デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
3款 財団法人斯文会
■綱文

第41巻 p.31-35(DK410008k) ページ画像

大正7年12月1日(1918年)

是日、東京帝国大学法科大学第三十二番教室ニ於テ、当会主催ノ講演会開カル。栄一演説ス。


■資料

斯文 第一編第一号・第一一四頁 大正八年二月 ○教化部の活動(DK410008k-0001)
第41巻 p.31 ページ画像

斯文 第一編第一号・第一一四頁 大正八年二月
    ○教化部の活動
 本会成立と同時に教化部は其の活動の第一着歩として、昨十二月一日東京帝国大学法科大学第三十二番教室に於て大講演会を開き、本会趣旨の闡明、斯道の宣伝に勉めたり。同日午後一時半服部教化部長の挨拶あり、次で左の順序により講演あり
 一、本会の趣旨         会長 小松原英太郎君
 一、儒教の現代に於ける意義 文学博士 服部宇之吉君
 一、道徳と経済         男爵 渋沢栄一君
 一、日本の発展と漢学の勢力   子爵 金子堅太郎君
右終りて閉会せしは午後四時十分頃なりき。聴衆凡そ四百有余名、頗る盛会なりき。因に右講演は載せて本誌にあり、唯渋沢男爵のは速記修正間に合はず遺憾ながら次号に譲ることゝせり。


