デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
5款 外国人トノ往復書翰
■綱文

第40巻 p.628-642(DK400215k) ページ画像

大正6年(1917年)

是年栄一、イギリス国ロンドン在住アレグザンダー・アーラン・シャンドト書翰ヲ往復シテ旧交ヲ温ム。蓋シシャンドハ明治初頭大蔵省ニ奉職シテ草創期ノ我国銀行業務ヲ指導セル人ナリ。栄一、シャンドト書ヲ交ハスコト晩年ニ及ブ。昭和五年四月ソノ歿スルヤ弔電ヲ発シテ哀悼ノ意ヲ表ス。


■資料

竜門雑誌 第三四九号・第九〇―九二頁大正六年六月 ○青淵先生に贈れるシヤンド氏の返書(DK400215k-0001)
第40巻 p.629-630 ページ画像

竜門雑誌  第三四九号・第九〇―九二頁大正六年六月
    ○青淵先生に贈れるシヤンド氏の返書
 左の書翰は青淵先生より在倫敦シヤンド氏に贈られたる書翰の返書にして、これを前号に掲載せる同氏の佐々木勇之助君に贈れる返書と対比すれば、興更に深きものあるを覚ゆ。意は自ら文中にあり、敢て贅せず。
 拝啓、客歳閣下七十有七の高齢に達せられたるを機会として、十二月三十一日付を以て久々にて小生へ宛て御懇書を賜はり候段、誠に忝けなく謹んで御礼申上候、定めし閣下の寿を奉祝致す為めには、内外幾多の知友より祝辞を呈したることならんと存じ候儘、小生もそれ等の祝辞に加へて一言玆に誠実なる賀意を表し奉り候、尚ほ之れと同時に小生は閣下が今後幾久しく御健康と御幸福とを享受せられんことを切に祈り申候
 日取より申せば、閣下の御懇書に対しては、既に御返事をば疾くに差上げざるべからざる筈に有之候へ共、実際閣下より御送り被下たる右御書柬は、漸く今を去る一週間前に始めて小生の手に到着致したる次第にて、為めに御挨拶も相後れ甚だ不本意に存じ居候、閣下よりの御書面と殆と同じ頃の日付を以て、佐々木勇之助様より御発信の御手紙は疾くに小生の手へ届き、小生よりも既に御返事を差上げたるに拘はらず、閣下よりの御手紙が斯くも遅着致したるは甚だ不思議の様に考へられ候へ共、矢張り目下の戦争に基因する不慮の変に遭遇したるものなるべしと想像仕候、現に御芳書の如き太たく海水に湿りたる形迹有之、郵便局は「開封の儘到着せるを以て、更に本局に於て封箴を施せり」てふ印判を封筒に押捺して、小生の手許へ配達致し参り候様の次第にて、御書柬のインキも甚だしく散り居候へ共、幸に通読に妨げなかりしは何よりの事と存じ申候
 小生は御懇書を一読して、閣下及第一銀行重役方が今も尚ほ小生を御記憶被下候事を承知し、深く御好意に感佩致し申候
 小生の大蔵省に御雇たるの任期は小生の任務が最も必要視せられんとする時期に於て満了致し、其後小生は帰英仕候へ共、彼の西南戦争の平定後、大隈伯は特に書を寄せて小生に再び日本へ渡来すべき旨を勧告致され候、蓋し其用向は横浜正金銀行創立の計画に就て小生の手を藉らんと欲せられたるが為めなりと推測致し申候へ共、小生は熟考の末遂に伯の招きを謝し其儘英国に留まり申候、右は小生心中に於て聊か遺憾なりと考へざるに非ざりしも、然し意外にも伯の招に応ぜずして英国に在りしことは、矢張り日本の為めに大に役立ち候ことゝ相成り候ものから、右小生の遺憾は為めに大に慰められ申候、即ち日露戦争当時に於て、日本政府が初めて二種の六分利付公債を当市場に募集せられ候際の如き、我パアス銀行の重役共は之れに応募するの危険なきや否やを深く憂慮して決着に躊躇致候、而して小生は其節日本財政状態の決して危険ならざる旨を説明して、遂に応募せしめ候などは小生が遠く英国に在りて日本の益を謀り得たる一例に御座候
 嗚呼思へば之等の事も皆な昔の夢に有之候、年々馬齢を加へて小生も本年七十四歳の高齢と相成り申候ものから先般来当銀行頭取に対し
 - 第40巻 p.630 -ページ画像 
て辞職許可ありたき旨申出で居り候へ共今に聞届けられ申さず、当分は尚ほ在職せざるべからざる模様に御座候、幸にして小生も亦閣下と同様至極健康に起居致し居り候条其点何卒御安堵被下度、謹で奉願候
 小生は常に興味を以て日本の事物を観察致居候、特に目下の大戦に当り、日本が聯合諸国と協力して、醜陋なる独逸を膺懲するの任務を分担せられつゝあるを最も喜ぶものに御座候、思ふに此大戦争も最早や峠を越したる様に有之候間、遠からず平和の克復を見るべしと存じ候、目下の最大危険は独逸の潜航艇襲撃に有之候へ共、之れとても追追屏息せしむるの時機に達すべしと存候
 小生は東京にて発行せらるゝ「ジヤパン・マガジーン」と申す雑誌を購読致居り候ものから、閣下の尊名が該誌の所々に散見致すを常に認め居り候
 日米両国の親交増進の為め、閣下が並々ならぬ御尽力を試み居られ候段、小生の深く敬服致す所に有之候、小生は閣下の御努力が良好なる結果によりて酬ゐられんことを切に祈るものに御座候
 閣下が最後に英国を御訪問相成り候節は、令夫人御同伴にて小生を御訪ね被下、其節の事は小生今尚ほ鮮やかに記臆致居候、而して閣下の御健康の壮なると、日英両国の親善を図るに御熱心なるとより察すれば、小生は閣下が今一度位英国を御訪問相成る如き事は、決して絶無の事に非ずと存じ居候
 男爵夫人の御健康も閣下同様御良好に渡らせらるべきを小生は信じ居候、何卒小生よりの敬意を令夫人に御鳳声被下度、伏て御願申上候
 此書面の「タイプライト」は小生自身にて試み候ものから、至極拙劣の出来栄と相成り、申訳無之候
 終に臨み、閣下を初めとして第一銀行の重役方及び使用人各位に対して深厚なる敬意を表し、併せて第一銀行の今後益々隆盛を極められんことを祈り申候 敬具
  一九一七年四月五日
        倫敦アツパー・ノーウツド
          ビウラ・ヒル六十二番戸
                   エ・アラン・シヤンド
    東京 渋沢男爵閣下
  ○栄一ノ往翰控及ビ右原本ヲ佚ス。


