デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.26-59(DK430003k) ページ画像

大正9年11月23日(1920年)

是ヨリ先、是月八日、当社評議員会、東京銀行倶楽部ニ於テ開カレ、栄一ノ八十寿並ニ陞爵祝賀会開催ニツキ協議ス。次イデ是日、築地精養軒ニ於テ、当社第六十四回秋季総集会後、当社ノ主唱ニヨル祝賀会開カレ、祝賀記念トシテ、飛鳥山邸内ニ記念書庫建設ノ目録ヲ贈ル。来賓大隈重信ノ祝辞、栄一ノ謝辞アリ。


■資料

竜門雑誌 第三九〇号・第五八―六〇頁大正九年一一月 ○竜門社評議員会(DK430003k-0001)
第43巻 p.27-28 ページ画像

竜門雑誌 第三九〇号・第五八―六〇頁大正九年一一月
    ○竜門社評議員会
 竜門社第二十八回評議員会は、十一月八日午後五時より銀行倶楽部に於て開かれたり。評議員会長阪谷男爵、議長席に着きて開会を宜し
第一号議案 第六十四回秋季総集会兼青淵先生八十寿並陞爵祝賀会開催の件を附議したるに、満場一致を以て左の通決定せり。
 一時日 大正九年十一月二十三日午後二時
 二場所 築地精養軒
 三順序
  一開会の辞
  一祝賀会
   一祝辞(祝賀文朗読)
   一記念書庫(目録を以て)贈呈
   一演説
   一青淵先生の答辞
  一立食
 四其他細目の事項取扱は幹事に一任すること
第二号議案 青淵先生八十寿並陞爵祝賀の為め、記念書庫新築の上贈呈するの件も又、満場一致を以て左の如く決定せり。
 一書庫の名称 青淵先生に御記名を請ふ事
 二書庫の位置 曖依村荘内
 三書庫の設計並建築費予算 約十万円とする事
 四資金募集に関する件
 五書庫建設に関する委員選定の件は議長阪谷男爵より
  一委員長 佐々木勇之助君
  一建築委員 渡辺嘉一君 高根義人君
    清水釘吉君 白石元治郎君 渋沢元治君
  一会計委員 服部金太郎君 田中栄八郎君
    植村澄三郎君 諸井恒平君 杉田富君
  一幹事(建築・会計両委員を兼ぬ)
    石井健吾君 増田明六君
  一建築実行委員 穂積重遠君 田辺淳吉君
    阪谷俊作君
  の諸氏指名せられ、発起人選定の件は委員長及幹事に一任せらる
 六資金一口の最低額を金十円とし、二回に払込むの件
 七寄附申込所、東京市日本橋区兜町株式会社第一銀行内青淵先生八十寿並陞爵祝賀会
 八寄附金取扱所第一銀行本支店に於て取扱ふの件
 九会員外の資金寄附申込を受くるの件
 又「第三号議案」は別項記載の如く決定して、玆に評議員会を終り夫より別室に於て晩餐の後、阪谷男爵の時事問題に関する演説ありて散会したるは十時過なりき。当夜の出席者諸氏は左の如し。
    △評議員
 石井健吾君   服部金太郎君  田中栄八郎君
 - 第43巻 p.28 -ページ画像 
 植村澄三郎君  増田明六君   明石照男君
 阪谷男爵    佐々木勇之助君 渋沢元治君
 白岩竜平君   清水一雄君   白石元治郎君
 諸井四郎君
    △前評議員
 大川平三郎君  竹山純平君   上原豊吉君
 日下義雄君   山口荘吉君   佐々木清麿君
 斎藤峰三郎君  清水釘吉君   渋沢義一君
 諸井恒平君   桃井可雄君   杉田富君
    外に
 利倉久吉君   渡辺得男君   横山徳次郎君
 田辺淳吉君   八十島樹次郎君 渋沢武之助君
 渋沢正雄君   渋沢秀雄君   白石喜太郎君
 高橋毅一君


竜門雑誌 第三九一号・第四九―五九頁大正九年一二月 青淵先生八十寿並陞爵祝賀会録事(DK430003k-0002)
第43巻 p.28-39 ページ画像

竜門雑誌 第三九一号・第四九―五九頁大正九年一二月
    青淵先生八十寿並陞爵祝賀会録事
      一事務
 十一月八日、銀行倶楽部に於て開催せる、本社評議員会席上、満場一致を以て青淵先生八十寿並陞爵祝賀会開催の件、及び記念書庫贈呈の件を決議し、尚ほ阪谷評議員会長より、右委員長に佐々木勇之助君、建築委員に渡辺嘉一君・高根義人君・白石元治郎君・清水釘吉君・渋沢元治君、会計委員に服部金太郎君・田中栄八郎君・植村澄三郎君・諸井恒平君・杉田富君、幹事(但両委員を兼ぬ)に石井健吾君・増田明六君の諸氏、及び建築実行委員として穂積重遠君・田辺淳吉君・阪谷俊作君の三君を指名選挙せられたる事は、前号記載の如くなるが、右に関し、同月十二日午後二時、第一銀行本店に於て委員会を開き、佐々木委員長座長となり
 一、醵金勧誘に関する書状案
 一、醵金申込期日及払込期日及払込の方法
 一、醵金額
 一、発起人に加入を請ふべき人々
の各項に付協議を遂げ、先づ発起人を依頼すべき諸君に対しては、早速左記書状を発送して、夫々承諾を求め、孰れも加入快諾の旨回答せられたり。
 拝啓、時下益々御清適奉賀候、然は青淵先生昨年を以て八十の高齢に躋らせられ、今年又陞爵の恩命を拝せられ候は、御同様慶賀の至に不堪候、右に就き、去八日竜門社評議員会相開き、祝賀の方法に付き種々協議仕候上、青淵先生八十寿並陞爵祝賀会を組織致し、同社会員及同会員外の有志者より寄附金約拾万円を醵集し、飛鳥山御邸内に書庫を建築して先生に献呈する事に一決致候間、何卒貴台に於ても、右祝賀会発起人に御加入被下度願上候、尚右の計画は至急発表仕度と存候間、御諾否折返し別紙葉書にて御回示被下度候、右得貴意度如此御座候 敬具
 - 第43巻 p.29 -ページ画像 
  大正九年十一月十二日 青淵先生八十寿並陞爵祝賀会
                発起人総代 佐々木勇之助
 追伸 発起人は不取敢左記諸君に御依頼致置候
  伊藤伝七君   石井健吾君    井上公二君
  服部金太郎君  西村道彦君    星野錫君
  堀越善重郎君  堀内明三郎君  公爵徳川慶久君
  土肥脩策君   土岐僙君     利倉久吉君
  尾高幸五郎君  大川英太郎君   大川平三郎君
  大橋新太郎君  大橋半七郎君   大沢佳郎君
  大塚磐五郎君  織田雄次君    渡辺嘉一君
  神田鐳蔵君   田中源太郎君   田中栄八郎君
  高根義人君   高松豊吉君    竹山純平君
  竹村利三郎君  滝沢吉三郎君  男爵中島久万吉君
  中井三之助君  永田甚之助君   中川知一君
  中村鎌雄君   植村澄三郎君   上原豊吉君
  野口弥三君   野口弘毅君    日下義雄君
  熊谷辰太郎君  山下亀三郎君   山田昌邦君
  山口荘吉君   八十島樹次郎君  町田豊千代君
  松井吉太郎君  増田明六君   男爵古河虎之助君
  藤村義苗君   福島甲子三君   福島宜三君
  小池国三君   浅野総一郎君   阿部吾市君
  佐々木勇之助君 佐々木慎思郎君  佐々木清麿君
  佐々木興一君  西園寺亀次郎君  西条峰三郎君
  斎藤恒三君   斎藤峰三郎君   木村長七君
  木村雄次君   湯浅徳次郎君   清水釘吉君
  清水一雄君   白石元治郎君   白岩竜平君
  渋沢義一君   諸井恒平君    諸井四郎君
  桃井可雄君   杉田富君     鈴木紋次郎君
 依りて佐々木委員長は、本社会員諸君に対し、左の勧誘状に醵金申込書用紙同封発送せり。
 青淵先生去年を以て八十の高齢に躋らせられ、今年又陞爵の恩命を拝せらる、五福並び臻る、歓喜何ぞ堪へん
 今春小生等相謀りて、先生の寿を献ぜんとしたりしも、先生の御繁務と御病気との為に、未だ挙行すること能はざりき、然るに此度、聖明の恩遇を蒙らせ給へるを機とし、慶寿を兼ねて祝賀の意を表せんとす
 先生の高徳偉業は内外の斉しく景仰欽慕する所にして、今回の陞爵についても世を挙つて祝賀せるは、蓋し其発露と云ふべきなり、小生等常に先生の眷顧を蒙る者は、特に其光栄を感荷して、永久記念の計を樹てんと欲す
 其方法に付ては、先生の主義を服膺し、祝賀会の如きは極めて質素に挙行し、別に竜門社会員並に有志者の醵金を以て、記念書庫を建てゝ之を献呈せんとす、此の如くんば或は先生の高徳偉業を鑽仰するの記念となすを得んか、冀くは左記御諒承の上奮つて御賛同あら
 - 第43巻 p.30 -ページ画像 
んことを
  一、書庫の位置  飛鳥山御邸内
  一、書庫の建築費 約金拾万円
  一、寄附金額   金拾円以上
  一、同申込期日  大正九年十二月二十日
  一、同払込期日  大正十年二月十日同年八月十日(但一時全額払込を為すも妨げなし)
  一、寄附申込所  東京市株式会社第一銀行内青淵先生八十寿並陞爵祝賀会
  一、寄附金取扱所 株式会社第一銀行東京本支店並に横浜・名古屋・四日市・京都・伏見・大阪・神戸・兵庫・下関・長府・門司・福岡・久留米・広島・熊本・函館・小樽・札幌・京城・釜山各支店
  大正九年十一月十五日
     青淵先生八十寿並陞爵祝賀会発起人
    (前記発起人七十五名の諸君連名なるも重複に付略す)
 越えて同月十九日午後二時、銀行倶楽部に於て発起人総会を開き
 石井健吾君   西村道彦君   星野錫君
 堀内明三郎君  土肥脩策君   土岐僙君
 織田雄次君   渡辺嘉一君   神田鐳蔵君
 田中栄八郎君  高根義人君   中井三之助君
 永田甚之助君  植村澄三郎君  上原豊吉君
 山下亀三郎君  山口荘吉君   増田明六君
