デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.2.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.298-329(DK430039k) ページ画像

昭和6年12月13日(1931年)

是日当社、栄一ノ追悼会ヲ、帝国ホテルニ於テ挙行ス。引続キ同所ニ於テ、追悼晩餐会ヲ催ス。


■資料

竜門雑誌 第五一九号・第一五―六〇頁昭和六年一二月 竜門社催青淵先生追悼会(十二月十三日午後四時より帝国ホテルに於て)(DK430039k-0001)
第43巻 p.298-326 ページ画像

竜門雑誌 第五一九号・第一五―六〇頁昭和六年一二月
   竜門社催青淵先生追悼会
      (十二月十三日午後四時より帝国ホテルに於て)
  十二月十三日午後四時、チラホラと舞つて居た雪は止んだけれ共凍てついた冬空には重い鉛色のちぎれ雲があはたゞしく徂徠して、木枯が激しく吹き荒んで居る。
  骨をも徹するその寒さにもめげず、青淵先生を追慕して集ふ会員で帝国ホテルの演芸場のシートは定刻には埋められて仕舞つた。
  演芸場の入口には受付けを設け、受付けから会場入口迄には係員が立つて、順序書を渡し、案内をして居る。大谷石の間から洩れる電灯の光りが、係員や参列者の肩ごしににぶい光りを投げて居る。
  四時半開会のベルが鳴つて静に幕が左右に引かれる。
  正面には黒幕が下がり、中央黒布で覆はれた二段作りの祭壇には青淵先生の大きな写真が置かれ、写真の上部から右縁に黒い喪章を垂らし、蘇鉄の葉に織り交ぜた純白の菊花が写真を飾つて居る。正面祭壇の右側には渋沢家御遺族の方々が二列に
  前列左より
  青淵先生令夫人・子爵渋沢敬三氏・渋沢篤二氏・渋沢子爵令夫人・穂積男爵御母堂・阪谷男爵令夫人・渋沢武之助氏・同令夫人
  後列左より
  渋沢正雄氏・同令夫人・明石照男氏・同令夫人・渋沢秀雄氏・男爵穂積重遠氏・同令夫人
 の順序にて着席され、
  祭壇の左側には右より
  藤山雷太氏・三上参次氏・佐々木評議員会長・渡辺常務理事の順序にて着席して居る。
  先づ拍手に迎へられて渡辺常務理事が立ち上がり、青淵先生の写真に敬礼した後、祭壇の左前方にしつらへた白き布で覆はれた演壇に進み、悲痛な面持で静かに開会の辞を述べられる。

    開会の辞
                 常務理事 渡辺得男
只今より青淵先生の追悼会を開会致します。昭和六年十一月十一日は
 - 第43巻 p.299 -ページ画像 
吾々竜門社の会員に取りましては一生を通じて忘るゝことの出来ない又最も悲しい日でございます。当日午前一時五十分に吾々竜門社の会員一同が常々から其御人格に対しまして心の奥底から敬慕申上げ憧憬し申上げて居りました、尚ほ其御主義御精神に対しましても吾々は満腔の共鳴とあこがれとを持つて居りました青淵先生は永久に安らかなる眠にお就きになられたのであります。爾来既に早くも三十三日を経過致しました今日、谷中の天王寺の畔には、風なきに散りまする落葉の下の先生の奥津城は、次第に乾きつゝありまするが、吾々の先生に対しまする追悼の情は、日と共に益々深く、先生と永のお別した哀惜の涙は、日に日に新なるを痛切に感じて居るのでございます。今日玆に吾々は一堂に会しまして、やるせなき先生に対しまする追慕の情を聊かなりとも先生の霊に捧げたい、斯う云ふ趣意から此会を催しました。御遺族の方々には長い間の御看病、身心共にお疲れになり、其御疲労がまだ癒へませぬ今日、殊に昨今各方面の追悼会が連日でございまして、非常にお疲れの際にも拘りませず、お打揃ひの上御来臨を得ましたことは、吾々会員一同の感激に禁へない所でありまして厚く御礼を申上げます。尚ほ会員の皆様方には歳末御多忙の折にも拘りませず、斯く多数お集り下さいまして、無慮六百名の御来会を得、中には京都・大阪等から態々此会合の為にお出下すつた方もございます。先生の在天の霊は必ずや、皆様方の此お心からなる御追悼の情の現れに対してお饗け下さることゝ考へるのでございます。之を以て開会の辞と致します。
 順序に依りまして追悼の辞を評議員会長佐々木勇之助君にお願ひ致します。
 渡辺常務理事の開会の辞が終れば、次に佐々木評議員会長が演壇に進まれて、真剣味の籠つた声で追悼の辞を述べられる。

    追悼の辞
                      佐々木勇之助
 本日我竜門社に於て、本社創立以来四拾余年の間終始指導誘掖を辱ふし、吾々の儀表と仰ぎ師父と戴きました青淵先生の薨去を悼み奉り玆に追悼会を開くに至りました事は、誠に千秋の恨事として、会員一同各位と共に追慕哀悼の念を禁ずる能はざる所であります。
 御承知の如く青淵先生は御心身共に非常に御強健にあらせられて、御精神は固より御元気も矍鑠として壮者を凌ぐの有様であらせられましたから、吾々一同は先生が百歳の御寿命を保たせらるゝことは疑ないと深く確信し、且つ期待致して居つたのであります。然るに先生には本年春以来少しく腸のお工合を損ぜられ御養生に専念せられましたが、其後十月に入りまして御病症が一層お進みになりましたので手術をお受けになりました処、幸に諸大家の周到なるお手当により御経過も御順調と承りまして安堵致しました処、十月卅一日に至り気管支肺炎の気味にて急に御熱が昂まり、御病勢も重らせられましたので一同深く御案じ申上げましたが、御手当が行届いて一旦お落付きになりましたが、爾来御病勢は一進一退ながら御衰弱は次第に加はる御傾向な
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ので、御家族の方々は申すに申ばず吾々一同に於ても深く心痛致し、ひたすら御平癒を祈り上げて居ました、然るに八日朝は幾分か御気分もお宜敷くなられまして、此の日財界各方面の有力者が多勢御見舞に参邸して居る趣をお聞きになりまして御自身の御病気もお忘れになられた如き御様子で、大要左の如き御言葉を吾々一同に伝へしめられました。
 私は帝国臣民として、また東京の一市民として行届かぬながら兎に角これまで奉公して参りました、自分としては能ふべくんば百歳の寿を保つて、将来とも国家のために大いに奮闘すべくわれとわが心に誓つてゐましたが、不幸にしてこの度の病気で或は再び起てないやうになるかも知れぬとおもふと、奈何にも残念至極に存じます、私が亡くなりましても、何卒国家のため財界のためこの上とも万事御尽瘁御奮闘なされるやう皆さんにお願ひいたします、たとへ幽明処を異にすることがありましても、皆さんの御事業と御健康とを心からお祈りし、またお護りすることをお誓ひいたします、また私が瞑目しました後も、私の霊は地上に残つて皆さんと共に共に働くつもりですから位牌として他人行儀に扱つて下さらずに、やはり生前と同様にお隔意なくお願ひ申し上げます。尚こゝに至りましたのは決して私が悪いためではなく病気が悪いので皆さんとお別れさせるのです、ではお先へ失礼いたしますが国家財界多難の際充分皆さんのお力添へをお願ひいたします。
 この尊い有り難い先生のお言葉を拝聴しました吾々一同は、今更ながら先生の国家社会に対する崇高なる御心事を拝承しまして、深く感激の念に打たれ、満座声を呑んで暗涙に咽んだ次第であります、而して先生御重体のことが畏くも 天聴に達しまするや 聖上・皇后・皇太后三陛下よりは御見舞としてくさぐさの御下賜がありました上 聖上陛下よりは特に侍医を御差遣遊ばされまして御診察を賜はります等重ね重ねの殊遇を拝せられ、又十日には特旨を以て正二位に陞叙の御沙汰を拝せられましたが、天は無情にも先生に寿を仮さず、遂に国際平和記念日たる十一日の午前一時五十分を以て、我青淵先生は溘焉として永久の眠に就かれたのであります。
 御遺族御近親の方々の御悲歎は真に拝察するに余りある次第であります。
 而して先生薨去の日には畏くも三陛下よりは御使を以て御弔問を賜はり、更に御供物・御料理等を下賜せられました、十四日には優渥なる御沙汰書を賜はり、祭資白絹及お花・御供物等の御下賜があり、御葬儀当日には勅使及御使の御代拝がありました、此の如き御鄭重の御恩寵を辱ふせられましたのは、先生が多年国家社会に尽されました偉大なる御功績を録せられたるものと拝承し、唯々恐懼感激の外はないのであります、而して当日告別式に参会せられたる社会各方面の人々と、沿道堵列の学校生徒其他を合しますれば、其数無慮数万に上り、近年に比類なき盛儀を見ましたが、之れは如何に先生の御高徳が、平素社会のあらゆる方面の人々から欽慕景仰せられて居たかを示すものと思ふのであります。
 - 第43巻 p.301 -ページ画像 
 抑々先生は維新創業の当初より率先して身を以て実業の振興に当られ、万般の商工業一として先生の提撕誘導に俟たざるものはないのでありますから、我国の実業発達史は先生の御伝記を離れては記述することが出来ないと申してよろしいと思ひます、而して晩年実業界を御引退の後は更らに其他社会各般の事業に献身の努力を致され道徳風教の振作に、教育の興隆に、社会事業の助成に、労資の協調に、国際の親善に、将たまた世界平和の促進に、終始一貫御尽力になりました、そのお骨折と御功績とは夙に内外の倶に瞻る所でありまして、今更玆に喋々するに及ばぬのであります、此の如く先生は九十二歳の高齢に躋られまする迄、明治・大正・昭和の三朝に亘る長き間、一日として君国を忘れず、一意国運の進展と社会の福祉とを念とせられ、経済道徳合一を以て実業の振興に力められ、実践躬行其範を示されましたので、世人から無冠の宰相、一代の慈父と仰がれましたのも、決して偶然ではないと思ふのであります、されば畏き辺りに於かせられましても、その御功績をお認めになりまして、御沙汰書にも
 高ク志シテ朝ニ立チ、遠ク慮リテ野ニ下リ、経済ニハ規画最モ先ンジ、社会ニハ施設極メテ多ク、教化ノ振興ニ資シ、国際ノ親善ニ務ム、畢生公ニ奉ジ一貫誠ヲ推ス、洵ニ経済界ノ泰斗ニシテ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、実ニ社会人ノ儀型ニシテ、内外ノ具瞻ニ膺レリ
と仰せられましたのは、先生一代の御功労を御嘉賞あらせられたもので、誠に感激に堪へぬ次第であります。
然るに今や、内には思想経済の国難あり、外には満洲の事変あり、誠に国歩艱難、将来倍々先生の御献替に待つべきもの多き秋に当りまして、遽かに御長逝あらせられましたことは実に国家の一大損失でありまして、取り分け吾々竜門社員にとりましては、真に痛恨断腸の思ひが致すのであります。
 扨て、私はこれより会員諸君に対して重大なる御報告を申上ぐる光栄を担ふものであります。それは本年六月廿六日先生が親からお認めになりました御遺言書でありまして、十一月十八日御遺族の方々より私共に示されたのであります。それには、先生が後半生朝夕御起臥遊ばされたる飛鳥山の御邸宅曖依村荘の建物庭園全部を、我竜門社に御遺贈下さるといふ洵にありがたい御趣旨が認められてあるのであります。私はこゝに謹んでその御遺言書を捧読致します。
   ○遺言書前掲ニ付キ略ス。
 我々は此の御遺言書を拝読致しまして、今更の如く先生が国家社会を思ふ御志の切なると、我竜門社に御信頼下さることの厚きに深く感奮致しますると同時に、非常に責任の重大なるを感じた次第であります。
 仍て同日急遽理事会を開き、更に十二月三日評議員会を開きまして満場一致謹で之を拝受することを決議し、尚ほ先生の御伝記を我社に於て編纂することに決定致したのであります。
 回顧すれば、我竜門社は明治十八・九年の交、先生の御指導によつて深川のお邸に生れたのでありますが、二十余年の後、明治四十二年に至りまして一定の主義を有する団体とし、先生の常に唱道せらるる
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経済道徳合一主義を綱領と致したき旨を願ひました処、先生には非常にお喜び下さいまして、この主義も今迄は自分丈の主義であつたが、今日よりは自分の専有ではなく、諸君と共同の主義となつたのであるから今後此主義を拡充すると否とは、自分は勿論のことであるが、主として会員諸君の責任である故に、年若くして力強き竜門社の同人諸君は須らく此主義を服膺して、充分国家社会の為めに奮闘努力せられたいと、洵に御懇篤なる御詞を下されたのでありまして、我社の大綱たる「青淵先生訓言」は実に此の時御述べになつたものであります、其後組織は財団法人に変更しましたが、専らその御主義を奉戴して今日に至つたのであります。然るに我竜門社に対し、今また先生から御遺言により前述の如き重大なる御倚託を蒙つたのであります。之れを御受しますには御互ひに重大なる責任を荷ふ訳でありまして、非常の決心を要する事と思ひます、吾々竜門社員が果して克く此重大なるこの御倚託に添ひ、其任務を果し得るや否やは、少くとも私一個としましては微力其任を辱かしむる無きやを深く憂慮するものであります、左りながら先生より御信頼を受けかく御倚託を蒙りましたる以上、吾々竜門社員一同は協力一致、最善の努力を以て、及ばぬ迄も御遺志を体して、御生前特に心を致されました各種事業の達成に助力し、この貴重なる御遺跡を、永久に保存すると同時に、先生の指示せられたる公共の用に供して、世人をして長へに先生の御徳風を仰がしむる様に致さねばならぬと思ひます、已に御受いたしました後は、何れ其維持及利用方法等に就ては、更めて案を立てゝ夫々の機関の御協賛を仰ぐ事にならうと思ひますが、玆には先生の御霊前に於て、吾々社員一同謹みて御遺志を奉体し、御倚託に背かざる様微力を尽して、以て御報恩の万一に酬ひ奉る考であるといふ事を、お誓ひ申上げたいと思ふのであります。
 玆に子爵家及御一族の皆々様に対し、一同を代表して衷心より哀悼の誠意を表すると共に、謹んで御礼を申上げ微衷を表明する次第であります。
 尚ほ本日は馬越恭平氏から青淵先生追悼の御話がある筈でありましたが、已むを得ない御用事で遺憾乍ら御話を願ふことが出来ませんでした、しかしそれは何れ竜門雑誌に載せられます。
  二十分に亘る切々たる佐々木評議員会長の追悼の辞が終れば、渡辺常務理事の言葉により総員起立して黙祷を捧げる。寂とした満場に偉大なる力であり大いなる光りであつた青淵先生への追慕と痛惜の情が溢れる。
  黙祷が終つて静かに一同が着席すれば、遺族を代表して子爵渋沢敬三氏が拍手に迎へられて壇に進まれ、落ちついた口調にて謝辞を述べられる。

