デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
18款 栄一ノ論語ニ関スル講演談話ヲ編集セルモノ 4. 論語講義
■綱文

第41巻 p.360-370(DK410089k) ページ画像

大正14年10月23日(1925年)

是ヨリ先大正十二年四月、二松学舎ニ於テ講義録ヲ発刊、栄一論語講義ヲ担当シ、ソノ口話筆記ヲ連載シ、是年九月ニ至リ完了ス。

是日二松学舎出版部ヨリ、右筆記ヲ合冊シ「論語講義」(乾坤二巻二冊)ト題シテ発行ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一二年(DK410089k-0001)
第41巻 p.360 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 曇 軽暖
○上略 午飧後三島復氏来リ、論語講義ニ関スル原稿ノ事ヲ談ス ○下略
  ○中略。
二月二十五日 曇 寒
午前七時半起床入浴シテ朝飧ス、尾立維孝氏来リ、二松学舎ニテ発行スル論語講義編成ノ事ヲ談話ス ○下略


二松学舎概覧 第三頁刊(DK410089k-0002)
第41巻 p.360 ページ画像

二松学舎概覧  第三頁刊
同○大正十二年四月二松学舎講義録ヲ発行ス


(尾立維孝)書翰 渋沢栄一宛 大正一三年八月九日(DK410089k-0003)
第41巻 p.360-361 ページ画像

(尾立維孝)書翰  渋沢栄一宛 大正一三年八月九日(渋沢子爵家所蔵)
             (別筆朱書)
             大正十三年八月九日 尾立維孝氏来状
拝啓今年之暑気ハ殊之外厳敷御座候処益御機嫌能明日は伊香保へ御越被遊候趣御清遊奉祈候、先日御下命之論語講義第十四号原稿浄写差上申候、御高覧御加筆奉願候
猶又先般御尊覧之上表紙ニ御記入被下候学孫録三島美代子ニ於而中洲先生と桂氏との問答(各自筆)書有之ニ付、之を記載致呉よと其後申出有之一見仕候ニ、涙の下る程の御文学孫説も御記載有之逸すべからさる文字と奉存候間之を収録する事ニ致候、就てハ第一章沿革、第二章
 - 第41巻 p.361 -ページ画像 
本件処分始末ニ分類し、目下美代子旅行先岡山県の実家ニ而浄写中ニ御座候(此録ハ広く示すへき書ニあらさるを以て他人ニ書かしめす美代子ニ浄写を托し候)間不日出来可申候、出来之上ハ小生の名を以て伊香保御旅館ヘ御送上可仕候間御尊覧奉願上候、二本浄写、一本ハ御手許ヘ献上、一本は学舎ニ保存之積リニ御座候、就而ハ巻末に御高見御一言御記入被成下間敷哉願上候、先は右申上候 恐々謹言
  八月九日夜
                     尾立維孝
    渋沢子爵
       閣下


渋沢栄一書翰 尾立維孝宛 大正一三年八月一三日(DK410089k-0004)
第41巻 p.361 ページ画像

渋沢栄一書翰 尾立維孝宛 大正一三年八月一三日   (渋沢子爵家所蔵)
         (別筆朱書)
         大正十三年八月十三日付尾立維孝氏宛総長親書写
残炎未退候得共賢台益御清適之条奉賀候、老生爾来異状なく当地ニ避暑罷在候御省念可被下候、貴方再度之尊翰一ハ王子拙宅にて落手、一ハ一昨日当香山客舎に於て拝接、前後詳細に来示拝承仕候
論語講義原稿之事ハ乍例修正延引いたし、出版之御差支と存候未来ニ存する印刷物に付、縦令自己の執筆に無之とも其要旨丈承知致し、万一全然削除を希望候場合も有之候ハヽ修正之余地御与へ被下度、もしも時日遷延して発刊に差支候様なれハ其原稿に意見を加へ置きて他日之証といたし度ものに御座候、但老生手許に相廻居候ハ十三号より二十号迄に候、而して一覧を経たるハ十三四五号に候も全部とハ難申上候、此辺是迄充分ニ御協議を経さるに付書中特ニ申上候、御熟考之上恰好之方法御案出御垂示被下度候
○中略
  大正十三年八月十三日
                       渋沢栄一
    尾立維孝様
        拝復
○下略