 福島宜三君   小池国三君   浅野総一郎君
 佐々木勇之助君 佐々木慎思郎君 佐々木清麿君
 斎藤峰三郎君  木村雄次君   清水釘吉君
 清水一雄君   白石元治郎君  白岩竜平君
 渋沢義一君   諸井恒平君   諸井四郎君
の諸君出席の上、佐々木委員長より
 一、発起人連名醵金に関する書状発送の事承認
 一、祝賀文の決議
 一、祝賀会の順序の決定
  一、開会の辞       評議員会長 阪谷男爵
  一、祝賀会
    祝辞朗読      祝賀会委員長 佐々木勇之助君
    記念書庫(目録)贈呈
  一、演説               大隈侯爵
  一、同                青淵先生
 右終りて
  立食
   青淵先生万歳三唱
 右孰れも原案の通決定したり
    了
 尚祝賀会当日青淵先生若し御病気全快なき時は、祝賀会を中止する事を打合はせたり。
 - 第43巻 p.31 -ページ画像 
      二 祝賀会
 青淵先生八十寿並陞爵祝賀会は、十一月二十三日別項記載の如く、竜門社秋季総集会終了後、引続き午後二時半より築地精養軒に於て開かれたり。本会開会に先だち、竜門社評議員会長阪谷男爵は、秋季総集会を兼て開会の辞を述ぶる所あり。次いで佐々木勇之助君は、祝賀会々員総代として、左の祝辞を朗読せり。
       祝辞
 祝賀会会員総代佐々木勇之助は、玆に本日を卜し、全会員を代表して、我が青淵先生八十の寿を献じ、併せて陞爵の栄を賀せんとす。回顧すれば、明治三十三年先生の還暦に際し、青淵先生六十年史を献じたる時、其冒頭に、先生心身共に比類なく強健にして、現在容貌と云ひ、思想と云ひ壮者も及ばざる先生の歴史に於て、六十年は蓋し其一小部分なりと断言するを得べしと記し、尋で四十三年、先生七十の寿を祝して、其予言の的中したるを悦び、更に将来に向つて此予言の有効なることを確信したりき。果然、此予言は悉く実現せられ、大正五年には先生の喜寿を祝し、今や先生八十の寿を賀せんとす、況や天恩の優渥なる、更に陞爵の栄典を加へらるゝに於てをや、我等先生の恩顧を辱くするもの、此寵光に値遇して玆に祝賀の会を開き、先生の臨席を得て其光範に接す、何等の慶福ぞ、何等の光栄ぞ。
 我等が先生の古稀を祝してより後の十年は実に非常の時運なりき。我皇室に於かせられては、明治天皇登遐あらせられて、今上天皇新に位に即かせ給ひ、大正三年六月、南欧の一角に於ける銃声は、忽ち世界の平和を破りて、前古比類なき大戦となり、我邦も亦公敵を東洋より撃攘し、更に与国の為に軍艦を派して、遠く南洋・地中海等に活動せり、かくて世界五大国の一として、講和談判に参加するに至りたれども、大戦は凡ての方面に於て破壊的勢力を促進せり、社会改造・民衆政治等の声は至る所に喧伝せられ、労働問題・思想問題は戦争よりも強き力を以て、世界を混乱に導き、処置一歩を誤らば、将に収拾すべからざるに至らんとす。
 我が青淵先生は天下の憂に先ちて憂ふの人なり、内外の形勢変化の急激なるが為に、最近十年間に於ける先生の行動も亦、大なる変化なきこと能はず。先生は大正五年喜寿に達せられたる際、其創立以来主宰せる第一銀行頭取をも後進に譲りて、全く実業界を隠退せられたるは其大なる変化なり。然れども先生の隠退は、風月を楽しまんが為にあらず、更に一身を社会的及精神的事業に委ねんとの意に外ならざれば、先生の事業は一層煩劇を加へたるものなり、教育学術の方面に於ては、私立諸学校の援助、理化学研究所の設立、飛行技術の奨励となり、思想宗教の方面にありては、帰一協会の設立、世界日曜学校大会後援会の組織となり、開墾植民の方面に於ては、海外興業株式会社・中央開墾株式会社の組織となり、慈善救済の方面に就きては、旧に仍り東京市養育院長たる外に、済生会・報効会其他諸種の慈善団体に尽され、天災事変の救済慰問は、聯合国傷病兵罹災者慰問会を始として、弘く海の内外に及べり。是等は皆隠退
 - 第43巻 p.32 -ページ画像 
前より継続して尽力せらるゝものゝ一斑なるが、凡社会のあらゆる会団は、大抵、先生の後援を待たざるもの無しといふも不可なきなり。而して是等多数の中に就きて、労働・資本の調和を計る事と、国民外交によりて外国と親善関係を保つ事とは、其特に苦心尽力せらるゝ所にして、是れ即ち、先生が天下の憂に先ちて憂ふる所以なり。請ふ少しく述ぶる所あらしめよ。
 先生は夙に、商業道徳を以て実業家を覚醒し、特に思想問題・労働問題に留意せられ、世界戦争の終熄するや、其思想界を視察せしめん為に、人を欧洲に派遣したるが如き、亦用意の周到なるを見るべし。労働問題に至りては、欧米諸国は既に幾多の辛酸を嘗め、今回の大戦を経て其の声益大なるに至れるが、我邦にては経験閲歴尚乏しく、従つて比較的問題も少かりしに、大戦の余波は突如として準備なき我邦に襲来し、社会を混乱せしめんとす、先生は既に労働者組合の必要を認められ、組合の組織によりて之を共済し、之を訓練し、以て善良なる慣習を作らしめ、権利を主張すると共に義務の観念をも養成せしめんとし、大正八年資本家・労働者調和の為に、協調会を組織して其副会長となれり、日尚浅しといへども、将来緊切の機関ならんとす。先生は老後の三事業として、道徳・経済の一致資本・労働の調和、貧民救済事業に貢献せんことを声言し、且之を実行せらる、実に先生は所謂王道を以て社会政策を行はんとするものなり。
 日米両国は由来親善の歴史を有せしに、我国運の発展と共に複雑なる外交関係を生じ、特に支那・西比利亜方面に於ける日米の関係及び加州の排日運動に至りては、先生の最も痛心せらるゝ所なりとす大正二年加州州会に邦人土地所有禁止案提出せられし後、先生が老躯を提げて渡米せられ国民外交によりて加州今後の運動を緩和するに力められたる事は、既に喜寿の祝辞に述べたる所なり。本年に至り桑港の日米関係委員会会長アレキサンダー氏一行の来航によりて先生が主宰せる我が委員会との間に協議会を開き、尋で米賓歓迎会を組織し、米国東部の実業家ヴアンダーリツプ氏一行を招請して、日米間の諸問題につき互に胸襟を開きて協議せられしことは、世人の熟知する所なり。此他先生は、紐育日本協会協賛会・日米協会の如き、両国の親善を目的とせる会団の会長又は会員となり、米国名士の来遊するものは、個人にても団体にても、応接款待遺る所なければ、米国の排日論者は先生に対して、其遇へる米人をば悉く籠絡す、との皮肉なる評語を加ふるに至れり。日支両国の関係については、先生は経済上より支那内地の開発を資けて両国の親善を図らんとし、或は日支合辧による諸会社を起し、或は対支借款団の成立を助けらる、大正三年には支那各地を歴訪して、諸名士と意見を上下し、直接間接に両国経済の発展に資する所ありき。本年に入りては東京外九商業会議所及支那に関係ある実業家より成れる日華実業協会の会長に推され、現に北支那の饑饉を救済せんとして大に活動しつゝあり、又嘗て我邦に留学せる支那の青年の為に日華学会を設立せらるゝ等、数へ来れば指を屈するに遑あらず、然れども先生の国
 - 第43巻 p.33 -ページ画像 
民外交は米支の両国に止まるにあらず、今や国際聯盟協会を組織して其会長に推され、更に世界の平和に貢献せんとす、先生の抱負大なりと言はざるべからず。
 之を要するに、最近の十年間は、労働問題といひ、外交問題といひ未だ解決の端緒を得ず、是等国家的社会的の事業につき先生の努力を請ふべきは、尚今後に存す。唯先生が明治の初年より扶植し誘掖し来れる実業界が、国運と共に発達したる事と、明治天皇崩御の後先生等が神宮奉祀を建議して、遂に明治神宮の鎮祭を見るに至り、又其奉賛会を率ゐて外苑の開設に力を尽され、半其功を竢へたる事と、又旧主の幽光を闡明せんが為に、二十余年の心血を注がれたる徳川慶喜公伝の、大正六年に完成して故公の墓前に告祭せられたることは、蓋し先生が慰安の一・二なるべきか。然れども先生は先憂と共に後楽の人なり、先生は之を以て満足するの人にあらず、先生は嘗て還暦に際して、向後も決して老耄老朽の人とならずと述べられたり、先生は実に老の至るを知らざるの人なり。されば八十の寿も先生に於ては尚少壮の齢なり、今より長く社会教育の指導者となり、国民外交の代表者となり、政府と国民との仲介者となり、労資問題の楔子となり、其高徳偉業と共に年を積み齢を重ね給ひ、世界の平和と国民の幸福とを見るに至りて、始めて天下と共に楽まるべきなり。今や聖明昭鑑玆に陞爵の栄典を賜ひ、以て先生の功勲を録し給へり。而して我等は何を以て先生を祝福し奉るべきか、我等は相誡めて先生の主義を拡充し、事に当りては誠の一字を守り、世に処しては正義の二字を体認し、奉公の念を励みて時運の推進を図るを得ば、庶幾くは以て先生に酬ゆるの一端たるを得ん乎。今回の慶事を記念せんが為に、書庫一宇を造進す、願はくは我等の微志を諒納し給はんことを、之を以て祝辞となす。
 右終りて佐々木勇之助君は祝賀会々員総代として記念書庫建設目録を青淵先生に捧呈し、次で大隈侯爵並に青淵先生の謝辞を兼ねたる感想談(次号掲載)ありて式を終り、夫より立食に移り、デザート・コースに入るや、大倉男爵の発声にて青淵先生の万歳を三唱し、青淵先生の発声にて竜門社会員の万歳を三唱し、散会したるは午後六時頃なりき、当時の来賓及出席者は左の如し。
    △来賓
 青淵先生    同令夫人

