デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.339-365(DK420085k) ページ画像

明治43年10月23日(1910年)

是日、栄一ノ古稀祝賀会ヲ兼ネ、当社第四十四回秋季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。来賓大隈重信ノ演説、栄一ノ謝辞アリ。


■資料

竜門雑誌 第二百七十号附録青淵先生七十寿祝賀記念号 第一―六七頁明治四三年一一月 青淵先生七十寿祝賀式状況(明治四十三年十月二十三日竜門社第四十四回秋季総集会ニ於テ)(DK420085k-0001)
第42巻 p.339-359 ページ画像

竜門雑誌第二百七十号附録青淵先生七十寿祝賀記念号 第一―六七頁明治四三年一一月
    青淵先生七十寿祝賀式状況(明治四十三年十月二十三日竜門社第四十四回秋季総集会ニ於テ)
秋雨連日、当日の陰晴如何あらんやと気遣はれけるに、其朝の三時頃まで蕭々と降頻れる雨はカラリと霽れて、朝暾麗に左ながら偉人の長寿を寿ぐに似たり。かねて当日を待かね居たる我社同人は、孰れも勇み立ちて、朝餉の支度も匆々に、馬車・人車、扨ては汽車の便をかりて、楓葉茂れる曖依村荘を指して詰掛くる者其数知れず。門前に交叉せる日章旗は翩翻と秋風に翻り、静に爪坂上りの砂利を履みて門内に入れば、ソヨソヨと樹々の木の葉を撫づる秋風の香をもたらす風情や床しく、庭園の広場には、幾百千の紳士淑女を容るべきテントを高く張り廻し、青葉もて飾れる支柱には、程よく時花をあしらひ、幾条の万国旗は頭上に翻り、壇の正面には金屏風を立廻らす抔、式場万端の用意は遺憾なく整ひたり。于時時辰十一点、打集ひたる紳士淑女は青淵先生の七十寿を祝すべく、一同式場に参列せり。軈て席定まるや、幹事八十島親徳君先づ壇上に現はれ、開会の辞を述ぶ。即ち左の如し
 青淵先生、閣下並に諸君、只今より竜門社第四十四回秋季総集会を開きます。本年は我々社中同人の泰山北斗と仰ぐ所の青淵先生が七十寿に当られ、老いて益々壮に、矍鑠として壮者を凌ぐ所の御健康
 - 第42巻 p.340 -ページ画像 
を保たれ、弥益々事業界の為め、各般公益の為めにお尽しにならせらるゝと云ふことは、門下たる我々の実に欣喜措く能はざる所であります。依て我々は満腔の誠意を以て、青淵先生の古稀の寿を祝賀し奉らんが為め、今回の総集会は其全部を挙げて其祝賀式に充つることに致しました、其次第は、先づ渋沢社長が評議員会の決議に成りたる所の祝賀文を朗読致して先生の寿を祝し、且其祝賀文と我社会員殆全員の自署に成れる氏名録とを、丁寧に表装して作りたる紀念帖を、先生に捧呈し、尚ほ大隈伯爵閣下に一場の御演説を願うて此祝賀会に一層の光彩を添ゆることに致しました。引続いて青淵先生に御演説を願ひ、夫にて式を終ることに致します。夫れからは例の園遊会或は余興等の催に、或は種々記念写真の撮影に、此清澄なる小春日和の一日を来会諸君が愉快に寛々と御消光あらむことを希望するのであります。
是に於て、社長渋沢篤二君は恭々しく青淵先生をかねて設けの壇上に請じ、其御面前に於て、別項記載の如き祝賀文を朗読し、而して右の祝賀文に添ゆるに、かねて会員各自が氏名を謹書せる色紙を集めて一巻と為し、之れに美麗なる装釘を施せるものを以てし、恭々しく一揖して之を青淵先生に捧呈し、先生亦揖して之を受納し給ひて壇を降りぬ。尋で大隈伯は「四十年来の親友にして国家の公人たる青淵先生が古稀の寿を迎え尚ほ壮者の如く矍鑠たるは、頗る我意を強うする所なり。予は会員諸君が未だ知らざるべしと思考する裏面の観察を述べて所謂『文明老人』の徳を頌すべし」とて、青淵先生が大蔵省御在職以来四十年間の公生涯中に於ける隠れたる美行美徳を称揚して、満腔の祝意を表され、之に対し青淵先生の慇懃なる答辞あり。終りに、渋沢社長の主唱にて、シカゴ大学生エム・ラルフ・クリヤリー。フランクジヨン・コリングス。フランク・エー・ポール。(此三氏は早稲田大学の招聘に応じ渡来したるシカゴ大学野球団の選手なり。右の中ラルフ氏は、青淵先生と相識のシカゴ市商業会議所会頭スキンナー氏の紹介状を持参して、過般先生を訪問せられたる際、先生の勧誘に応じ喜んで参会せられたる者なり)の健康を祝して玆に式を終れり。夫れより青淵先生並に同令夫人及御家族の方々を中心とし、当日の珍客シカゴ大学生三氏も加り、会員一同愛蓮堂(此堂は韓国興業株式会社と清水満之助氏との厚意に依り、昨年中朝鮮平壌より移して先生に贈られたる朝鮮式の楼閣なり)の前に整列して記念撮影を為し、後に当日来会の淑女・小児、先生の御家族・親族・其他本社評議員等一団づゝの記念撮影をなし、畢りて園遊会に移り、会員は己がじし庭園を徜徉しつゝ、青淵先生には大隈伯爵・金井・坪井の両博士、シカゴ大学生三氏等を別室に請じ、渋沢本社長・阪谷男爵・穂積博士等も列席して鄭重なる午餐の饗応あり。此方会員は愛蓮堂に登りて朝鮮の昔を偲びつつ、天高く気澄める見渡す限りの野趣に我を忘るゝ紳士淑女もあり、彼方の樹蔭、此方の芝生に腰打卸して、眼下に画く一道の黒烟、轟々と蜿り行く汽車を見送りつゝ、ビール片手に腹を肥やす人もあり、天ぷら・煮込・燗酒・寿司・粟餅・甘酒・生ビールの各露店は人々の好みに任せ、此処に一団、彼処に一群、思ひ思ひの語らひに笑ひさゞめ
 - 第42巻 p.341 -ページ画像 
く態や、気も晴れやかに、心も長閑にて、恰も仙境に遊ぶの感ありて興の尽くるを知らず。軈て余興は開始せられぬ。奇術・曲芸・剣舞・手踊、孰れも面白からざるはなき中にも、アイヌ美人のアイヌ節やカッポレ踊は殊に物珍らしく、一入興を添えたり。眺め見あかぬ庭園の趣、終日の清興に名残を惜みつ、衣袂に薫する秋の香、紅葉の錦を土産に、三々伍々帰途に就きたるは晩鴉の塒に帰を急ぐ頃にてありき。

