デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
3款 社団法人日本弘道会
■綱文

第43巻 p.403-408(DK430062k) ページ画像

昭和2年10月17日(1927年)

是日、当会創立者故西村茂樹二十五年忌記念祭、本郷駒込林町養源寺ニ於テ挙行セラル。栄一、来賓ヲ代表シテ献香、追悼ノ辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 昭和二年(DK430062k-0001)
第43巻 p.403 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年          (渋沢子爵家所蔵)
十七日○十月 日 午後二時 西村茂樹先生二十五年紀念祭(駒込林町養源寺)


弘道 第四二七号・第四四―四七頁昭和二年一二月 西村先生廿五週年忌記念大会の記(DK430062k-0002)
第43巻 p.403-406 ページ画像

弘道 第四二七号・第四四―四七頁昭和二年一二月
    西村先生廿五週年忌記念大会の記
                         記者
 本会創立者、明治道徳界の偉人西村先生が天寿拙く病を得て向島の私邸に、国民道徳建設に挺したる七十有五年の生を名残りに逝去されたのは、明治三十五年八月十八日であつた。先生をこれ景慕し、先生の光徳に浴しつゝその教へを奉ずるものにとつては、只に先生を憶ふの情に於て猶昨今の如しとのみ感ずるのであるが、恰も本年は満二十五年の星霜を重ねたるを知るに於ては、誠に今更ながら日月の流れ早きを感ぜざるを得ないのである。
 世は益々文化に進めりとなす。然れども先生が畢生の努力を致され慨歎せられたる国民道徳の上より見るとき、果して吾邦の現状は如何であらうか、口を並べて文明文化と世が唱ふるものは、形式であり装ひであつて、人間の精神的生活の基調をなす人道の上より抑々文化の言を冠することが出来やうか、夙に先生が二十五年以前に憂慮せられたる所以は、独り先生のみの憂ひなりしといふことが出来やうか。等しく吾人は心の誠に問ふとき、只々慙愧してよろしく文化の誇りを止め先生の先見の卓識に対し平謝せねばなるまい。此の様に考へるとき吾々は廿五年前に逝去された西村先生を憶ふの情に堪へられないのである。彼の学識と人格と先見の明をして、道義の頽廃を歎かれ、声をからして、今にして覚めずば将来救ふべからざるに至らんと、七十五年身を挺して努力せられた先生をして今日あられたならばどうであらう。微力なりといへ吾々を指導され進むべき道を示されて、必ずや吾吾を鞭撻し生を誤らしめないであらうにと、一方吾々の無力を歎くと共に、痛感せざるを得ないのである。所で此の際先生の識見人格を広く世に紹介して、それに依つて人心を覚醒せしめ、刻下の国難を救済すべく何等かの方法で先生を記念し、世に徹底的に紹介せんものをとは、先生の遺教を継承する本会が常に抱いて居た所であつた。折しもよし福島甲子三氏は親しく本会を訪ねられて語る様、御承知の如く現
 - 第43巻 p.404 -ページ画像 
下の状勢は心ある人の誠に痛歎する所で、吾々は此の世に処して一人の西村先生なきを遺憾とすると共に、先生の風格を憶ふに堪へない。其処で私は先生を此の際是非世に紹介したいと考へて居る。其の一歩として私は本郷の養源寺に此の偉大なる先生の御墓があるといふことを先づ区民に知らせたい。挙げて道義の如き顧みられない時である。本郷区民にして本郷に道徳界の偉人西村先生の御墓のあることさへ知らないものがある。これは誠に歎はしいものである。私は是非本郷区民が実に誇りとすべき西村先生の御墓の存在と、其偉徳を銘記せしめたいと思ふ。就ては私も及ばずながら尽力をしやうと思ふ。又林町町会長は三上博士であるから、町会の援助を願ふにも誠に好都合であると思ふ。本会としては如何であらうとの事であつた。本会としては前述の如く考へてゐた所であるので、渡りに舟、誠に福島氏及三上氏等の御尽力が得られるとすれば、愈々勇を百倍して素志実現に努めねばならぬと、福島氏の熱誠に促されて、話は愈進捗した。それが具体案として、先生の墓所養源寺で法要と記念講演、又記念出版、遺墨展覧会等を致すべく協議一決した。そこで期日であるが、期日は元来先生の命日は八月十八日である。然し時あまりに暑期にてあれば、繰延べて十月頃にといふ様なことになり種々と協議した結果、神嘗祭の佳日を卜して営むことに決した。それは八月上旬頃でもあつたらう。玆に大綱定つて後二ケ月の日数がある。着々と本会はその準備に急いだ。一方福島氏は申すまでもなし、三上博士よりは町会の御援助を煩し、又在郷軍人団・青年団、及本郷新報社長広中宗太郎氏等の一方ならぬ御尽力と相俟つて、準備は成、只に十月十七日を待つばかりとはなつた。簡単に大会挙行の動機とそれ迄の経過をいへばこれ迄のものであるが、後援者諸賢は申すに及ばず、本会としても約二ケ月の準備期といふものは熟慮に熟慮を重ね、或は東奔西走に到底筆紙に現し得ざるものがあつた。