デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
16款 論語年譜ノ編纂
■綱文

第41巻 p.306-320(DK410079k) ページ画像

大正5年11月26日(1916年)

是ヨリ先、竜門社ハ栄一ノ喜寿祝賀記念事業トシテ「論語年譜」ノ編纂ヲ林泰輔ニ依嘱シ、完成ヲ告グ。是日、東京ノ大倉書店ヨリ、上下二巻二冊トシテ発行セラル。但シ本書ノ著作権ハ竜門社是ヲ所有ス。


■資料

論語年譜 林泰輔編 本扉裏 大正五年一一月刊(DK410079k-0001)
第41巻 p.306 ページ画像

論語年譜 林泰輔編 本扉裏 大正五年一一月刊

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  此書は青淵先生喜寿祝賀記念の為  文学博士林泰輔氏が本社の委嘱に  よりて編纂せられたるものなり             竜門社 




論語年譜 林泰輔編 序 大正五年一一月刊 【論語年譜序 阪谷芳郎謹識】(DK410079k-0002)
第41巻 p.306-307 ページ画像

論語年譜 林泰輔編 序 大正五年一一月刊
    論語年譜序
孔子歿してより玆に二千四百年、論語の成書として世に出でしより亦多くの年所を経たり、然りと雖も千載の下今日に至るまで、世世相伝へて万民の愛読措かざるものあるは何ぞや、蓋し論語は常識を以て理解し得べき尋常平凡の道理を説くに過ぎざる実践倫理の典籍にして、特に幽玄奇抜の思想を蔵するなく、又光彩陸離の文華あるに非ずと雖も、然かも其の説く所は古今を通じ広く万人の服膺して過なきの道を教へたる所謂金科玉条の言なるを以てなり、古人論語一巻以て天下国家を治むべしと謂ひたりし所以亦宜べならずとせず、嗚呼論語の徳豈偉ならずや。
我が青淵先生は平素深く論語を愛読せらるゝと同時に、其所訓を体得して、自己の進退行蔵を之れに合致せしめんが為めに努力せられつゝあり、蓋し先生の目的は自己の修身斉家を完うすると共に、広く社会風気の改善を図り、国民をして真正なる意義に於ける文明の恵沢に浴
 - 第41巻 p.307 -ページ画像 
せしめんと欲するに存し、而して此の目的を達成するに就き、論語の所訓を躬行するの最も有効にして且つ最も根本的なるを確信せらるるを以てなり。
抑も現代社会の人心は甚しく物質的文明の荼毒を受け精神的修養の価値を軽視して、偏に功利の念に執着するの弊を生じたり、之れ国家百年の長計上頗る危険なる徴候にして、社会将来の為め転た寒心に堪へざるなり、而して此の傾向は啻に我が日本に於ける状態のみに止まらず、泰西諸邦に於ても亦た等しく之れを認むる所にして、憂国の士が深く此の弊風矯正に就きて肝胆を砕きつゝあるの事実は、余が今回欧洲大戦に関し命を奉じて仏蘭西に使し、途次列国を巡遊したるの際親しく認識したる所にして、実に人類文明の前途の為め無量の感慨を禁ずる能はざりしなり。
我が青淵先生今年第七十七回の誕辰を迎へらる、積年先生の深厚なる眷顧と指導とに浴したる竜門社員は、先生の寿を祝するが為めに適当なる記念品を作成して、之れを先生に献ぜんとするの儀に就き曾て胥謀る所あり、当時余は其の一案として論語年譜編纂の件を提議し以て衆議に諮れり、蓋し余の所謂論語年譜なるものは、論語の世に現はれし以来、和漢両国を初め其の他諸国に於て該書が如何に翻刻せられ、又た如何に解説せられたるか、或は又た該書の主義と精神とが政治・教育・実業及び其の他各般の問題の上に如何に応用せられたるかの事実を編年的に叙述し、以て一面に於ては論語研究者の為め従来未だ存せざりし斬新たる一種の参考資料を供給すると同時に、他面に於ては論語の精神と効用とを広く世に知らしむるの手段たらしめんとするを目的とするものなれば、青淵先生に於ても必ずや此の挙を嘉せらるべきを信じたるが為めなり、而して余の提案は幸にして評議員会の容るる所となり、乃ち文学博士三上参次・同萩野由之及び同林泰輔の三君に託するに之れが編纂の業を以てし、就中林博士専ら其の事を担任せられたり、爾来十閲月にして初めて稿を脱し、頃者剞劂の功亦た成るを告ぐ、余は此の書の頗る有益なるを疑はざると同時に、喜寿祝賀の記念として、之れを青淵先生に献ずるの洵に好適なるを信ずるものなり、若し夫れ先生竜門社員の微衷を諒とせられ、幸に深き満足を表せらるゝあらば、社員一同の本懐何物か之れに過ぎん。
  大正五年十一月
          竜門社評議員会長
            法学博士 男爵 阪谷芳郎謹識


論語年譜 林泰輔編 例言 大正五年一一月刊(DK410079k-0003)
第41巻 p.307-308 ページ画像

論語年譜 林泰輔編 例言 大正五年一一月刊
    論語年譜
      例言
一本書は、記載の事項を分ちて史実・伝述・鈔写・刊刻の四種とす。史実は、論語に関係せる事実の歴史伝記等に見えたるものを載録し伝述は、論語に就き解釈若しくは評論して述作せしものを載録す。鈔写・刊刻は、別に項目を設けたりと雖も、或は伝述の中に刊刻を附載せしものも亦頗る多し。
 - 第41巻 p.308 -ページ画像 
 これたゞその便宜に従ひたるなり。
一帝王の孔子を拝し、謚号を加へ、子孫を封じ、聖廟を建て、釈奠を行ひ、及び孔子の履歴学術等を論述せしものは、論語と関係あること尠からず、且論語の流行と相待つものなれば之を載録す。
一論語外編及び和論語・女四書の類、論語とその内容全く同じからざれども、その論語の名を冒したるは、畢竟論語流行の形勢を見るべきものなれば亦之を載録す。
○中略
一論語の古版・古鈔本等にて貴重なるものは、その一部分を撮影して附録とす。
一論語の題跋等にて調査上参考となすべきものは、亦これを附録とす
○下略
                        編者識


