デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.520-532(DK430101k) ページ画像

大正6年10月7日(1917年)

是月六日、栄一、六十九銀行本店新築落成式ニ参列ノタメ、新潟県長岡市ニ赴ク。是日、長岡中学校ニ於テ、当団長岡支部ノタメ講演ヲナス。次イ
 - 第43巻 p.521 -ページ画像 
デ栄一、新潟ヲ経テ東北旅行ニ向ヒ、其途上、十月十日、福島県耶麻郡喜多方町喜多方高等小学校ニ於テ、当団耶麻郡支部講演大会ニ出席、講演ヲナス。更ニ十二日、福島県田村郡郡山町、当団員経営ノ子守学校ニ於テ、当団郡山支部ノタメニ講演ヲナス。


■資料

向上 第一一巻第一一号・第一〇八頁 大正六年一一月 長岡支部報告 渋沢男講演会(DK430101k-0001)
第43巻 p.521 ページ画像

向上 第一一巻第一一号・第一〇八頁 大正六年一一月
  長岡支部報告
    渋沢男講演会
 長岡中学校に於ける渋沢男の講演会は十月七日午後三時より開会せられたるが、聴衆無慮千名に達し、遉がに広き大講堂も全く満員の盛況を呈したり。定刻渡辺商業会議所会頭開会の挨拶を為し、丸田亀太郎氏は修養団支部を代表して団長田尻稲次郎博士よりの来翰を朗読し直ちに講演に入り、第一銀行監査役尾高二郎氏は修養に就いて説く処あり、次に渋沢男は福島甲子三氏の紹介にて壇上に立たれ、吾国に実業てふもの現はれたる初めより説き起され、実業家としての守るべき本分、文明と実業との関係、処世上の必須条件たる徳義教育の二要素社界共同生存の妙諦より、一転して教育論に入り、修養団の事業に説き及ぼし、「人苟も世に立つ、宜しく須らく修養を怠るべからず」と論結し約一時間に亘り極めて有益なる講演を試みられ、五時十分前大喝采裡に閉会したり。


竜門雑誌 第三五四号・第七八―八〇頁 大正六年一一月 ○青淵先生北越及奥羽旅行(上) 随行員 白石喜太郎記(DK430101k-0002)
第43巻 p.521-523 ページ画像