(尾立維孝)書翰 渋沢栄一宛 大正一三年九月二六日(DK410089k-0005)
第41巻 p.361-362 ページ画像

(尾立維孝)書翰  渋沢栄一宛 大正一三年九月二六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
            (別筆朱書)
            大正十三年九月二十六日 尾立維孝氏来状
拝陳、別紙御講義ニ対スル感謝ノ書状到来ニ付、供高覧候也
  大正十三年九月廿六日
                      尾立維孝
    子爵渋沢舎長殿
          閣下
 尚々申上候、論語郷党篇ノ講義筆記出来ニ付、一両日中ニ差上度、此篇ニ就テハ是迄御講義無之ニ依リ、御一覧ノ上御加筆至急御願申度也
(別紙)
拝啓 貴舎各位の御奮闘努力に依て益々御隆盛慶賀至極に存じます、
 - 第41巻 p.362 -ページ画像 
小生貴舎御発行の漢学講義録初刊以来引続き拝読致して居ります、講師諸君の御講義も他の学校と異り営業的でなく、真摯なる御態度を以て執筆せらるゝのは実に感謝に堪へませぬ
就中
渋沢子爵閣下の御講義は至誠紙上に溢れ、豊富なる実例を惜気なく御教示被下、活物教育の最大雄編に心得へ《(衍カ)》老子爵に対し感謝低頭傾聴致して居ります、此の講語講義のみにても田舎の者に取つては容易に接近し得ざる金科玉条と存じます
明年三月迄に完了せさる時は増刊せられても老子爵御在世中に完結せらるゝ様切に御願申上げます、如何に御壮健なる老子爵と雖も最早御高齢の事故、国家の為め御長生は何人と雖も渇望する処なるも何時御他界せらるとも難計、此を思へは一日も安心すべきものでは御座りませぬ、一日も速かに増刊御計画御発表被下度御願申上候、如斯事を田舎者が杞憂するに不及とは思いますが為念御伺申上げます、又他の講師諸君の御講義も明年三月迄に完結する様増刊被下度、講読料の増加の如きは実に些々たる事と思います、右御多忙中御伺申上甚だ失礼とは存じ候得共御意見御伺致候 敬具
                     前島丈之助
    出版部長尾立維孝先生 侍史


(尾立維孝)書翰 渋沢栄一宛 大正一四年四月二七日(DK410089k-0006)
第41巻 p.362 ページ画像

(尾立維孝)書翰  渋沢栄一宛 大正一四年四月二七日
                     (渋沢子爵家所蔵)
        (別筆朱書)
        大正十四年四月二十七日 尾立維孝氏来状
拝啓、御病候如何被為渡候哉、先般両度拝問申上候へ共不得拝顔ニ付玆ニ一書を呈申候
去る廿五日評議員会開催、大正十三年度収支決算並ニ十四年度予算全会一致を以て可決ニ相成候間御安心可被成下候、此旨御報告申上候
次ニ論語講義満講ニ近き申候、就而は講義の終りに閣下之御高作詩一首を載せ度奉存候、御静養中恐入候へ共絶句一首御作り被成下間敷哉猶御墨蹟を其まゝ石版摺ニ致度候間其御作を御揮毫奉願度候、紙幅は講義録と同一の幅ニ願上度候故ニ細字ニ御揮毫奉願候
講義録第二十六号今日別封指上申候、三十号ニて完結ニ御坐候、時令折角御自玉奉祈候 恐々謹言
  四月廿七日
                      尾立維孝
    渋沢子爵閣下
         侍史
  ○右講義録ニ栄一揮毫ノ絶句掲載ナキハ病気ノ為メ果サザリシカ。


二松学舎六十年史要 国分三亥編 第一一八頁 昭和一二年一二月刊(DK410089k-0007)
第41巻 p.362 ページ画像

二松学舎六十年史要 国分三亥編 第一一八頁 昭和一二年一二月刊
 ○第二篇 第二章 財団法人二松学舎時代
 十一月二十一日○大正一四年、天皇皇后両陛下・摂政宮同妃両殿下・秩父宮殿下・高松宮殿下へ、論語講義、各壱部を献上す。

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論語講義乾 渋沢栄一口話 尾立維孝筆述 第一―一一頁 大正一四年一〇月刊(DK410089k-0008)
第41巻 p.363-369 ページ画像

