デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.658-662(DK420109k) ページ画像

大正7年7月5日(1918年)

是日、当社評議員会、帝国ホテルニ於テ開カレ、栄一出席ス。引続キ阪谷芳郎帰国歓迎晩餐会催サレ、栄一挨拶ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三六二号・第六六頁 大正七年七月 ○本社評議員会及び阪谷男爵歓迎会(DK420109k-0001)
第42巻 p.658-659 ページ画像

竜門雑誌 第三六二号・第六六頁 大正七年七月
    ○本社評議員会及び阪谷男爵歓迎会
 本社に於ては、本月五日午後五時半より、帝国ホテルに於て、評議員会を開きたり。評議員会長阪谷男爵開会を宜し、幹事石井健吾氏より入社会員、及種別編入替会員の報告(別項参照)あり。全部原案通り可決し、是れて閉会を告げ、夫より、本月廿五日、支那より帰朝せられたる阪谷男爵歓迎晩餐会を開きたり。食後阪谷男爵の支那旅行談(本誌八月号掲載)あり、最後に青淵先生の挨拶旁々訓話あり(本誌掲載)散会したるは十時過なりき。当夜の出席者諸氏左の如し。
 青淵先生
    △現評議員(いろは順)
 石井健吾    星野錫     尾高次郎
 大川平三郎   脇田勇     上原豊吉
 植村澄三郎   八十島親徳   山口荘吉
 明石照男 男爵 阪谷芳郎    清水釘吉
 - 第42巻 p.659 -ページ画像 
    △前評議員
 清水一雄    服部金太郎   佐々木慎思郎
 佐々木清麿   日下義雄    高根義人
 高松豊吉    渋沢義一    竹山純平
    外
 渋沢正雄    渋沢秀雄    横山徳次郎
 増田明六    白石喜太郎   矢野由次郎
 高橋毅一


