デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
3款 財団法人斯文会
■綱文

第41巻 p.72-74(DK410020k) ページ画像

大正13年4月27日(1924年)

是日、仮聖堂ニ於テ当会主催孔子祭典行ハル。栄一参列ス。


■資料

集会日時通知表 大正一三年(DK410020k-0001)
第41巻 p.72 ページ画像

集会日時通知表 大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
四月廿七日 日 午前八時半 孔子聖典会(湯島仮聖堂)


斯文 第六編第三・四号・第八五―八九頁大正一三年八月 本会第五回孔子祭記事(祭典部報)(DK410020k-0002)
第41巻 p.72-74 ページ画像

斯文 第六編第三・四号・第八五―八九頁大正一三年八月
    ○本会第五回孔子祭記事
                       (祭典部報)
 本会祭典部は四月二十七日(日)第五回孔子祭を執行せり。昨年大震火災後、復興第一年の祭典にして、仮建築聖堂(別項参照○略ス)に於ける初回の祭事なれば、当日に先ち服部総務・三宅部長、工藤・安井両会幹其他役員は、数回の準備会を開き、大体先例によりて執行し、当日早朝役員の参集、大成殿内外の巡検及び開扉式も例年の如く行ひ祓主の祓詞等亦先例に準拠し、儀式次第及び祝文なども格式によりて厳粛に執行せり。
 当日祭主として徳川会長及び江木文相・渋沢子爵・阪谷男爵其他の会員並に名流学者数百名の参拝の外、今回特に初例を開きて参拝せしめたる本郷区小学校職員生徒総代も式場に参列したり。
 徳川会長の祝文及び服部総務の報告は左の如し。
      祝文
 維大正十三年四月二十七日家達等謹ミテ至聖先師孔夫子ノ霊ニ告ス伏シテ惟ミルニ夫子道天地ニ配シ徳日月ニ並フ、風教偏ク東邦ニ被リ化沢永ク後昆ニ垂ル、家達等景仰措ク能ハス薄カ蘋藻ヲ奠シ以テ虔誠ヲ致ス、配スルニ顔子・曾子・子思・孟子ヲ以テス、尚クハ饗ケタマヘ
            財団法人 斯文会会長
                 正二位勲一等 徳川家達
    斯文会第五回孔子祭日報告
                   総務 服部宇之吉
 今より祭典を挙行せんとするに就き、其の前一・二報告するところあらんとす
 昨年九月の大震火災により、寛政十一年に改造されたる湯島聖堂は入徳門及び水屋を除く外は悉く灰燼に帰し、寛永九年林道春が忍ゲ岡に営みし聖堂に安置されて以来、数回の火災に常に無事なるを得たりし孔夫子及び四配の像も烏有に帰したるは誠に痛恨の至に堪えず、二千年来我が国固有の徳教と完全に融会同化して、其の血肉となりて皇運を扶翼し来れる儒教の大本山とも謂つべき聖堂を失へることは、名教の上より観て一大恨事と謂はざるべからず、加之近年に於て湯島聖
 - 第41巻 p.73 -ページ画像 
堂は朝鮮儒林崇仰の標的として、内鮮聯絡上顕著の位地を占めつゝありき、旁々其の復興は国家の当に計画すべきものに属すと信ず、然れども国家財政の次第上自然急速に其の実施を見ること能はざるべきを虞り、我が斯文会は震災後直に復興を計画せるが、完全なる復興には巨万の資金を要すべく、随つて一時には遂行し難きにより取敢えず仮聖堂を造営し、年年の祭典を行ふにも便にせんとし、予め文部省の許可を得、竣功の上は国家に献納することとし、伊東博士に設計を委嘱して成れるもの即ち此の仮聖堂なりとす、而して聖堂成るも此に奉安すべき孔夫子の像は如何にすべきかにつき種種考慮しつゝありし際、本会の計画せる聖堂復興の事畏くも
上聞に達し、昨日徳川会長を宮中に召され宮内大臣より聖堂復興の事を被聞召、特に
御思召を以て、御物孔子像壱躯を交付する旨の覚書と共に聖像を手交せられたり、蓋し
列聖儒道を尊崇あらせられたる御趣意に依り、聖像の焼失を御残念に御思召さるる次第と恐察し奉り、感激措くところを知らず、徳川会長は昨日宮中より聖像を奉じて此の仮聖堂に来られ、役員等列席の上奉安式を挙行せり
