デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.610-629(DK420105k) ページ画像

大正6年5月6日(1917年)

是日、当社評議員会飛鳥山邸ニ於テ開カレ、引続キ当社第五十七回春季総集会開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。

次イデ六月十八日、当社評議員会、帝国ホテルニ於テ開カレ、栄一出席シ、会後ノ談話会ニテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三四八号・第七二頁 大正六年五月 ○竜門社評議員会(DK420105k-0001)
第42巻 p.610-611 ページ画像

竜門雑誌  第三四八号・第七二頁 大正六年五月
    ○竜門社評議員会
 本社に於ては、五月六日午前九時より、飛鳥山曖依村荘に於て、第二十回評議員会を開きたり。出席評議員は阪谷男爵・星野錫・八十島
 - 第42巻 p.611 -ページ画像 
親徳・上原豊吉・清水釘吉・山口荘吉の諸君にして、阪谷評議員会長会長席に着き、先づ入社申込者諾否決定の件を附議したるに、別項会員異動欄記載の通り、特別会員及通常会員の入社を承認し、終りて、評議員の半数任期満了に付き、社則第十六条に依り、半数留任者に於て之が候補者を推薦の上、追つて評議員会長阪谷男爵に選定を請ふことに決定して散会せるが、其後阪谷会長は左の諸君を後任評議員に選定して、各承諾を得たり。
      新任評議員
 男爵 阪谷芳郎君〈重任〉   佐々木勇之助君〈重任〉
    植村澄三郎君(重任)  堀越善重郎君(重任)
    明石照男君       穂積重遠君
    土肥修策君       脇田勇君
    白石元治郎君      諸井四郎君
      留任評議員
    石井健吾君       星野錫君
    土岐僙君        尾高次郎君
    大川平三郎君      上原豊吉君
    八十島親徳君      山口荘吉君
    西園寺亀次郎君     清水釘吉君


