デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
3款 社団法人日本弘道会
■綱文

第43巻 p.385-392(DK430059k) ページ画像

大正5年9月24日(1916年)

是日栄一、当会埼玉県黒須支会ノ秋季講演会ニ出席シテ演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK430059k-0001)
第43巻 p.385 ページ画像

集会日時通知表 大正五年          (渋沢子爵家所蔵)
廿四日○九月 日 午時十時二分池袋発埼玉県豊岡ヘ御出向、午後七時九分池袋着御帰京ノ予定


弘道 第二九五号・第四五頁大正五年一〇月 【一、同月○九月二十四日…】(DK430059k-0002)
第43巻 p.385 ページ画像

弘道 第二九五号・第四五頁大正五年一〇月
一、同月○九月二十四日埼玉県黒須支会秋季講演会開催、講師トシテ男爵渋沢特別会員・文学博士加藤協賛会員出張
 - 第43巻 p.386 -ページ画像 

弘道 第二九七号・第二―一一頁大正五年一二月 道徳と経済 特別会員男爵渋沢栄一(DK430059k-0003)
第43巻 p.386-392 ページ画像

弘道 第二九七号・第二―一一頁大正五年一二月
    ○道徳と経済     特別会員 男爵渋沢栄一
      一
 私は「道徳と経済」即ち道徳と経済とを一致させたいと云ふの主義を此処に申述べて見たいと思ふのでございます。弘道会は即ち道を弘めるのであつて、故西村茂樹君の主唱されたものであります。雑誌に始終書いてあります人能弘道非道弘人、是は多分論語にある孔子の語と思ひますが、其通りであつて、決して道と云ふものが人を弘めるのでない、人が道を弘めるのである。他の文字から之を一つ解釈しますならば、中庸に誠者天之道也誠之者人之道也と書いてある。是は人能弘道非道弘人と同じ意味に解釈されるのであります。道と云ふものは何であるか、之を演説口調に申しますれば道とは何ぞやと言ひたいのでありますが、この道は誠に漠々として居つて、定義が余程六ケ敷いのであります。今申して中庸にも道也者不可須臾離也、可離非道也と云ふ風に、道と云ふことを説いてある。此外はつきりとして極く判り易く解釈したものは沢山ありませう、私は此に記憶して居りませぬが韓退之の原道と云ふ一文章の中に、仁義道徳と云ふ文字を解釈して四つに分つてあります。是等は誠に判り易くて先づ宜しきを得て居ると思ひます。博愛之謂仁、行而宜之之謂義、由是而之焉之謂道、足乎已無待於外之謂徳。博い心を以て人を愛するのが即ち仁である。それから真直の道を行ふのが即ち義である。其仁義に由つて始終行動を為しつゝあるのが即ち道である。其道が己の心の中に充ちて居つて外に頼むことのないのが即ち徳である。六書字根には徳と云ふ字は、行人扁に直と云ふ字に、心と云ふ字を書いたものだとしてあるが、六書字根の解釈から云ふとさう云ふ風になつて、今の直しい心を行ふのが徳である。処が道と云ふものを有たぬと徳にならぬ。併し道と云ふ文字を説きましたことは、殆んど千差万別とも云ふ位で、道学者先生の説きました言辞は随分多いやうであります。私が今玆に字義に就て道を研究する必要はないと思ひますが、今の先づ韓退之の由是而之焉之謂道といふ字義を暫らく認めて置いて宜からうと思ひます。
      二
