デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.5-10(DK430001k) ページ画像

大正9年4月10日(1920年)

是日、当社評議員会、帝国ホテルニ於テ開カル。栄一出席シテ日米問題ニ就イテ演説ス。


■資料

竜門雑誌 第三八三号・第四六頁大正九年四月 ○竜門社評議員会(DK430001k-0001)
第43巻 p.5 ページ画像

竜門雑誌 第三八三号・第四六頁大正九年四月
    ○竜門社評議員会
 竜門社第二十七回評議員会は、四月十日午後六時より、帝国ホテルに於て開かれたり。評議員会長阪谷男爵、会長席に着きて開会を宣し幹事石井健吾君、先づ第一号議案「前年度社務及会計報告」を為し満場一致之を承認し、次いで第二号議案「入社申込者諾否決定の件」及第三号議案「会員中種別編入替の件」を諮り、是れ又満場一致にて原案通り可決し、第四号議案「幹事壱名補欠互選の件」は、評議員会長の指名に一任することに決し、評議員会長は評議員増田明六君を推選し、同君承諾就任せり、次に第五号議案「第六十三回春季総集会開催に関する件」を諮り、其開催日時は四月十八日午前十時、場所は飛鳥山曖依村荘、当日の順序及細目に付ては幹事に一任する事に決し、最後に第六号議案「故評議員尾高次郎・同八十島親徳両氏追悼会開催の件」は時日及場所其他凡て評議員会長及幹事に一任することに決して評議員会を終り、別室に於て、晩餐の後、評議員白岩竜平君の「支那視察談」阪谷男爵の「西比利問題に就て」青淵先生の「対米問題に就て」の演説ありて、散会したるは十時過なりき、当夜の出席者は即ち左の如し。
   名誉会員 青淵先生
    現評議員(イロハ順)
 石井健吾君   穂積重遠君   土肥脩策君
 脇田勇君    田中栄八郎君  高根義人君
 植村澄三郎君  増田明六君   明石照男君
 男爵阪谷芳郎君 佐々木勇之助君 清水一雄君
 白石元治郎君  白岩竜平君   諸井四郎君
    前評議員(イロハ順)
 土岐僙君    日下義雄君   山口荘吉君
 佐々木慎思郎君 渋沢義一君   清水釘吉君
 諸井恒平君   桃井可雄君
    会員
 渋沢武之助君  渋沢正雄君   八十島樹次郎君
 利倉久吉君   白石喜太郎君  矢野由次郎君
 - 第43巻 p.6 -ページ画像 


