デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.376-393(DK420087k) ページ画像

明治44年11月19日(1911年)

是ヨリ先、是月十六日、当社評議員会、帝国ホテルニ開カレ、引続キ阪谷芳郎帰朝歓迎晩餐会催サル。栄一出席ス。次イデ是日、当社第四十六回秋季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK420087k-0001)
第42巻 p.376 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
十一月十六日 曇 軽寒
○上略 五時半帝国ホテルニ抵リ、竜門社ノ評議員会ニ出席ス、阪谷帰朝歓迎会アリ、中途余ハ華族会館ニ抵リ、石井次官ノ招宴ニ出席ス○下略


竜門雑誌 第二八二号・第五四―五五頁明治四四年一一月 ○竜門社評議員会(DK420087k-0002)
第42巻 p.376-377 ページ画像

竜門雑誌 第二八二号・第五四―五五頁明治四四年一一月
    ○竜門社評議員会
本社第九回評議員会は、十一月十六日午後五時より、帝国ホテルに於いて開かれたり、当夜の来会者は左の如し。
  石井健吾君     服部金太郎君
  星野錫君      土岐僙君
  大川平三郎君    高根義人君
  日下義雄君     八十島親徳君
  明石照男君   男爵阪谷芳郎君
  佐々木慎思郎君   佐々木勇之助君
  清水一雄君     諸井恒平君
  桃井可雄君     杉田富君
 当夜渋沢社長病気欠席に付き、前幹事八十島親徳君代つて評議員会召集の次第を述べ、次いで阪谷男爵座長席に着きて左の議案を附議したり。
      議案
第一号 入社申込者諾否の件
第二号 第四十六回秋季総集会開会の件
 一、時日 明治四十四年十一月十九日(日曜)午前十時
 一、場所 飛鳥山曖依村荘
 一、演説は青淵先生、男爵阪谷芳郎君に依頼の事
 一、当日の順序及細目は幹事に一任する事
第三号 幹事弐名選挙の件
 但幹事杉田富君は横浜へ転居の為め辞任申出あり、又幹事八十島親徳君は去四月任期満了せるに依る
第一号議案「入社申込者諾否の件」に就ては前幹事八十島親徳君の説明ありて原案通り異議なく即決し、第二号議案も亦原案通り即決し、第三号議案「幹事弐名選挙の件」は座長指名の動議成立し、阪谷男爵は直に八十島親徳君、石井健吾君を指名し、両君の受任挨拶ありて、
 - 第42巻 p.377 -ページ画像 
是れにて議案全部を議了して評議会を閉ぢ、別項記載の如く別室に於て十月二十一日無恙帰朝せる阪谷男爵の歓迎会を開かれたり。
○阪谷男爵歓迎会 別項記載の如く瑞士の平和会議結了後、倫敦より米国を経て十月二十一日無事帰朝したる男爵阪谷芳郎君の帰朝を祝する為、新旧評議員諸君等相諮りて、十一月十六日午後六時より、帝国ホテルに於て歓迎会を開きたり、当夜の出席者は左の如し。
 来賓
  男爵阪谷芳郎君      青淵先生
 来会者
  石井健吾君      服部金太郎君
  原林之助君      星野錫君
  堀越善重郎君     土岐僙君
  大川平三郎君     高根義人君
  植村澄三郎君     日下義雄君
  八十島親徳君     山口荘吉君
  福島甲子三君     明石照男君
  斎藤峯三郎君     佐々木慎思郎君
  佐々木勇之助君    清水釘吉君
  清水一雄君      渋沢元治君
  諸井恒平君      桃井可雄君
  杉田富君       野口弘毅君
  尾高幸五郎君     渋沢義一君
  上原豊吉君      矢野由次郎君
  増田明六君
軈てデザートコースに入るや、主人側総代たる日下義雄君起ちて、開会の辞を述ぶ。
 阪谷男爵閣下、閣下は米国のカーネギー氏の企図に係る瑞士の世界平和会議に列席すべく、前内閣の勧誘により、個人の資格を以て、本年七月十一日東京を出発し、西比利亜を経て同会議に列席の為め瑞士の首都ベルンに赴かれ、世界に於ける有名の学者諸氏と意見を交換し、軈て会議を結了し、八月十五日を以て帰途に就かれ、倫敦より米国を経て十月二十一日無事帰朝あらせられたるは、平素親密の関係ある吾々の慶賀に堪へざる所なり、閣下は経済上の見地より世界有数の学者諸氏と与に親しく膝を交へて、如何にして世界の平和を維持すべきかの問題に就て深く研究せられたることなれば、定めて有益の御話を齎らせるなるべく、且つ同時に欧米諸国に於ける所感談を聞くことを得ば幸甚なり云々
とて一同盃を挙げて男の健康を祝し、次で阪谷男爵起ちて先づ感謝の辞を述べ、且つ極めて有益にして趣味ある一場の演説(その概略は次号に掲載すべし)を為し、是れにて宴を閉ぢ、別室に移りて一同打寛ぎて思ひ出の歓談笑語に時の移るを知らず、散会したるは十時頃なりき、因に青淵先生には石井外務次官の晩餐会に臨まれる為め宴半に退出せられたるは一同の遺憾とする所なりき。
 - 第42巻 p.378 -ページ画像 

竜門雑誌 第二八四号・第六〇―六四頁明治四五年一月 ○欧米所感 男爵阪谷芳郎君(DK420087k-0003)
第42巻 p.378-380 ページ画像

竜門雑誌 第二八四号・第六〇―六四頁明治四五年一月
    ○欧米所感
                   男爵阪谷芳郎君
 本篇は、本社評議員佐々木勇之助・星野錫・八十島親徳諸君が発起となり、昨年十一月十六日午後七時より、帝国ホテルに於て催されたる阪谷男爵歓迎会席上に於て、阪谷男爵が挨拶旁々演説せられたる欧米視察団の摘要にして、素より其詳を悉せるものに非ず、歳末多忙の際男爵閣下の検閲を乞ふの余日なかりしを以て、編者が文責を負うて玆に之を掲載することゝせり。(編者識)
△百日の行程 今夕平生最も親密なる竜門社評議員其他の諸君の歓迎を辱ふしたるは、私の最も光栄とし深謝する所であります。御承知の通り、私は本年七月十一日に東京を出発しまして、敦賀より浦塩に渡り、西比利亜線を経由して、彼得堡・伯林を通過し、瑞西のベルンに着し、八月二日より同十四日まで二週間開かれたる万国経済学者会議に参列しました、閉会後私はカーネギー氏の招待を受けて居たので、仏蘭西から英国に渡り、更に大西洋を越えて米国紐育に到り、夫れから華盛頓に行き、鉄路南部諸州を経て十月四日桑港に着し、此処からサイベリヤ号に搭じて、同月廿一日に帰京したので、前後百日の旅行であります。