    謝辞
                   子爵 渋沢敬三
 今日は祖父が最も常々心から思を致して居りました竜門社その皆様方から、斯の如きお手厚い御真情の籠められました追悼会をして頂き
 - 第43巻 p.303 -ページ画像 
ますことは、吾々遺族と致しましても光栄之に過ぎず、又真に有難いことゝ厚く御礼を申上げます。
 先程渡辺理事からもお話がありました如く、先日来数々の追悼会をお催し頂きまして吾々も其処にお招きを頂きました。此社会全般から頂きます御厚情に対しまして非常に感激を致して居る次第でございますが、今日は特に違つた気持で誠に有難いと感ずるのであります。寧ろ竜門社の皆々様方は、祖父に対しましては或は遺族以上のお気持をお持下さることゝ考へますので其の意味に於きまして吾々は真実有難く感謝する次第でございます。祖父は無論竜門社に対しましては特別の気持を持つて居りましたし、又平常も其事例の一端を申しますれば例へばあの竜門雑誌でございます。あの竜門雑誌の初めの頁、巻頭言から終ひの彙報、会員の動静に至る迄一字漏さず毎月読みました会員は、或は雑誌委員と青淵翁であつたかも知れませぬ。実に熱心なる読者でございました。其意味に於きまして、今日此皆々様から受けます所の追悼会は、祖父に取りましてどんなに喜ばしいことでございませう。吾々が其気持を察しましても真に胸が迫る気持が致します。先程佐々木評議員会長から、御鄭重にしてお心の籠つた有難い御追悼の辞を頂きました吾々遺族と致しまして、感佩之に過ぐるものがございませぬ。其中にもございましたあの遺言書でございます。祖父と致しまして飛鳥山の邸宅は、元々からあれを自分の遺言書の中にもございます通り、安息の場所として造りました次第ではございませぬ。之を竜門社へ寄附致しますと云ふことを書きましたのは、今年の六月二十六日ではございましたが決意を致しましたのはそれよりずつと以前でございました。吾々其意中は常に承知致して居つた次第でございます。遺族と致しましては或は斯る遺言に依つてあの邸宅が竜門社に遺贈されますことは、或は竜門社に対して幾分御迷惑になりはしないかと云ふことを只管恐れまするのであります。殊に竜門社と云ふものが今迄は祖父の主義方針を精神的に則り、或は言葉が過ぎるかも知れませぬが祖父自身は竜門社は自分の集団的な分身であるとさへ思つて居つたでございませうが、斯かる所に之を遺贈致しましたことは、其外には何等拘束しませぬでしたのにあゝ云ふ有形な物をお贈り致しまして、今後或は幾分かの拘束を生じやしないかと云ふことを恐れるのでございますが、併し祖父の精神を真に玩味して下さり、又会得して下さり又継承して下さり、更に発展して下さる竜門社々員諸君が、あの邸宅を充分御利用下さることは、遺族は勿論祖父と共に何等疑を懐かざる所であります。どうぞ、さゝやかな家ではございますけれども、竜門社が主となられまして、遺言に書いてあります通り、或は道徳、風教経済、産業の発達、女子教育、実業教育、労資問題、国際親善、有ゆる方面の諸会合に御利用願ひまして、祖父の気持が長く伝はるやうにして頂くことが出来ますれば、祖父は勿論の話でありますが、遺族の幸ひ之に越したことはないのでございます。
 今日は竜門社の追悼会なるが故に列席致します遺族一同も、昨日あたりとは違ひまして、大変家庭的な気持で此処に出ますことが出来ましことたを特に有難いと存ずる次第でございます。今後共にどうぞ宜
 - 第43巻 p.304 -ページ画像 
しくお願ひ致します。今日は御鄭重にして且つ本当にお心からなる追悼会をお開き下さいましたことを厚く御礼申上げます。
  謝辞が終れば、追悼講演となつて、先づ和服姿の藤山雷太氏が壇に立たれ、抑揚に豊んだ、力の籠つた声で語り出される。

    常識の大人格者青淵先生
                      藤山雷太
 私は今日竜門社の一会員として、而して青淵先生の門下生と致しまして、此追悼の御集会に列しまして、玆にお話を申上げる機会を得ましたことは、私の無上の光栄に考へます。而して只今評議員会長佐々木勇之助君に依つて御朗読になりました御遺書を拝読しまして、殆ど感泣に堪へないのであります。恐らくは皆さんも同じ考を以て、胸中には万斛の涙を浮べられたことゝ存じます。私は御承知の通り四十幾年実は青淵先生の御愛顧に預つた一人であります。私が明治二十五年に実業に志して三井に這入りまして以来、直接に御指導を受けましたし、又間接に御指導を受けまして、今日迄至つたのであります。其四十年の間、私は親しくお接し申しながら、実は甚だ遺憾ながら吾々の見識が足りない為に、充分な先生の懿徳に浴しながら、未だ斯う云ふ情勢に居ることを恥しく考へるのであります。私が第一に青淵先生の門下になりましたのは、明治二十六年王子製紙会社が二百万円の資本より四百万円に増資すると云ふことが起つたのであります。而して当時三井銀行は王子製紙会社の大株主であつて、始終青淵先生には三井をも合せて色々に御配慮を下さつて居りましたから、此増資を三井も引受けなければならぬと云ふことになりましたので、其時私は三井を代表する意味に於て王子製紙会社に這入りまして、青淵先生の社長の下に専務取締役を勤めました。こちらにも只今お出になつて居ると思ひますが、我が畏友たる大川平三郎君と共に王子製紙会社の仕事をしたのであります。其時青淵先生は常に吾々に語られたことがありますが、自分は日本の実業は今日以後本当に発達をさせなければならぬ。それには第一は銀行――バングである。而して第二は製紙事業である文明の発達に最も必要なる物は紙である。而してそれを製造して印刷をする。そこで製紙分社と云ふものをお興しになりまして、即ち王子製紙会社の分社となされた。それで印刷をして西洋の文明其他を広く伝へなければならぬ。而して此居を王子に卜したのも、即ち此業の盛んなるを見たいと云ふ考である。朝起きて王子の煙突より煙りの上るのが自分は一番愉快である。お前も此会社に這入つたのだから充分に一つ我が意を体してやれと云ふお言葉を、其当時拝したことを記憶致して居ります。
 其後私は尚ほ一層に青淵先生の恩誼を感じましたのは、明治四十二年、私が只今社長を致して居りまする大日本製糖会社が大困厄に陥つた場合であります。皆さん御承知の通りに、青淵先生は実業界を各般に亘つてお世話を下さつて居ります。恐くはどう云ふ事業でも先生のお力を借りないものはないのであります。即ち製糖事業の如きも、青淵先生のお力に依つて生れ出た所の事業である。理事、相談役、顧問
 - 第43巻 p.305 -ページ画像 
と云ふやうな名前を以て色々のお世話を下さつたのでありますが、其大日本製糖会社が明治四十二年に大破綻を来しました時に、先生は、一つの事業の破滅は総ての事業の破滅を来す因となる、信用を失つてはいけない。而も其当時の大日本製糖会社の株主には、英吉利の公使の外英国人もあつたと云ふことでありましたが、大蔵省に一千二百万円の租税の滞納を来して居ると云ふやうな次第でありまして、青淵先生甚だ御心痛なされました。そこで私に「お前一つ這入つて世話をしたら宜からう」と云ふお話でありましたが、私は平常先生の恩誼には感じて居りましたけれども、此難局に立つて迚も此事業を整理することは困難なりとして、数回辞退を申上げました。又其当時は此大日本製糖会社に金融の途を付けるとか、さう云ふことは到底望みがない状態であつたのであります。併ながら青淵先生には、「此事業を潰す訳にはいかぬ、お前に見る所があるから、一つお前進んでやれ、出来るだけの俺は力を尽してやる」と云ふことのお話に依つて、私は大日本製糖会社に入社致したのであります。是れ全く今日迄私の此地位の継続致して居りまするのは、此当時の青淵先生の即ちお力であるのであります。而して此事に付きましては玆に評議員会長をしてお出になります佐々木勇之助君が、能く御承知のことでありまして、吾々が今日に於ても第一銀行を非常に徳とし、又銀行として事業を見るのに斯の如き銀行があると云ふことを吾々は喜んで居りまするのは、其当時からのことであります。他日、大日本製糖会社の破綻に対して、青淵先生並に第一銀行が、如何に御配慮下さつたかと云ふことを申上げる機会もあらうと思ひますから、此処では余り長くお話をすることを止めます。