論語講義乾  渋沢栄一口話 尾立維孝筆述 第一―一一頁 大正一四年一〇月刊
  論語講義巻之一
           二松学舎長 子爵渋沢栄一口話
           二松学舎教授 尾立維孝筆述
    論語総説
論語の名は漢書芸文志に云く。論語は孔子が弟子や時人に応答し。及び弟子相与に言ふて夫子に接聞せし語なりと。則ち論語は後世の祖録語録・問答録の如きものなり。但し書中に此の外孔子の平生の起居動静若くは処世の方法手段を詳記したれば、孔子の言行録と見るも亦可なり。我邦の石川竹厓曰く。論は議なり説なり。紬繹討論するなり。語は午なり。言交午するなり。説文論難答述なり。其書に名くるの義は語の字を主となす。凡べて言の以て教となすべき者は。皆之を語と謂ふ。夫子平生門人弟子と言ふは。皆先王の道を語る所以なり。故に之を名づけて語と曰ふ。此の他。国語・家語・新語の如き。其義相同じ思ふに我邦の源語・平語又は勢語の如きも蓋し此意ならむ。論語を編輯せしは、何人なるや。程子曰く。論語の書は有子・曾子の門人に成る。故に其書独り二子のみ子を以て尊称すと。佐藤一斎翁曰く。論語の書は誰の編次する所なるを知らず。三島中洲先生曰く。論語の編次は戦国の末に成ると。其説に曰く。孟子の学ぶを願ふ所は独り夫子に在り。而して孟子の書七篇中に詩を引き書を引くこと一にして足らず然るに未だ嘗て論語を引かざるは何ぞや。又たゞに孟子が引用せざるのみならず。戦国間の諸子を挙げて、未だ嘗て一語も之に及ばず。乃ち知る。孟子の時はたゞ其語を伝聞するのみにて。論語はなほ未だ編を成さざりしなり。苟くも其書あらば、孟子豈に読まざるを得んや。蓋し戦国の末。嘗て夫子を推尊する者ありて。以為らく。聖を去ること漸く遠く。遺書佚するに幾し。今に及んで之を輯めざれば。恐らくは遂に泯滅せんと。是の時夫子門人の子孫の四方に散在する者、猶能く其祖先の筆記する所を蔵し、或ものは三四簡。或ものは五六策あり是に於て多方面を探索し、彼処に於て若干を得。此処に於て若干を得遂に裒集して編を成す。論語是れなり。但し其人の誰なるやは知り難し。中洲先生の説蓋し其当を得たりと謂ふべし。
論語の我邦に伝来せしは、応神天皇の十六年に。百済今の朝鮮の王仁来りて論語十巻を献ず。皇太子稚郎子就て之を学ぶ。皇国の論語学あるは此に始まる。文武天皇大宝元年の学令に鄭玄何晏注を用ゐよとあり。隋唐の制に遵ふなり。学者之を称して古注と曰ふ。後醍醐天皇元弘建武の際。始めて朱熹集注を伝ふ。之を新注と曰ふ。古注家は新注を罵りて。濫りに高遠に馳せ幽玄に入り陽に儒道を説けども陰に仏道を唱ふ。聖人の教に非ずと論じ。新注者流は古注を嘲りて徒らに。名物章句の末に拘泥して学道の大本を忘却す。詞章記誦の屑学問に終り。一身の為めにも国家の為めにも役に立たずと難ず。是れ世に謂ふ所の門戸の見なり。古注は夫子を去ること遠からざる時の作なれば、事実に於て真に近く取るべき所少からず。一概に棄つべからず。然れども修身斉家の実効を挙げんとするには。新注の説に従ふを以て捷径となす若し夫れ新注の高遠に馳せ幽玄に入りて、実用に適せざるの点あるは
 - 第41巻 p.364 -ページ画像 
往々免れざる所なれば、宜しく之を去りて孔夫子を以て標準となし。実践躬行を以て主眼とすべし。是れ折衷学者の唱道する所にして。余の左袒する所なり。
慶長元和の際藤原惺窩出て。其門人に林羅山あり。徳川家康に用ひられて。其朱注論語に施す所の訓点を道春点 道春は羅山の名也 と称し。広く世に行はる。後世羅山の子孫相継で大学頭に任じ。幕府の文教を掌る。則ち朝廷にては、古より古注を用ひられしも。幕府にては開府以来宋学を尚びて新注を用ゆ。諸侯亦幕府に倣ひ皆新注を用ひ。以て明治維新の時に及べり。
