デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.283-288(DK430032k) ページ画像

昭和3年12月3日(1928年)

是日、当社講演会、東京銀行倶楽部ニ於テ開カレ、尾佐竹猛ノ「慶応三年の遣仏使節に就て」ト題スル講演アリ。栄一出席、講演後、右ニ関スル回顧談ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四八三号・第一〇〇頁昭和三年一二月 本社講演会(DK430032k-0001)
第43巻 p.283 ページ画像

竜門雑誌 第四八三号・第一〇〇頁昭和三年一二月
 本社講演会 十二月三日午後五時より東京銀行倶楽部に於て本社講演会を開く。来会者青淵先生を始め百余名演題並に講演者は左の如し
  一慶応三年の遣仏使節に就て(青淵先生の洋行)
              法学博士 尾佐竹猛氏
約一時間半に亘る詳細なる博士の講演は、博士持参の写真と相俟ちて多大の感動を与へたるが、尚ほ先生も右に関し一場の回顧談を試みられたり。
 本社会員有志晩餐会 右講演会終了後、七時より同所に於て、会員有志晩餐会を開く。来賓尾佐竹博士を始め出席者六十余名、宴後佐々木評議員会長の挨拶及び青淵先生の所感談ありて、九時散会したり。


竜門雑誌 第四八六号・第一―八頁昭和四年三月 仏蘭西時代の思ひ出 青淵先生(DK430032k-0002)
第43巻 p.283-288 ページ画像

竜門雑誌 第四八六号・第一―八頁昭和四年三月
    仏蘭西時代の思ひ出         青淵先生
  本文は昭和三年十二月三日東京銀行倶楽部に於ける、本社講演会にて、青淵先生が尾佐竹博士の「慶応三年の遣仏使節に就て」と題する講演後、当時の有様を偲び、感慨深く講話せられたものであります。恰度最近御静養中のことゝて、遺憾ながら例月の「巻頭言」の御談話を御願ひすることが出来ませんでしたから、これを代へて「巻頭言」とした次第であります。
 尾佐竹先生の今晩の竜門社の講演会に於てのお話は、ちよつと出席の遅かつた為に、初めから悉くを伺ひませぬけれども、先づ大略を拝承しました。実に思出の多いお話でございまして、なんだか大分若くなつたやうな気が致すのであります。或は当時の有様に対して、若くは又其時の政治の体裁、外交の有様等にまでお話が及びましたが、それ等の廉々に付て、私は何等気付きを持つて居りませぬが故に、今の
 - 第43巻 p.284 -ページ画像 
お話を承りながら、想ひ返して見て色々に、斯うでありつらうと感ずるのみで御座います。併し特にさう云ふ調べをして参つたでもなし、左様な考もございませぬから、今申述べるやうな意味のお話は致し兼ねますけれども、唯丁度尾佐竹先生のお話下さつた廉々は、大抵私が親しく見て来た所であります。そして其等の事柄に付て、大体の記憶を持つて居りますので、斯うお話があつたけれども、其時の有様は斯うであつた、或は此お話の事実に対しては斯うではなかつたらうか、と云ふやうな推測を申上げるかも知れませぬが、誠に古い事で記憶が極く鮮かでございませぬから、充分申上げ得ぬかも知れませぬけれども、兎に角実際私が親しく接触した事柄に付てのお話がございましたので、其思ひ出話を記憶のまゝに申上げて見ようと思ひます。
 幕府の末路に、日仏の国交が余程濃くなつたことは、事実のやうでございます。是等の事は私も能く知りませぬし、又知つて居た所が、さう云ふ政治問題に付てのお話はしたくないのであります。甚しきは今お話しの小栗若くは栗本でも、又其前の外国奉行で居られた主立つた人々でも、徳川幕府の位置を、力に依つて維持したいと云ふ観念が強かつたやうでございます。幕末に於ける私共の聞込では、愈々と云ふ場合には、仏国から兵も金も借る案を立てゝ慶喜公に話した所が、慶喜公が断乎として同意しなかつた為に実現しなかつた。そこで幕府としては敗れたけれども、外国との面倒は避けることが出来たと云はれたのは事実であらうと思ひます。