 而して私は明治三十八年以来、商業会議所の議員となりました。而して青淵先生は即ち商業会議所の創設者である。長い間会頭をしてお世話をしてお出になつたと云ふことは、皆さん御承知の通りであります。私は商業会議所では、会員の一人として長い間お世話になり、直接に其御高説も承り親炙したのであります。而して私が後年、商業会議所の会頭に誤つて当選するや、青淵先生は自分の子の如く、総てに助言を与へて下さいまして、商業会議所八箇年在職中、甚だしき失態なくして務めましたのも、全く青淵先生のお力なりとして考へて居ります。
 又其外にも渋沢子爵が後年最も力をお尽しになりました亜米利加との関係、私は青淵先生後年の御事業中亜米利加の問題が一番青淵先生の頭を支配して居つたと思はれるのでありす。其為には数回亜米利加に赴かれ、実は亜米利加の人達と非常な親交を結んで、亜米利加と日本と親善になつて世界平和を維持しなければならぬと云ふ非常な卓識を持つてお出になりました。即ち日米関係委員会と云ふものを日本にお造りになりました。紐育にもお造りになりました。桑港にもお造りになりました。布哇にもお造りになりました。さうして日本に於ては日本だけの日米関係委員で、又向ふは向ふの人達に依つての関係委員であります。此両団体が相集つて、日本の主義、日本人の心持を、亜
 - 第43巻 p.306 -ページ画像 
米利加人に能く分らせなければならぬ。又亜米利加の人達の心持も、日本人に能く諒解させなければならぬと云ふことで、非常なる熱誠を以て、此日米関係委員をお世話になつて居りました。私は其下に、何にも用は致しませぬが、常務委員の一人となつて御援護を受けて居りました。
 さう云ふ風に公の問題なり、私の問題なり、有ゆる方面に於て青淵先生の御指導、御愛顧を受けて居りましたが、丁度富士山の高さも其麓に居つてはそれだけに感じないが如く、吾々は四十何年渋沢門下生として居りながら、吾々は其偉大なる力を感知することに於ては、甚だ欠けて居るではないかと思ふやうな感じを持つのであります。私は自分の七十年の生涯中に三人の恩人を持つて居ります。第一の私の恩人は鍋島藩の儒臣たる草場先生、是の人は漢学者であります。吾々も未だ若い時は漢学書生でありまして、九歳にして其草場先生に連れられて、京都の漢学の塾に上つたのであります。私は十三迄京都に居りまして漢学をやりましたが、今日幾らか自分に道徳正義の念を植付けられたのは此漢学の力、旧い師匠、忘るゝことの出来ない草場先生の力として私は考へて居ります。
 而して其次はどうも漢学ばかりではいけない。少し外国の学問もしなければならぬと云ふことで、福沢の塾に這入りました。而して福沢先生は其当時未だ中々壮年、四十位な先生であつた。吾々は其膝下に呼ばれまして、字引を引いて訳読を稽古しました。即ち西洋の本を読むことだけを稽古したのであります。併ながら今の学校とは違ひまして本を読むことはさう云ふ風に所謂漢学的家塾ではありましたが、福沢の塾風福沢先生の精神と云ふものに感化さるゝ力が知らず知らずに多かつたと考へます。吾々が今日でも多少独立自尊で行かなければいけない。他人に余り信頼してはいけないと云ふやうな心持を常に抱くのは、私は慶応義塾と云ふやうな本を読む場所ではなくして、福沢先生と云ふ個人の性格に幾らか涵養された力と考へまして、何かある時は常に福沢先生の或は運動にお供をし、或は自分のお家に呼ばれてお話を承つた、さう云ふことを今日考出すのであります。併ながら其当時は私などは福沢先生を、そんなに今日考へるやうには、自分が其雰囲気に包まれて居つた為に感じない。併し段々福沢先生の薨去後日を経るに従つて、段々色々のことを考へまして、其偉大なる大学者否大偉人であつたと云ふことを私などは今に感ずる。而して私は福沢諭吉先生の一方ならぬお世話になりまして、三井銀行に這入りました、私は当時長崎の県会の議長をやつて居つた、それを先生が若い時にさう云ふことをするのは止すが宜い、実業界に這入れ、俺が世話をしてやらうと云ふので、福沢先生の推挙に依つて、地方にそんなことをして居つたのを抛つて、三井銀行に這入つた。而してそれが縁となりまして実に私は後世から見ましたならば百世の亀鑑師父と仰がるべき青淵先生の知遇を蒙り、而して今日此目出たい――実に私は是は先生の為には悲しむべきことでありますが、諸君の為には先生の御遺言を受けて感奮すべき此機会を与へられたる実に目出たい会とも或る点に於ては申上げて宜い、其席に於て私は先生に向つては哀悼の辞を申上げ、諸
 - 第43巻 p.307 -ページ画像 
君と共には感奮興起しなければならぬ、と斯う考へるのでありまして竜門社としましては二度目の誕生であると私は思つて居ります。
 私はさう云ふことの関係で、王子製紙会社以来四十年先生のお世話になつて居りますが、併し此青淵先生の事柄に付きましては、私よりもつと能く皆様は御承知のことでございますから、私が申上げるのは殆ど蛇足に過ぎないと考へます。併し一・二私が最も感を強くしましたのは、青淵先生が病最も急なる場合、今日か明日かとも御心配になるやうな場合に於て、国際愛の発揚として支那の水害のことをラヂオで講演をなさつたと云ふ一事は、吾々が最も記憶しなければならぬことであると考へます。青淵先生は御承知の通り実業のことは勿論のこと、国内の有ゆることにお世話を下さいましたが、啻に国内ばかりではない。支那に飢饉がある、印度に飢饉があると云ふ時に、実に国際的愛を発揮なされて、自分が主として色々の寄附金などをお募りになることは、皆さん御承知の通りであります。支那の数箇月前の大洪水の災害は実に我が隣国として最も、是は同情に値ひするものであります。而して満洲の風雲は将に急なる場合に於ても、渋沢子爵は病躯を起してラヂオに依つて、国際愛の為にあの御演説を為されたと云ふ一事は、余り人が記憶しないかも知れませぬが、是は最も青淵先生の記述の中では、重要なる一頁を占むべきものではないかと私は考へる。而して尚ほもう一つ申上げて見ますると、青淵先生は非常に博愛なお方、人を容るゝに包容力のあるお方であつて、有ゆる人を包含して、総ての人をお世話なされました。併ながら如何に先生と雖も多くの世話をなさるに当つては時に其事が成功せずして、自分の考と齟齬した場合もあつたやうに考へます。有ゆる世話をなさる其中には、随分事業にしても誤つたこともあるかも知れませぬ。私は嘗て青淵先生に其時はどう云ふお心持であるか、とお尋ねしたことがあるのであります然るに先生は言はれますに、それは仕方がないぢやないか、君子は過を見て仁を知らなければならぬ。過つことがあつた為に、其人の心持も分るのである。是は皆んな考へて置かなければならぬ。さう云ふことをお考になりまするから、万般総てを包容して、有ゆること、総ての人のお世話をなさつたと考へます。是は中々出来ないことであります。人間には、喜怒哀楽、色々に動くもので、さう博愛的に包容して之をお世話をなさると云ふことは、青淵先生にして始めて出来る。之が私は先生の大常識の円満に発達した、大人格者であるとして考へる点であります。
 私は大正十二年に亜米利加に参りまして、当時御承知の紐育のバンダーリップ君と一夕色々の話をしました。其時、日本の人は誰が一番偉いかと君は考へるかと申しました所が、バンダーリップ君は言下にそれは渋沢子爵であると申しました。そこで其通りだ、私も青淵先生の門下生としてさう考へるのであるが、君はどう云ふ訳でさう云ふことを感得したかと云ふことを尋ねました。所が彼曰く、私は独逸と日本と戦を交へて青島を日本兵が奪つた。其時の世界の輿論は、日本は奪つた以上は支那に返すものではない、あれは日本が返すと云つて居るけれども、戦定つて平和になつても返す気遣はない。日本は侵略国
 - 第43巻 p.308 -ページ画像 
である。そんなことをする筈がない。と云ふのが亜米利加の大体の輿論であつた。そこで私――バンダーリップが言ふのに、私は日本の友達である。日本人好きである。日本の同情者である。そこで是は渋沢子爵にお尋ねをしなければならぬと思うて、渋沢子爵にお尋ねした所が、渋沢子爵は曰く、戦争治つて平和になつたらば返すのだ、何故返すかと云ふと、日本人は嘘を言はない。一度言つたことは必ず実行する。日本国民は嘘を言ふ国民でないと云ふことは君達も記憶して呉れなければならぬ、必ず他日返すと云ふことを渋沢子爵から聞いた。そこで私は大に喜び、私の友達が言ふからには確かだ、世間では日本はそんなことをしない、奪つて返す気遣はないと云ふて居たのを、私は大言壮語して、断然そんなことはないぞ、私の友達日本の渋沢さんがあれは返すと言はれるのであるから返すに違ひないのだ、斯う云うて威張つて居つた。それは難しいぞと云うて居つたのに、他日――私が向ふへ行つた数日前のことでありませう、青島を返した。其時の私の喜び――即ちバンダーリップ君の喜びは一方ならず、渋沢子爵の言はれたやうに日本は嘘吐ではない。嘘の国民ではない。渋沢先生の言はれる通り返つたぢやないかと言うて威張ることが出来た。さう云ふことを以て渋沢子爵の偉いと云ふことの証言と致して居ります。私は感じました。渋沢先生の一言一句と云ふものは、世界を動かして居る、誠に偉いものである。何処の国でも偉い人はありますが、其一言が世界の国民よりあの人が言つたから確かだと云ふ信念を受ける人がありますか、それで私は此点に於て非常に感動したのでありますが、これは渋沢子爵の徳望が啻に内のみではなく、世界の信望を繋いで居つたのである。而して御承知の通り日米関係委員会では、子爵は左様な溢るゝが如き国際愛のあると同時に、又忠君愛国、同胞の為に非常なる熱烈なる愛国者であつたと云ふことも、諸君の御承知の通りであります。亜米利加が排日案を制定しまして、日本人労働者の入国を禁じ、排斥を企てるや、実に渋沢子爵はあの御老体で、元気ある壮者の如く亜米利加の――私は日米関係に居て始終其有様を拝見して居ましたから分りますが、中々強い言葉で以て亜米利加の人達を説諭された、亜米利加は人道を重んじ、博愛を旨とする国民と言ひながら、日本人を排斥するとは何事であるか、若しそう云ふことがあれば、吾々は国と国との交りを断つても宜いと云ふ位な断言をされて、同胞の為に血涙を以てお話になる、一方には世界愛・国際愛の溢るゝが如きものあると同時に、自分の国家国民の為に熱血を注がるゝ一事に於て、驚くべきものがあつたのであります。それは私は幸に日米関係委員会の一人として始終其傍にあつた為に、能く承知致して居ることであります。
 又子爵が孔子の教を遵奉されましたことは皆さん御承知の通りであります。私は二千五百年前の孔子の教を実行せられまして、其通りにやつたお方は即ち渋沢子爵であらうと思ふ。御承知の通り孔子は二千何百年前に魯の国に生れて、十有五にして学に志し、学問は勿論のこと、有ゆる六芸に通じたあのお方である。而して志は経倫にあり、決して学者で静に暮すやうな人ではなかつた。志は経倫にあり、心は済世にある。故に孔子は席暖まるに遑あらずと云ふ程奔走されて、どう
 - 第43巻 p.309 -ページ画像 
か自分の教を実行したい。それ故に有ゆる所に流浪をして説いて廻りました。而して匡に入らず、危い国などには仕へはしない。己の経倫を行ひ済世をして支那を救うてやらう。決して孔子は哲学者でもなければ隠棲を好む聖人でもないと私は思ふ。席暖まるに遑ない程奔走して、現実の国家、現実の社会を救うて世の中を造り上げたいと云ふのが孔子の志であつたと私は考へて居ります。故に渋沢子爵が孔子の教を奉じて御信仰になり、而してあの教は哲学的であり修身的であると云ふものではない、居家処世より治国平天下に至るまで、渋沢子爵の志も其処にあつた。国を救はう、欠点があつたら欠点の場所を直して行かう、悪い所を直さうと云ふのが渋沢子爵の志で、朝に仕へ野に下り色々なさいましたが、志は経国経世にありと考へるのであります。其点が孔子と能く気がお合になつた為に孔子の教を遵奉なさつたぢやないかと考へるのであります。決して渋沢子爵は安閑と静に書画骨董を愛し茶の湯を楽んで、現世に唯自己の安楽を貪るのではない。即ち世を済ひ国を救ふ、志は其処にあつた。即ち孔子十篇説く所のものは孔子自分を語つて居るものと私は考へる。孔子の論は自分を語つて居る。友人と話し門生と語る、色々の事がありますが、大体に於て自分の志を自分が言うて居る、其点に於て渋沢子爵は即ち孔子と抱合されて居られる。二千五百年前の教を其儘実践躬行して、今日日本の国家社会――未来ではない、来世は語らない、現実の国家社会を救はうとする、其点に於て私は孔子の教を深く尊崇なさつたものぢやないかと考へる。而して其後を考へて見ますると皆さう云ふ形になつて居る。幕末に一橋家に仕へ、続いて徳川幕府に仕へ、明治政府に仕へ、下つて民間に是だけのお世話をなさつた。是は丁度孔子がやつたことゝ同じやうに、私は感ずるのであります。私は心は相通じて居つたものぢやないかと考へるのであります。其点に於きまして私は、吾々は現在に於て渋沢子爵を今日まで前に見、脇に拝見して居つたから、それ程大を認めることが出来なかつたのでありますが、後世百年・二百年・千年経つて初て真の渋沢子爵の偉大さが諒解されるものではないか。渋沢子爵が二千五百年前の孔子を崇拝されるやうに、吾々現在の者は渋沢子爵を能く諒解しないのであるが、子爵の如きは百年の後、千年の後、即ち万世の儀表として仰がれるお方であると私は思ふ。而して吾々は幸に竜門社の会員とし門下生の末席に居つて、親しく其謦咳に接し御指導を仰いだもので、実に孔子の十哲どころの幸ではないと私は思ひます。
 最後に此事が天聴に達するや、誠に恐懼に禁へない――吾々実業者の末席に居つても自ら自分の肩幅の広くなつたやうに感ずる渋沢子爵に対する優渥なる御沙汰書を拝見しまして、吾々感激に禁へないのであります。併ながら誰が知らなくても、一たび天聴に達するやあゝ云ふ御沙汰書が下つたのでありますから、子爵薨去されても尚ほ大に地下に喜んでお出になることゝ深く信じます。吾々は今後一つ青淵先生のお拵へになりました本でも見て、益々修養しなければならぬかと考へて居ります次第であります。
 今日は私が斯う云ふ席でお話を申上げましたのは僭越至極、誠に故
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人を品隲するやうな言葉を使ひまして畏多いのでありますけれども、自分の思ふ所の一端を申上げて深く青淵先生に哀悼の意を申上げ、諸君と共に今後大に修養の途に進まんことを希望致します。今日は私の拙いお話をお聴き下さいまして誠に有難うございます。
  四十分に亘る青淵先生の徳を偲んだ藤山氏の講演が終れば、次に文学博士三上参次氏が壇上に立たれ『青淵先生と白河楽翁公とに就いて』の追悼講演をされる。

