デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
3款 社団法人日本弘道会
■綱文

第43巻 p.392-400(DK430060k) ページ画像

大正15年5月15日(1926年)

是日、当会創立五十年記念式、上野自治会館ニ於テ挙行セラル。栄一出席シテ演説ヲナス。十一月十三日、当会女子修養講座ノ開講ニ際シ、栄一、手写論語複製本ヲ贈ル。


■資料

集会日時通知表 大正一五年(DK430060k-0001)
第43巻 p.392 ページ画像

集会日時通知表 大正一五年        (渋沢子爵家所蔵)
十五日○五月 土 午後二時 日本弘道会五十年紀念式(自治館)


竜門雑誌 第四五三号・第八二頁大正一五年六月 青淵先生動静大要(DK430060k-0002)
第43巻 p.392 ページ画像

竜門雑誌 第四五三号・第八二頁大正一五年六月
    青淵先生動静大要
      五月中
十五日 日本弘道会五十年記念式(自治館)


弘道 第四〇九号・第四四頁大正一五年六月 本会満五十年記念大会(DK430060k-0003)
第43巻 p.392-393 ページ画像

弘道 第四〇九号・第四四頁大正一五年六月
    本会満五十年記念大会
 - 第43巻 p.393 -ページ画像 
 本会は本年を以て創立以来満五十年を閲したので、五月十五日より十八日まで、四日間盛大なる記念大会を催した。
    一、記念式
 五月十五日午後二時より、上野公園内自治会館に於て、記念式を挙げた、定刻に至るや、振鈴を合図に会員来賓夫々所定の席に着く、司会者総務服部博士先づ挙式の挨拶を述べ、次で徳川会長教育勅語捧読松平顧問本会要領及主張朗読、会長ノ式辞朗読の後、若槻内閣総理大臣の祝辞あり、次て一木宮相・若槻内相・岡田文相、徳川・粕谷貴衆両院議長、平塚東京府知事・中村東京市長の祝辞朗読の後、渋沢老子爵の演説があつた、服部総務閉会の挨拶をのべ式を終る、時に四時、西村会祖の著述「日本道徳論」「弘むへき道」を記念として来会者一同に配付した。
○中略
      記念式及祝賀会来会者芳名
  来賓
           若槻総理大臣
 宮相代理      野口秘書官
 内相代理      川崎内務次官
 文相代理      松浦文部次官
           粕谷衆議院議長
           平塚東京府知事
 市長代理      矢吹社会局長
 子爵        渋沢栄一
○下略


弘道 第四〇九号・第五二頁大正一五年六月 所懐 渋沢栄一(DK430060k-0004)
第43巻 p.393-394 ページ画像

弘道 第四〇九号・第五二頁大正一五年六月
    所懐
                      渋沢栄一
 私は本会に直接の関係を有して居らぬ、況んや身分に関係がないのであるから、今日此の記念大会に列するは正しくないやうであるが、然し考へて見るとそこに大に理由がある。
 五十年前といへば列席の諸君は当時子供であられたか、或は未だ生まれられぬ方が多からうと思ふ。私は当時相当の年配であつたので、本会創立の当初を知つて居る、今日目出度五十年の記念式を行はるゝに当つて、昔を偲び、こゝに列席して敢て一言を述る次第である。
 明治・大正五十年間の思想上の推移は会長の式辞によつて明瞭であるが、其中には大に憂慮すべきものがある、一方には喜ぶべきものがあると同時に、一方には悲しむべきものがあるは世の常で、世の中のことは皆さうしたものである。精神的の会に於ても、別して一時に隆盛であるからといつて、安心すべきではない、現在の有様に満足せず益々熱誠を注がねばならぬ。
 本会は西村翁が五十年前に、道徳の消長は国運の盛衰に繋るといふので、憂国の余、創立されたのであるが、本会の存在は誠に邦家の為力強い感が致すのである、一体弘道と云ふ語は論語から来て居ると思
 - 第43巻 p.394 -ページ画像 
ふ、論語に人能弘道、非道弘人とある。一寸読んでは何だか分らぬやうであるが、蓋し大に意味があるのである。恰度精神と物質をいひかへた様なもので、今の時代は物質尊重に偏し、国民精神が頽廃し洵に憂ふべきものがある。これは物質が精神を支配した為めで、西村翁が在世であつたらば、まことに慨かるゝことゝ思ふ。
 創立五十年の慶賀すべき日に当つて、私は時に感じてかゝる事を申して恐縮に存ずるが、老人の婆心として、単にお慶びのみを申さぬ所が却つてまた本会を祝する所以であらう。(文責記者)