竜門雑誌 第三四八号・第七二―七七頁 大正六年五月 ○竜門社第五十七回春季総集会(DK420105k-0002)
第42巻 p.611-616 ページ画像

竜門雑誌  第三四八号・第七二―七七頁 大正六年五月
    ○竜門社第五十七回春季総集会
 本社第五十七回春季総集会は、五月六日午前十時より、飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり、風薫る郊外散策の好季節、三々五々村荘指して詰掛くる会員、引きも切らず、午前十時頃には、早や四百有余人に達せり、軈て講演会開かれ、評議員会長阪谷男爵登壇して、開会を宜し、且
 昨年青淵先生の喜寿を御祝ひ申上ぐる為め、本社に於ては特に林文学博士に嘱託して「論語年譜」を編纂し、之を青淵先生に献呈したるに、先生には本社の微衷を諒とせられ、此度本社第五十七回春季総集会を開くに方り、特に若干金を御寄附相成りたるに依り、本社は有りがたく之を頂戴して、総集会費に充当することに致したり、玆に余は評議員会長の資格を以て、諸君を代表して、謹而青淵先生の御厚意を感謝し、併せて諸君に御報告致す次第であります。
と述べ、尚ほ今泉工学博士・中島文学博士が、此回本社の依頼に応じ講演を快諾せられたる厚意を感謝し、次いで幹事八十島親徳君登壇して、大正五年度の本社社務及会計其他の報告を為せり、即ち左の如し
  大正五年度 竜門社々務及会計報告
社則第二十二条ニ依リ前年度ノ社務及会計ノ報告ヲナスコト左ノ如シ
    社務報告
一会員
 入社{特別会員 弐拾壱名 通常会員 七拾弐名}合計九拾参名
 退社{特別会員 五名 通常会員 弐拾七名}  合計参拾弐名
 - 第42巻 p.612 -ページ画像 
 外に特別会員ヨリ通常会員へ編入者 壱名 通常会員ヨリ特別会員へ編入者 拾六名
 現在会員名誉会員 壱名 特別会員 四百拾壱名 通常会員 五百五拾参名}計九百六拾五名
一現在役員
 評議員会長          壱名
 評議員(会長幹事共)     拾九名
 幹事             弐名
一集会
 総集会            弐回
 評議員会           弐回
 在関西社員臨時集会(於神戸) 壱回
一雑誌発行部数
 毎月一回 平均 約壱〇四〇部
 年計 壱弐〇四〇部
    会計報告
      収支計算
        収入の部
 一金参千弐百七拾八円五拾四銭  配当金及利息
 一金千九百六円五拾銭      会費収入
 一金九百九拾六円也       寄附金収入
 一金六円五拾銭         雑収入
  合計金六千百八拾八円五拾四銭
        支出の部
 一金弐千八拾六円拾参銭     集会費
 一金千百五拾四円八拾弐銭    印刷費
 一金八百弐拾七円参拾弐銭    郵税・報酬・雑費
  合計金四千六拾八円弐拾七銭
  差引
   残金弐千百弐拾円弐拾七銭  収入超過金
    但積立金ニ編入セントス
      貸借対照表
        貸方の部
 一金参万八千四百拾弐円八拾銭  基本金
 一金壱万五千四百九拾九円七拾銭 積立金
 一金弐千百弐拾円弐拾七銭    収入超過金
  合計金五万六千参拾弐円七拾七銭
        借方の部
 一金四万六千弐百八拾八円拾五銭 株券
 一金八百九拾七円弐拾五銭    公債
 一金四千六百四拾六円七拾八銭  仮払金
 一金参拾参円拾銭        什器
 一金四千百六拾壱円拾銭     銀行預金
 一金六円参拾九銭        現金
 - 第42巻 p.613 -ページ画像 
  合計金五万六千参拾弐円七拾七銭
   備考
    本年度期間ニ於テ基本金千百弐拾円ヲ増加セリ
     内訳
   一金壱千円    中井三之助君ヨリ
   一金壱百円    大橋半七郎君ヨリ
   一金弐拾円    八巻知道君ヨリ
     以上       寄附ニ依ル
 右の報告終りて講演会に移り、工学博士今泉嘉一郎(鉄の話)文学博士中島力蔵(独逸人の国家観念)両氏の講演あり、最後に青淵先生の訓話(以上追て本誌掲載)ありて、講演を了りたるは午後一時過なり。夫れより園遊会に移り、生麦酒・煮込燗酒・天麩羅・蕎麦・寿司団子・甘酒の各露店は忽ち満員の盛況を呈し、若葉の間に燃ゆる躑躅緑樹の蔭に薫る藤花の下、心清く気爽かに、旧を談じ新を語る歓楽郷此方の庭園には帝劇管絃楽部のオーケストラ及び丸井一座の太神楽の余興あり、半日の清遊に日頃の労苦を忘れ、和気靄々裡に三々五々帰途に就けるは夕刻なりき。当日の来会者は左の如し。
 一名誉会員
  青淵先生   同令夫人
 一来賓
  工学博士 今泉嘉一郎君   文学博士 中島力造君
 一特別会員(いろは順)
  伊東祐忠君    伊藤登喜造君   同家族一人
  伊藤新作君    一森筧清君    岩崎寅作君
  池田嘉吉君    石川道正君    原胤昭君
  萩原源太郎君   長谷川粂蔵君   伴直之助君
  西田敬止君    西野恵之助君   西谷常太郎君
  男爵穂積陳重君  穂積重遠君    堀井宗一君
  堀井卯之助君   堀越鉄蔵君    星野錫君
  土岐僙君     土肥脩策君    戸村理順君
  尾高幸五郎君   尾高次郎君    大原春次郎君
  大橋光吉君    大野富雄君    大倉喜三郎君
  川田鉄弥君    川村桃吾君    河村徳行君
  河田大三九君   神谷十松君    神谷義雄君
  柏原与次郎君   米倉嘉兵衛君   横山徳次郎君
  吉岡新五郎君   吉川宗充君    吉田嘉市君
  田中太郎君    田中徳義君    田中楳吉君
  高橋波太郎君   高橋金四郎君   高根義人君
  高松録太郎君   竹田政智君    成瀬仁蔵君
  中村歌次郎君   中沢彦太郎君   仲田正雄君
  永野護君     永田甚之助君   武藤忠義君
  村木善太郎君   棟居喜久馬君   内山吉五郎君
  上原豊吉君    同令夫人     同令嬢
  野崎広太君    久万俊泰君    八十島親徳君
 - 第42巻 p.614 -ページ画像 
  矢野由次郎君   簗田𨥆次郎君   山田敏行君