    青淵先生と白河楽翁公とに就て
                  文学博士 三上参次
 先刻来段々のお話を承りまして、私は此席で思出した事があるのであります。丁度明治四十年の頃と思ひますが、築地の水交社に於きまして報徳会の主催で、殊に其時の幹事長は亡くなられた早川千吉郎君であつたと思ふ、其主宰で楽翁公の会が催されましたときに、青淵先生も一場の御講演をなさつた、其時の御言葉に、楽翁公の各方面の事業並に其人物に就て色々お話になつたのでございまするが、楽翁公は之を山に譬へれば富士山の如きものであつて誠に八面玲瓏である、何れの方面から見ても仰ぎて以て心を慰め意を強うするに足るものであるから、自分も楽翁公に就て景慕して居る所をお話をしやうと云ふ冒頭のお言葉で、一場の御講演のあつたことを記憶致して居ります。丁度先刻来のお話を承りますると、青淵先生も亦其通りでありまして、其各方面に渡られましての御事業、又其各方面から観察せらるべき御人格、何れから観ても丁度富士山の如きものである。八面玲瓏と言つて適当なことであらうと思ひます。此青淵先生の楽翁公を富士山に譬へてのお言葉は、私は之を其儘移して青淵先生の人物批評に持つて行つて宜からうと思ふことを此処で感じましたから、先づ之に付て申述べた次第であります。
 さて青淵先生の各方面の著しい事業、何れの方面からも其道々のお方が深く且つ広く御観察なされたお話が出来ることでありませうと思ひますが、私は青淵先生の文書殊に著述の方面に対して、多少個人的の関係を持つて居りましたので、其方面に於きまして私が青淵先生に接します度毎に敬服し、殊に恩に報い徳に報ぜられる所の精神の極く強かつたと云ふ点に付て、今夕申述べたいと思ふのであります。
 先生が屡々仰せられますことに、自分に二人の大きな恩人がある。皇室の御恩は申上ぐるに及ばず、之を別にしては私は徳川慶喜公、十五代将軍と白河楽翁公と二人あると云ふ御述懐を時々承つたことがあります。其慶喜公に付ては幕末の青淵先生二十四歳のときに、埼玉県血洗島を出られまして江戸へ来られたのでありますが、御承知の通りの幕末紛擾の際であります、先生も当時の壮士の一人として頗る攘夷思想に関係して居られました、或時には横浜の所謂異人館の焼打なども企てたことがあると承つて居ります。さう云ふ最中でありますから随分危険なる渦まきの中に捲き込まれると云ふやうな事もあつたと思はれるのであります。丁度其翌年に一橋家へ仕へられて慶喜公を主君と仰ぐと云ふ御関係にあらせられたのでありますから、一面から見ま
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すると慶喜公は自分を救つて呉れた恩人である、其恩徳は永く忘れることは出来ないと云ふお話であります。そこで慶喜公が一橋から入つて徳川家の十五代将軍となられるに連れまして、青淵先生も同く幕臣とおなりになつたのであります。次で慶喜公の弟の水戸の徳川公民部少輔が仏蘭西へ渡られるに従ひまして之にお供をして、慶応三年に向ふへ赴かれたのであります。然るに青淵先生仏蘭西に居られます間に御承知の通りの国内の大改革でありまして、慶喜公は大政を奉還せられ、王政は復古となり、のみならず一朝事の行違ひから慶喜公は伏見鳥羽の戦に於て賊の汚名をお蒙りになり、引続き江戸へ逃げて帰られまして、官軍が東に向ひ、是に於きまして慶喜公は只管恭順を旨として上野の山に籠つて謹慎をし、次で水戸に移り、続いて静岡に引籠つて謹慎を続けられて居つたのであります。此驚くべき報知が仏蘭西の青淵先生の所へ達しましたので、青淵先生急ぎて帰られましたのが明治元年十一月と思ひますが、静岡へ行つて慶喜公に会はれまして、昨年出張の際と今日帰朝してお目にかゝる際と、如何にも其変化の甚しいことを御述懐なされてお話があつた次第であるのであります。此慶喜公が賊名を負はれたと云ふことに付ては、青淵先生深く之を遺憾とせられ、どうかして其当時の事情を成べく早く当時の人の生きて居る中に、殊に慶喜公の御存生中に承つて明かにし、又他の方面からも材料を捜して慶喜公の伝を一つ作つて後世に遺して置きたいと云ふ御希望が余程盛でありまして、それは即ち自分の恩人である所の慶喜公に報ゆる所の最も大なる一つの方法であるとお考になつた訳であります尚ほ青淵先生これは屡々慶喜公にも問はれ吾々にもお語になつたことでありますが、大政奉還と云ふことは事情が此の如き場合であるから之も想像が出来る。併し一旦京都から紛擾の巷を去つて大阪へ御退城になつて、部下の旗下、大名のやられた事とは言ひながら、再び討薩の表を持つて京都へ出掛けられたと云ふのは、甚だ大政奉還の前の挙動と相一致しないやうな点が見られる。それは其時部下の大名旗下等が制し切れなかつたと云ふことでも説明が出来るが、然らば伏見鳥羽の一戦をして、其後直に軍艦に乗じて江戸へ逃げて来られて、さうして上野の山に於て謹慎をして、部下の人に於ては随分慶喜公を励し再挙をするやうに勧めた者もあつたのですけれども、堅くさう云ふ誘ひをば退けられ、恭順を表せられたと云ふ事とも亦少しく其処に話の矛盾があるやうに思ふ。斯う云ふ点をば慶喜公に充分伺つて明かにしなければならぬと云ふお考があつたのであります。そこで伝記の編纂を企てられまして、最初之が明治二十年代のことで、福地源一郎氏に其事をお託しになりまして、福地氏も其事をお引受になつたのでありましたが、色々の事情でそれが成功せず、其中に福地氏は代議士に出ると云ふやうなこともあり、旁々伝記の出来ませぬ間に福地氏は亡くなつてしまつた。青淵先生それで大に落胆をせられましたのであります丁度穂積・阪谷両男爵を以て私に御相談がありましたのが明治四十年先づ阪谷男爵からお話がありました。続いて青淵先生御自身もお話があつたのであります。どうか之を一つ引受けて呉れないかと云ふことでありました。所が私は其時丁度大学に於て授業の外に大日本史料の
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編纂と云ふことに従事して居りましたので、迚も余日がありませぬ。誠に光栄な仕事であり愉快な仕事である。且つ青淵先生の御委嘱と云ふのに感じて早速お受を致さなければならぬのでありますけれども、どうも私には出来ませぬ。就ては斯々の人が最も適当の人と思ふから御推薦申上げますと申して、阪谷・穂積両男爵もそれが宜からうと云ふことで、私の友人の萩野由之博士を御推薦申上げた。さうしますと青淵先生も喜ばれまして、萩野氏が之より多くの助手を率ゐて日本橋の事務所に於て編纂事業を始められまして、随分大きな規模を以て材料を進め著述に著手せられました。青淵先生は御多忙の時代にも拘らず此事業に可成り多くの時間を費されたのであります。始終原稿を御覧になりますのみならず、毎月一回飛鳥山のお住居で徳川慶喜公を御招待になりまして、青淵先生からも色々お話があり、又萩野博士以下関係者から、あの点は如何でありましたか、此点はどうでありませうか、と云ふやうなことをお話する。後でいつも夕御飯が出、余興があると云ふやうなことでありまして、私も其度毎に席末に陪して居つて色々お話を承つたことがあります。随分此事業に付て青淵先生のお打込み方と云ふものは強いものがあつたやうに記憶して居ります。そこで慶喜公伝が出来ましたのは大正六年と覚えて居りますが、一方で此編纂事業が進みますと、又他方では慶喜公の皇室に於かせられましての御待遇並に一般の批判と云ふものが段々変つて参つたのでありまして、慶喜公は朝廷から追々と御優遇になり静岡から東京へ帰られる、位階も従一位勲一等麝香間祇候と云ふやうなことになりまして、軈て徳川の御本家とは別に公爵家をお創めになると云ふやうなことになりましたので、青淵先生さう云ふことに付ては大変に喜ばれまして、自分の慶喜公に報い、慶喜公の事蹟を明かにしやうとする所の素志は、それでもう半ば以上は達して居るのである、と言つて大に満足をせられたのでありますが、軈て大正六年に此慶喜公伝が出来上りましたに付て、我が願ひは之で終つたと仰せられて大変に喜ばれたことがあります。其時の御満足のお顔は丁度此処に拝するやうなお顔で、今に能く私は眼底に残つて居るのであります。之が即ち青淵先生の一つの恩人に報いられた所であります。
 いま一つの楽翁公に就てはどうであるかと申しますと、是亦深い縁があるのでありまして、青淵先生数年前に社会の多くの方面に関係せられて居りましたことを一時お絶ちになつたことがあると思つて居ります。どの位の分量をお絶ちになつたかは知りませぬが、大分お絶ちになつたやうに承つて居ります、然るに東京市の参与と云ふ名義は最後までお持になつて居りました。そして東京市養育院長のお役目を御薨去になるまで御監督になりお引受なさつて居つたのであります。それは全く青淵先生の白河楽翁公との深い縁に依ることゝ私は思ふのであります。楽翁公が彼の田沼時代の全く腐敗した所の徳川幕府の後に立たれまして、寛政の大改革を仕遂げ、学を修め武芸を奨励し、風俗を改正し人情を改め、天下の人の心を一新せられましたと云ふ大改革があり、偉大なる人物であると云ふことは今更申すにも及ばぬことでありますが、若し私が推測を逞しうしまするならば、青淵先生は早く
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から此楽翁公を知つて居られましたのでありまして、晩年になられるに従ひまして青淵先生の御言動は楽翁公を余程学ばれて、或は先刻藤山君のお話になります如く、相通ずる所があつたと云ふ風な言葉を以て批評しても宜からうと思ふのであります。故に若し楽翁公をして明治・大正・昭和の時代にあらしめたならば、恐らく矢張青淵先生のやつたやうな事をなさつたではなからうか。之を逆に、若し青淵先生をして百数十年前の寛政の時代にあらしめたならば、矢張当年の楽翁公と云ふやうな型になられたであらうと私は言ふことが出来やうと思ひます。それは若し時間が許すことならば、多くのポイントがさうである、あの点がさう思はれる、と云ふことの証拠を挙げてお話することが出来ますけれども、今夕は左程長くお話を申上げることを控えやうと思ひます。そこで其青淵先生が最も早く楽翁公の実際の事に於て関係を持たれました事は何であるかと申しますと、楽翁公の多くの事業の中の単なる一つでありますが、江戸の市中に七分金の制度と云ふものがある。是は楽翁公が寛政の改革をするに当つて先づ財政の窮乏を救はなければならぬ、それに向つては一方に質素倹約を令して、消極的の手段を取り、一方には積極的に財政を裕かにする方法を講じなければならぬと云ふ考であつたのであります。其節倹約の令をば大名諸旗下に出された、同時に江戸の市中にも令せられて居るのでありますが、其中の一つ、町々に七分金の制度と云ふものを始めさせたのであります。即ち江戸の町の名主・家主・地主などの代表者数十人を呼出されて、さうして大名などにも皆倹約を令して備荒貯蓄米の事を勧めて居る。其備荒貯蓄のことが、丁度楽翁公の職に就かれます前、天明の大飢饉と云ふものがありまして、天下に餓死する者が多く、江戸の町でも珍しく暴徒が米屋を打壊したと云ふやうな事があつたのでありまして、さう云ふ時からまだ余り離れて居らぬのでありますから、備荒貯蓄のことを命ぜられたのであります。就ては江戸の町人に対しても奢侈を戒め、町々の費用、其時は多くの町で自治体を以て治められて居つたのでありますから、其費用をば数年間の統計を取つて平均額を見出し、何の町には一箇年の町の費用と云ふものが、例へば一万両なら一万両と仮定しますと、其内の七分をば積立てる、さうして後の三分の中で、一分は其町の予備費用として積立てゝ置く、二分は地主――昔の地主と云ふものは非常な権力を持つて居る者でありますから其地主の収益となる。即ち七分を以て積立る、其積立る所のものは之に幕府からも江戸の町に一万両の寄附金を加へられまして、其七分の積立てたもの幕府から賜つた所の金を合せて基金として、町々に適当な場所を選んで米を囲ふ所の設備をする、之に依つて凶年の備へをする。又其貯蓄した所の金を以て、老いて之を養ふ者のなき者、或は病気にして医薬の資の乏しい者、其他鰥寡孤独の憐むべき者をば救恤する、云ふ手段を講じやう。尚ほ其上に或る種類の商人などに於て、資本に窮すると云ふやうな場合には、規則を設けて之には幾分かの資本を貸与しやう、さうして利子を附けて返させやうと云ふやうなこと、今日で申せば商工業者に対して最も低利な資金を貸与すると云ふやうな方法であります。こんな慈善事業又極て規模の小さいながら銀行事
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業とでも言ひますか、色々な社会事業が出来ましたのが即ち其七分金と云ふ楽翁公の考に基いたものである。そこで初は僅かでありましたが、それが段々蓄積せられまして、江戸の幕府が瓦解し今日の東京府に其金が引継がれたのであります。其高が可なり多いのでありまして明治七年になりましてそれが百七十何万両と云ふ高になつて居ります当時の百七十万両と云ふのですから可なり大きな金高であります。此金がありましたが為に、東京市に於て当時道路の改修、瓦斯事業の始り、墓地の整理などゝ云ふことが出来て居ります。後年彼の田口卯吉博士が東京府の士族の授産事業として、南洋貿易を始めやうとして、船を出されたことがあります。其企ては大変結構でありましたが成功しませぬでした。之に関する資金は矢張七分金即ち東京市に代りましては共有金となつて居りましたが、其金で支弁せられたかのやうに私は記憶して居ります。又是は確かには私は知らぬのでありますが、彼の銀座通りの煉瓦造の家の出来ましたときにも、其一小部分は此共有金を流用したのであらうと云ふやうに話す人もあります。殊に青淵先生に最も縁故の深いのは即ち養育院の出来たこと、其初は七分金を受継ぎたる東京市の共有金で以て成立つたのであります。之が其実際の事に於て楽翁公を青淵先生が大に慕はれ私淑せられる関係の点であります。薨去に至るまで其職を御辞退にならなかつた所以であらうと思ひます。併しそれは唯事の実際の方面でありまして、青淵先生が其後書物を読み又人から聞かれまして、楽翁公の事蹟を研究せられるに従つて、之に私淑し之を景慕せられる念と云ふものは段々深くなつた。彼の楽翁公は初て幕府の難局に立たれましたときに、本所の吉祥院の歓喜天に願を懸けられたのであります。即ち人民を平和に暮させることの出来るやうに自分が政治をしたい、若し此願の叶ふことが出来なければ、自分の一身のみならず家族の生命に懸けてもお願をする訳である。即ち死を決して幕府の難局に立たれたと云ふことを窺ふことの出来る願文が本所の吉祥院から出ました。それは今でも御子孫の松平子爵家に在るのであります。此書き物の出ましたときには青淵先生非常な喜びと且つ驚きを以て見られたのであります。其何年の後でありましたか、養育院では毎年楽翁公の命日に楽翁公のお祭をされ、人々の講演を求め、又楽翁公に関係のある小さな著述などを配りますが、今申した願文が出ましたと云ふときには、写真版にしましてそれを来会者に配られたことがあります。此楽翁公の非常な決心を以て天下の難に当てられたと云ふ其決心を窺はるべき願文は、早速写真版にして其当時之をお配りになつたのであります。さう云ふ風な気風が楽翁公を益々景慕せられると云ふ動機になつたやうに思はれるのであります其他青淵先生が社会事業及学問、文芸方面に携はれました事柄に於きましては、楽翁公の中年以後の事蹟と甚だ似たる所が多いのであります。決して自分の一己に携はられずして、広く世の中の為を思つて一言一行をなさると言ふこと――比較的に斯う云ふ政治家だとか社会の表に立たれる人に拘らず、言行に表裏がない。さう云ふやうな事を始として、楽翁公と青淵先生には類似点が余程多いのであります。殊に歌を読まれる詩を作られる。美術の方面に多少の御趣味があつたと云
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ふやうなことなども能く似て居られるのであります。
 斯う云ふ次第でありますから楽翁公を第二の恩人と致しまして、丁度慶喜公に対する慶喜公伝の出来ましたが如く楽翁公の伝を拵へて、此如き偉大なる人物であり、善政美績の多い方であるに拘らず、まだ日本の人には能く分つてゐないのである故に、之を世の中に能く紹介し、一つは以て自分の楽翁公に負ふ所の徳に報ひたい、と云ふ意味で伝記を書くと云ふお企がありました。それを大正十五年に――其御希望はもつと前からあつたのでありますが、大正十五年に私に一つやらないかと云ふお話があつたのであります。それは私が丁度大学を出ました翌年、即ち明治二十三年でありましたが、楽翁公に関する小さな書物を出しました、其書名は白河楽翁公と徳川時代と云ふ書物であつた。それは当時の人々、吾々の同輩の人達も、偉人の伝記を読むと申せば大抵マコーレーの書いた西洋人の書を読むとか云ふやうな有様でありまして、支那人や日本人の中に学ぶべき人があつても殆ど顧みられないと云ふやうな有様であつたのであります。丁度まだ書生の頃で頗る血の多い時代でありましたから、憤慨しまして一つ日本人にもこんな人があるぞと云ふことを知らせやうと云ふやうな考で、楽翁公に関する小さなものを書いた、それを青淵先生御記憶して下さつたのであります。其後私は楽翁公の事蹟を引継ぎ注意をして居ると云ふことを御承知でありましてお話になりましたのであります。それも亦私は大に心が動いたのであります。早速お受したいと思つたのでありますけれども、丁度其際私は大学を停年制の申合せで退きまして、それで自分の好きな研究をしやうと思ひました所へ、宮内省の方で帝室編修官長と云ふものになつて、明治天皇の御事蹟を是非明かに纏めて置く仕事をやれと云ふことでありまして、謹でそれをお受けしましたのでもう余裕が少いのみならず、明治天皇の御伝記を編修することを承つて置きながら、それのまだ出来ませぬ中に、青淵先生の委嘱これ亦軽く見ることは出来ない。又自分の平常師事して居る楽翁公の伝、之を書くと云ふことに付ては頗る食指が動いた訳でありますけれども、何分今やつて居る所の公務の果せぬ中に他の人の伝を書くと云ふことは出来難い関係がありますので、甚だ自分に取つても遺憾であり、青淵先生に対しても之に反対することは恐縮したのでありますけれども、事情を申して辞退を致しました。其代りに私が数年に亘つて多少集めて居りました所の楽翁公の伝記に関する材料及極て蕪雑なる第一草稿とでも言へば言ふべきものを持つて居りますので、それを総て青淵先生に提供をする、さうして之を誰か他の人に御委嘱下さいと云ふことを申上げたのであります。そこで青淵先生更に然らば誰が宜からうかと云ふことでありましたので、帝大の助教授の平泉澄博士が最も宜しからうと云ふので推薦致しまして、其人が新に伝を起草されたのであります。さうしますると青淵先生は又前に慶喜公伝に就て御熱心であらせられたと同様に、出来ました所の楽翁公伝の草稿をば御覧になりまして、御自分の批評も致し、此事柄は斯う云ふ風に見たい、云ふやうな御批評もあり、又他の材料から御自身で御見聞になつて居つたことに付きまして、此点はどうであらうと云ふやうな御批評もありまし
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た。殊に又平泉博士がそれを口語体に書いて居りました為に、楽翁公伝としては矢張文章体の方が荘重で好いやうに思ふと云ふやうな御意見もありました。そこでそれ等の御意見御註文は更に平泉氏が継続しやうとしましたときに、平泉氏は少し長く欧羅巴の方へ行くことになりましたに付て一寸又頓挫を致したのであります。更に大学の史料編纂官でありました所の中村孝也博士に其事を頼みまして、孝也博士が熱心に文章を書き改め、且つ青淵先生の御意見のある所を参酌して又新に書上げたのであります。それを先生が此度の御病気になられます前、それから御病気になられて後まで、或は御自分でお読みになり、或は他の人に読ませてお聴きになりましたのが全体の七分通りであるのです。もう後三分と云ふ所で此度の悲むべき出来事になりましたのは非常に遺憾な事と存ずるのであります。是は丁度慶喜公伝の出来ましたときに、既に其前年に慶喜公が御薨去になつて居りました為に青淵先生が若し此書物が慶喜公の生前に捧呈することが出来たならば、如何に尚ほ此上喜びであつたらうかと言はれて述懐されましたが、今日楽翁公の伝が余す所僅かにして溘焉として逝かれたと云ふことに付ては、其時と同じやうな遺憾、歎息の声を洩さゞるを得ないのであります。
 是は伝記の事に就てゞありますが、楽翁公を景慕し崇敬せられたと云ふことは他の色々の事柄に在つても現れて居るのでありまして、数年前奥州の白河に楽翁公の神社が町の人に依つて建てられたのであります。丁度白河の町外れに南湖公園と云ふ楽翁公の好きで成らせられた広い立派な庭がある。今日では政府で名勝地として指定されて居るのであります。其南湖の公園の一部に楽翁公の神社が出来ました、之に付ては青淵先生が最も力を致されまして、其建築資金の大部分は青淵先生から出されたのであります。さうして軈て立派に出来まして南湖神社と云ふ社名で県社に今は列せられて居るのであります。楽翁公の事でございますから何れ官幣社にでもならるべきものではないかと思ふのでありますが、そこで其社殿に寄附する為に木村武山画伯《(下村観山)》と橋本永邦画伯と思ひます、此二人に大きな額に一方は春の花、一方は秋の葉、春花秋葉の図をお書かせになりまして之を奉納せられたのであります。所が南湖の公園と云ふのは立派な風景の地であります。楽翁公は一方では大政治家であると同時に他の一方では非常に風流文雅の士であるに依つて、さう云ふ所を酌取られて春花秋葉の額を献ぜられた次第であります。其処には白河町民が青淵先生の此神社が出来たことに付ての徳を称へて、境内に頌徳碑を建てると云ふことになつて立派なものが出来て居ります。其文章は事の顛末を能く知つて居る三上に頼むが宜からうと云ふことになりまして、私も辞することを敢てせずして其文章を作つたやうな次第であります。又昨年の事でありますが、昨年は丁度楽翁公の百年忌に当つたのであります。是に於て青淵先生が中心の人物におなりになり、同く楽翁公を景慕する連中が寄りまして楽翁公遺徳顕彰会と云ふものを造りまして色々企てをしたのであります。先づ以て楽翁公の御子孫なる松平子爵家の承諾を得まして深川の霊岸寺に在る所の楽翁公の墳墓の地を整理し之を維持すると云
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ふことを始めたのであります。丁度此霊岸寺の楽翁公の墓所はそれと相前後して史蹟として文部省に於て之を国家で保護すると云ふことになりましたものですから、此青淵先生の中心になられた楽翁公遺徳顕彰会の事業と云ふものは大変意味の深いものになりました。それが出来ますと同時に昨年楽翁公の命日には東京の商工奨励館に於きまして厳かな百年祭を催し講演なども致しました。さうして東京市・東京府の方も誠に之を美事なりとして賛成されたものでありますから、爾後毎年楽翁公のお祭は東京市に於て之を行ふことになりまして、本年のお祭は即ち東京市が主催をして祭をせられたやうな訳であります。まだ此会としてもすべき仕事が沢山あります。其会長の青淵先生が亡くなられたものですから、此会に於ても早速中心人物を失つてしまつて居るやうな訳であります。此の如く楽翁公に就て青淵先生の御追慕のこと並に承るべきことがまだ大分ございますが、余り時間が長くなりますから大体此辺で措きますが、先刻申しました如く実に楽翁公と青淵先生は多くの点に於て相触れる所が多いのであります。両方共八面玲瓏、どの方面から見ても仰ぐべきお方であると云ふのであります。唯一つ先刻申しました如く楽翁公伝を青洲先生の生前に出来上ることを為し得なかつたと云ふことは、誠に青淵先生も此方面に於て御遺憾とせられたに違ひないと思ひますが、其後れましたことが、私が素直にお引受せぬことは已むを得ぬ事情とは申しながら、先生の意に背いたこと及其後の始末を付けることに付て、彼れ此れ手間取りましたと云ふことが其大きな原因を為して居るのでなからうかと存じますると私は青淵先生に対して厚くお詑を申上げなければならぬやうに感ずるのであります。
 甚だ蕪雑なお話でありまして且つ聯絡を欠いたやうなお話でありますけれども、此方面に於ての青淵先生の御事蹟並に其恩人に報ゆる所の御精神、即ち恩に報じ徳に報ゆると云ふ誠に論語の活きて現れた一つの実例であると云ふ点を申上げた積りであります。或はもう皆さんの中にはさう云ふことは疾に御承知の方もありましたらうと思ひまするが、清聴を汚しまして感謝に堪へませぬ。
  深い感銘の中に五十分に亘る三上博士の講演が終れば渡辺常務理事が壇上に立つて、閉会の辞を述べられて自席にもどられるや、渋沢敬三氏が青淵先生令夫人の介添となられて、先づ退場され、続いて渋沢家御遺族の方々、最後に会員一同退場して、厳粛の裡に七時追悼会を閉ぢた。
  追悼会が終るや直ちに晩餐会となつて四階の大食堂に入る。渋沢家御遺族の方々が先づ設けの席に着かれて後一同が席に着く、水仙と菊とが卓上の所々に活けられてある、きらびやかなるべきシャンデリアも心なしか今宵は光りがにぶい。
  静かな私談と談話の中に一時間に亘る食事が終りデザート・コースに入るとトースト・マスターたる佐々木評議員会長が立ち上がつて、挨拶を述べられ、テーブル・スピーチに大橋新太郎氏と大倉男爵とを指名された。