 会議の題目は予て新聞にも出て居りますから御承知で御座いませうが、ベルンに集りました人は孰れも各国に於ける第一流の経済学者であります。委員長のルート云ふ人は、米国の前国務卿で、共和党の大立物と仰がれて居る所の人で、我々二十名の委員は、表面は此の人の案内によつて個人の資格を以て参列したのでありますが、独逸のシユモーラー、英国のマーシヤル両氏は差支もあり、老年の故を以て出席を断られました、其他出席せられた人々は、世界有数の経済学者則ち独逸のミユーニツヒ大学教授ブレンタノー氏、伯林大学歴史教授で皇帝の信任厚き有名なるシヤーマン氏、墺国学派に属する墺国ビエナ大学教授フイリツポウイツチ氏、前大蔵大臣ベンーバルク氏、伊太利の前総理大臣ルザツチ氏、ローマ大学教授パンタラリオ氏、仏国の教授ジード氏、仏蘭西経済雑誌のボリユ氏、英国で倫敦「エコノミスト」雑誌のハースト氏、「スタチスト」雑誌のペーシ氏、米国のウイスコンシン大学教授ラインシユ氏、コロンビヤ大学教授のクラーク氏、丁抹のコツペンハーゲン大学教授のウエスカルト氏、和蘭の教授グラーベン氏、白耳義の上院議員ラーホンテン氏、瑞西の教授ボーレル氏等で、日本からは京都大学の助教授で、欧洲留学中なる小川郷太郎氏と私とでありました、勿論人員を制限しましたから列国悉く代表者を出したと云ふ訳では無いので、露国・支那・西班牙・葡萄牙等の出席者はありませぬでした、八月二日より十四日まで二週間、毎日午前十時よりと午後四時よりと、二回ベルン大学の講堂にて会議を開きましたが、用語は英仏独の三国語の内孰れをも使用することとし、議長にはフイリツポウイツチ氏を推しましたが、氏は中途にして病気の為めボーレル氏之に代りました、全体を四組に分けまして特別委員を設け、此の特別委員が各種の問題を調査し、其の決定したるものを総会に提
 - 第42巻 p.379 -ページ画像 
出して審議決定するのであります、調査事項は前提を置かずして論究することにしたのでありますが、之は前提があつては公平なる結論に達することが出来ぬからであります、而して出席者一同はベルネルホフなる一旅館に宿泊しまして、正式の会議以外に、或は食堂に、或は談話堂に、或は郊外ドライブに、時と処とを撰ばず邂逅する機会に於て、互に腹蔵なく意見を交換しましたので、其の間利益する所が極めて多かつたのであります。
△カーネギー氏の邸を訪ふ 只今申上げた通りベルンの会議が済んでから、カーネギー氏の招待に応じて、八月二十九日にスコツトランドの極北インバネスと云ふ停車場から尚ほ五哩ある所のスキボーのカーネギー氏の邸を訪問した。予て私共が同日停車場に着くと云ふことが予定されてあつたので、チヤンと自働車で迎ひに来られて居つた。行つて見た所が、十里四方に亘る大邸園で、家畜場もあれば牧場もあり花園もあれば日夜食膳に上る所の蔬菜の畑は勿論、山林もあれば海水浴場も設けられて居る。七十度位の温度で何時でも水浴をすることが出来る。其処には小蒸汽船が浮べてあつて、愉快に回遊することが出来る。カーネギーは夏季三ケ月間は此処で質素に愉快に静養せられて居るのである。
 斯くの如く設備は宏大なもので贅沢を極めて居るやうであるが、其の一事一物に就て見ると一つとして無駄なものはない。悉く有用なもので、是れぞ有つても無くても宜いと云ふやうな贅沢に属するものは一つもない。カーネギー氏は本年七十六歳であるが、矍鑠として壮者を凌ぐの趣きがある。明治十二年頃世界漫遊の途次日本へも来たことがあると謂はれて居つた。翁は単に金を蓄へ金を守ると云ふ人物でなく、理想もあり学識もあり、又著述抔もある、実に世界に於ける黄金界の大偉人である。私の最も感じたのは客の扱ひ方であつた。日本ではお客があると、召使ひや何かゞ彼方此方と奔走して接待振を見せるといふ風があるけれども、カーネギー氏の邸にはソンナ事は少しもない。召使の姿も見えなければ園丁の姿も見えない。尤も私の部屋と極てある処の召使と食堂の給仕は姿を見せぬ訳には行かないが、其他の者は頓と眼に触れない、朝起きて洗嗽をして居る内に、チヤンと部屋の掃除が出来て居る。庭園も何時の間に誰が掃除をしたのか、綺麗に掃除せられて居る。食堂へ行つて見ると、主婦人と主人の席丈けは極つて居るが、朝餐の時はお客の方は席順なしで、食堂の一方に備へてあるオートミル、パン、朝は給仕が居ないから銘々自分の嗜な物を喫べるのである。
△気の詰らぬ扱ひ振り それから昼と晩とはチヤンと席順が極つて居る。万事整頓したもので、日本の西洋料理の献立や何かとは、余程趣きを異にした所がある。靴抔も日本では客の出掛ける前に急いで磨くと云ふやうな事もあるが、是れも何時の間にか誰が磨くのか綺麗に磨いてある。夜、部屋に這入つて見ると、チヤンと寝巻までベツトの上に出してあるが、総て客を待遇ふ上に於て、客の眼障り気障になるやうな事は一切ない。丸で自由の天地に自由に羽を伸ばして居るやうな気持で、少しも窮屈を感ずることがなかつた。軈てカーネギーの邸を
 - 第42巻 p.380 -ページ画像 
辞して帰るときには、主人夫婦が玄関まで送り出して、主婦人の言はるゝには、「コンナ片田舎で不自由ですから、お弁当をお持ち下さい」と云つて、手づから弁当を渡して呉れると云ふ風で、其の待遇の平民的で懇切なるには感ぜざるを得なかつた。
△愛蘭人の性質 夫れからモウ一ツ私の感じたのは、英国内でもイングランド人とアイルランド人とスコツトランド人とは各々性質を異にして居る。イングランド人は真摯であるが、スコツトランド人は朴訥でアイルランド人は少しズルイ処がある。其の一例を挙げると斯う云ふ話がある。客あり曰く「ドウもアイルランドの車夫は極めた馬車賃の外に酒代をネダツて困る何とか夫れを避ける方法はあるまいか。」と云ふと「イヤそれは訳のない事だ、僕が遣れば決してソンナ不躾の事をさせない。」「ソンナラ賭を仕やう。」「よし」と云ふやうな訳で賭をして馬車に乗つた。軈て降りた所で、ドウするかと一方の紳士は気を注けて見て居ると、同行の紳士は一磅の金貨を出して遣つた。サンキユウと云つて別段酒代をネダリもせずに去つた。考へて見ると一志か二志遣れば宜いのに一磅遣つたのだからネダらぬも道理である。所が程なく返つて来て「旦那この一磅の金貨をくづして使ふのは惜しいものですからドウカ別に酒代を下さい」と云て酒代を貪られたといふ話がある。ソンナ風でアイルランド人は少し狡い性質がある。
△米国商店の扱ひ振りの変化 今より三年前に洋行した時には、亜米利加の商売振りは、品物の陳列方なり又は店員小僧の仕向方なり、総て客の買気を誘発し、成丈け品物を売付けようと云ふ態度を執らしめた、所が今度行つて見ると丸で其の態度が一変して客の買気を誘発すると云ふやうな仕向けは更に之れなく、客が何か眼に止つて立停まれば勧めると云ふ態度になつて居る、斯くの如く亜米利加人は品物の改良は申すに及ばず小僧の態度等微細の事に至るまで、改良を加へて客を引くやうに注意して居る。日本の商人は斯くの如く微細の点に至る迄気を配つて改良しつゝあるや否や甚だ疑はしい、総ての装置を見ても矢張り其の通り、三年前には和蘭風とか羅馬風とかを主としたものであるが、三年後の今日に於ては和蘭風・羅馬風を主とせずして、亜米利加式を発揮するやうになつた。万事その通りで、商工業の進歩は駸々として底止する所を知らざるの趣きがある。