竜門雑誌 第三五四号・第七八―八〇頁 大正六年一一月
    ○青淵先生北越及奥羽旅行(上)
                 随行員 白石喜太郎記
○上略
      二長岡
○中略
 学校○長岡中学校に到り、校長室に於て小憩の後、講堂に赴けば聴衆千数百名粛然として控えたり、広やかなる大講堂も流石に立錐の余地もなかりき。かくて丸田亀太郎氏修養団支部を代表して、団長田尻子爵よりの来翰を朗読し、直ちに講演会に移り、先づ尾高次郎氏壇に立たれ実業上より修養を説かれ、次に青淵先生には福島甲子三氏の紹介により登壇、大要左の如き講演をせられたり。
  私は近頃体に故障がありますから諸君に満足な話をすることが出来ません。殊に今日御集りの方々は各方面の方であつて申上る話が何について話せば良いか実に苦しみますが、第一番に実業界に就て話をします。抑も我国に於て実業といふ名の現はれたのは明治四・五年頃でありました。之れは商工を合せたる新規なる名称であつて当時の事を回想すれば真に隔世の感があります。実業界も今日は重きを置かれる様になつて、実業家自身も位置が進む様になつたので五十年前に比べると、実に霄壌の差があると言うても差支ないので
 - 第43巻 p.522 -ページ画像 
あります。実業界をして長足の進歩、発達を遂げしめたる理由は主として合本法の採用の結果と思ひます。維新時代に於ては力を合す仕組がなく皆個々別々に其力を用ゐて居たのであります。斯んな事ではとても日本の実業を発達させることは出来ないのであります。私が昨年辞した第一銀行も当地の六十九銀行と同じく小より大に進んだのであります、其他現在社会百般の大事業と云ふ大事業が皆大いに発達したのは、資本合同の宜しきを得た為めであると申して差支ないのであります。
  例へば当新潟県の石油事業の如きは洵に此適例でありまして之を維新前などの様に、各個人の事業に委せておいたならば、今日の様な盛況を得ることの出来ないことは明瞭であります。石油の如きは資金を最も多く要するから、其を料理する力を必要としますし又勉強が大切であります。勉強が進んで行つて始めて事業が進むのであります。各種の事業が盛大となり、銀行の金融が増しますから資金を十万から千万へとだんだん増さねばならんのであります。
  それで実業界の発達するのは大いに喜ぶ可き事であるが、富を致す事が個人々々皆自己の懐を肥す事のみ図つて国家全体に対して富を増す事を図るものが少いのは実に情ないことであります。実業を進歩させるには先づ第一に其れに相応する学問が必要であります。然るに明治十五・六年頃には実業教育を授ける学校が無かつたので私共は大いに其の設立を願たが、当時の人々は実業教育は必要でない様に思て、私等の説に対し皆笑て居たのであります。然しながら段々道理がわかつたので遂に高等商業学校の設立を見たのであります。智恵が増せば仕事が増します。それ故に両者相俟て初めて実業と云ふものが進歩するのであります。
  それで実業が道徳観念を閑却する様なことがありますと、有力のものは力のないものを圧倒する様になります、社会と云ふものは人人が相共に進む事に従て富も増加し、楽もあります。実業に関する智識の進むと同時に、之を使ふ人の仁愛の念が満され、之に加ふるに智識が相俟て進んで実業の進歩を致すのであります。
  外国貿易に就ても道徳観念が薄いと、粗製濫造の弊に陥るのであります。延ては一国の信用を落す様なことになります。富を致すに当り自己の富であると考へて採る所の手段を択ばないと云ふ事も見受けますが、残念至極であります。
  私は日本に於ける銀行の元祖と云つても過言ではありません。然し銀行だけでは事物を進歩させる事が出来ないから、工業に運輸にあらゆる方面に株式組織を応用して之を進歩させ様と計つたのであります。五十年の歳月は実に実業界に大なる変化を与へました。私は七十七歳を機として昨年銀行を辞しましたが、尚余生があるので社会及国民の一員と成て世の為、人の為に尽さうと思ふて居るのであります。
  教育の話をするのは私には其の資格がありませんけれども一言申上げます。現在の教育に対する考は簡単に申しますと、教育する人が良くないと思ふのであります。小学校から既に面白くありません
 - 第43巻 p.523 -ページ画像 
之は注意して戴きたいと思ひます。それで人格の高い人に校長になつて貰いたいのであります。昔の寺小屋は実に不規則ではありますけれども、其地方の篤学者・僧侶といふ様な薫陶力・感化力を持つた人が教師となつたのであつて、其許に生徒が行つたのである。或は漢学の先生、名ある先生に於ては先生の徳風を慕うて生徒がよるのであります。夫故形こそ不完全であり不備であつても実質は立派なものでありました。然るに今日の教育は智のみ教へて、感化がありません。家庭に於ては更に感化がないのであります。大人になつてから仁義道徳を学ぶ様では既に晩いのであります。それで私は小学校時代からの制度を改良したいと思ふのであります。
  終りに修養団に就いて少し話を致します。修養とはつまり人の人たる道を修養するのであつて、修養団の主義は同胞相愛・流汗鍛錬であります。自分は初めから団員ではなかつたのでありますが、援助したのが縁故となつて遂に顧問の役に列したのであります。修養団は学問などの余り深く無い人の集合であります。学問の進歩はすべて智を増します、此智は良い人から出た良智はよいけれど、悪い人から出た智は悪いのであつて若い人を堕落させるのは皆之であります。智識の進歩せる今日に於ては斯様の弊を増すのであります。私が団員に成つた経路を云ひますと、主幹蓮沼氏が非常に温厚な人でありまして、労働は神聖なりを主義として苟も浮薄の事をしないと云ふ、此の如き会があるから助けてくれと申して来ましたからして、私は森村氏と相談して助けてやる事に決ました。団長は田尻子爵であります、子爵は今官途にあつて実に申し分のない学者で、我我は実に良い団長を得たと喜んで居ります。
 堂々一時間余に亘り音吐朗々、説き進まるゝに従て次第に熱を増し力を加へ、聴衆只酔へるが如くなりき。
 講演を終らるゝや、更に校長室に入られ当地修養団支部の人々と団の近状等に付懇談せられたる後之を辞し一先川上氏邸に向ふ。此時宿雨漸く霽れ、夕焼の空美しく、金色の雲燃るが如くなりき。
 かくて午後六時半若松に於ける六十九銀行の招宴に列せられ、午後九時過帰宿せられたり。
 明くれば十月八日なり早朝松井氏始め六十九銀行重役諸氏来訪せられたるが午前八時半川上氏邸を辞し、九時越後鉄道会社より特に差廻されたる特別列車にて西長岡駅を出発す。日下・尾高・八十島・古田の諸氏と共に随従す、大橋氏にも亦同行せられたり。
○下略