論語年譜 林泰輔編 目次 大正五年一一月刊(DK410079k-0004)
第41巻 p.308 ページ画像

論語年譜 林泰輔編 目次 大正五年一一月刊
 論語年譜
    目次
  巻上
    序説
     一、孔子の略伝                一
     二、論語の編纂               一〇
     三、周代に於ける論語の影響         一五
     四、漢代以後東西諸国に於ける論語流行の概要 三〇
    本編
     年譜                 自   一
                        至 七八二
  巻下
    附録
     一、写真               自第  一
                        至第 四三
     二、題跋               自   一
                        至  二四
    索引
     書名索引
     人名索引
     論語引用語句索引


論語年譜附録 林泰輔編 論語年譜跋・第一―二頁 大正五年一一月刊(DK410079k-0005)
第41巻 p.308-309 ページ画像

論語年譜附録 林泰輔編 論語年譜跋・第一―二頁 大正五年一一月刊
    論語年譜跋
論語は本邦に伝はれる漢籍の最古きものなり。爾来何時の世にも尊重せられて、政治文教此書の恵に頼ること甚多し。男爵渋沢青淵先生少より此書を尊奉し、進退一に之に依る。遂に論語算盤の説を倡へて、商工業者の智徳を進め、人格を高尚にすることを誨へらる。実業界に論語を鼓吹せるは蓋し先生を以て始とす。
今年先生齢七十七、俗に喜字の寿といふ、竜門社評議員会長法学博士男爵阪谷芳郎君新に論語年譜を編纂して先生の寿を献ぜんとし、文学博士三上参次君と余とに謀らる。余等大に此挙を賛し、諸同人とも詢
 - 第41巻 p.309 -ページ画像 
り、編纂者として文学博士林泰輔君を推薦せり。林博士は漢学界の泰斗にして、嚮に周公と其時代を著して帝国学士院の恩賜賞を受けたる人なり、特に論語につきては論語源流の著あり、研経会に於て発行せる四書現存書目も、亦その編纂せる所なり。されば論語年譜の撰、博士を措きて他に其人あるべしとも思はれざればなり。此に於て阪谷男爵は博士に請ひて編纂の承諾を得たるに、今玆八月稿成り、今又印刷の功をも畢へたり。学会の為には天下未曾有の書の世に出でたるを喜び、青淵先生の寿筵としては、絶好の紀念品を得たるを慶せざるべからず。
抑先生が世界の偉人として今日の盛名を致せるは、論語に負ふ所多く而して他日其志を継ぎて其事を述ぶる者は、竜門社諸子なるべければ此論語年譜は独先生喜寿の紀念たるのみならず、亦以て竜門社前途の隆運を祝福するものといふべし。阪谷男爵一言を徴せらるるにより、聊所思を述べて跋語となす。
  大正五年十一月
                  文学博士 萩野由之

論語年譜附録 林泰輔編 跋・第一―三頁 大正五年一一月刊(DK410079k-0006)
第41巻 p.309-310 ページ画像

論語年譜附録 林泰輔編 跋・第一―三頁 大正五年一一月刊
    跋
男爵渋沢青淵先生、夙に力を実業界に奮ひ、盛名を中外に馳するや久し。先生平素深く論語を崇信し、一言一動皆之に則り、其の後生子弟を指導誘掖せらるゝにも、亦之を以て榘矱となさゞるはなし。今玆丙辰、先生の喜寿に値る。因りて先生門下の組織せる竜門社に於ては、評議員会長法学博士男爵阪谷芳郎君等相謀り、十一月良辰を卜して寿筵を開き、且論語年譜を撰し、之を贈呈して祝賀の意を表せんとし、余にその編纂を委嘱せらる。抑々論語に関する古今の著書は、啻に汗牛充棟のみならざれども、未だ論語の世に出でしより以来の事実を年表的に記載したるものあるを聞かず。然るに今竜門社に於てこの挙あるは、洵に学界の為に賀すべき盛事にして、これ一に先生の此の書を崇信せらるゝ余慶といはざるべからざるなり。余や浅学菲才、敢てその任に当るに足らず。況や余が始めて阪谷男爵よりの交渉に接したるは昨年十月にして、印刷製本等の事を除き、編纂に従事するの日子は僅々十箇月を踰ゆることを得ざるなり。この短日月の間に於て、前古未だ曾て有らざる所の編著を完成せんとするは、聊か不安の感なきこと能はず。是を以て余は頗るその需に応ずることを躊躇したりき。然るに文学博士三上参次・同萩野由之両君の切に勧誘激励せられしにより、遂に之を承諾することゝせり。爾来、文科大学史料編纂官和田英松君・東京高等師範学校教授文学士中村久四郎君・東京高等師範学校講師荻原拡君、その他数氏の助力を乞ひ、孜々矻々之が編纂に従事せしも、奈可せんその年代は二千数百年に亘り、その区域は東西両洋に跨り、事蹟浩繁、茫として烟海の如し、之を調査し之を整理するは、決して容易の業にあらず。而して調査の愈々進むに従ひて、その関係せる事実及び注釈評論せる書籍の愈々多きに驚けり。然るに光陰は矢の如く、忽ち原稿完結の期に到達せしを以て、已むを得ず、一応堆積
 - 第41巻 p.310 -ページ画像 
せる原稿を整理して印刷に付することゝせり。されば、事実の譌謬、記載の遺漏は固より免るゝ能はざる所にして、竜門社委嘱の意に称はず、青淵先生寿筵の献となすに足らざらんことを恐る。然れども今や之を奈何ともすべからず、この蕪雑なる一編を以てその責を塞ぐの外なきなり。冀はくは斯の編を繙く者、その譌漏を指摘して教誨の労を吝むことなくんば、再版の際は必ず之を増訂すべし、これ余が切望して已まざる所なり。印刷既に成る、因りて本書編纂の来歴を述ること此の如し。
  大正五年十一月      文学博士 林泰輔識