  山中譲三君    山口荘吉君    山本久三郎君
  松谷謐三郎君   松平隼太郎君   同令息
  増田明六君    福島甲子三君   福島宜三君
  小池国三君    古仁所豊君    古田中正彦君
  寺田洪一君    同家族二人    浅野泰治郎君
  朝山義六君    同令夫人     安達憲忠君
  佐藤毅君     佐藤正美君    佐田左一君
  佐々木保三郎君  斎藤章達君    男爵阪谷芳郎君
  阪谷希一君    北村耕蔵君    湯浅徳次郎君
  宮下清彦君    清水釘吉君    清水一雄君
  清水揚之助君   白石喜太郎君   芝崎確次郎君
  島原鉄三君    渋沢武之助君   同令夫人
  渋沢正雄君    下野直太郎君   弘岡幸作君
  平岡光三郎君   平沢道次君    諸井時三郎君
  諸井恒平君    持田巽君     関直之君
  鈴木金平君    鈴木清蔵君    鈴木善助君
  一通常会員(いろは順)
  井野辺茂雄君   井上井君     井戸川義賢君
  井田善之助君   井出敏夫君    伊藤英夫君
  伊藤美太郎君   伊東勝三郎君   伊沢鉦太郎君
  伊地知剛君    飯沼儀一君    市川武弘君
  板野吉太郎君   磯村十郎君    家城広助君
  石井与四郎君   石田豊太郎君   石田誠一君
  石上金之助君   長谷井千代松君  原泰一君
  秦乕四郎君    原久治君     早川素彦君
  林興子君     林正三君     林広太郎君
  伴五百彦君    蓮沼門三君    橋爪新八郎君
  橋本武昭君    春名喜四郎君   西正名君
  西尾右三郎君   二宮正幸君    堀内歌次郎君
  堀家照躬君    本多勝君     堀江呉郎君
  東郷一気君    豊高春雄君    豊田喜重郎君
  友田政五郎君   友野茂三郎君   苫米地義三君
  小田島時之助君  小倉平一郎君   小倉槌之助君
  小川銀次郎君   大石良淳君    大原万寿雄君
  大河原源五郎君  大畑敏太郎君   大友忠五郎君
  大島勝次郎君   大島正雄君    大木為次郎君
  大平宗蔵君    太田資順君    大須賀一郎君
  落合満芳君    岡田能吉君    岡崎惣吉君
  岡本謙一郎君   奥川蔵太郎君   織田磯三郎君
  織田槙太郎君   渡辺福松君    渡辺轍君
  河崎覚太郎君   河見卯助君    金井滋直君
  金子四郎君    金沢求也君    笠間広蔵君
  神谷祐一郎君   上倉勘太郎君   鍵和田良平君
 - 第42巻 p.615 -ページ画像 
  横尾芳次郎君   横田晴一君    吉田升太郎君
  田沼賢一君    田中鉄蔵君    田淵団蔵君
  田村叙卿君    田子与作君    田島昌次君
  高橋耕三郎君   高橋毅君     高橋俊太郎君
  高橋森蔵君    高山仲助君    高山金雄君
  高木岩松君    高島俊助君    高瀬荘太郎君
  竹内一太郎君   竹下虎之助君   玉江素義君
  竹島安太郎君   武川吉郎君    武沢顕二郎君
  武沢与四郎君   俵田勝彦君    鶴岡伊作君
  塚本孝二郎君   蔦岡正雄君    辻友親君
  内藤種太郎君   中西善次郎君   中村新太郎君
  中村鎌雄君    中村栄太郎君   中村敬三君
  中山輔次郎君   中島徳太郎君   永田市左衛門君
  長井喜平君    長宮三吾君    滑川庄次郎君
  武藤学二君    村井義寛君    村上義諢君
  村上外次郎君   村田繁雄君    村山革太郎君
  村松秀太郎君   浦井吉三郎君   生方裕之君
  上田彦次郎君   上野政雄君    上野金太郎君
  梅津信夫君    梅田直蔵君    梅沢鐘三郎君
  臼井俊三君    久保幾次郎君   久保田録太郎君
  国枝寿賀次君   熊沢秀太郎君   桑山与三男君
  九里真一君    家田政蔵君    八木安五郎君
  八木仙吉君    山田直次郎君   山村米次郎君
  山崎一君     山下三郎君    山本康次君
  山本繁松君    松井方利君    松園忠雄君
  松村五三郎君   松村修一郎君   松田兼吉君
  松本幾次郎君   増原周次郎君   藤井信二君
  藤井甚太郎君   藤沢精治君    藤木男梢君
  藤江元亨君    古田元清君    深沢真二郎君
  福田盛作君    福島元朗君    福島三郎四郎君
  福本寛君     小林市太郎君   小林徳太郎君
  小林茂一郎君   小林清三君    小山平造君
  小宮善一君    小島順三郎君   小島鍵三郎君
  小森豊参君    河野通吉君    河野間瀬次君
  江口百太郎君   江原全秀君    阿部久三郎君
  粟生寿一郎君   有田秀造君    赤萩誠君
  荒井円作君    浅見録三君    浅見悦三君
  綾部喜作君    秋元章吉君    足立芳五郎君
  安藤栞君     佐藤金三君    佐藤金太郎君
  三枝一郎君    斎藤又吉君    斎藤真容君
  沢隆君      斎田銓之助君   猿渡栄治君
  酒井次郎君    桜井武夫君    木村金太郎君
  木村弘蔵君    木之本又一郎君  木下憲君
  北脇友吉君    三輪清蔵君    三森礼一君
 - 第42巻 p.616 -ページ画像 
  緑川洽君     御崎教一君    水谷房次郎君
  箕輪剛君     清水鑙君     清水松之助君
  芝崎徳之丞君   芝崎猪根吉君   塩川薫君
  東海林吉次君   重野逸次郎君   篠塚宗吉君
  島田哲造君    渋沢秀雄君    下条悌三郎君
  新庄正男君    昼間道松君    平井伝吉君
  平塚貞治君    両角潤君     森由次郎君
  森谷松蔵君    森島新蔵君    門馬政人君
  持木良清君    関口児玉之輔君  須田武雄君
  鈴木房明君    鈴木富次郎君   鈴木勝君
  鈴木源次君    鈴木旭君     鈴木正寿君
  鈴木豊吉君    住吉慎治郎君   周布省三君