竜門雑誌 第四五五号・第八三―八六頁大正一五年八月 渋沢子爵と五十年記念式(DK430060k-0005)
第43巻 p.394-396 ページ画像

竜門雑誌 第四五五号・第八三―八六頁大正一五年八月
    渋沢子爵と五十年記念式
                      繁田武平
      弘道宗と御利益
 余は個人的にも社会的にも格別の仕事もしない代り、亦さしたる失敗もない。所謂大過なきを得るといふのは余の信奉する弘道宗の御利益であると感佩して居る次第だ。されば会祖泊翁先生を尊崇することは耶蘇教徒のエス・キリストに於けると同様である。泊翁先生の主義泊翁先生の訓言は絶えず余を導くの枝折となり余を励ますの警鞭となり以つて、余をして社会に立たしめて居るのである。
 本年は恰度日本弘道会創立五十年に相当するので記念事業の計画で準備委員会の招集があつた。委員は大抵東京在住の者ばかりであつたが、余は独り田舎から泊り掛けで出席した。是を側面よりながめたなら、如何にも物好といふ批評が下されることであらうが、弘道宗の信者として一臂の労を捧げるのは本来の念願であれば、奉仕的の行動を寧ろ喜んで居るのである。
      招待の使命
 委員会に於いて記念事業は大体
 一、記念出版物の刊行
 二、記念式の挙行
 三、記念講演会の開催
 といふことに決定し、経費の関係もあるが出来るだけ盛大に行ひたいとの意見が一致し、朝野の大官名士三百有余名を招待することにきまつた。併し一片の招待状だけでは参列が得られまいとの懸念から、特別の方面には招待使を派遣することになり、特に渋沢子爵と粕谷衆議院議長とへ、同県の関係を以つて招待使のお鉢は遂に余の前に廻つて来たのである。他に適当な方は雲の如くに存在するが、これも弘道信者としての役目の一と考へたから、命ぜらるゝまゝに引受けたのである。
      含容待人
 五月十一日のことであつた。突然の訪問も失礼といふ考から、前夜電話で執事の中野君に照会した所が、「明朝八時半なれば面会して下さる」との返答を得た、そこで訪問の要件を簡単に述べて取次を願つてから電話を切つたのである。
 新緑滴る飛鳥山邸の玄関に立つて刺を通じたのは約束時刻より十分
 - 第43巻 p.395 -ページ画像 
前の八時廿分であつた。直に洋館の応接室に通され待つこと少時、ドアを排して現はれたのは、五つ紋の羽織に福徳円満の体躯を被ひ、渾然玉の如き温容の老子爵であつた。
 一たび子爵の謦咳に接した者は何人にも其の態度の温雅なると、其の応接の懇篤なるとには恐縮する所であるが、子爵が私淑せらるゝ楽翁公の座右銘に、「含容是待人第一法」とあるのを如実に実行せらるるのは、誠に接客の儀範を示さるゝものといふべきである。
 此の日は「久振の面会」だと申されて、殊更濃かなる温情を以つて接せられたから、自分は慈父の膝下に奉ずる様な敬と親とを覚えたのであつた。
      談話より講義へ
 徳川会長の名刺を捧げて招待の使命を述べると
 「十五日は先約があるから御免を蒙りたい所だが、会長様よりのお話もあり、且つ同県の繁田君が来られたことであるから、何とか繰合せて出会しよう。併し時刻は何時ですか」
 と尋ねられた。それから「午後二時開始、三時迄には終了」の由を申し上げ、且つ「各方面手分にて招待使を出した事故、是非御臨場の栄を得たい」といふことを附け加へて熱心に懇請した。
 「夫れなら二時迄には参ることに致さう。弘道会の趣意は余の主張と一致して居る。殊に五十年の歴史を有するに至つたとは、実に国家のため慶賀すべき事だ。現今の世相を観ると道徳が廃れて思想上の悪化は実に寒心に堪へぬ。」