 尚ほ一つ私の耳を聳だてしめたのは、敢て珍らしい話ではないが、ドウモ日本人は約束が堅くない。段々品物を落して困る、と云ふ声は到る処で聞いた、是れは尤もな苦情で、欧米の商人は極めて誠実で、取引上に於ては決して嘘を吐かぬから、彼等の眼から見たら日本商人を信用することが出来ないと云ふのは無理ならぬ事と思ふ。斯様な事は私が申す迄もなく、皆能く承知して居ながら之れを改めないから、今尚苦情が絶えない、其の声は三年前よりも一層高く聞いたから注意して置きたい。


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK420087k-0004)
第42巻 p.380-381 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月十九日 雨 寒
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、此日ハ竜門社秋季総会ヲ開クトテ
 - 第42巻 p.381 -ページ画像 
朝来其準備ニ忙シ○中略 午前十一時ヨリ竜門社総会ヲ開キ、阪谷氏先ツ演説ス、後余モ一場ノ演説ヲ為ス、畢テ午飧ヲ食シ、園遊会ヲ開ク、雨降リテ不便ナリ、余興数番アリテ四時過散会ス○下略


竜門雑誌 第二八二号・第六五―六八頁明治四四年一一月 ○竜門社秋季総集会(DK420087k-0005)
第42巻 p.381-384 ページ画像

竜門雑誌 第二八二号・第六五―六八頁明治四四年一一月
    ○竜門社秋季総集会
竜門社第四十六回秋季総集会は、十一月十九日を卜して、青淵先生の別邸なる曖依村荘に於て開かれたり、当日は日曜にもあり、郊外散策の季節とて、滝ノ川の紅葉見がてらに朝まだきより筇を曳きたる者も尠からず、定刻午前十時来会者一同予て設けの会場に集るや、幹事八十島親徳君は渋沢社長病気欠席の為め代つて開会の辞を宣し、阪谷男爵及青淵先生の演説(両演説速記は次号に掲載すべし)ありて式を終り、次いで園遊会に移れり、折柄秋雨粛々と降出したれど、庭園の彼方、此方に設けられたる生ビール・煮込燗酒・天ぷら・蕎麦・団子・甘酒の各露店は中々に賑ひて、彼処の樹蔭、此処の岩根に煙れる田園を瞰みながら、旧を語り新を談ずる声も騒々しく、興趣殆ど尽くるを知らざるの趣ありき、余興としては陸軍戸山学校軍楽隊の楽曲、能狂言・手品・曲芸抔あり、三々伍々帰途に就きて全く散会したるは黄昏頃なりき、当日金品の寄贈を辱ふしたるは本社の深謝する所なり、其芳名は左の如し。
 一金参百円也            青淵先生
 一金五拾円也            第一銀行
 一金参拾五円也           渋沢社長
 一金弐拾五円也           東京印刷会社
 一金弐拾円也            穂積博士
 一金弐拾円也            阪谷男爵
 一金弐拾円也            今井又治郎君
 一金弐拾円也            神田鐳蔵君
 一金拾五円也            東洋生命保険会社
 一金拾五円也            佐々木勇之助君
 一金拾円也             堀越善重郎君
 一金拾円也             大川平三郎君
 一金拾円也             田中栄八郎君
 一金拾円也             中井三之助君
 一金拾円也             浅野総一郎君
 一金拾円也             韓国興業会社
 一金五円也             星野錫君
 一金五円也             尾高幸五郎君
 一金五円也             尾高次郎君
 一金五円也             寺井栄次郎君
 一金五円也             佐々木慎思郎君
 一金五円也             鈴木金平君
 シトロン八打、ミユヘン四打     植村澄三郎君
 一麦酒一打             平田初熊君
 - 第42巻 p.382 -ページ画像 
又当日来会せられたる会員左の如し
一名誉会員
 青淵先生     同令夫人
一来賓
 添田博士     松波博士     伴直之助君
一特別会員(いろは順)
 井上金次郎君   石井健吾君    伊藤登喜造君
 伊藤新策君    伊藤平次郎君   伊東祐穀君
 石川道正君    岩崎寅作君    岩本伝君
 一森彦楠君    萩原源太郎君   原田貞之助君
 原林之助君    萩原久徴君    西野恵之助君
 西田音吉君    新原敏三君    穂積重遠君
 本間竜二君    堀切善次郎君   堀井宗一君
 堀越善重郎君   同令夫人     堀田金四郎君
 堀井卯之助君   星野錫君     鳥羽幸太郎君
 利倉久吉君    土肥脩策君    沼間敏郎君
 織田雄次君    大原春次郎君   大塚磐五郎君
 岡本銺太郎君   尾高幸五郎君   尾川友輔君
 小口金三郎君   大川平三郎君   同令夫人
 書上順四郎君   川村桃吾君    川田鉄弥君
 河村徳行君    金谷藤次郎君   加藤為次郎君
 鹿島精一君    川上賢三君    神田鐳蔵君
 吉川宗光君    吉野浜吉君    吉岡新五郎君
 米倉嘉兵衛君   吉田久弥君    田中元三郎君
 田中太郎君    田中忠義君    高橋波太郎君
 高松録太郎君   高根義人君    同令夫人
 高橋金四郎君   田中楳吉君    田中栄八郎君
 早乙女昱太郎君  中井三之助君   同令夫人
 村井義寛君    植村澄三郎君   内田徳郎君
 内海三貞君    内山吉五郎君   上原豊吉君
 野口弘毅君    野本庄太郎君   倉沢粂田君
 山田昌邦君    山中善平君    八十島親徳君
 八十島樹次郎君  矢野由次郎君   矢野義弓君
 松平隼太郎君   松谷謐三郎君   前田青莎君
 増田明六君    古田良三君    古田中正彦君
 木暮祐雄君    寺井栄次郎君   浅野泰次郎君
 明石照男君    安達憲忠君    男爵阪谷芳郎君
 佐々木勇之助君  佐々木清麿君   佐々木慎思郎君
 佐藤毅君     佐藤正美君    阪倉清四郎君
 斎藤峰三郎君   斎藤章達君    木村喜三郎君
 目賀田右仲君   南貞助君     三俣盛一君
 渋沢元治君    渋沢治太郎君   渋沢義一君
 芝崎確次郎君   清水揚之助君   下野直太郎君
 清水百太郎君   平沢道次君    肥田英一君
 - 第42巻 p.383 -ページ画像 
 弘岡幸作君    森下岩楠君    持田巽君