竜門雑誌 第三五二号・第三二―三七頁 大正六年九月 ○春季総集会に於て 青淵先生(DK420105k-0003)
第42巻 p.616-619 ページ画像

竜門雑誌  第三五二号・第三二―三七頁 大正六年九月
    ○春季総集会に於て
                      青淵先生
  本篇は、本年五月六日、曖依村荘に於て開催せる、本社春季総集会に於ける、青淵先生の講演にして、先生の校閲を経たるものなり(編者識)
 時間が大分遅くなりましたから、簡単に前席の両博士に対する御礼を申上げて、私の演説は成るべく短くするやうに致します、竜門社の会合が一回毎に力を増して参りまして、殊に今日の春期総集会は、鉄に対する今泉博士の御講演、又独逸学者の国家観に対する見解と、之に就ての御批評としての中島博士の御演説は、簡単なる御言葉ではございましたが、実に明瞭にして其要を得たるものと、吾々共最も有難く拝聴を致しました。
 玆に先づ一言申上げねばならぬのは、昨年私の喜寿に達したに付て此竜門社から論語年譜の御寄贈を得たることは深く感佩仕りまする、其時には病気であつて参上を致しませぬからして、或部分の方々には其後の会見に御礼を申しましたけれども、多数の諸君に御挨拶が遅れて居ります、依て此機会に於て諸君の御厚情を感謝致します、唯今評議委員長から、私が此総会に聊か微意を致したことの御挨拶がありましたけれども、是は諸君の御厚意に対しますると、殆ど九牛の一毛でございます、併し幸に今日は雨も降らないで、後に庭園の御散歩も為し得られましやうから、私の寸志が諸君に貫徹するのかと喜ぶのでございます、前にも申述べます通り、竜門社の会合も、回を重ぬる毎に御講演が段々重要な問題に進んで来るやうに思ひますことは、諸君も定めて愉快に御感じでございませうが、私は別して深く感じまするのであります。
 欧羅巴の戦乱も既に三年を経過して、是からどう成行くかと云ふ事に付ては、日本の国民が総て考慮を尽さねばならぬ場合でありますがこれに関しての直接問題と申し得ぬかも知らぬが、此鉄と云ひ、独逸の国家観念と申し、一方は物質的に、一方は精神的に、両博士が丁寧に御述べ下さつたことは、竜門社員が欧羅巴の戦乱終熄後は、どうな
 - 第42巻 p.617 -ページ画像 
るであらう、日本国民は如何に心得て宜からうと云ふことにまで想到する、好い便宜を御与へ下さつたと申しても宜いやうに思ひます、鉄の事に就て、私は毎度此御話をしますが、五十年前に白耳義の首府に於て、国王から鉄の講釈を聞いたことは、今尚記憶して居るのでございます、前席に於て、今泉君の御述べになりました通り、鉄と人、鉄と国、又日本今日の鉄の有様を類別して、詳細に御説明下さいましたが、国王の談話は左様に綿密ではなかつたけれども、レオポルド二世が民部公子に鉄の講釈をされましたのは、鉄を沢山に産する国は富み鉄を沢山使用する国は強い、強と富との二つを含蓄して居るのが鉄である、日本人が白耳義に来て、リエージユの鉄工場を視たのは寔に喜ばしい、故に日本人は向後、追々に鉄を多く買はねばならぬが、其鉄を買ふならば、第一に白耳義から買へと言はれたので、国王様は却々如才無い人だと、笑を含みて其言を聴いたことがあります、又一昨年私は亜米利加に参りまして、ゼイムス・ヒル氏からも、鉄の講釈を聞きました、青年の時に、白耳義に於て鉄に対して異様の感を持ちましたが、老衰してから又、亜米利加で鉄のために痛く刺激されましたのであります、ゼームス・ヒル氏は、大北鉄道に於てヒツビングの鉄鉱を採掘し、且つ運送して居る、敢て専門家ではなからうが、鉄を造り出す原料の採掘運搬に力ある人であつた、殊に私に対する友誼上、日本が鉄業に付て力の尽し方が甚だ乏しいのを憂ふるが如き意味で、極めて真卒なる言詞を以てせられたから、私は大攻撃を受けたかのやうに感じたのであります。ヒル氏の述べた趣意は、聞く所に依ると渋沢は日本に於て長い歳月を実業界に費して、金融に、工業に、商業に、総ての方面に於て、指導の位置に立つて、日本の実業界を進歩させたと云ふが、鉄に対してどれ程尽力せられたか、日本の鉄業は今日如何なる有様に経営されて居るか、九州に政府の鉄工場があると云ふことは聞いて居るけれども、其外に日本に於て、鉄工場のあると云ふことは、亜米利加人は聞かぬが、併し聞えぬのは私が迂遠の為であらうが若又無いとしたら、日本人はそれで満足と思ふか、思ふならば其理由を説明して貰ひたいとの意味を以て申されたので、私は大に赤面をして、答に苦んだのでありました。今日今泉博士の鉄に対する御話から今昔を回想すると、鉄と云ふものに対して、吾々の注意が乏しかつたと、私は深く慙愧するのであります、私は昨年実業界を退きましたけれども、東洋製鉄会社の創設に付ては、今日も行掛りに多少の力添を致して、軈て其成立を見るであらうと思うて居ります、是は物質に属する直接問題であるが、今日諸君と共に企図するのは、此鉄業が将来日本に於て、穏健に発達し、他の列強との間に余り後れを取らぬやうにしたいものと思ふのであります。
 併し単に物質の文明のみに依つて、一国と雖も、亦全世界と雖ども隆昌を継続する訳にはいかぬと云ふことは、後席の中島博士の独逸学者の国家観念が、或点から想察すると実に恐るべきものとまで考へねばならぬのであります、畢竟三年に亘つて尚未だ終熄せぬ欧洲の大戦乱は、此悪観念・悪精神が原因を成したのではないか、若し是を往昔に追想したならば、私は聊か支那歴史に見て居る所の、周末春秋戦国
 - 第42巻 p.618 -ページ画像 
の争乱は、恰も今日の欧洲の有様である。果して然らば独逸は秦である、遂に始皇が出て、六国を亡しはせぬかと思はれるのであります、暴秦の対外政策は、中島博士の説明されたツライチケ氏の論ずる所と同様で、六国を亡さなければ天下の統一は出来ない、而して六国を滅すに付ては、所謂目的の為には手段を選ばぬのである、中島博士の御観察の通り、独帝及ツライチケ氏等の侵略主義者は、常に力を此点に竭したに相違ない。而して秦が六国を亡して、天下を統一した後の政治はどうであつたか。即ち書を焚き、儒を坑にし、聖人の教、道徳の行などは邪魔ものだ、国家は唯権力だけで宜いとて、六国を滅したる暴力を以て、其の政治を通さうとした、けれども二世に到ると、直に滅びた、其破滅の速かつたことは、左様に強かりし秦の権力が、又斯様にまで軟弱なものかと驚かれる位であつた。陳勝・呉広の乱が、直に高祖項羽を起して、杜牧之が所謂「戍卒叫函谷挙。楚人一炬可憐焦土」と云ふ阿房宮の賦の短い言葉で、秦の滅亡を言ひ尽して居ります私は飽迄も反対しますけれども、若しも国家権力説、即ちツライチケ氏の主張を行つて、真に強かつたならば、一時は世界に暴秦が出来るかも知れぬ、暴秦が出来たならば、其次には陳勝・呉広若くは高祖項羽の徒が起りて、之を亡すに相違ない。是は其理の帰順といふべきものと思ふ故に、ツライチケ氏は、自分は大学者と自負するであらうが実は真の天理を知らぬ人と申さねばならぬ。暴秦の政治は後世からは暴戻としたけれども、当時に在つては、書を焚き、儒を坑にしたのが適当と思ふたかも知れぬのであります。只今の中島博士の御演説に依て、二千年前の支那の歴史を回想しますと、成程ツライチケ氏の説、否独逸の国是が左様であつたかと思ふ事が各方面に現れて居ります。私は玆に一の証拠を挙げます、横浜に於ける独逸商館でバビーと云ふ人があつた、多分明治十五年頃と覚えます、此バビーが第一銀行の支店と、取引上の約束をしやうと云ふことで、折節私が横浜に支店を見廻りし時で、外国人に対する約束事だ、自身が契約しやうと思うて、其草案を作つた、其取引は寔に些細なもので、屑繭を三州地方で買うて、――京都に於て荷為替を付け、京都の銀行支店から其金を受取りこれを売主に支払ふて、荷物を横浜に送る、横浜の銀行支店とは、電信為替でバビーより金を払ふといふのが、バビーから第一銀行に対する希望であつた、是は銀行としては容易に出来ることだから、速に承知する、さりながらどうぞバビーの店から、横浜の支店へ先づ其金を入れて後に、京都に電報して、京都で金を渡すやうにしやうと言ふと彼は京都で先に金を渡して呉れて、後に横浜で金を入れやうと主張する、それは何れにしても同じやうなものであるけれども、バビーの方から頼むのである、頼む人が、金を先に入れて差支ないではないか、入れただけの金は直に京都に電報して払渡すのだと――言ふと、バビー暫く考へて、道理はそれが相当だけれども、其取扱によると取も直さず銀行に信用を与へるやうになるとて、同意せぬ、依て私は先づ金を渡すのは銀行に信用を与へると足下は云はるゝが、足下の方から為替を頼むのであらうが、頼む人から先づ金を払ふて、其金を他方で渡して呉れと云ふのが、何方でも為替の常例ではないか、欧羅巴の銀行
 - 第42巻 p.619 -ページ画像 
でも為替の取引はさうであらう、此方は道理至極の事を云ふのに、足下が厭やだと言ふのは一向解らぬぢやないかと論結すると、バビーは玆に至りて貌を改め、吾々が東洋の人に対して信用を与へると云ふことは、吾々商売人の仲間の申合に背くから困ると言ふた、依て私は憤然と忿つて、欧羅巴人は斯の如く吾々を人間以外に見て居るかと、腹立紛れに、其草案を机上に抛げ付けて、最早足下との対話は厭やだから、早々引取られよと云つて引込んでしまつた、すると通訳する人がさう怒つては困る、バビーも前言を取消して、銀行の成規によると契約するとて、其取引は成立しましたけれども、蓋しツライチケ氏の説がバビーにまで伝つたのである、私は明治十五年頃、右様な不道理の対話をして憤怒したことがある。若し此主義が段々に拡張して、国と国との間にまで及んだならば、或は条約を無視して中立地帯を踏破り又は人の骨を砕いて膏を採り、若くは婦女子を辱しめると云ふやうな事は、何んでもないことになるのでありませう、詰り個人関係が、第一に強いと云ふを主として、道理とか礼譲とか云ふを後にするから起つて来るのであります、而して其小なる範囲即ち個人間に於ては、如何に独逸の学者と雖も、左様に吾々と見解を異にせぬかも知れませぬが、進んで独逸の強力を図ると云ふ国際的となると、全く之に反して遂に根本を忘れて、国際道徳と云ふものを無視するやうに成つたのではないかと思ひます。故に中島博士の、三つに分けてツライチケ氏の学説の御批評なされたことは、私は其正鵠を得たる御説と敬服致しますが、想ふに、此個人道徳も、彼等の主義とするものと、吾々の主義とするものとに、或は相違して居るかも知れぬ、況や国家は権力なりと云ふ主義で、秦の始皇の暴戻を、此文明国が各自に行うたならば、是は既に文明ではない、野蛮極ると言はねばならぬ、知識才能が多く有るだけ、悪事が多くなると言はなければならぬ、取も直さず鼠や鼬の害悪は、御供の餅を噛るとか、壁を壊すに止りますが、虎や狼の害悪は、実に人類にまで危害を及ぼす、今の独逸の害悪は、知識有り、強力ある丈け、虎狼の害悪である。昔し秦を虎狼の国と言ふたのも、此処から出たと申しても宜からうと思へます、故に吾々は虎狼の人民虎狼の国家とならぬやうに御注意を願はねばなりませぬ。(拍手)