これを思へば本会の事業に御援助の諸賢に対しては何と申上げて其の労に謝すべきかに窮する次第である。又一方新聞社は本記念大会の消息を競ふて紹介の労をとられた。国民新聞・日本新聞読売新聞・京北新聞等は本会の知る範囲でも貴重な紙面を費されて居る。特に京北新聞は全三面を、日本新聞も又三面に多くの記事を提供されて居る。かような次第で、内に於ても整ひ、外に向つても宣伝に紹介に用意は既に成つた訳である。そこで記念当日の前々日、会場たる養源寺に於て本会側と後援者側の委員と会見協議して、会場の準備委員の分属人選等を終つた。越えて十六日は雨天である。日曜日を猶残務に努めつゝ明日の天候が案ぜられてならない。予報を見れば明日も今日同様との事である。聊失望せざるを得ない、折角これ迄の準備成り、徳一世に高き西村先生の二十五週年忌であるのに、天何ぞ無情なるぞと恨みの眼は天に自ら向ふ、然し降り続く秋雨は落着き払つて明日の予報を裏切りさうもなく、吾々の願を入れてくれさうもないのは憾めしい。然し何とも致し方はない。せめて今夜一晩を頼みともならぬ頼みとはして、安からぬ夢をむすぶより外なかつた。明けては愈十七日の当日である。一縷の望みも今は叶はず、昨夜来の雨は依然としとしとと降り続いて居る。世に神も仏もなきものかと吾々の誠の祈
 - 第43巻 p.405 -ページ画像 
りも入れられず、只に予報といふ科学の力の前にひれ伏し、それを信ぜざるを得ないのかと思へばそも無念である。所が午前 時吾々が会場へと集る頃にもなれば、宜なる哉、雨も小降りとなり、降りつ曇りつの日とはなつた。安んずべし、神も仏も世にはありき、それ偉人西村先生の徳は燦として滅せず、如何に消さんとしても消ゆべからず、又覆ふ能はず、この日先生を祭るとし云へば天も如何にして雨を降らし得べきものぞと、吾々は安堵の胸をなぜ下したのである。嗚呼、昨日来の雨模様といひ、現代人が絶対と誇る科学の示す予報といひ、今日の雨をどうして喰ひとめ得やうか、これ全く先生の徳でなくて何であらう。折々に落つる雨は道廃れし今の世に西村先生亡きを悲しむが如く、曇れるはこのやまずとはせし雨も先生の徳に依つて堰とめ得たるしるしかとも覚えて、誠に意義ある日とはなつた。正午には本郷区内の十二の全小学校より選ばれて、西村先生の霊に祈るべく出席せる生徒が、教師に引卒されて続々と参集し、それのみにてもはや四百名に近く堂の半を満す。一般参会者も先生の絶大なる偉徳に接すべく続続と会して、会する者ひつきも切らず、さしも広き養源寺の本堂も午後一時頃は文字通り立錐の余地もなく、開会前其の数既に無慮八百名を呈するの状況である。特に来賓としては水野文相夫妻・渋沢子爵を始め、別項記載の如く多数の参列を見て愈午後二時正確に大太鼓の一打の音と共に開会さる。一同着席するや、養源寺住職は僧侶六名を引卒して着座、法要読経に入る。荘厳の経の声はあたりのものみなを沈め粛として音なし、約三十分にして終る、神谷主事の進行係の下に徳川会長は恭しく本会を代表して霊前に額ずき、焼香し、次で告文を朗読す。それより先生嗣子西村一彰氏・令孫一郎氏、続いて中条精一郎氏同葭江夫人、神戸寅次郎氏等順次遺族の焼香が終り、それより来賓を代表して、渋沢子爵、林町々会を代表して三上博士、来賓婦人を代表して文相夫人水野満寿子女史、等の焼香があつた。次で徳川本会々長は主催側を代表して、林町西部町会長三上博士は後援者側を代表して、それぞれ一場の挨拶をなされた。この頃に至れば一般会衆者は約一千名にも達すべく、本堂以外隣の来賓室も控室も全部開放して猶足らず、階下の室にして残す所は辛じて遺墨展覧室を守城し得たに過ぎず、全く屋外に溢れるの有様であつた。これより各官庁の告辞に移る水野文相は此の日高等師範学校の方に赴かれて、或は出席不可能なるやも知れずとの事であつたが、万障お差繰りあつて出席せられたことは多謝する処である。先づ文相は立つて告辞演説を約二十分に亘つてなされ、西村先生の徳を称へ、日本弘道会の主義主張を賞讃せられて文政の局にある私として、現今の我国教育方針を樹立するにあたり、深く銘して以て指針となして進まねばならぬと考へて居るとまでの賛辞を呈せられて降壇さる。次で渋沢子爵登壇、老子爵は、今年八十八歳の高齢にして、今猶公私繁劇の身なるにも係らず、特に本会の記念大会に際し、出席せられたことは誠に多としなければならない。老子爵は人間に対する万古不易の道を説きて西村先生の国民道徳に及び、先生の人格徳行を賛し、今後の国民はよろしく善処して道を誤るなきを期せられたしと結ばる。それより別項の如き内務大臣鈴木喜三郎閣
 - 第43巻 p.406 -ページ画像 
下の告辞(山崎事務官代読)東京府知事平塚広義閣下の告辞、東京市長西久保弘道閣下の告辞(藤井教育局長代読)、本郷区長白鳥徳之助殿の告辞あり。これにて全く廿五週年忌の式を終つた。時に午後四時十分前である。
○下略


