デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.178-181(DK410055k) ページ画像

明治45年4月13日(1912年)

是日、芝公園福住楼ニ於テ、当会主催「東沢瀉先生・栗栖天山先生及南部五竹先生贈位祭」ヲ兼ネ
 - 第41巻 p.179 -ページ画像 
当会春季懇親会開カル。栄一出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK410055k-0001)
第41巻 p.179 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年        (渋沢子爵家所蔵)
四月十三日 晴 軽暖
○上略 二時三井銀行ニ抵リ、更ニ芝福住楼ニテ東沢潟氏《(東沢瀉)》ノ贈位祝賀会ニ出席ス○下略


陽明学 第四三号・第四三―四六頁 明治四五年五月 贈位祝祭と春季懇親会(DK410055k-0002)
第41巻 p.179-181 ページ画像

陽明学 第四三号・第四三―四六頁 明治四五年五月
○贈位祝祭と春季懇親会 前号にも報告せし通り、本会は弥々四月十三日を以て東沢瀉先生並に栗栖天山先生・南部五竹先生の贈位祭に本会春季懇親会を兼、恰も満都桜花爛熳の時に於て東京芝公園福住楼に挙行せり、今略々其時景況の一班を録し、以て吾党の遠隔地にあるものに知らしむべし、先づ其楼上大広間正面の床には真菰を敷き、其上に白木の卓を置き、幣帛を捧げ、壁間には贈正五位東沢瀉先生神位と記せる長き紙を中央に掲げ、右に天山先生、左に五竹先生となせり、而して霊前には旧藩主其他よりの供物を飾れり、午後二時即ち定刻の至るや、斎官清祓降神の式を行ひ、笙篳篥奉楽粛やかに起ると共に、献饌をなし、斎主の斎告あり、左の如し。
   ○祭文略ス。
斎告了りたる時、本会主幹は進み総会員を代表して本会よりの祭文を朗読す、其文左の如し。
 維明治四十五年壬子四月十三日、陽明学会員東敬治等、頓首再拝、謹テ贈正五位東沢瀉先生並ニ贈正五位栗栖天山先生南部五竹先生ノ霊ヲ祭ル、伏テ惟ルニ、沢瀉先生、忠孝天性ニ根サシ、節義骨髄ニ透リ、夙ニ聖賢ノ道ヲ以テ其志トナシ、天下ノ士ト交リ、古今ノ書ヲ読ミ、其学タルヤ窺ハサル所ナシト雖モ、而モ其根本宗旨ハ遂ニ吾陽明子ニ帰セリ、天山先生コレト其志ヲ一ニシ、其学ヲ同ウシ、平生義理ノ精微研究セサルハナシ、五竹先生モ亦共ニ交リテ其議論ヲ上下セリ、是ヲ以テ、維新ノ際ニ当リ、能ク勤王ノ大義ヲ其藩中ニ唱ヘ、或ハ忌諱ニ触レテ逮謫セラレ、或ハ身ヲ殺シテ難ニ殉シ、以テ一藩子弟ヲシテ其ノ方嚮ヲ誤ルニ至ラザシメタルハ、主トシテ先生ノ力ニヨル、然トモ、若シ人徒ニ其ノ事蹟ノ赫灼タルノミヲ見テ、而モ其ノ事蹟ノ由来スル所以ハ偏ヘニ平生学問ノ功ニヨルヲ知ラズンバ、マタ何ゾ能先生ヲ知ルモノト謂フベケンヤ、曩ニ二月二十六日。
 朝廷特ニ先生ニ正五位ヲ贈ラル、吾陽明学会員等ハ益々其ノ景仰ノ念ヲ切ニシ、感慨ニ堪エス、玆ニ同志会集シ、謹ミテ清酌庶羞ヲ具シ、以テ祝祭ノ微誠ヲ致ス、尚クハ神髣髴トシテ其レ来リ饗ケヨ。
それより旧藩主吉川男爵の玉串を捧げ、及南部男爵の現場総会衆を代表して玉串を捧くるあり、次てまた文部大臣祝辞の朗読あり、其文左の如し。
 東沢瀉先生夙ニ陽明良知ノ学ヲ攷メ、慷慨気節ヲ負ヒ、国家多難ノ際ニ方リ、義士ヲ糾合シテ、藩主ヲ扶翼シ、以テ勤王ノ志ヲ成サントス、然モ時非ニシテ事志ト違ヒ、轗軻屯遭、空シク大器ヲ懐イテ
 - 第41巻 p.180 -ページ画像 
宿志遂ニ伸フルコトヲ得ス、国士ノ不遇其事洵ニ悲ムニ堪ヘタリ、若夫レ栗栖・南部二家ノ、大義ニ倚リテ終始其ノ友ヲ助ケ、為ニ命ヲ致セルカ如キハ、古烈士ノ風、真ニ後人ヲ激励スルニ足ルモノアリ、惟フニ三先生共ニ志ヲ当世ニ得スト雖モ、其ノ常ニ念トシタリシ帝国ノ国運ハ、今ヤ隆々トシテ