 私が今玆に申上げたいと思ふのは、人に仁義道徳と云ふものを説明するばかりでなしに、其仁義道徳を広く言へば国家に、又狭く言へば個人に実行して御互に日常必要なる物を殖やし、財を生ずる、即ち生産殖利であります。之を一括して申しますと、経済と云ふことになる蓋し経済と云ふことでも、果して経済と云ふ文字が生産殖利にぴつたりと合ふかと申すと、私はさうまでは申上兼ねるのであります。元来支那の文字は場合に依つて意味が広くなりますし、又御互の遣つて居る言葉が事に依ると平仄の合はないことがあつて、少し無理があるのでありませう。六書字根の如き六書の文字に就て字の組立が悉く研究されると云ふことは、今の俗人には必要が無くなつて居りますから、それらの穿鑿は廃めて、経済と云ふことを申しますが、経済と云ふと財政で、一家から云へば一家の会計、更にもう一つ言葉を換へて申せば、御互に日常勉めて居る生産殖利即ち物質的の事柄を経済と申した
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のであります。それから道徳と云ふものは、我々の心を養つて行かねばならぬ処の徳、即ち或場合には理想とし、又宗教の如くに信ぜんとする処のものでありますから、心に属する精神的のものでありまして一方の経済は形に属する物質的のものである。此精神的のものと物質的のものとが事に依ると離れ易いものであるから、此一致は如何にすれば宜しいかと云ふことに就ては、常に一つの信念を有たなければなりませず、又主義を有たなければならぬ。でないと韓退之の言ふ通り由是而之焉謂道、さう云ふ道を求めることは出来ないと思ひます。
      三
 少し御話が側道に這入りますが、此仁義道徳と云ふ教は全く漢学から伝はつたもので、ずつと昔はどうか判りませぬが、先づ徳川三百年の以前其天下を統一された徳川家康と云ふ御人が当時の文学が大変に衰へ、教育等の事の殆んど地を掃つた有様を慨いて日本国民の思想を段々進めて行くには、儒教仏教此二つを専ら進めねばならぬと云ふ考を有たれて、藤原惺窩とか林道春、或は一方には僧天海、金地院崇伝とか申すやうな儒家僧侶を大層挙げ用ゐて、文治に力を尽されましたさうして慶長十年にはあの御人が、駿河に隠居されて、大阪の落城は元和元年であるから、即ち十一年の間は此文字に力を尽した御人である。此間最も儒教に力を入れまして、而も林道春と云ふ御人が大儒であつて、此文学を講ぜられた。それが中古の日本に漢学の発達した所以である。其頃の制度にしては、御互のやうな物質に関係ある経済界の人々は総て被治者の位地に置かれて、さうして唯命是従ふ。換言すれば国を治める人の一つの用具にされたのである。人とは見られぬと云つても宜いのであります。彼等武人の威福を張るの道具に用ゐられたもので、其威福を張るには種々の物がなければならぬ。道具も造らなければならぬ。食料も拵へなければならぬ。それに就て百姓も町人も皆虐げられて、彼等武人の武を張る処の用具にされた。それ故に人を治める処の人に仁義道徳が必要であつて、人に治められる処の人には余り必要はない。だから、精神の方に属する仁義道徳は、多く治者の間にあつて、被治者なる農工商の人には殆んど仁義道徳を攻究する必要はないと云ふ有様であつたのであります。況んや其教へて来た根本は何うかと云ふと、多く此頃の文学と云ふよりは漢学ですが、漢学は宋朝学者の説が大層流行しました。即ち林道春は朱子崇拝の人であつて、其宋末の漢学者としては、程伊川とか、程明道とか、張横渠とか云ふやうな立派な学者がございましたが、其中で最も著しいのは朱晦庵即ち朱文公と云ふ人が、最も其学者中の優れた人であつたから、此人の説が支那に多かつたので、随つて徳川氏の時分に這入つて来てさうして先づ漢学になつたのであります。それは唯上流の漢学でなしに、政府の学問になつて、仕舞ひにはとうとう他の学派を禁ずる様になりました。其宋朝学者の論でも、今申す通り矢張り仁義道徳と云ふものは、成るべく上流の国を治め天下を平かにする人の行ふべきものの如くに解して居つた。況んや徳川氏三百年の間はそれが卓絶の方法と云ふことになつて居りましたから、仁義道徳と云ふものは一種の御札のやうに思ひ経済と云ふべき生産殖利は農工商を営む人のすること
