公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第41巻 p.354-360(DK410088k) ページ画像
大正11年12月(1922年)
是ヨリ先、大正四年六月ヨリ同十一年九月ニ至ル間、実業之世界社ハ、栄一ノ論語ニ関スル口話ヲ筆記シ、雑誌「実業之世界」ヘ連載ス。
是月同社ハ、右筆録ヲ合集シ「実験論語処世談」(全一冊)ト題シテ発行ス。
実験論語処世談 渋沢栄一著 前付 大正一一年一二月四版刊(DK410088k-0001)
第41巻 p.354-355 ページ画像
実験論語処世談 渋沢栄一著 前付 大正一一年一二月四版刊
「実験論語処世談」刊行に就て
本書は大正四年六月より大正十一年九月まで、約八年間に亘つて子爵渋沢栄一閣下が毎月二回もしくば、一回づゝ物語られたる直話を纏めて一冊としたものであります。子爵は人も知る如く論語の熱心なる
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愛読者、孔子の崇拝者で、明治六年退官の際に今後は論語の訓へを基として実業界に立たんと明言され、爾来数十年の行動は全く其範を出ないのであります。
世には所謂論語読みの論語知らずの多い中に、学者ならぬ子爵が論語の実践躬行者であるのは実に敬服の外はないと思ひます。故に本書は論語によつて行動された子爵の実験処世談であり、一面に於ては子爵自身の言行録とも言ひ得るのであります。又子爵は自身の行動と共に明治大正より遡つて維新前迄も自身の接した諸方面の人々の性格行動をも論語によつて、頗る忌憚なく、批評せられてをりますから、読者は自己の修養に資する所あると共に、当年の歴史をも併せ知るべく其間には面白い逸話も少くないのであります。此点に於て本書は世上流布の無味乾燥な道学先生の論語講義とは全く其選を異にしてをります。
また、本書は、実に、論語より観たる明治・大正の社会史・政治・思想史と言つてもいゝのであります。
今や社会の思潮混沌として人心の帰趨に迷ふ時、本書の刊行あるは正に思想界に於ける好個の清涼剤であり羅針盤でなければなりません学校・諸官衙・図書館・銀行・会社・商店等を初め一般家庭の読物としても上乗の物である事を確信します。
日本全国の家庭に、ことごとく、本書の備へつけを希望いたします
実験論語処世談 渋沢栄一著 第八五五―八五八頁 大正一一年一二月四版刊 【実験論語処世談の発刊について 野依秀一[野依秀市]】(DK410088k-0002)
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。
実験論語処世談 渋沢栄一著 奥付 大正一一年一二月四版刊(DK410088k-0003)
第41巻 p.357 ページ画像
実験論語処世談 渋沢栄一著 奥付 大正一一年一二月四版刊
渋沢栄一 日記 大正四年(DK410088k-0004)
第41巻 p.357 ページ画像
渋沢栄一日記 大正四年 (渋沢子爵家所蔵)
五月廿一日 曇
○上略 青柳有美氏来リ、論語ニ関スル意見及学説ニ付テ種々ノ談話ヲ為ス ○下略
○以下「栄一日記」ハ論語ニ関スル事項ノミ抜萃セリ。
六月七日 雨
午前七時起床、入浴朝飧畢リテ青柳有美氏来リ、論語ノ章句ニ付意見ヲ述フ、并テ内事ニ関スル説明ヲ為シテ誤解ヲナカラシム ○下略
六月廿一日 晴
○上略 青柳有美氏ハ《(ニ)》論語ノ講話ヲ為ス ○下略
七月六日 晴
○上略 青柳有美氏来リ、論語処世談ヲ為ス ○下略
七月十八日 晴
○上略 青柳有美氏来、論語処世談ヲ為ス ○下略
八月十四日 曇
○上略 青柳有美氏来リテ処世《(談脱)》ヲ為ス ○下略
九月十六日 曇
○上略 青柳有美氏来リ、論語処世談ヲ講話ス ○下略
十月十七日 雨
