから、亜米利加の有志者も色々心配し、吾々も亦大に憂慮して、今日より十一年前に太平洋沿岸の商業会議所の議員を主として、各地方より多数の人々が渡来して日本の風俗人情を観察し、各地に旅行して其実況をも知らせるやうにしたり、続いて其翌年又日本人が亜米利加の招きに依つて渡米実業団を組織して渡航した。其時私は其団体の団長として亜米利加の太平洋沿岸のみならず、東部の各都市を巡回して多大の歓迎を受け、実に稀に見る所の愉快な旅行をしたのである。殊にシアトルのローマン氏、ジヤツヂバツク氏、プレイン氏、其他の諸君の心配は中々容易なものでなくて、単にシヤトルのみならず米国各都市に於ける歓待は、今尚其旅行の愉快を記憶して居るのであります。斯の如く亜米利加人が日本に渡来し、又日本人が亜米利加へ旅行して、加州方面に起つた不快なる事柄を融和することは出来たやうであるけれども、併し全然これが為に其不快を拭ひ去つたとは言へないので、両国の有志者は爾来継続的に両国の間に若し物議が生ずることがあつたらそれを解決して、成るたけ親善の状態を鞏固にしたいと云ふことに努めて居る。現に今日桑港に於てもシアトルに於ても、又東京に於ても之に応ずる一つの団体が出来て居つて、是等の団体の人々は何か事故があると打寄つて評議して、万一両国間に情意の相違でも生じた時にはそれを解き、又
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謬伝でもあつた場合には其誤りを正すと云ふことに努めて居る。殊に桑港とシアトル地方の有志諸君、即ち先年私共が色々御世話になつた人々は、引続き此等の事に心配して居ることは、吾々が日本に於て尽力すると全く同様であると、私は信用して居るのである。のみならず私は唯通商貿易上の進歩許りでなく、更に一歩進んで日米の間に資本の共通を図つて、両者相共に力を協せて事業をするが宜いと思ふ。左様に利害の関係が密着になると、国交も益々親密に成るであらう。而して亜米利加の富は向後益々他に放資すべき力を生じて、日本に対して資本を卸すことを企望するのであらう。日本は今日相当ある進歩は為しつゝある、其富力も年を逐ふて増進する有様であるけれども、併しまだ為すべき事物は数多い。亜米利加の知識と資本を之に加へると云ふことは、私の期待する処である。更に一歩進んでは支那に対する関係である。支那は世界の人の周知の如く、天然の産物は沢山あるけれども、之れが経営はまだ鈍つて居る、若しも亜米利加と日本とが相争ふて其開発に手を伸すならば、為めに両国の感情が衝突せぬとも限られぬ故に、私は是非日米協力して此事業に着手するやうにしたい、是等は両国間の貿易以外の金融界に於て必要である。斯く考慮して居る為に私は大正四年桑港に開かれたる大博覧会に参列するを機会として、特に亜米利加に旅行した。其時に桑港の諸君にも、シアトルの諸君にも、更に東部に於ては市俄古、紐育、ボストン、費府、ピッツバーグ等の各地を訪問して、従来懇親の諸君に親密に談話をした。其の時は私の意見が亜米利加の実業界に完全に採用されなかつたと思はれた。決して為し能はぬ事とは言はぬけれども今日直に其処に至るには蓋し難事であるとの答を為した人もあつた。何故ならば当時は支那と日本との国情が互に相猜疑するやうな嫌があつて、殊に支那人が日本を嫌忌すると云ふ有様があつた為に、亜米利加の諸君は提携することに躊躇するやうな様子が見えた。其翌年即ち大正五年にジヤツヂ・ゲーリー氏が東洋に旅行された、此人は私は曾て一、二回会つたことはあるけれども、懇親なる間柄ではなかつたが、東京に着されたに就て私の宅へも来訪され親しく会話もするし、屡々接近して日米間の事に就ては私は自己の懐抱して居ることを露骨に談話した、又ゲーリー君も至つて真率に心に思ふて居ることを私に吐露されて、玆に於て両人の間には真に胸襟を披いた談話が遂げられたやうに思ふ。而して此ゲーリー君は私の亜米利加と日本とは資本の共通をするやうにしたい、殊に支那に対して共同的事業を進めるといふことには、全然同意されて、日本に居られる間も、其説を日本人に向つて言つて呉れたのみならず、帰国の後其主義を頻に米国の各方面へ演説され、時には其筆記を日本に送つて呉れた。又それが新聞に発表されて、私は詳に其事を承知して、実に此上もない有力なる知己を得たと、其当時から喜んで居たが、今も尚其喜びを連続して居る。是等の事柄は日米の資本の力を協せて支那に向つて両者共に競争することなくして事業を進め、支那人にも相当に利益を与へて共に成立すると云ふ方法である、是は単にゲーリー氏とか、渋沢とか云ふのではない、世界の事物を完全に進めて行く適当なる道理であると私は思つて居る。故に仮令其人は代る
 - 第40巻 p.356 -ページ画像 
とも、道理を喜ぶ人は皆之に一致するに相違ないと思ふ。爾来日米両国の経済界の経営は、特に違却又は紛議のあるやうには覚えぬ。又政事界とても追々に其歩を進めて、経済界の意志を助けるやうにしつゝあるのを私は深く喜んで居ります。