 - 第43巻 p.388 -ページ画像 
で極卑下すべきものである。此思想は大変長く続いて居つた。其間が何百年と云ふても宜い位である。併し仁義道徳と云ふものは元どこから出たかと云ふと二千六百年前に孔子・孟子などいふ人が説いた所であります。更にもう一歩進んで言ふならば、支那の学問即ち孔孟の為した事は尭舜禹湯文武の行つた所である。此等の人の行つたのが道徳である。孔孟は其位は無かつたが、斯くするのが仁である、斯くするのが義である、斯くするのが道である、斯くするのが徳であると説かれたのであります。初めは決して左様に道徳と経済を離して考へたものではなかつたやうです。処が後の学者が段々に仁義道徳を一種の御札のやうにし、何か御神籖のやうなものにして仕舞ひ、さうして道徳と経済を引離して仕舞つたから、農業家・工業家・商業家などが、仁義道徳を講ずるのは可笑しいものだと云ふ風になつた。それ故に昔から為富不仁矣為仁不富矣と云ふ風に、両方が併せ進むことの出来ない博く愛すると云ふ情があると己れが富むと云ふことが覚束なくなる、己れが富まふとすると、人を愛する観念が薄くなると云ふことになる是が先づ普通の有様である。確かに此仁義道徳と生産殖利は動もすると背馳し易いものである。のみならずそれが一つは治者即ち主権者の掌るものであつて一つは被治者即ち農工商の掌るものであると云ふことになつて、全く是が引離されて仕舞つて、相一致することが無くなつて、仁義道徳を行ふ人は、必ず生産殖利などは卑しいものと考へ、生産殖利に従事する者は仁義道徳などは出来るものでない。あれは唯御役人の経典であると云ふ風に考へて、長い間引離されてあつたのであります。根源の孔孟はさう云ふ意味でなかつたけれども、終に是が一致を失つて、文運は随分盛んになり実業は段々進みつゝありましたが、此姿はとうとう気が付かずに仕舞つたと云つて宜いやうであります。是は単り我々実業界の人がそれに気が付かないばかりでなく、昔の学者側が全く已むを得ぬことであると云ふ如くにして、仁義道徳と生産殖利は必ず一致するものとしての攻究をしない学者が多い、甚だ斯う申すと私が烏滸ケ間敷い事を言ふやうでありますけれども、維新以来立派な学者もそれを世間に論じて呉れた学者は無かつたやうに思ひます。
      四
 是れより申し上げる事は自己に属しますから、或は私が甚だ先見の明があるが如くに聞えるかも知れませぬが、自分が左様に覚悟したと云ふやうなことは少し憚り多いことはございますけれども、何も言はぬでは、一切私共が覚悟した事を諸君に通ずることが出来ませぬし、又或歴史を諸君に知らせると云ふことも出来ませぬ故に、今申す事柄も唯吾人が斯様に思ふ、斯様に期待したと云ふことの意味を以て諸君に御話する外ないのであります。それが格別効能が無ければなんにもならぬけれども、若し少しでもそれが効能があるならば或は御考へを煩はすことになるかも知れぬ。唯斯様に私が考へましたのでありますが、幾らか其中には味はふべき所がありはせぬかと思ふのであります故に烏滸ケ間敷いが自分の身の上の事に就て御話するのであります。
 私は矢張り同じく埼玉県下の百姓でありますが、二十四・五から浪
 - 第43巻 p.389 -ページ画像 