向上 第一一巻第一二号・第九四頁 大正六年一二月 長岡支部報告(DK430101k-0003)
第43巻 p.523-524 ページ画像

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竜門雑誌 第三五四号・第七〇頁 大正六年一一月 ○青淵先生北越及奥羽旅行(上) 随行員 白石喜太郎記(DK430101k-0004)
第43巻 p.524 ページ画像

竜門雑誌 第三五四号・第七〇頁 大正六年一一月
    ○青淵先生北越及奥羽旅行(上)
                 随行員 白石喜太郎記
○上略
      日程
十月六日 午前六時四十二分王子を発し、午後七時四十分長岡に着。直ちに川上佐太郎氏邸に投宿せらる。
十月七日午前十時半六十九銀行新築落成式に臨席せられ、午後は長岡座に於ける同行の祝宴に列せられ、更に午後三時長岡中学校に赴かれ修養団長岡支部其他の為めに講演せられ、一旦川上氏邸に帰り、小憩の後午後六時半六十九銀行の招宴に列せらる。
十月八日 午前九時西長岡を発し、長岡鉄道及越後鉄道によりて弥彦神社参詣の上、三時半新潟に着。旅館にて小憩の後、商業会議所に赴かれ講演せられ、午後六時半より銀行団の招宴に列せらる。
十月九日 正午新潟県下に於ける東洋生命保険会社代理店聯合歓迎会に列せられ、午後三時半物産陳列場に赴かれ商業学校其他の学生のために講演せられ、午後六時より官民合同の歓迎会に列せられ、更に鍵富氏の招宴に列せらる。
十月十日 午前六時十分新潟を発し小蒸気にて信濃川を遡り、萩野に至り、之より汽車にて山都につき、山崩れの箇所数町を徒歩して更に汽車に乗り、喜多方に至り、同地小学校に於て講演せられたる後、午後五時四十五分若松に到着、直ちに東山に至り宿泊せらる。
十月十一日 午前十一時頃若松市立工業学校にて講演せられ、午後は鶴ケ城趾見物の後、第五小学校にて講演せられ、夫より白木屋・会津銀行・会津図書館等を訪はれたる後、官民合同の歓迎会に列せられ、七時半頃之を辞し東山に帰り宿泊せらる。
十月十二日 午前十時四十分若松を発し、十一時半頃大寺に下車し、猪苗代水力電気会社第一発電所を視察せられ、午後二時四十分大寺を発し、午後五時頃郡山に着、直ちに子守学校に到り講演せられ、小憩の後午後六時半郡山を発し、午後七時二十分福島に着せらる。
○下略