孔子の人となり及び経歴は如何。曰く。孔子は史記世家に拠るに。今を距ること二千四百七十四年前。魯の襄公二十二年に。魯の国の昌平郷陬邑に生る。初めは倉庫の役人又は畜産の役人となり。皆能く其職責を挙げられたり。三十五歳の時。魯の君昭公其臣季・孟・叔孫三家と戦ひ打負けて斉の国に出奔せられ。孔子其後を追ふて同じく斉の国に赴かれ高昭子が家臣たり。斉の景公が其賢を知り将さに尼渓を以て孔子を封じ大に用ひやうとしたが晏嬰なる者ありて之を拒む因て魯に還れり。四十二歳の時昭公斉に客死し定公立つと雖も、魯の国は魯の大夫季氏の天下となつたに因り孔子は季氏に仕へようとしたが。偶々陽虎といふ者季氏の嬖臣仲梁懐と隙あり遂に季氏に反して再び国が乱れて遂に仕へず。定公の八年孔子五十歳の時季氏の宰公山弗擾意を季氏に得ず。陽虎に因て乱をなし人をして孔子を招かしむ。此時孔子は往かうとしたが遂に往かなかつた。五十三歳の時定公孔子を以て中都宰となす。一年にして四方皆之を則る。司空より大司寇に進み定公を相けて斉景公と夾谷に会し大に国威を揚ぐ。又魯の大夫の政を乱る者少正卯を誅す。三月にして魯大に治る。斉人聞て懼る。乃ち女楽を魯君に遺る。魯君之を観て政事に怠る。孔子遂に去る。嗚呼孔子の志行はれんとして沮止せらる。好事魔多しの喩に漏れず惜むべき哉。其後孔子は諸国を遍参し諸国の君に仕へたが何れも其志を行ふに足らず。已むことを得ず最終に生国の魯に帰られたのが、哀公の十一年孔子の齢方さに六十八歳の時なりき。それより五年間七十三歳までは全く仕官の念を断つて専ら門人を教育して道を伝へられた。要するに六十八歳までは其志主として政治の方面に尽瘁せられ。周の時代を復興して以て王道を天下に施したいと云ふ事に熱心せられたやうである。
此に由て之を観れば。則ち大聖人の孔子にして魯の友臣季氏に仕へやうとし。更らに又季氏の反臣公山弗擾の招きに応ぜんとしたのみならず。諸国を巡参して仕途を求めたのは、如何にも大義名分を弁へざるやに見ゆ。然れども支那の国体は大に我邦と異り。万世一系の天子あるにあらざるのみならず。当時戦国の際なれば、必ずしも名分のみに由り難し。孔子の志は何国にても構はぬ。又何公でも苦しからず。我道とする所の王道を行ふ事を得れば足れりと決心したるに由るが如し是れ孔夫子が其志に忠なるの致す所にして、周の時代を復興し、斯民をして鼓腹撃壌の楽を享けしめたいと。熱中せられたのである。其志は殊に生国の魯をして周の盛時に還らしめんとするに在りて。孔夫子の志行はれずして魯を去る時には怩爾として如何にも去り難き趣あり
 - 第41巻 p.365 -ページ画像 
きと孟子も伝へて居る。孔夫子の当時四囲の情は実に察するに余りありと云ふべし。
或は孔夫子が六十八歳の老境になるまでも政治上に恋著せず。早く自らあきらめて。門人や後進の教育に力を尽し。以て道を伝へた方が孔夫子の為めにも天下の為めにも利益であつたらうと云ふ人あらん。如何にもさうであつたかも知れぬが。前にも云ふ通り孔夫子の志は一ら王道の復興に存して。他を顧るに遑あらざりしが如し。此老人渋沢の如きも既に八十四歳に達したれば。閑境に退きて修身斉家の道でも講ずる位にしたら可からうと云はるゝ人もあらん。併し余は敢て自ら僭して孔夫子に比するにあらざれども、孔夫子が自ら出たら、其国の政治が改善せらるゝであらうと思ふて。何国からでも召されさへすれば輙ち出て仕へたやうに。此老人も出て奔走すれば。或は少しでも世の為め国の為め何かの役に立つ事があらうかと思ふのであります。故に電灯問題が起れば之に手を出し。米国の問題が発すれば。之にも奔走し。支那問題が生ずれば之に顔を出したりするやうな事であります。微意の存する所は孔夫子が其志に忠なりし所以のものを学んで、多少なりとも国家民人の幸福増進の途に向つて貢献したいと云ふ精神に外ならないのであります。