論語年譜附録 林泰輔編 奥付 大正五年一一月刊(DK410079k-0007)
第41巻 p.310 ページ画像

論語年譜附録 林泰輔編 奥付 大正五年一一月刊

大正五年十一月十五日印刷(論語年譜奥付) 大正五年十一月廿六日発行 正価金参円八拾銭 著作権所有 印 (竜門社之印) 編纂者 東京市小石川区大塚窪町廿四番地 林泰輔 発行者 東京市日本橋区通一丁目十九番地 大倉保五郎 印刷者 東京市日本橋区兜町二番地 小林武之助 印刷所 東京市日本橋区兜町二番地 東京印刷株式会社 発行所 東京日本橋区通一丁目 大倉書店 電話本局二四〇四・四一四 振替東京二三八番
   ○本書ハ、附録共上下二巻二冊、菊判、装釘茶クロース、背表題金文字、上巻ハ序説三〇頁・本編七八一頁、下巻ハ写真(コロタイプ)四三葉・題跋二四頁・索引一一〇頁。


実験論語処世談 渋沢栄一著 第三七〇―三七三頁 大正一一年一二月刊(DK410079k-0008)
第41巻 p.310-311 ページ画像

実験論語処世談 渋沢栄一著 第三七〇―三七三頁 大正一一年一二月刊
    論語の新研究法
      ○論語年譜を贈らる
  哀公問。弟子孰為好学。孔子対曰。有顔回者。好学。不遷怒。不弐過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好学者也。
  (哀公問ふ、弟子孰れか学を好むと為す。孔子対へて曰く、顔回なる者あり学を好む。怒を遷さず、過ちを弐びせず。不幸短命にして死す、今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり)
 今回から論語の第六編たる雍也編に入り、不相変ポツポツと其処此処の章句を抜萃て、処世の上に私が実験して来た感想を談話するが、玆に掲げた章句は、孔夫子が晩年自分の生国たる魯に帰られてから、当時魯の王様であつた、哀公との間に交換された問答を記載したもので、孔夫子は七十三歳で卒せられたとの事故、この問答は、恐らく孔夫子の卒せらるゝ前一二年頃にあつたものだらうと思はれる。孔夫子の遺された数多い教訓のうちでも、那的言は何んな場合に発せられたもの、這的教は何ういふ場合に臨んで垂れられたもの、というたやうに、能く其間の消息を呑み込んで居れば、同じく論語を読むにしても其章句の意義が一層明瞭に理解せらるゝやうになるだらうと私は思ふ
 - 第41巻 p.311 -ページ画像 
のだが、それに就て一つ申述べて置きたい事がある。私は昨大正五年七十七歳の俗に所謂喜寿を迎へたので、私の一門知己によつて組織せられて居る竜門社の同人間に、私に何か祝賀の意を表するに足る品物を贈りたいとの議が起つた際、同社の評議員会席上で、会長の阪谷男爵から論語年譜を編成して之を贈ることにしては如何かとの提案があつた。処が幸に斯の提案が容れられたので、同男爵は三上参次博士・萩野由之博士とも熟議の結果、現今の学者で最も能く支那の経書に精通して居る人は、東京高等師範学校教授の文学博士林泰輔氏であらうから、同博士に其編纂を委嘱するが可からうといふ事に一決し、竜門社より同博士に愈々之を御頼み致したのである。
      ○文学博士林泰輔氏
 文学博士林泰輔氏は、十年間の歳月を費し周公と其時代に関する研究を遂げ、昨大正五年学士院より恩賜賞を授与された篤学者で、この研究は日本橋の大倉書店から「周公と其時代」なる一書冊となつて発行せられて居るが、竜門社より御依頼した論語年譜の編纂に就いては僅に一年三ケ月ぐらゐの日子で、之を完全に仕上げるのは勿論困難だが、この計画が渋沢の喜寿を祝する為である事を聞かれ、そんなら兎に角引受けて編纂を試みやうとの快諾を与へられ、予定の期日までに首尾よく編纂を結了せられたので、竜門社では更に其の稿本を印刷に附し、昨大正五年十一月二十六日喜寿の祝物として私に該書を贈つてくれたのである。尚ほ林博士の「周公と其時代」を出版した大倉書店では斯の論語年譜をも複製して広く発売して居るが、本文は菊版七百八十二頁、その外に珍しい古るい論語の版本を写真にしたものや、各種版本の題跋を一纏めにしたものを、別に一冊の附録として添へてある。同書の内容は、林博士が謙遜して不完全なものであると申さるゝにも拘らず、実に能く調べあげられたもので、私などは只管驚嘆するばかりだが、和漢洋の三大洲に亘つて年代別に編製し、論語に関係ある、古今一切の著書及び論文の著者と題目とが、挙げて悉く載録せられ、上は本邦の孝元天皇十三年、前漢の高祖五年、西洋の基督紀元二百二年より、下は大正二年、支那の民国四年、西洋紀元一千九百十五年にまで及んで居る。なほ本文の巻頭には史記世家にあるより遥に詳細な孔夫子の伝記をも載せてある。
 私は去る二月三日、林泰輔博士が論語年譜を編纂せられた労に対して謝意を表する為め、特に同博士と会見したが、その際博士は論語年譜の巻頭に載せられた孔夫子の伝記よりも更に一層詳細なる孔夫子伝を編著せられ様とする意のある事を私に漏されたので、私よりは希望として、仮令ば論語の何処其処にある章句は、孔夫子何歳の時に当り斯う斯ういふ場合に莅んで之を発せられたものだといふ事をも、其詳伝の中に是非掲載するやうにして戴きたいものであると申入れ置いたが、林博士も之れには同意を表せられた。然しその研究調査は却々困難であらうとの事であつた。
○下略


