デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.365-376(DK420086k) ページ画像

明治44年5月7日(1911年)

是ヨリ先、四月二十六日、渋沢事務所ニ於テ当社評議員会開カレ、栄一出席ス。次イデ是日、当社第四十五回春季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。
 - 第42巻 p.366 -ページ画像 
栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK420086k-0001)
第42巻 p.366 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
四月二十六日 曇 軽暖
○上略 午後六時竜門社評議員会ヲ開キ、種々ノ議題ニヨリテ協議アリ、七時晩飧ヲ共ニシテ、食後更ニ各種ノ新問題アリテ、夜十一時ニ散会帰宿ス○下略


(八十島親徳)日録 明治四四年(DK420086k-0002)
第42巻 p.366 ページ画像

(八十島親徳)日録 明治四四年      (八十島親義氏所蔵)
四月二十六日 晴
○上略今日午後五時ヨリ兜町ニ於テ久シブリ竜門社評議員会開会、青淵先生・渋沢社長・佐々木勇之助氏以下十数名出席(穂積・阪谷両氏欠席)、入社申込ノ事、来月総会ノ事、評議員半数改選ノ事、昨年度社務及会計報告ノ事、其他決定ノ後、社員中ノ有志即同志ノ会晩餐ヲ組織シ二、三ケ月毎ニ開会シ懇親ヲ計ルノ件等協議ヲナシ、又青淵先生ヲ中心トシテ教育時事問題等ニ花ヲサカシ、十時半散会シタリ
○下略


竜門雑誌 第二七六号・第四七―四九頁明治四四年五月 ○竜門社評議員会(DK420086k-0003)
第42巻 p.366-368 ページ画像

竜門雑誌 第二七六号・第四七―四九頁明治四四年五月
○竜門社評議員会 四月廿六日午後五時、日本橋兜町渋沢事務所に於て、本社評議員会を開きたり、出席者左の如し。
 青淵先生       渋沢社長
    評議員
 土岐僙君       植村澄三郎君
 八十島親徳君     佐々木慎思郎君
 佐々木勇之助君    斎藤峯三郎君
 清水一雄君      桃井可雄君
 杉田富君
社長渋沢篤二君議長席に就き、幹事八十島親徳君より左記の事項を提出し、何れも満場一致を以て之を可決したり。
一、昨年度社務及び会計報告の承認(別項参照)
一、入社申込者に対する承諾(別項参照)
一、第四十五回春期総集会を来る五月七日午後一時飛鳥山曖依村荘に於て開会の件
一、評議員市原・原・故西脇・穂積・星野・堀越・植村・八十島・福島・斎藤の十君任期満了に付き改選の件
 本件は本社社則第十六条に依り留任者の推選に依つて社長之を選定すべき事項なるに付き、近日留任者は集合し、昨年七月の評議員会に於て決定したる方針に基き投票を行ふことに申合せたり。
右終り例に依つて別室に於て晩餐会を開き、此席には前評議員たる石井健吾君・尾高次郎君・諸井恒平君も加りたり。
尚食後更に会議室に集り、青淵先生を中心として、教育其他時事に関する諸問題に就き面白き談話を交換し、其他同志と晩餐会に関する意見の交換などをして、散会せしは十一時に垂々とするの頃なりき。
 - 第42巻 p.367 -ページ画像 
    社務報告
一本年度会員異動

 一入社会員          特別会員 六名 通常会員 拾六名
 一退社会員          特別会員 七名 通常会員 拾弐名
一年末会員現在数
 一名誉会員               壱名
 一特別会員               参百六拾壱名