 三年前から私は実業界を退いて、今日は銀行家でもなく、各事業会社も総て辞職し、老齢の故を以て責任ある事業は悉く謝絶して、老後聊か精神界に力を尽さんとして居る。それは次に述べる理由に基因するのである、総じて事業が富を増さうと云ふ企望から、動もすれば道理に適はぬでも、自己の欲望を達したいと云ふことが個人々々の間に生じ易い、是は富を進めるのは国力を隆昌ならしめるに就ては甚だ必要であるけれども、併し道理を余所にして富を進めると云ふことは、遂には其間に紛争を惹起し、其弊や不徳義を生ずると云ふことになつて来る。故に短かい言葉で約すると道理と経済と一致させたい、仁義道徳と生産殖利とを分離させたくないから、常に道徳経済合一を主張して居る。此主張が英語で適切に約し得るかどうか知らぬが、此主義でなければ真正の国家の隆昌を図る訳には行かないと思ふ。それからもう一つ私が老後努めたいと思ふ事は資本と労働との協調であります是は日本では従来亜米利加・英吉利のやうに資本階級と労働階級と二者判然たる立別れはなくて、同じく家庭的に工業を経営して居つたからそれに従事する人は主従関係、若くは師弟関係で使はれて居つたのである。然るに其事業が欧米式になつてから、従つて是が二つに別れて、一方は資本階級、一方は労働階級と云ふやうになつて来たから、勢ひ此間に欧米にあるが如く、資本家は労働者を成るたけ多く働かせて給金は少く与へたいと云ふやうな我儘が生ずると、其の反対に労働者は時間を少なく働いて能率は少なくても、給料は多く取りたいと云ふ欲望を惹起して、両者の間に遂に争を生ずるやうになるのである。蓋し事柄に依ては両者の争議が進歩の原因を為すべき場合もあるから争は必ず悪いとは言はれぬが、若し誤つて両者の私利のみを以て相争ふと云ふことであつたならば、両者共に其争の為に不幸を見るに至るは必然である。詰り資本家は資本を閑却するやうになり、労働者は其職分を失ふと云ふやうなことを惹起せぬとも限られぬ。故に資本と労働との関係は日本の今日は大に注意すべきことである、否日本許りでない世界を挙げて此点には注意すべき事と思ふのである。私が老後不自由なる身を以て斯様な事を発起して、果して旨く行くか、行かぬか分らぬけれども、前にも述べた如く、実業界を隠退して閑散なる身体であるから、仮令一日たりとも国に対する御奉公と思つて其事に努力して居ります。又国家には貧富の懸隔が其国運の進む程強くなつて来る、富む者の多く出来ると、貧しい者も同時に多く出来て来る、野蛮の国家は貧富稍均一であるけれども、文明の進むに従ひ此懸隔が強くなると云ふは何れの国も同じことである。故に、是はどうしても政府又は富者先覚者が其間にあつて、相当なる調和を図ると云ふことが国家の平和国運の隆昌を望むに於て甚だ必要なる事と思ふ。前の資本労働の問題よりは、次の貧富の懸隔を調和すると云ふことは、其程度を得るは少しく難い事のやうには思はるるも、是も矢張老人の心を用ゆ
 - 第40巻 p.357 -ページ画像 
べきことであらうと思つて、努力して居るのであります。私の一身は今日斯の如き身柄であるから、貿易の進歩金融上の調和抔と云ふことに就て、身自らそれに尽力すると云ふ立場ではないけれども、併し精神上に於ける日米の親善を図り得ることは、私にも出来るであらうと思ふのである。私が亜米利加と云ふ国を知つたのは、丁度十四の年であつたから、六十七年目になります。嘉永六年にコンモンドル・ペリーが日本へ来たと云ふことを聞いて、子供心にそれは日本を取りに来たのだと云ふので驚愕したのは、私が十四の年の七月頃で、今も尚能く覚えて居ります。夫れから六十七年の間色々な方面から、私は外国に対することに就て思を凝し、力を致した積りであるが、今日は又精神界で両国の親善に努めたいと思つて居る。故に亜米利加の紳士が日本に来らるれば、大概私の家を訪問され、又私の意見を吐露せぬことはないと云ふて宜い位である。今日は之を老後の楽みとして、殆ど毎日の如くに従事して居る。前段にも述べた如く富と道理と云ふものゝ背馳することは宜しくないと云ふことは、老後の努めとして世間に対しても、又狭い範囲の友人に付ても、若し其過があれば忠告に努めて居るが、之を世界の大に論及したならばどうなるであらうか。現に独逸が富と言ひ、科学と言ひ、彼れが斯の如く進んであつたが、詰り仁義道徳を重んずる念慮の欠けた為に、五年に亘る大戦乱を惹起して、斯の如く財を費し、人を失ひ世界を挙げての大騒動となつて、其結果はどうなつたか、遂に其張本人は法律上からも、徳義上からも世界の大罪人になつたではないか。是を以て私は信ずる、唯富のみに依つて道理を構はぬと云ふ者の末路は、必ず因果覿面であると。故に苟も富を計る人々は、同時に道理に準拠しなければならぬのは論を俟たぬのである。想ふに世界は知慧が進む程次第に禍乱が少くなるべき筈である。要するに人類は他の動物とは違ふて相寄れば噛むだり、蹴たり殺伐な挙動をせずとも、道理に依つて平和に生存の出来得べきものである。然るに事実は反対で、欧羅巴の歴史を見ても東洋の経過を察しても、常に反対の有様を出現し、殊に最近五年間の大禍乱を惹起したのに鑑みれば、私の理想は遂に見ることが出来ぬのであらうか。此欧洲の戦乱中、友人と会合の際には、平和克服の後はどうなるか飽迄も武力に依つてのみ無事が保ち得られるものであるか、又道徳上真正の平和が望み得られるか、両者何れに帰する歟といふ問題を討論して居つたが、兎もすれば或人は言ふ、如何に人類の徳義知識が進んでも、自己を思ふ念が厚ければ、他を凌ぐとか、侵すとか云ふことは免れぬ訳である。故に力と道理とを始終権衡して行くより外、平和を維持することは出来ないと言ふ説が多い、そこで矢張武装平和より外望むことは出来ぬと主張する人と、否それは人智の進歩の乏しい為めである、真に神の如き人のみになつたならば、武装的平和でなく、仁義道徳的を根拠とする平和と云ふものも必ず望み得られるであらうといふ説を為す者とがあつた。而して私は後説に同情して居つたが、恰も好し、米国に於てウイルソン大統領が、国際聯盟を提出したのは、今の道理に拠りて世界の平和が保ち得ると云ふことを理想とした案と思ふたから実に千古の大見識と賞讚した。併しながら私はそれに就て一つの説