人になりましてそれから一昨々年に御薨なりになりました徳川慶喜公に御奉公致しました其慶喜公が一橋家から将軍になられたので、幕府の人になつて、終に海外に参りまして、海外に居る中に世が一変して幕府が倒れて、御一新と云ふ改革が行はれた。そこで日本に帰つて来たやうなことであります。私も最初は攘夷鎖港を頻りに申して居つた一人でありますが、併し追々に世の中の変遷に眼を転じて見ますと、唯単純なる攘夷鎖港は出来得ぬと思ひました。寧ろ彼れの長所を取つて我国を進めて行く外ないと云ふ観念が起つて参りました。今申した海外の旅行中に様子を見ますと外国では徳川時代に見たような士と商工業者との間の階級等の有様がまるで異つて居る。且つ総ての事物即ち今申す経済、モウ一つ近頃の言葉で申すと物質的文明、是が日本と全く形を変へて居る。のみならず、之を取扱ふ処の商工業者の態度・人格、又それを支配すべき、士側の人のそれと接触する工合が、全体に於て総て其様子が異つて居るので、是に大に感発しまして、若し彼れが善いのなら我れが悪い、我れが善いのなら彼れが悪いのである。今まで攘夷鎖港を唱へたが、物質的文明はどうしても、彼れに敵はぬ是はいかぬと思ふならば之を良くしなければならぬ。之を良くしやうと云ふならば、彼れに学ぶより外ない。之を学ぶには実業地に至つて其実業の振合を広く知つて往かなければならぬと思ひました。併し是までさう云ふ覚悟も無し、見聞も狭いから、帰国しましても何等することも出来ず、丁度前に申す通り最初は政治家気取で行つたものが、不幸にして幕府の崩壊となつて、其幕府の自分の主君は謹慎恭順をして居つた。帰つて見ますと静岡の小さい寺に蟄居してござるやうな有様であつたからして、どうも自分が縦令其以前討幕主義を考へた一人であつても、自分の身としてはモウ政治上に望みを置くべきものでない。是から以後は、微力ながら国家に尽すには、商工業即ち物質的の進歩を図る位地の一人になりたいと、斯う思つて、其決心を以て世に立たうと考へたのであります。併し静岡に居る間に、一旦政府に勤めるやうになりました。それは辞退がなし得られぬで大蔵省に四・五年勤続を致しましたが、明治六年に銀行界に這入りました時に、此に初めて申し上げた道徳と経済とが一致し得るものであらうと云ふことを深く心に懸けた積りでございます。
 其時の話は其対手の人を失ひましたから、証拠立てて申上げられぬのを遺憾に考へますが、私の極く親友なる玉乃世履と云ふ御人が同じく大蔵省に勤務されて居られた。後に此人は大審院長になられましたが、私が官を辞します時に親友としてひどく諌めて呉れました。役人上りの商売人は、悪くすると過を仕出かすものである。是迄成功した人を聞いたことはない。物質的文明の開拓を進めたいと云ふ意響は宜いけれども、どうもそれは人格を損ずるものである。幸に同僚として長い間共に相訓練し合つた君である故に、どうもさう云ふ意嚮あることを甚だ望まない。矢張り役人で世を送つた方が宜からうと云ふ警告を受けた。私は是に答へて言ふには、それは如何にも御親切の御警告であるが、自分が商売人として世の中に立つに及んでは、不法不理の事を為さず、徳は失はぬ積りであります。烏滸ケ間敷いことであるが
 - 第43巻 p.390 -ページ画像 
私は宋の趙普に倣ふて、論語の半分を以て一身を修め、論語の半分を以て錙銖の利を営んで往きたいと思ふ。長い目を以て御覧下さいと云ふことを明言したのが明治六年であります。故に此道徳と経済と云ふものは全く一致の出来るものと考へまして、微力ながら殖産を図るに就ては道徳に背かぬことを是非努めなければならぬと覚悟したのであります、それに就て第一、事業と云ふことよりは国家と云ふことを観念して、さうして事業をやらねば、指導的の位地に立ち而も金融業者として、総ての商工業者の模範となる位地に立つべき責任を尽す訳には往かぬ。故に縦令力は鈍くても、利益は多く収め得られぬでも、苟も仁義道徳を欠くことがあれば、それに従事することが出来ぬと云ふことを主義として経営を致した積りであります。
