デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.249-257(DK430027k) ページ画像

昭和3年3月6日(1928年)

是日、当社講演会、東京銀行倶楽部ニ於テ開カレ、伊東忠太ノ「日本建築の今昔」ト題スル講演アリ。

栄一出席シ、有志晩餐会ノ席上所感ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第四七四号・第六二―六三頁昭和三年三月 本社講演会(DK430027k-0001)
第43巻 p.249-250 ページ画像

竜門雑誌 第四七四号・第六二―六三頁昭和三年三月
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 本社講演会 三月六日午後五時より、東京銀行倶楽部に於て、本社講演会を開く、出席会員青淵先生外百二十余名、講演者並に演題は左の如し。
 日本建築の今昔    工学博士伊東忠太氏
約一時間半に亘る博士の講演は、会衆に多大の感動を与えたり。
 本社会員有志晩餐会 三月六日右講演会終了後引続き、同所に於て会員有志晩餐会を開く、来賓青淵先生・伊東博士を始め会員八十余名出席し、席上青淵先生、去四日参観せられたる水戸烈士遺墨展覧会に関する有益なる所感談(巻頭言参照)ありて八時三十分散会したり。


竜門雑誌 第四七四号・第六―一七頁 昭和三年三月 水戸志士遺墨展覧会を見て(DK430027k-0002)
第43巻 p.250-257 ページ画像

竜門雑誌 第四七四号・第六―一七頁 昭和三年三月
    水戸志士遺墨展覧会を見て
 竜門社の総会に毎会出たく思ひますけれども、或は出兼ねることもあつて、屡々皆様にお目に掛かる機会を得ないのを残念に思ひます。今日は幸に多数の方々にお目に掛かつたことを深く喜びます。先刻伊東博士から、建築問題に就ての詳しい御話を拝聴しまして、諸君と共に感謝致す次第でございますが、私にも久々でお目に掛かつたから、何か一言述べよと阪谷男爵からお求めであります。併しどうも之と申して申上げることもございませぬ。たゞ丁度一昨日青山会館で、徳富蘇峰先生のお催しで、水戸の志士遺墨展覧会がありまして、水戸の人人上下おしなべてと申して宜しいでございませう、威、義、二公からして現代までの君公、若くは例の立原とか、藤田とか、戸田とか、其他の有名な志士の作品でしたが、其中には種々な情味を持つた遺墨が沢山ありましたので、それを拝見致しまして、何だか若返つたやうな気がしたから、之に就て一・二追想談があるのであります。旧い私の感想を、今日の時代に述べるのは、余りに相応しからぬやうでありますけれども、併し水戸の学問が如何に進み、どう変じて行つたかと云ふことは、今日も尚ほ或場合には御研究下さるのが、決して無用の務でなからう位に思ふのでございます。一昨日遺墨を拝見し、其種々なる文書に就て回想しましても、或は総てが皆宜しきを得た精神に向つたとは申せぬか知れませぬが、精神一到と申すやうな点から考へると如何に我帝国の志気を鼓舞したか、又尊王主義を進めたか、此国体に対する強い観念を起さしむるに稗補したかと云ふ点に就ては、昔自分等の思うた時と一向変りない、否、大いに進んだとまで申上げたいやうに思ひますので、自身の身の上話と共に、一言申述べて見たいと思ふのでございます。
 竜門社の諸君は百も御承知で、諄々しく申上げる迄もございませぬが、私は埼玉県の八基村に生長した身でありますから、無論学問も出来ませぬでしたが、幸に親戚に尾高藍香と云ふ人が、不思議に記憶の良い人で、特に立派な学問をしたではありませぬけれども、稍々漢学者たり得る位の御人であつた。私よりも十歳の長者であつたから、子供時代からして、之に就て多少の漢籍を学んだのが、私の生ひ立ち頃の有様で、先づ学問と云うては少し烏滸がましいが、兎に角さう云ふ風な趣味を持つたのでございます。尾高が多分十六の年と思ひます、