    青淵先生七十寿祝賀文
竜門社社長渋沢篤二は、玆に本日を卜し、秋季総集会を開くに当り、評議員会の決議により、全会員を代表して、我か青淵先生七十寿を祝するか為め、聊か蕪辞を呈するの光栄を有す
回顧するに、我が竜門社は今を去ること十年前、即ち明治三十三年に於て、先生の還暦を祝するの幸福なる機会に遭遇せり、当時本社は、青淵先生六十年史、一名近世実業発達史と題する一書を編纂印刷して之を先生に奉呈し、並に之を世に公にし、以て我々会員が常に先生を景慕するの微衷を表し、且同書の冒頭に於て、左の予言を為したり、曰く、身心共に比類なく強健にして、現在容貌と云ひ思想と云ひ、壮者も及ばざる先生の歴史に於て、六十年は蓋し其一小部分なりと断言するを得べし、天然に無比の脳力と健康とを享有し、之に年一年に経験と信用とを積重しつゝある人物は、将来如何なる大材料を其歴史に留むるや、殆ど無尽にして臆測し能はざるなり云々、今や我々会員は先生の七十寿を祝するの一層幸福なる機会に遭遇し、前日の予言の的中したることを深く喜ぶと同時に、此予言は更に将来に向て有効の予言なることを確信し、慶賀の念に堪へざるものなり
我々会員は六十年史に追加するに、更に先生其後の歴史を以てして、祝意を表するの最も適当なることを信せり、而して此冀望は、更に今後先生幾十年の歴史と共に追加編纂して、必ず之れが貫徹を期するものなれば、今日は最近十年史の梗概を叙述し、以て祝辞に代へんとす先生の最近十年史は、日本帝国発展の歴史に於ても、亦世界人類の歴史に於ても、頗る重要なる時期に属せり、抑も明治三十三年は西暦千九百年に当り、即ち第十九世紀の末年にして、最近の十年は第二十世紀の領域に属す、所謂人類文明の世界的歴史が、第十九世紀より第二十世紀に入るの関節に当れり、第十九世紀は仏国革命に原因したるナポレオン戦争を以て初まり、欧洲列国の大騒乱となり、其鎮定と共に盛に国家主義の研究となり、学術と商業と共に大に進歩し、人心一般に平和を重んずるの趨勢に傾きたり、而して第二十世紀は東洋に於ける大戦争を以て始まれり、乃ち明治三十三年に於て北清団匪の騒擾あり、我帝国は常に東洋の平和を念とせるを以て、其結果は明治三十五年の日英同盟となり、権力の平均を図りしと雖も、露国の東方経営は之と相容れず、竟に明治三十七・八年の大戦役となりたり、而して此戦争により、我が帝国は一等国の列に入り、世界列強間の権力平均は其衡平を失ひたるが為めに、列国の間に於て種々の同盟又は協約を生し、同時に軍備就中海軍拡張の顕著なる競争を見るに至れり、乍併学術と商業とは駸々として世界一般益々進歩し、平和を重んずるの趨勢
 - 第42巻 p.342 -ページ画像 
は一層鞏固を加へ来れり、此に於てか、欧洲の学者は評して、第十九世紀に在りては国家主義の思想成長し、第二十世紀に入りては国際主義の思想成長するの時期に到達したるものなりと言へり、而して此世界的形勢の推移と、世界的思想の変遷に就ては、吾人は常に注目を怠らず、其間に立て我が帝国は如何に国是を定め、如何に処すべきやを大に研究せざるべからず
我が青淵先生は、終始一貫、学術の進歩と商業の発達とに満腔の熱誠を注がれ、常に平和主義を唱道して国家に貢献せられたるものにして我が帝国の地位が、経済的方面より観察して、世界一等国の間に介在し稍や其面目を保ち得るに至りしものは、先生の力与つて尠しとせず之れ苟も六十年史を一読したる者の、共に均しく認むる所なるべし
最近十年間の先生の歴史を述ぶるに当り、先づ以て特筆すべきは、明治三十三年、我が 天皇陛下が帝室の御慶事に際し、特殊の思召を以て先生を華族に列し、授くるに男爵を以てせられたること是なり、之れ蓋し、先生が多年我が帝国の経済的方面に尽されたる殊勲を表彰せられたる聖恩なりと云ふを得べし、元来先生は、明治六年官を辞せられて以来、民間に在りて一に商工業の発達を図り、一平民を以て自ら任し、之を以て栄とせられたる事は、平常先生に近接する者の皆知る所なり、然るに先生の授爵は、嘗て類例なき殊典にして、国家商工業の隆盛を軫念せらるゝ至尊の深遠なる思召に出たるものなれば、先生は深く其大御心に感激せられ、又先生を知ると知らざるとに論なく、我国一般商工業者が期せずして此授爵を喜び祝したるは、決して偶然にあらざるを知るべきなり、後ち明治三十七年六月、戦時中に際し先生の大患に罹られたる事、畏くも 天聴に達し、特に御使を以て御菓子一折を賜はりたるが如き、実に異数の聖恩にして、如何に至尊の、我が商工業に就て大御心を労させ給ふかの一端を窺ひ知るべきなり
蓋し、此十年間に於ける先生の御家庭は、多幸多福の一言を以て之を掩ふことを得べし、試に其一二を挙ぐれば、先生の子孫にして結婚若くは婚約せられたる者七人に達し、且つ一人の曾孫を得られたり、而して先生は、明治三十六年より明治三十七年に亘り、中耳炎と肺災とを併発して一時危篤に瀕せられ、朝野挙て之を憂ひたりしが、幸に期年ならずして健康旧に復せられ、爾来倍々健全にして、元気の旺盛なる、十年前に異ならざるは、我々会員の忻慶に堪へざる所なり
明治三十三年六月十七日、我が竜門社は総会を開き、六十年史を先生に奉呈し、其還暦を祝すに当り、先生は之れに対する御演説に於て左の如く明言せられたり、曰く
 既に進むを欲し、既に強きを求めた一身は、老いたりと雖も風月を楽むと云ふ時期とは申されぬ、と云ふ観念を惹起しますでございます、故に或人からは、老朽とか若くは老耄と云はれるかも知れませんが、自身は尚ほ進んで、今幾年であるかは分らぬが、所謂斃れて止むまで此の商売に従事しなければならぬ、と覚悟をして居るのでございます
又曰く
 此六十年史の贈物を、満身の名誉として忝く頂戴する、御答礼とし
 - 第42巻 p.343 -ページ画像 
て、老生も向後老耄老朽の人とならざることを力め、益々此の学問を進めて、今一段世の中の進歩を見て、何卒文明の老人に終りたいと云ふ考へでございます
先生は此の言を実行せられたり、実に十二分に実行せられたり、此十年間に、先生は高齢の身を以て実に二回の大旅行を企てられたり、一は明治三十五年世界一周の旅行、一は明治四十二年渡米実業団を統率して米国各地を巡回せられたる旅行、是なり、二者共に先生一身の識見を広めたるは勿論、彼我実業家間の意思を疏通し、我が帝国商工業の発展上、他日深遠なる利益の関係を生ずべき原因を為したるや論を待たず、此の如く、先生の気宇精力は旺盛なりと雖も、先生亦人間の老境に処するの道を遺れられざるが為めに、此十年間に我邦商工業界に尽力せらるる行動上に於て、二回の大変革を断行せられたり、其一は明治三十七年、先生大患後多少休養の必要を感せられ、当時関係の事業八十余種中約そ其半数を辞任せられたること是なり、其辞任中最も世上の注目を引きたるは、先生が創立以来数十年間、常に会頭として尽力せられたる東京商業会議所会頭の辞任なりき、当時世人、此職は先生終身の職務なりと信ぜしを以て、其の辞任は頗る世人を驚かし意外の感を以て迎へられ、其留任を懇望すること切なるものありき、乍併先生の意思は成るべく政治に関する公職其他類似のものを辞任し専ら商工業に尽すべき時間を多く作らんとするにありしを以て、終に情を忍んで留任の懇請を謝絶し、其志を貫かれたり、其二は明治四十二年、第一銀行頭取の外は他の職務約八十種を辞任せられたること是なり、是より先き明治三十七年、先生は数十種の職務を辞任し、多少時間に余地を作ることを力められたれども、時勢は久しく先生に休養を与ふることを許さず、日露戦役の結果、国債は非常の巨額に上ぼり国民の租税負担額は急激の増加を来せり、之れに応ずるの策は、民力の休養を計ると同時に、商工業を発展し、国家の経済力を増進するの外なし、乃ち先生は明治三十九年より四十年に亘り、殆ど寝食を忘れ全力を尽して、事業経営の相談に応ぜられたり、而して先生は老境に鑑み、顧問若くは相談役の名義を以て、間接指導の任に当られ、直接責任者の地位に立つことは之れを避けられたりと雖も、之が為め先生の職務は、其間再び数十種を増加し、非常の繁劇を加ふるに至れり、然るに其後経済界は事業熱の反動と、戦時中一時の景気に基ける供給の過剰とにより、頗る悲況に沈み、先生関係の事業中にも其厄運を免れざるものあり、是に於て其顧問若くは相談役と云へる名義を奇貨として、先生の信用を濫用し、先生の与り知られざることにして累を先生に及ぼすものあるに至れり、先生門下中深く之れを憂ふるものあり先生に進言するに、此等誤解を生すべき名義は総て之を辞退し、職名は先生と多年関係深き事業にのみ限局し、其他の事業に就ては職名なしと雖も、其来りて教を請ふものには指導啓発の労を惜まざらんことを以てす、先生も亦既に考慮せらるゝ所ありしが為めに、此進言を聞かるゝや直ちに之を採納せられ、恰も七十歳に達せられたるを機として、第一銀行以外の職務は幾と全部辞任せられたり、玆に於て関係の当任者は非常に驚愕し、切に其留任を懇請したれども、先生は諄諄と
 - 第42巻 p.344 -ページ画像 
して説て曰く、抑も我が職務のかく非常の多数に達したるは、明治維新以来、我邦商工業の振興上止むを得ざるに出たるものにして、明治六年始て第一銀行に入りたる時の如きは、銀行成立したるも取引すべき事業少なく、終に自ら進んで諸種の事業を計画せざるべからざるの状況なりしも、爾来三十又七年、諸般の事業振興し、今や之れが経営の任に当る者も亦其人に乏しからざれば、席を後進に譲り現職を辞するも、大事あれば進んで相談に与り、指導を辞せざるが故に、敢て実業界より退隠するにはあらず、乞ふ之を諒せよと、衆皆先生の真意を了解し、已むなく其辞任を承諾するに至れり
先生の行動に関する此二回の大変革は、我邦の商工業界に多少の影響なしとせざるは遺憾なりと雖も、亦之を如何ともする能はず、宜しく其の補塡は、一に之を後進の奮励に待たざるを得ず、而して此大変革が先生日々の執務に如何なる影響を生じたるやを観察するに、会社事業に関するものは大に之を減少すべきの理にして、而も事実は之に反し先生の従来干与せられたる諸会社は勿論、新企画の事業に関し、先生の指導を仰く者相踵て到り、先生の事務は寧ろ其量を増加したるの観無しとせず、加之、教育・慈善、其他一般の公益に関する用務に至りては倍々其数量を増加せり、而かも先生の元気旺盛なる、毫も倦怠の色を見ず、多々益々弁ずるの気力と熱誠とは我々の最も感激する所なり、是れ即ち先生が十年前に於て、斃れて止むまで此商売に従事すと云ひ、益々此学問を進て今一段世の中の進歩を見んと云はれたる一言を、実行せられたるものと云ふべし
此十年間に先生の関係せられたる経済・財政・教育・慈善、其他諸般の事業は頗る多数にして、一言無数と云ふの外なし、其戦時公債の募集、鉄道の国有、国債の整理、各種社債の募集、京仁・京釜両鉄道の始末、各種銀行会社の設立・拡張又は合同等の如き、養育院感化部・慈恵会・中央慈善協会、女子大学、帝国劇場・女優養成・孔子祭典・陽明学会・癌研究会等の如き、或は高等商業学校学生の紛擾、日本鉄道会社解散始末に関する紛議、神戸市と米人「モールス」間の紛議に関する仲裁等の如き、先生の身辺に蝟集するもの枚挙に遑あらずして其一事一項を以てするも、常人にありては尚ほ長篇の伝記を作るに足るべく、或は世の教訓として伝ふべきもの少なからず、故に他日六十年史追加の完成を待つの外は、玆に其目次を列記せんとするも亦長きに過ぐるを如何せん、唯玆に一言すべきものあり、他なし、明治四十年八月、統監伊藤公爵は先生に懇談せられて曰く、第一銀行が明治三十八年の勅令に依りて経営せる韓国中央銀行の事務及銀行券発行の特権は、同行が多年韓国の金融に尽力し、辛苦経営せし結果にして、其歴史と功績とは深く領悉する所なれども、今日の情勢に就て之を稽ふるに、是等の事は一私立銀行の支店に委すべきものにあらざるを以て其特権を回収して新に韓国銀行を創立するの已むべからざるに至れりと、而して先生は、公爵が国家の為め身を挺して韓国経営の大任に当らるゝの忠誠を諒せらるゝにより、公爵の提案にして果して国家の利益たらば、第一銀行は決して之を拒むものにあらず、然とも同行も亦多数株主より成立せる営利会社なれば、宜しく株主の損害たらざる適
 - 第42巻 p.345 -ページ画像 
当の方法を設けらるべきことを要望すと述べられ、直に其大体を承諾せられたる事是なり、爾来二箇年間、韓国銀行の創立に至るまで、其細目に至りては当事者間に交渉折衝する所ありしも、明治四十二年十一月、韓国銀行の開業と共に、第一銀行の経営せる十四箇所の支店・出張所の事務を挙げて一点の支障なく、一日の間に、之れを韓国銀行に引継き、円満に終局したるものは、公爵の私心なき提案に由ると雖も、抑も又先生が、平常事を断する至公至誠心事の極て高潔なるにあらずんば、焉んぞ能く此の如き重要なる案件をして、自他談笑の間に解決せしむるを得んや、宜なるかな、其引継契約調印の日に当り、公爵が、先生此回の施為は実に君子の行動なりと讃歎せられ、又明治四十三年一月二十一日、桂大蔵大臣及曾禰統監より、第一銀行に附与するに左記感状を以てせられたることや、其感状に曰く
 其行は、明治十一年率先して支店を韓国に開設して以来今日に至るまで三十有余年、日韓両国間の為替並韓国内地金融業務の発達に尽力し、兌換銀行券の発行、幣制整理、国庫金取扱、及公債募集等韓国中央銀行としての事務を担当し、忠実克く其職責を尽し、以て同国財政及経済上今日の発展を見るに至れり、又客年四月、韓国銀行設立の計画あるや、其行は克く其趣旨を奉体し、其特権及業務等を挙げて同行に引継ぐことを快諾し、今や其引継事務の完了を告げたるを聞き、韓国に対する其行の動作は、公益と誠忠とを以て終始一貫し、其功労大なるを認む、尚将来其行の業務益々隆盛にして、大に金融及一般経済事業に尽瘁せんことを望む
更に最近十年間、国家財政及経済上に関する進歩の概況を観察するに国の面積・人口及び政府歳入の著しく増進せるは勿論、貿易額・鉄道哩数・船舶噸数・銀行会社資本・鉱産又び農産物、其他孰れも顕著なる増進を示さゝるはなし、而して其増進を来せるは、先生の活動と先生の直接間接に関係せられたる事業の発展とに因るもの、尠なしとせさるなり、嗚呼亦盛なりと云ふべし、而して更に静坐黙考、其然る所以のものを求むれば、即ち先生が造次顛沛唱道せらるゝ所の、商業道徳の根本たる誠心の二字に帰著するを知るべし
我が竜門社は昨年先生の指導に従ひ組織を改革し、社則を改定し、先生の訓誨に基き主義綱領を明かにし、以て益々社運の隆盛を計れり、而して其主義綱領の要点も亦、誠心の二字にあり、今や先生の七十寿を祝するに当り、謹で先生に誓ふ所あらんとす、曰く、先生の徳は年と共に高し、我竜門社は先生の徳を慕ふ者の集団なり、我々会員不肖なりと雖も、今後益々励精琢磨して先生の徳沢を後昆に伝へ、至誠以て国家及社会に尽さんことを期すと、之を以て祝辞とす
  明治四十三年十月二十三日