 一通常会員               四百九名
   合計                七百七拾壱名
一本年度集会数
 一総集会                壱回
 一評議員会               参回
一雑誌発行部数
 一毎月一回               凡ソ八百六拾部
 一本年度発行総部数           壱万四百部
 一青淵先生七十寿祝賀紀念号発行部数   弐千部
    会計報告
      貸借対照表(明治四十三年十二月卅一日現在)
        貸方(負債)
一金参万五千参百五拾円也         基本金
一金壱千百八拾五円五銭          積立金
一金九百円也               未払金
一金壱千弐百六拾円七拾銭         収入超過金
 合計 金参万八千六百九拾五円七拾五銭
        借方(資産)
一金参万弐千六百壱円拾五銭        第一銀行株式四百参拾壱株
一金四百七拾五円也            四分公利債額面五百円
一金四拾弐円也              保証金
一金弐百参拾壱円七拾壱銭         仮払金
一金参拾参円拾銭             什器
一金五千弐百弐拾六円七拾壱銭       銀行預金
一金八拾六円壱銭             現金
 合計 参万八千六百九拾五円七拾五銭
      収支計算書
        収入の部
一金弐千参百弐拾弐円八銭         配当金及利子
一金千六百九拾円九拾銭          会費収入
一金八百拾円也              総集会寄附金
一金弐拾六円弐拾銭            雑収入
 合計 金四千八百四拾九円拾八銭
        支出の部
一金九百五拾六円弐拾九銭         春季定時総集会費
 - 第42巻 p.368 -ページ画像 
一金六拾六円拾弐銭            集会費
一金千百八円五拾参銭           青淵先生七十寿祝賀に関する費用
  金九百円                紀念号代
  金百七拾七円五拾銭           会員名簿及祝賀文にかゝる費用
  金参拾壱円参銭             郵税及雑費
一金七百六円四拾八銭           印刷費
一金参拾参円弐銭             郵税
一金七百拾八円四銭            報酬及雑費
 合計 金参千五百八拾八円四拾八銭
  差引
   金千弐百六拾円七拾銭        収入超過金
                     積立金に編入
△評議員半数改選 前記の如く評議員の半数改選を行ふに付き、留任者諸氏は四月廿八日第一銀行に集合して無記名投票を行ひ、社長之を開票せられたるに、其結果は左の如く当選したり。
   石井健吾君 (再)穂積陳重君
(再)星野錫君     尾高次郎君
   高根義人君    日下義雄君
(再)八十島親徳君   明石照男君
   佐々木清麿君   諸井恒平君
斯の如く確定したるを以て、渋沢社長は直に之を各当選者に通知し、何れも其承諾を得たり。


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK420086k-0004)
第42巻 p.368 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年        (渋沢子爵家所蔵)
五月七日 雨後半晴 軽暖
○上略午飧後ヨリ天気稍晴レテ、竜門社員続々来会ス、丘博士進化的衛生説アリテ一同興味ヲ覚フ、終ニ余ノ一場ノ訓示演説アリテ後、園遊会ニ移リ、各処ニ露店又ハ種々ノ余興アリ、一同歓ヲ尽シ、午後五時散会ス○下略