      五
 事物の進歩は自分等の理想以上に進んで参りまして明治六年の昔を顧みますと、其銀行の組織、又銀行の力の伸び方も、非常に発達して参りました。唯単に銀行ばかりではございませぬ。運輸事業・工業鉱山業等、各種の方面は、日に月に進んで参りまして、或は其方法に於ても時勢の変化、例へば日清戦争とか日露戦争とか、又一昨年来の欧羅巴の大戦乱の為に受ける害もありますが、又利益も多い。平時の際にも順を追ふて進んで来ました。如何にも今日の生産殖利、物質的文明、之を其当時に比較しますと、殆んど隔世の感のある程進歩をして来たのであります。併し唯虞るゝは、此の仁義道徳と経済との一致がどう云ふものであらうか、私は明治六年の心懸を今も尚ほ失はぬのみならず、先づ我が力の及ぶ限りは、此主義を通し得たいと思つて拮据精励して居りますが、世の一般に進むに随つて、或は此説を動かして皆志を一にすると云ふことは出来ぬやうになるかも知れぬ。世の物質的文明の進歩に伴はれて、一般商工業者の人格が他から刺戟されて、昔日の有様と大に形を変じたことに於ては、明治六年頃の事を顧みて見ると、如何にも隔世の感をなすやうでありますけれども、併し此人人の受ける利益は、其志と全く一致するかどうかと云ふことに至つては疑がないでもない。物質的文明の進む程仁義道徳は却つて下りはせぬかと云ふ虞がある。それは今日自分等が左様に一致を心懸けて居りながらも、さう云ふ虞があると云ふのは、或は自己の責任がまだ尽されぬのであらうかと思ひます。斯る有様から考へると、成程昔から孔孟を初めとして、長い間の学者が此一致に努めつゝあつたが、真の一致を得られぬやうなことで、初め容易いやうに思つたことが、己れの誤りで、真に難いものと云ふことを深く感ずるのであります。
 併し斯く申上げると、仁義道徳と生産殖利と相背馳するが如くに聞えますけれども、物質的文明の進む程、仁義道徳の志が向上せぬと云ふことは、前に申上る通りであるが、近頃は段々学者先生にも、大に其事に心を入れられて頻りに論じて居られますやうなことで彼の三島中洲先生も道徳経済統一論と云ふものを書かれた、是は十年ばかり以前のことでありますが、学者側に斯様な説を有つて居る者がありまして私の平生の主義を学問から論じて、斯様であると云つて証拠立つて下されたのであります。併し是は学者側の所謂一方面の説である。此
 - 第43巻 p.391 -ページ画像 
豊岡町に出ますと、繁田君の如きは、即ち私の始終希望して居る所を真に実行なさる御方と思つて、誠に御懐しいやうに感ずるのでございます。
      六
 私は此場合に当つて我々ばかりの考へでなしに、他方面の此事に就ての観察を一・二申上げて此演説を了らうと思ひますが、先頃印度から参られたタゴールと云ふ人、あの人は詩聖を以て称へられて居る程で思想界には有名の人のやうであります。私は英語が出来ませぬから親しく話をしたのでございませぬ。通訳に依つて数回談話を致して見ましたが、所謂其仁義道徳の観念は甚だ高い。併し印度の事ですから孔孟の仁義道徳と全く一致するかどうかはもう少し穿鑿して見なければ判りませぬが心の高尚な点は甚だ面白い、併し物質的の話になると少しも問題にならぬのです。或人はタゴールは物質的文明を詛ふ者だと申しますが、それは少し過激の攻撃で、決してタゴールは、物質的文明を詛はぬが、悲しい哉印度の人であるから、精神の向上の事ばかり深く考へて居るらしい。又其説も甚だ宜しいけれども、どうも物質的の観察談となると殆ど定案がない。種々の事に就て論議をして見ますと、詰り論旨は一致するやうでございますが、どうしても唯心ばかりを磨くと云ふのが本旨であるから、其国民の気風を強くし、且つ文明に進めることの出来るものでないと云ふことを申しましたら、私の説にタゴールも同意であるやうでありました。