竜門雑誌 第三六二号・第二四―二八頁 大正七年七月 ○本社評議員会に於て 青淵先生(DK420109k-0002)
第42巻 p.659-662 ページ画像

竜門雑誌 第三六二号・第二四―二八頁 大正七年七月
    ○本社評議員会に於て
                     青淵先生
  本篇は、本月五日午後五時半より、帝国ホテルに於て開かれたる本社評議員会閉会後、阪谷男爵の支那旅行談に対し、青淵先生御挨拶旁々講演せられたるものなり(編者誌)
 今晩阪谷氏の歓迎会を催すに就ては、支那旅行のお家苞として、其の政策に関する談話を聴きたいと思ひました。其意味の御話も一分承りましたが、其中にも曲阜・泰山参拝の事を主として述べられましたのは、御同様に頗る興味を感じ、私は殆ど泰山に登つて、天下を小なりとするやうな心地致したのであります。私も先年支那旅行を致しました時には、是非聖廟を参拝致したいと思ひましたが、どうも孔夫子に嫌はれたと見えて、天津で病気に罹つて、泰山に足を向けることが出来ませなんだのは、今も尚ほ残念に思つて居ります。併し未だ老ひたりと雖も、尚ほ雄心勃々として、今歳はどうかして抔と思はぬでもありませぬ、或は思ふ丈けで、行ふことが出来ぬかも知れませぬ。何時頃から左様に、孔廟若くは泰山が、支那の歴朝から尊崇されるやうになつたかと云ふことは、私は浅学にして、其歴史を審に存じませぬけれども、恰も釈迦の霊場の如く、或は耶蘇のエルサレムの如く、如何にしてあの余り宗教心の少い支那に於て、二千五百年の間維持されたかと云ふことは、殆ど奇蹟と申しても宜いやうであります。其事実がどう云ふ訳であるかと云ふことは、私は時々疑問を起して、心に問ひつ答へつしても、未だ充分にその解釈を得られませぬ。如何にも孔子の教と云ふものは、誠に凡庸ではあるけれども、併し深遠である。誠に高尚ではあるけれども、又一方から云へば極く卑近である。此の孔子教に対しては、以前に井上哲次郎博士が簡単なる評論をされた事であるが、私は其評論は誠に適評と思つて居ります。他の宗教家若くは英雄は、頗る非凡な所があつた。彼の釈迦の如き、身は王族に生れながら、浮世の有様を観じて所謂豁然として憤を発したか、或は世の無常を悟つたか、遂に出家して山に入つたと云ふやうな訳で、勝れたる見識を持ち、勝れたる学才を持つて居つたに相違ない。耶蘇も亦三十歳位で刑に処せられる位であるから、聖書を見ると至つて温和な人のやうではあるが、あの時勢に於て世の中の風潮に大に抵抗した所を見ると、中々劇しい気性を以て、当時の社会の風潮に対抗したに相違ない。孔子も決して時流を趁ふた人ではない。又曲学阿世の人でもな
 - 第42巻 p.660 -ページ画像 
いことは明であるが、至つて平凡で、只諄々として道を説かれた丈けで、殊更に変つた有様はない。其行動は審に知りませぬが、十有五にして学に志し、夫から三十までの間、どんな事を為されたか、「周に適きて礼を老子に問ふ」たのは、三十そこそこで、既に「反つて弟子益々進む」と史記の世家に在ることを、朱熹が論語の序に引用した所を見ると、若い時分から教師を勤められたに相違ない。さらばとて道学先生の如く又学究的教師でもなく、初めには委吏となり、司職の吏となり、夫から周に適きて礼を老子に問ふと云ふやうな、斯の如く極く普通、極く凡庸なる取立である。
 夫から「魯の定公を相けて、斉侯と夾谷に会す」と云ふ頃には、大いに国政に与かられ、而して其時の大夫季桓子の政治の執方を非難されたが、用ゐられなかつたから、竟に魯を去つたと云ふやうな訳で、其所作は少しも豪傑の風もなければ、又大に超脱した所もない。誠に凡庸なる有様で進んで居ります。故に井上博士が「凡庸なる偉人」と評論されたのは、誠に尤もの評のやうに思ひます。普通の人と変つた有様は、殆ど無かつた、要するに孔子は全く、其当時の天下を治めて周室を再興せしめ、大いに文王の政をどの諸侯にも行はしめやうと云ふのが、其理想であつた。而して壮年の時から六十八歳まで、其事に拮据経営、席暖まるに遑あらず、各地を奔走したのであります。殊に魯に対しては、自分の生国であるから、どうか魯国をして、其位地に立たしめたいと苦心し、又或る場合には、斉の景公、衛の霊公の如き諸侯をして、其政を施さしめやうと、種々苦心され、殆ど其志を行ふに汲々として、一生を送られたやうである。此有様から云へば、何千年の後までも、此の如く尊敬されると云ふことは、殆ど奇異の感を為さゞるを得ぬのであるが、併し孔子の教が、支那に於て道教が盛であるに致せ、仏教が盛であるに致せ、今日此の如く尊崇されると云ふことは、是れは如何なる理由であるかと云ふことを、能く考へねばならぬ。而して其の攻究は、私には判然と出来得ぬとまで言ひたいのであります。
