デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.248-253(DK410065k) ページ画像

昭和3年10月(1928年)

是月、当会主催陽明全書講読会主任東敬治病気ノ為メ退任ニツキ、其後任トシテ講師ニ山田準ヲ委嘱シ、会名ヲ陽明会ト改メ、略則ヲ定メ、栄一ヲ顧問ニ推ス。


■資料

(東敬治)書翰 渋沢栄一宛 昭和三年八月一二日(DK410065k-0001)
第41巻 p.248-249 ページ画像

(東敬治)書翰 渋沢栄一宛 昭和三年八月一二日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、大暑之候ニ相成候処御老体も此節は最早御心身も余程御恢復ニ相成可被遊御遠察申上候処御案じ御見舞申上候、次ニ私事も此度ハ案外之重病と相成、漸く平復ニ向ひ候とも転地療養一応帰国と相成候事ハ既ニ御承知被下候事と存候、東京出発之際ニも是非御目ニ懸り事情委しく申上置度存候も、医戒も有之無已書中御挨拶申上置候次第千万御察可被下候、帰着後当処暫寓と致しおり候へとも、未た門外遊歩をば猶々控居次第と申なからも身体日増恢復仕候、御懸念被下間敷候、何分此際十分の根治に至迄ハ用心仕候、再度上京期猶一ケ年後にもあらんかと存候、因て講読会方之事ハ山田準君ニ依頼致置有之候間、縦ひ私事上京遅引とも乍憚山田君ニ御下命被下、引続開講有之様相成度奉願候、先ハ私事景況も申上度旁暑中御見舞として遠境呈愚札候、何分御老体の御事ゆへ一層御用心千祈万祷之至ニ御座候
  戊辰八月十二日
 - 第41巻 p.249 -ページ画像 
                        敬治
                         頓首
    渋沢青淵老先生
            閣下


(山田準)書翰 渋沢栄一執事宛(昭和三年)九月三日(DK410065k-0002)
第41巻 p.249 ページ画像

(山田準)書翰 渋沢栄一執事宛(昭和三年)九月三日 (渋沢子爵家所蔵)
                  (別筆朱書)
                  昭和三年九月三日
                       山田準氏来状
拝啓仕候、一昨日ハ御静養の処御妨仕り恐縮奉存候、陽明会の儀御心被懸継続の御懇命に接し難有、今後微力相尽可申、宜しく御指導御教督奉願候、尚本月二十二日(土)初会相開万事協議仕度候も
 一、会ヲ陽明会ト称ス
 一、毎月一回開ク(従来二回)
 一、伝習録講義ヲ増加ス(山田引受ク)
 一、渋沢閣下ヲ顧問トシ、山田其他ヲ講師トシ深井五郎ヲ幹事トス
 一、略則ヲ印刷ス
大凡右様の考の下ニ進行致度と存候、御思召も有之候得ハ御申聞け被下度候
次ニ一昨日小子より申上候深井五郎と申候は、増田明六氏の下ニ御事務所に参り居り、小子鹿児島高等学校に於ける教え子ニ有之、至極篤実穏健の性質ニ御座候間、此ニ本会の世話を頼み、小子と御事務所との連絡其他ノ相談を致度と存候、閣下御事務所御出頭の砌ハ増田氏を通して当人呼出し、一応御言葉御懸け被下候様奉願候
尚本月二十二日開会の節ハ、前以て御都合相伺、然る後手順相運ひ可申候
且又一昨日御話被下候東敬治氏ニ対する慰労金の儀、来二十二日会中有志より多少とも集め候はゝ、然る上にて閣下に御相談可申上候
先ハ御礼旁今後の方針及深井生の事御依頼申上度如斯御座候 草々
                           拝具
  九月三日                   山田準
    青淵先生
        執事


陽明学会書類(DK410065k-0003)
第41巻 p.249-250 ページ画像

陽明学会書類               (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓、秋気爽涼相向ひ候処御台安珍重奉候、然者兼て御同情の下に多年渋沢子爵事務所にて陽明学読書会相開候処、主任者東正堂先生病後静養の為め故山退住相成り、後事小生に委任有之、且又渋沢子爵にも継続御希望に候間、来る十二日(金曜日)其後の第一会相開候、何卒倍旧援護の御盛志を以て同志御誘合せ御出席被成下候様偏に奉願候
                           拝具
 一、当日より伝習録の講述相始め候
 一、当日は東正堂先生に対する謝恩慰労の御相談致度候
 一、本会の今後に就き便宜上略則起案致候御一覧被下度候
 - 第41巻 p.250 -ページ画像 
  昭和三年十月八日               山田準