併しさう云ふけれども物質的文明ばかりを盛んにするのは即欧羅巴の戦乱が其極でないか。若しそれのみを求めて、それのみに心酔したならば、独逸のカイゼルにはまるで服従せねばならぬやうになりはせぬかと、極端にさういふ意味を以て心配されるやうでありました。それから此程亜米利加から来られたヂヤツジ・ゲーリーと云ふ人ですが、あの人は当月(九月)の初めに来られて十四日に日本を去られました。僅かの東京滞在でありましたが、数回面会を致して見ました。是は又丁度タゴールと正反対の側の人で、物質万能の人である。其為して居る仕事を申しますと亜米利加の各鋼鉄会社は皆合同をして居りますが、百四十七の会社を合せて、今の資本額は丁度日本の金に直して三十億ですが、其三十億の資本を有つて居る大会社の社長である。さうして其工場に従事する人の数の多い時に二十八万人余使ふと云ふことであります、其処では年に千二百万噸の鉄を製造すると云ふことで、昨今の戦乱に対しては其倍位になるかも知れませぬ。而して此人はどう云ふ出身かと云ふと法律家から成立つたのであります。其親が矢張り法律家でありましたそれから弁護士になつて、判事になつた。ヂヤツジと云ふのは判事と云ふのであります。是れは終身役でありますから、今勤めぬでもヂヤツジと云つて居ります。まだ実業界に這入つて十四年であります。今年が七十二歳でありますから五十以上になつて、判事から実業界に這入つた訳であります。さう云ふ経歴を有つて居り且つ亜米利加の人であるから、相当の能力を有つて居るか知らぬが、何しろロツクフエラーとか、カーネギーとか、アンドリユーとか云ふ金持の仲間に這入つて居るのでありまして、さうして製造能力は今のやうな力を有つて居
 - 第43巻 p.392 -ページ画像 
るから、沢山の金は直きに溜る。此人は全く物質万能の人であるが、併し其論ずる所は甚だ我意を得て居ります。其説に曰く、総て事業は必ず其知識と勉強に依らなければいかぬ。知識と勉強に依つて成功するものである。但し其知識勉強以外にどうしても最終の勝利を占むるものは、正義と云ふものでなければならぬ。世の事物は時々丁度天に叢雲があるやうに正直が為し得られぬやうに見えるが、それは一時の事であつて、軈ては日の光に出遇ふものである。必ず知識勉強是に加ふるに完全なる正義と云ふものを以て事業をやれば、何事も最終の勝利になり得ると申して居りました。蓋し、我々共の論じて居ります仁義道徳と生産殖利が全く一致すると云ふ説を、新規異つた方面から論じて居るやうに聞えます。是等こそ即ち他山之石以可磨我玉といふべきであらうと思ふのであります。
 仁義道徳と生産殖利、詳しく申せば、道徳経済の合一は、私は必ず為し得られるものと思ふ。併し現在の世の中に於ては、或は生産殖利に偏して、仁義道徳を失ひ、仁義道徳に片寄つて、甚だ生産殖利に疎い。誠に偏頗のやうに思はれる事は何れにも見当ります。此見当つたのを御互諸君と共にどうぞ廓清して、両者共に完全に進むやうに致したい。(於黒須支会講演会)



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正八年(DK430059k-0004)
第43巻 p.392 ページ画像

渋沢栄一日記 大正八年      (渋沢子爵家所蔵)
一月三十一日 曇 寒
午前七時起床入浴シテ朝食ス、後忍町加藤十左衛門外三名ノ来訪アリ来月十六日ヲ以テ同地ニ開催スル弘道会支部発会式ニ出席シテ、講演ノ事ヲ乞ハル、依テ其望ニ応シテ、出張ノ事ヲ約ス○下略
   ○栄一、風邪ニテ二月十四日ヨリ二月二十一日マデ臥床ス。(「栄一日記」ニヨル)