 深く孔子教を考へて見ると、誠に日常の事に就て能く細に説き、又それが如何にも人情に適して居る、玆が孔子教たる所であらうと思ふ而して他の視て以て凡庸とする所が、即ち妙味の存する所である、孔子とても現在、人であつて、神でもなければ、仏でもない。左様に変つた行為のあらう筈はない。只人たるものゝ世に立つと云ふことは、一点の過ちなく、一点の心に疚しい処なく、俯仰天地に愧ぢぬと云ふことであつたならば、其の国家は誠に上下鼓腹して太平を致し得るのである、之を理想として行はうとするならば、真の実行は凡庸であつても、其の凡庸こそ如何にも霊妙の所であると謂つて宜い訳である。尚ほ「誠は天の道なり」と云ふ。其の「天」と云ふものは、至つて霊妙と云へば大変霊妙である。凡庸と云へば甚だ凡庸である。春は花が咲き、夏は熱く、秋は涼しく、冬は雪が降る。頗る凡庸、頗る霊妙、孔子教たるものは、如何にも凡庸であるが、其平凡なる所即ち非凡であると云ひ得る。さう考へて見たならば、決して仏教若くは耶蘇教と変つた所がないのである。今日に於ても尚ほ、孔子の教を平凡である
 - 第42巻 p.661 -ページ画像 
と云つて疎んずるものなく、世の中の人が大に崇敬するのは、此点に在るのではなからうか。
 殊に私は、孔子教の深く崇敬されると云ふことは、是れは少し僻する議論になるかも知れぬが、事業上の成功と失敗とは、必ずしも其の当代の盛なる有様のみを成功とは云はぬ。其の或る志が後代に伝つて成程と感解さるゝに於て、追々に其の説が高くなつて来る。例へば其人の去つた其の次の代、若くは其の又次の代と云ふように、数代を経て、其説が尤もであつたならば、多少疑つた人も、遂に之に帰依すると云ふことになるであらう。即ち百年の後を待つて事始めて定まる。其の定まる時に於て、其人の志、其の人の行が成功したと云つて宜い訳である。故に成功失敗は啻に当代に於て得る所の多寡、行ふ所の広狭に由ることでなく、其の論ずる所の道理、其の主とする所の行が、如何にも其当を得るや否やを能く鑑識せねばならぬ。極く卑近な言葉を以て言ふならば、果して事業が当つて金を儲けたと云ふ如きことが成功でなくて、仮令大なる利益は得ぬでも、或る一つの仕事に就て、誰にも処し難い事を、彼の人にして彼れ丈けの事が成し得たと云ふならば、即ち之を以て成功と云ふても、決して見定めを誤つたものとは云へぬ。古語にも、成敗を以て英雄を論ずる勿れと云ふことがある。故に曰く現代の成敗のみを以て、事を論ずる莫れと。彼の孔子が幾久うして東洋の智識階級から崇敬を受けると云ふことは、所謂現代に屈して後代に伸ぶると云ふものではなからうか。即ち孔子は人を教へ、人の模範たるべき智能と徳望を充分に備えて居つて、営々汲々として当代を治めやうと考へたけれども、周末一般の人気が、不幸にして其処までに進で居らぬので、現代に栄達することが出来ずに仕舞ふた。併し其の力が尭舜――文武にも優る所があつて、其の現代に伸び得ぬ孔子であるから、自ら其の成功や、後代に及んで現はれたものではないか。果して斯う考へると司馬温公の所謂「現世に伸ぬのが即ち大いに将来に伸びる所以である」と言ひ得るのである。
 要するに孔子教の根源は「志於道、拠於徳、依於仁、游於芸」又「徳之不脩、学之不講、聞義不能徒、不善不能改、是吾憂也」と云ふ所に在る。之を孔子教の四要と云ふ。又曾子は三省と云て「為人謀而不忠乎、与朋友交而不信乎、伝不習乎」此の四要三省と云ふことが孔教の深く重んずる所である。又更に、之を一に約めると「一以貫之」或は中庸には「誠者天之道也、誠之人之道也」是れは常に孔子が曰はれたから貴いと云ふのではない。我々が常に之を身に体して行つてゆくならば、人として必ず過ちなきを得るであらう。兎に角此の道理に拠つて進んで行くならば、如何に進むとも、人々相互に相侵し、相鬩ぐことなからしむる事が出来るであらう。玆が孔子教の深く崇敬すべき所であらうと思ふ。只智を進めると云ふ方法に就ては孔子教たらざるも、尚ほ大いに進める道がある。併し不幸にして其の進み方が其度を超ゆると、只是れ智のみ進みて、利只是れ求むるやうになり、結局は、今日の欧羅巴の戦乱の如き有様に陥る虞れはないか。此点から考へると、若し人でなかつたならば、あれ程の悪魔の如き残酷な行ひはせぬであらう。徐に考へると、誰もさう思ふに相違ない。斯の如
 - 第42巻 p.662 -ページ画像 
き殺伐なる事をせねば、人と云ふものは、此世に生存の出来ぬものかと思へば実に情けない。孔子をして、今日に在らしめたならば、涙を流して歎息するであらう。此間も或る宗教家に向つて、蓋し宗教の力が衰へたから、あのやうな戦乱が起つたのではないかと云ふと、否な宗教の力が衰へたのではない、悪魔が多くなつたのだと云はれたが、一向訳が分らぬ。若し世界の人々が、孔子教に遵ふならば決して欧洲戦乱の如き惨状の生ずる筈はない。斯の如く考ふると、実に孔子の教へは、我々の金科玉条と崇敬しなければならぬ。只利に放《よ》りて行へば怨み多し、と云ふことを能く顧みさへすれば、過ちなきに庶幾からうと思ふ。
 要するに、孔子の今日に崇敬される所以は、其の道理の如何にも能く実際に適合せると、モウ一には孔子は当代に現はれぬ為に、斯の如く後世に伸びるのであると云ひ得るであらう。但し其の為めに渋沢が必ずしも現代に発展を求めぬと云ふ訳ではありませぬから、其の誤解のないやうに望みます。今夕は阪谷氏の曲阜・泰山のお話を承つて、私は深く興味を感じました云々。