竜門雑誌 第三八四号・第一一―一七頁大正九年五月 ○日米問題に就て 青淵先生(DK430001k-0002)
第43巻 p.6-10 ページ画像

竜門雑誌 第三八四号・第一一―一七頁大正九年五月
    ○日米問題に就て
                      青淵先生
  本篇は、去四月十日、帝国ホテルに於て開催せる本社新旧評議員晩餐会終了後、青淵先生の演説せられたるものなり(編者識)
 阪谷さんの今の御話で、大分範囲が拡まりましたが、私は更に輪廓を大にして、亜米利加と日本との関係に就て申して見たいと思ひます私は政治家でないから、政治の方面から何等考へて居るのではありませぬけれども、所謂世界の人類として、折角平和を認めながら、平和を得る務をせぬのは詰まらぬではないかと思ひまして、既に此間も加州方面の人々と話しましたが、更に近々に又東部亜米利加の有力者が来ることになりまして、是等の人々と種々相談をして見やうと思つて居ります。それには竜門社会員中に関係ある御方が大分ございますから其事情を簡単に御話して置くのも、必ずしも無用ではなからうと思ひます。
 近頃日本と亜米利加との国交に、えらい不調和な事が生じたと云ふことを申しますけれども、不規則なる移民が加州へ入込んだと云ふことが、何か面倒を惹起すであらうとは、既に其当時に於て、何人も想像して居つたと申して宜しいでありませう。先方も腹が減つて居つたから入れた、此方も不規則に入込んだと云ふので、初め人を入れて、便利だと思つたのが、段々それが邪魔になると云ふやうな訳で、此方も初めは温和であつたのが、人も増し、国の位置も幾分進んで行くと段々威張ると云ふやうな風も生じて来るから、終には可愛い者も憎くなると云ふ有様で、丁度四十年頃から、加州方面では、日本から入つて来る移民に対して悪感を起して来て、結局面倒が生じはせぬかと云ふ有様になつて、遂に政治界の人々の協議を要するやうになり、殊に多数の移民から起つて来た問題ですから、成る丈け国民同士融和させるやうにしたら宜からうと云ふことから、六つの商業会議所が相談して、太平洋沿岸の八つの商業会議所の人々を招き、商売人の意思の融合、情意の調和をやつたのであります。それは四十一年のことで五十人許りの人々が太平洋沿岸の八つの商業会議所から来られ、続いて其翌年、先方から日本の人を招きたいと云ふことになつて、渡米実業団と云ふものを組織して行きましたのが、是も亦五十人許りで、団体旅行を致したのであります。此事が其時分に大分評判になつて、蓋し此旅行は普通の観光団ではなく、国民外交を意味した旅行であつたので政府は表面から力を添えると云ふことはありませぬけれども、小村さんが心配された為めに、華盛頓へ行くと、ノツクスが国務卿をして居つて、我々共に招待して饗宴を開き、当時の大統領タフト氏が、銘々に懇親な言葉を掛け、午餐を共にしたと云ふやうな訳で、国として是等の旅行者を、相当に待遇して呉れたのであります。而して国交上はどうなつたかと云ふと、先方では人を入れることを禁ずることにしたい、さう云ふことになると此方は承知が出来ないと云ふので、遂に霞関外交が所謂紳士の協約と云ふことを約束して、其事を表面国際上の
 - 第43巻 p.7 -ページ画像 
約束にせずに、特殊の約束として居るのでありますけれども、其後斯う云ふ事が生じたとか、或は職業を差別するとか、斯様な不都合があると云つて始終物議が起り、其間に日本人が、亜米利加人と一致せぬ同化せぬと云ふばかりでなしに、或時には加州方面の政治家が、名を取りたい為めに其事を利用すると云ふこともあつて、一般の人が日本人を嫌つて居るから、それを機会に一つの政治的標榜として、排日の目的を充分に達してやるから賛同せよと言ふて、多数を煽動したと云ふことがあります。殊にそれが労働者であるから、日本人を追除けなければ、白人労働者の都合が悪い、廉く働く者を成る丈け斥けやうと云ふ意思を持つて居る所であるから、それが政治家の一つの利用物となり、此有様が長い間継続して、時々穏当でない事があつたのであります。先づ大正二年に俄に土地法を設けて、さうして日本人に借地を許さぬと云ふことまで定めやうとしたのを、漸く調停して三年の年限で貸すと云ふことに引直した、是等は日本人排斥の働が、法律に依つて現れて出たのであります。其時大に我々は心配して、特に日米同志会と云ふものを組織して、添田君抔を彼地へやつてそれを止めさせやうとしましたけれども、それが到頭遂げずにしまつたのであります。併しそれから欧羅巴戦乱が始つた一・二年間は工合が宜しうございまして、丁度大正四年に、巴奈馬開通の記念博覧会を桑港で開くと云ふので、私は今のやうな関係で彼地へ行つた縁故があるから、丁度好い機会だと思つて、加州方面では多少亜利米加人からも、日本人からも知られて居りますから、三年の制限のある土地借用法を十年に延ばすやうな方法でも出来はせぬか、と云ふことを意味して、桑港の博覧会に参列すると云ふ名に依つて、私が一個の国民として出掛けて参つたのでありますが、其時博覧会の総裁になつて居つたモーアと云ふ人だの、もう一人モーアと云ふ商業会議所の会頭をして居つて此間参りました人、それからアレキサンダーと云ふ人抔が大層喜んで、どうかして三年の借地権を十年に延ばす方法を講じたいと云ふ位に心配されて居つたのであります。