さて孔夫子の人となりは。一言にして言へば常識の非常に発達したる円満の人と云ふが適評ならん。古来世の所謂英雄や豪傑は常人に卓越したる特色や長所があると。同時に非常なる欠点や短所もあるものである。而るに孔夫子に至つては特別なる長所と言ふべき所なき代りに是ぞといふ短所もないのである。故に之を称して偉大なる平凡人と云ふても適当であらう。孔子自ら曰く。吾れわかき時賤し故に鄙事に多能なりと。世の中の事大抵通暁せざるはなかりしならむ。史記世家に六芸に通ずとあり。六芸とは弓を射馬を御し字を書き算術をなし礼を行ひ楽を奏する事を指して曰ふ。即ち何事にも堪能なりし事推して知るべし。後年に至り春秋を著はされたるを見れば。歴史の造詣も亦深かりしこと知るべき也。然らば則ち人は釈迦や耶蘇たる事は難しとするも。孔子たる事は甚だ難き事にはあらざるべし。何となれば吾人は非凡の釈迦や耶蘇たる事能はざるまでも。平凡の発達したる孔子たり得べからざる理なければなり。唯勉めて倦まざるに在るのみ。要するに孔子は万事に精通して円満無碍の人である。即ち常識の非常に暢達した方である。余は深く孔子に学んで其教訓を循守して往けば。家に処し世間に出でて非難せられざる熟達円満の人物になり得らるゝものと信ずるなり。
孔子の教は宗教なりや。孔子は儒教の大宗なり。孔子の教即ち儒教は宗教なりや否の問題は。論語の如何なるものであるかを講義する前に先づ以て之を研究せざるべからず。文学博士井上哲次郎氏は孔子の教は半ば宗教で。少くとも宗教らしい所があると喝破し。之に対して法学博士阪谷芳郎氏は。全然宗教にあらず。単に実践道徳を説かれたに過ぎずと駁論しき。余以為らく。論語子罕篇に。
 天之将喪斯文也。後死者不得与於斯文也。天之未喪斯文也。匡人其如予何。(天の将に斯の文を滅ぼさんとするや。後れて死する者は
 - 第41巻 p.366 -ページ画像 
斯文に与ることを得ず。天の未だ斯の文を亡ぼさゝるや。匡の人夫れ予れを如何せむ。)
とあり。『斯文』とは。孔子が之を其時人に教へ、又後世に貽さんとする『先王の道』を指したのである。即ち此章の意は。若し天が先王の道を滅さんとする意ならば。予れ(孔子)或は匡の国の人の手に罹りて殺さるゝかも知れぬ。然れども予が未だ予の事業の卒らぬ中に殺されてしまへば。後世の者は先王の道たる『斯文』を知ること能はざるに至るべきを以て、先王の道を亡ぼしたくないとの天意あらば。『斯文』を伝ふるを以て天職とする予は。決して匡人輩の手を以て殺し得べき筈がないと云ふのである。即ち玆に孔子が天に対する信仰を言明して居る。其外為政篇に『五十而知天命』八佾篇に『獲罪於天無所祷也。』公冶長篇に『夫子之言。性与天道。不可得而聞也已矣。』雍也篇の『予所否者。天厭之。天厭之。』述而篇に『天生徳於予。桓魋其如予何。』泰伯篇に『尭之為君也。巍々乎。唯天為大。』憲問篇に『不怨天。不尤人。下学而上達。知我者其天乎。』陽貨篇に『天何言哉。四時行焉。百物生焉。天何言哉。』など論語全篇を通覧するに。天に言及した所が九ケ所ばかりある。殊に八佾篇の『罪を天に獲れば祷る所無し』と明言せられたるに徴すれば、孔子が天を深く信じ、之を其信条とせられた事自から明かである。則孔子の教は慥に半は一の宗教なりと断定せる井上博士の説も尤もな所がある。之に反対する阪谷博士の説は。凡そ宗教といふ宗教には必らず。祈祷礼拝の形式を備へざるは無し。而るに孔子教即ち儒教には此形式を備へず。故に之を宗教視すべからずといふに在り。未だ遽かにその是非を断定すべからずと雖も。余は儒教を以て宗教なりと信じて居らず。唯実際身を修め世に処するに方つて。人の人たるべき規矩準縄を説き視めされたる教として之を循守し。論語の所説に従ふて実践躬行を努めて怠らざるのみである。