    大隈伯爵演説
諸君、今日は竜門社の四十四回の大会に御案内を受けまして、殊に私の旧友、殆と忘る能はざる最も尊敬するところの渋沢男爵の七十歳の賀筵を兼ねて、今日の会が催されて、之に臨んで私が祝辞を述べることは、衷心甚だ喜ばしい次第であります、私も渋沢先生に先立つこと
 - 第42巻 p.346 -ページ画像 
二年、即ち七十二歳、普通の年を以て申しますると頗る老年である、吾輩より年が少いために壮なるのは当然であるが、日月の経過は早いものであるから、直ぐ吾輩の年に進んで来て、更に又八十に進む、斯の如きことを考へて見ると、旧い友人は此数年間に次第に此世を去つて、今に存在して居る人も段々に凋落して、或る意味から言へば少しく心細い時に、先生の如き壮なる顔色を目前に拝見し、唯今会長から朗読されたところの祝文を拝聴致すと、頗る心を強うするに足ると思ふ、最早唯今の祝文で、先生の徳、先生の功績、及将来に於ける思想に於ては、最早遺憾は無いと思ふのである、吾輩がそれ以上の蛇足を加ふると申すことは出来ぬと存じますのであります。
併ながら、今の祝文に未だ現はれてゐない裏面が、まだ沢山あると思ふのである、縦令御承知のことであらうとも、私の口より之を諸君の前に公言することは、決して無用に非ずと信ずるのである。
是に先立つて、私が此会に臨んで、私の平日抱くところの感情を、此処に一つ現はして見たいと思ふのである、私の精神と感情は、殆と四十余年の交際のあるところの渋沢先生は、十分御承知のことであらうと思ふ、今の祝文の中に、文明の老人といふことがある、それは吾輩は甚だ気に入つた先生のお言葉であると思ふ、吾輩も文明の老人だ、此文明といふ意義が、世間どう解釈して居るか、私の解釈するところの文明といふ意義を、一つ玆に申して見ようと思ふのである、文明其ものは、是は近来の言葉で、矢張是も欧羅巴から輸入されたものである、而して此文明其ものに二つの意味がある、其二つの意味が、東洋に昔から無いかと言へば、昔からあるのである、併ながら誠に漠然たる意味に於て東洋に存在して居つたが、今日新たに輸入した欧羅巴の意義からいへば、明かに二つに別れて居るであらうと思ふ、一つは物質的文明、一つは精神的の文明、此二つの文明が存在して居る、今日段々科学が進歩致して、而して之が総て人間の生活の上に応用されて現はれたところの力は、実に大なるもので、此物質的文明の賜が、世界の人類の上に与へられたところのものは、実に偉大なるものである此文明の賜は、非常に世界の人類の生活を裕かにし、殊に此一世紀間に最も盛なる力を以て、進歩又進歩しつゝあるのである、ところが全体人間といふものが、物質的文明其もので、人間の終局の目的が達せられるかといへば、決して左様ではない、物質的文明其ものが、他の精神的文明に伴はなければ、其文明たるや甚だ基礎の薄弱なもので、真に物質的文明として完全に発達することの出来るものではないと思ふのである、精神的の文明とは如何なるものであるかといへば、先づこれは余程方面が広いが、これを約めて言へば、先づ道徳、道徳其ものは余程範囲が広いのである、即ち政治、今日の政治も法律も行政の裁判もこれが十分に進まなければ、国家といふものは鞏固なる基礎の上に発達するものではないのである、此国家の権力の下に、法律の下に、安全に生命・財産其他の自由を保護さるゝに由つて、物質的文明が始めて人間に大なる利益を与へるのである、若しそれがなければ、この激烈なる生存競争は、所謂弱肉強食、殆ど野蛮の時代と変はることはない、単に物質的文明其ものは、利益を与へるよりは却て大なる
 - 第42巻 p.347 -ページ画像 
害を与へるといふことになるのである、そこで之をもう一つ約めて簡単にお話致すと、全体人間は利己的のものである、先づ自ら利す、総て人類其ものの本能は利己的のものである、人類其ものは個人的のものである、併ながら、単に自分の利己心のみを満足させんとすれば、必ず他の反抗が来る、例へば強い者が強い力を以て弱い者を圧する時に、人間の力其ものは永久に強いものではないのである、次第に年を取ると腕力が弱くなる、其人は死ぬまで力が強いとしても、其子は弱くなつて来る、玆に於て弱者を保護するといふことが必要である、即ち自分を利せんとすれば先づ人を利すでなければ、真に永久の利益ではないと云ふことが起つて、人を利する、人の為めに働くといふことが起つて来る、これが私が謂ふ物質的の文明と精神的の文明と、並び進まなければならぬ、即ち人の為に働くといふ人が殖ゑて来なければ国といふものは盛んになるものではないと云ふ所以である、今日支那が衰亡する所以はどう云ふ所にあるか、利己的で国の為に働く、人の為に働くといふ精神的の文明が進まない為めである、支那の文明が全く利己的に走つて国家は衰亡した、是は歴史の証明するところで、世界最も盛んなる強大の国の衰亡するのは皆それから起る、一度強大になると直に安逸に流れて、而して利己的の考が盛んになつて、而して歓楽を貪つて、而して最も勇敢なる国民も、いつの間にか惰弱に流れて、而して遂に国家を衰亡するのである、何としても人の為めに働く即ち軍隊が一朝国難に臨んで剣を提げて死生の巷に立つ如く、此国の為めに働くといふ精神さへ内に旺盛であつたならば、国は必ず盛んになる。これが二つ伴はなければ国が盛になるべきものでは無いのである、法律家・経済家・種々の大家諸君の前に私が斯の如きことを申すのは烏滸がましいが、私が渋沢先生の唯今の祝文以外に隠れたることをお話するの予備として、之を冒頭に置くの必要が起るのである。
渋沢君に就いては、私は初め維新前は切れ切れに人から、或は先生からお話を聞いて存じて居るが、親しく知らない事がある、先づ凡そ渋沢先生の公生涯は五十年、吾輩の知らぬ前に十年、即ち国の為めに働かれたと思ふ、五十年の公生涯、初めは時勢の急に迫られて身を提げて国の為めに力を尽すといふ其時には未だ青年であつたから、それ程深い思慮は無かつたかも知れぬのである、唯物の必要に応じて、突然外交が起つて、而して天下騒然として将に乱れんとする時に、何等一家の業務があつたに相違ない、尤も未だ青年であるから、直接に其職業を取つては居られなかつたか知れぬが、何としても父母の業を助けて而して其業務に就かなければならぬ、其業務を学ばなくてはならぬといふ時に、何としても沈黙することは出来ない、時勢の必要に迫られて起つた、これは自分の利己的に遣つたか、人の為に遣つたか、人の為どころではない、国の為に、この外交に依つて国がどう変化するか、殆ど国の安危存亡の別れる時に当つては、身を提げて先づ国事に力を尽された、其時から算当して見ると五十年、そこで私も同じく私生涯より公生涯に身を投じた時である、それから意外なる関係から、丁度吾輩が会計官に渋沢君を説いて、御同様に国の為に力を尽さうといふことになつて、其以来四十二年、そこで渋沢先生の一意専心何と
 - 第42巻 p.348 -ページ画像 
しても此国を盛にしようといふ、殊に其憤慨の念の盛にあつたのは慶応二年に仏蘭西に行かれて、欧羅巴の文明を直に目撃されたに就いて殊に敢為の念が壮んであつたと思ふのである、彼の文明と日本の文明との状態を比較して見ると、物は比較から始めて是ではいかないといふ奮発が起るものである、それから丁度前後五十年間である、政府の官吏として殊に其当時明治政府の最も大切なる諸君は、総て会計官に集つて居つたといふやうな訳で、殆ど一国の政治の半ば以上は会計官にあつたのである、今日の農商務省・大蔵省・内務省の仕事も、皆会計官に網羅して居つた、然らば先づ其一国の政府の殆ど半ば以上は、此処にある、其間に立つて非常な驚くべき勉強、驚くべき精力、渋沢君が職務の上に現はしたところの勉強と精力と其卓見と、殊に周密なる思慮とは、殆ど渋沢君と席を共にした諸君は、今日でも忘れ能はぬところであらうと思ふ、又或は現に渋沢君の遺されたところのものが今日でも尚且つ大蔵省内にも、内務省内にも、方々に多少遺つて居るものがあるのである、それから丁度境遇は一転したのである、又渋沢君の志が、初めから民間に下つて一つ大なる事業を為して見たいといふ意思は持つて居られた、それは何から起つたかといふと、この幕府が大政返上以来、幕府は兎も角も潰れたのである、是に於てか先づ渋沢君も幕府に一時附かれて居つたから、先づ今日平たく言へば、浪人ものだ、ところが幸に静岡藩が立つて、徳川亀之助さん、あの家達公が静岡の七十万石に封ぜらるゝや否や、静岡を去つて何等一つ之を救はうといふ志を抱かれた、一面には藩、一面には民間で事業を営んで何でも富が必要である、幕府の後で徳川氏も非常に財政困難であつた多数の旗下は一朝にして禄を失つて、殆ど飢に泣くといふ時であるから、そこで渋沢先生の惻隠心は、之をどうかして救はう、迚も藩の力のみではいかぬから、一方では何等事業を興して富を為さう、其心が今日実業界に立たうとした動機の一つであつたと思ふのである、其心があるから、一方官に立つて苟も責任のある地位に居る以上は、総てのものを〓つて、全力を政府の事務に尽されたのであるが、当時政府は非常なる困難の時で、始めて明治政府が全国を統一した時である、封建が全く明治四年七月に終を告げたのである、即ち廃藩置県が出来た、是に於て明治政府が始めて全国を統一したのである、財政の権も収税の権も、警察も、軍事も、或は度量衡も、総てのものが統一された、統一して而して眼を全国に放つて見ると、三百藩各々税法を異にして居る、到る処種々の税法があつた、然しながら一つの政府の下に統一した以上には、其儘にして置く事は出来ぬ、或は貨幣も紊乱して居る、到るところ不換紙幣を発行して居る、度量衡も到るところ制度が異つて居る、何としても古い封建で幕府の力大藩には及ばなかつた斯ういふ訳で、中々突然廃藩置県を行つて、総てのものを統一する時に当つては、一方では藩々は殆ど独立の権力を以て、外国と種々の条約を結び、外国に負債を持つて居る、国家の統一の無い時に銘々随意の働きを為したものが、統一の下に之を整理するといふことは、迚も尋常人の能はざるところであるのである、其間に丁度四年七月以後五年六年、殆どこの二箇年といふものは、夜も眠る能はずといふ位の勉
 - 第42巻 p.349 -ページ画像 
励をされたと、吾輩は思うて居る、其時私も政府に居つて小さい事は知らないが、大事は常に御相談に与かつたのである、今の井上侯爵、それと渋沢男爵、此両氏の力に依つて始めて統一が出来たと思ふ、所謂この封建の始末を著けた、凡そ物を始めることは易いが、始末を付けることは余程六ケ敷い、それに殆ど一世の精力を致されたのである而して其事漸く終を告げると、其時に政府の内部には種々云ふべからざる面倒が起つたのである、近来朝鮮が合併されたに就いては、其時分の事を思ひ起されて、新聞雑誌に西郷の征韓論などのことが頻に現はれて居るが、征韓論は其時に既に萌して居るのである、新日本を建設したところの、殆ど死生を共にした人々の間にも、衝突が起つて居るといふやうな訳であるから、其時の井上侯爵・渋沢男爵などは社会の怨府となつて、或は誤解、或は嫉妬心、或は種々内部に錯綜したところの封建思想・保守的思想、又一方には進歩的思想が衝突して居るといふのであるから、そこで勢ひ大蔵省は既に為すべきことはもう為したのであるから、是に於て余儀なく井上侯も退かなくてはならぬ勢であつたらうと思ふ、表面は吾輩と衝突してやめた、渋沢君も不平を唱へてやめた、有名なる辞職の大議論が世の中に発表された、発表された時分に、秘密にすべきものを公けにしたといつて、確か裁判所か何処からか御譴責を受けられたと云ふやうな奇談もあるやうな訳で、これは表面である、表面に現はれたことは皆諸君が知つて居る、裏面のことは諸君が知らぬから、之を言ふ必要がある、何でも已むを得ぬといふことになつたのが五月であつたと記憶して居る、それから九月には内閣の大破裂、其時には再び大なる内乱が起らんとして、実に安危知るべからずといふ容易ならぬ困難が起つたのである、明治政府の中心たる大西郷の如き、其他板垣とか、後藤とか、或は副島・江藤等の有力なる人が袂を連ねてやめる、陸軍も著名なる将官は辞したのである、辞したといへば尤もらしいが、辞表も出さずに皆東京を去つてしまつたのである、西郷隆盛も辞表を出しはしない、(笑)其儘去つてしまつたのである、そこで最早秩序を保つところの警察は無警察、軍隊はどの軍隊が味方であるか、どの軍隊が敵であるか分らぬといふ実に恐るべき状態である、若し欧羅巴のやうな国柄であれば、直ちに革命が成立つ、仏蘭西の革命などはいつもさういふ具合に成立つ、つひ先達て起つた葡萄牙の革命の如き、一夜の中に成立つた、ところが日本は世界に優れた 天皇陛下を戴いて居るから、幸に革命は免れたが、其余毒は遂に十年の戦争となつて殆ど四千二・三百万の金を費し全国の兵を挙げて殆ど数千の死傷者を出した、この不幸なる戦争は何から起つたか、畢竟維新の余毒であると思ふ、渋沢先生・井上侯等が政府を去るといふ時は既に醸して居つたのである、甚しきに至つては相当の権力ある井上侯などは大臣であり、犯罪人である、私が之を弁護していへば、大隈も同罪である、所謂同穴の狐であるから、斯う云ふ奸物を保護する以上は、一緒に縛り上げてしまへといふやうな訳、其最も衆怨の府となつたのは会計官、大蔵省である、大蔵省其ものの中心は誰であるかといへば、井上・渋沢、此大なる整理を為した、総て国家の財政・経済、其他を統一せられたところの者が、皆此保守的