竜門雑誌 第三四八号・第八八―八九頁大正六年五月 △旧師シヤンド氏の返書(DK400215k-0002)
第40巻 p.630-631 ページ画像

竜門雑誌  第三四八号・第八八―八九頁大正六年五月
△旧師シヤンド氏の返書 今より四十余年前、国立銀行創立当時、銀行業務の指南役たりし英国シヤンド氏に対し、第一銀行頭取佐々木勇之助氏より、今回青淵先生の後を襲うて第一銀行頭取となりし次第を報告旁々、旧恩感謝の書面を寄せられたるに、シヤンド氏より本年二月二十七日附を以て左の返書を送り越されたり、四十余年前の旧知、万里波濤を隔つるの相思、情誼纏綿、一読感慨に堪えざるものあり。
  拝復、陳者旧臘聖誕祭の日御差出相成候長文の貴翰、此程入手致不堪欣喜、委細拝読感興を覚へ申候。偖て貴下には先般第一銀行頭取の地位を襲はれ、枢要の顕職に昇られ候由、衷心より御祝辞申上
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候。貴行は拙者の常に尊敬する旧知渋沢男爵の周到なる御注意の下に、頗円満なる発達を為し、開行当時聊揺籃を擁護致候関係より、現今壮年時代の隆盛を毎々伝承することを得るは、小生の喜悦此上なき一特権と存し深く喜ひ居候。更に貴下の御監督の下に益々繁栄を重ね、又貴下に於ても此重要なる任務を負ひ、愉快に長年月間御従事せらるゝ事を切望仕候。貴行に於て過般外国為替に関し、新にパース銀行と取引を決行せられ候事は、申迄もなく拙者の最満足に存候処に有之、此取引か将来益々堅実なる発達を為し、従つて各種の点に於て両行相互の利益と可相成と確信仕候。
  貴行の元勲たる渋沢男爵名誉の御引退に対しては、深く祝意を表し候、拙者か初めて男爵の知遇を得候は一八七二年、男爵か大蔵大輔《(少)》たりし時代にして、今を去ること四拾五年以上に相成申候。男爵は此久敷以前より今日に至るまで、長年月の間極めて重要卓抜なる地位に立たれ、御創立の貴行の為にも亦貴国家の為にも、共に非常の熱誠を以て御尽瘁あらせられ、其言論にあれ、又其文章にあれ、常に愛国・正義・平和及人道を鼓吹し、此神聖なる功績を顕揚せられたるは、拙者が深く男爵に対し感激措く能はざる処にして、切に男爵の御健康と御幸福とを祈願致居候旨、可然御伝へ被下度候。又男爵夫人にも何卒宜敷御伝声被下度候。夫人には数年前男爵と共に御来遊の際拝顔の栄を得申候。
 尚拙者の旧友たる日下・熊谷両氏及貴翰中に挙けられたる野口氏其他の諸君にも宜敷願上候 敬具
  一九一七年(大正六年)弐月弐拾七日     エー・エー・シヤンド
    佐々木勇之助殿