斯文 第一編第二号・第一―九頁 大正八年四月 道徳と経済 男爵 渋沢栄一(DK410008k-0002)
第41巻 p.31-35 ページ画像

斯文 第一編第二号・第一―九頁 大正八年四月
    道徳と経済
                    男爵 渋沢栄一
 斯文会御催の御席へ出まして、一場の意見を申上げることになりましたが、私は西洋の学問は皆無と申す外ございませぬ、漢学と雖も青年の時に少しく学んだ位に過ぎぬので、爾来俗務に没頭致しましたから、孔子は子路を未入室と申されましたが、私は室に入るどころではなく、堂にも升らず僅に其門を窺へた位のものでございます。然るに此席に於て漢学の素養の十分におありになる諸君に向つて講演をすると云ふのは実に大胆なることで、御聴きになる諸君も奇怪と御感じなさるでありませうが、折角此壇に上つたものでありますから、道徳と経済と云ふ演題で簡単に愚見を述べて見ようと思ふのであります。
 斯文会の文と云ふ字はどう云ふ意義であるか、服部先生に伺ひまし
 - 第41巻 p.32 -ページ画像 
たら能く解りませうが文章の文、手紙の文の如き狭い意味でないのは無論であります。論語の中にも文と云ふ文字は沢山あります、『行有余力、則以学文』『質勝文則野、文勝質則史。文質彬々、然後君子』『子貢問曰、孔文子何以謂之文乎、子曰、敏而好学。不恥不問。是以謂之文』等の論語中に二十以上もありますが、斯文会の文の字は更に一段重要なる意味あるものと思ひます、子罕篇に『予畏於匡。曰、文王既没、文不在玆乎。天之将喪斯文也、後死者不得与於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。』といへる文の字こそ本会の取つて命名せられたものと思ひます、是は孔子が陽虎と間違へられて匡人から危害を受けんとする時に、平然として申された言葉であります、詰り天の斯の文を喪さゞる匡人其れ予を如何せんと、文王のことから引証して、斯の文を天下後世に宣伝することを自任して居られたやうに思はれます。唯今服部先生が仁義道徳の意義に就て鄭寧に御説明がございましたが、斯文とは即ち此仁義道徳の大道を申したものと思ひます。斯文の意義は前に述べた通りとして其道徳と経済とに就て私が玆に意見を述べますのは頗る恐縮の至りでありますが、私は理論を申すのではございませぬ、唯私の信ずる所は道徳と経済とは極めて密接の関係を有つて居るものである、而して私は微力ながら従来自己の経営に於て聊かこれを実行したいと思ひますから、即ち学問的に申上げるのでは無くして、自分の行動に就て申上げて見るのであります。殊に御断はり申しますのは頃日来多忙であつて、今日は別段講演の用意をして参つたのでなく、唯心に思ふことを随意に申上げるのでございますから、或は前後も致しませう、また誤謬もありませうが、どうか素人の講演として御容赦を願ひます。
 私が道徳と経済とは真に密接のものであると深く感じましたのは、決して新らしいことではありませぬ。是れには少しく歴史を有つて居りますが、それを此処で申上げますと自己を御吹聴するやうで、相応しからぬ嫌がありますが、道徳と経済と密接の関係あることを申述べるには、自分の経営致したことに就て申上げるのが最も適切であると考へるのであります。
 私は青年のころ少しく漢学を修め、治国平天下と云ふことに心を傾け、志士の一人として尊王攘夷を唱へて国事に奔走致したのであります。然るに何事も為し得ずして一橋の家来から徳川幕府の役人となつて、外国へ派遣され、明治維新となつて幕府は倒れて、私は実に不幸なる境遇に陥つたのであります。殊に私が仏国から帰朝の際は、大切に思うた徳川慶喜公が駿河の国に蟄居せられて居りましたので、私も政事界に立つ企望を棄てたのでありました。其後明治政府から召されて出仕するやうにと云ふことでありましたが、蟄居の主人を余所にして仕官することは自分の心に安じませぬから、是は商工業者となつて一生を送らうと決心しました。然るに余儀なき事情があつて暫らく大蔵省に奉職しましたが、これは決して私の本心では無かつたのであります。
 明治六年に至つて官を辞することが出来まして、玆に始めて当初欧羅巴から帰つた時の宿志を遂げて実業界の人となりました。此時に於
 - 第41巻 p.33 -ページ画像 
て自分は自問自答しました。仮令自分が才学共に浅薄なるものにせよ農民より出て志士として世に立ち治国平天下の実を行うて見ようと思つた、然るに事志と違うて今は商人となつて生産殖利の業に就くには何か自己の心に守る所がなければならぬ、一体私は少年の頃聊か漢学は修めましたが、水戸流であつて、仏教は甚だ嫌らひでありました、今日でも仏法は信じませぬ、さうかと言つて排仏論者ではありませぬまた耶蘇教も奉じませぬ、神仏耶すべて宗教的の信念を有つことはないけれども、青年時代に修めた漢学から論語を以て一身を守らうと覚悟致しました。是れは決して形容でも無く虚飾でも無く、実業者として何か一つ堅く守る所が無くてはならぬ、然かも銀行業者とならうと決心しました時に、一つの信念を定めねはならぬ、それには論語が好い、論語に依つて銀行業の経営が出来ようと考へました、道徳と経済との関係と申しますと、大層高尚になりますが、極く通俗的に考へて論語の主旨を踏み違へぬやうにして、自己の経営する銀行を発達させようと云ふ意志から、道理と殖益とは両立し得られようと思つたのであります。