是は随分立入つた話で、其時の有様がどうであつたか、何で止んだか、それ等のことを今想像して彼是論究するには及びませぬけれども、博覧会に付て民部公子即ち昭武さんがお出なさつたと云ふことは、唯単に博覧会に日本が所謂大君の代表として人を出したと云ふばかりでなく、仏蘭西との国交の関係が甚だ密であつたからであると云ふ点は其通りであつたやうに思ひます。博士のお話の如く、其代表の位置で出ると云ふ所から、其大君なるものは殿下であるか陛下であるかと云ふことが問題になりました。マヂエステイかハイネスか、此二つの称へに付て度々種々論じたと云ふことを知つて居りました。私共は職分でなかつたから直接知つた訳でなく、外国掛の人々の言ふのを聞いて居つたのでございます。今丁度尾佐竹博士の斯うであつたと云ふお話を伺ひましたに付て、其当時を思ひ返して、成程左様であつたと感ずるのでございます。先刻もマルセイユのグランド・ホテルで撮つた一行の写真を見ましたが、公子の外が多分二十八人であつたと思ひます。二十五人が日本人で三人が西洋人であつたと思ひます。是等の人々は、公子に直属した者と外国掛の人々とでありました。外国掛即ち外国方の側で行かれたのは向山隼人正、是が外国奉行、田辺太一が外国組頭、其他調役が日比野清作、杉浦愛蔵、通訳で保科真太郎・山内文二郎などで、悉くは覚えて居りませぬが、此等の人々が主立つた顔であつたと覚えて居ります。水戸から行つたのは、小姓頭取菊地平八郎・井阪泉太郎、之に附いて加地権三郎・大井六郎左衛門・皆川源吾・三輪端蔵及び服部潤次郎の都合七名でございます。それからお傅役として山高岩見守、此の外に京都から特に公子に附けられた人々があります。之はどう云ふ意味であつた
 - 第43巻 p.285 -ページ画像 
か知りませぬが、人数は三人でありました。先づ木村と云ふ人、此の人は大砲の技術家でした。それから医者で高松凌雲、会計係兼書記で渋沢篤夫太、是が特に京都から昭武さんに附けられたのであります。而して船中に於ても種々面倒がありましたが、先方に著しますと、先刻尾佐竹博士からお話のありましたやうに、刀を差す差さぬ、名前をどうするかなどに付て、物議が中々に多うございました。甚しきは、随分鯉口をきると云ふまでに立至つたことすらありましたけれども、マア左まで甚しいことにならずに済んだのは、多少私が中間に居つて調停したと申しても宜い位に思ひます。それから英吉利・仏蘭西の待遇の仕方でありますが、英吉利の初めの内の所作は余程徳川幕府に対して冷淡なやうに見えましたが、後にはそうでなくなりました。どうしてかく変わつたか、それ等の内情は知りませぬけれども、兎に角変りました。仏蘭西の方で博覧会の場合にモンブランと日本の外国方の人々との引合で、仏蘭西の博覧会係の人と掛け合ひました。外国方の言分はこうでした。日本には幕府と云ふ一国の政府がある。薩摩は其支配を受けて居る。政府ぢやない。唯一箇の藩に過ぎない。其薩摩の出品は個人の出品と同様に取扱ふべきものであると云ふ意味でした、此外国方の主張に対し、薩摩から出て居る人は抗弁して云ふ。さうではない、徳川幕府が特に力の強いと云ふことは事実であるけれども、薩摩を支配して居る訳ではない。薩摩政府としても、立派に一政治を為して居るのだから、幕府と対抗するものだ。薩摩の出品は個人の出品とは違ふ。斯様なことで頻りに争ひました。ところが到頭其説を、仏蘭西人が同意したに付て、田辺太一は其談判に出て、何でも二度目の談判であつたと思ひますが、已むを得ず同意したのであります。其同意したことが江戸の方に分つた為に、外国に於て御役目御免と云ふことになりまして、早く帰つたことすらあつたのであります。其時分に仏蘭西の待遇もさうでしたが、英吉利などでは、其時の幕府に対しては藩の強いものと云ふやうな風に考へて居たやうに見えました。此等のことのあつたのは七・八月頃で猶博覧会開会中の話でありますが其年の十一月か十月か、時をはつきり覚えませぬが、民部公子が伊太利を訪問して、其帰りに英吉利の案内でマルタ島へ巡廻したことがございます。