デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.244-247(DK430025k) ページ画像

昭和2年11月2日(1927年)

是日、当社講演会、東京銀行倶楽部ニ於テ開カレ、滝精一ノ「東西絵画の比較」ト題スル講演アリ。

栄一出席シ、有志晩餐会ノ席上所感ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第四七〇号・第八九頁昭和二年一一月 本社講演会(DK430025k-0001)
第43巻 p.244 ページ画像

竜門雑誌  第四七〇号・第八九頁昭和二年一一月
 本社講演会 十一月二日(水)午後五時、東京銀行倶楽部に於て、本社講演会を開く。青淵先生始め会員百五十余名出席し、阪谷理事長の挨拶に次ぎ、文学博士滝精一氏の「東西絵画の比較」と題する、約二時間に亘る講演あり、午後七時閉会したり。
 本社有志晩餐会 講演会終了後、引続き同所に於て本社会員有志晩餐会を開く。来賓青淵先生・滝博士を始め会員七十余名出席し、席上阪谷理事長の挨拶並に青淵先生の所感ありて午後九時過散会したり。


竜門雑誌 第四七一号・第一〇三―一〇六頁昭和二年一二月 ○青淵先生説話集其他 竜門社晩餐会に於て(DK430025k-0002)
第43巻 p.244-246 ページ画像