 - 第42巻 p.350 -ページ画像 
の人、封建的思想を持つた人に喜ばれぬのである、苛察――苛察の中には悪いこともするだらうといふ疑惑がある、一度疑惑が生ずると、悪いことをして居ると訴へる者がある、是に於て無邪気なる内閣の人達は、初めは決して信ぜなかつたが、度々方々から訴へて来るから、これは怪しい、探偵でも遣つて見ろ、随分其当時は探偵を放つたものである、吾輩も附けられたかも知れぬ、ところが私は内閣に居る、井上は内閣に居ないのである、そこで内閣に其論が起ると、吾輩井上の為に弁護する、井上に同意するからには大隈も怪しい、これにも探偵を附けろ、一緒に縛り上げてしまへと斯う言ふのだ、そこで渋沢君あたりが廃藩置県と共に国家の統一上の根本となるべき財政・経済・税制、其他のものを統一されたといふことは、今日から見ればそれ程でないが如く思ふか知らんが、単に勉強するといふだけの能力があるといふばかりではいけないのである、一方には非常の胆力、非常なる勇気が要る、如何となれば、一方に妨げるものがある、其中には随分詰らぬ愚痴も沢山あるのである、大分渋沢男爵も方々漁つて御覧なすつたならば、或る有力なる内閣の人々の書面などを反古の中から見出すかも知れぬ、なかなか面倒で吾輩の処にも色々なものが舞込んで来たのである、さういふことは表面の歴史には現はれて居ない、裏面である、今に之を明かにする時期が来るが、未だ生きて居る人間も大分居る、斯く申す吾輩も生きて居る、これが皆死んでしまはなければ、本当の歴史は現はれぬ、本当の歴史が現れて来れば、渋沢先生の功績などは愈々光輝を放つことと信ずるのである、これが私の云ふところの物質的文明と、精神的文明とが並び進んで行くところのものであつてこれは私が四十二年間の交際の中に常に敬服して居るところのものである、随分渋沢先生とも時々意見は衝突する、度々争つたこともある大分吾輩に向つて不平を言はれたこともあるのである、吾輩は淡白の人間で、時々人を罵る、人を罵倒することはある、けれども余り苦にはしない、渋沢君も少しそれに類して居るやうである、(笑)吾輩より渋沢君は少し余計怒るやうである、(笑)随分怒られることもあるところが井上侯は私より年が三つばかり多い、渋沢先生よりは五つ上だ、老人といふものは怒るもの、年寄になつて非常に怒られた、(笑)若い者は怒らぬ、吾輩年を取つたから怒りさうなものだが怒らぬ、まだ年を取らぬ、(笑)文明の老人は怒らぬ、文明の老人は年を取らぬ人間怒るやうになつたらお仕舞だ。
そこで先生の境遇が種々変つて、六年から第一銀行、それから先刻お話の通に有らゆる方面に働かれたのである、何故にさう働いたかといふと、第一物質的文明に経済社会が伴つて進まぬのである、誠に国が貧乏である、政府も貧乏だ、渋沢先生も第一静岡藩で貧乏に余程お困りなすつたらうと思ふ、其時に当つて金が欲しい、富が欲しい、寝ても覚めても考へずには居られぬ、今度は会計官になつて見ると、会計官の貧乏なること驚くべきものである、王政維新になつて、一国の政治外交を政府が引受ける、然るに政府がどういふ収入があるかといふに、幕府の所領と、王師に反抗した所の奥羽七藩の所領を削つたところのものより外ない、ところが関東は甚だ収穫が少い、殊に明治元年
 - 第42巻 p.351 -ページ画像 
から年々の洪水、殆ど饑饉の有様、収穫は無い、而して一国の政治を為す金が無い、そこで明治政府は静岡藩からやつて来ると余程ラクなものであらうと、渋沢君は思うて居られたか知らぬが、なかなか大きいだけに、貧乏は亦静岡藩より苦しい、此苦しい中に飛込んだから何でも国の富を進めよう、平たくいへば金が欲しい、寝ても覚めても忘れることが出来ぬ、これが渋沢先生の経済界に活動するところの動機となつたであらうと私は思ふ、金が欲しいといふのは利己的ではない之を以て国の為に働く、社会の為に働くといふので、自分の懐ろに金を入れようといふのではない、国の為に貧乏であるから金が欲しい、金が欲しいといふのは先づ静岡藩以来、明治政府以来忘る能はざるところのものである、然るに総て一般の社会はどうであるかといふに、廃藩置県に由つて人心は殆と方向に迷うたのである、何故といふと、御承知の通り、封建時代には、小藩は措いて大藩は皆銀行も藩でやつたのである、金融業も、運送業も、倉庫業も、皆藩がやつた、大阪に蔵屋敷を持つて居る、方々に蔵屋敷を持つて、其処に藩々の産物を以て藩が税を取る、税を取らぬでも、どうかすると売買を禁じて政府が買つて送る、斯ういふ訳であるのに、それが一朝にして廃されたから今日で言へば総ての銀行が先づ支払停止だ、郵船会社・商船会社、皆船を繋ぎて運送を止めたといふやうな訳、東京・大阪辺の倉庫も皆其業を止めた、一時に遣つたんだから大騒動、さうして藩々の少しばかり蓄へて居る米は、一時に売出したから米は暴落する、其当時政府の歳入は米だ、米を売つて金に代へなければならぬ、ところがもう三円四円に下落してしまへば愈々財政困難、何としても此三百藩の商人が一時に潰れたから、是から何等一つ法を以て国の商工業の発達を計らなければならぬ、此時に当つて、迚も一人一己ではいかぬ、何としても資本を集合しなければならぬ、所がなかなかさういふ機運に至らぬのである、其時に渋沢先生が第一銀行の頭取となつて、是から殆ど実地的の教育をやられたのである、そこで渋沢先生の門に、全国から商工業者の子弟の集まること夥しい、別に広告する訳ではないが、四方から集つて来る、そこで当るを幸に商工業に手を著けた、能くは存じませぬが、何でも総ての資本を集合して今日成立つて居るところの銀行諸会社の数を合したものが、鉄道は国有になつたが、今残つて居るものでも恐らく十億万に上るだらうと思ふ、斯の如く資本の集合の成立つたのが、今日商工業の発達する所以である、これは何に基して居るかといふと、機運が玆に至つたに相違ないが、これを導いて成立せしめたものは誰であるかといふと、即ち政府の非常な困難から、政府の政治上の事情から、余儀なく政府を去るや否や、身を実業に投じて国の商工業を盛にしよう、国の富を増さうといふことに力を尽して、富を増さんとすればどうしても一人一己の力ではいかぬから、何としても資本を集合しなければならぬ、と考へて尽力せられた渋沢君である、言換へれば会社を拵へることに就て、渋沢君が先づ大先生であります、恐らくは今日夥しい会社があるが、先づ渋沢先生の門に入らない者はないといふ位である、多分此竜門社の諸君は、各方面に働いて居られるから、それらの事は知つて居られると思ふ。
 - 第42巻 p.352 -ページ画像 
それから、私は一二隠れたことをお話する、私は御承知の通りに貧乏者である、昔から貧乏士族で、矢張今に貧乏である、ところがこれは先づ私の道楽である、即ち人の為に働くといふこと、それから私は有体に白状すると、余り学問をしなかつたのである、何故に学問をしなかつたかといふと、嫌ひでしなかつたのではない、境遇がさせなかつたのだ、吾輩の十五の時にコンモンドル・ペリーが遣つて来たのである、それから直ぐ学校騒動を起して、学校から放逐された、十八の年に学校を放逐された、先年高等商業学校の騒動を、渋沢先生の御尽力に依つて治めたといふことがあつたが、渋沢先生の如きお方が、吾輩の郷里に居れば宜かつた、(笑)がさういふものは無いから、所謂元兇処罰で放逐された、それから腹立紛れに、少しばかり西洋の学問をやつたが、もうどうも静かに学んで居る気がしない、少しばかり西洋のことを知れば知る程、何だか沈黙して居られなくなつて、始終飛び廻はつた、昔は有志家といへば偉い者のやうだが、今日の壮士の毛の生えた位の者だ、木刀などを振廻して暴れたものだが、兎に角それが為めに、大切なる学問の時機を学ばずして過ぎ去つたのである、是に於て吾輩自分の欠点を知つて居る、世の中は学問をしなければならぬ今日文明の世の中には殊に必要である、学ばなければ、何としても十分なる学術を応用して働くことは出来ないのである、今日は学術の世の中で、世界の競争は激烈である、生存競争、国際的競争、尽く学術的競争である、学ばなくてはならぬ、不幸にも自分は学ぶことが出来なかつた、そこで罪滅しに人でも教育して見ようかといふので、是に於て教育家といふ訳ではないが、世話をする、ところがさういふ道楽があるものだから、色々又さういふものを持込んで来る、持込まれると、吾輩貧乏者だから仕方がない、此事を御相談するのは沢山の知人もあるけれども、渋沢先生の外に御相談する人は無いのである、又外にあるか知らぬが、交りが狭いから――殊に渋沢君は古い交りである為に動もすると御厄介になる、大抵の人に相談して拒絶もしないが、一向纏らぬ、(笑)渋沢先生はそれを皆さう容易くお引受は下さらぬが、段々お話すると、古い友達ではあるし、又先生も余りお嫌ひではないやうで、そこでとうとう承諾される、ところが承諾しても、普通の人は其時限りだ、跡は忘れる、先生は一遍承諾すると、なかなか吾輩以上にシブトい、いつまでも忘れぬ、其事の存在して居る間は、何処までも熱心にお世話を下さる、同時に金を出す、吾輩能くも算当しないが、随分今日まで渋沢先生の懐ろを荒した、(笑)其荒されたのを少しも恩とも何とも思はない、これが吾輩の常に敬服して居るところである、今韓国銀行の話があつたが、韓国の教育などに就いても、吾輩或時権力のある、朝鮮のことに関係して居る政府の人から勧められて、渋沢先生などと沢山の後へに随つて、朝鮮の教育の仲間入をしたが、もういつの間にか勧めた人が段々逃げてしまつて、今日は僅かに渋沢先生と私と二人限りになつてしまつた、物は好いときには盛に人が附いて来るが、悪くなると皆逃げる、もう一つ虎の門に女子奨励会といふ女学校がある、丁度日本で欧化主義を鼓吹する時代に出来たもので、それは渋沢先生が主唱者ではない、其時分政府の有力なる欧
 - 第42巻 p.353 -ページ画像 
化主義の人達が主唱されて、私も勧めに与つて其間に名を出した、ところがいつの間にか主唱者がすつかり失くなつてしまつた、皆死んでしまつたのではない、生きて居る、そこで渋沢先生一人残て居る、今日でも虎の門の奨励会の学校は存在して居る、相当に立派な学校である、さういふやうなものを挙げて見ると、指を屈するに遑ない、教育慈善的事業、社会的事業、今日直接に利益を目的としない商工業以外の色々の事業に力を尽された事は、実に指を屈するに遑ない、先生の関係した会社が八十とかいふことである、さういふものを細かに挙げたならば、大方八十を倍する位の数は無論あらうと思ふ、殊に私が諸君にお知らせ致して、玆に男爵に向つて感謝の意を表するのは、私の早稲田の学校に対して、常に男爵の好意を以て御尽力下さることである、之を多数の諸君の前に御披露することは決して無用にあらずと思ふ、なかなか多方面に力をお尽しになり、殊に御大病後段々色々の事業も減さるゝといふに拘らず、早稲田大学の為には、始め創立の時にも非常に御尽力下すつて、更に今度第二の拡張に就ても、進んで御尽力下すつて、巨額の寄附金を二度、資金のみならず大学の為に間接に非常な御尽力を下されるといふことを、私は今日殊に竜門社諸君の前に於て、男爵に感謝致すのであります。
私が知つて居るのはまだ沢山ある、数へれば沢山ある、時が掛るから言はぬが、私の知らぬ方面に、それ以上多数のものがあるに相違ないと思ふのである、又聞き伝へでも沢山あるのである、殊に女子大学もこれは元私が主唱したが、御承知の通り吾輩金が無いものだから、何としても金の有る人を御頼みしなくてはならぬ、渋沢先生も女子奨励会を持つておゐでになり、其他養育院なり、何なり、夥しい関係を持つておゐでになるから、初めは余り御同意ではなかつた、殊に女子大学などは、時期尚早しといふ議論があつた、所が段々吾輩も説き、殊に女子大学の校長たる成瀬君が段々渋沢君を説いて、遂に渋沢君も御同意下すつた、さうすると今日はどうなつたかといふと、渋沢君は女子大学の中心になつて居る、さうして今日までなかなか学校は盛である、外の商売は繁昌すれば金が儲かる、学校は繁昌すると設備が愈々足らぬ、学校は営業とは反対の比例になる、商売は繁昌すれば金になる、学校は繁昌すれば金が足らぬといふ事になる、そこで会計の監督帳面を何遍繰返して見ても、渋沢先生が四十年の巧妙なる算数でも、どうも無いものを有るやうに遣ることは出来ぬ(笑)無いやうになると、とうとう又五千円又一万円、毎年御厄介になる、時々校長なり、其他の者を呼んで、これでは困ると云つて説得なさるけれどもどうも事実いかぬ、さうすると又仕方が無い、さういふものは私の知らぬ方面にも余程あるに相違ない、渋沢先生は理屈ッぽい、八釜しい人のやうだが、人情脆い、理屈は言ふが、いつの間にか人情に負けてしまふこれが吾輩の非常に敬服して忘る能はざるところである、是が何であるかといふと、利己的にやらずして世の中の為になる、国の為になる即ち精神的物質に由つて文明を進め、国の為め人の為めに貢献しようといふのであつて、初め青年の時に身を提げて難に赴くといふ先生の精神が、終始一貫してこの五十年の公生涯を経過したものであると思
 - 第42巻 p.354 -ページ画像 
ふ、それで私が最も敬服するのである、多分諸君も御承知のことが多からうと思ひますが、又多分初めてお聞きになつたお方もあらうと思ふ、余り長くなりますからこれで止めます(拍手)