 と言ひさして、つと老躯を提げて応接室を出で数間を隔てた居間から一片の印刷物を探し来つて余の前に示された。それは伊国の熱血首相ムツソリーニより日本の青年男女に寄せられたメツセージの訳文であつた。ベルを鳴らして命ずれば何事も座ながらして弁すべき事を人手にかけぬさへ尊く感ぜられたのに、加之そのメツセージを朗読せられて一々講義までして訓へられた。年耳順にして此の高教を受くるとは何といふ有難いことであらう。子爵は平素余を弟子として指導せられる。
 余が子爵を常に、
 「先生々々」と申上げるのも単なる敬称ではない、後から後からと面謁を求むる者の名刺が積まれるけれども、そんな事には頓着なく講義を進められ
 「此の警告は日本のため誠によい清涼剤だ。弘道五十年の記念式も亦意義のある事業だから悦んで出席しませう。」
 と快諾を与へられたので隴を得て蜀を望む念が加はり、御臨席の際祝詞をと申出づると
 「夫れもよいが、祝文となると何となく角立つばかりでなく、その場にシツクリと嵌まらぬから、長いことは痰の関係で困るが、自分の感想を短かく述べることに致さう」
 といふ御熱誠には感服の外なかつた。夫から話頭一転労働問題に移り、余から静岡の尾崎伊兵衛君が浜松の楽器会社に主役として同盟罷工に手を焼いて居ることから、日本産業界の前途を極度に悲観した話
 - 第43巻 p.396 -ページ画像 
を持ち出すと
 「尾崎君の先代は自分が外国から帰朝した時、静岡で会社を起して大に産業発達を謀つたものだ」
 とて、その当時の発企人の名前を一々数へて、五十年前の状態を手に取る様に話されてから
 「我が国の産業も今後の経営は中々困難な立場に陥つた。然らば此の際如何なる方策を取るかといふに頗る重大な問題だ。それには青年男女の自覚が第一である、此のムツソリーニ氏の警告は最も的中して居る」
 と再び推賞せられた、更に語を続いて
 「人間は娯楽といふことが大切だ。それによりて心にゆとりが出来る。自分が私淑して居る楽翁公は『楽しきと思ふが楽の本なり』言はれたが、是は人間が自覚に入る境地だ。」
 と談は益々佳境に入つたが後客の妨げをなすも本意でないから、汐時を見て暇を告げると、玄関で靴を穿き終るまで見送られた。その御懇情は感謝の辞を知らぬ程である。
      憂国の熱情
 十五日の五十年祝賀式は上野の自治館にて挙げられ、若槻首相を初めその他の来賓が皆見えられた。其の日の新聞を覗くと「老子爵には八基村の老人会に出向せられ、熊谷の農事試験場をも視察せられる」といふ記事があつたから、大に心配して居ると、やがて予定の二時を過ぐること十分、一台の自動車が来着して、温容玉の如き英姿を見出したのでやつと安心することが出来た。
 式は徳川会長の勅語捧読式辞朗読を以つて始まり、首相祝辞、内務文部両相祝辞の代読、粕谷衆議院議長の祝辞等の後をうけ、老子爵には徐ろに演壇に起たれ、先づ自分は弘道会の熱心なる共鳴者であること及び、懇なる招待を受けて出席したことを述べて後
 こゝにお集りの皆さんは五十年前はまだお生れにならなかつた、又は若年の方であつた。然るに自分は既に壮年時代であつたから、弘道会創立当時の事柄をよく知つて居る。夫だけは諸君の前に於いてお話をする資格がある。
とて創立当時の状態から今日思想界混乱のことに言及し、且つ伊国首相のメツセージまで引合に出して
 此の世風を矯正して善導することが、弘道会の大切な任務であると思ふ。祝賀会に臨んでお目出たいの一点ばかり申すのも物足りない感じがするから、お聞き苦しいかも知れない老婆心を以つて聊か感想を披瀝した次第である。
 といふ意味の演説を音吐朗々と述べられて降壇せられた。
 此の日の祝辞は何れも朗読的のもののみであつたが、独り子爵が八十七歳の老躯を提げて言々句々熱誠をこめて語られたのは、憂国の至情より迸り出てたもので、聴者の肺腑を穿つの感があつたのも理りである。(弘道七月号所載)