竜門雑誌 第三四九号・第四〇―四四頁 大正六年六月 本社第五十七回春季総集会講演(DK420105k-0004)
第42巻 p.619-622 ページ画像

竜門雑誌  第三四九号・第四〇―四四頁 大正六年六月
  本社第五十七回春季総集会講演
 去る五月六日午前十時より、飛鳥山曖依村荘に於ける、本社第五十七回春季総集会の景況は、本誌前号に掲載したる所なるが、当日評議員会長阪谷男爵の挨拶、幹事八十島親徳君の大正五年度収支決算其他諸般の報告、及び工学博士今泉嘉一郎君の講演○略スは左の如し
    ○阪谷評議員会長の挨拶
 閣下並に諸君、私は竜門社評議員会長の資格を持ちまして一言御挨拶を申上げます、本日の総会に当りまして、多人数の諸君が御繰合せ御出席下さいましたことを、第一に感謝致します、次に諸君の御記憶の通り、昨年は我青淵先生の七十七歳の御祝がございましたので、竜門社々員諸君一同の御決議に依りまして、青淵先生の最も重じて居ら
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れる論語に就ての、三千年間の伝記、即ち論語が如何に出版せられ、如何に普及せられ、如何に利用せられたかと云ふやうな廉々に就き、歴史に拠りまして、一々之を編纂致した論語年譜と云ふものを作つて御祝に竜門社から献上したのであります、其捧呈式を昨年十一月の総会に挙げました所が、其節生憎青淵先生が御病気で、御欠席でありましたので、式は其儘済しましたのでありますが、諸君に対して親しく御礼を申上げる機会を失つたことを、深く遺憾とすると云ふ御話でございまして、今日は竜門社の総会ではございますが、特に青淵先生が此費用を負担せられまして、諸君を御招待になつた訳でございます、私は評議員会長の資格を持ちまして、此青淵先生の御好意に対しまして、厚く御礼を申上げまするが、同時に又青淵先生即ち此渋沢家の親戚と致しましては、どうぞ此渋沢の微意を御酌取り下さいまして、一日を御緩りと愉快に暮されるやうにと云ふことに就て、亦申上げなければならぬ義務がございますが、それは私事でございます、即ち此評議員会長として諸君を代表致しまして、玆に青淵先生の御好意に対して厚く感謝の意を表する次第でございます、尚本日は今泉先生に鉄に関する御講話を願ひました、是は私より御紹介申上ぐるまでもなく、同君は我日本に於て鉄に就ての最も有力なるオーソリチーであります同君は私が未だ政府に居りました時分に、鉄の事業、就中枝光の製鉄所の成立のことに、非常な御苦心をせられた経歴を有せられ、今民間に下つて鋼管会社其他の事に尽力せられて、昨年私の欧羅巴に使ひしました時分に、相前後して瑞典の方に参られて、瑞典の最新の鉄の精錬方法を研究して御帰りになつて居る、鉄と文明、鉄と経済、種々の関係に於て、此鉄の話は非常な有益のことでございますので、特に同君に願ひまして、講話を乞ふことに致して、御快諾を受けた次第であります、其次に、是亦私の御紹介を要しませぬが、中島文学博士が、現時日本の青年、又国民一般が独逸を誤解致して居る、独逸が此度の戦争に於て、暴虐無道――人の骨を砕いて膏を取り、墓を発いて財を掠めると云ふやうな暴虐無道に対して、今世界は聯合軍を形造つて、之を責めつゝある、それに対する国民の覚悟決心が明かでなければならぬと云ふ所から、今日は独逸側の誤れる思想のことを、能く諸君の了解を得るやうに御話下さると云ふことであります、独逸が其文明に誇り、精神界のことを怠つて、斯の如き惨虐無道、世界の道徳を破壊し、文明を破壊せんとする、悪むべき行為の因つて来れる所を、充分に御理解の行くやうに御話下さると云ふことを仄かに承知致して居ります、是亦非常に有益のお話であらうと存じます、此両博士の御講演に対して、予め感謝の意を表して置きます、終に例に依りまして、青淵先生より一場の御訓話があつて後、種々な催があるのでありますが是等の事に付きましては、幹事八十島君から只今御報告がある筈であります、私は評議員会長の資格を持ちまして、先づ以て青淵先生の今日の御催し、又今日御講演下さる両君を御紹介申上げ、併せて諸君の御来会を一言感謝致して置きます(拍手)
    ○八十島幹事の挨拶
 是より例に依りまして、昨年度間の社務並に会計の要領を御報告致
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します、昨年度間に新規に入社されました会員が、特別会員二十一名通常会員七十二名、合計九十三名で御座います、而して又一面退社されましたのが特別会員五名、通常会員二十七名、合計三十二名であります、其中尾川友輔君を始め、八名の方々が、特別並に通常会員の中から逝去されましたことは、吾々社中の深く追悼する次第でございます、それで現在の所では、名誉会員一名、特別会員四百十一名、通常会員五百五十三名、合計九百六十五名から成立つて居る訳でございます、尚現在の役員としましては、評議員会長が一名、評議員が二十名の中一名欠員でございまして十九名、其中幹事を兼任致して居ります者が二名でございます、評議員の任期は四年でございまして、隔年に半数づゝ改選することに相成つて居りますので、丁度今日満期退任になりました所の半数の後任者に対し、先刻評議員会を開きまして、改選の手続を行つたのでございます、尚集会と致しましては、総集会を春秋に開きまして、其他時々評議員会を開きました外、昨年度に於きましては、一回我竜門社会員の関西在住諸君の会合が神戸に於て催されました、其時には青淵先生も御出席になりまして、特に一場の御講演をせられましたやうな次第でございます、尚竜門雑誌は主として我竜門社の主義方針を明かにして、諸君を始め世の中に之を伝へると云ふ目的で編纂されて居りますのでありますが、近頃引続き毎月約一千部乃至一千百部位を刷りまして、会員諸君を始め世の中へ配布して居ります、次に会計の要領を御報告致します、昨年度の収支、並に昨年度の末に於ける資産負債の状態、此二項に別けまして玆に朗読を致します(前号本誌雑報欄参照)。
 此内、昨年度に於きまして、寄附金のございました高が千百二十円でございます、是は中井三之助君が千円、大橋半七郎君が百円、八巻知通君から二十円、特に基本金に加へたいと云ふので、御寄附がありました、尚本年になりましても、服部金太郎君・酒井正吉君等から、寄附金の御寄贈がございましたが、是は今年の会計を締切りますときに、改めて御報告を申上げることゝ致します、又仮払金の四千六百円の大部分は、年度末即ち十二月三十一日に未だ未決算でありましたものでありますが、先刻評議員会長から御報告になりました論語年譜の編纂費用が大部分を占めて居るのであります、只今は殆ど決算済になりましたので、是も大略を御報告致したいと考へます、青淵先生喜寿祝賀の為に捧呈し、併せて世の中に頒つた所の論語年譜の編纂に関しましては、三千百九十五円、是が編纂費でございます、青淵先生及び先生の御一門に贈呈を致しました外、特に表装等も注意致して特別製に作りまして、両陛下・皇太子殿下・皇子殿下・朝鮮の李王世子、是だけへ謹で献呈を致しました、ところが何れも御嘉納がございまして評議員会長に宛てゝ当該掛官から御挨拶を得ましたのでございます、それから尚全国図書館及学校、其他本社の企に特別の関係ある向等に寄贈致しましたのが百六十八部ございます、其他世間へ出しましたのは、大倉書店と特別に契約を致しまして、大倉書店から世の中に販売することに致しましたので、それに付きましての会計上の収支は、本社には関係の無いことに致して居ります、故に先刻朗読致しました三
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千百幾らの外、青淵先生御一門に贈呈致しましたとか、或は宮内省其他へ献呈を致し及世間へ寄贈を致しましたものゝ費用を合計致しまして三千五百九十九円十七銭と云ふものが、特に論語年譜を編纂並に贈呈を致しました費用で、是は青淵先生喜寿御祝の為めに、本社の一般会計から支出致した次第でございます、此段御承知を願ひます、事務並に会計の報告は只今申上げました通であります、講演会に付きましては、先刻評議員会長から御報告がございました通りでありまして、それが済みまして後に、例に依りまして、園遊会及粗末な余興等の取設もございますから、どうぞ昼後に亘りまして、緩くりと一日の興を御尽し下さることを希望致します、尚今日の会は春季の総集会ではございますけれども、先刻評議員会長から概略御話の通、青淵先生から特に論語年譜を作つて差上げました御挨拶と致しまして、多大の御寄附を頂戴致しましたので、特に会費の徴収を省きまして、今日の会を開きますやうな次第でございます、此段も先生に御礼を申上げますると同時に、諸君に御報告を致して置きます(拍手)