 其時には、移民に関する不調和が、此有様では全く取除けられるかと思ふ位に感じましたが、当時私の懸念したのは、西部の方は左まででないけれども、寧ろ東部の方に、是から先き不調和が起りはしないかと云ふことを、桑港へ行く前に考へて居つたのであります。それは亜米利加は自分の国でする仕事が多いから、相当な手腕のある人も居るし、資本も亦た豊富でありますけれども、先づ自己の仕事で満足して居る。申さば我畑を耕作する余地があつて、人の畑に足を入れる必要は無いから、他へ出て働く分量は甚だ少ないのであります。併し欧羅巴の戦争は、特に亜米利加に天恵を与へて居るので、大きな富が、亜米利加に帰すると云ふ有様で、彼等自身が段々仕事をしたいと云ふことから、自然外に向つて発展することを考へる、外に向つて発展するには、支那に向つて来るに相違ない、是は低い所に水が流れると同じである、さうすると、従来同種同文を唱へて仕事をして居る日本は亜米利加人の思ふやうにさせないと云ふ訳になる、是は加州の労働者の問題よりは大きい問題で、それと同時に、加州の方でも面倒が伴ふ
 - 第43巻 p.8 -ページ画像 
やうになると、玆に国交上の面白からぬ事が生じはせぬか、序に寧ろ東部へ行つて、之に対して自分の信ずる所を説くが宜からうと考へまして、私は余り世界の大勢を能く知つても居らず、政治界には成る丈け立入りたくないと思つて居りますから、悪く言へば商売人根性、極く率直な地味な考から、亜米利加の人々から今のやうに仕向けられると、日本人の感情が悪くなるから、第一に此事を紐育で話したのが、今度来るヴアンダーリツプで、十二月四日に此人の宅へ行つて其話を始めた所が、先生は悪く言へば冷笑して、お前の言ふことは尤もである、両国協議して支那の開発をすると云ふことは道理であるけれども併し、これは亜米利加の為めに割が悪い、何となれば、日本は支那から嫌はれて居る、亜米利加は大層好かれて居る、好かれて居る者と嫌はれて居る者と、一緒になつてやらうではないかと言つても、好かれて居る者が結構でござると言ふ訳がないではないか、私の方でさう申したらどうなさるかと云ふ意地の悪い問方で、私も一言で解決する答弁が無くなつて、若しさう云ふ事があるとすれば、接触の近い者程終には嫌になつて来る、初めの間はお互に迷惑は少ないから、そこで相親しむ情も強いが、親しくなると先方が無礼をする、狡猾になる、そこで間柄が悪くなる、詰まり支那人に両国が翻弄されることになるから、そこを充分御考を願ひたい、事情が審でないとさう云ふ議論が生じ易いから、もう少し東洋日本支那の事情を能く御知りなさらぬと、判断に御迷ひなさると思ふと言ふと、如何にもさうであると申して居りました。
 是は一場の話しで、果してそれを以て判断を付ける訳に行きませぬが、さう云ふやうな有様が、大正四年頃にあつて、爾来追々亜米利加との関係が好くなるかと思ひきや、益々悪くなつて来た、其悪くなるのは加州方面に於ても悪いが、東部に於ては尚ほ悪いのであります。即ち今回の講和会議に於て、顧維鈞がどうした、王正廷がどうしたと云ふことは、詳しく申上げなくても新聞に出て居る通りで、殊に満蒙除外、若くは青島還附の方法、西伯利問題、西伯利のことに就ては阪谷さんの御話もありましたが、西伯利出兵は、亜米利加人に言はせると、第一の約束は七千二百人を出す筈であつたのを、日本は一向沙汰なしに七万幾人出して、九箇所に軍政をしいて、殆と我領土にする如き仕向をする、そこで亜米利加の方では、是では到底穏かにして居られぬと云ふので、近頃苦情を言つて居るのであります。でありますから、西伯利に対しては誰れが始末するかと云ふと、一番近い者に其火を消さねばならぬ責任がある、同時に権利もある、けれども是までの仕向けに於ては自分は領土の野心が無い、泥棒はしないと言うても、たゞ取るのは泥棒であるから、人を殴つて取つては誰れも承知しませぬ。是等の事が色々の方面から数が重なつて行つて、加州方面ばかりでなく、亜米利加人の日本に対する感情が、段々悪くなつて来る虞があるので、若し加州に於て、政略上借地権を残らず取上げると云ふ方法でも講ぜられると、彼地に居る六万八千許りの人が、残らず路頭に迷ふと云ふことになるので、之を防ぐには、国民外交、即ち加州の人を呼んで、何とか程よく調和する道がなからうかと云ふ相談を、先達