〔参考〕日本弘道会書類(DK430060k-0006)
第43巻 p.396-400 ページ画像

日本弘道会書類             (渋沢子爵家所蔵)
 - 第43巻 p.397 -ページ画像 
    日本弘道会沿革大要
(印刷物)
 吾が日本弘道会は、今より五十年前、泊翁西村茂樹先生の創立せられたる所に係る。其由来を按ずるに、明治五年学制の発布せらるゝや其主旨とする所治産昌業の事に偏し、忠孝仁義の道は、措いて之を問はざるを見、先生心窃に之を憂ひ、爾来一世風潮の趨勢に察し、其流弊誠に測り難きものあるを知り、玆に慨然として立ち、自ら斯道の振興に任じ、九年三月始めて同志の士と相謀り、東京修身学社を興す、是れ即ち本会の創始なり。時に先生職を文部に奉じ、国民教育の事に当りしかば、一意専心、道徳の振興に苦心し、風俗の改善を企図し、傍ら京橋銀座二丁目なる幸福安全社の楼上を集会上と定め、毎月一回同志を会して修身の道を講ぜり。
 爾来先生は、公務の余暇を以て、西洋道徳書の翻訳を企て、二・三の著書を公にせり、十年春社員と謀りて、東京修身学社規約を定め、広く社員を募集することゝし、五月、静岡・愛知以下五県下巡回の序を以て、道徳振興の必要を説き、各県に賛同者を得て、始めて各地方と気脈を通ずるに至れり。会々西南の役起り、戦後の経営多端にして弘道の事意に任ぜず。十三年春、初めて雑誌を発行して、修身学社叢説と名け、之を社員に頒てり。十四年一月、沼津の社員等相謀りて、沼津修身学社を設立す。是を地方分社の嚆矢とす、次で大津・岐阜にも分社起る。同年三月より、毎月講筵を開き、西村先生はウヰンスロー氏の道徳学を講じ、南摩綱紀翁は易経を講じて、汎く、聴講を許したり。
 十七年四月に至り、東京修身学社を日本講道会と改称し、規約を定め、役員を置く。先生は会長に推され、南摩翁は副会長に挙げられたり。是に於て日本講道会は大に斯道の闡明振興に任じ、六月道徳の講演を東京大学講義室に開き、同時に予約法を以て、著訳書を出版することゝし数書を刊行し、又雑誌を講道会叢説と改称せり。
 然るに翌十八年冬、政府に大改革行はれ、而も法律制度・風俗礼儀悉く欧米に模倣するに至りてより、一世の人心益々欧米の文物に心酔し、道義の如きは棄てゝ之を顧るものなく国民の風俗只管軽躁浮薄に流るゝの勢を馴致せり。会長大に之を憂ひ十九年十二月、大学講義室に於て、三日間に亘りて大演説を試み、大に世人の耳目を聳動したり二十年二月、其演説草稿を印行す。是れ即ち日本道徳論なり。
 同年九月会名を日本弘道会と改め、規約を更定し、事務所を日比谷神宮奉斎会内に置く。次で十一月築地西村邸内に移す。同月弘道会雑誌を発行し、同時に常集会及び通俗講談会を開設す。二十一年五月、支会規約を定む。二十二年五月、宇都宮支会起る、之を第一支会となす、爾後遠江・匝瑳、以下各地支会相次で起る。同年十月、日本弘道会叢記を発行す。十二月日本弘道会大意を刊行せり。
 二十三年一月、日本弘道会要領及び信者心得を定む。三月女子部を置き、別に常集会を開く。二十七年十月、婦人弘道叢記を発行して、大に婦徳の養成を鼓吹せり。後叢記は、本会雑誌に合併したり、二十五年二月、西村会長の立案に係る日本弘道会相助法を会員に頒つ。五
 - 第43巻 p.398 -ページ画像 
月、雑誌を日本弘道叢記と改称す。是より先、十九年二月、会長は宮中顧問官に任ぜられ、次で二十一年七月華族女学校長を兼任し、二十三年九月貴族院議員に勅選せられたるが、感ずる所ありて、二十五年十一月貴族院議員を辞し、翌二十六年十一月、又華族女学校長を辞す是より専ら力を弘道の事に尽し、入つては道徳書類の著述に精励し、出でては各地を巡教して、人倫道徳を講じ、本会主旨の普及に努む。是を以て会員日に増加す。二十七年五月、事務所を華族会館内に移す翌六月、京橋区南鍋町に家屋を購入して更に之に移る。二十八年五月支会の数六十六に達し、始めて第一回総集会を京都に開く。以後隔年に一回、京都・東京と交互に之を開催せるが、三十四年四月の総集会に於て、爾後毎年一回開催の事に定む。
 三十三年十一月、日本弘道会要領乙号を発表す。斯くて会勢益々盛大に赴けるが、三十五年八月に至り、西村会長は病を以て薨去す。此時各地支会は百三十を算し、会員の数一万に達せり。十月、子爵谷干城君、先生の遺嘱に依り、推されて会長となる。三十六年六月、事務所を麹町区飯田町六丁目に移し、七月雑誌を弘道と改称せり。同月伯爵松平直亮君、南摩翁と並びて副会長に就任す。斯くて本会に於ては常集会通俗講談会及び茶話会を開き、又各支会の為に講師を派出して会旨の普及、道徳の振興を図れり。三十八年十一月、谷会長・南摩副会長老齢の故を以て共に辞任せしを以て、同月、松平(直亮)副会長推されて会長となり、伯爵徳川達孝君副会長に就任す。四十年八月、松平(直亮)会長病の為に職を辞するや、同月徳川(達孝)副会長、会長となり、松平忠威君副会長に就任す。四十二年九月、松平(忠威)副会長、病を以て逝去せしかば、同年十二月、子爵松平親信君副会長となる。大正三年十二月、任を辞し、其後暫く副会長を欠きしが、三年十二月に至り、侯爵徳川頼倫君推されて其任に就く、会長を輔けて鋭意斯道の振興に尽瘁されしが、偶々大正十四年六月病んで薨ず。
