デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
2款 講道館 1. 財団法人講道館
■綱文

第43巻 p.361-365(DK430054k) ページ画像

昭和6年12月(1931年)

是ヨリ先、十一月十一日栄一歿ス。仍ツテ当館館長嘉納治五郎、是月発行ノ「柔道」誌上ニ追悼文ヲ掲載ス。


■資料

講道館本部要件録六(DK430054k-0001)
第43巻 p.361 ページ画像

講道館本部要件録 六        (財団法人講道館所蔵)
    昭和六年度
      十一月
十一日 本館監事子爵渋沢栄一氏本日薨去、供花供物御断ニ付遠慮ス


昭和六年度講道館事業及会計決算報告 第八―九頁(昭和七年)刊(DK430054k-0002)
第43巻 p.361-362 ページ画像

昭和六年度講道館事業及会計決算報告 第八―九頁(昭和七年)刊
    処務ノ要件
 - 第43巻 p.362 -ページ画像 
○上略
一、十一月十一日、本館監事子爵渋沢栄一氏病ノ為薨去サル、子爵ハ明治四十二年本館法人組織成立以来監事トシテ終始本館ノ為ニ力ヲ効サレ、ソノ功労甚タ多ク、本館ハ謹テ弔意ヲ表シタリ
一、十二月廿四日午後五時、中央亭ニ於テ評議員会ヲ開キ、嘉納館長嘉納徳三郎・南郷次郎・本田親民・潮田方蔵・竹内平吉・渋沢正雄・永岡秀一・富田常次郎・本田存・山下義韶・永野護・飯塚国三郎、諸氏出席左ノ件ヲ決議ス
  一、講道館所有ノ土地ト砲兵工廠跡ノ土地ト交換ノ件ハ、其後多少ノ難調ヲ来シ未定ニ付、本件ニ関スル処理及之ニ関聯スル一切ノ件ハ、嘉納講道館長及講道館後援会理事中川末吉・渋沢正雄・永野護ノ四氏ニ一任スルコトニ決ス
   尚又館長ニ於テ必要ト認ムル場合ハ別ニ評議員会ヲ開カス、講道館理事ト協議シテ決定スルコトヲ得ルコトニ決セリ
  二、渋沢監事薨去ニ付、監事補欠ノ件ハ相当ノ人ヲ得ルマテ暫ク延期スルコトニ決ス
  三、昭和七年度会計収支予算ハ原案通リ可決セリ


柔道 第二巻第一二号・第二―六頁昭和六年一二月 渋沢子爵の薨去を悼み心に浮ぶまゝを述ぶ 講道館長嘉納治五郎(DK430054k-0003)
第43巻 p.362-365 ページ画像