    青淵先生答辞
閣下、淑女、諸紳士、此四十四回の竜門社秋期総会に、恰も私が古稀に達したといふことをば御祝ひ下さる為に、特に此会を御催しに相成つたのは、会員諸君に深く謝辞を申上げなければなりませぬ、殊に唯今竜門社長が其評議員の衆議に依つて作られたる私の古稀を祝する祝賀の文を朗読されましたのは、其文意実に懇到周密にして、私の長い経歴を親切なる意味を以て書き尽されたやうに感じまして、別して忝く思ひまするのです、但し其文章の中に聊か溢美になりはせぬかと恐れまする点はございますけれども、併し事柄は皆事実であつて、虚構仮設の文字は決してございませぬと思ふのでございます、唯永年の経歴が文章から見ますると、多少国家に社会に効能あつたらしう見えますが、私は常に自ら、其足らざるを虞れ、且憂へて居るのでございます。
大隈伯爵が前席に於ての御懇切なる御演説は、殆ど文明といふものに対して、精神的と物質的とに区別されて十分に御解釈を下されました又私の一身に就ては、五十年間の経歴を詳叙され、多少御聞き学問も在らしやつたやうでございますけれども、其四十年間の事は決して聞いたのでなくして見たのである、而も上の方から御覧下すつたのでありますから、能く御観察が届く、況や伯の明敏博識に於てをや、実に十分なる御研究御分析を下されましたから、此上に私が申上げる余地は無いのでございます、遠く其昔を回顧しても、亦今日を見ても、知己と仰ぎ上げるのは伯爵の如き御方の外に多く無いと思ひます、想ひ起す毎に度々申すことでございますが、明治二年十一月十八日に築地の伯爵の邸に参つて、八百万の神の御講釈を承つたことを、今猶其時の御有様が今日の御老体に変らず存して在らつしやるのは、伯が私を見て老衰せぬのは人意を強うすると言はれましたが、私は伯に謁してそれより五割も十割も我心を強うしますから、満場の諸君も定めて私と同じやうに、斯る老而益盛なる偉人を我邦に持つて居るといふことを、深く御喜びなさるであらうと思ふのでございます(拍手)
私は今日は申上げる言葉が無いのです、唯有難うございますと言ふに過ぎぬ、演説すべき程の材料も持つて居りませぬが、併しながら斯の如く竜門社の諸君が、私の古稀を御祝ひ下さるといふ、此歳月の経過に就いては多少の感慨を生ぜざるを得ませぬから、其点に就いて聊か自分の感想を玆に陳述して、さうして此社員一同、殊に評議員の心つくしの祝賀の趣意に御答しようと思ふのでございます、同時に竜門社の青年諸氏に対しては、私は斯く考へて居るから皆さんも斯様に心して貰ひたいといふことを、申添へたいと思ふのでございます。
学者とか詩人とかいふやうな人が、歳月の経つのを烏兎匆々とか、光陰矢の如しとか、形容詞を使ひますが、如何にも詐りでございませぬで、己れ自身が経過して見ると、歳月の過去つたのが、さながら昨日
 - 第42巻 p.355 -ページ画像 
か今日の如く考へられて、十年一昔と言ひますけれども、さつぱり昔のやうな感じがせぬで、十年猶今の如しと、反対して言ひたいやうな思ひを生ずる場合が多うございます、杜子美の詩に「事多歳月促」と云ふ句があつたと思ふ、是は私が是迄世事に対して大なる働を為しては居りませぬけれども、今伯爵が私の身上を御分析下された御言葉にもある通り、先づ公の事に就いて、凡そ有りと有らゆる事物に関係して、親切に心を用ゐる性質であると御称讚を戴きました、或は御誹り下すつたのかも知れませぬが……それは御言葉の通りであつて、自身が若し病にでも罹つて其事に従ひ得られぬといふ場合を除くの外は、微力ながら全身をそれに傾けて、其事に対してどうぞ其宜しきを計りたいといふの心を持つて勤勉致しました積りでございます、而して私の従事することは世の表面でございませぬから、所謂瑣事末節に汲々として居る嫌はございますけれども、併し其瑣事末節の為に事が甚だ滋く、其又滋き為に常に歳月を短く感ずる、故に古人の僅かな一句が私の身には大に趣味あるやうに感ずるのでございます、併し是は自分から主観して歳月を短く感じた意味であるが、又之を反対に考へますと、月日の経過は甚だ早いものである、月日の経つのは早いに依つて人は優長にして遊んで居つてはならぬと云ふ心になる、陶淵明の詩に「盛年不重来、一日難再晨、及時当勉励、歳月不待人」といふ句があつたと思ひます、是は丁度事の滋くして歳月短しの反対で、月日の方が吾々を待つて呉れぬといふのであります、今私の一身に於ても、或場合には歳月短しと感ずる時がある、又或場合には歳月がもう少しあつて呉れゝば宜いと考へる時もございます、試に或事業に就いて申せば、此事を是非仕上げて見たいと思ふ、是は商工業以外の事で、予て私が他の伝記体のものを編纂したいと心懸けて居りますが、十数年経つても未だ出来ない、其中に人は段々老衰してしまふ、所謂歳月が人を待たない、人も亦歳月を待たないで、黄泉の旅客となるかも知れぬ到底自分の生存中に終りを告げることが出来ないかなどと思ふと、歳月短しでなくて、歳月が斯く早く経つてしまつては困るといふやうな感じが致しますのでございます、又之を風雅に解釈して「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」と言うて居る人もあります、多分李泰白《(李太白)》の春夜桃李園に宴するの序にあつたと思ひます「而浮生若夢、為懽幾何、古人秉燭夜遊、良有以也」斯ういふやうな月日の観察は至極呑気である、至極風流であります、実に光陰は百代の過客、天地は万物の逆旅である、支那人はなかなか形容が上手であります、併し私は此月日の経過に就いて、既往十年間を今竜門社員の下された祝文の如くに利用致したやうに思ひますが、尚将来は如何に考ふるかといふことに付きまして、自分の希望を申述べて見やうと思ふのでございます。
唯今大隈伯の物質的文明と精神的文明とを明確に御解釈がございましたが、如何にも御言葉の通り、其初め私共の希望は、どう致しても今日の御国が唯形の上の文明ばかりを装うて居つては、決して真実な文明と言ひ得る者ではなからう、真実の文明は結局国の富といふことが先きであらうと思ふ、故に先づ物質的の文明を計るの外ない、此物質的文明を計るといふことは即ち富を増すといふことである、富を増す
 - 第42巻 p.356 -ページ画像 
と云ふことは、欧羅巴式の科学を用ゐて、欧羅巴式に事業を経営するといふより外ない、是は先輩諸公の皆深く心されたことであります、即ち大隈伯などの最も御主張なされたことであります、不肖ながら私も大に之に同意を表して、且つ想ふに、政治上から之を誘導するといふことも甚だ必要ではあるけれども、唯命令を用ゐ法則を以て之を誘ふばかりでは迚もいけない、其人あつて其事をやらなければ確実に進むといふことは出来ない、故に不肖ながら自身は主治者に立たずに、被治者となつて自ら行ふと云ふ覚悟を定めて、主として其衝に当りて其事を経営した積りであります、爾来四十年の歳月を経て、一身の富こそ成し得られぬのを恥ぢますけれども、唯今御分析下すつた如く、各種の事業に対して私の微力が国家の富を増殖したことが或は有り得ると、大隈伯の如き御明識を以て其御品評を戴けば、実に此上もない光栄と思ひますのです。
さりながら此物質的の文明が四十年の間に進んでは参りましたけれども、併し是が今日に満足どころではない、甚だ微々たるものである、之を昔日に較ぶれば稍々進んだと言ひ得るまでである、然るに第二の精神的文明が果して是に伴ふかといふに至つては、私は伴ひ得るといふことを申上げるに躊躇致すのでございます、蓋し政治上に学術上に種々の方面から精神的文明も追々に進みつゝあることは事実でございませうが、就中富を増す種類に於ける精神的文明が、物質的文明と同様に歩を進めつゝあるかといふに至つては、遺憾ながら否と御答をするの外ないやうに考へる、此点に於ては、老たりと雖も尚焦心苦慮して、之れが進歩を謀り、微力なりと雖も拮据尽瘁して、之れが改良を祈念致すのでございます。これが私の将来に於る唯一の希望であります。
