デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
2節 神社
5款 財団法人明治神宮奉賛会
■綱文

第41巻 p.578-584(DK410115k) ページ画像

昭和5年7月10日(1930年)

是日栄一、明治神宮外苑聖徳記念絵画館ニ、大久保作次郎揮毫ノ壁画「グラント将軍ト御対談ノ図」一点ヲ献納ス。十一月十九日、栄一同館ニ赴キテ之ヲ観ル。


■資料

明治神宮奉賛会通信 第八二号・第六頁大正一五年三月 会務要項(DK410115k-0001)
第41巻 p.578 ページ画像

明治神宮奉賛会通信 第八二号・第六頁大正一五年三月
    ○会務要項
聖徳記念絵画館壁画奉納並ニ揮毫者全部決定ヲ告ケタリ、今左ニ其画題及氏名ヲ掲ク
 番号     画題      奉納者氏名   揮毫者氏名
 四一 グラント将軍ト御対話  子爵渋沢栄一  石橋和訓
   ○外七十九枚略ス。
   ○右揮毫者石橋和訓ハ始メ委嘱セル画家ニシテ、作絵完成ニ至ラズシテ、昭和三年五月四日死去ス。依テ同月九日、当奉賛会ヨリ、改メテ大久保作次郎ニ委嘱ス。揮毫料一万二千円(「明治神宮奉賛会所蔵書類」ニ拠ル)。


明治神宮奉賛会書類(一)(DK410115k-0002)
第41巻 p.578 ページ画像

明治神宮奉賛会書類(一)          (渋沢子爵家所蔵)
賛発第三四号
  昭和五年七月十日
                      明治神宮奉賛会 
    子爵 渋沢栄一殿
       壁画完成搬入通知ノ件
拝啓、陳者御献納壁画完成、本日搬入掲揚致候間御了承被下度、此段御通知申上候 敬具

 - 第41巻 p.579 -ページ画像 

竜門雑誌 第五〇九号・巻頭昭和六年二月(DK410115k-0003)
第41巻 p.579 ページ画像

竜門雑誌 第五〇九号・巻頭昭和六年二月



明治神宮奉賛会書類(一)(DK410115k-0004)
第41巻 p.579 ページ画像

明治神宮奉賛会書類(一) (渋沢子爵家所蔵)
(葉書・表)
  市外滝野川町西ケ原
    子爵 渋沢栄一殿
       (朱書)
       明治神宮奉納画完成ニ付御一覧ヲ願フ
(裏)
    聖徳記念絵画館壁画完成通知
一番号  四一
一画題  グラント将軍ト御対話
一奉納者 子爵渋沢栄一
一揮毫者 大久保作次郎
右昭和五年七月十一日完成致シ掲揚済ニ付御一覧可被下御通知申上候
  昭和五年七月十一日           明治神宮奉賛会
  追伸 今日マデ完成掲揚済 三五枚 未完成 四五枚
           日本画  九枚 日本画 三一枚
       内
           西洋画 二六枚 西洋画 一四枚


集会日時通知表 昭和五年一一月(DK410115k-0005)
第41巻 p.579 ページ画像

集会日時通知表 昭和五年一一月     (渋沢子爵家所蔵)
十一月十九日 午後二時 明治神宮絵画館ヘ御出向


竜門雑誌 第五〇九号・第五九―六三頁昭和六年二月 壁画を製作した私の苦心 大久保作次郎(DK410115k-0006)
第41巻 p.579-583 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第三五七号・第八二―八三頁大正七年二月 ○明治神宮絵画館と壁画に就て(DK410115k-0007)
第41巻 p.583-584 ページ画像