竜門雑誌 第三四六号・第四二―五三頁 大正六年三月 ○論語年譜編纂に就て 文学博士 林泰輔(DK410079k-0009)
第41巻 p.311-320 ページ画像

竜門雑誌 第三四六号・第四二―五三頁 大正六年三月
 - 第41巻 p.312 -ページ画像 
      ○論語年譜編纂に就て
                 文学博士 林泰輔
 本篇は、二月二日午後五時より帝国ホテルに於て本社評議員会開会後、論語年譜編纂諸氏慰労会席上に於ける、林文学博士の講演なり
                        (編者識)
 今夕は予て御委嘱に依りまして編纂致しました論語年譜のことに就て何か話をするやうにと云ふことのお求に預りました、一体私は話をすることが極めて不得意でございますが、折角さう云ふお話でありましたから簡単に此論語年譜編纂のことに就て申上げたいと思ひます。
 論語年譜編纂と云ふことに就きましての来歴は、年譜の跋文に書いて置きましたが、一昨年阪谷男爵からお話に預りまして、論語年譜を編纂致すやうにと云ふことでございましたが、何に致せ此論語年譜と云ふやうなものは、従来出来て居りませぬので、是まで無かつた新しい体裁のものを編纂すると云ふことでありますから、余程手の懸かることであらうと思ひますし、それに又其完成するのは、昨年十月までと云ふ先の日限が極つて居りますので、其間にどうしても拵上げなければならぬと申すことでありますから、私のやうな未熟な学問であり又歳月の短いのに、夫だけのものが果して出来るかどうかと云ふことを頗る疑つたのでありますが、併し三上博士・萩野博士、其他からも御勧誘に預りまするし、旁々して到頭お請をすることに致しまして、夫から和田君・中村君、其他の方々の御助力を仰ぎて、十一月よりそれに取り掛つて居りまして、どうか斯うか一通り纏めることは纏めたのであります、併し後から考へて見ると、随分不完全なものであります、後から考へるばかりではありませぬ、其纏めるときに於ても、既に不完全であると云ふことは考へたのでありますが、併しさう何時までも弄つて居ると云ふことは出来ませぬものでありますから、兎に角一応纏めたのであります、それは不完全の点は色々ありますけれども斯う云ふやうなことなどが、先づ第一欠けて居ることの主なるものではないかと思ひます、日本の方のことを調べて見ました所が、鎌倉以後日本の僧侶などで以て、論語を読み、論語の講釈をするとか、論語の解釈ものを書くとか、云ふやうなことが大分あるのです、僧侶の事蹟の論語と関係したものが非常に多い、夫から推して見ると、日本ばかりでなく支那の方にも必ずあると思ひますが、吾々が是まで調べた所、論語年譜に載つて居る中に、支那の僧侶の論語に関係したことが有ることはありますけれども、極く少いのであります、是はもう少し支那の僧侶に関係した書物を調べたら、必ず余程あるだらうと思ひますが、それを調べる暇がなくて、つひ其事に手が届かずにしまひました、其様なことは確かに出版する前から落ちて居ることだらうと思ひます、夫から又例へば沖縄あたりは、日本と支那と両方の関係もありますから、何か論語に関係したことがあるだらうと思ひまして、沖縄に居る人に書面をやつて、問合せをしたり何かしましたけれども、どうも思ふやうな返事が来ませぬで、遂に沖縄で論語を出版したと云ふやうなことは載せませぬでしたが、夫から後に至りまして、沖縄でも明治以前に論語を出版したことがあつたと云ふことを知りました、夫
 - 第41巻 p.313 -ページ画像 
等も確かに漏れて居りますことであります、さう云ふやうな事が幾らもあります、夫から日本の内地でありましても、各地方などを調べて見ますと随分論語に関したことが多いだらうと思ひまして、最初から是は調べる計画で、私は昨年一昨年足利の方へ参りまするし、夫から又京都・奈良・高野・名古屋と云ふやうな地方を調べまして、余程其論語に関する材料を蒐集致したのであります、夫から先づ近県では茨木・栃木・千葉などゝ云ふ地方を調べて見ますと云ふと、沢山一所に纏つて居ると云ふことではありませぬが、例へば水戸の彰考館であるとか千葉県では成田の図書館であるとか、佐倉の中学校であるとか、さう云ふやうな所を調べると、何方にも少しづゝの材料はあるので、それで又私の考では、さう云ふやうな地方へ出張して調べましたら、余程材料があるだらうと思ひます、例へば東北の方では仙台・秋田・青森へ行つて調べるとか、或は又九州・四国へ行つて調べるとかしたならば未だ却々あるだらうと思ひますが、それをさう調べると云ふ時日もございませぬで、さう云ふことも残つたやうな訳であります、併ながら夫はどうも期限が短いことであるし、又吾々共の調べた書物の範囲などゝ云ふことも狭いのでございますから、自然さう云ふことが出来てきたのであつて、是は何れ後で段々追補すると云ふことを致し又間違つたことも段々あるやうに思ひますから、さう云ふことは後で訂正しなければ、到底完全なものは出来ないことであると思ひます、さう云ふやうな訳で、甚だ私が後から考へますと、論語年譜と云ふものは不充分な点が多いものであつて、恥かしい次第であります、けれども是は先づ是まで誰もやつたことのないものを、新規に始めたのであつて、それを僅かばかりの時日で吾々共の致したことであるから、不充分なことは見る人にお宥を願ひ、又違つた所は御注意を戴くと云ふことにして、訂正をすると云ふより、外に致方はないことゝ思ひます。
 尚ほ年譜に載せたる事で日本の方に於きまして、論語がどう云ふ風に行はれたかと云ふことの一斑を申上げて、御参考に致したいと思ひます、我日本に始めて論語の伝つたと云ふのは、応神天皇のときに、百済から論語と千字文を献上したと云ふことは、是はもう極く著はれた事実で、何方も御承知のことで、今更申上げるまでもないこと、又其時分に菟道稚郎子が和邇に就て論語をお学びになつたと云ふことも極めて明かな事実でありますが、併し其後日本に於きまして、支那の文物を輸入したことの最も盛なときは、彼の遣唐使留学生時代で、当時は何でも支那の文物を日本へ輸入しやうと努めた時代であります、其遣唐使留学生の時代は、申すまでもなく支那の方は唐の時代でありますが、唐の時代と云ふものは、支那の歴代即ち論語が出来て、漢から近代の清朝に至るまでの間で、少し趣の変つた時代でありまして、前後になく論語の註釈類のやうなものが少いのであります、唐ほど少い時代はないと云ふやうなことであります、それはどう云ふ訳で支那歴代の中に於て、唐代が論語に関する著述が少いかと申すのでありますが、それは私などの考へた所では、先づ色々な原因があるだらうと思ひますが、唐のときは、南北朝時代の経書の解釈と云ふものが沢山
