デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
4節 キリスト教団体
5款 其他 1. ハワイ基督教青年会
■綱文

第42巻 p.292-298(DK420074k) ページ画像

大正6年9月25日(1917年)

是ヨリ先、アメリカ合衆国ハワイ、ヌアヌ基督教青年会館建設ノタメ、日本内地ヨリノ寄付金募集ノ用務ヲ帯ビ、ハワイノ牧師奥村多喜衛帰国ス。

是日、同地ノドレムズ・スカッダト同道、飛鳥山邸ニ栄一ヲ訪ヒテ助力ヲ乞フ。後、栄一ノ尽力ニヨリ、予定ノ金額一万ドルヲ得。


■資料

集会日時通紹介状[集会日時通知表] 大正六年(DK420074k-0001)
第42巻 p.292 ページ画像

集会日時通紹介状[集会日時通知表]  大正六年       (渋沢子爵家所蔵)
九月廿五日 火 午前十時 スカツター《(スカツダー)》氏外一名同伴来(飛鳥山邸)
                                 (通訳不用)


渋沢栄一紹介状 大正六年一一月一〇日(DK420074k-0002)
第42巻 p.292-294 ページ画像

渋沢栄一紹介状  大正六年一一月一〇日  (奥村多喜衛氏所蔵)
(写)
拝啓、時下益御清適奉賀候、然ハ今般布哇基督教青年会に於て日本人部会館建設之計画有之、其一部之資金を日本々国人之同情に依りて得度希望にて、同地に二十有余年在住之牧師奥村多喜衛氏其使命を帯ひ同地知名之人々三十六氏連署之別紙(和訳)書状を携へ、過般帰京、小生を来訪、又頃日同青年会々長エフ・シー・アーサートン氏東洋視察之途次来京に付き、親敷同計画に就き承り候処、右ハ同地在住之日本人を指導して善良なる市民に養成せんとの目的より出しものにて、本国人として大に感謝すへき義に御坐候
従来布哇在留邦人並に外国人ハ、本邦之公共慈善事業に対して同情を表し居、嘗て愛国婦人会に約六万円、軍人遺族後援会に約六万円、或は東北凶作・九州災害・東京水害之際に於ても相当之寄附金を被寄候次第にて、今般之計画に対してハ、是非各位之御同情に訴へて予期之寄附金を得させ度と切望罷在候、之れ単に青年会之希望を充たすのミならす、惹て日本人に対する外国人之同情を厚ふし、日米両国人之親交を増進する一助と相成可申と被存候、何卒右計画御賛助被下、不日奥村多喜衛氏拝訪致候節ハ、御引見之上希望御聞取り、相当之寄附金御申込被下度、小生よりも拝願仕候、右御紹介旁拝願申上度如此御坐候 敬具
  大正六年十一月十日
                      渋沢栄一
(別紙一)
 君カ最モ重大ナル使命ヲ帯ヒテ暫ク日本ニ帰ラントスルヲ聞キ、予等謹テ君ノ為メ神ノ指導ト最高ノ成功ヲ祈ル、予等ハ君カ二十四年間布哇ニ於テ立派ナル働ヲナセル事実ヲ知リ、且時期ノ長短コソアレ何レモ君ト親交アル故ヲ以テ、君カ此使命ノ為メ選ハレタルハ最
 - 第42巻 p.293 -ページ画像 
適当ノコトニシテ、日本ト合衆国トノ親善ナル関係ヲ増進シ得ルヲ信スルモノナリ、予等ノ総テハ、慥カニ多年献身的ノ働ヲ成シテ此ノ地ニ信用ヲ得タル君カ、日本ニ於テモ同様ノ信用ヲ以テ迎ヘラルヘキヲ信ス
    千九百十七年八月十七日ホノルヽニ於テ
       ウヰリアム・アル・キヤツスル (弁護士)
       エル・チー・ペツク      (銀行頭取)
       ジヨーヂ・アル・カーター   (会社重役)
       ローリン・アンヅリユース   (代議士)
       ダブリユ・アル・フワーリントン(新聞社長)
       イ・アウケア         (県書記官)
       リー・エル・ウイシントン   (弁護士)
       エー・リユーイス       (銀行副頭取)
       アル・イー・ウイリアム    (中央太平洋学院長)
       イー・アイ・スポルヂング   (銀行頭取)
       エフ・エー・シエーフアー   (実業家)
       アル・ダブリユ・シングル   (上院議員)
       ヂー・アル・スミス      (商業会議所会頭)
       ヂエ・ウオーターハウス    (実業家)
       ヂエ・ウエーキヒールド    (実業家)
       アル・アイバー        (実業家)
       セオドル・リチヤード     (伝道会社書記)
       リチヤード・ツレント     (会社々長)
       ダブリユー・オー・スミス   (会社重役)
       ダブリユ・エフ・フリア    (弁護士)
       エム・エム・スコツト     (ハイスクール校長)
       アール・エー・クツク     (会社々長)
       エフ・ジエー・ローリー    (伝道会社長)
       アル・オー・マセソン     (雑誌主筆)
       エー・エル・キヤツスル    (上院議員)
       イー・エフ・ビシヨプ     (実業家)
       ダブリユ・エル・ホイトニー  (判事)
       エー・ダブリユ・ボトムレー  (銀行頭取)
       イー・エツチ・ウードハウス  (実業家)
       イー・オー・ホワイト     (実業家)
       エー・ヂエー・ギノー     (会社副社長)
       シー・アル・ヘメンウエ    (弁護士)
       イー・リー・テニー      (耕主組合長)
       レイモンド・ブラオン     (商業会議所書記)
       エー・エフ・グリフイス    (オアフ大学総長)
       シー・エツチ・アサトン    (商会々計)
    牧師 奥村多喜衛君貴下
(別紙二)
      東京追加ノ分
 - 第42巻 p.294 -ページ画像 
   大橋新太郎殿
   和田豊治殿
   塩原又策殿
      大阪ノ分
 男 住友吉左衛門殿
 男 藤田伝三郎殿
 男 鴻池善右衛門殿
      横浜之分
   原富太郎殿
   大谷嘉兵衛殿
   茂木惣兵衛殿
   渡辺福三郎殿
   増田増蔵殿
   安部幸兵衛殿
      神戸之分
   川崎芳太郎殿
 鈴木商店
   金子直吉殿
   岸本豊太郎殿
   湯浅竹之助殿
   岡崎藤吉殿
   田村新吉殿

AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA by KYUGORO OBATA. pp.291-292. Nov., 1937.(DK420074k-0003)
第42巻 p.294-295 ページ画像

AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT
SHIBUSAWA by KYUGORO OBATA pp. 291-292Nov., 1937.
         CHAPTER XIII
    IMPRESSIONS OF FOREIGN FRIENDS
  …………
          FRANK C. ATHERTON
  …………
  At this time Mr. Lloyd Killam, one of the secretaries of our Young Men's Christian Association, was working particularly among the young Orientals of this community and was urging upon us the need for securing land and erecting a building, and the employment of secretaries to further such work. We had just secured a desirable piece of property and told the Viscount of our general plan. He immediately expressed a deep interest and offered to try to interest some of his friends and associates in Japan in this undertaking.
  By the summer of 1917 we had the plans for the building completed and were starting to raise funds. In October of that year, I left for the Phillipines on a business trip, stopping in Japan for a few days on my way westward. The Reverend T. Okumura, a Japanese minister who had been at work in
 - 第42巻 p.295 -ページ画像 
Hawaii for many years, was in Japan at that time on a furlough and advised the Viscount of my contemplated arrival in Tokyo. Hardly had I reached the city when the Viscount extended to me a cordial invitation to attend a dinner at the Banker's Club in Tokyo, while my steamer was in port. He also asked that I tell those present of our plan to develop a large inter-racial work for the young men of Hawaii. Upon my arrival at the club that evening, I found assembled about thirty leading business and professional men of the city. At the close of the dinner the Viscount told of his visit to Honolulu late in 1915 and his becoming acquainted with our work and plans for the young men here. He then called upon me to speak at some length of the progress we were making. I had brought with me a set of the plans for the new building, and after describing its general lay out and how it was to be used, passed the pictures and plans around the table. Much interest was shown in the enterprise. At the close of the dinner the Viscount said he hoped those present would be sufficiently interested to assist.
  …………
  On my return to Honolulu in January, 1918, I was unable to leave the steamer at Yokohama due to illness, but the Viscount caused to be delivered to me a draft for $10,000 in United States gold, as a gift to the proposed building from himself and many of the leading business men and firms in Japan. This he had raised by his personal efforts. Such a generous interest in an enterprise for young men of various races several thousand miles from Japan touched me deeply and showed the Viscount to be a broadminded and splendid type of world statesman.
  In 1921 the Viscount again passed thru Honolulu on a trip to the mainland United States. He spent several days here and many of us had an opportunity for extended conferences with him. The building to which he and his friends had so generously contributed was completed and in use. In spite of his age, he went all over the plant and showed keen interest in the program being carried out―this following a luncheon in his honor. He spoke on that occasion in appreciation of the work and the pleasure that he felt in being able to assist in such an enterprise.
  …………
Honolulu, Hawaii
August 24, 1936
              (Signed) F. C. Atherton