 穂積男爵    同令夫人
 阪谷男爵    渋沢武之助君令夫人
 渋沢正雄君   同令夫人
 明石照男君   同令夫人
 渋沢秀雄君   同令夫人
 渋沢敬三君

 大隈侯爵    大倉男爵
    △特別会員
 - 第43巻 p.34 -ページ画像 
 岩崎寅作君   一森彦楠君    井上公二君
 石井健吾君   同令夫人     伊藤登喜造君
 伊東祐穀君   入谷春彦君    伊東祐忠君
 今井又治郎君  伊藤半次郎君   石川道正君
 井上徳次郎君  井上金治郎君   池田嘉吉君
 林武平君    原胤昭君     長谷見次君
 服部金太郎君  繁田武平君    萩野由之君
 西村道彦君   二宮行雄君    西田敬止君
 西野恵之助君  穂積重遠君    同令夫人
 堀内明三郎君  堀田金四郎君   星野錫君
 本間竜二君   穂積律之助君   同令夫人
 星野辰雄君   豊田春雄君    土岐僙君
 土肥脩策君   戸村理順君    利倉久吉君
 苫米地義三君  大橋新太郎君   大橋半七郎君
 大野富雄君   尾高幸五郎君   尾高豊作君
 小川鉄五郎君  大原春次郎君   岡本忠三郎君
 大沢省三君   織田雄次君    小田精吉君
 大沢正道君   尾上登太郎君   大原万寿雄君
 大川平三郎君  大友幸助君    渡辺嘉一君
 渡辺得男君   片岡隆起君    金谷藤次郎君
 神田鐳蔵君   川田鉄弥君    神谷十松君
 角地藤太郎君  神谷義雄君    神谷岩次郎君
 川島良太郎君  金子喜代太君   金井滋直君
 梶村宇平君   柏原与次郎君   吉田芳太郎君
 吉池慶正君   横山徳次郎君   米倉嘉兵衛君
 吉野浜吉君   吉岡俊秀君    吉田節太郎君
 田中徳義君   田中太郎君    高根義人君
 高橋波太郎君  滝沢吉三郎君   田辺淳吉君
 高橋豊吉君   田中栄八郎君   高橋金四郎君
 竹山純平君   高橋録太郎君   田中楳吉君
 竹田政智君   曾和嘉一郎君   坪谷善四郎君
 塘茂太郎君   永井岩吉君    成瀬隆蔵君
 中村高寿君   永田甚之助君   中井三之助君
 永野護君    中川知一君    長島隆二君
 中村鎌雄君   武藤忠義君    村井義寛君
 村木善太郎君  村上豊作君    上原豊吉君
 同令夫人    同令嬢      植村澄三郎君
 植村金吾君   野口半之助君   久住清次郎君
 栗田金太郎君  倉田亀吉君    日下義雄君
 山本久三郎君  矢野由次郎君   八十島樹次郎君
 山中譲三君   山田敏行君    山下亀三郎君
 山本徳尚君   矢野義弓君    山口荘吉君
 簗田𨥆次郎君  前原厳太郎君   松本常三郎君
 丸山誠之助君  松谷謐三郎君   松平隼太郎君
 - 第43巻 p.35 -ページ画像 
 増田明六君   前沢浜次郎君   藤田英次郎君
 古橋久三君   福島甲子三君夫人 福島宜三君
 古田錞治郎君  藤田好三郎君   小西喜兵衛君
 小池国三君   河野通君     昆田文次郎君
 小林武之助君  越野三蔵君    小畔亀太郎君
 手塚猛昌君   朝山義六君    安達憲忠君
 麻生正蔵君   有田秀造君    佐々木勇之助君
 同令夫人    佐々木慎思郎君  斎藤精一君
 佐々木保三郎君 佐々木清麿君   佐藤正美君
 笹沢仙左衛門君 斎藤章達君    佐々木修二郎君
 佐々木哲亮君  桜田助作君    斎藤峰三郎君
 阪谷俊作君   木村雄次君    木村弘蔵君
 木津太郎平君  弓場重栄君    湯浅徳次郎君
 三上参次君   宮崎喜久太郎君  柴田愛蔵君
 芝崎確次郎君  白岩竜平君    白石元治郎君
 同令夫人    清水揚之助君   白石甚兵衛君
 渋沢義一君   清水一雄君    清水釘吉君
 渋沢長康君   白石喜太郎君   渋沢元治君
 渋沢治太郎君  弘岡幸作君    肥田英一君
 諸井恒平君   森岡文三郎君   持田巽君
 諸井六郎君   桃井可雄君    関直之君
 鈴木善助君   鈴木金平君    杉田富君
    △通常会員
 石田友三郎君  石井与四郎君   池田友一郎君
 井戸川義賢君  市川武弘君    今井晃君
 井上成一君   伊藤美太郎君   石田豊太郎君
 伊藤英夫君   井田善之助君   井上井君
 石井竜一君   井野辺茂雄君   磯村十郎君
 伊沢鉦太郎君  長谷部九能君   伴五百彦君
 林興子君    西正名君     西村暁君
 堀内歌次郎君  堀江呉郎君    本田竜二君
 土肥東一郎君  富永直三郎君   東郷郁之助君
 友野茂三郎君  友田政五郎君   豊田伝次郎君
 奥川蔵太郎君  大沢正五郎君   大井幾太郎君
 岡崎寿市君   小畑久五郎君   岡田熊吉君
 小川銀次郎君  小倉槌之助君   岡原重蔵君
 大友忠五郎君  岡崎惣吉君    大島勝次郎君
 和田巳之吉君  渡辺轍君     金子四郎君
 川村徳行君   鍵和田良平君   川口寛三君
 上倉勘太郎君  神谷新吾君    川口一君
 河見卯助君   神谷祐一郎君   鹿沼良三君
 横尾芳次郎君  吉岡慎一郎君   吉岡鉱太郎君
 吉田升太郎君  吉岡義二君    竹内実君
 高橋光太郎君  高畠登代作君   田中鉄蔵君
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 高橋信光君   高橋森蔵君    田島昌次君
 田子与作君   田淵団蔵君    高田利吉君
 玉虫貞介君   高橋俊太郎君   竹島安太郎君
 高橋毅一君   曾我部直之進君  塚本孝二郎君
 堤真一郎君   鶴岡伊作君    根岸綱吉君
 中西三七君   中北庸四郎君   長井喜平君
 中村習之君   中西虎之助君   中山輔次郎君
 中島徳太郎君  中野時之君    長宮三吾君
 武者錬三君   村上外次郎君   村松秀太郎君
 上野政雄君   上野金太郎君   内海盛重君
 上田彦次郎君  上原久二郎君   野口米次郎君
 野島秀吉君   桑山与三男君   紅林英一君
 熊沢秀太郎君  山口乕之助君   山下三郎君
 山本宣紀君   山村米次郎君   山下近重君
 矢崎邦次君   山崎一君     松園忠雄君
 松村五三郎君  松本幾次郎君   増原周次郎君
 松村修一郎君  福本寛君     古田元清君
 藤浦富太郎君  藤木男梢君    福田盛作君
 藤井甚太郎君  福島三郎四郎君  藤江元亨君
 近藤竹太郎君  小林茂一郎君   河野間瀬次君
 小島鍵三郎君  小林清三君    近藤良顕君
 小宮善一君   小林梅太郎君   小林徳太郎君
 遠藤千一郎君  出口和夫君    阿部久三郎君
 相沢才司君   秋元章吉君    赤木淳一郎君
 綾部喜作君   安部藤蔵君    斎藤平治郎君
 沢隆君     佐伯倉輔君    佐藤林蔵君
 桜井竹蔵君   佐々木道雄君   佐野金太郎君
 斎藤又吉君   三枝一郎君    酒井正吉君
 木村金太郎君  木下憲君     北脇友吉君
 湯浅泉君    行岡宇多之助君  南塚正一君
 宮谷直方君   水野豊次郎君   宮里仲太郎君
 蓑田一耕君   水谷房次郎君   三輪清蔵君
 三宅勇助君   清水百太郎君   柴田亀太郎君
 品川瀞君    島田哲造君    東海林吉次君
 島田延太郎君  平賀義典君    平形知一君
 森戸伝之丞君  森江有三君    森谷松蔵君
 持木良清君   両角潤君     門馬政人君
 関口児玉之輔君 鈴木源次君    杉田丑太郎君
 鈴木豊吉君   鈴木富次郎君   鈴木勝君
 鈴木房明君
  外ニ
 筏井甚作君   長谷川太郎吉君  谷野弥吉君
 栗村幸蔵君   山口政二君    小西安兵衛君
 浅木兵一君   朝日三郎君    渋沢信雄君
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 渋沢智雄君   鈴木実君
 尚ほ当日左記の会員諸君より、同会に対し寄附金を辱ふせり、玆に録して御芳志を謝す
  一金参拾円也       今井又治郎殿
  一金弐拾円也       穂積男爵殿
  一金弐拾円也       阪谷男爵殿
  一金弐拾円也       神田鐳蔵殿
  一金七円也        小池国三殿
  一金五円也        八巻知道殿
  一金四円也        佐々木勇之助殿
      三醵金
 本月十一日迄に醵金申込ありたる分左の如し。
一金壱万円宛     株式会社第一銀行    男爵古河虎之助殿
一金五千円宛     神田鐳蔵殿       清水満之助殿
  山下亀三郎殿   堀越善重郎殿
一金参千円宛     大日本人造肥料株式会社 渋沢倉庫株式会社
  佐々木勇之助殿  渋沢義一殿       服部金太郎殿
一金弐千円宛     清水釘吉殿
一金壱千円宛     石井健吾殿       植村澄三郎殿
  清水一雄殿    清水揚之助殿      小池国三殿
  男爵大倉喜八郎殿 公爵徳川慶久殿     井上公二殿
一金五百円宛     茨城採炭株式会社    杉田富殿
  野口弥三殿    西園寺亀次郎殿     諸井四郎殿
  阿部吾市殿
一金参百円宛     十勝開墾株式会社    日新護謨株式会社
  今井又治郎殿   土岐僙殿        桃井可雄殿
  木村雄次殿    佐々木慎思郎殿     松井吉太郎殿
  竹山純平殿    森岡平右衛門殿     熊谷辰太郎殿
  白岩竜平殿    山口荘吉殿
一金弐百円宛     諸井六郎殿       渡辺得男殿
  増田明六殿    林武平殿        利倉久吉殿
  松木幹一郎殿   白石甚兵衛殿      八十島樹次郎殿
  須永登三郎殿   野口弘毅殿       大沢佳郎殿
  森岡文三郎殿   西村道彦殿
一金壱百五拾円宛   西条峰三郎殿      茂木喜太郎殿
  桃井達雄殿    大塚磐五郎殿      藤森忠一郎殿
  村上豊作殿
一金壱百円宛     大野正殿        斎藤亀之丞殿
  前原厳太郎殿   川田鉄弥殿       町田豊千代殿
  吉田芳太郎殿   佐々木清麿殿      石田豊太郎殿
  久本順造殿    成瀬隆蔵殿       長部松三郎殿
  白石喜太郎殿   松平隼太郎殿      板野吉太郎殿
  田中太郎殿    岡本忠三郎殿      堀田金四郎殿
  米倉嘉兵衛殿   平田譲衛殿       永田甚之助殿
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  堀内明三郎殿   田辺淳吉殿       簗田𨥆次郎殿
  金谷藤次郎殿   井上徳治郎殿      広瀬市三郎殿
  浅野幸作殿    永井啓殿        島原鉄三殿
  内山吉五郎殿   玉井周吉殿       曾和嘉一郎殿
  田中二郎殿    尾上登太郎殿      浅川真砂殿
  石川範三殿
一金七拾円宛     大橋悌殿        甘泉豊郎殿
  玉木泰次郎殿
一金五拾円宛     石川政次郎殿      本山七郎兵衛殿
  犬塚武夫殿    持田巽殿        村松秀太郎殿
  加賀覚次郎殿   松崎伊三郎殿      横山虎雄殿
  木村総助殿    宇野哲夫殿       猪飼正雄殿
  横田好実殿    前沢浜次郎殿      斎藤精一殿
  磯野孝太郎殿   中沢彦太郎殿      横山正吉殿
  仲田正雄殿    吉岡新五郎殿      品川瀞殿
一金参拾円宛     八巻知道殿       山本徳尚殿
  山本久三郎殿   田中徳義殿       河田大三九殿
  上田彦次郎殿   山下近重殿       西村暁殿
  古田元清殿    坪谷善四郎殿      池田友一郎殿
  金沢求也殿    弘岡幸作殿       志岐信太郎殿
  野村揚殿     中田庄三郎殿      中古賀晴太殿
  大西卯雄殿    福島甲子三殿      磯村十郎殿
  葛原益吉殿
一金弐拾五円宛    小畑久五郎殿
一金弐拾円宛     岡田元茂殿       堀井卯之助殿
  安達憲忠殿    今井晃殿        木村弘蔵殿
  矢野亀尾殿    田淵団蔵殿       豊田春雄殿
  村井義寛殿    鈴木勝殿        西川太郎一殿
  西田音吉殿    伊藤幸次郎殿      斎藤艮八殿
  友野茂三郎殿   片岡隆起殿       滑川庄次郎殿
  平岡五郎殿    行岡字多之助殿
一金拾五円宛     馬場鯛次郎殿      和田巳之吉殿
  神谷裕一郎殿   斎藤沢吉殿
一金拾円宛      井戸川義賢殿      井野辺茂雄殿
  高橋毅一殿    笠原孝三郎殿      遠藤正朝殿
  坂田耐二殿    曾志崎誠二殿      高広政之助殿
  家城広助殿    友田政五郎殿      渡辺轍殿
  高田利吉殿    佐々木道雄殿      入江銀吉殿
  蓑田一耕殿    山崎一殿        大友忠五郎殿
  蓮沼門三殿    安部勉殿        古田中正彦殿
  九里真一殿    川口寛三殿       泉末治殿
  島田房太郎殿   中野時之殿       長谷川謙三殿
  岡景助殿     桜田助作殿       長谷川弥五八殿
  香川亮一殿    内海盛重殿       藤戸計太殿
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  伴五百彦殿    児野博殿        上野政雄殿
  伊藤半次郎殿   山口賢治郎殿      岡村勝正殿
  西山喜久平殿   山崎鎮次殿       原胤昭殿
  福井源三郎殿   朝山義六殿       時田友治殿
  鈴木富次郎殿   根本源一殿       柳田観巳殿
  蔦岡正雄殿    明楽辰吉殿       斎藤又吉殿
  間崎道知殿    荒井円作殿       周布省三殿
  国枝寿賀次殿   上倉勘太郎殿      内藤種太郎殿
  川瀬衛殿     宮里仲太郎殿
      以上
合計金八万壱千八百八拾五円也