(エー・アーラン・シャンド)書翰(訳文) 阪谷芳郎宛一九二六年九月一〇日(DK400215k-0003)
第40巻 p.631-632 ページ画像

(エー・アーラン・シャンド)書翰(訳文) 阪谷芳郎宛一九二六年九月一〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
          (栄一鉛筆)
          十一月一日一覧、シヤンド氏書状ニヨリテ老生モ一書ヲ送リ久濶ノ情ヲ致サント思フニ付、適当ノ原稿作成有之度候事
 東京市
  阪谷男爵閣下
         ドーセツト・パークストン・アードモア
         一九二六年九月十日
                 エー・オーラン・シヤンド
拝啓、益御清暢奉賀候、然ば閣下よりの御通信は小生の常に欣喜する処にして、先日の御葉書も亦難有入手仕候、右葉書の景色は誠に麗はしく且興深きものに御座候、老生は小田原の途中東海道大磯に付てかなり明確なる記憶を有し候、同地は鱶の来襲無之候に付海水浴は定めて安全の事と存候、御来示の小生の尊敬する旧友渋沢子爵の滞留せられしその場所は小生承知不致候、子爵と御会見の節には何卒よろしく御伝へ被下度候、子爵と小生とは何れが年長者ならんかと自問致居候小生は八十二歳に候も四・五哩は休息なしに歩行出来候、尤も毎日四
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五哩を歩行致候義には無之候、玆許同封致候は拙宅の写真に候、是非来遊の上親しく御覧被下度候、小生は筆を執る事誠に困難に候間タイプライターを常に使用致候、本書も甚た不出来にて恐縮至極御一笑被下度候 敬具
(欄外別筆)
 阪谷男爵宛シヤンド氏ノ書面翻訳を、子爵の御高覧に供し申上くる様にと男爵より申聞け有之候に付き、訳文作製致候


渋沢栄一書翰控 エー・アーラン・シャンド宛 大正一五年一二月一四日(DK400215k-0004)
第40巻 p.632 ページ画像

渋沢栄一書翰控  エー・アーラン・シャンド宛 大正一五年一二月一四日
                     (渋沢子爵家所蔵)
                (栄一鉛筆)
                十五年十一月二十日一覧
 ドーセツト・パークストン・アードモア
  エー・オーラン・シヤンド殿
                  東京市 渋沢栄一
拝啓、益御清適奉賀候、然ば九月十日附阪谷男爵宛尊翰同男爵より転示せられ、なつかしく詳細拝読仕候、然ば貴台には八十二歳の御高齢なるにも不拘、四・五哩は休息なしに歩行せられ候由敬承、御健脚の程羨望の至に御座候、老生は最早八十七の頽齢と相成候のみならず上足部を艱み居候為め、歩行力甚だ乏しく閉口致居候、然し他の部分は幸にさして衰弱も不致、日夜社会公共の為め東奔西走極めて多忙に暮し居候間、御省念被下度候
貴台の日本に在りし日、種々御高配被下候第一国立銀行は其後第一銀行と改称致、資本金も五千万円全額払込済と相成候、老生は爾来頭取として経営致候も大正五年退任致、御承知の佐々木勇之助氏後任と相成候、引続き業務精励益繁盛致候、而して老生は其後実業界に直接関係を絶ち専ら国際的之公務及社会事業・教育事業等に努力致居候、但し従来の関係より実業界の難問題に付ても時々相談を受け居候次第に有之候
久振の尊翰を見て往時追懐之余一書得貴意候、乍末筆向後益貴台之御健勝を拝祝仕候 敬具
  ○右英文書翰ハ大正十五年十二月十四日付ニテ発送セラレタリ。