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例の烈公の鎧猪狩、即ち追鳥狩の行はれたのを、子供ながらに行つて見たことがあるのですが、それより先き、会沢恒蔵の新論、藤田東湖の常陸帯若くは回天詩史とか申すやうなものを、文学上の趣味がある所から、此尾高――私から申せば藍香先生が読んで居り、随つて此水戸学問に心酔して居ましたから、此の時に烈公の追鳥狩を見て、別して之に対して所謂感奮興起し、学問は此処だと云ふやうな感じを持つたのである。而して其の水戸流の尊王主義に強く刺戟されて、どうも武家の専横は其宜しきを得たものではない、徳川の極く身近い位置に居りながら、水戸はあゝ云ふ観念を持つて居る、日本の国家としてはさうなくてはならぬと云ふやうな、尾高先生が感じを起して、私共はそれからポツポツと、碌な筋立つた学問ではありませぬが、国体としては斯くありたい、と斯う云ふやうな感じを持つて居る所へ、丁度私が十五の年でした、嘉永六年コンモンドル・ペリーが軍艦を率ゐて、日本に通商を求めに参つたのが、遂に口広く申さば、天下に大変動を与へた動機となつたのでございます。是から遂に攘夷論が進んで、討幕と云ふやうにまで考へが進んで行きましたのは、もう勢の然らしむる所で、私などはさう云ふ特殊の企てを持つ訳でもなかつたが、併し大きな鳥が飛べば、雀も尚ほ羽搏きをなす例で、私等までがどうかして此政治を引戻すことが出来はしないか、と云ふ様な考を持つに至りました。詰り申すと、水戸が直ちに討幕主義ではなかつたけれども、尊王と云ふ観念の強い所から、自ら大義親を滅すると云ふやうな訳で威、義、二公それから続いて最も其観念の強かつたのが、斉昭と申上げた即ち烈公でございます。それ等に就て、水戸がどうなつた、又憂国の志士がどうしたと云ふやうなことは、私が玆にお話するのは、余り管々しくなりますから、断片的には色々お話がありますが、それは暫く省いて、一昨日青山会館で拝見しました物に就ての観察を申上げるに範囲を止めます。蓋しそれも敷衍したならば、色々広く行き亘つて参る点もないではありませぬが、中々に数多い書類ですから、悉く此点に就て斯う云ふ感想を持つた、此点に就て斯く敬服したなどと云ふことを申上げる程に、精細な拝見は出来ませんでしたが、併し先づ第一に初めに威公と云ふ方、頼房と申して徳川家康公の十四・五人目のお子さんです。御三家の末に列して水戸に封ぜられた、其お子さんが例の世に黄門様と伝へられて居る光圀公、此お人が真に尊王の観念を強く持つたお人のやうでございます。既に一昨日拝見した中にも、真に敬服するのは、大日本史の原稿で、色々書入れられてありますが蓋し彰考館に存して居るものゝ一部分を出されたのでありませう。又此のお方が例の子供を取換へたと云ふことも有名の話です。御相続に関して、我子を高松にやつて、高松のお子さんを本家、即ち自分の御相続にされたと云ふことは、是は事実其通りである。蓋し自分が弟で宗家の相続をしたのが、父の命であるから、自分が悪いのではないけれども、真に心苦しく思召された為である。兄弟間に、又家庭的に、さう云ふ考を持つて居らつしやる位ですから、日本の国家がどう云ふものであるかと云ふことを深く感ぜられて、帝室に対する観念は大義親を滅すると云ふことを、十分に感じて居られたお方のやうに拝見し
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ます。彰考館に今も取収められてあるやうですが、大日本史にちよいちよいとした御書入れがあるやうです。其悉くを拝見したならば尚ほ深い意味が味へるでありませうが、或点には其大義滅親の御趣意までが書入れられてあると云ふことであります。後に徳川慶喜公が――是は極近年の話ですが、故伊藤公爵が慶喜公に、維新の当時の話を聞かれたときに、丁度光圀公の例を引いて答へられたと云ふことを、末段にお話申上げようと思ひますが、それらの有様から見ても、水戸西山公が日本の国体について、如何に重きを置かれたかと云ふことは、私は真に感ずるに余りあると思ふのでございます。