(八十島親徳)日録 明治四四年(DK420086k-0005)
第42巻 p.368 ページ画像

(八十島親徳)日録 明治四四年 (八十島親義氏所蔵)
五月七日 少雨午後晴 日曜
本日ハ、王子渋沢邸ニ於テ、竜門社第四十五回春季総集会開催、尤モ本回ハ、前例ヲ破リテ午后一時開会、演説終リテ後、露店ト余興ヲ同時ニ開クノ方法ヲ取レリ、尤予等ハ午前中ヨリ同邸ニ赴ク、幸ニシテ雨アガリタリ、幹事タル予ハ、社長ニ代リテ開会ヲ宣シ、社務及会計ノ報告ヲナス、演説ハ丘浅次郎博士ノ進化論ヨリ見タル養生法、青淵先生ノ道徳ト智識ノ関係ニ就テノ講話、何レモ有益ノ談話也、終テ園遊会ニ移ル、偕楽園ノ弁当ニ代ユルニ、ヘツツイガシノ笹巻鮨ヲ以テス、珍趣向ナリシ、社長ハ本日出席ナシ、病気ノ為ト披露セリ、夜九時半帰宅


竜門雑誌 第二七六号・第四四―四七頁明治四四年五月 ○竜門社春季総集会(DK420086k-0006)
第42巻 p.368-371 ページ画像

竜門雑誌 第二七六号・第四四―四七頁明治四四年五月
    ○竜門社春季総集会
 - 第42巻 p.369 -ページ画像 
竜門社春季総集会は、予定の多く五月七日午後一時より、飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり、夜来の豪雨は歇みたれども、雲低ふして、陰晴定かならず、諸般の準備は行届きたれど、来会者如何あらんかと気遣はれしが、漸次霽れ模様となりて、定刻前に詰め掛けたる会員も少からず、続いて一と汽車毎に幾十の会員がドヤドヤと雪崩れ込みて、午後一時過には二百有余名に達したり、同二時半会員一同広庭に設けられたる会場に集るや、当日渋沢社長には微恙の為め、医師の戒告に依り欠席せられたれば、八十島幹事代つて開会を宣し、前年度の社務及び会計報告を為し、次いで講演会に移り、五月二日欧米銀行業視察を遂げて帰朝せる第一銀行本店副支配人野口弥三君の『欧米視察感想談』、理学博士丘浅次郎氏の『如何にして天寿を全うすべきか』最後に青淵先生の訓戒演説(以上の演説は次号に掲載すべし)ありて講演会を終り、次いで園遊会に移れり、時に陰雲散じて木葉繁れる梢を渡る風は熱からず寒からず、園遊会には誂へ向きの好日和となり、会員は己がじゝ其処の摸擬店、彼処の樹陰に忍びて庭園の風致、扨ては田野の景色を賞しつゝ歓談笑話湧くが如く、大神楽・剣舞の余興さへありて一同歓を尽し、名残惜しげに三々伍々帰途に就きしは黄昏頃なりき。
前年下半期の会計報告及び当日の来会者は如左。
名誉会員
 青淵先生       同令夫人
来賓
 丘浅次郎君      添田寿一君
    特別会員(いろは順)
 井上金次郎君   石井健吾君   伊藤登喜造君
 原田直之助君   原林之助君   橋本悌三郎君
 萩原久徴君    西田敬止君   新原敏三君
 西村直君     穂積陳重君   穂積重遠君
 堀切善次郎君   堀田金四郎君  戸田宇八君
 土岐僙君     鳥羽幸太郎君  利倉久吉君
 土肥修策君    大原春次郎君  大塚磐五郎君
 尾高幸五郎君   尾高次郎君   尾川友輔君
 渡辺嘉一君    川村桃吾君   川田鉄弥君
 川村徳行君    吉岡新五郎君  横山徳次郎君
 米倉嘉兵衛君   横田清兵衛君  田中太郎君
 高橋金四郎君   角田真平君   坪谷善四郎君
 成瀬隆蔵君    永田甚之助君  村井義寛君
 村上豊作君    内山吉五郎君  上原豊吉君
 野口半之助君   野口弥三君   倉沢粂田君
 山中善平君    山中譲三君   八十島親徳君
 矢野由次郎君   矢野義弓君   松本常三郎君
 松平隼太郎君   前田青莎君   増田明六君