聖旨優渥感激の至に堪えず、吾人当に発憤励精益々斯道の闡明に努め以て聖化を万一に裨補せんことを期すべし、聖堂本建築は目下設計中に属すれば、追て案を具して大方の賛助を請ふべし
本日久邇宮朝融王御台臨あらせらるる御沙汰有りしも、夜来御風気の為め遽に御取止に相成りし旨更に御沙汰有り、江木文部大臣は特に臨場せられ幣帛料を供へられたり、祭式の後に文部大臣より一場の講話あるべし、又本郷区教育会は、区内十一小学校児童総代各校四名合計四十四名を、各校一名の職員をして引卒せしめて参列せしめたり、祭式の終りに児童は聖堂に因みある本郷区歌を合唱すべし
                      (以下略す)
 服部総務の報告せられたるが如く、今回特に 御思召を以て御物孔夫子像壱躯御交付の恩典を拝受するに至りたるは、会員一同感激発奮すべきことなり。
 次に特筆すべきことは、当日江木文相は国務多端の時にもかゝはらず、特に参拝せられ祝意を表して、式後左記の演述をなされたることなり。
      江木文相演述
 孔子は支那の人なり。然れども支那の孔子にあらずして、実は東洋の孔子なり。何ぞや、其の道夙に本邦・朝鮮等に行はれて、東洋風教の準縄となりたるを以てなり。而して今や欧米諸国は競つて孔子の遺書を研鑚し、其の道を尊信する者日に多きを加へんとす。斯の如くして孔子は啻に東洋の孔子たるのみならず、世界の孔子とならざるを得ず、洵に曠古の師表億兆の儀範と謂ふべきなり。
 論語の我が国に伝来したるは、応神天皇の八十五年に当り、爾来我が国体と融化して、風教を維持し、民心を薫陶すること、既に千五百有余年に及べり。故を以て歴世孔子を尊信し、文武天皇大宝元年
 - 第41巻 p.74 -ページ画像 
二月丁巳、始めて釈奠を行ひ、而して大宝令には、大学国学をして春秋二回釈奠を行はしむることと定め、自後毎歳之を行ひしが、戦国の世となりて遂に之を廃絶せり。然れども、教旨日月と侔しく、為に其の光輝を失はず。依然として国民道徳の元素を成せり。徳川幕府に至り、本郷湯島に聖堂を設けて、孔子を祀り、辞奠を復して春秋二季之を挙行し、多年の間徳教の淵源たらしめしが、明治維新の後、聖堂の管理幾多の変遷を経、釈奠亦久しく中絶せり。然るに明治三十九年、有志胥謀りて孔子祭典を復興し、其の後斯文会は、其の事業を継承し、更に徳教の振興を講ぜしに、、客秋九月大震火災に遇ひ、殿堂神像一朝にして烏有に帰したり。
 顧ふに、我が国は近時西洋文明の痼疾たる物質主義の余弊を受け、道徳を軽んじて功利を尚び倹素を斥ぞけて華奢に耽り、軽佻浮薄の風漸く盛ならんとす。殊に欧洲大戦の後には、奇矯過激の思想も亦擡頭し来り、敦厚なる民俗を破壊し、国家存立の基礎を撼かさんとするの兆あるは、真に深憂に勝へざるなり。これ内に高尚なる理想を欠けるの結果にして、亦実に聖人の道を等閑に附したるの罪あり孔子の道たる、大中至正、天理に循ひ、人倫に基づき、理想高遠、意義渾厚、万代に亘りて動かすべからざるなり。欧米諸国に於て、近時漸く其の尊信者を加ふるを観ば、思半に過ぐるものあらむ。欧米の文物に対しても、今後尚採長補短の要ありと雖も、先づ本邦固有の文化の元素たる聖人の道を理解し、尊重し、且之を宣揚するは実に当今の急務たらずんばあらず。然るに、一朝にして其の殿堂神像を焼失したるは、我が国風教の為に痛恨せざるを得ず。
 畏くも今上陛下は、常に大御心を教化の為に労したまひ、曩に国民精神作興に関する大詔を煥発せられしが、今回特に孔子像一基を本会に下付せられたるは、洵に感激に堪へず。蓋し、速かに聖堂の旧規を復して、盛に釈奠を行ひ、以て文教の振興を図るは、聖旨に副ひ奉る所以の道なりと信ず。本日の祭典に臨み、聖旨の優渥に感泣すると同時に、本会の事業に満腔の敬意を表し、一言所懐を述ると云爾
  大正十三年四月二十七日
                 文部大臣 江木千之
 次に、今回の特例として、参拝したる本郷区小学校生徒総代四十四名は、式終るの後、湯島聖堂に因みて作りたる本郷区児童唱歌を合唱し、喝采を博したり。