 そこで先づ威公、それから義公、粛公、悉く公と云ふ諡をしました水戸の諡号を悉く覚えては居りませぬが、治保と云ふ方が文公と申しました。之が丁度天明・寛政頃のお方です。それから後が治紀と申して武公、其お子さんが斉脩、哀公と申しました。其弟が敬三郎君と云うた、此方が烈公です。此烈公の相続等に就ては、水戸の一藩に種々なる騒動があつて、例の藤田東湖等は其事に就ては、殆ど一身を賭して奔走した。回天詩史と云ふ有名な作がありますが、其回天詩史に、三決死矣而不死。二十五回渡刀水。と云ふことがあります。其三度死を決するの一つであつたと云ふ位に書いてあります。文公・武公・哀公・烈公、其次が順公、其弟が民部大輔と申して私共仏蘭西にお供をしたお人で、後に相続されて節公と諡された。其他のお方々にも皆公と云ふ諡があります。悉くは記憶をしませぬけれども、先づ其中でも取立てゝ、申せば、今の義公、それから文公、続いて烈公、其他にも相当な賢君があらつしやるやうですが、文学上にも趣味あり、又気節に富んだお方としては、此お三方を挙げねばならぬ。而して今の義公が真に大義名分に明かなお人で、独り水戸の家を興したばかりではない、或点に就ては徳川家に逆つた点もありませうが、真正に日本の国の為になつたお人と云ふたら、先づ義公を推さゞるを得ぬのであります。楠正成の為に「嗚呼忠臣楠子之墓」と云ふ、あゝ云ふ遺跡をお通しなすつたに依つても、大抵お志のある所は分るのであります。それから有名な白河楽翁公を推挙して、所謂寛政の政を起し、長い間ではありませぬけれども、とにかく一改革をさせたのが今の文公、治保と申上げた中々のお方であります。それに続いては多少の癖のあるお方であつたけれども、幕末の外交の問題の起つた色々の混雑の間に、或は賞められ或は罰せられ、それこそ出たり引込んだり幾度もなすつたのが烈公、此烈公と云ふお方は、実にきかぬ気のお人であつて、一家の治め方、一国の支配等に就ては、総て皆完全とは申上げられませぬけれども、併し気節に富んだと云ふ点に於ては、必ずしも義公に劣らぬお方のやうに拝見されます。少し事々しい仕方であつたか知れませぬけれども、例の追鳥狩、即ち前申しました鎧猪狩、其企てなどもどうしても此軟弱の有様では日本は潰れてしまふ、何とかして徳川の政を直さなければならぬと云ふ観念が強く起つて、遂に大層な大仕掛の猪狩をやつた、其猪狩は全く軍事上の訓練と同じやうである。其猪狩の事実が、青山会館の丁度此室位の広さの場所に、ズツと絵巻物にして何十巻と云ふものを続けて詳しく書いてある。中心には烈公、前
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の方には中山であるとか、或は武田であるとか、藤田であるとか、色色な人が或る部分の隊長となつて其行列の有様が中々丁寧に書いてあります。是等は唯々今日から見たら、一種の仰山な慰みの様に見えますが、蓋し時勢に感じて、大いに世の中を警醒なさらうと云ふ御企てに相違なかつたのであります。特に此烈公に対して御輔佐申した人々には、一方には学者的の会沢恒蔵と云ふ人、例の新論などを書いて、大分画策をされた立派な学者であつたやうです。又更に政治に就て御輔佐申したのが、戸田忠太夫・藤田東湖(虎之助)、是は水戸の二田と申しました。戸田に藤田ですから、どちらも田です。就中此藤田と云ふ人が、最も力を尽して烈公を御輔佐申上げました、否、御輔佐と云ふよりも、或場合には幕府から譴責を受けさせるほど、余計なことを申上げて、却て烈公に憂目をお見せ申したと云ふこともあつた程です。誠に優れたお人のやうに思ひます。殊に此人の「常陸帯」などと云ふものは、中々名文で面白く書いてあります。是は一昨日も自筆の本を拝見しましたけれども、悉く読んでも居られませぬ、併し此本は予て持つて居つたものですから、承知して居りますが、其序文と申し中の書方と申し、極く通俗的に而して文才ある人ですから、極く気重く、品の好い、又時勢を適切に穿つて居るのです。又有名な回天詩史と云ふもの、是は其当時人口に膾炙しまして、学生が大抵知らぬ人はない、私もそれ故に此回天詩史だけは、今此処で暗誦してお聞かせ申すことが出来ます。
