デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.494-499(DK430092k) ページ画像

大正5年7月7日(1916年)

是日、当団本部ニ於テ栄一主催ノ当団向上舎卒業生送別茶話会開カル。栄一出席シテ訓話ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK430092k-0001)
第43巻 p.494-495 ページ画像

集会日時通知表 大正五年         (渋沢子爵家所蔵)
 - 第43巻 p.495 -ページ画像 
七月七日 金 午後七時 修養団卒業式後茶話会(修養団本部)
(菓子御贈リノ約)


向上 第一〇巻第八号・第七九頁 大正五年八月 △渋沢男爵の来団(DK430092k-0002)
第43巻 p.495 ページ画像

向上 第一〇巻第八号・第七九頁大正五年八月
    △渋沢男爵の来団
 去る七月七日夜本部食堂に於いて渋沢顧問の御主催にかゝる各向上舎卒業生送別茶話会開かる。当夜男爵には六時半御来団あり、蓮沼主幹・北爪子誠氏・瓜生・松本・妹尾各幹事、各向上舎卒業団員其他四十余名の来会者に対して御懇篤なる御訓話を賜はり、それより茶菓の御饗応あり、各自歓談裡に夜の更くるを知らざるものの如く、男爵には十一時と覚しき頃御帰邸遊されたり。男爵が吾人を御指導下さること恰も我が子弟を見るが如き御厚情は常に感謝するところなるが、当夜の御懇情に至つては到底筆舌の尽し得べくもあらず、殊に卒業団員には深き感銘を与へられたるものの如し。