(エー・アーラン・シャンド)書翰 渋沢栄一宛一九二七年四月二四日(DK400215k-0005)
第40巻 p.632-635 ページ画像

(エー・アーラン・シャンド)書翰  渋沢栄一宛一九二七年四月二四日
                     (渋沢子爵家所蔵)
      Ardmore, Parkstone, Dorset. 24th April, 1927
My dear Viscount Shibusawa,
  It gave me very sincere pleasure to get your interesting letter of 14th December last. As a warm climate in winter is beneficial to me at the advanced age I have reached I have for some years spent the winter in the south of France or the north of Italy, & on these occasions I generally let correspondence wait until my return. Hence the delay in this response to your welcome communication.
  I first had the pleasure of making your acquaintance in
 - 第40巻 p.633 -ページ画像 
 1872 or 1873 when I entered the service of the Okurasho. The Okura-kyo then was Okuma, the Taiyu was Inouye Kaoru & yon were Okura-shoyu. Yon gave up that position to become President of the Dai-Ichi Kokuritz Ginko & I had not a few pleasant meetings with you in consultation on various matters.
  I left Japan at the outreak of the Satsuma rebellion. Some time after it was over Okuma sent for me to return to Japan but I decided to remain in my own country although I was very nearly agreeing to return. Our poet Shakespeare says :
     "There's a divinity that shapes our ends,
     Rough-hew them how we will."
  For one result was remarkable. Japan went to war with Russia & you sent a financial representative to raise money in London. He tried to do so but was no successful. He then came to me, & my Bank was entirely successful in raising all the loans required. I well remember the occasion. I was asked by the Directors assembled in meeting, if Japan could be entirely relied on to meet her engagements, & I replied without hesitation, "decidedly." There was no one in London at that date that I know of that could probably have spoken with the confidence that I felt justified in doing. Had I returned to Japan the result might have been very different. Indeed I think it would almost certainly have been. We have undertaken many operations of a similar character for your government & our relations have always been most cordial.
  It is also the fact that I had to do with the expedition of which you were a member when Prince Mimbu Taiyu went to France. I was then in the Chartered Mercantile Bank of India, London & China in Yokohama & we issured a Letter of Credit in favour of an officer of the expedition named, I think, Hibino Seisaku, to enable you to get money. I had no idea then that you & I would at a later date come into intimate relations.
  Your experience goes far back to the old & interesting feudal days & if you could be induced to write your reminiscences they would be most interesting.
  I have a clear recollection of Mr. Sasaki, Mr. Suto Tokiichiro & Mr. Kumagai. I fear the two last are not now alive. Mr. Suto was a cheery & clever person who like yourself had been to France. I suppose he was in the same mission.
  I see you are in the midst of financial troubles & in addition, like my country, you are suffering from the Chinese crisis which I greatly fear may not be soon over. These bolshevicks are a source of great trouble & perplexity to the world, but I cannot think their government will endure. I hope the Coali
 - 第40巻 p.634 -ページ画像 
tion of the 5 Powers will keep firmly united & show patience in negotiation seeing that the mass of the Chinese people are ignorant & therefore innocent. And moreover are naturally peaceful.
         Believe me,
           Yours very sincerely,
            (Signed) A. Allan Shand.
  My kind wishes to you and to Baron Sakatani.
(右訳文)
                     (栄一鉛筆)
                     六月六日一覧
 東京                  (五月廿四日入手)
  渋沢子爵閣下
          ドーセツト・パークストン・アードモーア
          一九二七年四月廿四日
                 エイ・アーラン・シヤンド
拝啓、昨年十二月十四日附の興深き尊書落手衷心より欣喜仕候、就ては小生老境に入り候為め冬季を温暖の地に過し候方好都合なるを以て数年来仏国南部又は伊国北部に避寒致し、此間到着の信書類は小生の帰来まで其儘留め置く事に致居候為め、閣下の温情に溢るゝ御書面に対しても御回答遷延致候次第に御座候
小生が初めて閣下の知遇を忝ふせしは大蔵省に出仕したる千八百七十二年、又は千八百七十三年頃の事に候、時の大蔵卿は大隈氏に有之、大輔は井上馨氏、少輔は閣下に候き、閣下は第一国立銀行頭取に就任の為め其地位を辞せられたるも、小生は各種の問題を商議する為め屡閣下と愉快なる会見を致候、小生は薩摩騒動勃発の当時日本を去り申候、同戦役後大隈氏は小生に対し再び日本へ渡来致候様勧誘せられ、小生も殆ど応諾せん許りに傾き候得共、終に故国に留る事と決定仕候
英国の詩人沙翁は申し候
    「荒削は人間がせうとも
      所詮の仕上は神力ぢやわい」
而して沙翁の此言の偽ならさる事を証明する著しき事件起り候、日本は露国と開戦し、公債募集の為め倫敦に財務官を派遣致候、同氏は努力致候へとも成功せさりしか為め小生のもとに参り候、かくて小生の銀行は所要の公債を悉皆募集する事に成功致候、小生は当時の光景を鮮に記臆致居候、会合せる重役は小生に対し契約履行に付、日本は充分に信頼し得るや否やとの質問致候間、小生は躊躇なく「確に」と答へ申候、然るに当時倫敦に於ける小生の知人中には一人として斯る自信を以て之を断言し得たる者無之候ひき、故に若し小生が日本に再度赴任したらんには結果は甚しく異りしならんと存候、真に今日に於ても殆と変らさる確信を有する者に候、小生等は貴国政府の為めに同種の数多き業務を遂行し、貴我の関係は極めて円満に経過致候
閣下の参加せられし徳川民部公子の仏蘭西旅行の為め、小生微力相尽し候事も亦事実に候、当時小生は横浜に於けるチヤータード・マーカンチル・バンク・オブ・インデイア・ロンドン・エンド・チヤイナに
 - 第40巻 p.635 -ページ画像 
在勤罷在り、同行に於て多分日比野氏《*》と覚え候が一行中役人の一人の為めに信用状を発行致候、後年小生が閣下と如此親交を結ばんとは当時に於ては存じもかけさりし処に御座候、閣下の御経験は古く且つ興味ある封建時代に溯るものに候へば、若し回想録をものせられ候はゞ興味深きことゝ存候
小生は佐々木氏・須藤時一郎氏・熊谷氏等《**》に関し明確なる記憶を有し居候、右の内後記の御両人は御在世ならざるやを恐れ候、須藤氏は快活且賢明の士にして閣下の如く仏国に赴かれし人に候、同氏も公子の一行に加はれたる事と推察致候《***》
貴国は今や財政的苦難の真只中に有之候のみならず、我国と同様支那動乱により苦脳しつゝ有之候処、右は近く終局を見ることを得さるやと憂慮罷在候、ボルシエヴヰツクスは世界の大なる煩ひ並に本源に候へども、之を標榜する露国政府は持続すべしとも思はれず候、支那国民の大部分は無知なる為め無邪気に有之且自然平和好愛的なれば、彼等の為めに小生は五国の協調が堅実に行はれ、忍耐を以て協商せられん事を希望罷有候
右得貴意度如此御座候 敬具
 尚々阪谷男爵閣下によろしく御致声被下度候
*栄一鉛筆
 [(清作)ナラン、栄一註
**栄一鉛筆
 [辰太郎
***栄一鉛筆
 [須藤氏之欧州行ハ民部公子の時とハ時代を異ニせしもシヤンド氏ハ同時と覚居られしなるべし