 要するに一昨日拝見した威、義、二公からして、今申す烈公頃までの長い経過に依つて、水戸に志士は沢山あつたが、日本の士気を鼓舞し、日本の帝室を尊敬すると云ふ観念を、国民全般に起さしめたのは此天保から嘉永・安政に掛けて、或は罰せられ或は賞められ、出たり引込んだりして苦んだ所の烈公を初め、その時の人々の力に依ると思ひますと、一昨日の徳富先生のあの企ては、甚だ意義あることと思うて、心嬉しく拝見致したのであります。出品の中に特に一つ私の身に関したのがありますから序でながらにちよつと申添へて置きませう。藤田東湖の高弟に弘道館の学長にもなつた人ですが、原仲寧、通称を市之進、号を尚不愧斎と云ふ学者がありました。此人の詩文集に、尚不愧斎存稿と云ふものがあります、其中にどんな詩があり、どんな文章があると云ふまでのことは、私能く覚えませぬけれども、書も能く書きましたし、文を能くし詩を巧にすと云ふ中々立派な学者でした。此人は、慶喜公に附いて京都で大分骨を折られた人で、到頭不幸にして刺客の為に殺されましたが、此お人が特に私に書いて呉れた、一つの対幅になつた掛物があります。それが一昨日出て居ました。それは私の身に付いた事であつて、何だか丁寧にお話すると、渋沢が先見の明でもあつたやうに聞えて、如何にも自負するやうな嫌ひがありますけれども、其原氏の書いて呉れた文は八家文にありますが、韓退之の送殷員外郎使回鶻序と云ふ文章であります。是は唐が天下を治めて、方々の国々から皆貢物を納めて臣と称すると云ふことになつた。回鶻と云ふのは何処であるか、私共場所は能く分りませぬけれども、使を送つて唐に対して属国たることを承諾した。それに就て一人誰か遣つ
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たら宜からうと云ふことで、誰彼と云ふ中に皆が阻んで行かないのを其殷員外郎と云ふ人が喜んで受けて行くことになつて、それを韓退之が送るに就て、大層褒めて書いた文章なのです。私に何の縁もないやうなものだが、斯う云ふ関係から、原氏が其韓退之の文章を書いて、私の欧羅巴行を送つて呉れたのであります。前に申す通り、私はヘボながらも攘夷論者であつて、原氏などに会うても、慶喜公がどうも洋癖あると言うて――、私もまだ京都に行つて一年余は外国嫌ひで動もすると排斥論を言ふ方であつたのです。併し段々時勢を観じて見ると唯単にそればかりではいかぬ、我先皇の文物、又皇帝中心の教は、欧羅巴よりは吾国が優つて居ると云ふ様な心地はしたけれども、所謂科学的進歩は大いに彼に学ばなければならぬと云ふ様な観念を起しつゝあつたのです。時勢が色々変化して、慶喜公が将軍になられるに就ては、其時の私の意念などは、もう幕府は倒れるに相違ない、慶喜公は実に御悧巧なお方であるけれども、縦し此痩身代でも将軍になると云ふことだけは多少好い心地であるか、謂はゞそれこそ灯火の消えんと欲する場合に、一時明るくなると同じやうなものだなど言うて、頻に側の方で批評をして居つた。其所へ突然民部公子が、千八百六十七年即ち慶応三年に外国へ使節としてお出になり、それから続いて仏蘭西に五年間留学されるに就て、誰彼と云ふ心配をして、御供にお附き申す人々に、御小姓と云ふのが昔の大名には沢山ありますから、それから五・六人附くが、其外にはない。渋沢は勘定方兼書記と云ふやうなもので申し付けられて行くことに、慶喜公から内旨があつたのださうです。其事は私は知らぬ。行きなりに原氏が相談があるから来いと言ふ。行つて見ると、斯う云ふ都合で君に命ずるのだがどう考へるか、私は内意を伝へるのだ。斯う言はれた時に、私は二つ返事で、それは洵に有難うございます、謹んで命を奉じて身命を賭してなりともお伴を致しませうと云ふことを、実に地獄に仏を見出したやうな気がして喜んだものですから、打進んでお答へした。原氏がちよつと調子違ひに感じて、それは本当に言ふのですかと云ふことであつた。あなたは行けと命ずるのでせう。勿論。それならば私は喜んでお受けするのです。これは少し可笑しい、私は君が嫌だと言ひはしないかとのみ思つて居つた、それで疑惑を持つて問うた。いや決してそんな事はありませぬ。好い加減なことを言つて、後で考違ひであつたとか、又変つた意見でも言はれると甚だ困る、今日は真実のお話であるから、勿論であります。けれども君は今まで始終排外説を主張して居つたぢやないか、是から五年間留学と云ふことに就て、共に行くと云ふやうなことは嫌やだと、ちよつと言ひはしないか、或はさうであつたら、よく御相談しなければなるまい位に思うて居つたに、案外なお答へであるので、私も更に念を入れて尋ねるのだ。そこで私答へて曰く、如何にも私は以前排外説を主張して居ましたけれども、もう去年あたりから、それではいくまいと云ふ考を持つて居る。況や今日公子が行つて五年間学ばれると云ふ、それに使はれると云ふことは洵に私は悦ばしい、申すは甚だ恐入つたことだが、其五年の間に日本がどうなるかと云ふことは疑はれる、私は幸にして生命が全からうけれども、あなた方の