 此間本会は三十七・八年戦役に際し、国民の志気を鼓舞する為め、『戦時国民の心得』を発行して、全国各町村に頒ち、又講師を各支会に派遣して、義勇奉公の実を挙げんことを期し、又『元気』と題する書を編して、又を恤兵部に寄せ、女子部にありては、義勇艦隊建設賛助会を開きて、其の純益を海事協会に寄せ、又更に物品を恤兵部に贈れり。戦局の終了するや、直に『戦後国民の覚悟』を著し、以て国民勤倹の美風を養成せんことを唱導し、戦後人情浮薄、風俗頽敗せんとするや、大に之が匡正を以て任じ、常集会・通俗講談会等を開催して救済の方法を講じ、専ら国民の元気を作興し、風教を維持せんことを図る。
 四十一年五月、本会創立三十年紀念大会を開き、盛大なる式を挙げ功労者の表彰、追祭を行ふ。四十二年五月、泊翁叢書第一輯を刊行し四十五年七月、其第二輯を出版し、広く之を有志を頒ちて本会主旨の普及に資す。又雑誌弘道を改善して、大に国民道徳の鼓吹に努む。同年二月、有志青年部興りて、連月講演又は講義会を開催し、斯道の振興に協力す。畏れ多くも、先帝崩御に際しては、特に雑誌を『聖徳余光』と題して、盛徳大業を欽仰し奉り、別に『明治の光』と題する冊
 - 第43巻 p.399 -ページ画像 
子を編し、数万部を発行して、之を一般有志に頒布したり。大正改元早々の政変に際しては、『敢て天下同感の士に告ぐ』と称する一書を印行し、是れ亦広く天下の有志に寄せたり。
 大正二年九月、弘道会館建設の議決し、爾来基本金並に会館建設費の募集に努む。三年三月、本会の組織を改めて社団法人となし、以て益々本会の基礎を固うす。此月、神田区西小川町二丁目に会館建設敷地を購入す。四月、昭憲皇太后の崩御あらせらるゝや、雑誌六月号を特に『坤徳余芳』と題して、至仁至慈なる懿徳を頌し奉れり。此年夏欧洲に大戦乱起り、余勢東洋に波及し、我邦亦独墺に対して戦を宣するや、九月『時局と国民の覚悟』を印行し、屡々時局講演会を開催して、国民の自覚を喚起し、義勇奉公の精神を作興するに努めたり。四年十一月、畏くも 今上陛下、即位の大礼を京都に挙げさせ給ふや、特に『大礼記念号』を発行し、別に『皇国之精華』を印行して、奉祝の慶意を披瀝すると共に、国体の本義を闡明にし、皇室の尊厳を欽仰し奉れり。五年四月、事務所を会館敷地内に移す。六年四月、神武天皇祭当日を以て、敷地の地鎮祭を行ひ、六月会館の建築工事に着手し八月上棟式を行ひ、七年三月に至り、全く落成を告ぐ。是に於て四月を以て落成式並に創立四十年紀念会を挙行す。この事天聴に達し、特別の思召を以て金一千円御下賜の光栄を荷ふ。
 同年二月、本会目的の達成に関する諸般の調査を為し、之が実行方法を攻究する為め、新に調査部を設く。同年秋十月、徳育に関する展覧会を本館階上に於て催し、一般徳育に関する先賢の遺墨・遺物等五百余点を陳列して、公衆の観覧に供せり。八年十一月、第二回展覧会(教化より観たる婦人と家庭に関する)を開催す、賢母良妻、烈婦節婦、閨秀孝子等の遺品・遺著・書画等凡三百点を陳列し、婦徳の涵養に資せり。
 近年世界大戦の影響をうけて、一般国民の生活俄かに膨脹し、倹素の風、分度の念漸く廃れ、浮華軽佻の風行はるゝを看取し、乃ち八年一月「同胞に告ぐ」一篇を印行し、広く天下同憂の士に頒てり。
 十一年の春、時代の趨勢に鑑み、社会事業・社会教育に従事すべき人士の養成が、刻下最も必要なる施設として、本会の力を致すべき事業なるを認め、同年四月より新に社会教化学院を設立せり、初は一期二年制なりしが、後改めて一年制となし以て今日に至る。
 十二年七月、定款の変更成り、是より大に為す有らんとせしが、偶偶九月一日曠古の大震火災に遭ひ、活躍の舞台なる会館は一朝にして烏有に帰し、諸般の事業俄かに一頓挫を来せり、而も此の大変後幾もなくして、詔書の渙発せらるゝを見るや、乃ち「国民精神作興に関する詔書釈義」を刊行して、国本の本義を説述し、聖旨の徹底を図れり之が頒布の数実に六万部に及ぶ。十三年五月内務省より学院に対し復興資金二万円の交付あり。震災後事務所及学院を南葵文庫に移せしが十四年十二月旧会館跡に仮建築成れるを以てこゝに移る。本建築未だ工を起するに至らざるを憾むの時、日月の行くや健、本会正に半百年に達せるを以て、十五年五月本会創立満五十年記念大会を開き、盛大なる式を挙げ、追祭を行ひ大講演会を催す。斯くて本会は我国に於け
 - 第43巻 p.400 -ページ画像 
る道徳会の随一として、今後の使命愈々重しと謂ふべし、吾人は一に会祖の遺業を継ぎ、以て邦家の為めに尽瘁せんことを期す。