 当時の実業界の有様は今を距ること四十五・六年前のことでありますから決して今日の如き状況ではありませぬ。旧幕時代は商人を士農工商というて四民の階級の最後に置いた、また其商業というても幕府の頃は範囲も狭く資力も少く、日本国内だけの取引でありました。
 斯かる有様では到底海外諸国と交通して後れを取らぬやうにすることは出来ない、同時にまた商業に依つて日本の富を増進することも出来ないと考へましたから、私は微力ながら是非とも精励努力して日本の商業を発展させたい。これを発展さするには如何なる方法に拠るか其適当の方法を講究せなければならぬと考へました。而して其大体は欧米式に則る外は無い、目前自己の経営せむとする銀行の如きも会社組織合本法に拠つて設立するより外あるまいと思うて、其方法に拠つて力を竭くしました、素より商業のことでありますから、性質としても利益を主とせなければなりませぬ、利益を目的とすれば其目的に伴ふ手段として、利のある所は道理とか情義とか云ふものを後にするやうに成り行くのが勢の然らしむる処であります、然し斯様にして得た利益は縦令其目的を達し得られましても、決して永久に続くものでは無い。是に於て前に述べました一つの覚悟と云ふものが必要になつたのであります。蓋し商業と云ふものは一つの道理に拠つて経営しなければ発展するものではない、又道理に外れたるものは決して永続は出来ぬものであると私は信じて疑ひませぬ。
 私は一昨年喜齢に躋りましたから全然実業界を去りましたが、それ迄満四十三年間第一銀行頭取を勤めました、其間独り銀行業のみならず、すべての物質的業務に就て百般の事物に渉つて進歩発展させなければならぬと思うて、種々精力を尽しましたが、或は其間に競争も生じ甚しきは衝突も起り、又は意外に進み過ぎたと思ふものもあり、常に悲境に居るものもございましたが、私は其間に処して只管孔子の教に依つて処理し往けば必らず何事も成就するものと信じて居りました私の経営した中にも或は苦辛惨胆たるものもございましたが、常に孔
 - 第41巻 p.34 -ページ画像 
子の教に背かず、論語の教旨に拠つて経営が出来たと思ふのであります。故に私は道徳と経済とは必ず一致するものであり、道徳に拠つて殖益は得らるゝものであり、また経済の働きに拠つて、真正の道徳も拡大して往くものであると信ずるのであります。私の此の道徳経済合一論は自己の経験から申すのでありまして、決して学問上の理論ではありませぬ。私は此個人の道徳経済が一致すると云ふ所から、更に之れを拡めて国際間に於ても道徳と経済とは一致させ得るものと思ひます。但し世の中は如何にしても総て平等にはなり得られぬ、詰り優勝劣敗は免かれぬものと思ひます、けれども個人間に道徳と経済と一致するものであるならば、国際間にも之を普及して、弱肉強食の弊に陥ることの無いやうにすることも出来得るものと思ひます。而して此の注意が個人間にも欠けましたならば、人間の事は常に甚しき争ひを生ずることゝなりますから、どうしても道徳と経済とは併行するやうにしたいのであります。
 唯今服部博士から学理的の御説を伺ひまして寔に敬服致しましたがどうか斯文会に於ては益此主義を拡張さして世間に進展したいものであります。私は今日個人間の道徳が左程に退歩したとは思ひませぬが殖益の増加に対しては随伴し得ぬ所があると信じますから、斯くの如き学説が世間に力あるものとなつて、益道徳の進歩することを希望して止まぬのであります。而して個人間より進んで国際間の道徳をも完全ならしめねばならぬと思ひます。今日の現状では兎角国際間には他を排斥しても自国の利益を計ると云ふ国家が無いとは限りませぬ、全世界皆さう云ふ悪魔許りとは申しませぬが、中には利己主義のものが見えるのであります。現下欧洲大戦乱終熄の結果から今後世界は如何に変化して往くかは、我々の見物でありますが、私の信じます所では必ず我々の希望する如く、善者が栄え悪人が亡び、仁義道徳が世に隆昌となつて暴戻貪慾の廃滅するやうにならう、又ならせねはならぬと思ひます。恰も服部博士の御説の如く、孔子が国を治むる三要素、武力・富力は必要であるけれども更に『民無信不立』であつて、信と云ふものが甚以て肝要であると証明されました。此孔子の言の如きは明かに今日の欧羅巴の戦乱に於て全世界に十分に知らしめたやうに思はれて、私は殊に嬉しく感ずるのであります。独逸の如きは決して兵力では負けなかつた、又食物も十分に用意されて少なくはなかつた。然らば何の為めに戦に負けたのであるかと云えば、其の無道の行為が世界の攻撃する所となりまして、内にしても民信なきに至つたのであります。国際間でも左様でありますから、個人間に信と云ふものが無かつたならば、直ちに亡びると云ふことは頗る見易き道理であります故に道徳と経済と云ふものは互に相一致して往かなければならぬものであります。
 私は決して自身が道徳と経済とを一致せしめたなどとは申しませぬが、唯此の主義を守つて長い間実業界の一部で勉強したに過ぎませぬ今後も飽迄此道徳経済合一説に向つて研究したいと思ふのであります夫故に斯文会の主旨が益世に普及し発展することを望んで止まぬので今日此席へ出まして愚見を申述べた次第であります。(拍手起る)
 - 第41巻 p.35 -ページ画像 
                   (大正七年十二月一日講演会講演筆記)