 小林武次郎君   浅野泰次郎君  明石照男君
 麻生正蔵君    安達憲忠君   荒木民三郎君
 - 第42巻 p.370 -ページ画像 
 佐々木慎思郎君  佐々木勇之助君 佐々木清麿君
 佐々木興一君   佐藤毅君    斎藤峰三郎君
 木戸有直君    南貞助君    渋沢元治君
 渋沢義一君    渋沢治太郎君  芝崎確次郎君
 清水釘吉君    清水一雄君   清水揚之助君
 弘岡幸作君    森下岩楠君   森岡平右衛門君
 桃井可雄君    諸井恒平君   鈴木金平君
 鈴木清蔵君    鈴木善助君   杉田富君
    通常会員(いろは順)
 井田善之助君   市川廉君    石井与四郎君
 石井健策君    石田豊太郎君  石川竹次君
 伊藤英夫君    伊藤美太郎君  伊沢鉦太郎君
 家城広助君    猪飼正雄君   飯島甲太郎君
 長谷川粂蔵君   秦虎四郎君   林興子君
 林弥一郎君    早川素彦君   本多竜二君
 堀家照躬君    堀内良吉君   戸谷豊太郎君
 富田善作君    小沢清君    大沢強君
 大沢舒君     大平宗蔵君   大庭景陽君
 太田資順君    大野四郎君   岡本亀太郎君
 岡戸宗七郎君   岡原重蔵君   岡本謙一郎君
 尾上登太郎君   尾川友輔君   尾崎秀雄君
 落合太一郎君   和田勝太郎君  河瀬清忠君
 河崎覚太郎君   金子四郎君   金井二郎君
 兼子保蔵君    鹿沼良三君   笠原厚吉君
 笠間広蔵君    神谷岩次郎君  横田半七君
 横山正戈君    横尾芳次郎君  横田晴一君
 田中七五郎君   田中一造君   田中繁定君
 田川季彦君    田岡健六君   田島昌次君
 高橋耕三郎君   高橋森蔵君   武沢顕次郎君
 玉江素義君    早乙女慎次郎君 堤真一郎君
 塚本幸二郎君   月岡泰治君   中村習三君
 内藤種太郎君   滑川庄次郎君  成田喜次君
 中村新太郎君   村井盛次郎君  村山革太郎君
 宇治原退蔵君   上田彦次郎君  久保幾次郎君
 黒沢源七君    熊沢秀太郎君  山崎鎮次君
 山本鶴松君    山村米次郎君  山田仙三君
 八木安五郎君   八木仙吉君   柳熊吉君
 松村修一郎君   松本幾次郎君  町田乙彦君
 槙安市君     藤木男梢君   藤浦富太郎君
 福島三郎四郎君  福島元朗君   福本寛君
 福田盛作君    小山平造君   小林豊彦君
 小林武之助君   小林茂一郎君  小林森樹君
 河野間瀬治君   近藤曳顕君   赤木淳一郎君
 相田嘉一郎君   天野勝彦君   綾部喜作君
 - 第42巻 p.371 -ページ画像 
 粟生寿一郎君   桜井幸三君   桜井武夫君
 佐原正美君    阪田耐二君   酒井正吉君
 猿渡栄治君    木村弘蔵君   木之本又市郎君
 北脇友吉君    行岡宇多之助君 宮下恒君
 御崎教一君    三沢栄蔵君   三宅勇助君
 宮尚之君     渋沢秀雄君   渋沢長康君
 芝崎徳之丞君   塩川誠一郎君  塩川薫君
 森島新蔵君    森谷松蔵君   元山松蔵君
 鈴木富次郎君   鈴木正寿君   鈴木旭君
 椙山貞一君
又当日会費中に金品を寄贈せられたる各位は左記の諸君なり、玆に芳名を記して深謝す。
  一金参百円也          青淵先生
  一金五拾円也          第一銀行
  一金参拾五円也         渋沢社長
  一金弐拾円也          穂積博士
  一金弐拾円也          阪谷男爵
  一金弐拾円也          東京印刷会社
  一金拾五円也          佐々木勇之助君