竜門雑誌  第四七一号・第一〇三―一〇六頁昭和二年一二月
  ○青淵先生説話集其他
    竜門社晩餐会に於て
 久々で竜門社の晩餐会に出席しまして、皆様にお目に懸る事を得ましたのを、頗る愉快に存じます。滝博士から先刻、殆ど宇宙的の絵画の変遷の状態に就て詳しくお話下すつたことは、洵に私共趣味深く感じました。私共能く分りませぬけれども、大に敬服致して、成程さう云ふ有様であるかと云ふことを感ぜざるを得ませぬ。それに就て、最終に阪谷理事長から、現在に於ける経済界ばかりでなく、社会或は政治・学問、総ての方面に、丁度滝先生の絵画の有様に因んで、さあると共に一方には、斯く望むべからざる有様が段々に伝播することがあると云ふ、殆ど慷慨的訓戒のお話がありました。私は寧ろ其絵画の方の分らぬ代りに、阪谷男爵の憂慮せられる事は、更にもう一層憂慮する一人故に、深く注意して承り、諸君と共に味はねばならぬと思ふのでございます。さう申す私も、集りのときには必らず洋服を著て、殆ど六十年此洋服を何時も変へませぬ。私はフロツクコート以外の服を持つて居りませぬ。たつた一つで、能く長年間に合はせると言はれま
 - 第43巻 p.245 -ページ画像 
すけれども、たつた一つではございませぬ。著替へは持つて居りますが、此著物ほか持たぬのであります。更に昔を考へると、医術に就ては私は深くは知らぬけれども、西洋医術が必要であると云ふことは、欧羅巴へ行く前に思ひました。更に一橋の家来になつて、慶喜公の守衛総督と云ふ位置を大に拡張するには、兵力が無くてはならぬ。斯かる乏しいお身柄では、迚も京都の守衛は出来ぬと云ふ所から、兵力を造ると云ふ事に対して、新参ながら力を尽して見ようと思うて、歩兵組立と云ふ事に就て尽力しました。それは慶応元年、私が二十六歳の時でありました。其時に元来欧羅巴嫌ひであつたから、兵を組立てると云ふことには、先づどうしても鎧兜で槍・長刀を持つて居る兵隊でなければ相応はしからぬ訳であるが、玆にひどく苦悶をしたのです。と云ふのは、それで以て果して今日の役に立つか立たぬか――洋式に則つて所謂三兵、歩・騎・砲、之を三兵と称へました。其兵隊を組立てるか、或は鎧兜の軍隊を造るかと云ふことに就て――青年ながらに人にも聞き、自問自答して、到頭是だけは矢張医術を外国に仰ぐと同様に、良いものは採らなければならぬ。唯々喰はず嫌ひは間違つて居る。是から先は戦はどうしても銃砲の戦になるであらう。果して然らば、鎧兜の戦は間違つて居るであらう。欧羅巴式の兵隊を組立てると云ふことに覚悟せざるを得ない。尤も其方が組立て易かつた為めでもありませう。丁度其年に、関西の方の領分を廻つて、一大隊の兵を造つたと云ふことは、其ときの強い覚悟が其処へ現はれて来て、大に一橋さんから賞讃を得て、一級上進したと云ふやうな事もございます。之を強て言ふならば、西洋に学んだ方である。其後海外へ参りましたからして、又幾分の学ぶべきものがありました。縦令短かい時間でも是は感心だと思うたのは、役人と普通人民との間柄です。日本の其時代とまるで打つて変つて居りました。実例を言ふと、民部公子の教育の世話役をする為めに、ナポレオンから附けられたコロネル・ウイレツトと云ふ人は、騎兵のコロネルであつた。それから俗事の世話をして呉れる日本からコンシユール・ネゼラルを頼んであつた、フロリ・ヘラルドと云ふ人がありました。是は能く公子の世話をして呉れましたが、其有様を直接して見ますると、其二人の間が決して役人が威張るでなし、町人が卑下するでもなし、善いと思ふ事は、お互に一向遠慮なく話し合ふ所が、日本の当時の有様とまるで違つて居る。日本の此時分の有様は、役人の言ふことはもう絶対に服従せざるを得ぬと云ふやうな有様であつたから、此風習はどうしても直さなければならぬと思うた。所が遂にそれだけの事は、仏蘭西に参つて見ますと、私の思うた通りに相違なかつた。果して其事が、私一人で直し得られる訳ではございませぬけれども、其翌年帰つて参りましてから、丁度御維新時代で御座いましたから、先づ其主義を以て進めて行きたいと思うた。是は詰り申すと、其当時の日本の風習を、寧ろ西洋に引換へたと私自身は言はなければなりませぬ。然らば先づ一身の身体なり、若くは軍隊なり、其他、今の実業界、若くは政治界に、或事柄に就ては海外に模倣したのであるから、お前は此上もない模倣家である、唯々百事是れ西洋の糟粕を舐めて満足するかと、斯う若しお問ひがあるなら
 - 第43巻 p.246 -ページ画像 
ば、それは大なる間違ひであると、斯う申上げたいと思ふのでございます。殊に先刻も、阪谷理事長が頻に現在の有様の、所謂此模倣の弊害を斯くまでになるものと恐れると云ふ、滝先生の絵画に就てのお話に因んで、慨歎されましたが、私も真にさう思ふのでございます。己れ自身が或必要のものは多少真似たとは言ひながら、嫌なものは排除したが宜からうと云ふ其私の選択が、果して正鵠を得たか誤つて居るか分りませぬけれども、学んだ事もあるが、学んではいかぬと思ふ事も亦、大にあると思ふのでございます。或は犠牲的観念であるとか、道義の念を強くしなければならぬとか、まあ第一には親に対し、君に対し、師に対し、先輩に対しさう云ふやうな者に対して、尊敬の観念のあると云ふことは、決して西洋にも無いではないが、ちよつと表面的の有様から言うと、それらは殆ど無視するやうな事態にまで、悪弊が段々進んで行くやうである。是等は皆弊害と言うて宜いので、さうして其弊害を模倣して、皆我美風を忘れる、と云ふやうな有様に、事態が行き走るやうであります。其点に就て、阪谷理事長が、頻に皆様に、此弊害は少くも、竜門社員は十分注意して直さなければならぬではないか、斯う云ふことを能くお戒めのやうでありましたが、私も全く御同感で、其点に就ては、少くとも吾々竜門社員は、古へを今に為すやうにしたいと思ふのでございます。甚だ諧謔のやうなお話でありますけれども、私は青年のときに、安積艮斎と云ふ人の著述と言ふ程のものでもありませぬけれども、艮斎閑話と云ふ本がありました。東京へ出た序に、それを買つて喜んで読みましたが、真中に長崎人のパツチと云ふ標題がありました。随分おかしな話ですが、成程悪くすると、長崎人のパツチになる弊害は、もう日本の現在の青年諸君に間々あるだらうと思ひます。それは斯う云ふお話であります、長崎の人が東京に来て居る内に、丁度冬であつた、外へ出掛けようとすると、著物が纏はつて誠に困る、併し掲げれば足に風が当つて寒い、困つた事だと思うて見ると、東京の人はパツチを穿いて居る。それですたすた、と歩いて行くのを見て、是は成程結構なものだと思うて、遂にパツチを誂へた。長崎の人は、それから其パツチを持つて長崎へ帰つた。もう夏になつたけれども、さてこそと思うて、長崎の町でパツチを穿いて歩くと、大変に迷惑なものである。斯んな詰まらぬものを穿いて、東京の人は愚だと言つて、此パツチをひどく厄介なものにした、所が焉んぞ知らん、東京人は其時分にはパツチは穿かなかつた。誠にそれは詰らぬ譬喩のやうでありますが、今日はどうも、日本の人は長崎人のパツチを穿いて居る人が余程多いやうですから、せめて御同様は、此パツチだけは穿かぬやうにしたいと思ふのであります。艮斎閑話の戒めを、此処で皆様にお伝へ申して、何卒其パツチを穿くことだけはないように御注意ありたいと、只管希望致すので御座います。(十一月二日、銀行倶楽部にて)


(増田明六)日誌 昭和二年(DK430025k-0003)
第43巻 p.246-247 ページ画像

(増田明六)日誌 昭和二年     (増田正純氏所蔵)
○上略
十一月二日 水 晴 出勤
 - 第43巻 p.247 -ページ画像 
午後四時半、竜門社評議員及理事会ニ出席した
本年秋季総会・入社申込者諾否・青淵先生米寿祝賀の件ニ付き協議した五時より、文学博士滝精一氏の西洋と東洋との絵画の比較と云ふ論題ニて講演があつた
今夕は青淵先生久方振りニ列席して、晩餐会席上一場の演説を試ミられた