デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.500-503(DK430094k) ページ画像

大正5年10月29日(1916年)

是日、当団本部ニ於テ当団主権、渋沢・森村・手島三顧問延寿頌徳会挙行セラル。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK430094k-0001)
第43巻 p.500 ページ画像

集会日時通知表 大正五年        (渋沢子爵家所蔵)
十月廿九日 日 午後一時半 渋沢・森村両男及手島精一氏延寿頌徳会(修養団本部)


竜門雑誌 第三四二号・第八八―八九頁大正五年一一月 ○修養団記念会(DK430094k-0002)
第43巻 p.500 ページ画像

竜門雑誌 第三四二号・第八八―八九頁大正五年一一月
○修養団記念会 修養団にては十月二十九日午前十時より同本部に於て本部及向上舎第三回建築記念式を挙げ、同団顧問たる青淵先生・森村市左衛門男・手島精一三氏に対する延寿頌徳会を開催せり、幹事坂本剽氏・主幹蓮沼門三氏の挨拶、団員・学生の演説、増田義一氏の修養談、西端大佐・津崎法学士等の演説あり、午後一時より頌徳会に移り蓮沼主幹の頌辞、滝川清之助氏の感謝の辞に対し、青淵先生・森村男両顧問(手島氏は病気欠席)の挨拶ありて四時閉会せり、来会者は前記の他木村少将・蔵原惟郭・小久保喜七氏其他学生等四百余名なりしと。


向上 第一〇巻第一二号・第九七―九八頁 大正五年一二月 渋沢・森村手島三顧問 延寿頌徳会(DK430094k-0003)
第43巻 p.500-502 ページ画像

向上 第一〇巻第一二号・第九七―九八頁大正五年一二月
    渋沢・森村手島三顧問 延寿頌徳会
 - 第43巻 p.501 -ページ画像 
 本団が今や名実共に社会に認められ、同志の加盟日に多きを為すもの全く先輩諸士の賜と深く平素より感謝せる処なるが、渋沢・森村・手島三顧問には、今回実業界・教育界を勇退せられて、其余生を精神的社会事業の為め献げんとせらるゝ首途に方り、本団同志一同は其の社会国家に尽され、本団に熱誠を注がれたる高徳高恩を頌謝し併せて三先生の長寿無窮を祈らんとせんとて、予報の如く十月二十九日を卜して頌徳会を挙行せり。夜来瀟滌の秋雨降りしきりて、寒冷漸く骨に徹す。三先生とも御高齢に渉らせらるる事とて、加ふるに何れも御微恙なりしかば所詮医師の外出を許すべくも思はれず、一同唯だ天を睨んで太息す、然るに渋沢顧問には此雨を冒して敢て御出席下されしかば一同の眼には早や感激の涙光りぬ。森村・手島両顧問よりは懇篤なる御挨拶あり。
 嗚呼吾等の血は湧かざらんとするも得ざるなり。熱せざらんとするも能はざるを如奈せん。眇たる吾が醜骸若し諸先生の高示によりて赴くべき処を指示され、死すべき時を教へられなば、火ものかは、水ものかは、矧んや其の他の事をや、同志の眉宇に決心の色動き瞳子歓喜の輝に充つ、言はざるに知り、語らざるに盟契の手を固く握る。
 会場には正面に高壇を設け、咲き香へる菊花を盛り上げ、幔幕を引き廻し、準備遺憾なかりしは係員の苦心見るべし。
 来賓・団員会するもの数百、会場立錐の余地なかりしは全く三顧問に感激せる熱誠の迸りにあらずして何ぞ。当日重なる来賓は
 坂田高工校長・津崎尚武・増田義一・宮田編緝顧問・菊地馬之助・木村少将・松浦玉圃・北爪子誠・西端大佐・田野井多吉・黒沢憲隆・佐藤亥三・花見朔三・村上教授・吉田大尉其他
 午後一時より左の式序によりて開会、午後四時半歓声の裡に閉会せり。
      式序
 一開会之辞             坂本幹事
 一挨拶               蓮沼主幹
 一感謝之辞        団員総代 滝川清之助
 一同          向上舎総代 大跡喜久太
 一祝辞祝電披露           妹尾幹事
 一頌辞               北爪子誠
 一同                宮田修
 一同                木村少将
 一謝辞               渋沢男爵
    以上
  会終り夜に入りてよりは第二向上舎関係者一同食堂に会して懇親茶話会を催し、高談風発、熱弁噴湧、歓談時の移るを知らず、十一時の音に驚かされて惜しき会を閉づ。
 尚当日来賓田野井氏・黒須氏が各二円宛御寄附下されしを誌上に於て感謝す。
 尚遠隔の地に在りて当日の会場に出席する能はず遥かに熱誠なる頌徳の辞、祝辞を寄せられたる無慮 通、其熱誠あればこそ風教の
 - 第43巻 p.502 -ページ画像 
改善も、理想郷の建設をも遂げ得べきなり。
○下略