此時にマルタ島に於て民部公子を待遇した英吉利の処置は全くそれこそ、一国の元首の代表者と同じやうでありました。元首の待遇で処置された。其島での待遇は、護衛などは至れり尽せりで、軍艦の人々が大勢来て、一つの夜会を開いて、民部公子に謁見をしましたが、全く君主待遇で、公子は椅子に凭つて居つて、其処へ皆が来て恭しく敬礼をし、手を握つて貰うて帰ると云ふやうなことであつたやうに覚えて居ります。英吉利は吾々の一行を尊敬して待遇して居ると私共は感じた位であります。マルタから英吉利の船で、マルセイユまで送られました。此時に一つの面白い話があります。船の名は何でもインディションと云ふたと思ひますが、航海中に其船のクランク・シャフトが折れて、航行力を失つたのであります。それで船の人々は酷く困つて終ひました。これは何日であつたか日は覚えませぬけれども丁度正午にマルタを出た、其晩の十二時頃の出来事でありました。大
 - 第43巻 p.286 -ページ画像 
に弱つて船長からどうしませうかと、吾々に相談して参つたのであります。蒸汽がきかぬから帆によるより外方法がない。而も風が逆である。帆によるとすると目的地たるマルセーユへは何時著するか分らぬと言はなければならぬ、と云ふ事であります。それで仕方がないから思切つてマルタへ引返して別な船にするか、それにしてもマルタへ行くのにも風が悪いから、大分骨が折れると云ふ訳です。甚だどうも困つた出来事で、船長も何とも其の判断に迷ふた結果、如何したものであらう。引返すかそれとも此儘帆前で行くか、何れにした方がよいか判断して呉れ、それによつて決したい、と船長から申出ました。そこで乗つて居つた連中が何と答へたものかに付て、色々評議しました。私は未だ青年であつたから何とも思案が付かぬで、是はもう斯う云ふ場合にはそんな愚痴を言はぬが宜い、勇気を出して船長に委せるがよい、「あなたが善いと思ふことをおやりなさい、まかり間違つて船が沈んだら是は運命である、さうしたらお互に沈みませう、そんなことに付て吾々にお聴きなさる必要はない」と云ふ意味を答へたがよいと思ひ其の事を話しました、是は私一人が言つたのではなくさう云ふ説の連中があつたのです。さうして到頭それが勝を制し、其通りに答へたところが、英吉利の船長は大変に喜んで――何と云ふ船長でしたか名は忘れましたが、雀躍りをして喜びました。「それでは宜しい、命に賭けても」と言つて帆前で行くことになりました。好い塩梅にそれから丁度順風で、何の事もなくマルセーユへ著きました。唯一日少し揺れて閉口し、さう云ふことを言つた為に余計に船に酔つた、あんなことを言はなければ宜かつたと言うて笑つた位であります。マアそんなことで仏蘭西に帰つて更に英吉利に行つた時も、英吉利に於ける方々の見物なり、謁見の手続なりが全く礼儀正しく、一国の代表者と云ふ待遇であつたやうであります。どうもあの時分の有様は色々評論がありますのでそこらの想像を申上げる場合ではない、と考へますから差控へますが、旅行中の有様を窺ひますると、仏蘭西に於けるナポレオン三世の待遇の仕方なり、其時分の様子を見ますると、所謂其孺子可教矣、公子が仏蘭西の学問をやると云ふなら、大に力を入れようと思ふたやうであります。それから前に日本に公使として来て居たロセスと云ふ人があつたが、此が中々の政治家で、大に力を入れて世話をして呉れると云ふやうな考を有つて居りました。此等の点から考へますると、内輪の騒動に対しては、場合に依つては大に力を添へると云ふやうなことが、場合に依つては必ず無きにしも非らずであつたらうと思ひますが、幸に慶喜公が其事には応じなかつたと云ふことが、果して事実ならば是位天幸はないと思ふ位であります。尾佐竹先生の段々のお話に依つて、六十四・五年以前のことをあれこれ想返して見ますと、何だか、あの時斯んなことがあつた、此時に斯うであつた、と云ふやうな色々なお話をまだ申上げたいこともありますけれども、玆には省略致します。以上申しました英仏の他に廻つた国は、瑞西・和蘭・白耳義及び伊太利の四箇国で御座いました。初の予定では、独逸・露西亜まで一寸巡廻せられる筈であつたけれども、之を果さぬ中に維新の政変が起つたりした為め帰らねばならぬことになり、此等の国へは