此程室鳩巣といふ人の壬子試筆の詞といふのを見ましたが、是は儒者の見解から唯単に道徳に就いての説を述べたのでありますから、今の時代に於ては決して模範となり得るものではないやうでございます、併し壬子試筆の詞といふのは、鳩巣が七十五の年の元日の試筆に書かれた文章で、道学先生として最も抱負の念の強かつたことを深く喜ぶのでございます、私も七十以上になりましたから、望むらくは此精神的文明の事に就いては、鳩巣の自彊の説の如くに、己れ老いたりと雖も健康が欠けたりと雖も、どうぞ同じく祈念して、世の中の人々、少くとも己れと主義を同うし己れと経営を均ふする人々には、是非共深く覚悟して貰ひたいと思ふ、但し鳩巣の言はれたことは唯道徳を拡張したいといふに過ぎぬのでありますから、私の玆に希望するのは、唯孔孟の道徳、而も其道徳が先刻も大隈伯の御言葉の通り宋末の学者が之を曲解したものを希望するのではございませぬ、唯鳩巣の壬子試筆の詞に就て例として申上げるのは、其身体の衰弱して其精神の衰へたにも拘はらず、飽迄も之を以て貫きたいと云ふに至つては、流石に一世の碩儒と、二百年後の今日にも之を称して宜からうと思ふのであります、其文章は短いものでございますから、此処で一寸朗読して御耳に達します、蓋し漢学者の申分で其様に面白くはございませぬけれども、心入れの深いことを証し得るやうに思ひます。
 - 第42巻 p.357 -ページ画像 
 日月迭に移りて白駒の隙過ぎやすく衰病日に侵して黄金の術成りがたし、されば犬馬の齢是まであるべしとも思はざりしがいつしかも老の波より来てことしは七十あまり五つの春にもなりぬ、剰さへちかきころより身に痿疾を得て手足もあがらず起居もなやめるままに昔の董生を学ぶとにはあらねども此三とせ春の園を窺ふこともかなはねば閨の中ながら梢につたふ鶯の音に残りの夢をさまし枕にかをる梅が香に過ぎし昔をしのぶばかりになんありける、しかはあれど幸に若かりし時より学びの窓に年を経る甲斐ありて程朱の道にしたがひて鄒魯の風をたづね韓欧が文をこのみて、邯鄲の歩を学ぶにぞ老の寝覚も慰みぬべき、さても多くの年月を経て世のうつりかはる有様を考ふるに盛衰栄枯互に行きかふをば夢とやいはん現とやいはん、誠に富貴は浮べる雲の如く禍福は糾へる纆のごとしといへるに何かたがふ事あるべき、中に唯吾が聖人の建て給へる三綱五常の道のみ天地と並び伝へ古今の隔てなく是ばかりはかはる事あるべからず人として仰ぎ崇ぶべきは此道ぞかし、然れども儒教世に行はれざりしより人々義理に疎く利欲にさとくなる程に五常の道すたれて風俗日に下りゆくこそなげかはしけれ、もとよりいやしき身にて一代の風教を維持せんとすとも、わが力及ぶべきにあらねばひとへに蚍蜉の樹を撼かし精衛が海を塡むるに似たるべし、さはいへど世を憂ひ民を新にするも吾儒分内の事なれば是を度外におくべきにもあらず、世に老師宿儒と称する人の好みて異説を肆にし又は他道を雑へて仁義五常の沙汰をばよそにするこそうけられね、たゞ務めて新奇を競ひて俗耳を悦ばしめ時好に投ずるなるべし、いと口惜しき事なり、古人のいはゆる阿世曲学とは是等をいふなるべし、よし人はさもあらばあれ縦ひ風俗は昔にあらずなりぬともわが身ひとつはもとの如く仁義の道を守りつゝ前修の模範を失はじと思ふこそ、責て儒となりししるしともいふべけれ(下略)
果して全体を称讚すべきとは申されませぬけれども、儒教を奉ずる室鳩巣が、此時分の阿世曲学の士を厭うて、孔孟の真髄を世の中に拡張したいと心懸けたのは、篤学な人と称し得るだらうと思ふのであります、私の如きは勿論学者を以て任ずる者ではございませぬ、単に実業家の端くれに居るに過ぎませぬけれども、唯営利に汲々する積りではありませぬ、其志は国こそ富したけれ己れ一身の富を計つた積りはないのです、所謂物質的文明をば大に進めたいと四十年の間思ひましたけれども、それと同時に精神的の文明も亦向上させねばならぬといふことを考へた点に就ては、尚室鳩巣が孔孟の道徳を奨励するに苦心したと同一と申しても敢て憚りなからうと思ふのでございます。
然るに現時の世の中が、敢て精神的文明が進まぬとは申しませぬけれども、果して物質的文明のそれの如くに進歩して居るかと云ふことを大に疑ふ、疑ふと云ふは謙遜の言葉で、決して是に伴つて居らぬと申さなければならぬと考へる、故に元禄の頃に鳩巣が老衰し心神も萎え身体も疲れて居るにも拘らず、尚我身一つは元の身にして此世の中の進運を計らなければならぬと絶叫したといふことは、深く味つて之れを欽せねばならぬかと思ふのであります、況や今大隈伯より御高評を
 - 第42巻 p.358 -ページ画像 
得た如くに、私の身体が幸に鳩巣の如くに衰弱致さぬとあれば、自らも心を強うして、此精神的文明を大に進めたいと心懸けるのでございます。
更に今一つ竜門社員に御話して置きたいと思ふのは、既に偉人の称讚を受けますと、何か私が知識ある人、大なる働でも為した者の如くに思はれまするが、私はさういふ方には甚だ不得意で、諸君もさうは認めて下さらぬだらうと思ひます、況や今申上げまする精神的文明を進めたいといふ心懸は、鳩巣の道徳を其当時に、拡めたいと云ふのに聊かも譲りませぬけれども、併し既に大に老衰して居るといふことは免れぬ、此老年の者が若い人に対して、己れの身体を如何に処するが宜いかといふことは最も注意せねばならぬと思ふのであります、即ち新旧事物の調和といふことを計つて行かなければならぬと思ひます、昨晩も或席で、人は仏教の説の如く三世を具へて居る、老人は過去を説きたがる、若い人は未来の理想を言ふ、中年の人は現世に心を尽す、丁度三世が揃ふ訳になる、故に新旧事物の調和といふことを老人から能く考へなければ、悪くすると三世の配合が工合好く行かぬやうになりはせぬかと思ふのであります、是は若い人からも心せねばならぬが先づ老人から思慮せねばならぬやうに思ふ、既往の経歴は斯の如くである、其経験からして斯く処して行つたら宜からうといふ場合には、老人を尊重するといふことが然るべき訳である、併し此世は駸々として進み行くから、単に老人にのみ待つと云ふやうな考であつたならば此世の中は退歩せぬとも言はれぬ、私共は二十三・四の時には、六・七十歳の人は老耄れだ、あんな人が社会に幅を利かして居るからいかぬとまで思ふた、故に満場の青年諸氏が、どうぞ渋沢などは早く引込んでしまへば宜いと思ふか知れませぬ、又さう思はなければならぬ、斯く申すと、大隈伯爵に対しては、私より又更に年長であらつしやるから、最早引込んだが宜からうといふ諫言でも呈するやうに御観察されるか知れませぬが、決してさう云ふ意味ではありませぬ(笑)新旧の調和は老人なり若い者なり相待つて宜しく之を和衷して、各々其本能を尽すやうにありたい。
是に於て私は一寸変つた御話があります、唐子西といふ人が古硯の銘といふものを書いてありますが、唐人はなかなか旨いことを考へると思うて、深く其文章を愛読します、是も道徳説でもなければ、文明論でもない、唯物の調和を考へるに就ての一説であります、私は常に古文真宝を好んで読みますから、此処に唐子西の古硯の銘を一寸読んで見ませう、敢て新旧物といふではありませぬが、頗る種類違ひのものを相調和して行くと云ふことを論じてある。
    古硯之銘
 硯与筆墨蓋気類也。出処相近任用寵遇相近也。独寿夭不相近也。筆之寿以日計。墨之寿以月計。硯之寿以世計。其故何也。其為体也。筆最鋭。墨次之。硯鈍者也。豈非鈍者寿而鋭者夭乎。其為用也。筆最動。墨次之。硯静者也。豈非静者寿而動者夭乎。吾於是而得養生焉。以鈍為体。以静為用。或曰。寿夭数也。非鈍鋭動静所制。借令筆不鋭不動。吾知其不能与硯久遠也。雖然寧為此勿為彼也。銘曰不
 - 第42巻 p.359 -ページ画像 
能鋭因以鈍為体。不能動因以静為用。惟其然。是以能永年。
斯う云ふ文章でございます、是は単に一器物に対して器類が同じくして用事の異るを評して、面白く説を設けたのでありますが、私は丁度老人と青年との配合にも、心して用ゐ得られることではなからうかと思ふのです、況や多数の人々の中には、性質の静かなるも動くも、或は鋭きも種々様々なる差別がございまする、此差別に依つて之れを調和して大に益することになるのでございます、斯く申す私の如きは、或は能く働いたといふ場合からは、鋭く若くは動くものと御看做を蒙つたかも知れますぬけれども、自身の心は成るたけ静かに、又其性質は甚だ鈍い者である、故に鈍い静かが即ち此永年たることを得るかと思ふのであります、斯く申しますると、大隈伯の如きは極く活動の激しい如何にも鋭利な御方である、併し是を私から申上げると蓋し鈍くはないか知りませぬが、其間に大に静なる態を具へてござると思ふ、是を以て伯も永年たることを御保ちなさるゝのでございます、私の意見はまだ申上げ尽しませぬけれども、余り時間を費しますから、玆に竜門社員の今日特に私の為に祝賀筵を開いて下されたことを深く感謝し、且つ大隈伯の如き大偉人が特に御繁忙の所を御差繰なされて御臨場下され、且御懇切なる御演説を賜はつたことを、此場合に於て深く陳謝致します。(拍手)