〔参考〕弘道 第四一五号・第六九頁大正一五年一二月 女子修養講座開講(DK430060k-0007)
第43巻 p.400 ページ画像

弘道 第四一五号・第六九頁大正一五年一二月
 女子修養講座開講 本会女子部は創立五十年を迎へ再び旧時の盛をし大になす所あらむことを期す。かの日常行為を律するため直截簡明なる家庭小訓の蒐集作製はその第一次事業にして女子修養講座開設は実にその第二次事業なり、十一月十三日本会事務所に於て開講す。開講に先ち開講の式を挙ぐ。正午過ぎより吉田(熊次)博士夫人を初めとし来賓並に聴講者陸続参会し、その数六十を超へ堂に満つ、正面机上には菊花白うして清し、午後二時振鈴臼井(政子)幹事開式を宣し中条(葭江)幹事開講式の挨拶を終れば、山岡(源子)幹事経過報告をなす、この日女子部長たる徳川会長は葉山に供奉の故を以て谷山主事式辞を代読す。山岡幹事の紹介に従ひ、辻村(靖子)講師登壇挨拶す。同講師は女子部幹事にして東伏見宮大妃殿下の御用係たると共に女子英学塾に教鞭を取る。中山(ふじゑ)聴講生総代進みて講座設立を謝し講師の労をねぎらひ、併せて奮闘努力を誓ふ。松平(直亮伯)本会顧問は病を押して参会し、論語が智仁勇の三者をとくや極めて当を得、処世の真宝たるを論じ、本講座設立を祝す。臼井幹事閉式を宣し茶菓の饗応をなし、午後三時一旦式を終る。
 この日渋沢子爵本講座設立を聞き、特に論語を講ずるを知り、自筆の論語一部の寄贈ありたり。
 松平伯爵の祝辞、渋沢子爵の寄贈共に本女子部の光栄とする所にして、衆皆衷心欣び合へり。
 午後三時すぎ開講、辻村講師恭謙の容荘重の弁を以て論語及源平物語を論じ来り弁じ去る、聴講者終始緊張し、次回の参聴を約して帰路に就く、四時半暮雲漸く迫る。