柔道 第二巻第一二号・第二―六頁昭和六年一二月
    渋沢子爵の薨去を悼み
      心に浮ぶまゝを述ぶ
                 講道館長 嘉納治五郎
 渋沢子爵は、日本が生んだ稀に見る大人物であつた。我が国の実業界に於ける大恩人であり、又社会事業や教育事業の上にも、多大の貢献をせられた人である。
 普通大人物といへば、人は政治上その他、世に大なる変化を起した人をいふ。さういふ人は、多く自己の名誉・利益・権力に対する慾求を満足せしめんがため活動したのである。さういふ人は、往々自分の目的を達せんが為に、多数の他の人を倒し、又は他人に損害を与へて居る。その人が起らざれば、他に同様の人が起つたに相違ないと想はしめる場合が多い。併し渋沢子爵の如きは、それ等と類を異にして居る。人の為に尽し、国の為に尽しながら、平和的に自ら大を為した人である。或る日私の懇意な実業家で、子爵と色々事を共にしたことのある人が、子爵を評して、渋沢さんは、自分ばかり儲けようとしない必ず人にも儲けさせて自分も儲けようとする人であるというたことがある。実に平和的に大事業を為した人である。
 今かういふ大人物を失つたことは、我が国の大なる損失であつて、国民の均しく惜しむ所である。
 子爵の功績や人と為りに就いては、新聞や雑誌の記事にも詳述せられてあるから、自分は玆に同様のことを繰返さない。併し自分は、子爵と古い関係を有して居る一人であるから、自分の接触した方面から既往を追想して、聊か子爵の優れた点を記述して見ようと思ふ。
 子爵は自分より歳が二十も上であるから、自分が明治三年に十一歳の時、始めて東京に出た折は、三十三歳で、既に枢要の地位に居られ
 - 第43巻 p.363 -ページ画像 
た。併しその頃は、まだ直接の知合ではなかつた。始めて知合つたのは、明治十二・三年の頃で私が東京大学の学生であつた頃、経済学の科外講師として、毎週一回であつたと思ふが、講義に来られた時からである。その頃、日本人で経済学の講義をする人がなかつたので、講義は皆外国人から聴いたのである。只銀行のことについて講釈をする為に、当時第一国立銀行の頭取であつた渋沢栄一氏が来られたのであつた。渋沢子爵は、現在社会の表面に立つて居る誰よりも先輩であつて、事を共にしたり、世話になつたりした人は、極めて多数あらうが講師としてその講義を聴いた人は、極めて少数であらうと思ふ。そして自分は、その少数の一人である。
 大学時代より後は久しく接触する機会を得なかつたが、明治三十五六年の頃であつたかと思ふ、その頃突然訪ねて来られて言はるゝに、お茶の水の孔子廟の廻廊は、目下教育博物館の陳列場の一部に当てられ、孔子の祭つてある大成殿は、時々学校の教場に使用せられて居るやうである。かくては元来聖廟が設けられた趣旨にも適はぬではないか、何とか仕方がないものかとの懇談があつた。何故に自分の所へ、さういふ話を持ちかけられたかといふに、当時自分は、高等師範学校長であつて、孔子廟は文部省の管理に属するものであつたが、その直接の世話は、高等師範学校長に委ねられて居たのである。又教育博物館も、高等師範学校の附属になつて居たのであるからである。自分は渋沢氏の考に全く同意であつたから、左の如く答へた。「私が高等学校長に就任した当時から、今日の状態であつたので、甚だ遺憾に思ひ何んとかしたいと文部省へ申出でたことがある。併し経費の関係上、今尚ほ元の儘になつて居るのである」と。それを聞いた渋沢氏は、大に悦ばれ、さういふ御考なら、聖廟保存会といふやうなものを設けて聖廟の修理もし、祭典も行ひ、孔子を尊崇する意味を徹底せしめたいと思ふが、どう御考へなさるかとの話があつたから、自分もそれに同意し協力することを約束した。孔子祭典会の方は、その前から自分にも考へがあつたので、儒学の大家などと協力し、自ら委員長に押されて、大凡同じ頃から、継続的に行はれることになつて居る。そして私が高等師範学校を退いた頃からは、その事業を今の斯文会に引継ぎ、今尚ほ年々行はれて居るのである。