向上 第一〇巻第八号・第一四―一九頁 大正五年八月 世に処する覚悟 顧問男爵 渋沢栄一(DK430092k-0003)
第43巻 p.495-499 ページ画像

向上 第一〇巻第八号・第一四―一九頁大正五年八月
    世に処する覚悟
                    顧問男爵 渋沢栄一
△名刀の鍛の如く
 諸君は多年蛍雪の労空しからず今回目出度く学校を御卒業なされてこれから各自それぞれの方面で、活社会に出られるのであるが、これは我々の大いに快とするところである。依て私は諸君が前途大いに発展出世せらるゝ様祈念する次第である。
 けれども実社会は学問で習つた通りには行かぬ事が多いから、各自の理想があまり大きに過ぎると、遂には天道是か非かの歎声とまではならぬとも、自分が今まで抱いてゐた考へに疑惑が生ずるやうになると云ふことは随分あることだと思ふ。而して此事が諸君の大いに戒慎を要するところである。
 私は社会の経験には多少富んでゐる、また其の実状にも相応に通じてゐるつもりであるから、親しき諸君に対して一言の辞なかるべからずと思つて、玆にお話をする次第である。実は送別会を開きたいと思つたのであるが、私は何分にも忙しい身であるから思ふ様にはゆかぬので、今夜は私の方から出掛けて来て諸君にお話を致し、それに就いて諸君が御批評を下さる様にしたら、即ち相互に真の胸襟を披瀝するのでその方が形式的の送別会よりは却て親しみが多くて好いと思ふ。
 先づ私は自己の経歴の一端を語つて、諸君の御参考に供したい。
 世の中に出ると其処には思ひも寄らぬ幾多の山や河がある。だからその山や河に対する覚悟を当初から定めて置くことは甚だ肝要であるけれども其覚悟があまり固くなつて窮屈に過ぎると折れて了ふやうなことがある。さうかと云つてまた軟弱でもいけない。そこで名刀の鍛のごとく折れず曲らずと云ふ態度であつて欲しい。総じて学生の学校で学んだ学問は、職に就いて直ちに之を行ふと云ふ訳には行くものではないが、諸君の修められたのは夫々専門である故、縦令其の地位は低くとも、雑務に服するのではないから、普通の吏務に就く人よりは
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余程具合が好いと思ふけれども、実務に当つては最も低いところからやつて行くと云ふのが肝要だと思ふ。
△志士として郷関を出づ
 私の昔語をするならばこんな境遇であつたのである(尤も私の若かつた時と現今とは、時勢が全然違つてゐるけれども。)二十四才の十一月八日に所謂志士となつて自分の故郷を出た。当時の志士と自称する人々は力も強く意気も旺盛に読書・撃剣もやり、その気位は大分高い連中であつた。
 然しその行状はあまり善くはなかつた。つまり彼等は意気が優れてゐて、所謂治国平天下と云ふことを目的として其の郷関に居る時よりしてとかく乱暴な行為をしたものである。悪く云ふと乱民となる様な計画をしたのであつた、併し到底此等の倒行逆施は成功せぬと悟つたから、故郷にありし六・七十人の徒党は悉く解散して了つた。
 そこで私は従弟の喜作と二人で京都に行つた。京都でも亦非常な困難をした。困難と云つても別に衣食に窮したと云ふのではない、する事が何んにも無かつたからである。
 その内に一橋家の権家に平岡といふ人があつて、その人に依頼して京都に於ける時勢の変化を知ることが出来たが、間もなく自分達の同盟中の親友が三人江戸で捕縛されて了つた。而して折悪しくその人達に書送つた私の手紙を持つてゐたので、私と喜作と共に幕府の捕吏より一橋を経て訊問される事となつた、其時に平岡と云ふ人が叮嚀に私共の経歴を推問されたから従来の計画を包まず隠さず話して了つた。さうすると平岡は更に私共に何か悪事は働はしなかつたかと云はれたから、全くありませんと答へた。すると今度は人を殺さうと思ふたことがあるかとの質問なので、私は実は奸邪の幕吏や暴戻なる外夷を殺さうと考へたことはあると明白に答へて了つた。そこで平岡の云ふには君等が一橋家を去ると直に幕吏に捕縛されると思ふ、就ては君等は如何に其身を処するかと云はれたが、別に方策もなかつたから平岡の訓諭に従ひ、名君を選んで之に仕へ正当の順序を経て国家に尽力することに決意し、其の結果一橋家の極く低い家来になつた。之は実に私の境遇の一転化であつた。
△筆上と筆下
 さて斯うなつたからには真面目に辛抱しなければならないと思つて丁度秀吉が草履取をしてゐた時の様な心持で勤めた。その時の役目は奥口番と云つて、番人のやうなものであつたが、実際は国事係の下役を勤めたのであつた。番所の先輩は皆な老人で、此の老人達を先輩として仰ぐのだ、就職の日、之等の老人に挨拶をしに其詰所に行つた時には、つい心得ずに上座に席を取つたので、ひどく叱言を云はれたこともあつた、其の他永い月日の間には随分意地の悪い待遇を受けたこともあつた。幕府の制度は同役でも筆上と筆下とでは非常な相違で、会食する時などにも筆下のものは筆上の人の給仕までさせられたものである。
 幸に私は国事掛の下役になつて一年余り頻りに奔走した。其初めは先づ小使の様なものであつたが、少しは用が弁ずるところから、追々
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重く用ゐられるやうになつた。
 その頃折田要蔵と云ふ薩藩士が、大坂に台場を築造する必要ありと云ひ出したので、朝廷幕府共に大へんな騒ぎであつた。新聞のない時であつたけれども、若しあつたならどうしても、号外沙汰と云ふ程であつた。その時私は平岡に選ばれて築城学の修業と云ふ名義で折田要蔵の門人となり、七十日ばかり大坂にゐたが、折田には薩摩から出たばかりの門人が沢山にゐた。