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    追悼晩餐会席上に於て
                      大橋新太郎
 甚だ僭越でありますけれども、只今座長からの御指名でありますから、一言自分の追悼の意を申上げたいと思ひます。
 本日は青淵先生御追悼の為に此会をお催しになりまして、御遺族の皆様にお目に掛かることの出来ましたのは甚だ満足致す次第であります。私も先生には長く御引立を蒙りました一人であります。併し青淵先生六十歳前後と思ひますので、其始め先生が明治の初に事業をお起しになりました時分には、まだ年少でありまして其際には参加するの資格を持ちませぬでした。偶然にも青淵先生の中年晩年にはお供をしますことが出来ましたのであります。先づ私は最初に申上げたいと思ひますのは本年の一月元日――毎年私は年始に伺ひますが、本年の元日に伺ひましたときに、宇和島の伊達老公がお書きになりました百歳書之と云ふ附記のありますものを持つて、青淵先生の所へ伺ひまして宇和島の老公は百歳で之をお書きになりました。先生にも百歳の寿をお保ちを願ひたうございますと申上げました所、青淵先生は暫く其附記を御覧になりまして、君、百歳と云ふと、あともう八年ではないか……と云ふ御挨拶を頂きまして甚だ恐縮致しました。百歳では甚だ御不満足のやうに伺ひました。所が図らざりき其後一年も経たぬ此十一月に青淵先生をお送り申上げますと云ふことは、私は殊に感慨を深く致す次第であります。併し先刻評議員会長からお話のありました青淵先生が、最後の十一月八日にお遺し下さいました吾々実業界の者に対するあのお言葉だけは、深く吾々の心に銘じて其御趣意に添ひたいと云ふことを呉々も希望致します。蓋し是は会員の皆様も御同感のことと存じます。又青淵先生が此竜門社の為に長らくお住ひになりました王子の御本邸と云ふものを全部挙げて、而も基本金まで附けて此竜門社に御寄附下さいましたことに付きましては、其御好意に対しまして吾々竜門社員は其御好意に背かぬやうに、之を永く保存し、偉人のお住ひになりました此遺跡と云ふものは、又吾々の子孫にも感化を及ぼしますやうに、之を永遠に保存すると申すことは吾々会員として、当然の義務と考へますので、此事に付きましては相当の御計画がありますならば、会員一同出来る限りの力を致して、青淵先生の竜門社に対する思召に背かぬやうに致したいと思ふのであります。
 先刻長い御講演のありました後に、余り長いことを申上げるのは如何かと思ひますが、今より三十五・六年前に私は青淵先生の下に働きました時の一・二の事を申上げて見たいと思ひます。丁度明治三十年でありますから、青淵先生がもう六十歳前後の時と思ひます。まだ私は此処にお出になる敬三さんより少し若いやうな気がしました。其当時青淵先生の取締役会長をやつて居られました東京瓦斯会社の取締役に、先生から御推薦を受けましてなりました。当時専務取締役で第一銀行監査役の須藤時一郎君、時の東京市会議長を兼ねて居られました此須藤君の弟には沼間守一、高梨哲四郎と云ふやうな有名な政治家もお出になりました。私取締役になりまして、須藤君と会社の事に就て意見を異にして非常に議論を致しました。所が須藤君は非常に腹を立
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つて、僕は辞めるから君がやつたら宜からうと言つて、中々短気の人でしたから怒つてしまつた。そこで青淵先生に其事を申しますと、君がそんなことを言出して須藤君を怒らしてしまつたんだから、君が後を引受けてやつたら宜からうと云ふ御命令でありました。私も困りました。私は家業が本屋で、始めてから未だ十年許りです、それを抛つて毎日会社へ出る御用を承つては甚だ困りますから、どうか一つ他の方を御推薦を願ひたい。斯う申しました所が、それでは第一銀行の其頃重役をして居りました日下義雄さんに、君がさう云ふなら頼んで見やうと云ふことになつて、日下さんが青淵先生の御指名であつたものですから四・五日来てお調べになりましたが、共に第一銀行に居つて須藤君の後を自分が引受けると、又須藤君から文句を言はれると思つて、到頭日下さんはお逃げになつてしまつたので、どうも自分が言出したのだから已むを得ない、青淵先生の御命令通りに会社の専務をやつたことがあります。それで青淵先生に少々改革をしたいと思ひますが、宜しうございますか、人事問題を一切お任せ下さいますかと言ひましたら、宜しいと云ふことでございました。そこで年も若うございましたから随分乱暴な改革を致しました。社員残らず一先づ解職を命じました。さうして事業は一日も休むことの出来ない瓦斯事業ですから、午後二時解職して四時に更に使ふ人間に辞令を交附すると云ふやうな事をやりました。支配人・事務長・技師長・課長・荒方取替へまして、私が之を青淵先生の所へ持つて行つて、斯う云ふ風に改革致しました、御承認を願ひますと言ひましたら、青淵先生が少し乱暴過ぎるぢやないかと仰しやいました。其時に私が老朽の者を残らず陶汰しましたと言ひましたら、先生が、君、老朽々々と云ふけれども、君より僕は年上だ、老朽の者もあるが老練の者もある、さう君のやうに老朽々々と言はれては困る。甚だ若気の至りで青淵先生からお小言を頂戴して恐縮したことを、今尚ほ記憶して居ります。
 其後間もなく明治三十三・四年頃の事でありました。伊藤内閣が崩れまして丁度今度のやうな内閣のゴタゴタした事がありました。後継内閣には井上馨侯爵が皆の推薦があるから出たら宜からうと云ふことになつて、そこで井上さんのお婿さんの都筑馨六君と私共懇意であつたものですから、都筑と云ふ人が家の老爺も愈々番が来て内閣を組織するやうになつた、君宜しくと云ふやうな話がありました。其時に井上老公が、皆さんの御演説にもありました通り、渋沢子爵とは明治の初からえらいお近い間であつたと共に、日本の大蔵省の仕事も井上さんと渋沢子爵は深い関係がありましたので、井上さんが、自分が総理大臣をやるならば大蔵大臣は是非渋沢を煩したいと云ふ御希望で、渋沢子爵が受けるならば自分もやらうと云ふ御希望であつたのであります。所が渋沢子爵は御承知の通り、一旦野に下つた以上は政治に関係したくないと云ふのが一貫した御希望でありましたし、又此処に居られます佐々木評議員会長なども、子爵の大蔵大臣になられることをお望みにならなかつたやうな関係もあつたやうに承つて居ります。其時に丁度瓦斯会社の取締役で矢張第一銀行の重役であつた西園寺公成と云ふ方、今晩はお出がありませぬが、亀次郎さんのお父さんの西園寺
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公成さん、此方が山県老公から呼ばれて参りました所が、今迄他の者は皆総理をしたが、井上だけは明治維新の元勲の中でやらない。今度奮つてやることになつたが、それには渋沢が出れば自分もやると云ふのだ、どうも第一銀行が愚図々々言うて居るさうだが、お前も昔は宇和島の家老をした家に生れた人間だ、第一銀行が大事か国家が大事か此処で返事をしろ。山県老公から厳談を受けて、其時には西園寺さんも非常に弱つたと云ふことを私も聴きました。第一銀行が大事だと言へば国家に不忠のやうに当るし、さればと言つて国家が大事だと言へば渋沢さんを取上げられる。大に躊躇して国家も大事だが第一銀行も大事だと言つて、甚だ曖昧の返事をして山県さんからそんな馬鹿な事があるかと言つて一喝を喰つた、と云ふことを西園寺さんから伺つたことがあります。到頭渋沢さんが大蔵大臣をお引受にならなかつた為に、井上内閣は成立しませぬで、第一次桂内閣が出来たやうに記憶して居ります。是等も、渋沢子爵が一旦野に下つた以上は再び政治の局に立たぬと仰しやつた、其お言葉を事実に証明なされたことゝ存じます。其当時西園寺さんから青淵先生の御辞退なさいました事情などを目の当り見るやうに承りましたので、其事を皆様に申上げたのであります。
 尚ほ斯う云ふ追悼会のお席に喜びのやうなことを申上げることは遠慮すべきでありませうが、序でに是も一つ皆様に申上げたいと思ひますことは、過日実業界の団体が市政調査会館で聯合して、渋沢子爵の追悼会を催した際に、徳川公爵・益田男爵などの御演説がありましたが、此処にお出の敬三さんの御挨拶がありますと、私の隣りに居りました矢野恒太君が、どうも敬三さんの御風采が故渋沢子爵にそつくりだ、君はどう思ふ。子爵は弁論はお上手だつたが、敬三さんも中々思つたより上手だ、渋沢家の為に斯う云ふ好い後継者を得たことは何よりだと言ひますから、僕も同感だと云ふことを其際申しました。其事を今晩皆様の前に申上げて置きます。皆さんも矢張御同感であらうと思ひます。渋沢家将来の御繁栄の為に御自愛下さいますやうに敬三さんにお願ひ致します。
  右のテーブル・スピーチが終ると、次に大倉男爵が代つて立たれた。