竜門雑誌 第三五七号・第八二―八三頁大正七年二月
○明治神宮絵画館と壁画に就て 青淵先生を副総裁とせる明治神宮奉賛会にては、明治天皇及び昭憲皇太后の御聖徳を永久に記念し奉るべく、聖徳記念絵画館を建設することに決定し居る由なるが、右絵画館の壁画に就ては爾来慎重に審議を凝しつゝありし所、過般その大部分の決定を見るに至れる由にて、同会理事長たる阪谷男爵は大要左の如く語られたりと云ふ。
△聖徳記念絵画館 は実際永く先帝の聖徳を世に遺すべきものであるから、壁画の日本画洋画の孰れにするかに付き最も審議を重ねた、両陛下の御一代幾十年の間は御承知の通り維新の時を前後に挿んで風俗習慣の著るしい変遷がある、衣冠束帯の御姿も御洋装もある、そこで
△束帯の御姿 に依る記念の絵画は全部之を日本画とし、御洋装時代の御事は洋画に為る事にした、日本画には洋画と異り土佐派もあり狩野派もあるといふ具合であるが、流派に片寄らず其特長ある点から夫夫一代の腕を揮つて貰ひたい考へである、目下画家の選定中であるが壁画は十尺に十五尺といふ如何にも大きいものであるが、御誕生から崩御に至る御一代をば全部六十枚に
△謹写する事 にした、只今の所は専ら画題の選定中であつて、既に九十五枚の候補題材を得たが、御多端なりし先帝御一代の事共は何一つ重要ならざるなく、取捨選択に心迷つて居る次第である、さり乍ら先帝御東幸迄の十八年間と其後崩御に至る四十二年間とを比較して六十枚の中、十五枚位は日本画に他は全部洋画にするかも知れぬ。
△題材は奠都 憲法発布記念・帝国議会開会・日清戦争・日露戦争・等は最も密画たるべきもので、猶画家も選定次第少しも早く準備させたい考へである云々。(一月廿四日東京朝日新聞所載)
 而して右壁画は其構図技巧を広く全国より懸賞を以て募集する由にて、尚ほ其審査方法及び絵具・画題等に就て伝へらるゝ所に依れば、概ね左の如し。
△審査と監督 募集されたものは文展審査の様な方法で、審査を日本画・洋画両方面の巨匠に依頼し、尚其史実に関しては夫々専門の人々監督の上愈々其入選者が揮毫する事になる。然るに此処で最も注意せらるゝのは其描かるべき板又はカンヴアス及び絵具等で、現に伊太利辺りに残つてゐる壁画の如きも大抵は原色を止めぬ程に変色し、又は落箔してゐるのもある位だから、現在文展等の出品に用ゐてゐる絵具等では
△到底永きに 堪ふる事は難かしいといふので、愈々揮毫となれば日本画も洋画も共に特別の絵具を使用せしめらるゝ筈だといふ。而して画題の選択は、何様先帝の御偉業は百般に亘つてゐるので余程苦心を要したらしく、現に八十数題を選ばれた中でも、例へば「廃藩置県」
 - 第41巻 p.584 -ページ画像 
「法典起草」の如きは、史上に於ける最も大きい御事蹟には相違ないが、是を絵としては何うも現し難いといふ事もある。先帝の御事蹟に伴ひ現れて来る
△輔弼の功臣 中でも、伊藤博文公の如き憲法発布・国会開設・日韓併合と何れも華やかな表面に出て来る人々はよいけれども、絵にならぬからとて多く裏面に働いた井上侯を閑却する訳にも行かぬ。又地方にしても成る可く台湾も北海道もと総て全国に遍く行亘る必要があるそして又一方には政治界・実業界・戦争等総ての事蹟を含められる訳であるから、東郷・乃木の将軍連もあれば、渋沢男の顔も出るといふ事になる。而して其絵は要するに明治四年先帝御散髪御洋装となられてから
△初めて油絵 となり、御大喪儀迄総て油絵を以て描かれ、其以前は総て服装といひ御儀式といひ昔ながらの御有様であるから、是は日本画にする事と決定した。又画題の第一は最初京都中山邸にて御誕辰の光景といふ議もあつたが審議の結果、嘉永五年九月二十二日御誕辰の後約一箇月後、当時祐宮と呼ばせられし先帝には、御生母中山一位の局が御抱き申上げ、其父忠能卿其他華やかな袿袴の女官等数多供奉し参らせ、京都御所に初御参内ありて、孝明天皇に
△御対面の図 と決定した。次は万延元年七月御九歳にして皇太子に立たせられ、紫辰殿上に孝明帝出御あり、上卿雲の如く集まり厳かなる立太子の御儀を挙げさせらるゝの図。慶応三年宝算十六にして御践祚の儀を挙げさせらるゝの図。御即位図。御大婚図。五条の御誓文を宣らせらるるの図。鳥羽合戦図。明治元年九月車駕東幸図及び明治四年大嘗祭を初めて宮城に行はせ給ふ迄の図等十五枚は、日本画で描かれる事になつてゐる。次で鎮台設置
△新橋横浜間 鉄道開通式行幸より憲法発布・日清日露戦争図其他八十枚に及び、中には昭憲皇太后の御事蹟も数多あり、御大喪儀に了る筈で、画題が悉く確定する迄にはまだ時日を要するとの事である。
(一月廿五日東京朝日新聞所載)



〔参考〕明治神宮奉賛会書類(一)(DK410115k-0008)
第41巻 p.584 ページ画像

明治神宮奉賛会書類(一)        (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓、時下益々御清祥奉賀候、陳者絵画館壁画モ漸次完成致シ、今日迄ニ掲揚セルモノ八十枚中三十三枚ト相成候間、御了承被下度候
 追テ別表御一覧被下度、尚今後ハ完成掲揚ノ都度御通知可申上候
   今日迄完成掲揚済三十三枚 未完成 四十七枚
      内 日本画  九枚     三十一枚
        西洋画二十四枚      十六枚
  昭和四年九月六日 明治神宮奉賛会
    (宛名手書)
    子爵渋沢副会長殿