 - 第43巻 p.287 -ページ画像 
行かずに終ひました。
 それから何故民部公子がお帰りになつたかと云ふと、あれは維新の政変の為のみではないのです。それは水戸の藩主慶篤と云はれた方が亡くなり、御相続の問題が起つた為めであります。此の慶篤と云ふ方は、慶喜公の御兄様に当る方で御座います。それは兎に角相続問題から、水戸の藩論が烈公に属するのと、今の慶篤と云ふ方の御子さんに属するのと、陳と激との二派に分れて頻に争ふことになつたのであります。丁度激派の方の御主人がなくなつたので、陳派が大に幅を利かせるやうになつた。さうなると其慶篤様の御子さんがあり、正統の相続人があるに拘らず、それを藩主に立てることを嫌ひ、どう云ふ訳であるか知りませぬが、朝廷に運動して蟄居せしめ、慶篤様の弟に当られる民部公子を迎へて、藩主にすると云ふことになりました。そこで民部公子は急に御帰国と云ふことに決まりました。先是、水戸の人々が四人ばかり帰りまして、初めの七人であつたのが三人になつて居りました。これは博士の言はれた通りであります。そこへ持つて行つて更に民部公子は留学すべき筈であるから、仮令国に戦乱があつても、金のある限りは学んで帰らうと云ふのが、吾々の考でありました。民部公子も子供ながらにさう云ふ覚悟であつた。併し今申すやうな訳であつて、民部公子を連帰つて、之を慶篤さんの後継者たらしめようと云ふことから、遂にお帰りになつた。為に予ての学問をして帰らうと云ふ希望を、達し得なかつたのでございます。最初の考は日本大君の命で博覧会に参列して、其後で締盟国に巡廻して交誼を通じ、それが済んだら凡そ五年を目的に仏蘭西に留学すると云ふのでありました。所が国乱に依つて其ことは先づ齟齬しました。併しながら金のある限りは、公子も吾々共も学んで帰らうと云ふことであつた。その時には国乱の為にあわてゝ帰つても公子の為にはならぬから、出来る限り留学を続けようと云ふやうな覚悟であつたのでありますが、今申したやうな訳で民部公子が急に帰らなければならぬと云ふことになりました為に、思ふ通りになりませんでした。其帰らねばならぬと云ふのは、藩の都合からであります。其藩の都合とは何かと云ふと、当主がおかくれになつたに付て、御相続の問題が起り、其御子さんを其藩の議論で蟄居さして、さうしてなくなられた方の弟を藩主に直すと云ふことになりました。其為に民部公子は急にお帰りになつた。是が事実でありまして、水戸の藩論の甚だ穏和でなかつたと云ふことが、自ら知れるやうでございます。先づ其辺の事が多く私の記憶に留つて居ることでございます。まだ随分色々面倒臭いことがありましたが、是は外国方の人々と公子にお附き申した水戸藩の人々との間に起りました。それには飛んだ行違を惹起して、それこそ鯉口を切ると云ふやうなことがありました。併しそれ等は余りお話すべきことではないし、又特に此処にお話すべきことでもありませぬから、詳しく申さぬことに致します。少しもお話の足しにもなりませぬが、尾佐竹博士の段々のお話に関聯して思ひ出すまゝを切れ切れながら申上げた次第であります。
         (昭和三年十二月三日、東京銀行倶楽部に於て)
   ○此時期ニ於ケル当社ノ前掲以外ノ主ナル会合左ノ通リ。
 - 第43巻 p.288 -ページ画像 
     昭和三年十二月三日 理事会・評議員会(午後四時半ヨリ、於東京銀行倶楽部)栄一出席セズ、案件中ニハ祝賀会費追加予算(三千円)承認ノ件、国訳論語及同袖袗型各三百部追加寄贈ノ件アリ、承認サル。
     昭和四年二月四日 講演会・会員有志晩餐会(午後五時―八時半、於東京銀行倶楽部)栄一出席セズ。
     同年三月十五日 理事会・評議員会・講演会・会員有志晩餐会(午後四時半―八時半、於東京銀行倶楽部)栄一静養中