  一金拾五円也          万歳生命保険会社
  一金拾五円也          東洋生命保険会社
  一金拾円也           韓国興業会社
  一金拾円也           浅野総一郎君
  一金五円也           佐々木慎思郎君
  一金五円也           野崎広太君
  一金五円也           星野錫君
  一金五円也           尾高幸五郎君
  一金五円也           尾高次郎君
  一金五円也           寺井栄次郎君
  一金五円也           山中譲三君
  一麦酒百リーター        大日本麦酒会社殿


竜門雑誌 第二七九号・第一一―一七頁 明治四四年八月 ○竜門社春季総集会に於て 青淵先生(DK420086k-0007)
第42巻 p.371-376 ページ画像

竜門雑誌 第二七九号・第一一―一七頁明治四四年八月
    ○竜門社春季総集会に於て
                      青淵先生
  本篇は、五月七日、曖依村荘に於て開催せる本社春季総集会席上に於ける、青淵先生の演説なり。編者識
 幸に雨があがりまして、此春季の総会も皆様の一日の歓を尽すことが出来ることゝ御喜び申します、野口君の欧米の御視察に付いての御話、続いて丘博士の進化論を吾々素人に分り易いやうに、且つ衛生に関する意味を学者的の範囲を外した御話のやうに伺ひまして、独り興味があるのみならず、大に会員一同利益を得て深く感謝致す次第でございます、私は更に申上げますこともないやうに思ひますけれども、第一に丘博士及野口学士の有益な御話をして下すつたことを陳謝致し
 - 第42巻 p.372 -ページ画像 
例に依りまして社員の御若い人々にいつもながら訓誡的の愚見を申述べやうと思ひます。
 博士の唯今の御説に依りますと、人の今日迄経過し来つたのはどれ程の年代か分らぬ、さうして自然に相応して段々に進化して来た結果所謂適者生存、人間に総ての物が応ずるのではなくして、人が自然に随て生存して行くのであるから、それに逆ふ考案は或場合には却て害を為すことがあるであらう、段々に此学問が進んで参りますれば、常に反対の刺激がなければ人も国も亡滅すると云ふ孟子の言葉がありますが、それも信ぜられぬやうであります、さりながら之を反対に考へますと、それならば昔の人が長生をする、医者だとか薬だとか云はぬ時分が一番健康であつたかと申しますと、さうばかりは言へますまいと思ひます、して見ますと、病は自然が癒して呉れて薬代だけを医者が貰ふと云ふならば、学者にも自然が教へて呉れるのだけれども、学理は学者が我物らしく講釈をすると云ふことが、丘君に対しても言へるかも知れぬと思ひます(笑)総て此智慧が進んで参ると、一方には自然を害し、或は生理上から云ふと健康を損する感があるか知りませぬけれども、やはり智慧を進め事物を増進させて行くと云ふことが、又事物の進化する道理であると思ふのでございます、唯或る場合には今丘君の御説の如く無暗に心配をし、薬に依つて健康を保つと云ふことになれば、唯今御諷刺を受けた如く、私共が毎日「タカヂアスターゼ」を服まなければならぬ習慣になつて居ります、服まなければ必ず胃病が起るとも思ひませぬけれども、服みつけると何となく服むと好い心持がする、冬になれば襟巻をする、襟巻をしなければ直に咽喉が悪くなるやうな気がする、「タカヂアスターゼ」や襟巻の厄介になつて段々身体を損じて行くのでございます、さらばと云つて或場合にはもうそんなものは無駄だと云つてそれを放擲すると、却て病を惹起すといふことが無いとは申せませぬ、詰り智慧を進めて行くと云ふことがどうしても此世の中の進歩に付いて甚だ必要なことであるが、併しそれと同時に持つて生れて居る此精神を進めて行くと云ふことが甚だ必要である、之を只治療と云ふことのみに拘泥して、自然の良知能なるものを進めて行くと云ふことを忘れると、悪くすると医術とか医学とか云ふものが余り進み過ぎて、却て人の身体を弱くするが如く、人の智慧を段々増して行くために其精神を弱くし、只弱いばかりでなく方面違ひに走つて行くと云ふことが生ずると私は考へますので、今、丘博士の生理に付いての御話を、仮りに人の精神作用に付いて考案を立てゝ一場の御話をして見たいと思ひます。
 詰り云へば智と徳との関係が如何なるものであるか、其調和は如何にしたら宜しいか、と云ふことが、丁度人の身体を健全にすると同様に人の精神を健全にするものではなからうか、若し此智慧のみに依ると云ふと随分人の行をして頗る危険ならしむる、然らば智慧を外にして、仁義道徳とか忠孝節義とか云ふ唯精神作用ばかりを主張して、さうして此智識と云ふものを甚だ粗略にすると、其弊害や、甚しきは昔の医術や衛生学などが進まぬ時のやうに、人は唯精神だけで持つものだと云ふやうになりましたならば、真正なる文明、完全なる富強は期
 - 第42巻 p.373 -ページ画像 
することが出来ないと思ひます、昔の支那の文明でも、以前の教方は仁義道徳ばかりを講じて居つたのでなくして、やはり総て此智を磨くと云ふことを頻に鼓吹して居つたやうに見える、度々申すことでありますが、例へば大学の教でも、修身斉家治国平天下と云ふことを段々に攻究して行きますと、知を致し物を格すと云ふことがあると云うて智識を磨くことを教の本に立てゝある、即ち学問と云ふことを鼓吹して居ります、どうしても物を知るといふことが根元である、ところが此智慧と云ふものは悪くすると、極く実直に敦厚になると云ふことが欠けて来る、即ち実学者とか経世者とか云ふ側の人が智識を見る言葉は、或は黠智だとか軽薄だとか、総て此智を厭ふ、智を厭ふの結果は遂に人をして極く野蛮素朴の方にのみ走りてしまふやうになる、後世の学者が始終此智を嫌ふと云ふ所からして、儒教といふものは段々に素朴にして智慧と云ふものを貶して、苟且にも黠智と云ふことをひどく卑しめるやうになつたゝめに、幕府時代の学問は其働が段々鈍くなつて来た、それで普通の事物は成るべく智を借りてやらぬやうにして事を行ふと云ふことに付いては心を篤うするとか精神を清めるとか云ふ方にのみ行き走つて、智識と云ふものを段々に疎んずるやうになりました、其関係は私が常に申して居ります、富と云ふものと仁義と云ふものとは同じ道行になつて居らぬやうに思ひますが、蓋し此富を成す、利益を図ると云ふことは人の働として為さなければならぬ、故に利益を図ると云ふことは己の求めることを遂ぐるに勉むるからして、廉潔とか正直とか云ふばかりにはいかぬ、そこで富を成すと云ふことは、人を欺いたり或は無理を通したりして我利を図るやうになります即ち富と仁義とは共に道行を為しかねる如くに考へる、智慧と精神と云ふものも、丁度さう云ふやうな有様で、今日迄経過して居つたと考へるし、今日迄ではない維新迄経過して居つたと云はなければなりませぬ、然るに欧羅巴の教は、精神と云ふ方に付いては宗教で教へて、さうして学問は多く智識を進める方になつてあります、此教が漸く普及して参りまして、智慧と云ふものを段々進めるやうになつて参りましたから、近頃此社会の道徳が薄くなつて来た、智慧ばかり進んで人の精神が悪くなつて来たと云ふことを聞くやうになりました、果して此説の如くならば、余程考へて見ねばならぬ所であると思ひます、丁度其点から考へますと、今、丘博士の仰しやつたことゝは意味が大分違ひますけれども、矢帳生理上医学とか衛生とか云ふものが悪くすると其体を弱くする、若し此智識を減じて