竜門雑誌 第三九一号・第一五―二八頁大正九年一二月 ○阪谷男爵開会の辞(DK430003k-0003)
第43巻 p.39-48 ページ画像

竜門雑誌 第三九一号・第一五―二八頁大正九年一二月
    ○阪谷男爵開会の辞
  本篇は、十一月廿三日午後二時より、築地精養軒に於て開かれたる、本社第六十四回総集会及青淵先生陞爵祝賀会に於ける、本社評議員会長阪谷男爵の開会辞なりとす。(編者識)
 閣下、淑女並に諸君、今日は竜門社の第六十四回秋季総会を開くに就きまして、斯く御多数御参堂を得ましたことを委員一同深く感謝致します。
 何時も竜門社の総会は王子の渋沢邸を拝借しまして催しますので御座いますが、此度は先日来青淵先生が少し風邪で臥つて居られましたから、万一雨天等の節は出席が六ケ敷いと云ふやうな事があつて、吾吾が失望してはならぬから、雨が降つても日が照つても、双方に差支ないやう準備したら宜からうと云ふ委員の相談を以ちまして、此席を択びましたのでありますが、委員の先見が当りまして、若し今日渋沢邸で催しましたらば、此盛会を見ますことは甚だ覚束なかつたらうと考へます。総会と致しましては別段に御協議を願ひ若くは御報告を申上げますることは御座いませぬ。今日は専ら秋季の一日の楽みをすると云ふに過ぎなかつたのであります。
△本日は本社の記念日 併しながら今日は吾竜門社と致しましては、最も記憶すべき一日であります。それは吾青淵先生の八十の寿を祝すると云ふ好機会、又併せて先日子爵に御陞爵になりました其の御祝を申上げるに就きまして、何等か記念品を差上げる機会を得ましたので御座います。それは此総会の終りました後で、別に祝賀会を催しまして、其節更に記念品等の御披露を申上げまする。且つ此祝賀会は竜門社の催しで御座いますけれども、殆ど此竜門社の社員と御同様の方々が、此事を聞及ばれて参加されましたので、多少竜門社より幅が広くなつて居ります。けれども実質に於ては竜門社と毫も異る所はないのであります。且つ今日の総会又祝賀会に青淵先生の御出席を得たるに加ふるに、日本の最元老たる大隈侯爵の御光臨を得ました事を、諸君と共に深く光栄と致します。青淵先生に対する祝賀会の趣旨を、佐々木委員長より述べられたる後、大隈侯爵の一場の御話を願ふと云ふことは、非常なる光栄で御座います。で今日は竜門社の事で御座います
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から、遠慮なしに充分に、青淵先生の徳を称へて差支ないので御座いますが、併しながら私の信ずる所に依りますれば、是れは独り竜門社として賀すべき事であるのみならず、日本全国として又賀して宜い事と、私は甚だ親類の一人で御座いまして、言ひ難い言葉では御座いますけれども、露骨に真情を申せば、さう考へて居るので御座います。それに此祝辞をお述べ下さる大隈侯爵。此お二人の御演説を今日此席で承ると云ふことは、誠に吾々日本人として得がたい機会と、私は喜ぶので御座います。
△我々の誇りとする二大偉人 青淵先生と大隈侯爵、此お二人は明治の初めを聯想致しますると、相離るゝことの出来ぬ我国の偉大なる人格として、我々の誇りとする所で御座いますが、考へて見ますると、此明治の初め、即ち徳川幕府が潰れまして、明治の日本を造り上げらるゝに就きましての改造、近頃改造と云ふ言葉が欧米にも行はれ、又日本でも往々聞く所でありますけれども此御維新の改造と云ふものは真の改造であつたらうと思ひます。之れに比較したならば、今日欧米に於て叫ばれ、又現時日本に於て聞く所の改造なるものは、殆ど比較するにも足らぬと謂ふも過言ではなからうと思ふ。試に少しく之を申上げやうならば、第一我々の頭に在つた髷と云ふものが改造の結果として、何時の間にか無くなつて仕舞つた。又両刀を手挟んで居つた其両刀と云ふものが無くなり、着物は羽織袴がフロツクコートに変り、暦も変れば、一日十五日の休日が日曜になると云ふ様に、此維新の改造と云ふものは、政治・経済・社会各方面に亘つたのみならず、孰れの国に於ても企て及ばぬ、考へ及ばぬ点迄も改造して仕舞つた。形に於ても精神に於ても全くの改造。但し其間に於て、日本として最も大切なる武士道、或は又形の上に於ても優美なる美術と云ふものは勿論保存せられて、今日日本は五大国の一に列したのである。此間に於て大隈侯爵の縦横無尽の働き、又渋沢子爵の驚くべき活動と云ふものが如何に此日本の改造と云ふことに就て助けたかと云ふことは推察に余りあるのである。明治の初めに極めて血気盛なりしお二人が、今日尚八十一とか八十四とか云ふやうな御高齢を以て、猶ほ此築地の精養軒の演壇にお立ちになると云ふことは、実に
△一の不可思議の現象 とも見られる驚くべき進歩である。凡そ国家の成長の上で、大切なるものは矢張り赤ン坊と同じやうに初めは乳である。大きくなつてからは行儀作法、躾と云ふものが必要である如く国家と云ふものは、ドウしても強き文明に成長しやうと云ふには、財政経済と云ふものがなければならぬ。而して成人した後には外交と云ふものが、一番大切になつて来る。大隈侯爵・渋沢子爵が日本の財政経済を改造することに就て、如何に絶大なる怪腕を振はれたかと云ふことは、最早や多弁を要せぬことである。而して此お二人の老人が晩年に於て慈善・教育、即ち此国家の躾になるべき事に力を尽され、而して今日は世界に対する日本としては、外交の事に就て、専ら力を振はれて居る。所謂其の初めには牛乳を与へ、次いで之れには行儀作法を授けられると云ふ慈悲深き御方を、而かもお二人持つた、其お二人の御方から、此一堂に於て同時にお話を聴くと云ふことは、吾々に取
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つて何等の好機会であるか。
△日本政府の財政は僅に二百両 日本財政上に就て申して見ませうならば、御維新の初めに於て太政官に会計局と云ふものが置かれた時、二百両しか金がなかつた。二百両の金では、徳川征伐の軍隊を東海道を下すことが出来ぬと云ふ所から、由利公正と云ふ人が越前から召出されて、太政官札と云ふ札を造り、或は三井家に御用金を命ぜられて其時三万両借入れた。要するに僅に二百両と云ふ金しかなかつた日本の財政が、今日は新聞の報ずる所に依れば、十五億の予算を此議会に出さなければならぬ。特別会計を入れゝば、或は二十億の予算を出さなければならぬと云ふやうな訳。尤も其予算の中には、多少無駄なものがあるかも知れぬけれども、併し兎に角、二百両の金に困つた日本政府が、大正九年の今日に於ては、十五億乃至二十億の予算を議さなければならぬと云ふ迄になつたのは、中々是れは非常の進歩と謂はなければならぬ。又貿易の上から考へて見ると、明治元年の輸出入合せて一千万円余、二千万円に足りなかつたものが、今日は四十億、動もすれば五十億にも手が届きはせぬかと云ふ迄に進んだのである。又大隈侯爵・渋沢子爵の最も心配せられた不換紙幣の増発、太政官札は明治元年頃には其の発行高は極く僅少であつたが、夫れでも太政官札の通用が悪いと云ふので、非常に心配せられて、或は東京の安田善次郎さん抔当時両替をして居つた人を呼出して、何でも太政官札を使へ
△使はなければ牢へ打込むぞ と云ふ勢で使はせたが、夫れが明治十年には一億円、一億を超へると値段が下つて困るから、何でも政府の札は一億を超へぬやうにしなくてはならぬと云つて、一億を標準とせられたのであるが、夫れが今日では日本銀行だけの発行高に致しましても、ドウカすると十三億、或は台湾銀行・朝鮮銀行等の札を合併したならば、十五億とか十六億とか云ふやうな高が通用することになつた。此れは皆其の初め、渋沢子爵・大隈侯爵が扱はれたので、今日の有様を御覧になつたならば、御当人達も夢でも見て居るではないかと云ふ程に、お考へになりはせぬかと思はれる位である。其の初めと今日の盛況、殊に今では日本は五大国の一に列して居る。列しても列しなくても其事に軽重はない。事実に於て今日
△日本帝国は世界の平和の責任 を負ふて居る。現に我々如き末輩でも、今日も亜米利加の新聞記者が尋ねて来られまして、其人と先刻まで話をして、今此処へ来たのでありますが、我々如き末輩が亜米利加の人と話をするにしても、ドウモ斯うしなければ世界の平和は保てない。日本・英吉利・亜米利加、此の英吉利は欧羅巴方面、亜米利加は南北亜米利加方面、日本は東洋方面、ドウしても此三方に国を成して居る大国、幸に此三国が財政も兵力も先づ健全であるから、此三国で世界の平和を当分維持するより外仕方がない。国際聯盟なるものが出来たのは、洵に結構な事であるが、併しそれが成熟する迄には、歳月を要する。夫迄の間の平和は、ドウしても此三国が責任を持たなければならぬ。私は此事は、日本の見地から申すのではない。世界の平和を維持しなければ、各国共に貿易の繁昌も何も出来ないではないかと先刻も論を戦はした。さう云ふことを、私の如き末輩ですら、言はな
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ければならぬやうな事情になつて居るのは、即ち日本が言はず語らず世界の文明、世界の平和に責任を持つて居るからである。明治の初め大隈侯爵・渋沢子爵が、徳川家の潰れたのを御覧になつたやうな時代に於ては、日本は殆ど潰れて居つた。現に外国の兵隊は横浜に上陸して居つた。各国の居留地は五箇所に設けられて、治外法権を有し、而して各国の公使が、日本の国務大臣を観ること甚だ軽く、殆ど形容の出来ぬ程見縊られて居つた。現に其当時の大隈侯爵と英吉利のパークス公使抔との談判筆記を読んで見ると、今日堂々たる
△大隈侯爵が斯くまで閉口 してござつたかと思ふ位に丁寧の挨拶をせられて居ると云ふ有様で、其当時の日本は殆ど滅びるか滅びぬか、間、髪を容れざる其日本を御経営なさつたお二方が、今日は日本の為め世界の為めにも斯うしなければならぬと云ふ。最近に於ける侯爵の演説にしろ、子爵の演説にしろ、凡て日本と云ふものを超越した言論を沢山拝見するやうになつたのである。之れが日本が五大国の一であらうが、あるまいが、当然世界の平和を保つ上に重大なる責任を持つて居る訳である。曩に渋沢子爵が六十の齢に達せられた時にも、竜門社と致しましては其お祝を申上げ、又七十のお祝を申上げ、夫から七七のお祝を申上げ、其の七七を機会に第一銀行頭取、明治の初め以来継続して居られた頭取を御止めになつて、専ら慈善・教育・外交の事に当られ、殊に最近日米の関係、此日米関係が支那問題、加州並に布哇の排日問題等に深い関係を持つて居る所から、日米関係に殊に重きを措かれて非常なる心配努力をせられて居ると云ふやうな事は、吾々は日夕言論でも承り、又其行動に於ても拝見をして居る所でありますが、夫等の事が自然
△天聴に達して此度の御陞爵 になつた事と拝察するのでありまして竜門社員と致しましては、洵に深い喜びに堪へぬのであります。只今日本の成長に就て申上げましたが、同時に此竜門社と致しましても、初めの竜門社と今日の竜門社とを比較致しましたならば殆ど比較にならぬ。恐らくは初めの竜門社と云ふものは、社中の重なる第一銀行の百五十万円を筆頭として、皆様の代表せらるゝ諸会社の財産を合せても、或は二百万円にも足らぬ位のものではなかつたかと思ふのでありますが、夫れが今日では何十億の多きに達して居るであらうと思ふ。而かも其勢力は独り東洋に止らず、欧米諸国にも及んで居るのである又其子供の数も大変であらうと思ふ。初めは勿論独身のお方が多かつたのでありますが、今日は恐らくは孫を持つて居る方が多いであらうと思ふ。若し此竜門社と云ふものを一家族と見ましたならば、今日の青淵先生は大変に子供も沢山出来、財産も沢山出来た大家族を率ゐて居られるとも見られる。夫等の一大家族が寄集つてお祝を申上げる席上に於て、日本の最大の名物、今日に於て最も吾々の尊敬する元老が祝辞をお述べ下さると云ふ機会を得たので御座います。是れは後の祝賀会に於て皆様のお聴きになる事で御座います。私と致しましては、今日総会を開きました趣意、又此総会が王子の渋沢邸に於て開かずして、場所を此処に変へました次第、又祝賀会を催します訳、其祝賀会に就きましての感想及感謝の意を、諸君に代りまして併せて玆に陳述
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致しまして開会の辞に代へまする。(拍手)