中外商業新報 第一一一六五号 大正六年五月七日 ○竜門春季総会 曖依村荘の歓会(DK420105k-0005)
第42巻 p.622-623 ページ画像

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竜門雑誌 第三五〇号・第一一八―一一九頁 大正六年七月 ○竜門社評議員会(DK420105k-0006)
第42巻 p.623-624 ページ画像

竜門雑誌  第三五〇号・第一一八―一一九頁 大正六年七月
    ○竜門社評議員会
 本社に於ては、六月十八日午後五時より、帝国ホテルに於て、第二十一回評議員会を開きたり、出席評議員諸君は左の如し。
    穂積重遠君     土岐僙君
    土肥修策君     脇田勇君
    上原豊吉君     八十島親徳君
    山口荘吉君     明石照男君
  男爵阪谷芳郎君     佐々木勇之助君
    西園寺亀次郎君   白石元治郎君
    諸井四郎君
当日は青淵先生にも御来臨あり、尚晩餐会には左記前評議員諸君も列席せり。
    井上公二君     田中栄八郎君
    日下義雄君     諸井恒平君
      △評議員会議事
阪谷男爵座長席に就き左の諸項を決議す
一評議員会長選挙の件
 右は阪谷男爵当選、直に就任を承諾せらる
二入社申込者諾否決定の件
 伊藤幸次郎(特別会員)、斎藤捨蔵(通常会員)、両君の申込を承諾可決す。
三会員種別編入替の件
 通常会員渋沢秀雄君より特別会員に編入替希望申出を承諾可決す。
 右議事終了後、阪谷評議員会長は当選更任の挨拶と共に、新任評議員穂積重遠・土肥修策・脇田勇・白石元治郎・諸井四郎の五君に対して謝辞を陳べられ、尚ほ
  今夕評議員諸君の互選に依り、図らずも不肖、評議員に当選したるは予の光栄とする所なり。玆に謹でお請けいたし、及ばずながら誠意以て其の任務を尽さむことを期すべし。
  此機会に於て、予は評議員会長として、評議員殊に新任評議員諸
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君に対し、予が希望を披瀝せんと欲す。今や内外多事、予等は評議員として竜門社の主義綱領を恪守して、益々其の任務を尽さゞる可らざる重大の時機に際会せるなり。随て一層共の覚悟を強め、以て時勢に適応して努力せられむことを望まざるを得ざるなり。
  今や我国の商工業は欧羅巴大戦の影響を享けて、図らずも空前の好況を呈し、同時に内外接触の機会愈々緊密を加へて、玆に世界的事業となるの端を啓けり。一例を挙ぐれば、今や我日本の船舶の殆ど世界を廻航しつゝある如き即ち是れなり。随て商業道徳は最早や日本一国内の問題に非ずして、世界的問題として考慮せざる可らざるは勿論なり。即ち竜門社の主義綱領とする所の、商業道徳を益々天下に普及せざる可らざる必要を感ずること、愈々痛切なるものあるを以て、竜門社員就中評議員諸君に於ては、一層其の主義綱領を恪守せられ、以て小にして之を実践躬行し、大にしては之を模範として世に示し、尚ほ進みては之を弘く世に行はるゝやう、助力あらむことを切望せざるを得ざるなり。
 とて、評議員一同の覚悟及努力を希望せられ、次に主として名古屋に於ける中央報総会講演の為め、去十三日より十六日に亘る関西地方旅行の所感に付き述べらるゝ所ありたるが、尚ほ晩餐後、青淵先生より、先般信州各地巡回講演旅行中の所感、支那の状態に関して有力なる米国人数氏と意見を交換せられたる状況、及び我国に於ける資本対労働問題を将来如何に取扱ふべきか等に付て一時間余に亘り、縷々として意見のある所を陳べられ、之に対し諸井恒平・田中栄八郎・井上公二・土岐僙諸君より所感を陳べらるゝあり、最後に上原豊吉君より近時米価騰貴の経路及原因並に其将来に付ての演説等ありて、其散会したるは十時三十分なりき。