竜門雑誌 第二七〇号・第七〇―七五頁明治四三年一一月 ○竜門社総集会(DK420085k-0002)
第42巻 p.359-364 ページ画像

竜門雑誌 第二七〇号・第七〇―七五頁明治四三年一一月
    ○竜門社総集会
△青淵先生古稀の寿筵 第四十四回秋季総集会の模様は附録に詳記せるを以て、玆には唯その概要を掲ぐべし、連日降続ける秋雨は殊に其日の暁に至り一天拭ふが如く晴れ渡りて、心なき天地も青淵先生の古稀の寿を祝ふものゝ如く、朝来曖依村荘に打集ひたる紳士淑女は五百有余名と註せられぬ、軈て定刻に至るや幹事八十島親徳君は壇上に立ちて「我々会員が日頃泰山北斗と仰ぐ所の青淵先生が、今や古稀の寿を迎へ、尚ほ矍鑠として壮者を凌ぐの御健康を保たれ、社会の為め事業界の為め拮据尽瘁せられつゝあるは、我々会員の欣喜措く能ざる所なり、因て第四十四回秋季総集会は其全部を挙げて、青淵先生七十寿の祝賀会に充つることに決定せり」云々と述べ、次で社長渋沢篤二君の祝辞、賀帖捧呈、大隈伯の演説、青淵先生の答辞あり、終りに当日の珍客たる米国シカゴ大学生(同校の野球団選手)の健康を祝して、玆に全く式を終れり、夫より青淵先生並に同令夫人御家族を中心として、会員一同愛蓮堂前に整列して、記念の撮影を為し、了りて園遊会に移れり、青淵先生には来賓大隈伯・相良大八郎・坪井博士・金井博士、シカゴ大学野球団選手エム・ヲルフ・クリヤリー。フランク・ジヨン・コリングス。フランク・エー・ポール三氏を別室に請じ、渋沢本社長・阪谷男爵・穂積博士も列席し、鄭重なる午餐の饗応あり、会員は思ひ思ひに園の内外の光秋を賞しつゝ興を尽して全く散会したるは黄昏頃なりき、当日の祝賀会に金品を寄贈せられたる諸君は左記の方々なり、玆に謹で芳名を録して、其厚意を感謝す
   一金参百円也          青淵先生
 - 第42巻 p.360 -ページ画像 
   一金五拾円也          第一銀行
   一金参拾五円也         渋沢社長
   一金参拾円也          穂積陳重君
   一金参拾円也        男爵阪谷芳郎君
   一金参拾円也          大橋新太郎君
   一金参拾円也          万歳生命保険会社
   一金参拾円也          東洋生命保険会社
   一金弐拾円也          堀越善重郎君
   一金弐拾円也          大川平三郎君
   一金弐拾円也          佐々木勇之助君
   一金弐拾円也          韓国興業会社
   一金拾五円也          東京印刷会社
   一金拾五円也          清水釘吉君
   一金拾五円也          清水一雄君
   一金拾円也           井上公二君
   一金拾円也           原林之助君
   一金拾円也           尾高次郎君
   一金拾円也           尾高幸五郎君
   一金拾円也           神田鐳蔵君
   一金拾円也           田中栄八郎君
   一金拾円也           中井三之助君
   一金拾円也           成瀬隆蔵君
   一金拾円也           白石元治郎君
   一金拾円也           諸井恒平君
   一金五円也           星野錫君
   一金五円也           岡本儀兵衛君
   一金五円也           野崎広太君
   一金五円也           寺井栄次郎君
   一金五円也           阿部吾市君
   一金五円也           湯浅徳次郎君
   一金五円也           山中譲三君
   一金五円也           諸井時三郎君
   一金五円也           諸井四郎君
   一金五円也           諸井六郎君
   一貝原益軒書の孔子像      大倉喜八郎君
   一清酒一樽           添田寿一君
   一麦酒弐百五十リーター     大日本麦酒会社
   一ミユンヘン麦酒四打      同社