 - 第42巻 p.296 -ページ画像 

楽園時報 第二七巻・第一一号 昭和六年一一月 渋沢子爵を悼む(DK420074k-0004)
第42巻 p.296 ページ画像

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恩寵七十年 奥村多喜衛著 第四一―四七頁 昭和一二年四月刊(DK420074k-0005)
第42巻 p.296-298 ページ画像

恩寵七十年 奥村多喜衛著  第四一―四七頁 昭和一二年四月刊
    (七)
 余が布哇に於ける最初の二年○明治二七・八年は独身生活であつた。其頃の教会には、銀行に会社に商店に又は外人家庭に働く青年が多かつた。彼等も亦家なく父母在さず兄弟居らず一日の仕事を終へて帰るも話し相手なきため自然と余が家に集り来る。余は常に家を開いて彼等を迎へ。毎夜殆んどクラブの如く。其儘に余が家に宿泊するものもあり。一寝台に三人も寝ると云ふ有様であつた。
 彼等の間に何時とはなしに青年会組織の話が持ち上つた。三回も四回も協議を重ねるうち。機愈々熟して創立委員の指名となり。規則案の起草となり。一九〇〇年四月二十八日には組織会が開かれて。ホノルヽ日本人基督教青年会なるものが生れ出た。最初の役員は
  会長 福喜多靖之助 副会長 桑原秀雄
  書記 中村三七吉  会計  吉川吉太郎
  幹事 木村芳五郎
であつた。福喜多君は当時正金銀行員にて。現今は東京王子製紙会社調度課長を務むる人。青年会創立には非常に骨を折つた。深厚なる同
 - 第42巻 p.297 -ページ画像 
情を以て成立に力を添へたのは市青年会幹事H・F・コールマン氏であつた。
 同年五月五日の夜ヌアヌ教会に用ひて居た建物ライシアムにて発会式を挙行した。当時布哇は独立共和国であつたので。大統領サンフオルド・ドールは丁寧なる祝詞を送り今のフランク・アサトン氏の厳父J・B・アサトン氏は演説し。内外人三百余人列席せる頗る盛大なる集会であつた。中にも来会者中のウイードム。ホール。アサトンの三氏は我青年会の誕生より三十年前。同じこの場所にて市青年会を創立した十人会員中の三名であつたので。色々懐旧談湧き起り愉快にして意義ある会合であつた。
 爾来幾多の盛衰消長はあつたが。兎に角創立当初の方針を変へず徐徐進歩し来り。一九一二年に至つて正式にホノルヽ市青年会に合して其一部となり。日本青年会なる孤立的割拠的の範囲を脱して。日米親和の上に更に一歩を進め。同時にスミス街に仮会館を設け主事として松沢光茂氏を迎へ。其指導宜しきを得て全く面目を一新することができた。
      ○
 一九一六年に至つて会館新築の議が起つた。幹部の人々の間には新会館は相当大きく且つ完全なる設備をなし。単に日本人だけでなく凡て東洋人。支那人。比島人も来集せしむることにしては如何との協議もあつたので。余は大に之を賛した。蓋し青年会は主に第二世を目当とするもの。而して彼等第二世は公立学校に於て机を並べて勉学し。同じく市民として布哇の社会に立つべきもの。基督の兄弟主義の下に於て一層彼等の融合を得しむるは青年会の本旨であると考へたからである。依つてフオート街とヴインヤード街角即ち現在の敷地を買収し続いて基金募集運動が起つた。