 諸井恒平君    桃井可雄君    関谷祐之介君
 関直之君     杉田富君     鈴木金平君
 鈴木清蔵君    鈴木善助君
一通常会員(いろは順)
 井田善之助君   中石桂城君    市川廉君
 石井与四郎君   石井健策君    石井義臣君
 石田豊太郎君   石田友三郎君   石川竹次君
 伊藤英夫君    伊藤美太郎君   伊沢銀太郎君
 板野吉太郎君   岩永尚作君    家城広助君
 猪飼正雄君    飯島甲太郎君   磯野孝太郎君
 石川政次郎君   井出徹夫君    原直君
 伴五百彦君    長谷川謙三君   長谷川潔君
 秦乕四郎君    林弥一郎君    原久治君
 穂積律之助君   穂積真六郎君   堀家照躬君
 堀内良吉君    戸谷豊太郎君   友田政五郎君
 友野茂三郎君   東郷一気君    豊田伝次郎君
 千葉重太郎君   小沢清君     小熊又雄君
 小倉槌之助君   大平宗蔵君    大庭景陽君
 大畑敏太郎君   岡本亀太郎君   岡本謙一郎君
 岡原重蔵君    大木為次郎君   奥川蔵太郎君
 大原万寿雄君   太田資順君    和田勝太郎君
 川西庸也君    河瀬清忠君    河崎覚太郎君
 金子四郎君    金沢弘君     金沢求也君
 金井二郎君    兼子保蔵君    鹿沼良三君
 笠原厚吉君    笠間広蔵君    神谷岩次郎君
 金子重次郎君   川口一君     吉岡仁助君
 吉岡鉱太郎君   横田半七君    横山正才君
 横尾芳次郎君   横田晴一君    田中七五郎君
 田中一造君    田中繁三君    田川季彦君
 田島昌次君    高橋俊太郎君   高橋耕三郎君
 高橋秀蔵君    武島章二君    武沢顕二郎君
 高橋毅君     玉江泰義君    只木進君
 竹内玄君     高山仲助君    田子与作君
 田沼賢一君    曾我部直之進君  堤真一郎君
 塚本孝次郎君   鶴岡伊作君    月岡泰治君
 綱取善治君    蔦岡正雄君    中村習久君
 中山輔次郎君   内藤種太郎君   永岡帰六君
 滑川庄次郎君   長野貞次郎君   成田喜次君
 中村新太郎君   長井喜平君    中西善次郎君
 仲古賀晴太君   村井盛次郎君   村山革太郎君
 村木為一郎君   生方裕之君    内海盛重君
 守治原退蔵君   宇野武君     上田彦次郎君
 上野政雄君    野村鍈太郎君   久保幾次郎君
 - 第42巻 p.384 -ページ画像 
 黒沢源七君    熊沢秀太郎君   山崎栄之助君
 山崎豊治君    山崎一君     山本鶴松君
 山村米次郎君   山内篤君     山田仙三君
 八木安五郎君   八木仙吉君    安田久之助君
 安井千吉君    柳熊吉君     山崎鎮治君
 松村五三郎君   松村脩一郎君   松井方利君
 町田乙彦君    松園忠雄君    松永清三郎君
 藤木男稍君    藤浦富太郎君   福島常四郎君
 福島元朗君    福本寛君     古田元清君
 福田盛作君    小森豊参君    小林武彦君
 小林武之助君   小林梅太郎君   小林茂一郎君
 小林徳太郎君   小林森樹君    小島順三郎君
 古作勝之助君   河野通吉君    河野間瀬次君
 近藤良顕君    後久泰治郎君   江口百太郎君
 赤木淳一郎君   赤萩誠君     浅見悦三君
 浅見録二君    相沢才吉君    明楽辰吉君
 秋田桂太郎君   天野勝彦君    綾部喜作君
 阿部久三郎君   粟生寿一郎君   阪谷希一君
 佐々木哲亮君   桜井幸三君    桜井武夫君
 阪本鉄之助君   阪田耐二君    斎藤又吉君
 猿渡栄治君    佐藤清次郎君   木村弘蔵君
 木之本又一郎君  木村益之助君   北脇友吉君
 行岡宇多之助君  箕輪剛君     御崎教一君
 三上初太郎君   三田利一君    宮谷直方君
 宮川敬三君    宮下恒君     渋沢武之助君
 渋沢正雄君    芝崎保太郎君   芝崎徳之丞君
 塩川誠一郎君   清水松之助君   東海林吉次君
 島田延太郎君   柴田房吉君    広瀬市太郎君
 平岡光三郎君   平井伝吾君    森島新蔵君
 元山松蔵君    森茂哉君     関口児玉之輔君
 鈴木富次郎君   鈴木順一君    鈴木正寿君
 鈴木旭君     須田武雄君    椙山貞一君
 杉山新君     須山壮蔵君


竜門雑誌 第二八四号・第一一―二三頁明治四五年一月 ○竜門社秋季総集会に就て 青淵先生(DK420087k-0006)
第42巻 p.384-393 ページ画像

竜門雑誌 第二八四号・第一一―二三頁明治四五年一月
    ○竜門社秋季総集会に就て
                       青淵先生
 本篇は、昨年十一月十九日、曖依村荘に開かれたる竜門社秋季総会に於ける、青淵先生の演説速記なり。(編者識)
今日の秋季の総会は少し天気が悪うて、来会の諸君の一日の楽みを欠きますのを遺憾に思ひます、例に依りまして、私も一語の意見を述べて諸君のお耳を煩はさうと思ひます、唯今阪谷氏から瑞西旅行の話がありました、寧ろ土産話といふよりは御小言と言ふ方が適当かも知れぬ、得て欧米に旅行して帰りますると、誰も其際には頻に小言が多く
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なる、是れは殆んど御旅行なすつたお方は皆同じであらうと思ひますどうぞ其の小言が何時までも継続することを希望するのであります、想ひ起すと、私は一昨年の十二月の十七日に、亜米利加旅行を終つて帰朝して、第一に日本の道の悪いのに頗る困難の感を起した、まだ其の時分には亜米利加も今の阪谷氏の言はれましたやうな道に油を撒かなかつたら、埃を沢山浴びたのです、甚しきは人間か埃か分らぬやうになつたことも間々ありますけれども、併し其の埃を浴びつゝも亜米利加の市街は自働車運動ですから、大変に愉快であつたが、日本へ帰ると道が曲つて居つたり狭かつたり、甚しきは公園と道を混淆して居つて、小供が避けて呉れぬ、避けて呉れぬ小供はまだ宜いが、大人も尚ほ避けぬ、甚しきは石を投げる(笑)さういふ有様であるから、随分危険でもあり不愉快でもある、そこで此の悪習をどうか直したいと申したことが、度々ありましたけれども、人間といふものは暫く経つと段々其の気が変つて行く、詰り慣れて仕舞ふのです、どうも習慣といふものは或る場合には善くなることもあり、又悪くなることもありますから、此の習慣は大に注意しなければならぬものと思ひます、孟母の其子の為めに三たび遷つて、此の習慣を善い方に導くことを努めたといふは、殆んど千載の佳訓になつて居りますが、誠に注意すべきことゝ思ふのでございます。