 - 第41巻 p.314 -ページ画像 
に出来て、多過ぎて困ると云ふやうなことから、唐の始めに官撰で以て五経正義と云ふものを作つて、従来の説を纏めて一の極つた解釈を五経には下したのであります、論語にはさう云ふことはありませぬが五経の解釈を殆どそれに一定したによつて唐代には解釈を書くものが多くはありませぬ、且又南北朝時代の五経の解釈で滅びてしまつたものも沢山あると云ふ次第であります、随て論語も同様の意味に於て、余りそれに余計な註釈は加へぬと云ふやうな風であつたかと思ひます夫から又唐時代は学問は非常に盛な時代でありましたけれども、詩を作り文を書くと云ふやうなことが盛に行はれて、経学と云ふ方はそれだけ盛でないと云ふこともあるやうです、夫から又唐の天子の苗字が李と云ふのでありまして、又老子が姓は李、名は耳、李耳と云ふやうな所から、老子を唐代の先祖と云ふやうなことにして尊んで、随て此老子の学問と云ふものが、唐代には非常に行はれまして、老子の註釈と云ふものは、沢山に唐代にあります、どうも論語などの注釈と云ふものは、それに比すると極めて寥々たるものであります、さう云ふやうな色々の関係から、論語の方は註釈が少いのであらうと思ひますが併し唐の六典などに載つて居る所を見ましても、論語孝経と云ふものは、必ず他の経書を読む者は兼ね通ずるもので、専門と云ふものでなく、共通的に誰でも読むものと云ふやうに、取扱つて居ると云ふことであります、極く普通に読むことになつて居つて、随つて論語は初学者の読むものだと云ふ風の考を持つて居つたやうに見える、杜甫の詩に小児学問止論語などゝ云ふのがあります、どうも論語は小児の学問であると云ふやうに看做されて居る、随て余り註釈などを加へて研究するとか何とか云ふやうな必要もないと云ふことがあつたかも知れない、兎に角唐時代の大体の形勢はさう云ふことであります、日本の遣唐使留学生の往復した時分が、丁度支那の方ではさう云ふ風に論語と云ふものは大変尊重されて居らぬと云ふ時代でありますからあの頃には日本から支那へ参つた留学生が、日本へ帰つて来て頻に論語を尊重するやうなことを唱道すると云ふことは、どうも格別なかつたらしく思ふ、寧ろ夫から後に段々論語を読む人が出来たやうでありますけれども、併し古代に於てはその範囲が余程狭かつたやうに思ひます。
 論語と云ふものが日本へ多く行はれ、多数の人に読まれるやうになつたのは、どうも鎌倉以後位が多いではないかと思ひます、それは今日残つて居る所の論語の古写本と云ふやうなものでは、鎌倉以前のものはございませぬ、鎌倉時代のものは余程ございますが、多くそれ以後でございます、尤も是は時代等の関係があつて、余り古いものは伝はらぬと云ふことがあります、兎に角年譜にも鎌倉時代の現存して居る古写本を四種類ほど写真に撮つて載せて置きました、夫から南北朝時代に有名なる正平版と云ふものが出来ました、是も三四種類載せてありますが、当時は余程行はれたものと思ひます、夫から足利時代になりますと、論語の写本と云ふやうなものが随分多くなつたものと見えまして、今日伝つて居る足利時代の論語の古写本と云ふものは余程沢山ございます、足利時代あたりに論語と云ふものが大分行はれましたのでありますが、其時に世の中に論語を普及するに際して最も力の
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ありましたのは、私は論語抄などゝ云ふものが、余程与つて力があつたらうと思ひます、抄の字は鈔とも書きますが、何方も同じやうに使つたのであります、兎に角論語の筆記で、講義を仮名書で書きましたものであります、其足利時代に出来ました論語抄と云ふものゝ種類が一は清原家の方のものである、清原家は朝廷に仕へて居つた人で、即ち明経道の博士であるから、無論論語の講義などは其職掌であります其清原家の作つたと云ふものが色々ございます、夫からもう一つは僧侶の手に成つたもので、僧侶の講義を筆記したもの、それが又余程ございます、それは詰り仮名書に書きましたものでありますから、其講義をした人自身の書いたものも中にはあるやうでありますが、それを聴いて筆記したものが多い、それは足利時代に何種出来て居るかと云ふことは、極く正確の調べは出来ませぬが、兎に角判つて居りますもので、論語年譜に載せてあるだけでも、十種以上は確かにあるやうでございます、是は極く通俗的に、其時の言葉の通に筆記したもので、論語普及の上には余程効力があつたものと思ひます、夫から徳川時代になりますと、林道春が徳川将軍に信用せられたと云ふやうなことで林家が夫から後に学政を掌ると云ふことになりまして、道春の書きました抄と云ふから道春以後の鵞峰であるとか、鳳岡であるとか皆論語抄を作りました、其他にも論語抄と云ふやうなものを作つた者が大分ございます、其論語抄と云ふものは、詰り足利時代に行はれた清原家若くは僧侶などの手に成つた論語抄と云ふものと同じやうなもので、少し趣を変へたのであります、唯清原家や僧侶の手に出来たものは、皆論語の古註の方でありますが、林家あたりに出来たのは論語の新註の方であります、さう云ふ違はありますが、其書方言方は余程似て居るのであります、其抄と云ふものが徳川の初代には大分行はれましたが、それは初め抄と云つたものが後に国字解・国字弁と云ふやうな名前になりますし、又諺解などゝ云ふ名を附けて居ります、朝鮮の諺文で解釈したものを諺解と云ひますから、それに倣つたものと思ひます兎に角日本の諺解は日本の仮名交り文で書いたもので、内容は大抵抄と同じやうなものでありますが唯名前が違つて居ります、それが又徳川初代に於ては大層広く行はれることになつたと思ひます、国字弁・国字解・諺解、或は俚諺抄、後には経典余師などゝ云ふものもあるやうですが、皆同種類のものであります、さう云ふことが段々盛になつて来て、仮名書の解釈を多くの人に読ませることになり、又仮名でなく漢文で解釈したものも段々出来るやうになつたのであります。