弘道 第四二七号・第二七―三〇頁昭和二年一二月 挨拶(西村先生を追憶して「道」を思ふ) 子爵渋沢栄一(DK430062k-0003)
第43巻 p.406-407 ページ画像

弘道 第四二七号・第二七―三〇頁昭和二年一二月
    挨拶(西村先生を追憶して「道」を思ふ)
                    子爵 渋沢栄一
 私も一言追悼の言葉を申述べたいと存じます。西村先生に対しては生前には甚だ疎くして、歿後には至つて密接になつたと私は申上げたうございます。二十五年の昔染々と御話申上げたことはありませなかつたかも知れぬし、此弘道会に対しては又私は主なる会員ではありませぬけれども、其主張を遵奉致して居る者でございますので、此二十五年の御追悼に際しては是非参堂して、老衰ながら一言愚見を陳情致したいと思つたのでございます。
 偖て此会の起りが如何なる所以であつたか、私は詳しく存じませぬけれども、論語に「非道弘人」と云ふ句がございます。此句から採つたものと私は想像して居ります。そこで其道と云ふことは一体何か、斯う云ふ題に就て更に話を進めなければならぬ訳になりますが、此道といふことに就ては、学者に依つて種々に論じて居ります。中庸には「天命之謂性。率性之謂道。修道之謂教。道也者不可須叟離也。可離非道也。」と云ふ一章が掲げてあります。それは蓋し子思の作であつて、孔孟道徳の根本に加はるべきものと思ひます。又韓退之は「博愛之謂仁。行而宜之謂義。由是而之焉謂道。足乎己無待於外之謂徳」と仁義道徳を定義してあつたと記憶致します。此道を云ふものは、頗るむづかしいもので、定義としては何れにもなりさうでありますが、中庸の「天命之謂性。率性之謂道。修道之謂教。道也者不可須叟離也。可離非道也。」と云ふ章句が、即ち道を定義したものではないかと思ふ。
 只今文部大臣は此世相の或は進み、或は退くと云ふことに就て、若し先生をして今日に在しめたならば、或は私と感を同じうしはせぬかと云はれ、或点から喜び、或点からは御憂へのやうに伺はれましたが蓋し西村先生が今日御存生であつたら御同感であらうと思ふ。私は甚だ学に疎うございますので、我国の古来の学問が如何にして発達し来つたかと云ふことに就ては詳しく知りませぬけれども、蓋し文物の進んで居つた隣国の良い所を消化して進んで参つた結果、所謂倫理道徳なるものに就ても、申さば他の良い所を採つて我が短を補ひ、而して我国固有のものと融合して進んで来たのであつて、歴代の聖天子皆左様であつたのであります。殊に近来我が明治天皇の御徳の光が御強かつたと云ふことは、文部大臣の今の御話並に三上先生が一寸御述べになつた事柄に就ても、吾々は洵に有難く感佩致すのであります。即ち我が固有の知識を進化して我を増して行くと云ふことが、実に能く進んで参つた所以と申上げて宜しいが、併し其採り方が良かつたから宜
 - 第43巻 p.407 -ページ画像 
しいが、若し不味かつたならば害こそあれ決して益はないと思ふ。
 先頃伊太利の首相、例のフアツシヨ式の政治を以て伊太利の国風を風靡させて居るムツソリーニから、宣言を贈られた。それは日本の青年男女に贈られた言葉でありますが、其中に最も注意すべきことがございました。即ち其冒頭に「凡そ国の進歩は其国の青年男女が、他の良い所を己に採つて之を従属させて進むのである。但し其の採り方が模倣追随に流れて行くと、惰弱放漫に陥つてしまふ。併し日本の青年男女は決してそんなことはなからうと思ふ。我がフアツシヨ組合の青年も亦さう云ふことはない、御互にさういふことのないやうにせねばならぬ」云々と申してありますが、其趣意は洵に深く感ずべきものではないかと思ふ。即ち良い所を採らねばならぬが、どうかして悪い所を採ると大変な害を蒙ると云ふことを戒しめてございます。