○上略 青柳猛氏来リ、論語処世談ヲ為ス ○下略
渋沢栄一 日記 大正六年(DK410088k-0005)
第41巻 p.357 ページ画像
渋沢栄一日記 大正六年 (渋沢子爵家所蔵)
一月十五日 晴 寒
○上略 青柳有美氏来リ、論語ニ関スル談話ノ筆記ヲ朗読ス ○下略
二月六日 晴 寒
青柳有美氏来リ、論語ヲ講義ス ○下略
三月八日 晴 寒
○上略 青柳有美氏来リ、論語処世談ヲ為ス ○下略
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渋沢栄一 日記 大正七年(DK410088k-0006)
第41巻 p.358 ページ画像
渋沢栄一 日記 大正七年 (渋沢子爵家所蔵)
二月四日 晴 寒
○上略 八時青柳有美氏来リ、論語処世談ヲ為ス ○下略
二月十六日 曇 風強クシテ寒威昨日ヨリ加フルヲ覚フ
○上略 青柳有美氏来リ、論語処世談ヲ為ス ○下略
三月九日 晴
○上略 青柳有美氏来リ、論語処世談ヲ為ス ○下略
渋沢栄一 日記 大正八年(DK410088k-0007)
第41巻 p.358 ページ画像
渋沢栄一日記 大正八年 (渋沢子爵家所蔵)
二月七日 晴 寒
○上略 青柳有美氏来リ、実験論語ノ講話ヲ為ス ○下略
七月四日 曇雨 冷
○上略 青柳有美氏ノ来訪ニ接ス ○下略
八月五日 晴 暑
○上略 武井文夫氏ノ来訪ニ接ス、実業之世界ニ於テ従来実験論語処世談ヲ掲載シ来リシカ、記者青柳有美氏病気ニ付其継続ニ関シテ来請スル為メナリ、依テ相当ノ記者アラハ引続キ談話ヲ継続スヘキコトヲ約ス
○下略
八月十六日 曇 冷
○上略 実業之世界社星野筑州外一人来リ、実験論語処世談ヲ為ス、蓋シ雑誌ニ記載スル為メナリ、元来此実験論語談ハ数年来経続シタルモ、過日来其記者たりし青柳有美氏病気ニ付、将来之事を武井氏より申出候為メ玆ニ星野筑州及後藤と申速記者引続き来訪之筈
○下略
渋沢栄一 日記 大正九年(DK410088k-0008)
第41巻 p.358 ページ画像
渋沢栄一日記 大正九年 (渋沢子爵家所蔵)
一月九日 晴 寒
○上略 実業世界記者後藤氏来《(之脱)》リ、実験論語ノ講義ヲ為ス ○下略
二月十五日 雪 厳寒
○上略 後藤登喜男氏来リ、実験論語ノ講演ヲ為ス ○下略
渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK410088k-0009)
第41巻 p.358 ページ画像
渋沢栄一日記 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
三月十八日 晴 寒
○上略 小貫修一郎氏来ル、論語処世談修正ノ為ナリ ○下略
三月二十一日 曇 寒
○上略 実業之世界社小貫氏来リ、実験論語処世談ノ修正ニ従事ス ○下略
渋沢栄一 日記 大正一二年(DK410088k-0010)
第41巻 p.358 ページ画像
渋沢栄一日記 大正一二年 (渋沢子爵家所蔵)
二月二十八日 晴 寒
○上略 実業之世界社員金野氏来リテ論語ヲ講義ス、蓋シ従来ノ継続事ナリ ○下略
竜門雑誌 第四一六号・第六〇頁 大正一二年一月 ○青淵先生と論語(DK410088k-0011)
第41巻 p.358-359 ページ画像
竜門雑誌 第四一六号・第六〇頁 大正一二年一月
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○青淵先生と論語 左は十二月廿五日○大正一一年 の中外商業新報誌上中外春秋欄に掲載せられたるものなり。