さて孔子教は宗教とは信じて居らざるに拘はらず。何が故に斯く孔子の論語に親しみ。之を処世上唯一の信条となし。八十四歳の今日まで日常生活の規矩準縄となしたる乎と云へば。是には余が幼少の時より受けた教育から申述ねばならぬ事がある。明治維新前は京師も江戸も乃至は諸侯の国々も。すべて漢籍を以て教育を施し。余の郷里武州にては。初心の輩には千字文三字経の類を授け。それより四書を読ませ五経に移り。文章物では文章軌範とか唐宋八大家文の如きものを読み歴史は国史略支那の十八史略或は史記の類を読むを常としき。余は七歳の時に実父より三字経を教へられ。次に従兄の尾高藍香より大学・中庸・論語・孟子の四書句読を授けられ。其従兄の妹を後に娶つて荊妻となした因縁にも依りて、論語に親しむ発端を開いたのである。抑抑均しく儒教を奉ずるにしても、大学もあり中庸もあるに之を捨て。独り論語を選んで遵奉するは。何ぞやと曰るゝ人もあらん。余が論語を選択して一生恪循すべき規準となしたるは。大学は其開巻第一に明言するが如く治国平天下の道を説くを主眼とし。修身斉家よりも寧ろ政治に関する教誨を重しとして居る。中庸は更に一層高い見地に立つて。「致中和。天地位焉。万物育焉。」などの悠遠なる説があつて、哲
 - 第41巻 p.367 -ページ画像 
学に近く。修身斉家の道には遠ざかり居るが如し。而るに論語に至つては。一言一句悉く是れ日常処世上の実際に応用し得る教である。朝に之を聞き夕べに之を実行し得る底の道を説て居る。是れ余が孔夫子の儒教を遵奉するに膺り学庸に拠らず。特に論語を選び拳々服膺して終生敢て或は之に悖らざらん事を期する所以である。余は論語の教訓を守つて行けば。人は能く身を修め家を斉へ。安穏無事に世を渡つて往けるものと確信するのである。
余は明治六年に官を退き、身を実業に委ねる事になつた。而して国を強くするには、先づ国を富まさゞるべからず。国を富ますには先づ農工商の実業を隆盛ならしめざるべからず。就中余は商工業を隆盛ならしむるには。小資本を集めて大資本となす合本主義を行ひ。即ち会社組織に拠らざるべからずと信じて、敢て第一銀行を組織し其他各種の会社組織に微力を尽したのである。抑々会社を経紀するには。第一に必要なるは之を経紀する人物の如何にあるのである。其当局者に相当の人物を得ざれば。其会社は必らず失敗に終るべし。明治の初めに政府の創設したる開拓会社とか為替会社とか云ふものが。大抵倒壊したのは即ち其適例である。是に於て余は銀行や会社を失敗なく成功せしむるには。其事に任ずる当局者をして。事業上又は一身上恪循するに足る規矩準縄がなければならぬと考へたのである。
余は仏教の知識なく耶蘇教に至ては更に知る所がない。そこで余が実業界に立ちて自ら守るべき規矩準縄は之を仏耶の二教に取ること能はず。而かも儒教ならば不十分ながら幼少の時より親んで来た関係があり。特に論語は日常身を持し世に処する方法を一々詳示せられて居るを以て。此に依拠しさへすれば。人の人たる道に戻らず。万事無碍円通し。何事にても判断に苦しむ所があれば、論語の尺度を取つて之を律すれば、必ず過ちを免かるゝに至らんと確く信じたり。我邦には応神天皇の朝以来斯る尊とき尺度が伝来し居るに。之を高閣に束ねて顧みず。範を他に覓めんとするは心得違の事にあらずや。余は斯く信じて論語の教訓を金科玉条とし。拳々服膺して之が実践躬行を怠らぬのである。
実業家の循守すべき論語の教訓は。一にして足らずと雖も、就中里仁篇の
 富与貴。是人之所欲也。不以其道。得之不処也。貧与賤。是人之所悪也。不以其道。得之不去也。(富と貴とは是れ人の欲する所也。されど其道を以てせざれば之を得るも居らず。貧と賤とは是れ人の悪む所也。されど其道を以てせざれば之を得るも去らず)
の如き其一例である。又同じ篇に。
 放於利而行多怨。(利に依つて行へば怨多し)
の句がある。是れ実業家の終身恪遵すべき明教にあらずや。人生の生活に先つものは財産金銭也。之れなければ一日も立行かざるべし。人の地位も亦然り。成るべく上流に立たねば、世の信用少く思ふ事も就らざるべし。されど正当の道に依らず無理をして得たる富や地位は永続のせぬものぞかし。此反対にて如何に貧窮しても又如何に下賤の地位に居るもそれが自然に来れる運命ならば。致方なしと観念して善行