    ○大隈侯爵祝辞
    (十一月廿三日青淵先生八十寿並に陞爵祝賀会に於て)
 本日は偶然にも五十有余年の友達たる渋沢子爵の祝賀会の為めに、私にも出席を求められて、阪谷男爵が態々御紹介を下されて、非常に衷心喜んで玆に出席致して、聊か祝辞を述べたいと存じまするのであります。多分五十年の旧友は未だ御出になるか知れぬが、真に初めてお目に掛つた以来一見旧知の如く、五十年親みを続けたと云ふ交りは余程少いやうであると思ふ。此処に大倉男爵が御出になるが、後は余程御親しかつたが、初めはそれ程ではなかつたやうである。又著名なる老人にも安田善次郎君の如き、是は子爵より多分一つか二つばかり上でありませうけれども、初めから――私の知る所ではそれ程御懇意ではなかつたやうである。明治二年十月にお目に掛つて以来、一見旧知の如く、其時代は阪谷男爵の御話の通りに政治も頗る簡易の時代で今日の大会社なんぞの働きより、もう少し簡易であつたらうと思ふ。私などは誤つて明治初年から余り地位が高過ぎた位である。所が子爵は後からお這入りになつて――王政復古の前に、子爵は慶喜公に見出されて、一ツ橋家に御仕へになつて、其当時に民部公子に随伴して巴里に御出になつた。其時に渋沢子爵も大層恩をお受けになつたやうである、一介の書生、殊に田舎に生長した所の者を抜擢したのは、慶喜公であつたと思ふ。慶喜公は余程人を見るに聡明であつたと見えて、或は将来徳川家の相続は民部公子を以て相続させるの已むを得ぬ勢が其時の種々の境遇から起つて居つたのである。民部公子其人は徳川慶喜公の御舎弟である。そこで優れた人才を抜擢して、之に御附けになつた。王政復古の時には、子爵は丁度巴里で御聞きになつたらうと思ふのである。お帰りになつてから、如何に英傑でも、非常に失望なさつたに相違ない。大なる志を抱いて民部公子を保護して、巴里に臨んで、著名なる「ナポレオン」三世にお会になつたのである、著明なる財政家にもお会になつたのである。仏蘭西人のみならず其時は「ナポレオン」三世の盛なるときで、世界から優れた者も集つた、大分世界の財政・外交或は物質的文明の盛なることも感じて、大なる志を抱いてお出になつたに相違ないと思ふ。突然一本の電信で、二百五十余年の徳川幕府は瓦解したことを知つたのである。奉じて行つて居る所の民部公子は、突然一夜の中に浪人になつてしまつたと云ふ訳、併ながら非常な忍耐力を以て、意思の強いお方であつたから、何等屈することはなかつたらうと思ふが、一朝にして徳川政府は瓦解して、其当時は阪谷男爵のお話の如く、未だ日本は頗る貧弱の有様で、お話のやうに潰れると云ふ程でもなかつたらうけれども、今日の状態から見れば殆ど破産、僅かに何を以て王政復古の戦争をやつたと云ふと、太政官紙幣、一方には脅迫的の御用金、此二つでやつたのである。此処にお出になつたお方々は御存じであらうが、貴方がたのお先代とか三井とか、其他の富豪の家は、随分脅迫的の御用金を申付かつた。夥しい御用金と不換紙幣。先づ潰れて居つたと云つても宜い。藩々は藩で紙幣
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を発行し、或は貨幣を贋造して、藩々皆潰れて居つた。而して外債がある。少しばかりづゝの兵器を買ふとか、弾薬を買ふとか或は外国から船を買ふとか云ふやうなことで、皆外債がある。薩摩も長州も土佐も、何所も外債の無い藩はない。甚だ質の悪い借財である。さうして藩々も不換紙幣、中央政府も不換紙幣、其時に子爵は御帰りになつたんである。大抵の者なら、余程失望落胆するだらうが、先づ兎も角も僅かと雖も、徳川に扶育せられた所の子爵は、其時の勢を見て進退するが如き、軽薄のお方でないと云ふことを確めたのである。そこで静岡に於て、どうかして此徳川の将来、此の如き名家の将軍の後を、経済的に――何としても経済が基礎である、其基礎を定めて、どうか此後を慮るの憂を断たうと云ふことに尽力されたやうである。是は甚だ敬服することで、私は能く知らぬが、今日お出になつて居る郷誠之助君のお父さんの郷純造と云ふ人が居られて、此人に勧められて、斯う云ふ英傑が居る、吾々の如き者ではない、斯う云ふ者をお使ひなさるが宜しいと云ふ為に、お目に掛つた。お目に掛つて見ると、先刻其五十年の履歴を御読上になつた通り、実に堂々たる人である。併ながら昔から堂々たる者ではない、五十年の歴史が今日の勝れた人格を、時勢の必要に応じて大活動をした所のものが顕はれて、此竜門会《(竜門社)》の小なるものが、今日の如き大を致したと同じく、其他政治上にも、社会上にも、教育上にも、或は慈善的事業にも、或はどうかすると宗教的事業にも、凡そ社会の有ゆる事に関係を為すつてお出るやうであるが、其時には先づ服装を云ふと木綿物、小倉の袴、何だか大小なども余り立派なものではなかつた(笑声)一見眇たる所の当時の一書生、併し意気は壮なるものであつた。当時意気盛なる壮士が沢山居つた。物騒の者も居つたのである。それ等と相去ること遠からぬ者であつた。それから議論をやつて見ると中々壮なもの、迚も吾輩の類ではない。当るべからざる勢である。私なども其当時は物識りで世界の大勢も殆ど掌を指すが如くに知つて居る積りであつたが、どうして仏蘭西から新に帰つた所の――巴里博覧会を見、「ナポレオン」三世に謁見して来た所の勢だから仕方がない、併ながら私は地位が非常に高い、併し地位を以て圧迫する訳にはいかない。多分御記憶になつて、時としてはお話になつたやうであるが、苦し紛れに吾輩が、今日本帝国を新に創造するのだ、恰も高天原に神が集つて此国土経営の御相談になる時代だ、吾々は神だ、明治の神だ、お前も神の仲間に這入れ(笑声)流石の議論家も吃驚して――一寸方角違ひの論であつたが、面白い議論と思はれたか、遂に考へ直して、それなら一つ仲間に這入らうと云ふことになつた。初めは取調と云ふより議論をする役所で、上役とか下役とか、そんな事に頓着なく、盛に議論をする。それから私は丁度まる五十年余、殆ど五十二年の間遂に交を絶たぬ。時々地位が異つたのである。私は時として役人になる、官吏と実業家と親み易い。官吏を去ると実業家などとは余程縁が遠くなる。さう云ふ時にも渋沢子爵はいつでも心易い。不思議な次第で、未だ封建を去ること遠くないから、世間は福沢先生が言つた如く官尊民卑、そこで官吏に近付いて居らなければ、商売も余り利益がないやうな訳であつたかも知れぬが、官吏
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に近付いて儲けた者も余り多くないやうである。此竜門社の諸君はそんな意味ではなかつたらうと思ふ。自己の力、自己の努力、自己の才能、及時勢を見るの明、之に依つて活動されて儲けたので、役人に近付いて儲けたと云ふ人はないやうである。若しさう云ふ人があれば、世の中に勢力を得るどころではない。どうかすると排斥を受ける、自己の努力の結果、阪谷男爵から何十億と云ふ資本に御関係あると云ふことを聴いて、非常に私は意を強うしたのである。而して其本は何である、渋沢子爵である。渋沢子爵は私が官吏の時でも、官吏を去つて時としては時の政府から威圧され迫害されて居る時でも、始終渝らない。近来はさう云ふ事が段々少くなつて来たが、明治の初年には随分さう云ふ事があつた。それにも拘らず五十余年の交を続けて居る訳である。時々御案内を受けて、此竜門会にも両度程出席した事があるのである。七十七のお祝の時には、帝国ホテルであつたと思ふ、其時にも出席したのである。
 そこで此渋沢子爵の五十年、社会的に活動して、実は自ら省るの暇なく、社会の為めに国家の為めに力を尽されたと云ふことが、初めから研究されて居つたか、人間の天性優れた所の精神の働きが、皆国の為め人の為めに尽したのである。利己的には働かぬ。殊に近年は盛に論語をお読みになるやうであるが、大に敬服して居る、元からもお読みになつたが、併し中途に忘れて居つたかも知れぬ(笑声)愈々晩年に至つて之を想起して、即ち孔子の精神の根柢は何であるかと云ふと曰く仁。仁は或る一部の学者の論ずる所は消極的のものである。所が男爵の聡明なる社会的活動の上から云へば積極的である。言換へれば己れの為めにしない、人の為めに働く。随分学者に依つて色々の解釈があるが、極く平易に単純に解釈すれば、積極的に人の為め社会の為めにするのである。今日労資の協調、之が仁の発動である。或は社会的の色々の運動、即ち貧民救済の事業でも、慈善的事業でも是は仁の発動であると私は思ふ。之を概括して、私の敬服して居る所のものを一つお話すれば、唯誇張して古い五十年の友人に諛辞を呈する訳ではないのである。何時でも物の起るときには、盛に種々の社会的事業とか、国家的事業とか慈善的事業とか、或は国際間の政略上から斯の如き事が必要なりと云うて、随分道理を列べ立てゝ、さうして宣言とか規則とか立派なものが出来るが、私の記憶する所に依れば、大部分は竜頭蛇尾に終る、何時の間にか忘れてしまふ。どうかすると、其主唱した人すら知らざるが如く、何時の間にか消えてしまふのである。世間の攻撃する人は、渋沢子爵は人の持つて来るものを何でも同意する余り雑駁過ぎるではないか、斯様に言う人もあるが、決してさうではない。天性一たび同意をされると終まで忘れぬ。実は勧誘されて這入つたのだから、勧誘した人達が脱けてしまつたら、自分も冷淡になつて宜い訳である。所がさうでない。人の仕掛けたものでも、後始末を必ずおやりになる。段々人が減つて、到頭一人になつて始末を付けられたと云ふやうなものも、私は大分知つて居る。私は真実衷心から、渋沢子爵に敬服して居る所のものは是れである。実に精力絶倫、老いて益々壮である。さうして有ゆる事物に関係されると云ふやうな事は
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既に今佐々木君の朗読された所に依つて尽されて居る。総ての物を概括して其終を完うすると云ふ、之が私が久しうして益々景慕の念を増す所以である。是は感情的の余り喜ばれぬ人の言葉のやうであるが、併ながら古今の英傑、魏の曹操と云ふ人が人物を評したる言葉がある曹操の参謀に非常に学者で力のある荀攸・荀彧と云ふ者がある。之を曹操が何と評したかと云ふと「荀令君の善を進むる、進めずんば休まず。荀軍師の悪を去る、去らざれば止まざるなり。二荀令の人を論ずる、久しうして益々信ず、吾世を没するも忘れず」。曹操は随分支那流の人の国を簒奪したなどと云ふ色々の非難のある人だが、古今の英傑、優れた人である。又漢一代の大文豪である。今日でも尚且つ参謀本部でも何処でも、魏の武帝の註釈をやつた所の孫子は用ひられて居る。先づ其人格は措いて、其言葉は私間然する所なしと思ふ。曹操の言葉を以て、我友人たる子爵に呈するは、少しく宜しきを得ぬやうであるが、私は交つて久しうして益々信ずる。確か私が二つ先きである多分私が墓場へ二年先きに行くんである。私が長生をすれば、今日の祝辞になるか知らぬが、先きに死ねば没するも忘れずと云ふ意には移らぬかも知らぬが、是は私の志を吐露するのである。私の形骸は去るとも精神は存在するのである。渋沢子爵の働きは多分矢張精神的に働いて居ると思ふんである。先刻の祝文の中にもあつた通り数年来帰一会にも力を注がれ、今尚尽力されて居るやうである、私も初めは御相談を受けたこともある、私などは漠然と、孟子の天下は一に定まると言つた如く、世界の人類は同一である以上、必ず世界のものは一に帰すると云ふ、概括的の議論を致したことは記憶して居るが、子爵は所謂精神界・思想界にお働きになつて居る。其中には矢張善悪はあるが善悪を選択して之を排斥することなどはなされぬやうである。吾輩も矢張其類の一人で、唯力微弱にして、志の十分の一も行ふことは出来ぬが、四・五年前叡山の伝教千百年の法会のことに就て、子爵の所にも来られたんだらうと思ふ。続いて知多院の再興の事に就ても、渋沢子爵にも御相談をしたと云ふ帳面を持つて来た。見ると子爵の名前がチヤンとある。そこで吾輩意を強うして、吾々は貧者の一灯であるがそれではお手伝をしやうと言つて帳面に附ける。さう云ふ者の来ることは夥しいものである。所が或る意味から云へば仏教などは詰らぬものと云ふかも知らぬが、仏教其ものから伝教なり弘法なりの学んだ哲学的知識は卓越したものである。其方から云ふと、世界の宗教中仏教は一番哲学的に卓越して居るかも知れぬ。さう云ふ宗教の方にも幾らかお世話をなすつて居るので、初めは軽く言つて居つても、後から段段金を取られて行くのである。之が非常に多い。方々の学校・社会的事業・慈善的事業に渋沢栄一と云ふ名前を拝見せぬことはないやうである。吾輩微弱なりと雖も、どうか其十分の一位でも社会に貢献したいと考へる。所がおかしい事は、数年前大阪へ行つて実業家から食事の案内を受けた、其席で最後に小山君が、どうも渋沢さんも大隈さんも、誠に先輩で尊敬すべき良いお方であるけれども、渋沢さん大隈さんが大阪へ来ると何だかヒヤヒヤする。書面がやたらに来る、会つて見ると色々金をお取立になる(笑声)渋沢さんも余り喜ばれぬやうで
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ある。併ながら、吾々は勿論渋沢子爵に於ても、何等利己的の事から起つた訳ではない。社会の為め公共の為めに力を尽すと云ふ所から導かれ、実は人の嫌ふのも顧みず致すのである。併し私などは気が弱い中々斯く申す私の早稲田の学校でも、始終お世話になる。それから三菱とか三井とか色々立派なお方は、又渋沢さんが来たと云ふかも知れぬが、無頓着に――自己の為めでなく国の為めである、社会の為めである、人の為めである。さうすると幾らかづつ金が出て来る。斯の如き人が時代の必要から出て来たので、王政復古以来今日偶然に教育が盛になつた訳ではない。偶然に社会的事業が起つた訳ではないんである。矢張時代の必要に応じて、之に先だつて努力する人が、そんな事に頓着せず、自己の理想を行ふ為めに、所謂仁を為す、仁を為す為めには人に譲らぬ、之が現はれたものが、今日の渋沢子爵の事業であるだらうと思ふ。是等が到頭天聴に達して――のみならず国際間の事などにも常に力を尽されて居る。其為めに亜米利加とも数回往復をした時々亜米利加から訪問される人を私も、全部とは言はぬが、其中の一部を時々お引受して、渋沢先生の活動のお手伝をする位のことはある併ながら、私より二歳少い為めであるか、仮令二歳が五歳でも吾輩などより健全のやうである。精力が旺盛のやうである。如何に活動しても疲れぬと云ふ非常の特殊のエネルギーがある。併しながら強い人は決して無いではない。渋沢子爵以上の者は随分沢山居つたのである。吾輩の知る所でも余程沢山居つた。飯も余計食へば酒も飲む、非常に力の強い英傑が居つたのである。けれども大抵死んでしまつた。死なんでももう精神的に疲れて居る。疑もなく一種のものを――善を好んで善に向ふと、其事を為し遂げねば已まぬ、中途にして人は去らうとも、自分は最後まで重荷を負うて立つと云ふ、此精神で健康を保ち、此精神に依つて、先生が不老長生に導かれて居ると思ふ。私は百二十五歳説を今でも確信して居るのである。所が今日まで比較して見ると――凡そ物は比較して見ねば分らぬ。比較すると吾輩は渋沢子爵には敵はぬ。さうすると子爵は吾輩より更に以上の長寿を保つことゝ私は察する。斯の如く社会的に、国家的に、或る場合には世界の人類の上に、此の仁を提げて活動すると云ふ如きものは、常に起るものではない。然らば私は此処に日本の境遇から云へば、日本の世界的地位の上から云へば――産業的地位の上から云へば、今日日本の富は増したけれども、是で満足は出来ぬのである。さうすると此渋沢子爵は国の宝である。直接に今商工業・銀行業に従事されぬでも、或は利益と徳を結付けやう、論語を以て商業的道徳・商業的地位を高めやうと云ふ精神が、全般に流れて居る。全体人生の基礎と云ふものは、即ち共同の働きと云ふことにあるんである。共同の働きと云ふことは仁である。今日の社会問題などは、或る意味から云へば、欧羅巴の新しい思想が此処に及んで居る。基督教の思想とも少し違ふやうである。日本人の思想は、斯の如き弊を予防するに十分余りあるが、之れをツヒ怠つたのである。併ながら吾々の思想感情――祖先から其意思がズツト国民に繋つて居る。而して、此思想の淵源は帝室である。殊に渋沢子爵が王道を以て立つ、王道は即ち皇祖皇宗の道である。労資の衝突などが
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起る理窟のものではない。玆に愈々健康を保たれて、国家の為めに此紛糾錯乱の思想界に、此驚くべき勢力を以て、其活動を続けられんことを希望して已まぬのである。私は多少お手伝をする積りであるが、併ながら先達は少し六ケ敷い。私も随分傲慢である、人に負けることは嫌ひだが、其精力がない。渋沢子爵は屹度私以上になつても、此勢力は已まぬのである。之が国の宝である。吾輩死に至つても忘れぬと云ふのは此である。吾輩子供以来斯の如く一時元気の壮なる者は沢山見た。非常に善い事を為す人もあつた。けれども五十年継続して――私の見る所では、其中には甚しきは自分が主唱して置いて、そんな事があつたかと空とぼける、さう云ふものをも今でも引受けてお出になる。今日それ程必要でもないと思ふものまで、矢張それを引受けて居られる。之が人間義務の観念。此義務の観念が盛になれば商売繁昌、工業も盛になり、国家は隆盛になる。玆に愈々御健康を祝して、今日の此芽出たい席に御案内を下すつて、私の意見を述ぶることの出来たのは此上もない幸だと思ひます。(拍手)