    追悼晩餐会席上に於て
                   男爵 大倉喜七郎
 私も二代目でございます。丁度私の先代喜八郎――と申しますと、親父を呼捨に致す次第でございますから、鶴彦翁と言はせて頂きたいと思ひます。此鶴彦翁も矢張九十二で逝きましてございます。思合せますと当青淵大人も矢張九十二で逝かれた次第でございます。私は先代が存命中に於きましても、青淵大人には色々お世話を頂きました。其一端を申上げたいと思ひます。又ダヾを捏ねましてございます、其事も此処で申上げたいと思ひます。
 それは私が外国から帰つて参りました明治四十年でございました。いきなり大倉組の金物係りに入れられまして、丁度金物係りが非常な
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損を致しまして――手形を受取りまして其手形が不渡になつた、其整理をしろと云ふ次第で、一向分らないのにさう云ふ所へ打込まれまして、どうして宜いか分らない。併しビジネスはビジネスであるから、ビジネス以外の事は何も考へない。ビジネスライクにやらなければいけないと斯う考へまして、随分どしどしやりました。其後各方面の仕事・保険とか其他の仕事に廻されまして、父から斯う云ふ事をしろ、あゝ云ふ事をしろと命ぜられました。さりながら私の父は余り教へて呉れない質で、やらせて置きまして巧く行きませぬと、馬鹿野郎と来るのです。もう少し親切に此処は斯うしろとか、彼処はどうせいとか言つて教へて呉れてもよささうなものだ、斯う思つたことも度々ありました。其時には実は私は、此処に渋沢家の皆様方がお出になりますけれども、王子の大人の所へ駈付けたのです。今は包まず白状致します。さうして内々と斯う云ふ事が起つたんでございますが、どうしたら宜いでございませうと言つて、実は王子の大人より色々教を受けたのでございます。今日迄、此事は私は自白しなかつた事なんでございますけれども、逝かれた偉人を懐ふに付けても、私は此処で明に、右の次第を申上げた方が宜からう、と考へまして白状致す次第でございます。
 又ダヾを捏ねましたと云ふことは最近の事でございます。能く皆様のお出下さいます帝国ホテルの事でございます。此ホテルが財界の不景気――世界的不景気の為に、御承知の通り一番水商売でございますから収入が減りましてございます、前期は赤い字が出さうになりました、それも少からざる数字が現れるのではないかと云ふ心配がありました。それで是はどうしても整理をしなければならないと思ひまして丁度此処にお出の渡辺得男君に重役となつて頂きました。是は実は教を受けたい為に、無理やりに私がお願してお引張り申上げたと云ふ形があるのであります。――今日は何も彼も打明けて申上げます。それで一つ根本的に整理をしなくちやならない。先程大橋さん――今は老人でゐらつしやいますが、青年の時代には元気に任せ随分思切つたことをなさいましたやうに伺ひましたが、矢張人事も改革しなくちやならないと云ふことを申上げて、どうか青淵大人と馬越翁とお二方に御相談申上げ、自分の案を出しまして、どうか御採用を願ひたいと云ふことを申上げました。さうして出しました案は先づ第一に帝国ホテルの社長の馘首をやる、それから次に常務及常任監査役、それから追々怠けて居る者は御免を蒙る、と云ふ案を出しました、どうも私が社長でございますけれども、自分だけ残つて他を馘首と云ふ訳にも行きませぬし、何しろ常務と常任監査役を馘らうと云ふのでございますから自分も首を馘られやう。併ながら若しお目鏡に叶つたら繋いで頂かう誠に横着の案でありますけれども、自分としてはダヾを捏ねる以上は徹底的にダヾを捏ねると申上げまして、中へお這入りになつた渡辺得男君に大分御迷惑を掛けたやうな次第で、結局青淵大人から思ふやうにやつて見ろと云ふお言葉を頂きまして、さうして一先づ帝国ホテルの改革が出来たのであります。斯様に私がダヾを捏ねましたり、密に駈付けて教を受けたりする、私に取りましては大事な師でもあり、父
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亡き後は恰も父より以上にお慕ひ申上げた青淵翁が逝かれましたと云ふことは、実に私に取りましては父を亡くしまして未だ三年、涙新なるときに再び青淵翁を送りましたことは、実に申上げる言葉もない位に自分としても感じが深い次第でございます。さりながら渋沢敬三君も二代目でゐらつしやるし、私も二代目でございますから、又青淵大人も逝かれ、父も参りましたことでございますから、どうか私も竜門社の会員の一人としてのみならず、敬三君とも先代同志のやうに、或はより以上に将来お交際を願ひ、又御指導を賜はらんことを、玆に諸君のお出になる前でお願致す次第でございます。之が私の真情でございます。甚だ長くなりまして相済みませぬけれども、思ふ儘を明に申上げた次第でございますから御諒承を願ひます。
  大倉男席に着けば、子爵渋沢敬三氏が遺族席より立ち上がり再び謝辞を述べられる。