向上 第一一巻第一一号・第一〇八頁 大正六年一一月 修養団耶麻郡支部講演大会報告(DK430101k-0005)
第43巻 p.524-526 ページ画像

向上 第一一巻第一一号・第一〇八頁 大正六年一一月
    修養団耶麻郡支部講演大会報告
 - 第43巻 p.525 -ページ画像 
  大正六年十月十三日
                      福島県耶麻郡支部
  男爵渋沢栄一閣下を迎ふ
 瑞雲棚引く磐岳の麓、銀波漾ふ猪湖の畔、山河笑て大人の行旅を迎へんとす、閣下が会津の地を踏まれ当支部に臨まれしは実に大正六年十月十日の事なり。
 吾人団員は閣下の高徳を慕ひ其の恩誼に感ずるや久し、悲い哉僻遠の地遂に閣下の来駕を仰ぐの機会なからんことを、何の光栄ぞ、吾人の至情は遂に閣下に通じて此壮挙あり。
 顧れば、微々たりし本団当支部が漸次隆盛に赴き、精神界の一権威として社会より認めらるゝに至りしは、主として閣下の御後援に因る賜なりと信ず。
 当支部の如きは吾人団員の不敏不徳にして見るべき成績を挙ぐる能はざりしにも不拘、或は森村顧問の来臨となり、或は大倉翁の植林となり、或は天幕講習の開催となり、今亦閣下の尊駕を迎へぬ。
 其の恩誼を思ひ吾が責任を感ずるの時、胸迫りて言ふ所を知らざるなり、吾人は誠意を披瀝して閣下を迎ふると共に、本団の二大主義の実行に勉め、互に戒め互に励しつゝ理想郷建設の一分子となり、以て報恩の実を挙げんことを誓ふべし。
      △講演会開催準備
 昨日まで幾日となく荒れ狂ひたる風雨も、今日のみは晴れ渡りて会津の山野は瑞気の漂ふを見る。今月今日午前八時当支部役員一同は喜多方男子高等小学校の機械室を事務所に充てゝ集合し、各部署を定めて夫々の準備に奔走尽力す。
 閣下は午後一時卅分喜多方駅に着せらるゝの予定なれば、斎藤幹事は代表団員数名と共に停車場に出迎ひ、当町代表者並に地方代表者は原町長・町会議員・実業家・学校長・各団体総代・本団賛助員等数十名之を迎ふ。
 今や当地方は稲刈最中なれども、閣下の高風に接し其謦咳を聞かんとしては或は数里の山路を走り、或は青年会を率ひ会場指して集まりしかば、開会時刻前に会場たる喜多方小学校の雨天体操場も演壇の下まで押寄せて立錐の席だになく、甚しきは梯子を架して窓に攀ぢ、又は屋外に立つものも多かりき。以て地方人士が如何に閣下を慕ふかを察知するに足るべし。
      △男爵一行の御臨場
 水出のため男爵一行を載せたる汽車は定刻を遅るゝこと四十分、午後二時御着、歓迎員一同は喜悦と感謝の色を浮べて男爵一行を会場に案内せり。車相連ること四十有余、当町未曾有の盛況なりき。
一、開会の辞(午後一時)
            喜多方男子校長 菅野忠夫
一、地方視察談(男爵御出演前迄)
           本団地方巡廻講師 清水文弥
一、歓迎の辞(午後三時)
              喜多方町長 原平蔵
 - 第43巻 p.526 -ページ画像 
一、祝辞代読        当支部幹事 斎藤峰八
一、時局に際し青年諸君に訴ふ      蓮沼主幹
一、講演          本団賛助員 日下義雄氏
一、講演             男爵 渋沢栄一閣下
一、感謝の辞              斎藤峰八
一、閉会の辞              菅野忠夫
一、万歳三唱              一同
                          以上
 午後一時、菅野校長開会を宣し、次に清水翁の地方視察談あり。
 渋沢男爵の御臨場と共に清水翁は降壇され、聴衆は狂喜の余り拍手して歓迎す。原町長歓迎の辞を朗読し、蓮沼主幹の挨拶を終り、急霰の如き拍手に迎へられて閣下の登壇せらるゝや、一同静粛水を打ちたる如し、閣下は風邪中御疲労の折にも不拘極力修養団を紹介せられ、国民の自覚を促さるゝこと約一時間、聴衆中には閣下が老躯を提げて邦家の為め苦労せらるゝを思ふて泣く者ありたり。次に日下義雄氏の御講演を乞ふべきの筈なりしも、閣下の若松に向はるゝ汽車時間の都合上見合せとなりしは遺憾なりき。斎藤支部幹事涙を以て感謝の辞を述べ、菅野校長閉会を宣し、一同は万歳声裡に貴賓を送れり、時に午後四時三十分。
 閣下一行は五時十二分に喜多方駅を御出発せられ、十一日若松市に於て御講演、十二日は猪苗代水力電気会社御巡覧の上、午後四時郡山支部の講演会に臨まるゝ予定なり。
○下略


竜門雑誌 第三五四号・第八七―九〇頁大正六年一一月 ○青淵先生北越及奥羽旅行(上) 随行員 白石喜太郎記(DK430101k-0006)
第43巻 p.526-528 ページ画像