竜門雑誌 第三五〇号・第八八―九五頁 大正六年七月 本社評議員会談話会(DK420105k-0007)
第42巻 p.624-629 ページ画像

竜門雑誌  第三五〇号・第八八―九五頁 大正六年七月
    本社評議員会談話会
 六月十八日午後五時より帝国ホテルに於て本社評議員会を開きたる次第は雑報欄記載の如くなるが、当夜議事決了後開催せる談話会の要領左の如し
○中略
    ○青淵先生談話要領
 私は今日の会合に於て、最近の旅行及所感等に就き、二・三ケ条御話して見たいと思ひます。
      信州旅行
        △安政三年の通帳
 五月十四日に出掛けて信州旅行を致しました。小諸・上田・長野・松本・諏訪の五箇所に二晩づゝ泊つて演説しました。お話する程の事もないが、只信州地方が、昔し十六・七から二十一・二歳まで五・六年間旅行した土地でありますから、其の六十年以前の旅行に較べると如何に変つて居つたかと云ふことは、殆ど想像外であると云ふ感じを以て旅行した。上田では七十に垂んとする婆さんが尋ねて来た。其頃面会した人ではなかつたけれども、或は其の婆さんの兄さんが紺屋
 - 第42巻 p.625 -ページ画像 
私の行つた時分大いに取引をしたとか云ふやうな古い関係のある人で殊に可笑しいのは安政三年の通帳を持つて来て「是れある以上は慥に此上もない証拠であります」と云ふ。其の安政三年のは、其中に記載してある受取の計算は、慥に私がしたのであります。坐ろに懐旧の情を催ほして、感慨無量であつた。
        △各都市の概況
 信州の産業は概して養蚕に生糸で、私が廻つた五箇処の中、就中諏訪が盛んであつた。明治四十三年に一度行つたことがある。其の時は洪水の為めに一日閉籠められて、諏訪神社へ参詣するのに、諏訪町や湖水を船で通つて行くやうな始末で、工場を見る暇はなかつた。至つて繁華の土地ではあるが、今日斯くの如く事業が進歩しやうとは、能う知らなんだ。
 始めに小諸に行つた時は、小山久左衛門と云ふ人の家に泊つて、其の晩或る宴会席へ招かれて一場の話をしたが、二百許り集つて居た。昔しは左様な手広な処はなかつたが、今では二軒もあると云ふ有様、大分質素ではあるが、一方から云へば粗野な処がある、何さま土産の多くある為めに、土地が賑かで、人も亦た活溌に働いて、到る処工場を見るのは誠に心嬉しい。養蚕も盛んではあるが信州では諏訪が一番である。
 長野は、一番繁昌の土地であるが、是れは善光寺さまで繁昌するので、産業の方から云へば余り珍重する程の値打はない。兎に角場処は好し、県庁があるから市街の有様は賑かで、城山館抔いふ結構な料理屋もある。
 又松本では、片倉組で掛合せ種の製造法を遣つて居る。其の掛合せは近頃一種の発明で、夫れは欧羅巴種と日本種とを掛合せたもので、分量は少ないが、蚕児も凶作が少ないし又糸の質も良く解舒も好い。
 数年以来専ら此合せ種を遣つて居るが、今では立派な一事業になつて、一ケ年に三十万枚も造ると云ふ。小諸でも少し遣り居り、上田でも其の話を聞いたが、松本では専ら片倉組の手で遣つて居る。蓋し繭を買ふ買先きに其の合せ種を送つて、養蚕家に失敗をさせまいと云ふ用意と、併せて利益を得ると云ふこともありませうが、兎に角立派な事業になつて居る。
 諏訪では、工場を二箇処ばかり見た。上諏訪と岡谷の工場、岡谷には片倉組の倉庫会社抔もあるが、夫れも一覧した。岡谷と云ふのは上諏訪から一ト丁場コチラで、訪諏中で最も工業の盛んな土地で、人口も稠密である。併し誠に感心なのは、極く質樸で、或る旅店で昼飯を喫べたが、其の土地で最上の旅店と云ふのが、殆ど畳抔も処々汚点だらけ、食事は夫程マヅクはない、湖水で取れた鯉や、鰻の蒲焼、私の口には適当する、極く質樸なる料理法、只今阪谷氏から神戸のお話がありましたが、丸で世の中が違つたやうな有様、其の道具も昔しの大きな塗椀も、御膳の茶碗も少々処々欠けて居ると云ふやうな有様、食事は夫程粗野でない、又床の間の掛物には宝珠の玉が書いてあると云ふ位で、殆ど田舎の安泊りに行つたやうである。諏訪全体が左様かと云ふと、上諏訪で一夕私の為めに開いて呉れた歓迎会の設備抔は、中
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中立派であつた。但し大層な変りがあるとは謂はれぬが、流石に養蚕の本場丈あると云つて宜い。
        △学理と実際の適合
 殊に私は信州各地の養蚕の状況を視て、学問と実際と事実適合して居ることに、大いに敬服しました。凡そ此学理と実際とが出遇うたと云つても、未だ幾分学理応用が完全でない嫌ひが何事にも見えます。又縦しや出遇つても、本当の骨髄に達して居らぬことが凡ての事に多い。然るに信州の養蚕丈けは、真に能く一致して居ると云ひ居る。蚕種の吟味は全く届いて居る、桑の栽培法も学理に適つて居る、要するに養蚕の進歩は真に驚く程でありました。細かい数字は聞かないが、信州諏訪地方の生糸の出来高は、十八万八千梱で、殆ど横浜輸出の十分の四まで諏訪地方で持つて居る。養蚕・製糸の繁昌は、実に驚く程で、随つて地方の富も大いに進んで居る。夫れも或る一人が富むのでなく、一般に平均されて居る。私の信州旅行は阪谷氏の神戸に於ける贅沢な設備を観ると同時に、大に憂慮を起されたとは同日の談ではない。六十年振りで大変快い旅行をして帰りました。其後両三日前に房州に行つて来ましたが、別にお話する程の事はない。
      米国人との会見
 第二には亜米利加人で、支那旅行を志て帰つて来た人々の話を聞いた顛末を、掻摘まんでお話をする。是れは阪谷氏が懇意であるが、平和協会で事を取扱つて居るボールスと云ふ人の話である。
 とて、日本人が支那に於て為せる或る商品の売買、其他の行為を指摘して、注意されたる談話の要領を語られ、尚ほ市俄古の大陸商業銀行より支那に派遣されたるアボツト並にプラツト両氏との会見顛末を語りて曰く
アポツト氏は支那に金を貸す約束はしたが、議会解散等の内輪騒から其の話を纏めることが出来ず、モウ一遍出直すと云つて、帰つて来たと云ふて居りました。夫れから支那に関する事に就ては、貴下のお説は、成べく日本と亜米利加と協同して遣るが宜からうと云ふことは予て承知して居るが、協同とは如何なる事をするが宜いか、夫れから又ドウ云ふ事に着手したら宜いか、今直ぐに其の事が施し得られると迄は――私の方の仕事も行はれぬ位の支那だから――ドナタが考へても思ひ得られぬか知れぬが、大体の方針として、ドウ云ふ御思案を持ちますか、と云ふ問ひでありました。私は応へて曰ふ、政治上の意見を以て、支那の制度を改革すると云ふことは能ラ申さぬ。日米協力して支那の事業を開発すると云ふのは、支那に在る富源を開かうと云ふ趣意である。即ち日米力を戮せて、支那に手を着けると云ふことは、経済上から本当に遣らぬとイカヌと思ふ。既に御承知の通り、所謂四国借款と云ふもので、政治関係から経済方面に手を着けると云ふ話が生じて居るやうであるが、其の実は何等進んで居らぬ。第一貨幣制度を直さぬではイカヌ。現在の銀行は完全なものでない。各種の銀行が区区に遣つて居る。完全なる中央銀行を造ると云ふことが必要である。先づ貨幣制度改正並に中央銀行を設けたが宜からうと思ふ。然らば夫れはドウ云ふ都合に遣つたら宜いか、貴下の意見で経済上の関係許り