唯今阪谷氏は、独り欧米の実況に比較して日本が大に不足だといふ小言のみならず、実業界の偉人たるカーネギー氏の発起に係る、世界の人類をして現在の幸福に数層倍増させたいといふことの一大懸案に基いたる、世界の学者の会議に参列したといふことは、同氏の為めに頗る喜ぶべきことであつて、而して大きく言ふたら日本がさういふ会議に参列を求められたといふことは、国として喜ばねばならぬことゝ思ふのであります、仮令其人にして今の世界の学者と同一であつたか、どうかは第二の問題としまして、兎に角に帝国がさういふ招待に預かつたといふことは、御互国民として頗る喜ばねばならぬのでございます、阪谷氏は其の発動点の欧羅巴にあつて、東洋にないのを残念だと言はれましたけれども、是れは勿論阪谷氏と同様に残念に思ふに違ひないけれども、併し小供の中に大人の働きは出来ない、今常人が俄かに常陸山や梅ケ谷と力押をして見た所が勝てる訳がないから、先づ能く分を量つてやる外なからうと思ふのです、又日本は今は眠つて居らぬといふことであつたが、五十年前コンモドル・ペリーの来た時分には眠つて居つた、誰も能く言ふことであるが、長夜の眠を覚まされた而してまだ覚めたてだから時々寝言などを言ふに違ひない(笑)漸く「おめざめ」か何かで御機嫌の直つたる日本が、長い間目が覚めて居つて、種々なる勉強を重ねた者と、直ぐ同一に働くことは出来ませぬから、唯一概に欧米を羨んで、日本が其の元動力の位置に立つことが出来ぬからとて歎息の辞を発せぬでも、寧ろ日本がさういふ会議に参加致したのは、将来大に望みあることゝ、喜びを以て迎へた方が宜くはないかと私は思ふのでございます、独り此のカーネギー氏ばかりでなく、此の間私は亜米利加人のジヨルダン博士から電報の写を送られた、其送られた電報に依つて、実業界の人の大に意を強うすることが
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あるのです、それは独逸が彼の摩洛哥問題に付て国債を起したいといふことをば、亜米利加のモルガンの組合に相談した、モルガンは之れに答へて言ふに、摩洛哥問題に対して独逸が仏蘭西の提案に同意することが出来るならば、希望の公債を調えるやうにしてやらうと云ふ条件附の公債引受の答をしたのである、其の電報の面では、独逸は勢ひ此のモルガンの提案即ち条件には同意せざるを得まいといふことでありました、即ち其の公債が出来るといふのは摩洛哥問題が無事に済む即ち平和会議がそこに成立するといふ意味を含んで居るから、カーネギー氏のは戦争を原因から止めやうといふ力がある、モルガン氏のは結果から押へやうといふのである、亜米利加・欧羅巴の経済家は、左様に国家に於ける不祥事をば、経済上の力に依つて之れを融和せしむる如き働きが見えるのである、経済界といふものも、若し強い力を持つたならば頗る偉大なものである、大いに国の幸福を進めるものであると思ひまする、今阪谷氏が欧米の有様を見て帰つて、不足を言ふのと同時に、所謂喜びと憂が己れの身に輻輳して来ることを感ずるのであります、といふても諸君にお解り悪うございませうが、即ち私も経済界の人である、お集りの諸君も大概それである、然るに経済界のカーネギー氏の発明……曾て村井弦斎の書いた日の出島といふ小説にあつたと思ひますが、神戸辺の商人が発明協会といふものを作つて、大なる金を出して、種々なる発明をさせて、さうして世界の幸福を段々進めるといふのであつた、あれは唯面白い小説であるが、今のカーネギー氏の発明、……発明とは言はれぬかも知れぬ、専売特許の取れぬ発明、世界の戦争を全然止めやうといふ大発明、之れが如何なる方面の人に依つて出たかといふと、経済界の吾々同種類の人である、而して其の醵出した金額は千万弗だといふ、但し此のカーネギー氏の各種の事柄に寄附した金額は、なかなか二千万や三千万ではありませぬ、確か三億七千万弗ばかりである、ロツクフエラー氏の寄附金額よりも少し多い、其数字は日外在米の水野総領事が調べて送つて寄越したのを記憶して居ります、勿論左様なる資力ある人であるから、さういふ大きな事も出来るだらうが、併し強ち資力の大きいことばかりに重きを置く訳ではない、斯う申すと吾々は甚だ微力であるから、痩我慢を言ふが如く聞えるか知らぬが、実に今般のカーネギー氏の懸案といふものは、他に絶した考と思ひます、金の多いといふよりは其考の頗る斬新であり、且つ世界的である、所謂黄金世界を理想とした所の説と申して宜からうと思ふのです、又モルガン氏が金力に依つて独逸を押へたといふならば、即ち経済界の力が、国の平和を図るに於て大なる関係を持つものである、斯う考へたならば、如何にも喜ぶべきことであらう、お互経済界に居る者は、殊に意を強うする、但しそれは阪谷氏の言ふ他国のことである、東洋の経済界は如何であるかといふと、なかなかさういふ力のないのみならず、世間からも左様に見て呉れぬ故に、前の経済界にさういふ快事があるといふて、己れも同じ其位置に居ることを喜ぶと同時に、又我経済界の微力なることを悲まねばならぬやうに思ふのでございます。
阪谷氏の話された欧米の愉快の談話に引替えて、私が玆に述べやうと
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することは、其事柄も小なり、且つ我身に属したことを申述べたいと思ふのでございます、実は幹事の御心配が不充分で、今日はもう一つ変つた学説でもお講じ下さる先生を頼みなさつたら宜かつたらうと思ひますが、今更致し方がない、私の演説は今の、阪谷氏の平和会議に出たといふのに、似たやうな話だけである、何だかビフステキの後に又天麩羅を食べるやうな嫌がありませうけれども(笑)私は変つた事を申す材料が少ない、已むを得ず似たやうなお話を続けなければならぬのでございます、併し大と小との差別はありますから、是だけは確かに相違するといふことを、諸君はお聴分け下さるであらうと思ふ、詰り私が玆に申上げたいのは、臨場の大方の諸君にではない、寧ろ竜門社の青年の人々に向つて、己れ一身の境遇が斯ういふ有様に、是までも従事したが未来も従事したいと思ふといふことを申述べ、併せて時事に対しては、斯様考へて居るといふことを一言申すに過ぎぬのである、詰り自分の処世観に加へまして、時事に対する観察をお耳に入れるに過ぎませぬ。