竜門雑誌 第四六六号・第五―八頁昭和二年七月 旧友アーラン・シヤンド 青淵先生(DK400215k-0006)
第40巻 p.635-636 ページ画像

竜門雑誌  第四六六号・第五―八頁昭和二年七月
    旧友アーラン・シヤンド
                      青淵先生
○上略
      五
 其後明治三十五年に、私が東京商業会議所会頭として渡英しました際、クリスタル・パーレスへ行く途中で、シヤンド氏の宅を訪問して午餐の招待を受けましたが、親切に近くの図書館など案内して呉れたりしました。又別の日にはパース・バンクへ来いと云ふので訪ねて行き、其処の他の重役に紹介されたりしたが、それ以来会ふ機会がないのであります。然し時々手紙の往復はして、情宜を通じて居ります。先日も次のやうな手紙を寄こしました。
  ○書翰、前掲ニ付キ略ス。
 此手紙には返事を書かうと思つて居りますが、多忙の為めまだ書いて居りません。文中シヤンド氏は西南戦争の時、英国へ帰つたやうにあるが、何分老年の人であるから、少しく記憶に誤りがあるのではあるまいか。それから日露戦争の折公債の募集に行つた財務官と云ふのは、高橋是清氏のことであらうと思ふが、明治十年以前の日本のこと
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しか知らぬシャンド氏が二十数年後の明治三十七年頃、日本の契約履行に付「確に」と答へたと云ふのも少しく変に聞へるやうであります。それは兎に角私は高橋氏が倫敦へ公債募集に赴くのを送つて「やがて咲く春の色香を異国《とつくに》にまづ手折ませ山咲の花」と歌を作つたことがあります。これは井上(馨)さんが、上の句は忘れましたが「渡りて聞かん雁《かりがね》の声」と歌つたので余り露骨で面白くないではないか、何とか工夫がありさうなものである、とて私も作らうと云ふことになり詠んだもので、井上さんに見せたら「自分で作つたのではあるまい」などと云つたことがあります。それから又日比野とあるのは、日比野清作氏で幕府の勘定方に居り、民部公子一行の計算の方を担当した人であります。又佐々木とは現在の第一銀行頭取で、熊谷は永く第一銀行の重役であつた辰太郎氏のことであります。尚ほ須藤氏が私と共に民部公子に従つて仏国へ赴いたとあるのは間違で、須藤氏が外国へ行つたのは全く時代が異つて居ります。
      六
 斯様にシャンド氏と私との関係は相当に古く深いので、凡そ五十数年来の友人でありまして今尚ほ文通して居ると云ふのは頗る珍らしいことであると申さねばなりますまい。殊に私は米国に多数の知人が居ますのに英国には甚だ少いので、シャンド氏とは旧い友人としても英国の知人としても一層懇親でありたいと望んで居るのであります。
 シャンド氏は大手腕家と云ふやうな人ではなかつたが、其の業に精しく而も緻密で且つ自信が強く、何事も親切に思ふことを忌憚なく述べる人で、私は此点に敬服して居ります。誠に此様な人を本当の是々非々主義の人だと云ふのでありませう。又我が銀行業が英国流の健実な預金銀行主義で経営せられ、遂に今日の隆盛を見るに到つたのに対して、シャンド氏の力が与つて大きかつたとも考へられるのでありまして、此点から考へると、我が銀行業の恩人の一人であると申してよからうと思ひます。             (七月二日談話)