名誉会員
 青淵先生    同令夫人
来賓
 大隈伯爵
客員
 - 第42巻 p.361 -ページ画像 
 金井延君       坪井正五郎君     角田真平君令夫人
    特別会員(いろは順)
 渋沢社長       同令夫人
 井上公二君      井上金治郎君     伊藤半次郎君
 伊藤登喜造君     伊藤新策君      一森彦楠君
 犬塚武夫君      岩本伝君       今井又治郎君
 石井録三郎君     石井健吾君      石川道正君
 服部金太郎君     原簡亮君       原林之助君同令夫人
 早速鎮蔵君      萩原源太郎君     萩原久徴君
 橋本悌三郎君     新原敏三君      西田敬止君
 西谷常太郎君     穂積陳重君同令夫人  穂積重遠君同令夫人
 堀井宗一君      堀井卯之助君     堀越鉄蔵君
 堀越善重郎君同令夫人 堀切善次郎君同令夫人 細谷和助君
 星野錫君       本多春吉君      土肥修策君
 鳥羽幸太郎君     沼間敏郎君      沼崎彦太郎君
 尾川友輔君      尾高幸五郎君     織田雄次君
 大原春次郎君     大橋半七郎君     大橋新太郎君
 大川平三郎君同令夫人 大田黒重五郎君    大塚磐五郎君
 大沢正道君      太田惣六君      岡部真五君
 岡本儀兵衛君     岡本銺太郎君     和田格太郎君
 渡辺嘉一君      脇田勇君       河村徳行君
 神田鐳蔵君      神谷十松君      柏原与次郎君
 米倉嘉兵衛君     横山徳治郎君     吉岡新五郎君
 吉田久弥君      吉川宗光君      田辺為三郎君
 田中忠義君      田中太郎君      田中楳吉君
 田中栄八郎君     田中二郎君      田中元三郎君
 高橋波太郎君     高根義人君      高松録太郎君
 玉木泰次郎君     竹田政智君      曾和嘉一郎君
 早乙女昱太郎君    塘茂太郎君      成瀬仁蔵君
 成瀬隆蔵君      中井三之助君     中村鎌雄君
 仲田正雄君      仲田慶三郎君     永田甚之助君令夫人
 南須原巻五郎君    村井義寛君      村上豊作君
 宇野哲夫君      鵜飼勝輔君      内田徳郎君
 内山吉五郎君     浦田治平君      上原豊吉君
 植村澄三郎君     野中真君       野口半之助君
 野崎広太君      倉沢粂田君      日下部三九郎君
 八十島親徳君同令夫人 八十島樹次郎君    矢野由次郎君
 矢木久太郎君     山中譲三君      山中善平君
 山田昌邦君      山口荘吉君      山下亀三郎君
 松谷謐三郎君     松平隼太郎君     松本常三郎君
 増田多郎君      増田明六君      福島甲子三君
 小林義雄君      小林武次郎君     小橋宗之助君
 小西喜兵衛君     小金沢久吉君     古田中正彦君
 郷隆三郎君      寺井栄次郎君     阿部吾市君
 - 第42巻 p.362 -ページ画像 
 青木直治君      麻生正蔵君      浅野総一郎君令夫人
 浅野彦兵衛君     朝山義六君令夫人   足立太郎君
 安達憲忠君      佐藤毅君       佐々木興一君
 佐々木清麿君     佐々木勇之助君    斎藤峰三郎君同令夫人
 斎藤章達君      斎藤精一君      阪谷芳郎君同令夫人
 桜田助作君      笹沢仙左衛門君    木戸有直君
 弓場重栄君      湯浅徳次郎君     目賀田右仲君
 三浦小太郎君     南貞助君       宮下清彦君
 清水一雄君      清水揚之助君     清水釘吉君
 白岩竜平君      白石元治郎君     芝崎確次郎君
 渋沢義一君      渋沢元治君同令夫人  下野直太郎君
 肥田英一君      弘岡弘作君      諸井六郎君
 諸井時三郎君     諸井恒平君      諸井四郎君
 桃井可雄君      関直之君       関誠之君
 関屋祐之介君     杉田富君       鈴木金平君
 鈴木紋次郎君     鈴木清蔵君      鈴木善助君
    通常会員(いろは順)
 井田善之助君     井出徹夫君      伊藤美太郎君
 伊沢鉦太郎君     猪飼正雄君      飯島甲太郎君
 五十嵐直蔵君     磯野孝太郎君     家城広助君
 石井与四郎君     石井義臣君      石井健策君
 石川竹次君      石川政次郎君     石田登太郎君
 石田友三郎君     長谷井千代松君    長谷川粂蔵君
 長谷川弥五八君    長谷川謙三君     長谷川潔君
 秦虎四郎君      原直君        早川糸彦君
 林興子君       萩原英一君      伴五百彦君
 穂積真太郎君     堀内良吉君      堀内歌次郎君
 堀家昭躬君      本多竜二君      戸谷豊太郎君
 本郷一気君      豊田伝次郎君     千葉重太郎君
 小原富佐吉君     小倉槌之助君     小熊又雄君
 小沢清君       大庭景陽君      大野四郎君
 大沢強君       大沢茂君       大田資順君
 落合太一郎君     岡戸宗七郎君     岡田元茂君
 岡本亀太郎君     岡本鎌一郎君     奥川蔵太郎君
 和田勝太郎君     渡辺得男君      脇谷寛君
 鹿沼良三君      川口一君       河村桃三君
 河崎覚太郎君     河瀬清忠君      片岡隆起君
 金井二郎君      金子四郎君      金古重次郎君
 金谷丈之助君     金沢弘君       兼子保蔵君
 笠原厚吉君      神谷岩次郎君     横尾芳次郎君
 横田半七君      横田晴一君      吉岡鉱太郎君
 田岡健六君      田川季彦君      田中一造君
 田中繁定君      田中七五郎君     田村叙郷君
 田子与作君      田島昌次君      高橋耕三郎君
 - 第42巻 p.363 -ページ画像 
 高橋金四郎君     高橋毅君       高橋俊太郎君
 高橋森蔵君      高島経三郎君     玉江素義君
 武沢与四郎君     武沢顕次郎君     早乙女慎次郎君
 鶴岡伊作君      塚本孝二郎君     堤真一郎君
 綱取善次君      月岡泰治君      根岸綱吉君
 内藤種太郎君     成田吉次君      中村新太郎君
 中村習之君      中省三君       中山輔次郎君
 中沢饌太郎君     中北庸四郎君     中島穀之助君
 長野貞次郎君     村井盛次郎君     村田繁雄君
 村山革太郎君     宇治原退蔵君     浦田治雄君
 内海盛重君      上田彦次郎君     生方祐之君
 野村鍈太郎君     野村楊君       野村喜一君
 久保幾次郎君     八木安五郎君     八木仙吉君
 柳熊吉君       柳田観巳君      山崎一君
 山田栄之助君     山崎鎮次君      山崎巌君
 山代秀雄君      山田仙三君      山村米次郎君
 山内篤君       山本鶴松君      町田乙彦君
 松井方利君      松村修一郎君     松村五三郎君
 松本幾次郎君     槙安市君       藤木男梢君
 藤浦富太郎君     古野勝吉君      古田元清君
 福島三郎四郎君    福島元朗君      福本寛君
 小林武彦君      小林武之助君     小林徳太郎君
 小林市太郎君     小林茂一郎君     小林梅太郎君
 小山平造君      小森豊参君      古作勝之助君
 後久泰次郎君     近藤良顕君      河野通吉君
 河野間瀬次君     江口百太郎君     遠藤千一郎君
 遠藤敬一君      河南次郎君      阿部久三郎君
 相田嘉一郎君     相沢才吉君      赤木淳一郎君
 赤萩誠君       明楽辰吉君      綾部喜作君
 秋田桂太郎君     秋元孝治君      浅見悦三君
 浅見録二君      足立芳五郎君     粟生寿一郎君
 天野勝彦君      佐藤清次郎君     佐々木哲亮君
 斎藤平治郎君     斎藤又吉君      斎藤孝一君
 斎藤亀之丞君     猿渡栄治君      阪谷希一君
 阪田耐二君      桜井幸三君      桜井武夫君
 木村亀作君      木村弘蔵君      木内次郎君
 木之本又一郎君    北脇友吉君      菊地市太郎君
 湯川益太郎君     行岡宇多之助君    三田守運君
 三田利一君      三宅勇助君      御崎教一君
 峰岸盛太郎君     箕輪剛君       宮谷直方君
 渋沢武之助君     渋沢正雄君      渋沢秀雄君
 渋沢長康君      清水松之助君     芝崎徳之丞君
 柴田愛蔵君      塩川誠一郎君     島田延太郎君
 下条悌三郎君     東海林吉次君     樋口恭次君
 - 第42巻 p.364 -ページ画像 
 広瀬市太郎君     平井伝吉君      平岡光三郎君
 平岡五郎君      元山松蔵君      森島新蔵君
 森岡文三郎君     森谷松蔵君      関口児玉之輔君
 杉山新君       杉木元礼君      椙山貞一君
 鈴木正寿君      鈴木源次君      鈴木富次郎君
 鈴木順一君      鈴木旭君
尚当日に祝電を寄せられたる諸君は如左
 土岐僙君       葛原益吉君      山口賢次郎君
 宮里仲三郎君     清水百太次君     須永登三次君


(八十島親徳)日録 明治四三年(DK420085k-0003)
第42巻 p.364-365 ページ画像

(八十島親徳)日録 明治四三年    (八十島親義氏所蔵)
十月十一日 雨
九時兜町ニ至リ、阪谷男爵・渋沢篤二氏・杉田富氏・長谷井千代松氏等合シテ、来廿三日竜門社総集会ノ節青淵先生ニ奉ルヘキ七十寿祝賀文草稿阪谷男執筆ノモノニ就テ協議ス
○下略
   ○中略。
十月十四日 曇
○上略十一時ヨリ第一銀行ニ至リ、佐々木氏及杉田氏ト会シ、折柄横浜ノ石井健吾氏モ来リ合ハセ、阪谷男起稿ノ竜門社青淵先生七十寿祝賀文ニツキ合議修正ヲ加ヘ、午後六時ニ至リ漸ク段落ヲ着ク、大勉強ナリキ○下略
   ○中略。
十月廿日 晴
○上略
二時大隈伯邸ニ至リ、来廿三日竜門社青淵先生七十寿祝賀会ニ来臨演説ノ承諾ヲ与ヘラレアルモ、尚為念敬意ヲ表シテ取次迄来訪セシ旨ヲ申陳ヘ、三時兜町ニ至ル。○下略
十月廿一日 寒 雨
朝出勤、明後日ノ竜門社総会ニハ青淵先生七十寿ノ祝賀ヲ企ツルニツキ、祝賀文ノ調製、英訳、印刷、社会員名簿奉呈ノ準備、其他日々ニ中々ノ事務アリ、多忙也
○下略
   ○中略。
十月廿三日 日曜 晴
本日ハ王子曖依村荘ニ於テ竜門社第四十四回秋季総集会ヲ開キ、青淵先生七十寿祝賀式ヲ挙行スルノ当日ナルニツキ、過日来最天気ヲ気遣ヒタルニ、連日ノ雨漸ク晴レ、今朝ヨリ快晴トナリ先以大慶也、予ハ目黒・巣鴨間ヲ山ノ手電車ニ乗リ九時十五分王子邸ニ至ル、今日ノ祝賀ノ為ニハ過日来準備セシ祝賀文及社員全体ノ署名ノ表装帳、祝賀文写ノ日英両文印刷等モ一切出来シ、万事準備行届キ、午前十一時円庭ノ天幕内ニテ開会、幹事タル予ハ開会ノ挨拶ヲ為シ、次ニ社長ハ青淵先生ヲ壇上ニ導キテ後、此処ニ祝賀文ヲ朗読ノ上、紀念ニ作リシ祝賀文署名帳ヲ献呈スルノ式アリ、次ニ大隈伯ノ演説ニハ、先生ノ大蔵省
 - 第42巻 p.365 -ページ画像 
在官時代ノ尽力ヨリ、先生カ国利民福ヲ一心ニ心掛ケ只至誠一貫、人ノ為、社会ノ為、国家ノ為ニ計ラレタル功績ヲ讚シテ、祝賀ノ意ヲ叙セラルヽ事約一時間、終ニ青淵先生ノ答辞的感慨的演説アリ、之ニテ式ヲ終リ、園遊会・余興等如例、今日ハ祝賀会ナルタメ来会者非常ニ多ク、五百五十名ニ達ス○中略目下シカゴ大学ヨリ来朝ノ野球選手三名モ、男爵ノ賓客トシテ来会、是等ニハ大隈伯ト共ニ待遇シ、別室ニテ洋食ノ午餐ヲ進ス、此ノ如クニシテ本日ノ総会ハ目出度終了○下略


富の日本 第一巻第一一号・第三三頁明治四三年一二月 青淵先生古稀の寿筵(DK420085k-0004)
第42巻 p.365 ページ画像

富の日本 第一巻第一一号・第三三頁明治四三年一二月
    ○青淵先生古稀の寿筵
 青淵先生渋沢男爵は本年古稀の寿に達せられたるを以て、其門下たる竜門社に於ては、其寿を祝すべく、十月廿三日を卜し、王子滝ノ川の曖依村荘に於て、其祝賀会を開きたり、連日降続ける秋雨は、其暁に至り名残なく霽れ渡りて、天高く気清く、園遊会には誂向の好日和なりしかば、朝来村荘を指して詰掛たる紳士淑女は軈て五百余人と註せられぬ、定刻に至り幹事八十島親徳氏開会の辞を述べ、社長渋沢篤二氏は約三十分に渉り長篇の祝文を朗読し、右の祝文に添ゆるに、同社会員各自が氏名を自署せる色紙を集めて一巻とし、之に美麗なる装釘を施せる記念帳を以てし、之を先生に捧げて祝意を表し、次で大隈伯は、四十年来の親友として、男爵が大蔵小輔時代以来四十年間の公生涯中に於ける隠れたる善行美徳を頌揚して満腔の祝意を表し、之に対し、髪は黒く顔の艶は棗の如き青淵先生は、恭く壇上に立ちて慇懃に答辞を述べ、終りに渋沢篤二氏は、当日の珍客たるシカゴ大学野球団選手たるヲルフ氏等の健康を祝して式を終り、次で同園の記念亭たる愛蓮堂(朝鮮平壌より移したるもの)の前に、青淵先生並に同令夫人及び家族の方々を中心とし会員一同整列して記念の撮影を為し、其れより園遊会に移り、手品・曲芸・アイヌ踊等種々の余興あり、一同歓を尽して帰途に就きたるは夕暮なりき、当日祝歌祝詩を寄せられたる人々は左の如し
  △きくの頃古稀の寿筵に五色をよみいれて  鶴彦
髪くろく心は赤き青淵の
     君に千代そふ黄菊しら菊
  △古稀                  槙夏子
功しもよはひもまれにたかさごの
     まつの千とせは君ぞしるらむ
  青淵先生古稀寿              大庭景陽
夙夜何辞吐握労 竜門之社導群豪
仰公七十身猶健 湖海声誉北斗高