 ところが此の薩摩出の門人は言葉が解らない文筆もあまりなかつたので、私は比較的重く用ゐられ従つて折田氏とも親しくなり、次第に信用を得た。然し賞讚ばかりされてゐたのではない、その間にはいろいろの苦しいこともあつた。
△幾度か自問自答
 翌年、私が二十六歳の時に、一橋家には少しも兵力が無いのに京都御守衛総督の名を有してゐるのは甚だ不都合であると云ふ論があつて其の結果、軍政掛と云ふものが出来た。歩兵の指揮の出来る人はあるけれども肝腎な兵がない。強ゐて求むれば幕府から借りて来るのであるが、当時幕府と一橋とはあまり仲が好くなかつた。そこで私が建議して歩兵組立と云ふことを計画した。上役の人が確かに出来る成算があるかと問はれたから、私は必ず出来ると答へて大胆にも引き受けてそして慶喜公に御目見えをした。
 一橋の領分は摂津・和泉・播磨・備中の四ケ国で、凡そ八万石ばかりであつた。私は其領分から是非とも二大隊の歩兵を得たいと思つて歩兵組立御用として出張をした。先づ備中に行つたが中々人が集らない、二日も三日も、若い人々を寄せ集めては、国家の大勢を説いたが一向に其の効果がない。私は此時に非常に苦しんだ。いろいろと苦辛努力した結果、一橋の代官も庄屋の人々も充分に賛成して呉れるやうになつて漸く目的の人数は出来た、出来て見れば何でもないことのやうであるが、一時は真に憂苦に沈むだものである。此の際私は幾度か自問自答したが辛うじて自暴自棄に陥らなかつた。
 私は当初天下を治めやうと云ふ大きな志を抱いて郷里を出たのである、然るに斯様なる瑣細の役目にも尚ほ且つ非常に苦しんだ。諸君は私の青年時代とは境遇も異なるし、時勢も違つてゐるから前来述べた私の実歴を直ちに諸君の場合に当てはめることは出来まい、しかし現代の若い人々に取つても大に予想に異なることがあらうと思ふ。これは世に処するに際して第一に覚悟せねばならぬことである。
△自ら求めて為せ
 それから総じて業務と云ふものは、自ら求めて為すのでなければならない。人が自分に与へて呉れるのを待つてゐるやうでは、到底真の仕事は出来るものではない。自ら進んで仕事を引き寄せなければならない。これは甚だ肝要な心掛けである。
 仕事に対して不満だと云ふことは、即ち自己の不能を告白してゐるものである。自分の為すべき仕事を上手にやり遂げ親切に仕上げるならば、必ず其の力が種々の仕事を引き寄せて来る、従つて他の信用も増して来るやうになる。之に反して人から安心もされず、信用もされ
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ないやうなことでは到底仕事は其身に来らない、随て其人の立身出世は覚束かない。
 それから又、世の中に出ると自分の仲間同僚は必ずしも同趣味の者ばかりと云ふ訳には行かぬ。だから利害相反する時などには、自分の意を得ないやうなことは屡々起つて来る。これは恐らく何人も免れぬことであらうが、斯かる際には最も冷静なる思慮を以て之に処さねばならない。直ちに短気に之に当るが如きは宜しきを得ないのである。
 斯くの如き事柄は一々之を挙げることは不可能であるが、要するに人は自己の職務に忠実を尽し徳義を重んじて身を修め人に接するの道を歩むより外には別に世渡りの道はない。
 それから人は宜しく志と行との一致を期すべきである。如何に智識に長じてゐても、篤行質実を欠いてゐては駄目だ、又いくら質実篤行でも智識が浅薄では完全なることは出来ない。志と行・智識と徳義は常に並行して二つながら全き様に用心しなければならない。此の点は余程六ケ敷いところである。
△間違つた考を持つ先輩
 世の中には相当な地位にある人でも随分間違つた考へを持つてゐる先輩がある。
 先日或る雑誌で見たのであるが、関西の有力な実業家の某氏の如きは、「たゞ富みさへすればいゝ、其の方法の是非の如きは之を論ずる必要はない」と云ふてあつた、つまり勝てば官軍負ければ賊といふ説であつたが、之は根本から間違つてゐると思ふ。斯くては所謂弱の肉は強の食となつて、世の中は奪はずむば飽かずといふ有様になつて了ふではないか。
 また神田の或中学校の教師は、(之は直接聞いたのではないが)教室で生徒に向つて、「人はたゞ正直々々と云ふが正直ばかりではいけない、嘘も方便である。現に政治家や実業家は、平気で嘘を言ふてゐる」と云ふ演説を公然言つたさうである。甚だ誤まれる言と思ふ。たとひ左様なことがあつたとしても、それは善からぬことである、人としては如何なる境遇にゐても、如何なる職業に従事してゐても、常に正直であらねばならぬ。
 将来諸君の従事する事業界の先輩の中にも、稀には斯かる人がゐることだらうと思ふ。この時には諸君大いに注意しなければならない。而して斯かることは予め熟考して置く必要がある。
 つまり私は誠実なる志操と完全なる智識との二つを具備してゐる人ならば、必ず成功するに違いないと思ふ。論語に「言忠信、行篤敬、雖蛮貊之邦行矣」とあるが、実に千古不易の金言である。
 殊に我が修養団は、世の風教を改善しやうと云ふのが其の主義であるから、請ふ隗より始めよで、諸君は鞏固たる自信を持つて、世に処して志と行との相反するが如きことのない様にしなければならぬ、若し志と行とが相反する様なら決して修養団員とは云へないのである。
 之を要するに、実社会は今まで学窓に在つた時と同じ様な訳には行かぬ、仕事は自分から進んで求めるやうにせねばならぬ、それから先輩も悉く正直な正義の人ばかりとは云へないから、自己の所信を基と
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して人に接し事に当り、然かも相互に円満を期するやう忍耐すべきである、鞏固なる所信と完備せる智識があつてそれが常に平行するならば、天下到る処恐るべき敵はないのである。(七月七日夜本部ニ於ケル講演大要)