渋沢栄一書翰控 エー・アーラン・シャンド宛 昭和二年九月(DK400215k-0007)
第40巻 p.636-638 ページ画像

渋沢栄一書翰控 エー・アーラン・シャンド宛昭和二年九月
                     (渋沢子爵家所蔵)
昨年十二月十四日附当方より贈呈せし拙翰に対し、貴方本年四月二十四日附にて懐旧談とも見るへき頗る興味ある御回答下され、五月末に貴翰は落手致候も、東京は当春来経済界に各銀行之閉鎖等種々之混雑有之、其他各方面に臨時之用務相生し、疾く隠退したる老生まても種種之協議を受け候有様にて、緩々執筆之時間無之、再応之御答を以て往事回想之事共申上度と心懸候も乍思延引いたし居、頃日漸く伊香保温泉に避暑致し玆に始めて寸暇を得、此一書を認め宿志開陳いたし候義ニ御坐候
来示之如く千八百七十二年に於て貴台か日本の大蔵省に御出仕相成候は、日本に於る銀行業の発端にして、而して老生か貴台と御懇親に相成候も亦此時に始り、銀行業の進展に熱心なる人士は皆喜むて貴台に師事し、一日も早く本業に熟練せむことを企図し、貴台も亦吾々老生徒を指導訓示被成候ハ既に五十有余年之昔と相成候、当時大蔵省に於
 - 第40巻 p.637 -ページ画像 
て主として是等之要務を決裁せしハ井上馨氏なりしも十数年前に逝去せられ、貴台は薩摩騒動勃発之際、日本を御辞去被成候も其後大隈重信氏、大蔵省当局と相成再応之御渡日を勧誘せられ(此大隈氏も六年前物故せられ候)貴台ハ応せむとして果さゝりしは何等の都合にても有之しに候哉、右に関して貴台か貴国の大詩人沙翁之一語を引用して御説示被成候は頗る意義あることゝ拝承仕候、蓋し爾後二十余年を経て日露戦争の時に際し、高橋是清氏か英国に於て公債募集計画之際、貴台か御担任之銀行にて其重役会議之席上に於て、日本国の財政信用に就て(確に)と即答せられし一語か高橋氏之使命、即ち日本の要望を充実せしめたるものにして、其数十年年以前に於て銀行の創設に付て深厚之関係ありし貴台にして、此公債募集に当りて断案的に援助之立場に御立なされしは何等之奇縁とも可申歟、実ニ沙翁之警句に思ひ到らさるを得さる次第に御坐候
千八百六十七年仏都巴里に大博覧会開催之際、貴台か横浜に於る「チヤータード・マーカンチル・バンク・オブ・インデイア・ロンドン・エンド・チヤイナ」に御在勤中、徳川民部公子仏国へ渡航に付て一行中之会計役日比野清作と称する人、信用状之発行を貴銀行に依頼致候ニ付貴台ニ於て御取扱被下候由、其時は老生も民部公子随行にて一行に加り日比野氏とは友人として懇親いたし候、此民部公子之仏国行ハ徳川幕府之政局には種々之魂胆ありし趣なりしも、間もなく幕府倒壊の為め何事も画餅と相成、民部公子も其翌年九月に至り空しく帰国之都合にて老生も同しく随従いたし候、当初は仏国に少くとも五年間留学之予定なりしニ付、何か学修して帰国之後、其学ひ得たるものを以て国家社会に報せむと期念せしも全然水泡と相成候ハ、今尚遺憾之極ニ御坐候、貴状中にも御示し被下候如く老生之経歴は単に米寿の高齢に躋りたるのミならす、此世紀は恰も東西洋共に変転極りなき時運に遭遇せしに付、実に自分なからも驚嘆して其真と幻とを疑ふ程ニ候、而して回顧録の如きも他之営業的文士の評論に類する出版物は種々有之候も、自己の執筆としてハ日に進み行く時勢に付て其観察に成るへく謬誤無之様と審案中に御坐候
 佐々木・須藤・熊谷三氏御記憶相成詳細之御問合忝く拝承仕候、佐佐木氏は現に第一銀行に在りて頭取の職に任し、年齢七十を超へ候も健全にして行務を鞅掌せられ、本行に於て最大必要之人に候、須藤・熊谷両氏はいつれも過去之人と相成候
末段に御記載相成候日本之財政経済に付ては、真正なる憂国者ハ来示之如く苦難之真只中と覚悟し、之れか救済改善に専念努力致居候、乍去近来は日本の如き東洋に偏在する国にても国際聯盟等世界的之交際事務次第に多きを加へ、兎角形容に流れ易く実利之獲得に後るゝ嫌有之、殊に老生抔農民より成長せし者には他の事物の進歩に比較して、農業の改善遅々といたし居候様相感し、頻に其振興を鼓吹致し居る次第ニ候、又隣国との関係ニ付てハ政事家も実業家も共に苦心致し、老生抔ハ来示之五国協調も希望するも、先以て英国と日本と充分に熟議協定して戮力革正いたし度ものと熱心に期待致居候
次に「ボルシユヴヰツクス」之事は真に現下世界之大問題と相成候、
 - 第40巻 p.638 -ページ画像 
併し愚案には幸に一国之政事か道理に適したる進行を得て、其人民に相当之知識有之、貧富之懸隔適度を得るに於ては、さまて懸念すへきものに無之と存居候
右来示に対する拝答旁爾来御疎情ニ打過候陳謝等にて覚へす長文之一書進呈仕候、御寸暇之際御一覧被下候ハ幸甚之至ニ候 匆々敬白
   昭和二年九月
                       (朱印)
                    渋沢栄一 ○
   英国倫敦府ニテ
    エー・アーラン・シヤンド君貴下
  尚々御追書之阪谷男爵へ之御伝言ハ、貴翰落手之際早々相通し貴翰も一覧ニ供し候、同男ハ現に貴族院議員として政事界に尽力し又経済界にも相応関係を有し居候
  佐々木第一銀行頭取にも貴翰を示し、昔年之事共談話致居候、同氏ハ客月之或る経済雑誌に於て貴台が日本之銀行業ニ対し容易ならざる御努力御指導被下候事共、詳細ニ演説して現在之青年銀行者に御功労を知らしめられしは、老生等も愉快ニ謹聴いたし候、右等の事共乍序添而御報道申上候 不宣
  ○右ハ渋沢子爵家所蔵写本「青淵先生書簡集一」ニ収録セラレ、英訳書翰ヲ佚ス。依ツテ発信ノ月日ハ未詳。
  ○追書末段ニ佐々木勇之助氏ノ談話ヲ発表シタルハ「竜門雑誌」ニシテ、本資料第四巻第五四〇頁ニ掲ゲタルモノヲサス。