    挨拶
                    子爵 渋沢敬三
 今夕は先程あの会堂に於きまして、全くお心を籠められました追悼会をして頂きました上に、又更に此席に斯かる御鄭重なる法宴をお設け下さいまして吾々遺族一同を御招待下さり、祖父の冥福の為に一夕の宴をお設け下さいましたことは、皆様方の御友情・御親切、真に身に取つて有難く感謝致す次第でございます。
 祖父は病気と云ふものを絶対に許容しなかつたやうに見受けて居りました。働いて居る間即ち生きて居る間。働かない時即ち死んで居る時で、其間に病気と云ふ名を以て何日かの間を暮すと云ふことは、迚も堪らなかつたやうに見受けて居りました。生か死か。一面洋々として居りましたけれども、此問題だけは可なり切迫した考で常に厳然と考へて居つたやうに見えました。然るに今年の十月七日に起りました非常な苦痛、それから引続いてそれを因にして起りました手術、此時に祖父は是は病気と云ふものではないと云ふことの観念をはつきり持つたらしく見えます。私は病中のことを玆に管々申上げることは致しませぬでございますが、唯此間今迄皆々様から、或は追悼会、或は皆皆様のお話に依つて、祖父の色々な功績なり、或は仕事なりに、過分のお言葉を頂戴致して居りますが、病中の祖父の極く私的な、余り皆様方にお目に留らない時の祖父の様子を一寸申上げさせて頂きたいと思ひます。
 それは私から申上げるのでなしに、あの時分に附いて居りました看護婦の口からのお話を申上げて見たいと思ひます。甚だ意気地のない話でございますが、あの時分に看病の疲れで私自身が甚だ申訳のないお話でございますが、一寸糖尿で以て患ひました為に、最近其療治を致して居りまして、遇然色々世話をして下さる看護婦が、又此間家で祖父に附いて居りました看護婦でした。従つて塩田外科其他に此間居りました看護婦が、皆知合の間柄で、暇のあります毎にちよいちよい私の病室迄来て呉れました。落ちる話が何時も病中の話でございました其看護婦が皆異口同音に申して居りましたことを卒直に玆にお伝へす
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る次第でございます。初めの十四日には四人の看護婦をお頼み致しました。是は皆塩田外科に出這入りします長年世話をして居ります相当の手馴れの人ださうであります。十四日に参りました時には、兎も角世間的に有名な渋沢さんであると云ふので、可なり固くなつて居つたさうでございます。殊に祖父の性質其他に付て審にしませぬ看護婦達は、余程固くなつて仕事をしたさうでございますが、翌日からは全く考が変つたと申して居ります。段々とお世話をして居る中に自分等の感じたことの一・二、最もびつくりしたことがある。それは一つも苦情を言はず、小言を言はず、我儘も言はぬ。それも決して努めて言はないのでなしに、何等訴へない。無論肉体上の苦痛は訴へます。腰が痛いとか、胸苦しいとか色々なことがありましたらうが、其他に於て能く病人になると随分我儘になる、又我儘になるのは尤もである。又さう云ふ我儘の病人を今迄扱ひつけて来た彼等は、真に一驚したらしいのであります。それで何時でも参りまして話は其処に落ちまして、あんな病人を二十日間或は一ケ月扱つたことはありませぬ。実にどうも自分等は不思議に思ひました。無論食事が進まないが為に、皆んなの心配を思ひ、充分に努めたけれども、其勧める時に嫌がつて食べられないのは勿論であるが、それに対して一つも嫌味な小言もなければ無理な我慢もなければ、何と云ふか、全く自然で居られたには、自分等は真に涙ぐまれて、それに遂に打たれてしまつた。あんな御病人は本当にお扱ひしたことはございませぬと言つて涙ぐんで何時も話して居りました。是は祖父が今度初めて病気をしたのであらうと私は思つて居りました。其結果遂に帰らぬ旅に立ちましたのでございます。病人のお話を斯う云ふ御飯の席で申上げて恐入りますが、唯全く単純な看護婦があの間一生懸命尽して呉れました其時の感想として、唯お伝へ申上げましたに過ぎませぬ。
 今日斯かる有難いお席に於きまして、皆様方から先刻大橋翁並に大倉男爵から鄭重なるお心を籠められたるお話を承りまして、真に感激に堪へませぬ。唯私として真に惜しみますのは玆に其お後を受けまして立ちますのが、私でなしに祖父であつたならば、さぞ皆様方御満足のことであらうと云ふことを、心から考へる次第でございます。
 今日は誠に有難うございます。
  謝辞が終ると、横山徳次郎氏が自席から左の如く述べられた。

    追悼晩餐会席上に於て
                    横山徳次郎
 私は甚だ僭越でございますけれども、青淵先生に三十三年お世話になりました横山と申す者でございますが、皆さんのお話を聴いて非常に感激を致しまして、一寸一言申上げたいと思ひます。
 私の伜が只今紐育に居りまして、十五日の新聞の切抜を送つて呉れたのが今日着きまして、今此処に持つて来て見つゝある位でありますから、未だ能く読まないことを申上げるのでございますから、間違ひがあるかも知れませぬが、各新聞には子爵の御薨去の記事を掲載して居ることは、満場の諸君の御承知の方が沢山ありませうが、四・五の
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切抜の中を見ますると、何れも亜米利加に於きまして子爵の死を非常に悲しんで居ります。紐育タイムスの記事の如きは子爵の最近の御肖像を掲げまして、其所に書いてあるほんの一部を申しますると、日本の人を思ふには、此渋沢子爵が日本人の代表人物である。全く正直で裏表がない。さうして愛憎の念が殆どなく、而も同情の非常に厚い日本人の代表的御人格者であると云ふことが、先づ挙つて居ります。而して此大偉人が今や満洲の此事変の際に於て忽焉として去られたのは誠に日本の為に、又世界の為に惜むべきことであると云ふことがございます。而して子爵は御年九十一歳であつて――九十一としてあります――御幼少の時から国事にお尽しになつて居りまして、亜米利加のグラント将軍が日本に行かれた時分には非常に御鄭重に歓迎されたとか、或はハリスの記念碑を立派にお建てになつたとか、さう云ふやうなことがずつと並べて書いてございまして、最後に斯の如き立派な方は、亜米利加に於てはリンカーンにも匹敵する方である。英吉利で申せばグラッドストン。尚ほ伊太利のガリバルジー。さう云ふやうに立派なる世界的偉人豪傑と吾々が思つて居りました方々と、比肩すべき大偉人である。実に日本の為、世界の為に惜しむべき方であると云ふことが、今一寸読んで見ましたらございましたので、皆様方懐旧談をなさり、吾々もお話をすれば容易に尽きざるものがございますけれども、「内外ノ具瞻ニ膺レリ」と云ふやうなお言葉を私共も当時から深く感じて居りましたが、恰もそれを思出しまして、実に内外の具瞻に膺つて居られます所のお立派なお方と云ふことを、色々今日之を見まして又感ずる所が深うございますから、甚だ僭越でございましたけれども、実は堀越さんにでも之を差上げて全部やつて頂かうと思ひましたけれども、時が遅れました為に、私が堀越さんにお叱りを蒙るかも知れませぬが、ほんの二・三のことを皆さんに申上げて御承知のない方の御耳を汚した訳でありますから、どうかお許しを願ひます。