精神のみを余り強めるやうになりますと、又昔へ戻つて行くと云ふ虞を生じます、明治十八・九年頃、頻に欧羅巴風が吹いた、余り進み過ぎたゝめに却つて頓挫を来したと云ふことがあります、どうぞ今日の場合に商業道徳であれ普通道徳であれ、道徳を進めて行くと云ふために今迄智識を進めた弊害を論じて、甚しきは弊を見て功を没することに社会人情がならないやうにありたいと思ひました、然らば又智慧だけ進んで精神は後にして宜しいかと申しますと、さうではないと御答しなければならぬ、実際を見渡しますと、如何にも智慧が進歩する程、精神が伴はぬ嫌ひがあると言はなければならぬ、殊に此処においでの方々は実業界に御従事の諸
 - 第42巻 p.374 -ページ画像 
君である、お互に其点に深く意を用ゐて唯智慧ばかりに走つて、其宜しきを制すると云ふ観念を少くして、智慧を磨くと同時に此精神を逞うすると云ふことに意を用ゐたいと思ひますのでございます。
 繰返して同じことを申すに過ぎませぬが、私は此事に付て、まだ欧羅巴主義の移つて来ぬ時代に、或政治家が此智慧のありつゝ精神の逞しかつたと云ふ実例を此頃発見しました、それを一つ御話して見たいと思ひます、其政治家といふは幕府時代に大に学問を研究した人でありまして、智慧を進めつゝ而して其精神が最も逞しいものであつたと云ふことを見ますと、今日吾々も勉めて智慧を磨くと同時に、精神の修養を為しつゝあるが、此百年以前の人に対して実に遜色なき能はずと思ふのでございます、それで其事を玆に御話して見たいに思ひますそれは即ち寛政度の老中たりし所謂楽翁公の事蹟であります、公の事蹟は度々三上博士だとか、又今日はおいでがないやうですが桑名藩の江間政発君などが能く調べて話されて居りますから、詳しい御話は今日は致しませぬけれども、唯一事、最も私が精神的の御方だと云ふことに深く感じて居るのは、天明七年に公が老中に為られた、老中に任せられて八箇月過ぎた後に、或神に誓文の直書が此処に現在してあります、それを私が写しましたから此席で読んで見ます、実に感心な御人であります、是に付いては私共が自分に疑を持つ位であります、其誓文といふは斯う云ふ文章であります。
 天明八年正月二日松平越中守奉懸一命心願仕候、当年米穀融通宜しく格別之高直無之、下々難義不仕安堵静謐仕、並に金穀御融通宜御威信御仁恵下々へ行届き候様に、越中守一命は勿論の事妻子之一命にも奉懸候而、必死に奉心願候事、右条々不相調下々困窮御威信御仁徳不行届、人々解体仕候義に御座候はゞ、唯今の内に私死去仕様に奉願候、生ながらへ候ても中興の功出来不仕、汚名相流し候より唯今の英功を養家の幸玆に一時の忠に仕候へば、死去仕候方反て忠孝に相叶候義と奉存候、右之仕合に付、以御憐愍金穀融通下々不及困窮、御威信御仁恵行届、中興全く成就の義偏に奉心願候 敬白
 是が松平楽翁公の自分で書いて、本所の吉祥院にある聖天に誓約した祈願書でございます、此誓文を見ますと余り良い文章でありませぬ至つて俗体であります、而してこれが公のまだ三十有余の時である、老中になる前から相当なる文学者であります、併し是は祈願書でありますから、此の如く俗体に書かれたのだと思はれます、余りに珍らしいものであつたから、先年養育院に其写を備へて置いたのでありますけれども、養育院でまだ幅物に拵へて置きませなんだから、此間安達幹事と話合つて、私が之を書て此五月の十三日の公の祥月命日に養育院に之を備付けやうと云ふことから、私は先刻迄に之を渡しました故に、此事を思ひ出しましたから此処に申上げるのでございます、之を養育院に備へるに付いて、私が斯う云ふ書面を拵へました、是は唯楽翁公の心願書の跋として本書の添書に致さうと思ふのであります。