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私共が致した訳であります。そればかりでなく、其外に、例へば事業を共に経営するには、如何にしたら宜からうとか、両国間の商売上の物議は、務めて穏便に解決するやうにしたら宜からう、と云ふやうな種々問題がありますが、要するに土地法に関する事、移民制度に関する事、此二つが最も重要問題で、阪谷さんなり、私共色々打寄つて、先方は六人、此方は十人許りの人で、一団となつて、之を解決するには斯くしたら宜からうと云ふ一の方案を立てゝ、即ち両国の間に委員が出来て、其委員に依つて、充分調査して両国政府に報告し、それに依つて解決を付けさせるが宜からうと云ふことに、先達寄つた連中で評議が決して、主脳に立つた人が心配すると云ふので別れましたが、是は手続から云ふと、ホンの一歩を踏出したに過ぎぬので、果して目的を達するかどうか分りませぬが、兎に角先方の穏和な人々は、成るべく左様な冷酷な処置に陥らせたくないと云ふので、努めて呉れるやうでありますから、兎に角是丈け協議が調つたと云ふことを、御話して宜からうと思ひます。
 それから加州に行つて居る移民と、亜米利加人の間柄が、今日親善とは言へなくなつて来た、前にも御話があつたやうに、例へば経済上の借款に就ても、満蒙除外は果して日本は何所までして宜しいか、又山東問題が片付いたら、各国に対して機会均等を与へるか、殊に亜米利加がそれを成程と満足するか、西伯利の事に就ても、其他まだ一つも二つもさう云ふやうな事がありますから、どうしても此所は東部の有力な人々と、桑港の人々と話合の如きものが成立つのが必要であつて、是等の連中は唯だボンヤリと、対手欲しやに誰れか来て一面打つて呉れるだらうと言つて、煙草を飲んでは居ないのですから、愈よと云ふ場合には、成程是が必要であると云ふことを感ぜしめるやうにしないと唯々宿屋のよいのを取つてやります丈けでは来ませぬ。そこでヴアンダーリツプとゲーリー、此二人は私が縁故が深かつたから、私一人の意味でなく、日本の有志者は、どうも時勢が甚だ穏当でないと思ふから、日本にござつて共に謀つて見やうではないかと申してやると、ゲーリーは来年がよい、ヴアンダーリツプは今年がよからうと云ふやうな、両人の間に遅速の説があつたのが、遂にヴアンダーリツプの説が成立つて、然らばお前が人の組立を主としてやつたら宜からうと云ふので、ヴアンダーリツプが大体を組立てゝ、総体で二十九人が来る訳になりました。併し頭に立つ人は十二・三人で、ゲーリーなりタフトなり、此のタフトは大統領タフトの弟の法律家であります、それからコロネル大学総長のジヤコブ・シヤーマン、或はルヰム・クラークと云ふ銀行家、其他悉く記憶して居りませぬが大分あります。是等の人が丁度今日船に乗る筈でありますから、軈て電報が来ると思ひますが、既にヴアンダーリツプ抔は勢込んで、愈よ日本に行きますと言うて方々で演説もし、友人にも言つて居る位ゐですから、余程の決心を以て日本の人と相談することを心掛けて居られると思ひます。併し、此人は温厚篤実と云ふのでなくして、人を剔るやうな質の人で、察々の明があつて、徹底的であるけれども、綽々として余裕ある君子の風ある人ではなく、寧ろ無愛想な人で、我々のやうな少し悠長な質
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の者は、応対に困難であらうと思ひます。併し阪谷さんとか金子さんとか云ふ切れる人がありますから、余り切れ過ぎて衝突して貰はぬやうにしたいと思つて居ります。どう云ふ相談が出来るか、格別の効果が無いかも知れませぬけれども、兎に角是等の人を招いて、是を是とし、非を非として協議したならば、多少の効能があらうと思ひます。而して其話しが幸にうまく行きましたならば、或は両国の誤解紛紜を解くことが出来るのであらうと思ひます。能くある事で、十八史略にあつたと思ひますが、或人が竈の烟出しの真直に立つた方へ、薪を入れて火を焚いたら、隣りの親切な人が、其竈の烟出しを此方へ付けて薪を此方へやると火事の虞はないが、今のやうにしてやると、火事が出ると言つて忠告すると、イヤ彼の爺さん何を知つて居るものかと言つて肯かなかつた、其中に果して竈から火事が出た、併し其爺さんは見舞に行かないで、隣りの若い男が鉢巻をして飛んで来て火を消したさうすると焼けた男は竈を直して薪を移せと言つた人を忘れてしまつて、鉢巻をして火を消しに来た人丈けを徳とした、人情はさう云ふものである。併し実は竈の烟出しを取換へて、薪を移せと言つた人は真の親切な人で、私共は薪を移し烟出しを取換へさせる方で、世間から余り賞讚されぬかも知れぬけれども、真の火の用心はそれにあると信じて居ります。要するに私共の始終言ふ所は、真の交は矢張道理より外に無い、色々な理窟を言つても勝てない、今阪谷さんの言はるゝ王道、是より外に無いので、世の中には口に王道を唱へても、実は覇道を行ふ者が多く、是等は丁度明智光秀が忠義を論ずるやうなもので、兎角其方に流れ易いのでありますから、どうぞ成るべくそこへ陥らぬやうにしたい、先達来た加州の方面の人々の希望もさうであつて、今度来る人との間には、果してそれが成立つかどうか分りませぬが、幸に前の話に於て、幾分か意思の疏通を見たやうであります。蓋し此事は竜門社関係の一つの務と私共は思つて居りますから、此機会に於て今斯う云ふ有様になつて居ると云ふことを、御参考として御話したのであります。