青淵先生演説速記集(二)自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本(DK430003k-0004)
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青淵先生演説速記集(二)自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本
                      (財団法人竜門社所蔵)
           (別筆)
           大正九年十一月二十三日 青淵先生
           八十寿並陞爵祝賀会に於て
    渋沢子爵の演説
侯爵閣下、満場の諸君。存じ寄りませず私は今日此竜門社から致しまして、八十になつた寿を祝するのと、更に又陞爵致したことに就きましても御喜びを下さると云ふ二つに依りて、今日斯の如き光栄ある御席に参上を致すことを得たのでございます。竜門社は其昔深川に住み居ります頃ほひに書生の集つて座談をするから起きて、一つの会名が生じた位でございますから、丁度先刻阪谷男爵から言はれた、二百円で以て維新政府が組立つたと云ふやうな次第であつたらうと思ひますそれが今日は十数億の予算を成立するやうな有様になつたと云ふ。竜門社の隆興の有様を見ても、尚且つ先刻の阪谷男爵の御言葉が思ひ遣られるやうでございます。而して今日は、特に社員以外の方々も御集りを下すつて、私の今御祝し下すつた事柄に就ては、段々御力を添へて戴いたと云ふことは、何等の私の光栄と申しませうか、真に感謝に余りあるのでございまする。殆ど申上げる言葉はございませぬ。殊に今日は別して嬉しく感じますのは、大隈侯爵が尊臨を下さいまして、只今誠に御懇切なる、又昔からの情愛を総て御吐露下すつて、五十年の御交誼を今の如くに、殆ど我が親戚若くは子弟に御話下さる如き、打解けたる御話を下さいましたことは、誠に昔の情意が尚此処に溢るるばかりに感ずるのでございます。末段に於て、世界に我帝国が此位置を占めたに就て、王道を盛にせねばならぬと云ふことに就きましても、渋沢の主義とする所は至極自分は嘉すると云ふ御趣意は、誠に幸に先輩の御同意を得て居りますことを、実は深く喜ぶのでございます最早今日の如き場合に於て、屡々竜門社の諸君に御話をしたことが、皆重複するやうに相成つて、今日申上ぐべきことは、唯々有難いと云
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ふ以上には殆どございませぬけれども、私が故郷からして或は浪人に若くは官吏に、又其以後今日の境遇に至る迄の間に、彼此と身の変遷と共に、人の接触に於て深く感じて、殊更に記憶に残つて居ることがございます。是は私許りではない、何方にもあらつしやることであらうと思ひますが、年長けて参る程其場合が多からうと思ひますけれども、数多い物に接し人に会ふに於て、追々に雲煙過眼、消去つてしまふものもありますが、其中にポツポツと残つて居つて、何時まで経つても忘るゝことの出来ぬ事柄が、何方の御身にもあるだらうと思ひます。私も八十一の年を迎へまするまでに、四つ五つさう云ふ事がございますで、其記憶に残つて居る事柄を一つ申上げて、私は斯う云ふ事柄で斯様考へますと云ふ、自己の或は修養とも申しませうか、又は発奮とも申しませうか、さう云ふやうな有様を此処に陳上致して、諸君の御参考に供して置きたいと思ふのでございます。蓋し此事は折角斯の如き光栄ある御仕向けを戴いた御礼にもなるまいと思ひますけれども、併し御愛し下さつて、私の長寿若くは陞爵を御祝ひ下さる皆様方でございすから、其身体が斯様に経過し、斯う云ふ事から斯う云ふやうに相成つて来たのである、斯う云ふことから斯く修身の守りをしたとか、斯う云ふことから私の心を入替へたと申すやうな事柄は、或は諸君の御参考・御修養の為めにならうとは申されませぬでも、御愛し下さる私の一身としては、斯うであつたと云ふことを、御知り下さる端緒になるであらうと思ふからであります。
御承知の通り、田舎の百姓に生れて、二十四の年に家を去つたのでございますから、其前の家を去るまでの境遇に就ては、余り諄々しう申上げることはございませぬが、私が今も尚能く記憶して居ります故郷に於ての先輩のみならず、厚い親戚で深く世話された人に、二人の先輩がございました、其二人の先輩に対する感想が今も能く残つて居りまするので、先づそれから申します。人の名は略しますけれども、皆何方も従兄同志で、皆尊属の人であつて、或場合には呼捨られる程の私の先輩である。一人は撃剣の師匠、一人は漢学の句読を受けた人であつたのです。一方は二十ばかりも年が上、一方は十程長じた者で、私の少年若くは青年に至る頃ほひに、総て色々な篤い世話を受けました人々でありましたが、此一方は間柄は至て親密でございましたけれども、若し其人の品格を批評しますならば、至て利己主義の人で、勝手我儘な事がある。私を遇するのに、或る場合に自己の都合の好い時には、例へば物の覚えが良いと云うて、他人に対しては己の親類だと自慢をしますが、私に対すると己より覚が良いと云つて甚だ嫌ふと云ふやうな、一例を申しますとさう云ふ勝手な、貴様のやうなお喋べりが何になるか、言葉多きは品少しと云ふ古言があると言つて、先づ悪く言ふと冷遇虐待至らざるなしと云ふ間でございました、併し撃剣の師匠でございまするし、力も強いし智慧も勝つて居つたから、私が抵抗することは出来なかつたが、始終心に不快を感じて、或る場合には余程憤慨致したこともあつた人でございます。之に引替え、漢学の句読を教はつた人は、実に温厚和平な君子人でありました。私を愛すること真に弟以上に致しまして、能く薫陶して呉れた、或る場合には篤
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く戒め、又教ふる、引立てると云ふやうにして呉れました、故に郷里に居る時分に、此二人の先輩に対して、実は第二の方に深く信頼もし之に学ぶべきは学び、人と為りを進むべきが相当でありますが、或は私の性質の善くないのか、若くは誰人もさう云ふ感じがあるものか、実は私が幾らか物を学び、人の前に力を尽さう、事を為さうと云ふやうな観念を強く進めたのは、前に申上げたる意地悪く虐待をされた人に対して、私は始終相対した観念を強く持つて、あの人に後で虐められては甚だ残念だ、或場合には私の為めに、父母にまで随分苛察の振舞に出るであらう、それは相済まぬと云ふやうな観念から、此人にどうぞ蔑まれんやうにせねばならぬと云ふ感じが、己をして或は邪に傾かうとしても、イヤ待て、さう云ふ事をしたら、どう云ふ事に立至るか知れんと云ふので、始終修身上の教訓を、寧ろ反対に憎む側の人から恐怖的に得たのであります。之に引換へ、深く愛する方の先輩に対しては、間違つたらあの人が正して呉れるだらうと云ふ依頼心が強かつた為めに、寧ろ其人の為めに、自分の修養が進んだと云ふより、虐待を受けた為めに、修養が進んだと云ふやうに言はねばならぬやうでありますから、私の一体性格が或は極く仁者で無かつた為めかも知れませぬが、要するに事柄と云ふものは、果して善い事が吃度良く感じ悪い点が吃度悪く報いるかと云ふことは計り難いものだ、と言はねばならぬやうでございます。若し果して私の少年若くは青年の時分の感触が誤らぬものとしたならば、今日の例へば救済とか慈善とか云ふやうな事柄などは、或は寧ろ害を為すとも益が無いとも考へねばならぬかも知れませぬが、併し私は今日それはさうで無からうと思ふ方の一人でございますが、先づ少年青年の故郷に居る迄の移り変りは、左様な境遇に居りましたのでございます。是は能く其長い間の交りに接触したことでございますから、身を終るまで忘れ難い境遇でございますから、斯ふ云ふ有様であつたと云ふ先づ生育頃のことを申上げます。更に今一つ記憶して忘れ難いのは、私の父でございます。丁度私が三十二の年、即ち大隈侯爵が大蔵大輔と云うてまだ大蔵省に勤めて居られた時でございます、明治の四年に没しましてございます。昨日丁度五十年の法会を、上野の寛永寺で営みましたが、之が私を或る一事に教訓しましたことは、私がどうも終身忘れることの出来ぬ一の観念を与へたのでございます。勿論親が子を叱り又諭すと云ふことは、珍らしからぬことでございますから、之を事々しく申上げるは甚だ私自身の夢、何の効能もないやうでござまいすけれども、丁度私が二十四の年の九月でございます、故郷を去つて、先刻侯爵の仰せの一橋に仕へる端緒を開く一身の変化でございます。其変化をする場合に、故郷を唯出奔して逐電的に家を去ることは、どうも心苦しうございましたから、もう相当な年輩にもなつて居りますので、少くも父親だけには、稍々心から許諾を得て家を去りたいと考へました為めに、忘れも致しませぬ九月の十三夜、田舎では月見と云ふ事をやります。其月見の寄合に、前に申した極く親しい先輩の人と、其他の共に世の中に立たうと云うた一人と、唯数名の間で、一席の款話を開かうと云ふことを父に請うて、即ち父も共に相会して、所謂世の行末を議したのでござい
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ます。議したと云ふと大層でございますが、思出を遠慮なく話合ひ、既にそれ迄も兎角所謂尊王攘夷と云ふ方の事柄が、田舎にも強い風当りが致しまして、私共も其仲間入りを殆ど致しかけて居つたものですから、私の父は酷く憂へて、或は出奔でもしはせぬかと云ふ気遣ひを持つて居られた為めに、今の一夕の談話に於て、それが是であるか或は非であるかと云ふことを、親子及び厚い親戚三・四人の間に討論を致しました。普通の場合ならば、勿論子が父に対して、従来の行掛り農業若くは家督相続は出来ませぬから、一身を的に是から先何かやつて見たいと思ふからと言つて、親に暇を貰ふと云ふことは殆ど不孝極まる訳であるから、決して孝悌忠信を重んずる教柄に対しては、相済まぬと思ひます。併ながら、さう子供に望む貴方自身が、国家の事を安心してござるか、隣の麦ばかり作る人は、それで安心してござるか知らぬが、御自身は心からして決して安心してござらぬであらう、どうしても国家は大なる変化を惹き起す。事に依つたら外国の侵略を受けると云ふ事になりはしないかとまで憂へる、昔対島に元寇のあつた時分に、或対島の人が身を賭して、此変事をば筑紫へ報じた、何と云ふ人か名を忘れましたが、独で船を押切つて来て、其事を報じたと云ふことすらある位。其国家危急存亡の場合に於て、唯自分の位置だけを考へると云ふことは、開違つて居るではありませぬか。吾々微力と雖も、其危急存亡を見兼ねて家を出やうと云ふのに、必ず不孝だから相成らぬと云ふのは、御無理ではありませぬか、と云ふのが、先づ伜たる私の言分、父はそれは心得違ひだ、そんな物騒の事を考へぬでも宜からう、或は身の栄達を欲する為めに、さう云ふ考を起すかも知らぬが、殆ど非分の望だと云ふのが父の諭し、もう夜一夜討論しました末に、どうしても許して下さらなければ、拠どころないから出奔します、御届申して出奔しますと云ふことに立至つたものですから、もう二十四・五の壮年とも云ふべき年輩になつて居りますから、申さば私の父も少し脅迫を受けたでありましたらう、僻易致しまして、夜の明方になつて其相談が纏つた。宜しい、もう再び言はぬ、己の子でないと思へばそれで済むから、どう云ふ事になるか知らぬが、所謂世の中の為にさう云ふ覚悟が起つたと云ふことは、間違つたにした所が、今更私が止めて止まらぬ訳であるから、もう能く解つたで再び言ふな。決して差支ないから家を去れ、どうするとも貴様の境遇は、今迄の百姓の子とは思はないやうにするから、と云ふ事を申されまして、是が父子訣別の談話でございました。其時に能く申聴かされましたことは今も尚能く記憶して、肝に銘じて居るのでありますが、どうぞ私を勘当して貰ひたいと言ひました所が、勘当は出来ない、それは穏当でない、勘当せぬでも宜しいではないか、万々一貴様の身に就て何か家に不幸を来すならば、父子であるから喜んで父が其子の不幸を引受けることは敢て辞する所ではない、だから敢て勘当は致さぬ、どう云ふ事をするとも構はぬ、唯一つ玆に深く戒めて置くことがある。事に依つたら今日の有様では、横浜の異人館へ切込むやうな事をせないものでもない。若くは桜田・坂下、色々の出来事のあつた際でありますからさう云ふことに走る事があるかも知れぬ。是は敢て問はぬ、気の趨く
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所、至誠一に帰する訳であるからそれは問はぬが、只一つ誡めて置きたいのは、此処を去る身は乃ち国家に尽す、国に尽すと云ふ観念が其覚悟であるならば、其道理ある主義だけは徹頭徹尾尽して呉れなければいかぬ。併し苟も是が不道理な事、例へば如何に人を助ける為であるからと云うて、不義の義、非礼の礼を行うて呉れることはいけない是は昔から志士仁人で、さう云ふ事の為めに身を誤つた例は幾らもある。非義の義、非礼の礼を行うてはいかぬ。例へば親を介抱したい為めに人の物を奪ふ、人を救ひたい為めに一方の人を酷い目に遭はせる斯の如き事は即ち非義の義、非礼の礼である。苟も道理を誤つたことは必ず致さぬと云ふことの覚悟がなければならぬ、と云ふことを深く誡められました。但し左様に仰しやられますと云ふと、身分不相応の考をしますのですから、一々に純理のみを踏むことは出来ぬと云ふ事を申上げざるを得ませぬ。而しどう云ふ事で一身を終るか、是は今期する所ではございませぬが、必ず自ら心に恥る事は致しませぬ、今の御教訓は深く服膺して今迄は渋沢市郎右衛門の伜たる家の子でありましたが、是から先は少し量見を変へまして、日本国民の一人として、国に尽すを主義と致して、勉めて見ることに致しませうと云ふのが、父子の別れの言葉でございました。斯様な事は諄々しく申上ぐるもお恥しい事でありますが、其時分に非義の義、非礼の礼と云ふ事を能く申したものでありますから、それを誤つて呉れると承知せぬぞよ、又全く家を捨てたと云ふ以上、其一身は一国に報ずると云ふ主義である以上は、之を終身の覚悟とせねば己は許さぬぞよと言はれました事が洵に私は今に其教訓を深く服膺して、あゝ能く言うて呉れたと思うて其事を考出すと始終暗涙を催しますのでございます。是が一生の忘れる事の出来ぬ一つでございます。其後京都に出て一橋に奉公を致しました以来、色々の変化がございますが、中には思違を致した事もございます。其初め外国をばどうしても侵略主義の国だとのみ思誤まつたのが、決して国々皆それではない、中にはそれもあらうが、それでないのが甚だ多いと云ふやうな、智恵の足らぬ所から考違をしたことを後で覚つた場合も少くございませぬが、殊に外国の物質的進歩の甚だ進んで居ることは、其時分一寸も知らなんだのが、仮令飛沫たりとも分つて来ますと、大に学びたいと云ふ観念が起りまして、慶喜公が一橋から将軍になられた後に、丁度仏蘭西へ民部公子の御供をして参りました時の覚悟は、洵に智恵も乏しゝ見聞も少うございましたが、徳川氏が此後何代も継続しやうとは思ひませぬでした。数年の後には必ず幕府は顛覆するであらうと云ふ予想をしつゝ、海外旅行を致したのでございます。其故に、丁度今侯爵が、其時の学ぶ覚悟は民部公子を擁して大に後に日本に尽す積りであつたらうと仰せられましたが、其程の大志を抱いたとは申上げ兼ますけれども、蓋し心窃に丁度御察見なされたやうな観念を以て旅行を致したに相違ないのでございます。併し参りましても、本筋の稽古が出来やう筈はございませぬから、唯ほんの僅かのものを目から見、耳から伝へ聞く間に、国は変化して、徳川の幕府は倒れて王政は維新になると云ふことから、直に帰国せねばならぬと云ふので、僅かに一年半で日本へ帰つて来た。帰りまして
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からの観念は、不幸にして自分の主人と仰きた慶喜公が、逆賊と云ふやうな汚名を受けて幽閉されて居るものですから、此場合に於て、自身が若し官職にでも就いて、身の栄達を図つたならば、寧ろ恥しいことゝ思ひました為めに、さう云ふ事の望を絶ちまして、其以外に於て父の申した国に尽すの務めは何が宜からうかと思つて、外に仕様がありませぬので先づ物質的事物を進める、即ち商工業に依つて日本の事物を、先づ欧羅巴式に引直すことが、己れ微力たりとも出来はしまいかと、心窃に感じたのであります。元年の冬、駿河に参つて其事に取掛つて見ましたが、智恵も浅し又信じて呉れる所の人も少し、何等為し得ることの出来ない間に、少々ばかりの商法会所と云ふものを駿河で造つて、彼此して居る間に、丁度只今侯爵のお話の通り、郷君からの御推薦で、私を大蔵省に呼寄せられると云ふことになつたのでありますから、只今明治二年の十月と侯爵は仰せられましたが、あれは十一月の十八日でございます。是だけは私の身が痛切でございますから侯爵の如き御記憶の好い方でも、私の方が尚能く覚えて居ると申上げて宜からうと思ひます。丁度築地の御邸へ出て、私が初めて侯爵に謁しまして、丁度大蔵大輔で居らしつた。私は租税正に任ぜられた。這入つて見ましたけれども、何一つ手の著けやうがない。早く御免を蒙つて、何か自分の好む事に力を尽したいと考へた為めに、是は首脳にござる御方に直接にお願をして、引いたが宜からうと思つて、辞退の事を申上げに出たのであります。其時に唯単に私は厭やでござるから御免を蒙ります、とばかりは申上げなかつたやうでございます。侯爵は勿論今日と雖も尚引続いて博聞強記、又雄弁にして且つ抱擁力をウンと持つてござるお方でございますから、初めてお目に掛つて見ますと、滔々懸河の弁、悪く申すと煙に捲かれたやうであつたのです(笑声)さりながら私も、自分が斯う云ふ境遇になつたのは、斯う云ふ次第であると云ふことを、例へば三言に一言申上げると云ふやうな塩梅に、我一心を申上げました。所が最終であつたか或は途中であつたか大喝一声、それは君間違つて居る、さう云ふ愚昧な考は止め給へ、甚だ局量が狭いではないか、第一徳川慶喜公に対して、お前の心が安んじないと云ふが、一体今日の日本をどう見るか、而して今日の御一新はどう云ふ時代であるか、其時分は改造と云ふ言葉はなかつたが、只今侯爵のお話のありました通り、全く今日は高天ケ原に神が集つて、是から愈々世界を造つて行かうと云ふのだ、己れは自ら神の一柱を以て任じて居る。君は階級制度を破りたいと云うて、故郷を出た身ではないか、それは徳川慶喜公の知遇を受けたから、之に報いたいと云ふ観念は宜しい、宜しいけれども、併し其初めは国家を憂ふる観念から家を出て、さうして今日は先づ、君方の最初希望した通りの世の中が造り成せたのだ。故に其仲間に這入つて共に力を尽せと云ふのに、何か変に拗くれて、私には其力が無いとか、或は義に於て快くないとか云ふのは、日本の見方がマルで間違つて居る。力が無いと云ふが、然らば其力のある者が何処にあると思ふか、何処にも無いのだ。誰も彼も、皆知らぬ事をやるのだから、其処に至ると、君は力が無いと云ふけれども、僕も矢張無いのだ、そこが即ち神だ、此処で神集ひに集つ
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て、神議りに議つて、さうして神の宮座を建てると云ふのだ、君も之に任じてやるが宜いではないか。第一君は実業界に力を尽して見たいと云ふけれども、未だ今日君が直さま実業界に力を尽すことが出来ると思ふか知らぬが、それは無理ではないか、どうしても財政と経済と云ふものは、相関聯して進んで行かなければならぬ。今大蔵省の有様がどうなつて居るか、どうにもなつて居ないぢやないか、此形を造らぬで、経済の方に力を尽すと云ふのは本を計らずして末を考へると同じやうなものだ。先づ水源を清めなければ清い流れを見ることは出来ぬ道理ではないか、是を以て私はどうしても君の心得違を説諭すると共に、君の留任を厚く望むのであるから能く考へて見るが宜からう。先づ私の辞表をお止めなさる大趣意は左様でありました。屡々愚見を申上げた末に、今の鉄槌を頂戴して少し閉口した。能く考へて見ると如何にも仰せの通り、是はどうも失望しては宜くない、どうも命に従ふ外なからう、斯う考へましたから、翻然と志を改めまして、誠にお諭しの次第は能く解りましたから、今迄申上げました事を取止めまして、お役に立たないでも犬馬の労を尽して見やうと思ひますと云ふことを申上げた。其時の御訓諭は、今でも聊かも忘れませぬ。侯爵も御記憶で、あれは斯う云ふ趣意であつたと仰しやる其お言葉は、矢張父から言はれた言葉と同じやうに、私の終身忘れることの出来ない言葉であるのであります。爾来侯爵のお身柄は、多く政府に身を置き政治に心を傾けてござる、私は前に申すやうな意思から、明治六年に実業界に身を移して、政治の関係を全く離れまして、自ら境遇を異に致しましたから、お親しい事は五十年前と変らぬと思ひますけれども、境遇を異にします所から、或は御意思に背いた事があつたかも知れませぬ。又お親みも、さう屡々相接し上げなかつた事も無いとは申せませぬが、併し其当時の侯爵の御諭示は深く肝銘致して、今も尚能く記憶致して居ります。是れ以て今に忘るゝことの出来ない一つでございます。更に古人に対して申上げるは如何かと思ひますが、此外に私は先輩として、井上さんと伊藤さんに矢張忘れることの出来ない一・二のお話がございます。お出のないお方を彼此と申すが善いか悪いか分りませぬけれども、終身忘れ兼ると云ふことに就ては、矢張其一人でございまして、玆に併せて申述べて置かうと思ふのでございます。大蔵省勤務中僅に五年ばかりでございましたが、其初めは多くは先輩の大隈侯爵の御指揮の下に働きましたけれども、明治四年から侯爵が内閣へお這入りになつて、大蔵省の事務は井上さんが専ら任ずるやうになつて、私は勿論大蔵省の官吏たる所から、其頃からして多く井上さんの贔屓を受けて働きました。是が丁度二年ばかりの間でございます。明治四年の冬から、明治六年の春までゝございます。而して丁度明治六年に井上さんが大蔵省を辞しますときに、私も共に辞した。而して此辞し方は丁度其当時は大隈侯爵は朝に在らせられましたが、特に私は別に、一通の手紙を以て侯爵に対して、井上は内閣に対して、不満を抱いて辞しましたけれども、渋沢は左様な地位がございませぬからさう云ふ趣意ではないので、即ち前年、実業に尽したいと思うた事を此機会に尽さうと思ふ訳でございますから、どうぞ此分界をば、能く
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お見分けを戴きたうございますと云ふことを、明治六年五月三日《(四)》に辞表を出しましたが、其月末に、日は覚えませぬが、一書を呈して置きましたのでございます。故に、それからして私は、先刻も佐々木さんから段々お話もあつた第一銀行を起すことに従事致しました。所が今日は、第一銀行も実に盛大な且つ鞏固なる銀行になりましたけれども此盛大鞏固になつたのは、寧ろ大正五年に私の職を引いた後に大きくなつたと申上げて宜いので、渋沢の働きは甚だ歳月は長いが力は細いと申上げなければならぬ。殊に其初めは実に脆弱なもので、殆ど何時倒れるかと云ふやうな心配が多かつたので、是も忘れも致しませぬ、明治七年に小野組の破産の場合に、殆ど私はどうしやうかと思つた。実業界に一つ力を入れて、どうか此日本の商工業の事物を進めて見たいと思うて此処まで遣りかけて見たが、之が抑々私の誤りであつた。迚も自分には遂げ得られぬわいと云ふやうな観念を起したのであります。三井と小野と此両家の力に依つて立つた第一銀行、其一つの小野組が破産すると云ふ場合に至つたのである。第一銀行は殊に一年ばかりは、小野組の殆ど利用する所と相成つて居つたからして、之が倒れると第一銀行も共に倒れざるを得ぬのであります。丁度其時に井上さんは、未だ職を引かれたなりで閑散の身の上であつたやうでございます。突然一日私の未だ兜町の前の借家に住つて居る時分に――能く其時分には遊び歩く間柄でありましたから、今日は其処らへ行つて遊ばうではないか、船宿から船を言付けて、八百善に連れられて緩りと食事をした後で、何か自分は多少心に心配があるのに頻に遊興をして、其晩になつて、君此後をどうする積りか、愚図々々すると銀行は倒れてしまふ。倒れた後で君は実業界に立てると思ふか、之を防ぐにはどうしても決断する外ないではないか、其決断にはそれそれの方法があるであらう。若し其覚悟なら私も力を添へてやらう、云ふやうなことで、大層力添をして呉れたのであります。是等の方建に就ては、色々紆余曲折もございますけれども、斯かる場合に其手続を申上げる必要もございませぬ。殊に又それが左様に秘密と云ふ程でもなかつたのですが、此故侯爵の鼓舞作興が、私をして成程是は御尤だ、唯落胆をして居る時機ではないと云ふ心を大に起さしめた。それまでは余りお親しうもせず、銀行の事業などに就ては時々に小言ばかり言ふお人で、煩さいとばかり思つて居つたが、其時の心入りは洵に深切なお方と思うて、深く敬服したのであります。是も私が今も尚忘れることの出来ない一つでございます。是から、大分歳月を隔つて、多分明治十五・六年頃でありましたらう、尤も伊藤公爵とは丁度大蔵省に大隈侯爵は大蔵大輔、伊藤さんは大蔵少輔でお出の頃から、私は大蔵省に出てお親みを受けましたから、至て眤懇の間でありましたが、併し境遇を異にして、或は合ひ或は離れ――離合常なくして居る間に、どう云ふ事柄であつたか、或る事業に就てゞございます、益田君と共に出て頻に或向の処置に対して、政府の仕向けが其意を得ぬ、又其向の働きがどうも国家的でない、云ふ事から大に政府の処置を誹謗して、自己の希望を進言したことがあります。此時に又伊藤さんが、大分私等両人に申さば訓戒されたのであります。訓戒と云ふか或は意見を述べると云
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ふか、どうも今日の実業界の事柄が、兎角相論ずると他を誹謗し自己を押立てると云ふ弊害が多い。諸君――と云ふ中にも両君などはさう云ふ筋でなく、所謂正しい道を歩み世の模範として事業をやる人々と希望して居る、然るに今の言葉は矢張世間普通の他を誹り自分を挙げると云ふ方の側である。斯の如きは真正なる此実業界を指導誘掖する人の言ふことゝは思へぬ。政治界と云ひ実業界と云ひ、兎角に自己を挙げたい為めに、他を貶すると云ふのが常であるが、是は決して君子の行動ではないと自身は深く思うて居る。実業界と雖も、是非さうありたいと思ふ。其事柄に就ては或は然らんけれども、其事を聴く聴かぬは第二に措いて、今のやうな主義に依つて、諸君の如き幾らか世の模範に立たうと云ふ人が、所謂蝸牛角上の争をすると云ふやうであつては、此世の中の進歩は思ひやられる、云ふ趣意を以て訓戒をされたのであります。果して訓戒された総ての事が皆敬服すべきであつたか或は其事は寧ろ政治界あたりに吾々が御返戻申す言葉であつたかも知れませぬが、併し其言はるゝ所は丁度今大隈侯爵が先程例に引かれました曹操の荀彧に対する言葉と同じやうに、其言葉を以て其人は棄てられぬと思はねばならぬのでございます。而して此事は真に過つた、自分が愚かなものであつた、斯かる心懸を以て世に臨むのは甚だ宜しくないと、平素自ら思ひつゝも、而も伊藤公のやうなお方から斯様な訓戒を受けた、其訓戒を受けたのが腹が立つではないが、自ら足らぬ所を深く思はねばならぬと悔ひまして、其以来今申上ぐるやうな主義を以て事に臨み、或は人を誹謗したことは無いと思ひます。詰り孟子の愛人不親反其仁。治人不治反其智。礼人不答反其敬。行有不得者皆反求諸己と云ふ言葉がありますが、此孟子の言葉を真に感得するならば、今申すやうなる事柄に就きまして己れの求むる為めに人を誹ると云ふ、今日の政治界などは、伊藤さんなどの亡くなられた為めか知れませぬが、兎角さう云ふ弊害が多いやうに見えます。併し其境遇になつたら是も御尤か知れませぬから、敢て他方面の事を誹りがましくは申しませぬけれども、兎角さう云ふ風習が政治界に実業界に免れぬやうに思ひます。此伊藤さんの誡めは私は今も尚忘れることが出来ませぬ一つでございます。
唯人に接触して斯かる事柄があつた、斯う云ふ事があつたと云ふ事を申上げたに過ぎませぬので、自己の観念として何等此処に申上げる程の事はございませぬが、丁度先刻佐々木さんからお述べ下すつたお祝辞の中にも、大正五年から方向を転じて今日の境遇に居り、尚行末も益々勉めて、唯単に日本の為めばかりでなしに、世界に対して尽力するが宜からうと云ふやうなお勧めの言葉は、洵に有難く感佩致しますが、唯大隈侯爵が、渋沢は二つ私より下だが更に未だ精力はそれ以上に大にあると仰せられたのは、洵に有難うございますが、今日はもう殆ど大倉さん・大隈侯爵のやうな方々がお出になると、私は殆ど顔色なし、此お二人を除くと、時々患つても未だ八十の老躯を提げて此処に出てお話が出来るから申しますが、斯の如き両公の前では近来度々患らうて、自分の身を深く恐縮致すのでございます。さりながら今の侯爵からのお言葉、又阪谷男爵のお話、又佐々木君からの祝辞の御趣
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意に対しても、私は到底長持はしないから、成べく太く短くと考へて居つたのでございますが、それは心得方が悪かつた。是から先は成べく細く長く――養生を致して長い間の御奉公を致して、諸君の為めに何か裨補する事を勉むるやうに致したいと思ひます。重ね重ね竜門社員の皆様が、斯くまで私をお愛し下され、斯くまで敬し下さるは洵に感佩に堪へぬ所でございます。其渋沢は今申上げましたやうな生育であつて、斯う云ふ事柄が多少私の身を或は試練した場合もございませう、薫陶した場合もございませう、又錬磨した場合もありませう、是等のお助けに依つて今日あるのでございますから、此機会に於てズツト昔の故郷の友人若くは父、更に現在居らつしやる大隈侯爵、其他伊藤・井上諸先輩の薫陶を深く謝上げまする。併し斯様な先輩の薫陶を謝しますると云ふことは、未だ私が大分若いと云ふことを証拠立てる訳になるのでございますから、是から先をどうぞ諸君能く御覧なすつて下さい、大に活動するかも知れませぬ。之を以て御礼と致します。
                          (拍手)