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でなく、政治上の関係をも持つやうに思はれるが、夫等の意見はドウか、応へて曰く、必ずしも只経済界丈けで出来る仕事ではないと云ふことは、無論であるが、支那の貨幣制度改正とか、中央銀行創立とか云ふことは、支那政府其者で遣らぬではイカヌ。政治上から支那の始末をしやうと云ふのでなくして、支那の経済上の発展を求めると云ふのが眼目である。今四国で手を着けると云ふことは、事実に於て出来ない。他の国は手を着けて居られぬから、此場合に英吉利なり、仏蘭西なりが、何と云ふか知らぬが、亜米利加と日本と力を戮せて遣つたならば、今日の如き劇しい騒動の起らぬ場合ならば、支那も同意するであらう。夫れに応じて処置して行つたら必ず出来ぬ事はなからう。根本はさう云ふ風にしたら宜からうと云ふ説には、彼等も同意の様子であつた。果してさう云ふ事なら、両国の政府が打合はせが出来ぬではイカヌと思ふが、其の点はドウ考へるか、夫れは論を俟たぬ、四国借款と云ふのは、政治上から遣つたのであるが、其実具体的の相談が起つて居らぬで、今日まで来て居る。併し根本の事が、日米協同で行はれるやうになつたら、細い仕事に就ても、例へば鉄道とか鉱山とか云ふやうな或る場所に於て遣る事でも、成べく互に他を凌ぐ事なく、自然協同が出来るだらうと思ふ。凡ての事に就て、必ずしも日米、資本を一にして遣らねばならぬと云ふのではないが、政治上・経済上重立つた事に就て、両国民の考へが一致して居れば、細い事も追々行はれるやうになるであらう。斯くの如くすれば、自然支那の改革が出来て、日米の意見なり、資本なりが、衝突なく行けるだらうと斯う応へた。趣意は能く分つた、夫れにはドウしても、政府同志が同じ意向にならぬではイカヌと思ふ。夫れは勿論の事である。然るに四国借款に亜米利加政府が仲間入りすることを躊躇して居るやうに聞きましたが夫れは足下は何と思ふか、斯くの如き事では、両国政府が一致することが出来ぬではないか、私も勿論さう思ふ、亜米利加政府をして、他の国々と同一に力を戮せるやうにさせると云ふことは、必ず出来ぬ事はなからう、お帰りになつたら、其事に力を尽したら宜いではないか果して其の通りに請合うとは云はれぬが、大いに尽力致しませう、と云つてツイ一両日前に立ちましたが、続いて一緒に来たプラット氏は日米関係に就ては自分もお説の如くするが宜いと考へる。併し亜米利加の中央政府と、地方政府との関係は、日本のやうに中央政府の力で自由にすることが出来ぬのである。故に加州問題のやうに事が起つた其の為めに日本人が短気を起して、亜米利加を攻撃するやうな事のないやうにして貰ひたいと、弁解的に言つて居た。此等の話は、日本贔負のエリオット、ジョルダン両氏抔の説と大抵似たやうなもので、今日はさう云ふ気運が段々多くなつて来たから、長い間には追々、日本移民に対して種別的待遇をせぬやうになる、と云ふことは望み得られると、申上げることが出来ると云ふ位に話して居られた。日米国交に付ては世間話に過ぎない、討論する程ではなかつたが、支那の関係に付ては要するに私共と余り意見が違はぬ。支那の現状では、国民自から四百余州を治めることは覚束ない、然らば何としたら宜いかと云ふことに付ては、日本人が他国の権益を妨げぬ程度に於て、支那を紊さ
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ぬやうに力を入れて進めて行くより、外はなからうと云ふ希望を述べて居りました。
 尚ほリンゼー・ラツセル氏と云ふ人は、紐育に開かれて居る日本協会の会頭にて、日本贔屓の人なりとて、此人と談話を交換したる要領を語られ、次いでリチヤード・チヤイルド氏と云ふ雑誌記者と会見せられたる顛末を語りて、曰く
此人はストレートと云ふ人の添書で、矢張り支那に三月許り居て、支那研究の帰りに、此帝国ホテルに泊つて居りました。両三日前会うていろいろ話を聞きました。大同小異であるが、相当に能力あるやうな人で、私に対する問ひは、日本の王政維新の変化から、実業界に身を投じた沿革を話をして呉れと云ふ。夫れから実業界の今日の有様、日米関係、支那に対する思ひ入れ等、順を追うて聞かれました。始めに私が支那に三月居つて研究せられた観察を尋ねた所が、其の応へは要するにアポツト氏の模様を、学者的に説かれたに過ぎない。
 斯様に此間会うた両三人は、今日の場合では支那の平和を維持し、改良して行くには日本の力に待つより外はないと云ふ観念が、大分強くなつて来たやうに看取された。随つて日米協力・支那開発と云ふことに付ても、今日では如何にも其の通りと云ふやうになつたやうに思はれた。未だ事実には現はれぬが――此一・二週間に続けて米人三人許りに面談した要領を、序でながらお話して置きます。
      資本と労働との問題
 夫れから今一つお話したいと思ふのは、私が実業界を引いた後の仕事は、寿命の続く限り精神界に尽さうと云ふ積り、夫れには一の方針がなければならぬ。所謂理想がなければならぬ。仁義道徳と生産殖利と一致させたい、論語算盤主義を事実に現はれるやうにしたいと云ふのが、私が年来の希望で、之を老後の務として遣る積りである。夫れから今一つは資本と労働との関係を懸念して居る。是れから先きドウ云ふ変化を起すか、追々工業が盛んになればなるほど労働を要する、労働を要する程、其の間に面倒が生ずると謂はざるを得ない。其の初め私共は、工場法は尚まだ早いと云つて、尚早論を唱へたものだ。併し両三年前、生産調査に其の問題の出た時分には、何時までも尚ほ早いと許り言つても居られまいと云つて、工場法の実施尚早論を取下げて同意をして、多少の修正を加へて復命したが、夫れが直ちに成立した。けれども其の工場法は実は完全なものではない。工場法其者から云つたらアレでは骨抜きであると謂はれるのも無理はない。又善くすると云ふにも程合ひがある。突如欧羅巴主義に遣らぬでも宜からう。兎に角今後労働者を如何に処置するが宜からうかと云ふことを、考へて見なければならぬ。第一に労働組合が成立たぬでは、イカヌかドウかと云ふことも考へものだらうと思ふ。近頃同盟罷工の話がある。夫れに就て彼の友愛会、アンナものがあるから、同盟罷工を誘導すると云ふ考へを持つ人がある。併し友愛会がなくても、同盟罷工が突発して、資本家が大変困る事が生ぜぬとも限らぬ。其の点は余程考へなくてはなるまいと思ふ。夫れとともに、日本の労働者は規則とか、申合せとか、組合とか云ふものがない方が宜いか、一例を挙ぐれば権利は
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上の方に取つて、さうして民は凡て其の命に遵はしむる方が、或る点から言へば頗る楽だと、昔し文王はさう謂はれたか知らぬが、段々後になつて、凡ての知識を進めて行く世の中では、さう云ふことは出来ぬと同じ事で、資本と労働との関係も亦た、全く適合したものでないかは知らぬが、資本家の段々進む程労働者に対して、良い導きをして行くやうにしなければならぬだらうと思ふ。近頃亜米利加では、其の辺の関係は大分善くなつて来たやうであるが、併し労働者は成ベく働きを少くして、多くの給金を望む、工場が多くなればなる程、さう云ふ傾向になつて来る。又資本家の方では成ベくさう云ふ申合せ抔をさせないで、安く使ふと云ふことを考へるやうになると、其処に意思の齟齬を来たすやうになる。私の見た所では亜米利加の現在は労働者仲間は階級が低い丈けに我儘が強い。資本階級は寧ろ労働者を誘導すると云ふ傾向になつて居る。是れは日本に於ても将来の大問題であるから、近々に労働者を使ふ方々に打寄つて貰つて、労働組合の如きものがあるが宜いか、無いが宜いか、有るが宜いと云へば、ドウ有るが宜いか、又無いが宜いと云へばドウ無くするが宜いか、お話を聞いて見やうと思ふ。竜門社の評議員会で、今直ぐにドウ斯う云ふ訳にはイカヌけれども、是れは余程至難の問題ではなからうかと思ふ。
 次に青淵先生と、諸井恒平・田中栄八郎・井上公二・土岐僙諸君との間に資本対労働の問題につき種々意見の交換ありたる後、阪谷男爵等の希望に依り、上原豊吉君は刻下の米価騰貴に就て一場の演説を為せり