 さう云ふ訳でありますから、私共は一体前には経書の解釈を著はすと云ふことは、主に徳川時代が始めで、足利時代には無いことだらうと思つて居つたですが、段々調べて見ると、徳川以前にも随分抄と云ふものは論語に限りませぬ、他の経書にも多くございまするし、或は詩集・文集若くは歴史と云ふやうなものにも段々あつて、徳川時代になつて色々仮名交りの解釈などが出来たと云ふのは、足利時代にさう云ふ基を為して居つたものが、徳川時代になつて愈々発達したと云ふことのやうであります。
 そこで私は一寸考へて、余程妙に感ずることがあるのでありますが
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此足利時代の古写本若くは古版本などに、奥書をしてあるものが段々ございますが、其奥書を見ますと云ふと色々のことがありますが、其中に秘伝秘説と云ふやうなことが能くある、例へば論語の本文へ訓点を加へ、仮名を附けたりしたものを、人に授けるには、是は余程秘伝であると云ふやうなことにして、決して之を門外に出してはいけぬ、秘中の秘なり、妄に人に示してはならぬと云ふやうなことが書いてあります、経書の解釈などをして、其解釈したものを秘伝として或る人に伝へると云ふことは、支那・朝鮮などには無いやうでありますが、日本にはそれが沢山にある、どうしてさう云ふことがあるかと思ひまするのに、一寸私共の考へました所では、日本で清原家などが明経博士と云ふやうなことで、それを世襲することになつて居りましたから何か其説を人に聴かせる、或は教ふると云ふやうなことであると、それを妄に他の人に伝へさせないと云ふやうな、芸術家が或る芸術を秘伝として伝へると同じやうに扱ふと云ふ所から、自然起つたことではないかと思ひます、併しそれは足利時代のみに止まらずして、清原家などの方では、徳川時代になつても、矢張さう云ふことをやつて居つたものゝやうであります、私は此論語年譜の編纂が既に出来上つてから後でございました、或る書店に論語集解講義と云ふ写本がありまして、それを買つて参りましたら、それは論語の古註の講義をしたものでありますが、其始めに誓約書といふものが載つて居りました、それは藤原実連と云ふ人から、清原家の博士清原親賢と云ふ人に宛てた誓約書であります、其誓約書を見ますと、六七箇条、箇条が列挙してありまして、何でも今般入門して講釈を聴くと云ふ以上は必ず先生の説に背くと云ふことは致さない、背くべからざる事と云ふ箇条がございます、夫から論語を解釈するのに、他人の説若くは新註新説と云ふやうなものは、決して交へてはならぬと云ふやうなことがある、夫から又其説を若し人に伝へる時分に、許可なくして他人に伝授すべからざる事などゝ云ふやうなこともある、詰り清原家の門人となつて、講義を聴くと云ふ以上は、其清原家に背いてはならぬ、許可なくして他人に授けると云ふこともしてはならぬ、と云ふやうな箇条を書いて、誓約書を其先生に宛てゝ出す、それが先づ徳川時代までありました、今の誓約書は寛保元年と云ふ年でありました、寛保元年と申すと云ふと享保・元文・寛保でありますから、徳川吉宗将軍の頃で、余程後であります、併し其時にはもう徳川時代も余程過ぎましたので、一方に於ては、或は伊藤仁斎であるとか、荻生徂徠であるとか、云ふやうな学者が続々出て盛に門生を養つて居るし、講釈を聴くからと云ふて、一一誓約書を取るなどゝ云ふ窮屈のことは無いのみならず、其説も亦旧来の説を守つて居ると云ふことはない、古註でなければならぬとか、新註でなければならぬと云ふこともない、自由に研究をし、自由に意見を発表すると云ふことであつて、余程清原家などゝは違つた遣方をして居るのでありますから、清原家でやるやうな誓約書を出して、決して師匠の教に背いてはならぬなどと云ふやうな、非常に人の思想まで束縛するやうなことは、或る部分に行はれたゞけであつて、一般から申すと其様なことは無くなつてしまつて居ると思ふのです、然るに
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徳川時代になつて、仁斎・徂徠などの学問が盛に行はれるやうになると、学問が余程自由になつて居ると云ふやうでありますが、今の誓約書を出しましたのは寛保元年でありますから、徂徠が亡くなつて十年以上も経過して居る頃に、一方清原家に於て、さう云ふことをして居ると云ふのは、余程時勢に合はぬやうな話でありますが、実際さう云ふことがあつたと見えます、夫等を以て見ますと、足利時代に清原家の講釈をするときにも、さう云ふ事情があつたと推察をされるのであります。
 大体に於てさう云ふやうな傾向でありますが、それで前から後のことをズツと通観して見ますると、私は論語などゝ云ふものゝ行はれる範囲が、極く最初の時でありますと云ふと、宮中あたりに行はれ、縉紳家又は僧侶の間に行はれると云ふやうなことであり、夫から段々中流と云ふやうな所にまで行はれるやうになつて参りましたのでありますけれども、徳川以前の時代に於きまして、論語などの行はれる範囲と云ふものは、どうも上流・中流位の所であつて、其以下の下流と云ふ方の人にまで行はれるに至らなかつたと思ひます、勿論足利時代でも随分平民で論語を読むと云ふ者が、絶対に無い訳ではありませぬけれども、先づ少くして兎に角上の方の人が読むと云ふことであつた、夫から普通の人と違つては僧侶などの間に行はれることが多かつたやうでありますが、中流以上僧侶と云ふやうな範囲に行はれることが多かつたと思ひます、ところが徳川以後になりますと、もう仁斎とか徂徠とか云ふ人が漢学を唱道し、門生