中外商業新報 第一二四五八号 大正九年一一月二四日 渋沢子陞爵祝 竜門社秋季総会 大隈侯爵の演説(DK430003k-0005)
第43巻 p.57 ページ画像

中外商業新報 第一二四五八号大正九年一一月二四日
    ○渋沢子陞爵祝
      竜門社秋季総会
      大隈侯爵の演説
竜門社第六十四回秋季総集会は、廿三日午後二時より、築地精養軒に於て開会、六時過ぎ盛況裡に散会したり、評議員会長阪谷芳郎男の開会の辞に次で、渋沢青淵先生八十寿並に子爵陞叙の祝賀会に移り、第一銀行頭取佐々木勇之助氏は祝賀会々員総代として祝辞を述ぶ
   ○祝辞前掲ニ付キ略ス。
大隈侯爵は次で渋沢子爵との交遊五十年を回顧すとて、興味ある記臆を辿り、今尚ほ親交替るなきを説きたり、其要に曰く
   ○前掲ニ付キ略ス。
渋沢子爵は大隈侯演説の後を受けて、子爵八十年間の既往に溯りて、平生忘じ難き数々の中の主なるものとして、順次其記臆を辿り、余生は新に細く長く暮す覚悟を為せりと述ぶる所ありたり、大要に曰く
   ○前略ニ付キ略ス。
阪谷男より当祝賀会に於て記念書庫(目録)を渋沢子爵に贈呈ありたるに関し、補足的に該記念書庫は飛鳥山なる子爵の邸内に建設し、委員を設け維新前後の珍書並に実業関係の書類を博く蒐拾するの用意也と述ぶる所あり、畢つて別室に立食の宴を開き、大倉男の発声にて渋沢子爵の万歳を三唱したり、当日臨席の主賓・陪賓と来会員の主なる諸氏左の如し○下略
   ○本款大正十四年十月二十五日及ビ同十五年十一月七日ノ条参照。


竜門雑誌 第三九三号・第六四―六五頁大正一〇年二月 ○青淵先生八十寿並陞爵祝賀会録事(DK430003k-0006)
第43巻 p.57-59 ページ画像

竜門雑誌 第三九三号・第六四―六五頁大正一〇年二月
    ○青淵先生八十寿並陞爵祝賀会録事
      一、醵金
一月十三日以後二月十日迄に醵金申込ありたる分左の如し。
 - 第43巻 p.58 -ページ画像 
一金参千円也     東京石川島造船所
一金千五百円宛    磐城炭礦株式会社 尾高幸五郎殿
一金壱千円宛     東京印刷株式会社 星野錫殿
  浦賀船渠株式会社 渡辺嘉一殿    株式会社帝国ホテル
一金五百円宛     小西安兵衛
           小西喜兵衛殿   和田豊治殿
  日本煉瓦製造株式会社
一金参百円宛     西村直殿     内田徳郎殿
  渋沢元治殿
一金弐百円宛     昆田文次郎殿   太田三郎殿
  鋳谷正輔殿    今岡純一郎殿   伊藤祐穀殿
  滝沢吉三郎殿   中村光吉殿
一金百五拾円宛    畑茂殿      水野錬太郎殿
  堀江伝三郎殿   尾高豊作殿
一金百円宛      永井岩吉殿    笠井愛次郎殿
  伊藤好三郎殿   野崎広太殿    戸村理順殿
  江藤甚三郎殿   木村清四郎殿   犬丸鉄太郎殿
  高橋波太郎殿   林愛作殿     川上賢三殿
  田中楳吉殿
一金五拾円宛     佐藤正美殿    白城定一殿
  斎藤章達殿    松井方利殿    野村新殿
  高橋俊太郎殿   渋沢長康殿    田島錦治殿
  内藤正太郎殿   佐藤毅殿     皆川巌殿
  古田錞治郎殿   小林武次郎殿   中村歌次郎殿
  鈴木旭殿     和田義正殿
一金参拾円宛     北村耕造殿    金倉栄吉殿
  佐々木保三郎殿  小林武之助殿   木本倉二殿
  前川益以殿    黒川武雄殿    木内次郎殿
一金弐拾五円宛    山本松子殿    村上節三殿
  西田敬止殿
一金弐拾円宛     佐藤哲殿     鈴木源次殿
  本間譲三殿    古作勝之助殿   池田寅治郎殿
  石田友三郎殿   中根直記殿    大井幾太郎殿
  武沢与四郎殿   原田松茂殿    粟飯原蔵殿
  浦田治平殿    原田貞之介殿   芝崎徳之丞殿
  二宮祐造殿    高橋録太郎殿   北川幸吉殿
  長谷井千代松殿  峰岸盛太郎殿
一金拾五円宛     池本純吉殿    高橋光太郎殿
  尾高喜一殿    入谷春彦殿    丸山誠之助殿
  吉岡慎一郎殿   武藤忠義殿
一金拾円宛      久住清次郎殿   宇野武殿
  藤井甚太郎殿   錦戸綗殿     西正名殿
  鷲尾貞蔵殿    芝崎猪根吉殿   中村習之殿
  田子与作殿    木下憲殿     佐野金太郎殿
  長宮三吾殿    鈴木豊吉殿    小倉槌之助殿
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  堀口新一郎殿   平塚貞治殿    杉山斎五殿
  松園忠雄殿    山本鶴松殿    佐藤清次郎殿
  大塚透殿     水辺喜一郎殿   上原久二郎殿
  重野治右衛門殿  岩崎寅作殿    黒沢源七殿
  森由次郎殿    矢崎邦治殿    浦田治雄殿
  辻友親殿     野口米次郎殿   宇賀神万助殿
  浅見悦三殿    野村小一郎殿   井上権之助殿
  近藤竹太郎殿   石井与四郎殿   大木為次郎殿
  小川銀次郎殿   秦乕四郎殿    小沢清殿
  御崎教一殿    川西庸也殿    大畑敏太郎殿
  吉岡俊秀殿    紅林英一殿    安井千吉殿
   合計 金壱万八千六百七拾円也
 累計 金拾六万拾六円也


竜門雑誌 第三九五号・第四九頁大正一〇年三月 ○青淵先生八十寿並陞爵祝賀会録事(DK430003k-0007)
第43巻 p.59 ページ画像

竜門雑誌 第三九五号・第四九頁大正一〇年三月
    ○青淵先生八十寿並陞爵祝賀会録事
      一、醵金
  二月十二日以後三月一日迄に醵金申込ありたる分左の如し
一金弐百円也     坂野新次郎殿
一金百五拾円也    笹沢仙左衛門殿
一金百円宛      書上庸蔵殿
  菅井蠖殿 (前号同氏分醵金削除訂正ス) 小林竹四郎殿
一金五拾円也     上領純一殿
一金弐拾円宛     二宮豊太殿
  武藤忠義殿(前号同氏分醵金削除訂正ス)
一金拾円宛 大沢強殿 大本計吉殿
  合計金七百六拾円也
 累計金拾六万七百参拾壱円也


竜門雑誌 第三九五号・第四九頁大正一〇年四月 ○青淵先生八十寿並陞爵祝賀会録事(DK430003k-0008)
第43巻 p.59 ページ画像

竜門雑誌 第三九五号・第四九頁大正一〇年四月
    ○青淵先生八十寿並陞爵祝賀会録事
      醵金
 三月二日以降四月十二日迄に醵金申込ありたる分左の如し
一金五百円也 下郷伝平殿
一金参拾円也 久万俊泰殿
   合計金五百参拾円也
 累計金拾六万壱千弐百六拾壱円也