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お身の上をお案じ申す位である、それは姑らく別として私は喜んで行くのでございます。それでは分つた、成程君はどうも兎に角に思慮ある男だ、それでは本当に行くんだね。本当に行くんです、と云ふお話をして別れました。それから出発前になつて原氏がどうも急であるから何にも出来ない、色々考へたが、此韓退之の殷員外――が回鶻と云ふ処へ使節として行くときの序が、丁度君に言うた心持に能く似て居るから、之を書いて上げるから、之を私のそれこそ心入れた文章と思うて、持つて行つて呉れと言つて、これを丁寧に書いて呉れました。それを多年珍蔵して居ますから、一昨日出しましたら、それも陳列せられて居りました。此原氏の書いて呉れたものに就ては、私は深く其当時の有様を思返して、あの時に原氏が斯う言つて、自分は斯う云ふ答をしたと云ふことを考へて見ると、何だか斯う昔懐しい感じがします。而して私の出た後、原氏は到頭刺客の為に殺された。一年ばかり経つと慶喜公は政権を返上せられた。私は仏国から帰つて後も、慶喜公には引続きお親しくしまして、明治三十年には東京へお出になつたので、それから後も更に随分長い間、稍々心行くまでお世話も申上げて今日あるのですから、私は慶喜公に対しては、決して残惜しい事はないと申上げて宜しうございますが、原氏は私が旅立つた後で直ぐ死んだと云ふやうな次第で、誠に遺憾でございます。
 所で前刻お話しました慶喜公と伊藤さんとの対話といふことが、是亦一つのお話です。私は其後駿河から東京へ出て、明治政府に仕へると共に、段々伊藤・井上などの人々と懇親を厚うしまして、時々徳川幕府の人々の事に就て、批評的のお話をしました。私は慶喜公こそ別して深く感服すべきお方であると、自ら偏して居るともなく思うて居つたが、伊藤さんなどは、渋沢は自分の主人だから我が仏尊としと云ふ感じが強いのだと云ふやうに言うてござつたやうでした。殊に政権を返上し、又続いて逆賊と言はれたときに、一途に謹慎恭順を表したことも、真に心から出たことでないが如くに、長州・薩摩あたりの人人が想像されて居つたやうです。併し私はさうぢやありませぬ、あれはあなた方が大層自慢するけれども、若しあのお方の考が変つたならば、負けるか勝つかは分らぬが、一時は日本に大騒動を起させたに違ひない、それを防ぐには是より外ないと考へて、覚悟されたからあの通り為された。取つた方の手柄ばかりではないので、やつた方が却て手柄だつたと言ひたい位に思ふと言ふと、何君がと言うて、いつもあの人達は、私のいふことは、主人の弁護のやうに見られたやうです。然るに或時、何でも有栖川家の外国人招待の饗宴に、慶喜公と伊藤さんと共に招かれて、お客が帰つた後に、対座で暫時話されたことがあつたさうです。其翌日か翌々日、伊藤さんが私に、君、私はどうも慶喜公を少し見損なつて居つた、君が頻に褒めるけれども、何凡庸な、謂はゞほんの好い人位のお方だとばかり思うて居つたが、あれは悧巧なお人だ、実に感心した。何事ですか。いや昨晩有栖川家で丁度外国人の客があつて、私も公も一緒に陪賓で行つて、お客の帰つた後、丁度偶然差向ひになつたから、ちよつと悪いと思つたけれども、併し切込んで聴いて見た、其お答に実に敬服した、一言のお言葉だけれども
 - 第43巻 p.256 -ページ画像 