 皇威遠ク八紘ニ耀ケリ、况ンヤ朝廷三先生ノ志ヲ懿トシテ、特ニ位階ヲ追贈セラレ、以テ其ノ殊寵ヲ示シ給ヘルヲヤ、三先生タルモノ亦以テ瞑スヘキナリ、本月本日陽明学会三先生ノ為ニ祭典ヲ挙ケ、以テ其ノ身後ノ殊栄ヲ彰シ、英霊ヲ弔慰スル所アラントス、乃チ一言ヲ述ヘテ賛同ノ意ヲ表シ、且先彦景仰ノ微衷ヲ致スト云爾
  明治四十五年四月十三日
                       文部大臣 長谷場純孝
其他祝詩祝文(詩文共に文苑欄出す)の朗読ありて、また其の奏楽裡に神饌を撤し昇神の式を行ひ、右にて式を了り、暫時休憩の後、講演に移りたるか必死組時代の実見談と云ふ演題の下で、大谷靖氏か先つ起立して必死組当時の懐旧談をなし、『全体維新の際岩国藩が世に知らるゝに至りたるは、所謂精義・建尚・日新・敬威の四隊による所か多いが、其四隊の中心とも云ふべきは精義隊で、其精義隊の前身は即ち必死組である、必死組は其の始め沢瀉先生の所で誓盟をなしたる時は、唯是れ七人のみて、一夜の中に協議一決して、赤心報国と正法眼蔵と云ふ旗をこれも一夜の中に製造して、以て呼号し、示威運動の如きことを始めたるに忽に百余名となり、或は棺を用意して当路に肉薄したこともある』などと談じ、次に大塚慊三郎氏は、栗栖天山先生の門人として、『其 《(欠字)》が東沢瀉先生と共に国事に尽せる即ち必死組の事より、二人共に柱島の孤島に流されて居る中に東沢瀉先生が憤慨せる余りに絶食せるに及んで、天山先生坐視に忍ひす、窃に島を脱して帰りたるも、遂に割腹して死するに至りたるなどよりして、其臨終割腹の法が如何にも手際よく、所謂従容就死の有様』を稍手まねをなして談じたるときは、満場水を打つた如くに寂とした、次に佐伯惟馨氏は沢瀉先生最初よりの門弟なるを以て、沢瀉先生の教授振りに就て談せられしが、其大略は斯うである、『全体沢瀉先生の学問は役に立つ人間を造らへるのが目的で、書物の読めぬものに無理に本を読めと云ふ様な遣り口では無かつたから、例へば講義を授ける場合でも、決して一から十迄は行らず、その書の眼目とする必要の点だけを講義し、此が判らぬ様な者は教へても駄目ぢやと云ふ風であつた、同藩に田中仲蔵と呼ぶ仁があつて頗るの気慨家だつたが、六敷い本は読まず、三国誌の様な物計り耽読して居た、その田中が藩の蔵元(計算を司る役所)へ勤めて居たが、折柄時勢が混乱してじつとしては居られなくなつた、其処で田中は東先生を訪ねて、私は十呂盤を持つて毎日二一天作を遣つて居る俗吏で六ケ敷い書物は読めませぬがと打明けて教を乞ふと、沢瀉先生の曰く「二一天作五の十呂盤が即ち立派な学問ぢや、書物が読めずとも学問は出来る、又お前は俗吏々々と云ふが、天下の政事は俗吏でなければ出来る物でない」と諭された、維新前の天下は日に日に騒がしくなつて、岩国藩でも西洋式の鉄砲などが流行し出たので、剣槍派と
 - 第41巻 p.181 -ページ画像 
折合が悪い、而も洋式派は「何に青表紙で鉄砲の弾が防げるか」とけなし、剣槍派も同様であつた、なかに長谷川大将の父君は藩の撃剣の師範で自ら竹刀を執りて日本古来の戦術を教えて居たから、子息の大将が洋式の銃を捻くるのを憤慨して居た程の武士気質の人であつたが其でも沢瀉先生の学徳には感服して「東先生の学問なら宜しいと」と云うて、自ら今の大将と共に遣つて来られた位である、斯の如く沢瀉先生は士農商工の各階級を通じて、其人に相応はしい学問を授けられた偉人であつた』云々と、大略此の様の事を談して殊に会衆に感動を与へた、それから井上博士が、陽明学の系統より観たる東沢瀉先生と云ふ題で滔々と盛に『此の陽明学殊に佐藤一斎派の学が鴻業に影響を及ぼして居るが、沢瀉先生も其の佐藤一斎先生を師とせられた先生である』と云ふ意を述べしが、何れ其の精しきは他日其の筆記を出すこと故此には其の詳しきを略す、而して先是にて講演了り、其後懇親の宴に移る、席上歓談湧か如く其の散会は殆んど九時頃なりし、其の会せるものは旧藩主吉川男爵より、長谷川子爵・渋沢男爵・南部男爵・立花少将・江木博士・渡辺忠氏・菊池晋二氏などより、会衆頗る多く地方より特に来れるは、茨城県酒井為太郎氏・埼玉県石井景孔氏の如きもあり○下略