陽明学会書類(DK410065k-0004)
第41巻 p.250 ページ画像

陽明学会書類               (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
    陽明会 略則
一、本会ヲ陽明会ト称ス
二、本会ハ陽明学ヲ研究ス
三、本会ハ講師ノ講述、同志ノ講話、研究談ヲ主トス
四、本会ノ主旨ニ賛成ノ人ハ何人タリトモ会員トナルコトヲ得
五、本会ハ会費ヲ徴収セス
六、本会ハ毎月第二月曜日午後二時開会(当分月一回)、午後五時前閉会ス
七、会場ハ麹町区永楽町二丁目一番地仲廿八号館渋沢事務所(二階)トス
    (省線東京駅降車口、市電同上又ハ大手町、永楽町下車ヲ便利トス)
  但臨時開会又ハ必要ノ場合ハ時日場処ヲ変更スルコトアルベシ、其時ハ必ス通知ス


図表を画像で表示--

    役 員       幹 事  顧問 渋沢子爵    高田利吉  講師 山田準     深井五郎  同  塩見平之助   (渋沢事務所内)  同  生田格     東京市麹町区永楽町二丁目一番地仲廿八号館渋沢事務所内    其他未定                            陽明会 




 ◎本会用向ハ右両幹事ノ内ヘ御照会被下度候
  昭和三年十月


竜門雑誌 第四八一号・第二八七―二九〇頁 昭和三年一〇月 渋沢翁と陽明学の関係(DK410065k-0005)
第41巻 p.250-252 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第二八七―二九〇頁 昭和三年一〇月
    渋沢翁と陽明学の関係
                      東敬治
 此度竜門社より渋沢翁と陽明学と云ふ事に就て、予に何か一稿を投じて呉れる様にとの事により、予は再び往事を回顧する事になつた。元来予か陽明学の主張と云ふものは、内は吾が家学に根源すと雖も、外は以て此の世道人心を拯済するは実に斯学を興すの外はある可からずとの信念による。固り斯学たる、支那明朝の中葉に王陽明先生の発悟唱導せしものにして、孔孟以来聖賢相伝ふる正統の道である、吾日本にも中江藤樹・熊沢蕃山引続きての講明を経来て、殊に維新の洪業に翼賛せる諸士の多くは斯学中の人とも聞けば、已に赫々天下に大行せしをるべき筈なるに、予か出京当時に見るときは、世は殆んどこれあるを知るものだになかりき。それには何か其故あるべきものなるも予は極めてこれを遺憾となし、明治三十九年三月を以て明善学社を創設し、月刊雑誌王学を発行せしが、これが予が都下東京に斯学主張に着手せしの抑の始めである。而して渋沢翁も已に此時よりの関係である。それを明治四十一年十一月より一拡張を試むると云ふので、雑誌
 - 第41巻 p.251 -ページ画像 
の名を改めて陽明学第壱号となし、社名も亦其会となし、此時より翁には特に評議員に列し下され、以て今日に至る。凡そ三十余年、其間事業経営の困難より幾回となく社運の窮厄崩潰を見んとする多々ありしが、いつも翁が其中枢となり、維持に力を添へ下され、已に近年震災の後に於ては、予は殆んど世の津梁済度に疲れ、顧るに亦労して功なく、三十年来斯学の主張が果して其世道人心の拯済に何等貢献をなしたるかを知らず、因て閉社廃刊とまでに内心窃に決せしも、又々翁に策励せられて以て一縷の命脈を継続して、未だに猶吾会の息の根を絶に至らざるものは、此れ全く老翁扶持の力である。然れども翁は正に天下の上流に立ち、万衆の与望を負ひ、其の関係せらるゝ事業固り多く、天下の翁の力によりて以て其業を成し、またはこれを持続し得るものは、屈指に堪へざる程もある筈なれば、今に於て事新しく予等が喋々これを翁の徳として云ふにも及ばざるべし。たゞ予は此に予の老翁との関係に於て、是必予として特に予の一言をなさねばならぬことゝゆふ所以のものは、そは已に前にもゆいたる如く、予の初め斯学の主張を企てたる当時は、天下殆んど一人のその学の何たるかをも知らざるの観ありしの時より、翁の眷顧を得て、自然益々其の信念を強くせられ、以て今日に至るも、其篤信好学は翁は現に已に大老米寿の域にも達せられてをる今にも、猶々其心の已まざるものあるは、且は如何なる理由によるかに在り。
 蓋し翁は最初青年時代より、論語の一書に於ては已に習熟して居られたらしく、また嘗ては官吏として、所謂明治時代の名判官今の大岡越前守は即ち此人として其名高き玉乃世履号五竜を其先輩として居られし時あり。然ども翁は外天下の形勢を洞察し、内これを心に決し、一旦官吏の位より退きて、実業界中に其身を投ぜられたるときは、五竜は頗ぶる其不可を告げ懇留せしも、翁は遂に其言に従われざりきと聞く。此れ抑も日本古来より、人は武士たるべきとして大にこれを尊崇し自然所謂武士道の発達を見るに至るも、実業方面の事を下視し士君子として算盤珠を弾くなどは恥づべきものとなし、随て官尊民卑の風を生じをるの時なるによる。五竜の翁の退官を惜むも其筈である。最も予は翁と別懇を得し後に於て、五竜は予の先人沢瀉翁とは同郷の知人たるの故により嘗て直接翁よりも聞たる事実である。翁の心は必らず曰く、天下国家を治むるの根本は理財である。然るを従来実業の事を以て賤業恥づべきかの如く下視するは日本の弊であると。翁はこうであつたに相違はない。因て翁は論語を以て実業に従事された。此れは予も嘗て翁より論語算盤と云ふ何か帖の如きものを見せられた。それには三島中洲翁の文もあつたかと記臆する。さて翁は決心されて論語算盤で徹首徹尾実行された。所が退いて古来論語を注したる程朱より諸儒の口気を見ると、論語算盤一致とは説て居らない様なので、翁は自らは其主義を実行されつゝも、また其心中の奥底には少なからざるの疑念を存して、困ておられたるものに相違はないと、予は窃に観察するものである。そこに翁が一たび吾が陽明学に関係せらるゝに及んでは、丁度吾陽明学の大主義の一たる所謂道徳事業の一致とゆふ事が、図らずも翁の根本精神と相契合することゝなりたる事より、翁
 - 第41巻 p.252 -ページ画像 
の斯学に篤き情熱を喚起せらるゝに至りたる事とは、予の断言して疑はざる所である。此れ併し乍ら吾陽明学の主義の、孔孟以来数百千歳衆多諸儒の表に卓出せる所以にして、また翁の日増に其学に信仰を強くせられをる所以である。げにや翁は爾来常に予輩などゝ共に斯学を談ずるを以て、無上の楽とせるのみならず。嘗て陽明先生全集の其手に入るに及び、特に予に訓点を命ぜられたにも止らず、進でまた予に其講義を命ぜられ、而して其書の先年震災に焼失するに及んでは、またまた更に全集の別本を求めて、是迄一旦中止せる所の陽明全書講読会(陽明学会の一部事業として翁が嘗て発起せるもの)をも再興されしものゝ如き感服の至である。故に予は嘗て予が著書困記の奥紙にも斯く書きて置いた。
 翁平生行事。世既知之。不必喋々。但今其齢八十四。而好学忘厥事。則人或未知焉。有衛武公之風。
と是である。是時翁八十四、今は翁八十八、即ち米寿と云ふ大老なるにも拘らず、其好学の心は少しも前に異ならない。それが抑も不凡なる翁の世に卓越して、到底今日天下俗輩の企及せられざる所である。因て予は翁を衛の武公に比するは、決して予の誤言ではない。成程講書殊に陽明先生の学説を説には、予も愚者一得の労を呈するを惜まざるも、翁が其身の已に天下大老たるの年を忘れて、予等ごとき後輩のものに、頻々の下問をなし下さるは恐入る。其実予等は唯其説のみ、陽明学の実行は寧ろ翁に在り。予等平生窃に翁に学んで以て我晩年を鞭策せざるべからざるとのみ思ふのである。凡そ斯様の事は今日予に非れば適当の言者もなきかとも思ふゆへ、幸に此度竜門社の依頼により、此に之を一言すと雖も、予等心中の情薀に於ては猶其万分をも竭す能ざるの感あるものである。
   ○次掲ノ「集会日時通知表」ハ陽明会関係事項ノミ抜萃セリ。