 - 第41巻 p.368 -ページ画像 
を積むより外に致方なし。無理に其境界を擺脱せんとすれば。必らず法を犯し人を害する底の悪業に陥るべし。自己の利益のみを主眼として行作すれば。必らず他人の怨恨する所となり非命に斃るゝこともあるべし。是等の教訓は実に吾人の日常遵奉すべき好箇の明訓ではあるまいか。
総説の終りに臨み一言せざるべからざるものは、儒教と経済と合致即ち教と行と合一不二の物となす事である。儒教即ち孔子の教は固より紙上の空談高論にあらず。一々之を日常生活の上に実行すべき道である。人は血液の循環する生物なれば、衣食住の欲求なかるべからず。衣食住の給与は則ち経済の道に依らざるべからず。人道も礼節も経済を離れて行はるべきものにあらず。故に衣食足而知礼節との古訓あり食ふ事も衣る事も出来ぬ人に向つて仁義忠孝の道を行へ礼儀作法を行へと言ふ事は出来まい。今論語の説く所は悉く人間実際の生活を離れず。名教と実用と一致合同して居るが、宋儒程子や朱子の解釈高遠の理学に馳せ、稍々実際の行事に遠ざかるに至れり。我邦の儒家藤原惺窩・林羅山の如き宋儒の弊を承けて。学問と実際とを別物視し。物徂徠に至ては学問は士大夫以上の修むべきものなりと明言して。農工商の実業家をは圏外に排斥したりき。徳川氏三百年の教育は。此主義に立脚したりしかば。書を読み文を学ぶは実業に与らざる士人の業となり。農工商多数の国民は国家の基礎たる諸般の実業を担任すれども、書を読まず文を学ばず無智文盲漢となり了りぬ。因習の久しき習ひ性となり。事業と学問とは全く別物となりて人敢て恠まず。士は高く止りて農工商を下民と賤しみ。農工商は士人の自活自存する道を知らざるを嘲りて、青表紙読み四角の文字知りと罵れり。人類の均しく服膺すべき論語の明教を。独り少数士人の教訓に委したるは。惜みても猶惜むべき事ぞかし。余は堅く信ず。学問は学問の為めの学問にあらず人間日常生活の指南車たらんが為めの学問なり。即ち学問は人生処世上の規準也。故に実際を離れたる学問なきと同時に。学問を離れたる実業も亦存せざる也。是を以て余は平生論語と算盤説を唱へ実業を論語に一致せしめんと企図し。余が尊信する故三島中洲先生は同工異曲とでも云ふべきか。論語を経済に合一せしめんと説かれき。
之を要するに中洲先生も余も共に学問と事業とを結び付けて、睽離せしめず以て知行合一の極致に到達せんと欲するなり。余は実に此知行合一の見地に立ちて、論語を咀嚼し八十四歳の今日まで公私内外の規準として遵奉し、国を富まし国を強くし以て天下を平かにするに努力したり。他の同胞実業家にも論語を能く読て貰ひ。民間に知行合一の実業家続々輩出して。品位の高き先覚者が出現せん事を望むのである是を以て余は不学にして。固より専門の漢学者にあらざれども敢て自ら揣らず。玆に論語の講義をなさんと欲す。大方の諸士幸に余の謭劣を咎めず。愛読の栄を賜り共に与に東洋の仁義道徳を鼓吹して身を修め世に処する規矩準縄となされん事を願ふのみ。重ねて一言すれば名教学術は実業に依つて貴く。農工商の実業は名教道徳に依つて光を発す。二者固より一致にして。決して相睽離する事を許さず。若し二者睽離せんか。学問は死物となり。名教も道徳も紙上の空談となり。論
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語読の論語知らずと曰はるゝに至るべし。又農工商人は思想低下の賤丈夫となり。光輝なき実業となり了らん。是を以て二者を一致せしめ知行合一の境に達せしめん事を願ふて息まず。此主義を抱き八十年来の実験に拠つて敢て論語を講説す。而かも余は多忙の身にして躬ら筆を執る事能はざるが故に、口話して尾立維孝氏之を筆述する事となしぬ。読者請ふ之を諒せよ。