 - 第40巻 p.358 -ページ画像 
がある、前にも述べた如く、道理と利益の一致に付て、極めて鞏固なる覚悟を以て之を維持して行くと云ふことがないと、個人間の普通の社交上にもさうであるが、殊に利害関係のある商業上に於ては、利害の為めに道理を没却すると云ふことか多い。既に道理を没却することが多うければ商業道徳が完全に行はれることが出来ない。商業道徳が完全に行はれることが出来なければ、其平和も維持することが出来なくなつて来る。是は個人間に就ても尚然りである、更に進んで国際に於て最も然りであつて、遂に道徳を棄却して仕舞ふ。現に多数の政事家が、自国の利益の為には仮令不道徳でも構はないで、戦争の時には人を殺す毒瓦斯も必要だと思ふやうになる。此念慮の継続する間は、武装を解いた真正の平和は得られない。詰り商業道徳を高め国際道徳が進んで、自国の利益の為には、他国を圧迫しても宜いと云ふ観念を全く棄てなければ、如何にウイルソン大統領が国際聯盟を唱道しても矢張空文に終つて仕舞ふから、ウイルソン大統領は宜しく其本を勉めて、国際聯盟を主張されるには、一歩進めて国際道徳を高めることを努めなければならぬ。亜米利加が決して国際道徳の低い国とは思はぬけれども、併し今般の講和会議に於ける亜米利加の行動も、私は国際道徳が完備したとは言へぬ節があると思ひます。自他の国々の欠点多きことは勿論である。どうぞ亜米利加をして、成るべく国際道徳の円満なることに国民を挙げて努めて貰ひたい、同時に日本も同様にありたいと私は祈念するのであります。斯くなつたならば、必ず両国の親善は今日の如きものでない、それこそ実に膠漆で固め、鋼鉄で維いだ物のやうに、打つても、突いても動かぬであらう。是に於て前段に企望した如く、両国の力で、東西両洋の文明を、完全に調和することが出来ると思ふのであります。



〔参考〕渋沢栄一 書翰 ジェームズ・ディー・ローマン宛 一九一九年九月一六日(DK400113k-0003)
第40巻 p.358-360 ページ画像

渋沢栄一 書翰  ジェームズ・ディー・ローマン宛 一九一九年九月一六日
         (ジェームズ・ディー・ローマン氏所蔵)
           (COPY)
        Baron E. Shibusawa
         No.2 Kabutocho,
          Tokyo, Japan.
                September 16, 1919
Mr. J. D. Lowman,
  Seattle Chamber of Commerce,
  Seattle, Washington, U.S.A.
My dear Mr. Lowman :
  ‥‥‥‥‥‥
  Those of us, Japanese friends of America, are deeply concerned with recent anti-Japanese demonstrations in your Senate and also in the Pacific Coast cities. I understand that anti-Japanese sentiment is growing even in Seattle for whom we entertain our kindliest feeling. This is, I believe, due to America's misunderstanding of Japan's true aspirations.
  They seem to think that Japan's foreign policy is always
 - 第40巻 p.359 -ページ画像 
 actuated by the spirit of conquest and aggression. Far from it! As you know, we are lovers of peace and are convinced that peace alone can make human progress possible. In Korea, China and Siberia, we want nothing but peace. In Korea few of our petty gendarmes may have committed blunders, but when the Government came to know of the errors, they immediately changed the Korean administration. As regards Shantung, Japan has wrested it from Germany to restore it to China : and she is waiting for the ratification of the peace treaty by your Senate