人は多く時代の要求に応ずべきものである、又応ぜねばならぬものである、蓋し時代の要求に応ずるといふても、海中に浮んで居つて汐のまにまに動いて居るといふではない、己れにそれだけの意思はなうてはならぬけれども、社会から制せられて、自然と働き具合が変つて来るといふことが、即ち時代の要求に応ずるといふものであらうと思ひます故に、私不肖たりと雖ども、自然とさういふ関係を持つと申上げたいのであります、元来私は単に田舎の百姓が嫌になつたといふではなくて、青年の時分に国家が今にも潰れてしまふやうなる急迫の考を持つて、遂に家を棄てゝ、一身を転じた、それから段々変化して、一時は政府の官吏もしましたけれども、どうも国家は唯政治上の進みばかりで堅実の国になることは六ケ敷からう、己れ自身は若し国家の為めになるならば、一命を犠牲にするを辞さぬ覚悟であつたのだが、向後はさういふ危険の方でなしに、極く穏当なる仕方で国の富を図る方面に一身を画して見たいと覚悟しましたのが、明治六年である、時に自分は思へらく、……前段のカーネギー氏の懸案とか、モルガン氏が独逸に向つて提案を為したとかいふ様なることは、其の頃ほひには勿論のこと、吾々の地位で思ひ及ぼす訳には参りませぬけれども、併し大小の差こそあれ、其の時の経済界に居る人々の考が、斯の如くに卑近で斯の如く知識が乏しくては、国家は到底真実なる富強は保ち得られぬものであらう、是非此の実業界に従事する人の資格も材能も、又社会から与へらるる待遇も、之れに適ふやうにならねば、真正なる国の富強は為し得られぬものである、斯う深く考へましては、請ふ隗より始めよといふやうな自惚根性を持つた訳ではないが、唯せめては己れ自身はどうかさういふことをやつて見たいと思うて、明治六年に実業家として此の精神を逞しく持つた一人だと思ふのです、当時に於ては社会に事を為す人、智恵のある人、力のある人も沢山にあつたやうでございますけれども、直接に実業界に身を入れて、今申したやうな位置から、自分で其の事に従事して取上げるといふ人は少なかつた、外から批評する人、又指図する人は相応にあつたけれども、……当時
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の経済界の力といふものが、今日も不足でありますけれども、尚更微微たる有様であつたといふことは、少しく其時の事を知つて居る人は私の言葉が決して他人を欺くものでないといふことを御諒解下さるだらうと思ふのです、故に己れ自身は今日まで第一銀行の頭取を本職に持つて居りまするが、種々の関係よりして、彼の事業此事業と工業会社若くは其他の事業会社に力を致しました、或る場合には自ら省みても少し過度だと思ふたこともありますが、唯其の一に専らにするよりは、全体に渡つて地歩を進め富力を増すやうにしたいと思うた為めに一事業のみ専らにして得られぬといふ訳であつたのです、爾来殆んど三十余年を経て、微力ながら自分の力も幾らか注入されたやうであるが、世の中が私の思ふ以上に之れを必要視するやうになつて、続いて其の社会に有力なる人が段々出来て参りまして、仮令今阪谷氏の言ふ欧米の実業界に敵はぬといふことは、勿論でありますけれども、之を四十年以前に較べて見たならば、強く言ふたら雲泥の差があるとも申し得られるかと思ふのです、是れより現今の時事に就て、少しく愚見を申添へて見たいと思ふのでありますが、左様に経済界が発達して参りましたけれども、併し前に申す如く未だ欧米のそれと比較が出来ない、但し他の事物も欧米と比較するほど進んで居らぬかは知らぬが、軍事の如き、政治の如き、吾々の実業界よりは比較的大に優勢と思はれるが、実業界の方は大に力が劣つて居るといふことを、遺憾ながら申さねばならぬやうである、故に実業界は始終他の進歩に促されて、先へ先へといふ希望が多いからして、所謂頭重くして身体これに随伴せぬといふやうなことになるのです、其の間には余儀なく平和が破れて、例へば二十七・八年の如き、三十七・八年の如き、一時恐るべき国難にも際会した、幸に其の戦争は十分な勝利を以て終りましたけれども其の創痍といふものは決して二年三年の間に平癒するものではない、而して国家は引続いて他の必要に応じて国費を増して行かねばならぬ、既に戦争の為めに二十億余円を不生産的に消費せられ其為め殆んど一億七・八千万円の特種の税をも増して居る、而して戦後に之れを休養するといふやうな方法を講ずる遑もなく、今日に到つて居る故に、戦後の財政の計画に付ては、私共は頗る憂ふべきものあり、大に注意を促す必要ありと思ひましたが、世の中はさういふ訳に行かなかつたものと見えた、加ふるに鉄道国有の事をも決行し、悪く申せば借金を目当に頻に国費を増したと言ひ得るやうな経済であつたと思ふ、而して其の鉄道の為めに一時に五億の公債を増した、従つて四十年の末四十一年の初め頃の公債の下落といふものは、実に容易ならぬ有様であつた、是れを以て鉄道会社の連中の苦心は一ト通でありませぬ、それは其の筈である、九十円を目的に買収された鉄道の公債が、遂に七十円以下にもならうといふ有様で、殆んど三割も減却されたと同じやうな結果を現はしたのであります、そこで十七鉄道会社が驚き入つて、銀行者に協議し、前の西園寺内閣の頃、即ち四十年の十二月二十八日に銀行者が四・五名で、西園寺首相を訪問して、是非此の財政を改革なさらねばいけませぬといふことを切望したが、其の事は充分に行はれませぬ、其の中に内閣が変つて、桂公爵の時代となつた、依り
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て銀行者等は引続いて此財政を斯の如く打捨て置くといふと、内に不平苦情のあるばかりではございませぬ、外に向つても全く信用を失ひはしないかと恐れます、如何に他の政務が行届き、又軍備が強大にあるとしても、唯鉄砲玉だけが勢力あるものではありませぬ、軍艦ばかりで国威を宣揚するとは申されますまい、之に伴ふ力が無くてはなりませぬとまで、自分等は切に苦諫致したこともございます、幸に公債のことは桂内閣に於て大に注意されて、四十一年の十月、未来は斯る方法を立てゝ、公債に就ては此政策を堅く守つて行く、即ち七年半で内外の公債は残らず償却し得るの制度を設けた、従つて其事を履行する為め減債基金も定めて少くも年々元金を五千万円以上宛償却するといふことにされました、而して其の事は一年以上の経過に依つて大に公債の価を回復して、即ち昨年の正月頃に至つては、四分利の借替をするまでに進んで参つたのは、是れは公債政策が其の宜しきを得たやうである、併し其他のことが皆完全に進んで居るとは決して申せないと思ひます、自分等愚見を呈して尚ほ改良を求めたことも一・二ではございませぬが、不幸にして十分其の事が行はれぬ間に、又内閣が更迭したといふ次第であるそこで此の四十五年の予算が何れに定まるか最も世間の注目する処である、吾々経済界の者共も大に之れを注意して、どうぞ堅固の財政を玆に成立させるやうにせねばならぬと思ふのです、動もすると世間から、経済界の人は無闇に軍備に対して苦情ばかり言ふが如く誤解される、又軍人の側では、経済界の者共は怪しからぬ、只出すことを渋つて居るといふ如くに考へて、お互に相隔絶する弊があつてはならぬと思ふのでございます、是れは軍務に就く人も吾々の位置に居る者も、余程心して、所謂一つ鍋の飯を食ふ間柄、同じ船に乗つて居る人人であるから、左様な狭い了簡を以て、彼を悪み之れを誹るやうなことは力めて無いやうにせねばなりませぬ、共に思遣りが無くてはならぬ、軍事に対しては吾々飽までも尊重し、飽までも敬愛すると同時に国家は唯鉄砲玉と軍艦ばかりで強いものでないといふことを、軍人も理解して貰はなければならぬ、昔の軍人の如く、戦争をする為めに在る人民だと心得るならば、それこそ忠恕の道を以て相見るのではなく唯片方だけの思考に依つて、一方は奴隷視されるやうになるのであるから、若しさういふことであつたら、前にいふカーネーギーの如き、モルガンの如き、盛大なる財力を有する国と出会つたならば、それこそ仕方がないのである、之れが今日私共の財政に付いて最も心配して居る点であつて、政治家に対して、此の場合是非共堅実の財政策を立てゝ貰ひたいと希望する所以でございます、決して私共は唯今日を悲観するのではない、経済界の人々は大抵私共と意見を同じうするであらうと思ふ、現に今日御出席の添田君などには、屡々此の事に付ては御協議を申上げつゝあるのでございます、果して如何相成るであらうといふことは、今玆に言ふべきことではございませぬ、又此の会合は極くウチウチのことでありますから、唯竜門社に重きを置かれる所の渋沢は、経済界の人として、今日の財政に対して如何なる意見を持つて居るかといふ、目標にもなれかし、御参考にもなれかしと思ひますから、斯く心配をして居りまするといふことを、
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此の機会に一言申上げて置くのでございます。
更に私の身柄に無いやうであるけれども、今日は単に経済界のことばかりでなく、外国に対する時事に考慮を要すべき点が多いと思ふ、西に於ては支那の問題も、各新聞紙は毎日革命騒動で埋められて居る、之れに対して吾々どう考へて宜いかといふことは、余程注意せねばならぬのである、又欧米に対する我国の態度は如何にして宜いか、英吉利の如きは同盟国でありますけれども、亜米利加の如きは動もすると日米戦争論を唱へる者がある、総じて国家も其位地が進み力が増すと自然と他よりの風当りが強くなるのは世の中の常である、如何に吾々の経済界の力が未だ卑いにも致せ日本の看板は大に進んで居る、是等の点を私共から言ふたら、それは別に其職分があるからと言へませうけれども、即ち其の事物が総て経済に関係して来るのでありますから吾々も等しく其の考を持つて居らねばならぬ、前にも申す通、竜門社の目標となるべき渋沢は、それに付ては斯ういふ説を持つて居ると明言するのは、敢て無用の弁ではなからうと思ふのでございます。支那の此度の騒動は誰人も意外であらう、私共支那のことは不案内であるから、別して意外に感じて居る、併し私の今玆に希望する所は、成るべくだけ此の事に対する我政府の処置は、慎重の態度を採つて貰ひたいと思ふ、苟且にも此の出来事を利用するといふやうな観念を以て、此の間に処することは避けて貰ひたいと思ふのである、然らば対岸の火災視して居つて宜いかといふに、決してさうではない、其の関係が一番近い我邦だけに多いといふことを覚悟せねばならぬ、若しも此の騒動が長く続くとしたならば、第一に両国の貿易に大なる障害を来すであらう、其の障害に付ては、それこそ経済界にては如何なる方法を講じて宜いか、詰り国家として相当なる手段を講じて、障害を除き相当の保護もせねばなるまいと思ふのでございます、呉々も前にも申す如く、奇貨可居といふやうな野心は持たぬが宜いといふことは、是れは政治上の考でもなく、唯漠然と意見を述べるのである、更に言はんとすれば、多少の言論も生じませうけれども、先づ成るべくだけ其の位に在らざれば其事を謀らずといふ、論語式が宜からうと思ひますから奇貨可居の野心は必ず避けて貰ひたい、又事勿れ主義に依つてお遣りなさいとのみ望む訳ではない、貿易上に対してのことは、能く注意して、或る場合に民力ばかりで届かぬことは、多少政治上の力を貸して、貿易の障害を防ぎ、且つ之れを保護することに力を入れて貰ひたいと、希望致すのでございます、亜米利加に対しては、今まで時時起つたやうな雲立、雨模様を、追々に除き得るやうに努めねばならぬと思ふのでございます、此の事に就ては、当局の人々が種々なる心配もされて居りますが、国交上といふことになると、唯単に……霞ケ関の力のみではいけない、国民の間にも大に力を尽すべきものあり、と斯う私は考へますので、既に諸君も御承知の通、一昨年四ケ月の間渡米実業団として、米国に旅行をしたのも、左まで効能はなかつたか知らぬが、蓋しこれに原因して居るのである、爾来屡々彼の国より来訪の人は必ず会ひ必ず談ずる、殆んど之れが応接に遑なしと言ひたい位でございます、或は何州の知事の令夫人だとか、或は何会社の社長
 - 第42巻 p.391 -ページ画像 
が来たとか、又は一昨年参つたロスアンゼルスの人、デンバーの人、或はシヤトルの人、紐育の人、桑港の人、其他各地の人々の来訪を受けます、唯普通の来訪者は暫く措て、先頃渡来したスタンホルド大学総長たるジヨルダン博士といふ人、又紐育から来られたラツセル及ホルトといふ人々に付ては、玆に其の会談の景況を諸君へ御話しする必要があると思ひます、そは米国の西部に於ける排日熱も徐々に緩和し消除して行くやうに見受けられます、既にジヨルダン博士の言はれるには、万一是れから先さういふ物議が起つても、日本の人は成るべく心を冷静にして、其の煽動に乗らぬやうにして下され、決して排日などゝいふ議案は、州会を通過するやうなことはなからうと思ふ、万一州会を通過しても、中央議会を通過せぬことは確かである、又拙者等の如き地方に居る者は、申合せてさういふ議案は屹度排斥致しますると、心から丁寧に申聴けられたことすらある位いであります、東部に於ても種々の物議があつて、或はホーマーリー又はホプソンなどゝいふ軍人が、頻りに日米戦争論を唱へたり、紐育方面の人が、満洲の貿易に付て日本の仕向けが不公平であるといふ苦情を申すことが多い、諸君も聴いて吃驚されたでありませうが、私も吃驚したのは、一昨年切角四ケ月間の大旅行をして、日米の情意が十分疏通したと思うて大に喜んで帰ると、米国の国務卿たるノツクスといふ人から南満洲鉄道を中立させやうといふ提案があつた、其の事は立消になつて成立しませんだけれども、是等の原因が何処にあるかといふと、或は紐育方面の人は、兎角満洲では日本が多く幅を利かして、亜米利加人の商業の仕悪いやうにするといふことが、一の原因になつて居つたと思ふ、故に此の点は西部に於る排日議案の出るのを防ぐと共に、東部に於ても此の誤解は成るべく解きたいといふことを、私は最も心配をして居るのでございます、前に述べた紐育のラツセルとかホルトとかいふ人がそれ程力ある人かどうかは知りませぬが、ホルト氏はインデペンデントといふ雑誌を持つて居て、言論界に相当の勢力ある人でありますから、此等の人々に対して打付に話をして見た、但し曩にジヨルダン博士に談話した所が、西部は自分が十分注意するけれども、東部は其の方面の人に能くお話をなさいと言はれたからである、それで此の程其のホルト氏に今のジヨルダンとの会談のことを話して見ると、同氏は満洲まで行つて実際をも見て来たといふて答へて曰く、それは誠に日本人が心配に思ふであらう、貴下の御懸念は尤も千万である、自分に於ては、若し満洲に対して亜米利加人が不平を言ふならば、それは亜米利加人の方が無理である、実に三十七年の大戦役を経て、今日の有様となつたのである、日本人の満洲に対するのは国運の関係である、亜米利加は利害上の関係である、厚薄の相違の大なることは、此の関係に於て明かである、それを同一にして、日本は不公平だとか圧制が過ぎるとか、苦情を言ふのは無理であるから私共亜米利加人に於ては今後成るべく其誤謬のないように努めるとまで申しました、是等は僅僅会談の一・二に過ぎぬのでありますけれども、日米の親善を沮害するやうな事柄に付ては、深く憂へますから、米国より渡来する幾らか力あり憂を同じうすると思ふ人々に対しては、斯の如く注意して会談
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して居るといふことを、此の機会に一言諸君の御耳に入れたのでございます、時事に対するお話は財政に外交に尚も種々ありますが、余り事長うございますから此辺に止めやうと思ひます。
畢竟私が財政上に付て、頻に苦慮致しますのも、其の職分外でありますけれども、日米の関係に付て種々なる奔走経営を致すのも、前に申す時代の要求から、己れの位置が其の辺に働くのが適当であらうと思ひ、人にも勧められ、自らも信じて、或る場合には労して其の効のないことも、数々でございますけれども、苦心経営して居るのであります、斯く申すと、大層何か尽力して居るやうに聞えますから、さぞ迷惑であらうとお思遣り下さるでありませうけれども、それが又大なる相違であつて、私が斯ういふことをするのは全く楽みである、詰り申すと、喜で之れを経営して居るのだといふことを、此の場合に申上げて置く必要があると思ふのです、総て人の世に立つや何か事業をするなり、或は社会の世話をするにしても、大抵我好む所に落着くものである、諸君が大抵さうであらうと思ふ、今従事してござることが、皆恐しく迷惑だけれども、拠どころなく遣つて居るといふならば、それは間違で、万物を静かに観れば、皆自得といふ古言がありますが、世間多数の人は多くは其の位地に安んじて居る、若しも己れは詰らないとか困るとかいふならば大間違である、但し或る場合には求めて愚痴を言ふ人がある、又は形容にどうも困る困るといふ人もある、又愚痴と不平を言ふを以て得意とする人もある(笑)中には小言好きの人は頻に小言を云ふ、小言を言ふから大変に不満に思ふかといふと、却て小言を楽みとする、私も多少小言を云ふが、今日左様に世事に心配をするといふて効能を申すと、諸君は気の毒だ、もう老体で止せば宜いと思はるゝか知らぬが、止されると大変である、自己の楽みを奪はれてしまふ、故に私にはこれが畢生の楽みで経営して居るのである、而して其の楽みたるや、甚だ善いことであると自分は思うて居る、それに付て今朝も論語を見ました所が、楽みといふことに斯ういふことがある、知之者不如好之者、好之者不如楽之者、知るよりも好む方が情が厚い、けれども好むではいけない、楽むのが最上だ、即ち私が楽むといふことは、孔子の心に適つて居ると思ふ。
更にもう一つ葉公といふ人が孔子を子路に問うた、所が子路が答へなかつた、すると孔子が、女奚不曰、なぜ貴様は言はなかつた、其為人也、発憤、忘食、楽以忘憂、不知老之将至云爾、孔子は斯ういふ人だとなぜ言はなかつたと、子路に言はれた言葉である、楽みといふものは其の憂を忘れるものである、誠に楽は総ての至境である、故に此の楽を以てやるので始めて佳境に入るであらうと思ふのでございます、それに付て又一つ古いお話がある、是れは此の間或る雑誌社の人に言うたら大に非難をされまして、渋沢の説が間違つて居ると言はれたけれども、それは雑誌社の人が間違つて居るので、自分は矢張善いと思ふ、諸君は何と聴いて下さるか分らぬが、父が私の幼年の時分或る老人に聴いたといふて話されて、私が尚ほ記憶して居るのです、それは或る家業に丹誠する人があつて、老後にも尚ほ其勉強を変へずに、農業であれ、農間の商業であれ、家事を一から十まで経営する、そこで
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近所の親類の人々が、其の老人に忠告して曰ふには、左様に拮据経営するけれども、お前も大分老衰して居る、軈てもう死ぬ人であるが、死んだ後お前がそれだけ丹誠したものを持つて行く訳にもいかぬではないか、少しは老後の身を息めて、さうして慰藉をするやうにしたが宜いではないか、余り刻苦するのは側から見ても気の毒である、と言ふた、すると其の老人が答へて曰、お前は私が斯うして勉強するのを大変に苦労して居ると見て、左様に忠告をして呉れるのであらう、果して然らば其の忠告も尤も千万である、私は相当の資産もあり、何も働かねば食へぬといふ身ではないが、私は此の勉強といふことが第一の楽みである、朝に晩に我楽みを尽して居る、それで物質的に楽みの滓が溜る、即ちそれが田地となり、又は貨財となるが、是れは私の楽みの滓である、お前は死んで持つて行けぬといふが、勿論滓なんぞを誰が持つて行くものか、楽みの滓は少しも私の意とする所ではないと答へた、是れは一種の哲理であつて、成程さう物を考へれば誠に身を終るまで心安く勉強が出来るといふて、私の父が言うて聴かせたことがある、然るに或る雑誌者は青年に貨財といふものを楽みの滓だなどと言つて聴かせるのは解らぬと言はれましたが、私は貨財が卑しいとは言はぬが、蓋し楽みの糟粕だといふは面白い説だと思ふのでございます、それから考へて見ると、孔子が斯の如く楽み以て憂を忘れた滓が論語といふものになつて遺つて居る、果して論語が楽みの滓であるならば、誠に善い滓である、或は楽みに依つて悪い滓を遺すこともある、此の悪い滓だけはどうも遺さぬやうにしたい、論語の如き善い滓が遺るならば、誠に最上であると思ひます、私の滓は論語のやうな善いものは遺りますまいけれども、真逆に悪い滓だけは遺さぬやうにしやうと思つて居るのです、もしも諸君に苦辛と見えても、私には此上もない楽みでありますから、自然多少の滓が遺りましたら、其の滓はどうぞ諸君宜しく之れを御分配下さるやうに希望致します。(拍手喝采)