〔参考〕向上 第一〇巻第一二号・第二六―二七頁 大正五年一二月 西片町の一夕話(DK430094k-0004)
第43巻 p.502-503 ページ画像

向上 第一〇巻第一二号・第二六―二七頁大正五年一二月
    西片町の一夕話
 街樹漸く色褪せて、秋深き十一月初め、一夜本郷西片町の御邸に先生○前東京高等工業学校々長手島精一の御病気を見舞ふた。先生は幸快いからと其病躯をおして記者を応接間に通されて、極めて謹厳な口調で色々と語り出でられた。今其の大略を誌して先生の御高訓を伝へる事とした。
                          (記者)
      百代の達人
 今回渋沢男爵・森村男爵の為めに修養団で延寿頌徳会を催されたのは洵に機宜を得た美挙で、甚だ結構な事であると思ひますが、唯だ斯く地位あり、身分ある高徳の方々と共に、私の如き不徳の者が一緒に書き列ねられたのは、聊か其の徳を穢しはしまいかとの恐れがあつて恥しい。けれども当日は特に御案内も受けてゐたのであるから、是非少々の事なら出席しやうと思ふてゐたのであるが、生憎感冒を病んで居るのに、あの降雨寒気であつたから行けなかつたのは甚はだ残念でありました。
 修養団が今日あるのは、主幹はじめ団員諸氏の真面目と熱誠の努力に拠るのは勿論であるが、而かも渋沢・森村男爵の如き有徳の先輩方を初めとして、各先輩の後援がなかつたら、或は困難であつたかもしれん。
 殊に右両男爵の如き方が、本団の為めに御尽力下さるやうになつたのは慥かに、天の使命が本団に在つたからであると思ふ。
 渋沢男爵は明治・大正を通じた否古今稀れに見るの偉人であると思ふ。斯かる人格者に対して普通の人が功労あれば貰へる処の男爵とか子爵とかいふ人爵の爵名を以て呼ぶのは甚だ其人を穢すの感がある。寧ろお齢も召して居られるから翁と呼ぶのがよいかも知れん。
 先日の立太子式当日宮中に参列した時に、男爵も参列せられ、不肖私も席末を穢したが、其時熟々感じた。男爵の如き人爵を以てすればこそ、当日の如き参伺の場合に有象・無象の輩までが先生と同列に、或は其れより上席に座するものが多い。併し其の人格と、国家社会に致された功績よりすれば、実に天地霄壌の差も啻ならぬものがある。若し強いて此の高徳の偉人なる人に人爵を与へんとすれば、当に公爵を以てすべきではあるまいかと思ふ。翁が今日の青年ならば、未だ学窓に呻吟する二十四歳の時から愛国勤王の大志を抱いて、平安なる血洗島の郷里を出で、勤王の志士と往来し、一度び慶喜と主従の契を結ぶや、よく慶喜をして人臣の大道に殉せしめ、夙くも仏国に遊びて、法律経済の学を修め、世界の大勢に通じ、帰りては明治政府の懇望を容れて大蔵省に出仕し、其の学び得たる新智識を傾けて税制・貸制の大本を作られた。
 当時は旧物破壊、官尊民卑の風潮一世を覆ふた時代で一にも官吏、二にも官吏、お役人でなければ人でないやうに云はれてゐたものであ
 - 第43巻 p.503 -ページ画像 
るから、苟も青雲の志ある青年は悉く役人になつたものである。
 翁は実に此の時代に、飛ぶ鳥も落す大蔵省の羽振りのよい新進の高官であつた。普通のものなら永く此地位に留まつて一身一家の栄達を計る可きであるが、翁は当時時勢の風潮が官吏万能である為めに、官界には招かずして有望な青年を得る事が出来るが、今後我国をして欧米先進国と駢馳せしめんとするには、什うしても所謂平和の取引によつて国富を増し、其の文明を輸入して我神州を啓発せねばならぬ。それには実業を発達せしめねばならぬ。然るに我国では封建の余弊で、実業家を所謂素町人と呼んで、士・農・工・商四民の最下位に置いた思想が未だに去らず、兎角商人を卑しめるから此のまゝに放置しておいては、所詮有望なる青年を此道へ入れる事は出来ぬ。それでは重要なる実業界を発達せしめる事が出来ん。これは先づ隗より始めよで、自ら実業界に身を投じて国家の為めに尽さなければならんと決心せられるや、翻然として人の羨望の標とする高官を棄つる事弊履の如く、家人朋友は元よりの事、知人の総てが一身の利害関係を力説してこれを思ひ止まらせやうと努めたが、先生の眼中には唯だ家国民人の為め身を棄てゝ仁を為さんとの心が燃えてゐるばかりで、一身一家の栄枯や利害の如きは元より眼中になかつたから、多くの人々の折角の骨折も無駄になつて、遂に先生は終生実業界の為めに奮闘して、再び官界に入らぬと声明されて、大蔵少輔から一躍素町人になり了せられたのである。
 今日から考へると已でに実業界にも多数の立派な人物も居り、世間でも認めて寧ろ昨今は官界よりも、此の実業界の方へ立派な青年が行きたがるやうになつて来たから、官界を去つて実業界に入るのをさほどにも思はぬが、当時に在ては実に破天荒な事で、実業界が今日の如き趨勢に至つたのは全く翁の努力が預つて力あるものである事は世間已でに公認して居る処である。
 自己の利害から超越し、時勢の風潮に抗し、国家百年の大計の為め断々乎として自己の所信を行ふものは実に達識雄偉の達人でなければ出来ぬ事で、此点から見ても実に翁は百代稀に見るの偉人でなければならん、春雨秋風其の声明の為めに健闘四十余年に渉られ、今玆喜寿に当つて後進の道を開く為めに、実業界から勇退せられるに至つたので、本団が其の知遇恩義を思ふて延寿頌徳会を催したのは至極立派な事であると思ふて居る。
      独立自営の範○略ス