to open negotiations with China for its restoration. Yet, some of your Senators are accusing Japan as if she were a thief or bandit, and are using the Shantung Question for domestic politics. To me, sincere lover and admirer of your traditions and people, the contentions of those Senators are most unreasonable, and they seem to have lost the broadminded and generous spirit which have been so characteristic of your people. I sincerely hope that they would in the future treat the Japanese question with a little more sympathy and wisdom. I speak to you so frankly for you know how ardent an admirer of America I have been.
  In spite of all criticisms and slanders some of your politicians and jingoes may have been pleased to shower upon Japan, you can rest assured that the Japanese nation will remain as America's sincere friend, for we know you and your people are our friends. When we think of the splendid efforts of the Seattle Chamber of Commerce in those trying years of 1907-8 for the preservation of our ancient friendship, I am certain that Seattle and the Pacific Northwest will always remain our good friend so long as your public opinion be guided by far-sighted leaders like yourself.
  We are doing everything possible to promote American-Japanese friendship. When Mr. Sheppey, representative of the Seattle Post-Intelligencer came here with letters of introduction from yourself and Judge Burke to sell advertisements for the Japanese Supplement, I introduced him to the leading financiers of our country, and I understand that he was very successful in his undertaking here.
  I helped him though Mr. Sheppey was a stranger to me, first because he was introduced to me by your good self and Judge Burke, and secondly we are interested in the progress of Seattle and her people, for Seattle is the nearest American port to Japan. I hope that the people of Seattle and of the Pacific Northwest will be our friends as we have been their consistent friends. With my sincerest regards to yourself and to the
 - 第40巻 p.360 -ページ画像 
 members of your Chamber, I beg to remain,
            Very sincerely yours,
           (Signed) Baron Eiichi Shibusawa
P.S. Please give my best regards to our mutual friend, Judge Burke.
Please tell him that I am thinking of him very dearly. E. S.