 此誓文は松平定信公幕府の執政となられし後八箇月を経て、天明八年正月二日本所吉祥院に祀れる歓喜天に捧げられし密封の心願書なり、公薨去十数年の後寺僧これを発見せしも、寺宝として秘蔵せし
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を以て世人未だ曾て此事ありしを知らざりしが、明治の初其寺の衰頽と共に世に出でゝ今は公の後胤なる松平子爵の家宝となれるなり抑も公は幕府の衰世に当りて出でゝ宰輔の職に就き、一身以て中流の底柱となり、幕府の危殆を救ひ、能く中興の隆治を致せしは、固より天授の才識に因ると雖も亦以て正心誠意不自欺の実学修養に職由せずむばあらず、今此文を読みて当時を回想すれば公の精神躍如として楮墨の間に溢れ、人をして悚然として容を改めしむるものあり、而して我東京市養育院の興る亦実に公が遠大なる遺法の余沢に基く所なれば、此文に対し誠を推して敬重の意を表すれば自ら公在天の霊相感応するを覚ゆ、乃ち恭しく一本を摸写して之を本院の神位に充て、以て永く公の遺徳を誼れざらしめむとす。
 斯ういふ跋を書きまして之を養育院に保存しやうと思ふのであります、此事柄は左迄喋々しく御話する程ではないが、唯私は斯の如く智慧と精神との調和を能くした人が、既に幕府時分にあつた、不幸にして其時分の聖堂学者、即ち漢学を修めて居た人が、楽翁公のやうなる調和を能くしないために、前に申す通り富と仁義、智慧と精神が始終引離れて居た、今日欧羅巴学問の為に智慧を段々進めて行くと進み過ぎる、精神の修養がなければいかぬと云うて、甚しきは世間が智慧を嫌ふやうにまでなる、若し是がひどく誤解して行くならば欧羅巴の学問を嫌うて国粋保存といふことになつて、なまなかに智識などを進めて物質的のことにのみ走るから、日本の人情が斯様に軽薄になるから何もかも廃めてしまはうと云ふ議論が起らぬとも言へぬのでありますさう云ふことになりますと、却て文明の退歩になりはせぬか、実に此事はむづかしいものであります、併し百年以前に楽翁公と云ふ人が此の如き精神を以て幕府の政事を執つた、是ぞ即ち智慧と精神の適合した人と申して宜からうと思ひます、だから今日の政治界に在る人或は実業界に在る人でも、今の智慧は寛政時代の智慧よりは進んで居るに相違ない、相違ないが併し、公の如き精神の人が幾許あるか、此の如く自分の身命を擲つて此難局に当らうと云ふ政治家が現在に幾許あるか、又それと同じく、実業界に於ても智慧は大変に進みたるが、公の如く一身を犠牲にして社会公共の為めに尽すと云ふ観念を持つて、唯口に言ふばかりでなく、真実に力を尽す人が幾許あるか、斯う考へて見ますと、此百年前の楽翁公と云ふ人は実に敬重すべき人と思ひます殊に此誓文にも書いてございます通り、公の倹約の遺法が東京市の共有金として残つた、其共有金が養育院を起す端緒となつて、今日まで其余沢を被つて居る故に、其誓文を幅物にして之を養育院に祀つて置かうと云ふのであります、是は唯一の養育院の事を御披露するに過ぎぬのでありますけれども、私は楽翁公と云ふ人の遺した法に依つて養育院が創立されて居ると云ふことを、此処に申上げるのではなくして恰も今日の時代が、智と精神と仁義と富の調和に関する問題に付いては、完全な解決がまだ附いて居ないと言はねばならぬのであります、そこで是非之を完全に解決せしめ、此調和を全うしなければならぬと云ふことを、社会に十分唱道し、且つそれを事実に証明するやうになつて初めて、真正な国家とならうと思ふのであります、お互にどうぞ
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努めて其域に達したいと思ひますのでございます、竜門社諸君は別して其事に御注意御尽力あることを希望致します。(拍手喝采)