 余は日本に往き会館建築費の為め少くとも一万弗を募集すべく嘱託を受けた。余は当時考へた。一万弗の金は全建築費の十分の一であるが。而も金額の多寡によらず其寄附に由つて。布哇日米人の関係を親善ならしむる一助となるであらうと。依つて直に快諾し。一九一七年九月松沢光茂君と共に帰国した。内地朝野の人々は布哇については、唯労働者出稼地と云ふの外何も知らない様子であるので。先づ布哇の事情を知らしむるに足る一書を著述するの必要を感じ。『太平洋の楽園』と題し自費にて出版し。朝野有力者の間に配布して置いた。尚又出発前にはホノルヽ米人社会の有力者殆んど凡てが連署した添書が与へられた。その全文左の通りである。
  ○「添書」ハ前掲栄一紹介状ノ「別紙一」ト同ジ。略ス。
 余は先づ渋沢男爵に面会して詢りたるに熱誠なる同情賛成を得。中野武営氏と共に銀行集会所に於て余が為め晩餐会を開き。知名の人々を集めて余が運動の主意を発表し。各方面への紹介状を与へられ募金運動開始の運びに至つた。渋沢男爵の代理として堀越善重郎氏が同行せられしによりて大なる力を得た。服部金太郎氏の如き『奥村さん、君とは初対面であるからお断りすることもできたが、堀越さんを伴れて来られてどうでも出金せねばならぬ』と露骨に話して笑つたことで
 - 第42巻 p.298 -ページ画像 
あつた。思ふに何所も同様であつたであらう。而も渋沢男爵・堀越善重郎・中野武営・森村市左衛門諸氏のお蔭により。予定以上の金額を募集し得て首尾能く復命することができたのである。
 新築会館を得たる我青年会はかくして一躍国際青年会となり。啻に日米人交親のみならず支那人・朝鮮人・比島人と事を共にし。玆に、『キリストに在つて一体なる』精神即ち兄弟主義の実現を見。夜となく昼となく盛んに用ひられて居る実況を見るとき。最初青年会のため助産婦の役目を務め、爾来守役を務めた余が胸中の喜悦は言ひ尽すことができないのである。



〔参考〕渋沢栄一 書翰 控 ロイド・アール・キラム宛 大正一三年五月一六日(DK420074k-0006)
第42巻 p.298 ページ画像

渋沢栄一 書翰 控  ロイド・アール・キラム宛 大正一三年五月一六日
                     (渋沢子爵家所蔵)
    案
 ホノルヽ市
  ロイド・アール・キラム殿
   大正十三年五月十六日      東京 渋沢栄一
拝復、一月十四日附の御書状正に落手難有拝誦仕候、大震災に際し御懇篤なる御見舞を忝うし難有奉深謝候
当時貴青年会よりは直ちに幹事松沢氏を当地に派遣被下、尚ほ貴地の会員諸氏は救恤資金募集の為に多大の御尽力被遊候を承り感謝に不堪候、当時当地方に於ける被害の状況は真に言語に絶するの状態なりしが、世界各国より忝うせる深甚の同情により、救護の目的を達する事を得、吾国民は深く感銘罷在候
御来旨の通り、震災の結果貴青年会々館増築に要する寄附金は、当地に於ては、当分募集不可能と相成候は頗る遺憾に存候
右御礼旁御返事まで如此御座候 敬具
  ○ロイド・アール・キラムノ大正十三年一月十四日付書翰ハ、本資料第四十巻所収「関東大震災ニ対スル外国ノ援助」大正十二年九月ノ条ニ収ム。