渋沢栄一電報 控 シヤンド息女宛昭和五年四月一六日(DK400215k-0008)
第40巻 p.638 ページ画像

渋沢栄一電報 控  シヤンド息女宛昭和五年四月一六日 (渋沢子爵家所蔵)
 英国ドーセツト・ハークストーン・アードモア
  シヤンド嬢
   昭和五年四月十六日
                      渋沢栄一
故き師友を失ひしことを悼み往事を追懐して感慨無量なり、謹みて弔意を表す
  ○右英文電報ハ同日付ニテ発信セラレタリ。


竜門雑誌 第四九九号・第二八頁昭和五年四月 アラン・シヤンド翁逝く(DK400215k-0009)
第40巻 p.638 ページ画像

竜門雑誌  第四九九号・第二八頁昭和五年四月
    アラン・シヤンド翁逝く
 日本の親友として朝野多数の人々に記憶されて居る、英国のアランシヤンド翁は明治初年大蔵省のお雇となり、我国銀行制度の創始に与つて力があり、青淵先生や佐々木第一銀行頭取等と親交ある人であるが、高齢と共に近年非常に衰弱し、昨年の冬は南欧に避寒して居たが四月十二日英国パークストンの別荘で八十六歳の高齢をもつて死去したと云ふことである。翁は日露戦争当時にはパース銀行の重役として我国の外債募集に非常に努力した人で、最近はウエストミンスター銀行の重役を勤めて居た。



〔参考〕万朝報 第九三八四号大正八年七月二四日 シヤンド翁 六月十一日倫敦 矢川半山(DK400215k-0010)
第40巻 p.638-639 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕竜門雑誌 第四八七号・第七一―七四頁 昭和四年四月 ○青淵先生説話集其他 新日本建設時代に於ける英国人の貢献 パークス氏及びシヤンド氏に就て(DK400215k-0011)
第40巻 p.639-642 ページ画像