……ちよつと悪かつたと後では思うたけれどもまあどんな様子かと思うて、悪く言へばお試しに心を聴いて見た。丁度偶然お差向ひで、甚だ失礼な申分でありますけれども、実は政権返上、続いてあの騒動に対して、あなたは謹慎恭順の一途にお出なすつたさうで、少しもお動きがなかつたやうに承知する。どう云ふ御趣意であるか、何か定めてあれには深い御思案があつての事と存じますが、斯んな事をぶしつけに伺ふのは失礼だけれども丁度好い機会ですから、若し御心事をお漏し戴いたら、伊藤大変に有難く思ひます。洵に失礼とは思ひますけれども伺ひますと言つて、私がきつ掛けて見た。すると慶喜公のお答がそれは改まつたお尋ねで甚だ恐縮ですけれども、私は何もそんなに深い思案と云ふものがあつた訳ではございませぬ。唯家法に従つて、家憲の訓を奉じたまでゝございます。慶喜は別に思案はございませぬ。斯う申すと何だか事々しいやうであるけれども、先祖の光圀と云ふ人が、尊王主義の強い人であることは御承知の通りである。私の親が矢張り其観念の強い人である。一ツ橋の養子に行くと云ふのも、畢竟十二代慎徳院様の思召であつたやうですけれども、ひどく恐縮に思つて居つた。丁度私が二十歳の時に、もはや成人したと云ふので、親から小石川の屋敷に呼ばれまして、色々面倒な世の中だが、どうなるか分らない、能く水戸の御趣意だけを十分に心掛けて呉れろと云つて、自分の思案も大抵拵へて居らうが、是から先どうしても色々な面倒が起る、其ときに大義は親を滅すると云ふ位の覚悟がなくてはならぬぞ、と云ふことを言つて誡められた。其遺訓に従つたまでのことでございます、と斯う云ふ答であつた。洵に短い挨拶であるけれども、もうそれ以上のことは誰にも言へない、洵に恐入つた、甚だ失礼な事を伺ひました、思召能く分りましたと言うてお別れした。成程えらいお方だと言うて、伊藤さんがひどくお褒めなされた。丁度一昨日そんな昔の事を思返すと、義公と云ひ、文公と云ひ、又烈公と申し、帝室に対しての観念、国体を重んぜられた有様から、更に慶喜公が末世に至つて汚名を蒙りつゝ、一番切実に国の為にお尽しなすつたことを思ひ、而して私も其御家来分の一人として、多少の御心添を致したことを思ふと、何だか愉快のやうに思ひます。一昨日の感想を申上げればそれだけの事であつて、決して私は慶喜公の自慢話を申上げる所存ではありませぬ。又取繕うて申上げるのでもございませぬ。あの時の政権返上あの時の謹慎恭順を一途に通されたと云ふことに就ては、余程深い意味があると云ふことを、私は追々に近い方面から皆様に知つて戴きたいと思ひます。是は此間も田中智学と云ふ人が参られまして、丁度同じやうな感想を持つて、お前は一番慶喜公に親しい人だからと言うて頻に渋沢の、慶喜公に対する感想はどうかと云ふやうな話から、少しばかり話をして見たのですが、矢張りあの人などもよく見て居るやうです。それなら丁度話が合ふと言ふと、いや合ふ所ぢやない、あなたが足るまいと思ふから、私が附足さうと思つたのです。いやそれには及ばぬ、私も大抵知つて居ると言うて笑つたことでした。
 今の私のお話は、詰り水戸の威・義、二公からして、引続いて立派なお方々の御文書を多く拝見致しましたに続いて、慶喜公のお身の上
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に対しまする事柄に就て、あの当時の感想を思ひ浮べたものですから其事を竜門社諸君に一言御披露を致して置く次第であります。
                  (三月六日、竜門社例会にて)
   ○右ハ栄一ノ行ヒタル演説ナリ。

(増田明六)日誌 昭和三年(DK430027k-0003)
第43巻 p.257 ページ画像

(増田明六)日誌 昭和三年       (増田正純氏所蔵)
三月六日 火 晴                 出勤
○上略
午後、明石氏を第一銀行ニ訪問して、今夕提出する竜門社理事会・評議員会の議案ニ付き協議した
午後四時より、銀行倶楽部ニ於て、竜門社の理事会と評議員会とが同時に開かれた、各種議案が可決されてから、小生より青淵先生米寿祝賀会準備の報告を為した
午後五時から、工学博士伊東忠太氏の建築ニ関する講演があつた、博士は近代の日本の建築家が、徒ニ外国の建築様式を模傚するのを奮概《(慨)》した
講演は一時間半かゝつて、七時から晩餐会に移つた、席上渋沢子爵の水戸烈士遺墨展覧会を観ての感想談があつた
○下略