△何加 に巧に書かれた書や画でも、其揮毫者が人格の卑しき者なれば之を壁上に掲ぐるの勇気は出ない、如何に面白い書物でも其著者の人格が疑はしき時は之を読むの勇気は起らない、勿論人格は自然に其書や画や文章の上にも現るゝものだから、如何はしき人格の人に真に巧妙な書や画や文章の書ける筈はないが、偶には一見素人を驚かす底のものがないでもない、油断すべからずだ△青淵渋沢子爵は論語の愛読者であり実践躬行者である、其日常の言行が凡て論語の教訓に由るのみならず、其関係する事業の上にも之を応用する所に子爵の人格を見るべきである、社会は此老子爵の隠退を許さず何事ぞと云へば即ち引つ張り出して代表せしめざれば止まざる所以である、而して子爵に実践論語処世談の著ある洵に所以あるかなだ論語の実践躬行談を著し得る人は現代子爵以外一人もあるまい△縦令 似て非なる事を書き得る人ありとするも世人が争ふて読むだけの勇気を喚起することは出来ない、又仮令読むだ所で格別の感興も利益も与へまい、子爵の著は即ち然らず、子爵にして始めて此著あり、子爵の著にして始めて読むべしだ。云々(是空)
竜門雑誌 第四二九号・第六五―六六頁 大正一三年六月 ○渋沢翁と論語(DK410088k-0012)
第41巻 p.359-360 ページ画像
竜門雑誌 第四二九号・第六五―六六頁 大正一三年六月
○渋沢翁と論語
本篇は昨年八月廿八日発行の国民新聞に掲載せられたる、同新聞社長徳富蘇峰氏の修史余筆より転載せるものなり(編者識)
此頃実業之世界社より『実験論語処世談』を贈り来つた、此れは云ふ迄もなく、渋沢子爵の口述を筆記したもの、論語の講義と云ふも其実は論語の章節を題目として、渋沢翁が六十年間に亘りたる、其の胸中の塁塊を吐き出したもの也。
予は此書には初見であるが、其の内容は――悉くとは申さないが略ぼ承知してゐる、そは雑誌に掲載せらるゝ毎に愛読したから。老人の談話は、塩煎餅を噛む如く、歯にも答へず、腹にもたまらぬが中々味ひがある。特に渋沢老人の如き歴史付と云はんよりも、歴史其物の談話は面白い、渋沢翁は懸値なき所が歴史だ、正札付の歴史だ。
翁は維新以前の壮士だ、一橋家の家来だ、翁の奔走したる時代には日本では、一橋中納言――徳川慶喜公の舞台だ、欧洲では奈翁三世の舞台だ、翁は幕命を啣んで、中納言の令弟徳川民部大輔の随行者として洋行した、帰り来れば世局一変、幕府倒れて新政府は出で来つた、所謂る楚材晋用で、新知識たる渋沢君は余儀なく明治政府の為めに用ひられた、然もやがて官を罷めて商人となつた、所謂る士族の商法者としては、渋沢翁は第一であり、成功者としても第一である、然も翁は実業界の大元老ではあるが三井・岩崎・安田と云ふが如き金持連中の列には入つてゐない、此れは何故である乎、商人となりて、余りに金持とならぬ所に、渋沢翁の本領がある、此れは翁が論語を読んだが為であらう、若し渋沢翁から論語を取り除けたらば翁は大金持となる乎、或は今少しく大金持の仲間に接近したであらう、翁を知る者も論
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語、翁を罪する者も論語とは此事であらう、論語なる哉
論語の講義は必らずしも渋沢翁を待たぬ、されど其講義中の実験談に至りては何晏でも皇侃でも、朱子でも、近くは我が物徂徠でも亀井昭陽でも、到底渋沢翁には敵しまい、何となれば彼等は渋沢翁程の閲歴と経験とを持たぬからだ、此書の特色は此処にある、兎角渋沢翁は円満居士であり過ぎる、然るに此書に限り、随分思ひ切り其の所見を開陳してゐる、而して論語の講義に、伊藤・井上・大隈は勿論、大倉喜八郎・浅野総一郎・大川平三郎・山下亀三郎・野依秀一等の諸氏迄出で来るに於ては、地下の孔夫子も恐らくは面喰はざるを得まい。
予は悉く渋沢翁の所見に裏書せんとするものではない、併し若し翁の本色を知らんと欲せば、此書より善きはない、他日翁の言行録を作る人あらば、必らず其の資料を此に求むるであらう、若し渋沢翁を貧乏(比較的に)ならしめたのが論語ならば、不朽ならしめたのも論語でなければならぬ。