デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
4款 聖堂復興期成会
■綱文

第41巻 p.135-137(DK410045k) ページ画像

昭和5年8月(1930年)

是月発行ノ斯文会雑誌「斯文」ニ栄一『学者ノ奮起ヲ望』ムト題スル談話ヲ発表ス。


■資料

斯文 第一二編第八号・第三―四頁昭和五年八月 学者の奮起を望む 子爵渋沢栄一(DK410045k-0001)
第41巻 p.136-137 ページ画像

斯文 第一二編第八号・第三―四頁昭和五年八月
    学者の奮起を望む
                   子爵 渋沢栄一
 聖堂復興の遅々として進まざるに対して、自分はいろいろ意見もあるが、自分単独で出来ることでもなし且つ微力で充分の事も成し得ないので、つねに念頭にありながら今日に及んでゐる次第である。世間では自分等が思つてゐる程考へてくれないのか、いくら時世が悪いといつたところで、聖堂復興の為めに百万円位の金を集めることが出来ないとは、実に慨はしいことである。
 実業界の人達に、かつて自分が話した時には、そんな事位は朝飯前に出来るといつて賛成してくれたが、その後どうしたものか有力の方方の気の入れ方が少いやうである。つまらぬ事でも時世相応の賑やかしいことには相当に金を集めるし、随分力を入れてゐるやうだが、聖堂のことゝいふと何か古臭いやうに思ひ、廃れもの扱ひにして、さつぱり人気が引立たないやうだ。
 孔孟の教―儒教なるものは千古を貫く名教で、所謂流行物とは大に趣を異にしてゐる。それを子供等が御祭騒ぎするやうな気分で、ワアツトはやしたてゝやるやうなものと感違ひされてゐるのは困つたものだ。自分は聖橋の上を通るたび毎に、あゝ孔子様に相済まぬと心から御詑びをすると共に、自分の微力を嘆息するのである。
 政府でも聖堂復興に就ては相当理解して下さるので、文部省などへ行つてその話をすると、大に賛成してくれて、国民道徳の上から考へても速かに復興せねばならぬと言つて勇気をつけて下さるが、暫くすると他の用にかまけてか、忘るゝともなしに立消えになるやうだ。政府の方でも今一歩踏み込んで、一般国民に寄附金を出させるやうに仕向けてくれると良いのであるが、中々さういふ都合の好い運びにはいかぬやうだ。これが政友会を益するとか、民政党の為めになるとかで政党の御用に役立てる仕組みにすると、大分活気も揚つて、立ち所に出来て仕舞ふとも知れんが、仕事の性質上それは出来ない相談である然し今さら愚痴を言つても仕方がないので、此上はあくまでも自分の身で及ぶ限りの力を尽して、せめて存命中に復興の聖堂を拝したいと念願してゐる次第である。
 それに就てもこの事業に関係の深い者から先づ活動せねばならぬ。うるさいと言はれてもかまはぬから、もつと積極的に各方面に向つて突進し、犠牲的精神を発揮し、之が達成に全力を尽して貰ひたい。今日のやうな有様では自然社会から等閑に附せられて仕舞ふ。それから学者側としても学問上の立場から一般国民に対し徹底的に宣伝普及に努めて頂きたいのである。
 今日の我が国の思想は往年の如く単純でなく、種々雑多の思想が混然入つてゐるので、国民は適帰する所を知らず、中には随分いかゞはしいもの、或は危険なものもあるやうで、自分は邦家の為め憂慮に堪へぬ。之を匡救する途は他にあらず、我が建国以来伝統の皇室中心主義即ち忠君愛国の観念を、以前よりもモツト鞏固にすることである。
 - 第41巻 p.137 -ページ画像 
之にはどうしても我が国体の精神と渾然融合してゐる儒教精神を、現代の青少年の頭にハツキリ理解させて置く事が刻下の急務ではあるまいか。実に国民の指導に当る学者の一大奮発を要する時機ではあるまいか、邦家の為め諸先生の健闘を祈るのである。
                      (文責在記者)