集会日時通知表 昭和三年(DK410065k-0006)
第41巻 p.252 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
十月十二日  金 午後二時頃 陽明学講義(事務所)
十一月十二日 月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
十二月十日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)


集会日時通知表 昭和四年(DK410065k-0007)
第41巻 p.252 ページ画像

集会日時通知表 昭和四年        (渋沢子爵家所蔵)
一月十四日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
二月十二日  火 午後二時  陽明学会(事務所)
三月十一日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
六月十日   月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
七月十五日  月 午後二時  陽明会(事務所)
九月十六日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
十月十四日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)


集会日時通知表 昭和五年(DK410065k-0008)
第41巻 p.252-253 ページ画像

集会日時通知表 昭和五年        (渋沢子爵家所蔵)
壱月十三日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
五月十九日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
七月十四日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
 - 第41巻 p.253 -ページ画像 
九月十五日  月 午後二時  陽明会講義会(事務所)
十月十三日  月 午後二時  陽明会議義会(事務所)
十一月十七日 月 午後二時  陽明会講義会(事務所)


集会日時通知表 昭和六年(DK410065k-0009)
第41巻 p.253 ページ画像

集会日時通知表 昭和六年        (渋沢子爵家所蔵)
五月十八日  月 午後二時  陽明会講義会(渋沢事務所)