を養ふと同時に、其他にも続々として儒者と云ふ者が、江戸は申すに及ばず、各藩各地方に沢山に出ましたのでありますから、さう云ふ各藩各地方に居る儒者などゝ云ふ者は、必ずしも士族にのみ教ふると云ふことでなく、矢張平民にも教ふることになつて、平民の間に随分論語を読むことが行はれることになつたのであらうと思ひます、夫から明治以後になりましては、一時漢学の余程衰頽した時期もありまして、論語などは古臭いものであると云ふやうなことで、或る部分からは排斥されるやうなことが無いでもありませぬでしたが、併ながら明治以後になりましても、論語を読むと云ふ者は随分多かつた、或は彼の論語年譜に採収した所の材料に依りましても、論語の出版と云ふものが、非常に明治以後に出て居る、論語の本文若くは朱子の集註と云ふ位のものを翻刻したものや、夫から又論語に解釈を加へたと云ふものが明治以後に出来たものが、非常に多い、夫等を以て見ますと、明治以後も随分論語と云ふものは広く行はれたものである、尤も明治以後になりますと、明治以前の寺小屋で論語を素読すると云つたやうなことは多くありませぬから、さう云ふ点は少いかも知れませぬが、仮名で書いた所の論語講義類のものを読むと云ふものは、明治以前よりも明治以後の方が寧ろ多いのではないかと思ひます、それで前には上流・中流と云ふやうな所に主に行はれたが、徳川時代から明治以後となつては、余程其範囲が広くなりまして、種々の方面に論語が流行することになつたと思ひます、さう云ふ大体の上から見ますると、昔は教育と云ふものは、もう中流以上のものでなければ受けないと云ふ位のもので、極く極く下等の平民など
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は何も知らないと云ふやうなことでありましたが、世の中が開けるに従つて、教育は窮郷僻陬にまで及んで、一般の人が書を読み字を習ふと云ふやうになつたのでありますが、論語などの広がる範囲も昔は上の方だけであつたものが、世の開けるに従つて段々範囲が広くなつて一般の人が誰でも読むと云ふやうなことに段々なつて来るであらう、又さうなければならぬことゝ思ひます、それに就て考へますと云ふと青淵先生が実業界に論語を鼓吹すると云ふことは、矢張自然の趨勢に従つたるお考であつて、実業社会でございましても、さう云ふものを読むと云ふ人が、段々多くなると云ふことは、最も結構なことであります、併し自然の趨勢と云つた所で、それを自然の趨勢に任せて置いたでは、却て効果が現はれませぬ、青淵先生のやうなお方が、之を指導奨励して下さると云ふと、一層其効果が現はれると思ふのであります、併し私は此論語と云ふものが、一体広く行はれるやうになつたのは、どう云ふ訳であるかと申しますと、論語と云ふものが決して深遠高妙の理論を述べたものでなくして、実践的なこと、極く常識的なことで、何れの方面何れの身分の人でも応用することが出来るのでありますから、自然広く行はれるやうになつたのでありませう、是から後も益々其方面を広めて、職業・身分の何たるを論ぜず、総て人が論語を読むと云ふことになるやうにしたいと思ひます、論語は六ケ敷い理窟を述べたもので、或る部分の学者の研究と云ふやうなものでなくして、官吏・軍人・実業家、或は芸術家・労働者、如何なる人でも、論語を読んで大きく使へば大きく効用があるし、小さく使へば小さく効用を為すと云ふものでありますから、何れの方面にも段々行はれるやうに致したいと思ひます、さう云ふことになりますのには、矢張社会に勢力のある位地に居る者が、之を唱道するとか指導するとか云ふことでなければ、各種の方面に行はれると云ふことは出来ないのでありますから、此竜門社のお方々のやうな、社会に有力な地位を占めて居られるお方が、さう云ふことを指導奨励なすつて下さると云ふことであれば、特に実業界ばかりでなく、其他の社会にも段々拡まることになるだらうと思ひます。
 最初に申上げやうと思つて、つひ落しましたのでありますが、論語の註釈評論類、翻刻類と云ふやうなものを、初の序説の所で、殆ど三千に垂んとすと云ふことを、私は書いて置いたのでありますが、あれは実は最初の計画では、それを統計を取りまして、論語に関する著述が日本にはどれ程、支那にはどれ程出来て居る、朝鮮・安南はどれ程西洋はどれ程あると云ふことを、委しく載せる積りでありましたが、其の統計を取りますのには、索引を作ります為にカードに取りますから、其のカードに依つて調べて統計を取る積りでありました、ところが索引が段々後れてしまひまして、遂に其の統計を取つて初めの序説の所へ載せることが出来ずにつひ概略の見込を以て、殆ど三千に垂んとすると云ふことで書いて、夫から出版が済みましてから後に、カードを又算へ直して統計を取つたのであります、それを今日持参しやうと思つて、つひ忘れて参りましたが、其の統計に依りますと、支那・日本、夫から安南・朝鮮・蒙古・西洋といふ所を総て合せますと、何
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でも論語の註釈評論若くは孔子の伝記などゝ云ふやうなものを書いた所のものが二千四百あまりになつて居るのであります、それは唯論語の本文を翻刻したとか、朱子の註を翻刻したとか云ふだけのものは、算へることが出来ませぬから除いたのであります、それを除いて二千四百あまりになりますから、夫等のものまで算へると、恐くは三千を超ゆるであらうかと思ひます、殆ど三千に垂んとすと書きましたのは凡そその見込で書きましたけれども、余り間違つては居らないのであります、此の如く広い範囲に行はれ、多くの人に論語が読まれたと云ふことも、矢張最初申しました通、極く普通的常識的のもので、決して深遠高妙の理論で研究しなければ解らぬと云ふ方でなく、誰にも解り誰にも役に立つと云ふ風のものであるから、自然さう広く行はれるやうになつたであらうと思ひますからして、それを今後も益々拡張して、各種の方面に行はれることになるやうに致したいと希望致します甚だ詰らぬことを申上げて恐縮に存じます(拍手)