  斯くて正九時本社催しの青淵先生追悼会はしめやかな裡に終了した。
  強く強くよみがへつて来る三十三日前の驚きと哀しみとに閉されて、黙々として散つて行く青淵先生のよき門下生五百四十名をつゝんで、光りの薄い夜と荒んだ朔風とが更にその胸と心とを淋しからしめた。
因に当日の出席会員は左の諸氏である。(イロハ順)
 五十嵐与七・今井晃・稲本誠之助・石田豊太郎・磯村十郎・伊豆留吉・飯山昌字・石塚巌・岩出惣兵衛・石田千尋・石井重克・石川茂・石井祐斎・石川二三・井上井・伊藤英夫・石川道正・井上徳治郎・入江銀吉・井田英一・今井又治郎・市川武弘・井上権之助・池田朝次郎・伊藤半次郎・井上雅二・井田善之助・飯沼像一・糸川成章・井上勝治・犬丸鉄太郎・入谷春彦・井戸川義賢・池田嘉吉・服部金太郎・原泰一・伴五百彦・馬場緑二・長谷川清・蜂須賀昭英・原三郎・林弥一郎・坂野新次郎・林繁造・長谷川太郎吉・長谷井千代松・林正道・原胤昭・新田治一・仁後門二郎・西谷常太郎・西村道彦・
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新美賢二・西野恵之助・西村好時・二宮正幸・西川栄祐・二宮祐造・西酉乙・西田亨次郎・二宮行雄・新美節・堀田金四郎・星島米治・保志嘉十郎・堀越善重郎・細貝正邦・本田竜二・宝槻直助・堀内勝五郎・堀井卯之助・星野錫・堀井武・堀内明三郎・堀越鉄蔵・堀切善次郎・土岐僙・利倉久吉・戸木信佳・斗ケ沢純也・豊田春雄・富沢充・土肥東一郎・豊田秀雄・戸村理順・戸塚保吉・東郷郁之助・土肥脩策・友野茂三郎・千葉断一・児野博・大橋新太郎・大木忠三郎・小田茂樹・尾高豊作・大塚直次郎・小田川全之・大木操・岡本忠三郎・大津俊一郎・大倉喜七郎・大野五三郎・岡田為之助・尾高定四郎・岡原重蔵・大原万寿雄・奥川蔵太郎・大橋米吉・大沢佳郎・岡田元茂・尾高喜一・大葉久吉・大島正雄・大友幸助・岡田熊吉・岡本五郎・大河原源五郎・尾崎哲之助・小田精吉・太田民治・大森常勝・小田静穂・大森藤吉・織田槙太郎・大塚四郎・小倉槌之助・大亦義夫・大橋英一郎・小畑久五郎・小津新一・織田磯三郎・大島勉次・岡田純夫・小川功暉・渡辺得男・渡辺轍・若井庄三郎・渡辺一郎・和田巳之吉・和田二郎・渡辺雄馬・渡辺忠夫・和田実・渡辺保・和田義正・渡辺富三郎・川田鉄弥・梶川有・書上庸蔵・鹿島新吉・鹿島精一・鎌田繁治・金谷藤次郎・柏原与次郎・川村桃吾・片岡隆起・金子四郎・上浜誠・加藤右二・笠原孝三郎・神谷万蔵・川口一・川島辰之助・川口寛三・笠原厚吉・神谷祐一郎・金井滋道・唐沢孝雄・片倉正晴・神谷十松・亀島豊治・川島良太郎・加納純次・梶井礒五郎・金子喜代太・米倉嘉兵衛・横山正吉・吉田芳太郎・吉野千代吉・横山鹿次・吉岡義二・米谷吉五郎・横山直槌・米村信三・吉田庄五郎・横山徳次郎・吉岡鉱太郎・田中寿一・田島順三・高田利吉・田中鉄蔵・玉虫貞介・田島錦治・高柳恭一・高橋毅一・高橋信光・高橋金四郎・高橋静次郎・渋沢長夫・高島俊助・高村万之助・高井栄之助・高橋光太郎・武沢与四郎・田中太郎・高杉晋・竹村利三郎・多々辰雄・高橋養之助・滝田伝太郎・田所義一・高瀬荘太郎・田中聡・玉井周吉・高山仲助・竹内実・俵田勝彦・田中楳吉・滝本真一郎・田中二郎・田中栄八郎・竹内誠五郎・高橋森蔵・玉木真・高崎実・玉木泰次郎・大道寺忠雄・武川盛次・田島昌次・相馬半治・曾志崎誠二・土屋熙・坪谷善四郎・鶴岡伊作・塘茂太郎・辻友親・常塚実忠・根本源一・根岸乙一郎・中正一郎・成瀬隆蔵・中田清兵衛・中田忠兵衛・中西善次郎・永野護・内藤種太郎・長井喜平・永田甚之助・中井三之助・永井岩吉・中島外吉・中村松太郎・中山智・内藤太兵衛・中村啓之・中村栄・中村鎌雄・中田庄三郎・中村新太郎・中井一夫・中野時之・中北庸四郎・村木善太郎・村上豊作・村山包治・村上外次郎・村松秀太郎・村沢弥三兵衛・村上敏郎・宇野芳三・内山吉五郎・内田義光・梅津信夫・内海盛重・歌川節雄・植村金吾・上原久二郎・上田他敬理・内山正七・浦田治雄・梅沢慎六・上原三雄・宇野武・瓜生喜三郎・内田勝也・生方祐之・野治忠直・野治義男・野口弥三・野島秀吉・野口弘毅・信原義夫・野口嘉寿雄・野口米次郎・国井岩二郎・桑原玄一・久保田録太郎・熊井嘉一・国枝寿賀次・久保田良治・久留間二郎・栗田金太郎・山村米次郎・山
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本久三郎・八木良三・八木仙吉・山口荘一・山崎鎮次・山本徳三郎・山本留次・山本鶴松・八十島親義・矢崎邦次・簗田𨥆次郎・山口荘吉・大和金太郎・山下亀三郎・柳井信治・八十島樹次郎・松村修一郎・前川益以・前島東造・前原厳太郎・松木俊一・増田要・松村貴一・松本常三郎・馬越幸次郎・松島茂房・松井孝容・馬淵友直・松田義雄・松崎善二・正木富士三郎・松田祐・藤山雷太・福島三郎四郎・福田祐二・福田盛作・古沢秀弥・深井五郎・藤田義雄・福田茂・古田元清・藤井甚太郎・古河虎之助・古田錞治郎・藤木男梢・福島元朗・藤村義苗・小島伝三・小林徳太郎・後藤捨夫・後久泰治郎・小平潔・小坂梅吉・国分平次郎・近藤利兵衛・小滝満治郎・菰淵三郎・小暮和夫・河野光雄・小曳陽市・籠正織三郎・小島哲治・小見波隆朔・近藤竹二郎・近藤良顕・河野間瀬次・後藤泰治・古寺清平・小林武彦・小平省三・江守名彦・江口百太郎・寺山孫次郎・出口和夫・寺村邦衛・安藤杢・有田秀造・安東鼎・赤沢素三・秋元章吉・赤荻誠・浅野総一郎・明楽辰吉・新井源水・安西与一郎・安念育英・粟飯原蔵・有川源太郎・秋本藤吉郎・秋谷元一・有島健助・粟生寿一郎・麻生正蔵・浅田正徹・赤羽克己・秋山一郎・斎藤太郎・酒井正吉・佐々木興一・斎藤守圀・佐藤林蔵・桜井清・西条峰三郎・桜井武夫・阪谷良之進・桜井大路・斎藤精一・篠井律平・佐々木修二郎・佐々木勇之助・阪谷希一・佐々木哲亮・桜田助作・斎藤峰三郎・坂部冬雄・佐々木清麿・沢田竹治郎・迫本実・三枝一郎・佐治祐吉・佐藤正美・真田孝太・酒井杏之助・西園寺実・斎田銓之助・佐藤金三・酒井次郎・桜井淳・酒巻幾三郎・桜庭豊輔・菊地武・木島孝蔵・木村清五郎・木村弥七・北島靖・菊地金四郎・木村久雄・喜多野章吾・菊池峻治・木本倉二・岸大路卯三郎・木村雄次・木下道夫・木村清四郎・北脇友吉・木下憲・弓削靖・三上参次・蓑田一耕・宮谷直方・三上初太郎・水野豊次郎・緑川洽・宮川敬三・宮崎吉雄・皆川巌・宮内実・湊屋梅吉・南塚正一・峰岸盛太郎・下田豊助・清水揚之助・清水常秋・白石喜太郎・芝崎猪根吉・渋沢治太郎・渋沢元治・島田誠太郎・島田延太郎・重野治右衛門・渋谷澄・渋沢信雄・正能剣司・清水新平・篠原三千郎・重原正一・清水精三郎・清水景吉・島田喜兵衛・渋沢義一・新城賢治・清水釘吉・塩沢昌貞・白岩竜平・下河原愛二・白石甚兵衛・白石徳三郎・白石万吉・白石小麿三・下郷伝平・下川芳太郎・清水百太郎・守随真吾・渋沢智雄・芝崎徳之丞・清水一雄・平岡道雄・平形知一・肥田英一・平賀義典・広瀬市三郎・平塚季四郎・菱沼茂三・森岡三郎・森岡文三郎・森岡平右衛門・諸井四郎・諸井六郎・諸井貫一・諸井恒平・森村謙三・門馬政人・関根要八・瀬川太平次・関比企郎・関口児玉之輔・鈴木重治・鈴木善助・鈴木全・周布省三・鈴木源次・鈴木紋次郎・杉田泰三・鈴木良樹・末兼要・杉田富・鈴木勝・鈴木旭


竜門雑誌 第五一九号・第一―三頁昭和六年一二月 渋沢翁の徳を偲びて 馬越恭平(DK430039k-0002)
第43巻 p.326-328 ページ画像

竜門雑誌 第五一九号・第一―三頁昭和六年一二月
    渋沢翁の徳を偲びて
                        馬越恭平
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 本日渋沢翁の追悼会に、老生にも何か思出のことを話すようにと幹部の御方から御言葉がありましたが、実は老生が竜門社に入りましたのは昨年の事で、入社後、日も未だ浅いのでありますから、一応御辞退申しましたが、又考へて見ますると、翁とは最も永い間御懇命を受けた事でもあり、旁々甚だ僭越ながら、此処に立ちました次第であります。
 翁の人格崇高にして、至誠一貫邦家の為めに尽瘁せられ、加ふるに徳望の高いことは今更老生の申す迄もない処であります。能く其人の長所を採用すると共に、短所を以て漫りに其人を棄てることなく、殊に後進の指導に意を用ひられ、其間誰彼の差別なく、一視同仁に遇せられましたことは、恰も彼の明月が、玉殿高楼たると、賤が伏家たるとを問はず、孰れをも皎々乎として、一様に照らし居ると同様であります。
 翁は官尊民卑の最も劇しかつた明治初代に在つて、一朝官を辞し民間に下つて力を実業方面に尽されました。永い間の封建時代の遺習から、士農工商と申して商は最も下に置かれ、軽蔑されたものでありましたが、翁の指導啓発に依りまして、遂に今日の如く地位を高めらるる様になつたのであります。我々実業に従事するものは、深く翁に感謝せねばならぬと思ふのであります。其当時商業に従事するものを、商売人とか、素町人とか申し、如何にも軽蔑されたものでありましたが、或日翁始め私共が集りました折、翁は何とか名前を変へて、人心を一新させようではないかと言はれて、其時翁が付けられましたのが現在用ひて居る所の実業と言ふ名称であります。只今から考へると誠におかしな話の様ですが、斯の如き些細の事に就きましても、意を御用ひになつたことは、又以て如何に翁が実業界に御尽力せられましたかの一端を窺ふに足ると思ひます。
 其他商法会議所を創設し、商業会議所の基礎を据へ、或は株式組織の先例を開かるゝなど、凡そ維新後我国に初めて興されたる事業で翁の御世話にならぬものは殆んど無い位で、実に経済界の大恩人であります。
 翁の薨去せらるゝや、畏くも、御下賜になりました御沙汰書は、最も能く翁の性格効績を尽されて居りまして、私共も唯々聖恩の優渥なるに感泣し奉る次第であります。翁と老生との交際は、殆んど六十年の永い間でありますから、其御懇命を蒙りました事を一々御話申し上げますると数限りもありませんが、玆には其一・二を申述べて、翁の徳を偲びたいと思ひます。明治三十一年、老生が岡山から衆議院議員に立候補の時、翁は定めし金も要ることであらうと、一万円貸して下さいました。当時老生は門戸こそ張つて居りましたが、財政頗る不如意の折でありましたので、其時の翁の友情の厚きを今尚ほ忘れる事が出来ないのであります。明治三十九年、サッポロビール、ヱビスビール、アサヒビールの三会社合同して只今の大日本麦酒会社となりました当時の如き、此三会社が互に鎬を削つて激烈な競争をして居つたのでありましたが、斯くては我が国家経済上甚だ不得策であると思ひまして翁及び故大倉男に話しました処、孰れも大賛成を得ましたが愈々
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其実行に当りますと、三会社各々自分の都合の良い事のみ主張して中中纏りませんでしたが、翁は一点の私心を挟まず熱誠以て其間に処せられましたので、遂に都合好く合併が成立する事になりました。
 扨て合同後の社長は無論翁がなるのが当然でありましたのに御自分は左様な御考を御持ちなく却つて老生を社長に御推挙下さいました。爾来今日に至る二十有六年の永い間老生が其地位を恥しめて居るのも一つは翁の此意気に感じ其負托に背かざる決心を致したからであります。大正三年、翁が支那を巡遊されました節、老生も御同行申しましたが、其折各地の歓迎会に於て同国の高位高官を前にして、堂々日支親善の必要を説かれ、国民外交に尽されました当時の面影が、今も尚ほ目に見えるが如く転た今昔の感に堪えません。
 老生は裸一貫、前垂掛から今日に相成つた我儘者でありますが、只翁に対してだけは、常に敬服して居りました。昨年老生八十七歳の老躯を以て翁の門下生として竜門社に入会致しましたのも、畢竟翁の徳を慕ふ余りに外ならぬのであります。
 過般旅行先にて翁御危篤の電報に接し急ぎ帰京致しましたが、幸ひ御生前の間に合ひ、尚ほ告別式当日にも親しく棺側に侍して最後の御別れを申し上げる事が出来ましたのは、せめてもの事と自らを慰めて居ります。
 今や我国内外多事多難の際、翁の如き偉人を失ひましたのは実に国家の一大損失であります。又老生個人と致しましても、曩きに畏友大倉男を失ひ今亦師父とも仰ぐべき翁に別れ、恰も暗夜に灯火の消ゑし如く、漫ろに寂寥を感じまして真に哀悼の情に堪ゑないのであります
 老生幸ひ身体頑健でありますから、余命を以て竜門社各位と共に、一意御国の為めに御奉公申す覚悟であります。冀くは翁在天の霊、尚ほ此世に在ませし時と同じく御指導を垂れ賜らんことを、一言追慕の情を述べ御冥福を祈る次第であります。
        (本文は十二月十三日竜門社青淵先生追悼会にて講演せられる筈になつて居たものであります)


中外商業新報 第一六四七五号昭和六年一二月一四日 慈父を慕ふ集り 竜門社の青淵先生追悼会(DK430039k-0003)
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中外商業新報 第一六四七五号昭和六年一二月一四日
    慈父を慕ふ集り
      竜門社の青淵先生追悼会
故青淵渋沢子爵を中心として居た社交的修養団体竜門社では、十三日午後四時より帝国ホテル演芸場において、青淵先生追悼会を開催したが、この日
 政界の慌しき雲行にもかゝはらず、故子爵の徳を慕ふ人々は、佐々木勇之助氏をはじめ続々と来会し、三時五十分頃には参会者五百八十名を数へ、流石徳の人青淵先生の追悼会にふさわしいものがあつた、定刻四時振鈴と共に幕の引かるゝや、舞台正面には白菊と蘇鉄とを以て飾られた故子爵の大写真が掲げられ、右側には兼子未亡人・敬三氏・篤二氏始め渋沢家の人々、左には会長佐々木勇之助氏・常務理事渡辺得男氏・藤山雷太氏・三上参次氏が居並ぶ、先づ渡辺氏の
 開会の辞があつて、佐々木氏から竜門社を代表して立ち、言々句々
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悲痛の響きを込めて先生の徳をたゝへ「まことに一代の慈父でありまして、今日私達がかゝる会を開かねばならぬとは、痛恨断腸の思ひが致すのであります」と述ぶれば、兼子未亡人には早や悲しみの涙新しく、しばらくハンカチを目にあてゝ放さず、満場の人々の心をうつた次いで列席者一同の礼拝後、敬三氏の謝辞あつて、追悼
 講演に入つて、藤山雷太氏は「常識の大人格者青淵先生」と題して種々例をひきつゝ青淵先生の偉大さを説き「論語を本当に体得したものは、孔子逝いて二千五百年の今日、先生一人ではないでしやうか」といひ、次に三上参次氏は「青淵先生と白河楽翁公とについて」と題し、先生が楽翁公に心服されたのは二人の性格的類似にあるとて「寛永年間に先生が居られたら、先生は遂に楽翁公たるに違ひありませんまた
 楽翁公が今日あつたならば、必ずや青淵先生たるでありませう」と断じ、再び渡辺氏の閉会の辞あつて六時四十分青淵先生追悼会は盛大裡に終つた