竜門雑誌  第四八七号・第七一―七四頁昭和四年四月
  ○青淵先生説話集其他
    新日本建設時代に於ける英国人の貢献
      ――パークス氏及びシヤンド氏に就て――
      一
 明治維新が我が近代文化の革進期となつたことは申すまでもない。従つてこの時に際し、厚意に満ちた外国人の指導誘掖が、我が文化進
 - 第40巻 p.640 -ページ画像 
展の上に大いなる貢献をなした数々は実に少からぬのであつて、私としては今歴史の一頁としてそれを語るといふよりも、親しくその改革の任に当つた関係から、現実の事柄として考へずには居られないのである。外国人にして、明治政府の新施設に対し、或は外部から或は内部から、立入つて注意し顧問となつた人々も少くないが、特に英国人は、一時的でなく継続的に且最も深く、各種の世話をしてくれたので私共は常に感謝して居る。
 当時公使として我が国に駐在していたパークス氏の如き、百事に精通した人であつて、日本の西洋式進歩発達に貢献する所が多かつた。そしてその事に臨むや、時に熱心の余り、干渉的にさへ見られる程の親切さで尽力された。中にも重要なる貨幣制度の改正に就ては、自ら意見を述べ、金本位の効果と必要とを力説して、造幣局の設置をすゝめ、遂に香港にあつた造幣設備を大阪に移転して、逸早く造幣寮を建設せしめるとか、又は航海上に無くてはならぬ灯明台の設置をするとか、その他いろいろ実際上の配慮をしてくれたのであつた。
      二
 当時は外国人の注意を受けて、いろいろの新施設を行つたのであるが、明治三年大蔵省に改正局を置き総ての新計画を為さうとした。大蔵省の主脳者は大隈(重信)侯、伊藤(博文)公で、改正係の主任は私の兼任であり、先づ太政官紙幣引換のこと、それに関聯して兌換制度を如何にしようかと云ふやうなことが中々問題であつた。又大蔵省の事務も改正して新式にせねばならぬと、あれこれ評議した。伊藤公が米国へ視察に赴いたのも、改正係からの建議に基いたのであつた。調査研究の重要事項は(一)貨幣制度(二)銀行制度(三)公債制度(四)大蔵省財務取扱等であつて、三年冬出発し翌四年春帰朝した。然るに明治新政府の頭に立つ人々は、大久保(利通)公、木戸(孝允)公、西郷(隆盛)さんなどであつて、大蔵省の実務を見て居た大隈侯伊藤公の意見に物議があり、遂に大隈侯は参議になり伊藤公は大阪造幣局へ転任され、大蔵省へは新たに卿に大久保公、大輔に井上(馨)侯が就任した、そして伊藤公が米国で調べて来た事柄を充分利用せられる事になつた、然し其中で紙幣の銷却及び兌換方法は特に重要であるとて、その解決と、金融の流通に資する為め、米国の国立銀行制度を採用するのがよいと、井上侯も伊藤公と仲のよかつた関係から直ちに賛成して、改正係で立案することになり、私は芳川(顕正)伯・福地(源一郎)氏等と共に日本最初の銀行条例を起草したのである。但し此の時には米国で千八百六十年に発布した国立銀行条例に則つた伊藤公の案に対し、吉田(清成)子が英国流を主張し、中央銀行を建設するのがよいと吉田案を出し甲論乙駁したものであつた。然し私達は伊藤案をよしとし、井上侯もこれに賛成したのである。(後銀行条例は改正せられ、英国流に中央銀行も松方(正義)公の手で設置せられた)
 斯くて銀行条例の実施に就て、其の実務、又帳簿のことに詳しい人が必要である処から、誰の世話であつたか、横浜のチヤータード マーカンチル バンク オブ インデイア ロンドン エンド チヤイナと称する銀行に居たアーラン・シヤンドと云ふ英国の人を大蔵省に
 - 第40巻 p.641 -ページ画像 
招聘した、此の人は政治家でも学者でもない、純然たる実際家であつて、真に日本の銀行の発達に就て心配し、且つ尽力してくれた。
      三
 私は明治六年五月、大蔵省少輔事務取扱の職を辞し、八月予ての素志であつた民間事業たる、第一国立銀行の経営に任じたから、其の後大蔵省に於けるシヤンド氏の仕事はよく知らないが、銀行条例の発布後、国立銀行の設立がぽつぽつあつたので、銀行実務の教授所を大蔵省内につくり、シヤンド氏が教授となり、帳簿の取扱方、報告書の作製方、計算書の作り方等を親しく日本の銀行員に教へた、そして「簿記精法」を著し、又銀行家の訓言としてギルバルトの示す処を一般に広く普及せしめたが、その中私の記憶にある尤もな言葉は
 一、銀行の業務は叮寧に而も遅滞なきことを注意すべし
 一、銀行業者は政治の事情に通じ、已れ政治に立入るべからず 
 一、銀行業者は貸付たる資金の使途を知る明識あるべし
 一、貸付を謝絶し相手方を憤らしめざる親切と雅量とを有すべし
などゝ云ふので、平凡な言ではあるが、何れも味うべきものである。又銀行検査の試験として、第一国立銀行も、シヤンド氏から検査を受けたが、預金の性質、貸金の使途、取引の状態など、微に入り細に亘つて、熱心に取調べた。即ち日本の銀行事務が健実に発達し、英国流に行はれるやうになつたのは、一つにシヤンド氏の力であると申さねばならぬ。
      四
 次に明治九年のことであつた、支那の奥地たる陝西・甘蕭方面に饑饉があり、高官にして有力者たる左宗裳から日本に借款を申込んで来たので、政府が貸金するのは面白くないとて、第一銀行が名前を出すやうになつた、私としては海外関係を進めるのは、今後の信用上にもよいことと考へ、尚ほ三井物産から物資を購入すると云ふので、これを引受けることにして、私、三井の益田(孝)男、大蔵省の岩崎(小十郎)氏及び福原と云ふ世話人とで、上海へ渡り、銀貨二百五十万弗の貸借契約をした、然しそれは支那側に故障があつて中止となつたが此の時私は第一銀行の支店を上海に置いて海外発展を為さうと考へたのであつた。処がシヤンド氏が、これに対し親切にその不可なる所以を意見書として出した、その趣意は「凡そ経済上の進歩は金融の疎通に依らねばならぬが、銀行は内地のものと海外のものとある、第一国立銀行は内地の商業銀行であるのに、上海に支店を置く時は、海外の為替をも取扱はねばならぬ、而も支那は銀本位であり、銀価の変動が激しいから、之を経営しようとすることは、失敗のもとである、切におやめになることをおすゝめする」と云ふ意味であつた。従て私は之れを中止し、後為替銀行たる横浜正金銀行が松方公の尽力で出来るに就て力を入れたのであつた。
 斯様に私達は、シヤンド氏には公私共に指導を受けたので、日本の銀行業にとつては大いなる恩人であると申してよいと思つて居る。
      五
 要するに明治初年、日本の外交が開けて以来、外国から多大の教へ
 - 第40巻 p.642 -ページ画像 
を受けた為め、いろいろな方面の進展を為したのであるが、英国及び英国人からは特に百事に関して指導されたので、パークス氏と云ひ、シヤンド氏と云ひ、実際上のみならず、精神的にも多くの貢献を遺して居るのであつて、我々の深く感謝して居る処である。
 尚ほシヤンド氏は、私より二つ三つ年下の年齢であるが、今も生存せられ時々手紙の往復を為して居るので、英国の友人として更に懇親にありたいと望んで居る次第である。(中外商業新報英文号所載)
  ○尚シャンドニ就イテハ、本資料第三巻明治五年十月一日ノ条。第四巻所収「第一国立銀行」明治七年二月及ビ明治十年ノ各条参照。
  ○明治三十五年七月、栄一ロンドンニ於イテシャンドト会見セリ。本資料第二十五巻所収「欧米行」明治三十五年七月二日ノ条参照。