 そこで、その聖廟保存会につき、渋沢氏の徳といはうか、人格といはうか、この機会に世に紹介して置きたいと思ふ一事がある。さて前のやうな行掛りで、自分も聖廟保存会に協力することを約束した関係上、屡々同志と会合することがあつた。その頃はまだ、谷干城・細川潤次郎・重野安繹・三島中洲などいふ老大家が生存して居られたので一日兜町の渋沢事務所で会合することに約束して、或る日一同が十二時前に集まり、渋沢氏の来られるのを待つて居た。然るに十二時過ぎになつても来られない、十二時を二十分程過ぎた頃、電話が掛つて来て、今何かの会議の議長をして居るが、今少しすると行くとのこと。その後一時頃になつて、又電話が掛つてどうも切上げられないから、甚だ失礼であるがどうぞ食事でもなさつて、皆様で御談し合ひ下さつて、後日又会合することに願ひたいとのことであつた。その時列席の
 - 第43巻 p.364 -ページ画像 
人々はどういふ顔付をせられるかを注意して見て居たが、誰一人不満な様子を示されなかつた。細川男爵の如きは、年齢は渋沢氏よりは大分上、閲歴に於ても、明治初年からの顕官であり、谷子爵の如きも、西南の役の殊勲者であつて、世に重きを為して居る人、重野・三島両博士の如きも、漢学に於ては第一流の大家であつて、年齢に於ても渋沢氏よりも大分上である。さういふ人々が、その電話を聞いて、何といふかと思ふと、谷子爵は「渋沢は忙しい人だから、又重ねて会合しよう。」といふ。細川男爵も、一向不満の模様なく、食事を一緒にして、色々談合の後散会したが、この事は、一般の人に対して、大に教訓になることであると思ふ。渋沢氏が平素自儘な人で、他人に迷惑をかけても平気であるとか、横着で他人のことを顧みないやうな人であつたならば、皆々が前述のやうな心持で散会しなかつたらうと思ふ。
 私は渋沢子爵と一緒になつて、色々のことをしたことがある。日本女子大学校の創立の際も、その一つである。文部省に教育調査会が設けられた時も、渋沢氏と一緒にそれに加はつて居たが、渋沢氏や早川千吉郎氏と意見を同じうし、三人で、反対側の人々と論争したこともあつた。それから又、明治四十一年に、講道館を財団法人にしたが、その時から過日死なれるまで、二十三年間、引続き監事として尽して貰つた。その外、子爵の長男篤二氏は、私が学習院の教頭時代に小学生であり、二男武之助氏、三男正雄氏等、又多数孫に当る人々が、高等師範学校の附属中学に居られ、就中正雄氏は、講道館の有段者であり、現に評議員の一人として、講道館の為に尽して居られる。又令嬢等は、私と同窓である穂積・阪谷両博士に嫁して居られるといふやうな訳で、子爵と私とは、色々のことで関係があるから、屡々訪問をしたことがある。来客の多い家であるから、こちらは約束した時間に行つたに拘らず、長く待たされたことがあつた。自分はさういふことは平気であつて、待つて居る間に本を読んだり、物を書いたり、考へたりして居るから、退屈することはない。併し時には、何かの用事で先の支へて居る所などには、困ることがあつた。併し会ふと実に懇切で行届いた人であつた。一通り話をした後、他の人が待つて居るやうだからと思つて、自分は早く帰らうとしても、まだ少し話の徹底しないやうなことがあると、引留めて十分に意を尽さなければ止まぬといふ風であつたから、待たされて多少不快に思つたものも、その懇切に感じて、好い心持で別れるといふ風であつた。
 今一つ子爵の優れた点は、何事でも頼まれたことは出来るだけ世話をし、労を厭はぬのみならず、謙遜な態度で人に接し、人をして好感を有たしめるといふことであつた。人は往々、人に頭を下げることは卑屈であると考へて、尊大に構へることを善いことゝ心得て居るが、子爵の如きは、さういふ考を有たぬ人であつたと思ふ。自分のことを人に頼む為、余り頭を低く下げるやうなことは、他人から卑屈と見られるかも知れぬが、渋沢子爵の如きは、如何に頭を低くしても、自分の利益を得ようとか、名誉を得ようとかいふ念慮に依るものでなく、人の為、世の為、国の為といふやうな、高尚な目的を果す為に、自ら謙遜の態度を持するのであると人は思ふから、人をして却つて好感を
 - 第43巻 p.365 -ページ画像 
有せしめ、尊敬の念を起さしめたのである。
 以上は只、心に浮ぶが儘に述べたのであるから、渋沢子爵の人と為りの、ほんの一端を描き出したに過ぎぬものと思つて貰いたい。