 私は此程多事でありますけれども、伊豆の下田に参つてタウンゼンド・ハリスが七十年以前に下田で領事館旗を立つたと云ふ事柄を多として、記念の碑を建てましたのでございます。但し私し一人ではなく亜米利加の大使など共相談して挙行致しましたが、其時タウンゼンドハリスが、領事館旗を初めて立てた朝の日記の一節が翻訳されたのでございます。是は甚だ面白い言葉であつたので、玆に略して申上げますと、伊豆の下田へ来て軍艦から岡に上つた後の記述であります。
 夕は神経の興奮と蚊が多かつた為に眠が悪かつた。朝起きて大勢と共に上陸して、領事館旗を立てやうと思つて其場所に行つた処が、風が強かつた為に旗の杭を折られてしまひ、手が足らなかつたので更に軍艦から人を増して、さうして色々な手当をして漸く其旗が立ち得られた。偖て領事館旗を立つて居ると、自分で思へらく、「是から先日本の政治上に大変革を来すことになりはすまいか、是が日本の政治の更新の徴かと思ふ。今私は此処に日本の為に思ふ、未来の日本の幸福になるや否や……」
 是は他国へ来て交を結び、国を開くと云ふ力を持つた人の短い日記であるけれども、私はこれに深く感佩しまして、其時タウンゼンド・ハリスに対する言葉として「七十二年前にあなたのかけた謎を、私は今日、お集りの皆様と共に解く積りであるが、確にあなたのお思ひ通り、日本に幸福をお与へ下すつたと喜びますから、どうぞ御安心下さい」と云ふ意味の言葉を申しましたが、今日私は西村先生の二十五年以前の御考に就ても、只今文部大臣が広い意を以て御解釈になつた通り、それが即ち道である。此考を以て吾々後進の人々が是から先進んで行つたならば、即ち西村先生の霊は如何にも其通りだと頷いて下さるであらうと思ふのであります、但しそれにはどうぞムツソリーニの言ふやうに、邪な道に趨らず正道を真直ぐ進まねばならぬ。又此弘道会の趣旨を吾々が満足にしたとは申せぬと思ひますから、御同様相誓つて、斯の道を正しい道に進められむことを御願ひする次第であります。一言申述べ責を塞いだ次第であります(文責在記者)


弘道 第四二七号・第五一頁昭和二年一二月 本会彙報(DK430062k-0004)
第43巻 p.407-408 ページ画像

弘道 第四二七号・第五一頁昭和二年一二月
    本会彙報
 - 第43巻 p.408 -ページ画像 
  西村先生廿五週年忌記念会に際し左の諸氏より寄附金並に御進奠をせられたり、謹んで記して以て玆に御厚情を深謝す。其の芳名左の如し。
      寄附者
一金百五拾円也         会長 伯爵 徳川達孝閣下
一金百五拾円也         顧問 伯爵 松平直亮閣下
一金百五拾円也               福島甲子三殿
一金五拾円也                西村家遺族殿
一金参拾円也           本郷区駒込林町西部町会殿
      御進奠者芳名
一金弐拾五円也            子爵 渋沢栄一閣下
一金拾円也            東京市長 西久保弘道閣下
一金参円也                 酒井八右衛門殿
一金参円也               本郷区肴町正五会殿
一金五円也                 倉地鈴吉殿
一金拾円也            本郷区駒込林町東部町会殿
一金壱円也                 矢野糺殿
一金拾円也              伯爵 徳川達孝閣下
                      令夫人殿
一御供物              日本弘道会有志青年部殿
一金弐拾五円也           日本弘道会 女子部殿
一金拾円八拾銭          社会教化学院校友会有志殿
                       日本弘道会