論語講義乾 渋沢栄一口話 尾立維孝筆述 例言 大正一四年一〇月刊(DK410089k-0009)
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論語講義乾 渋沢栄一口話 尾立維孝筆述  例言 大正一四年一〇月刊
    例言
一、近頃世間に何事も力だといふ語が流行し。政治家は「政治は多数の聚合力だ」と豪語し。商工業者は「商工業の隆昌は金力だ」と放言す。而して其の所謂権力・金力の根柢に道徳の存在せざるべからざることを忘るゝに似たり。蓋し「力」は「徳」に拠て成立するものにて。「徳」を離れたる「力」は暴力なり。若し人々暴力を以て相対せんか。世態愈々荒廃して人情益々悪化せん。実に慎まざるべからざるなり。我が二松学舎長渋沢子爵は夙に之れを憂ひて。東洋道徳の源泉たる論語を愛読せらるゝに因り。曩に其の講義を請ひ。通信教授に由りて。広く之れを宣布するの允諾を得。大正十二年四月より十四年九月に至る間。毎月其の講義録を発刊し。既に其の業を卒ふ。今集めて一本と成し。普く天下同好の紳士・淑女に頒たんとす。
二、子爵は明治六年五月。三十五歳にして大蔵省を辞し。第一国立銀行を経営するに膺り。自己の信奉すべき規準を論語に取り。以て実業界に立たん事を決意せられ。爾来五十余年。今日に至るまで。事業界の経営は勿論。一身の処世法も。将た人に対する応接に就ても尽く範を此に取らざるは無し。而して中古以来学問と実生活とを分離せし誤謬を正さんが為めに。居常経済と道徳との分離すべからざることを主張し。論語と算盤とは一にして二ならざるを反復説明す。其の論旨全然我が三島中洲先生の義利合一論と一致し。孔夫子の教訓を今日の社会に当箝めて講明する実験説にして。他の詞章記誦の訓詁学と同じからず。故に其の引例引証の如きも。努めて日本の事歴に依る。是れ青年の紳士・淑女をして喩り易からしめんが為めのみ。
一、筆述者尾立維孝氏は。明治十年十月十日。我が三島中洲先生二松学舎創立の時の門人なり。後ち司法省法律学校に入り。法官たること三十年。任満ちて退き。母校の為めに教鞭を執り。傍ら渋沢子爵の論語講話を筆述す。今玆六十六歳の老齢なるも。精力絶倫。日夜孜孜として。只管講話の意義に違はざらん事を勉めらる。然れども仍ほ筆意に随はざるものあるを嘆かる。是れ読者諸君の諒恕を請ふ所なり。
  大正十四年十月二十日
                      二松学舎出版部


論語講義坤 渋沢栄一口話 尾立維孝筆述 奥付 大正一四年一〇月刊(DK410089k-0010)
第41巻 p.369-370 ページ画像

論語講義坤  渋沢栄一口話 尾立維孝筆述  奥付 大正一四年一〇月刊
 - 第41巻 p.370 -ページ画像 


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  大正十四年十月二十日印刷   論語講義  定価金五円  大正十四年十月廿三日発行         上冊各金弐円五拾銭                       下冊



           著作者      尾立維孝
 不許複製 印 不許漢訳
                東京市麹町区一番町四十六番地
                 財団法人二松学舎内
            発行者      菅野茂
                東京市牛込区榎町七番地
            印刷人      竹内喜太郎
                東京市牛込区榎町七番地
            印刷所      日清印刷株式会社
                東京市麹町区一番町四十六番地
         発行所       財団法人二松学舎出版部
                       電話四谷五八三八番
                       振替東京一一二一六番
  ○本書ハ上下二冊。
   乾(上冊)巻之一ヨリ巻之五マデ 本文五六二頁
   坤(下冊)巻之六ヨリ巻之十マデ 本文四八一頁