      ○阪谷男爵の挨拶
 青淵先生閣下並に諸君、今夕は竜門社評議員申合せまして、青淵先生並に論語年譜の編纂に就て御尽力下された林博士其他のお方を御招待申上げましたのでございます、此論語年譜編纂のことは、各位の御承知あらせらるゝ如くに、我竜門社の青淵先生七十七の御誕辰のお祝の記念として、竜門社員一同より、何か特に意を用ゐたものを差上げたいと云ふ相談の結果と致しまして、色々評議の末、予て論語のことに深き趣味を有して居られる青淵先生の七十七のお祝物としては、何か論語に縁んだものが宜からうと云ふことから、遂に論語の年譜或は一代記、論語が現はれ出てから今日までの一代記と云ふやうなものを作つて差上げたら宜からうと云ふことで、萩野・三上両博士に御相談しまして、又両博士の御紹介に依つて、林博士其他の方々の御賛同を得まして、甚だ時日が切迫致して居るにも拘らず、極めて御懇切に、極めて正確に、又極めて細密に、非常なる御熱心を以て、此事業を成功せられましたのでございます、林博士其他の方々のお話に依りますとどうも未だ不備の点があつて、甚だ遺憾であると云ふお言葉でございますが、吾々と致しましては、非常にそれは御謙遜に過ぎたお言葉と感じますのであります、勿論斯う云ふ三千年に亘る事実の著述と云ふものが、却々一朝にして完全を得ると云ふことは、何人と雖も之を期することは出来ぬことでございますし、又多少博士其他諸君の御研究の結果として補ひを要する点も出ませうと考へますが、それは又段段と増補して行くべきことであらうと思ひます、兎に角此種類の著述と致しましては、破天荒のものであらうと思ひまして、吾々竜門社員一同は大に喜びました次第でございます、之を先日青淵先生に献上致しました所が、是亦非常な満足を以て吾々に対して御挨拶がありましたのでございます、竜門社評議員一同は、社員の総体に対し、又先生に対し、斯かる紀念品の出来上りましたことを深く感謝致します次第でございます、聊か感謝の意を表する為に、玆に一同会しまして青淵先生並に林博士其他の諸君に御出席を願ひました所が、皆お繰合せ御
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出席下されましたことを深く感謝致します、但し萩野博士は先日来御病気で寔に残念であるが、今日は出席致し兼ると云ふお断りでありますのは、甚だ遺憾に思ひまするが、其他の諸君は何れもお出を戴きましたことを洵に満足に存じますのであります、只今宴の終りました後に、林博士其他の方々から御編纂のことに就てお話を戴き、又何かお気付の御所感でもございますれば、お述を戴きまして、又それに就て色々な批評論評が、青淵先生其他の諸君から出ますことを希望致します、此処には竜門社評議員を代表致しまして、私が評議員会長の席を汚して居りますので、特に満腹の誠意を以て御礼を申上げますのであります(拍手)、青淵先生始め来賓各位の御健康を祝します。(起立乾盃)



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正八年(DK410079k-0010)
第41巻 p.320 ページ画像

渋沢栄一日記 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
五月十二日 曇 暖
○上略 九時爪哇人郭春秧及山下堤林数衛二氏来話ス、郭氏ト孔子教ノ事ヲ談シ、論語年譜、同語由其他ノ書類ヲ交付ス ○下略