竜門雑誌 第三五四号・第八七―九〇頁大正六年一一月
    ○青淵先生北越及奥羽旅行(上)
                 随行員 白石喜太郎記
○上略
      五 若松へ
 十月十日は午前六時十分出発の事とて先生にも四時半頃起床せられたり。窓外には未だ明けやらぬ信濃川の水仄白く、対岸は唯夢の如く淡し。万代の長虹は煙の如く、橋上の灯火処々に点滅してえも云はれず。やがて暁の雲湧き、色様々に彩る中を金色の光眩ゆく輝き渡れば眼下の信濃川に舫やへる船の中より拍手の音俄に起りぬ。かくて六時頃、宿を出でられ、乗船場に到れば見送の諸氏既に詰めかけ、日下氏尾高氏等も已に来着して待ちうけられたり。午前六時十分見送りの諸氏と挨拶を交はしつゝ出発し朝霧の信濃川を遡る。白勢春三・久須美秀三郎・久須美東馬・長部松三郎等の諸氏同船見送らる、松井氏にも若松迄同行せらるべしとて同船し、大橋氏は此夜帰京せらるゝに付途中迄とて同行せらる。篠田旅館や、白山公園や二日の滞在に名残深き処々の次第に遠く霞み行く頃逆さ竹のロマンスを聞き、やがて曾川の大浸水の跡を眺めて遥に当時の惨状を偲び、境の橋を過ぎて其如何にも危げに浪打てる橋桁に興を催しつゝ午前八時半に近く萩野につき、仮停車場に上陸すれば、汽車は已に来つて吾等を待ち顔なり。かくて
 - 第43巻 p.527 -ページ画像 
直ちに出発し、新津にて車を更へ、此処にて見送の諸氏と別れて若松に向ふ。
 馬下しの辺りより渓谷の景次第に佳くなり行きしが、隧道の数多く次の駅五十島に到る迄に其数十一を算すると云ふに驚きぬ。然し隧道の間々に僅に眺め得し勝景は皆捨て難きもののみなりき。更に進みて御前の淵の美景を見てより、或は右に、又左に、北欧の絵を思はする様なる渓谷を見、天を摩するの断崖を眺め、時に油をこらせる深潭を望みぬ。道上るに従ひ、景益佳く、紅葉の時は天下の絶勝なりと云ふも道理こそとうなづかれぬ。上野尻駅にて会津銀行頭取谷半兵衛氏及同行支配人太田晁氏出迎へられたり。かくて山都を過ぎて暫し、山崩れのため隧道のつぶれたる処あり、此処に汽車を捨てゝ、大空高く索道により貨物を運ぶ様を奇しと眺めながら、二・三丁を徒歩して仮停車につかれ、待受けたる汽車に搭ぜられ午後二時頃喜多方に着し下車せられ、直ちに喜多方小学校に赴かる。日下・尾高・八十島氏等と共に随従す。令夫人及尾高夫人には松井氏及古田氏と共に東山に先着せらるゝ為め、又大橋氏は其汽車にて郡山に出でゝ帰京せらるゝため共に袂を分かたれたり。
 青淵先生には学校に着かるゝや直ちに生徒に対し訓言を与へられ、記念の植樹をせられ又記念の撮影をせられたる後演説会場に赴かれ、菅野校長の紹介により起ちて大要左の演説をせられたり
  予て喜多方町の名は承知して居ましたが、玆に参りまして多数の皆様方の御顔を拝する事は洵に喜ばしく思ふ処であります。御当地方とは種々なる関係を有つて居ります、嘗ては岩越線に力を致したる事もあつて、思ひ出は尠なくないのであります。今日も原町長より岩越線に対し私が聊か尽力しました往時を述べられまして懐旧に堪えざるものがあります、殊に無二の友人たる日下義雄君が嘗て当県知事として奉職された時代に切に地方のため岩越線の速成を希望せらるゝ熱心に動かされて、自分の会社として聊か尽力したるに過ぎませぬ。然るに今日尚諸君より感謝の言葉を受くるは恐縮の至りであります。さて自分は明治六年迄官途に奉職しましたが、将来に於ける吾国は、物質文明の発展を期するに非ざれば、到底欧米先進国と併立して、国権を比肩し得るものでないと悟つて、直ちに官を辞し、微力を実業界に注ぐ事としました。爾来既に四十三年となります。自分は実業界に身を投ずるや、物貨為替に対しては全国津々浦々到る処恰も人体に於ける脈管の如くせねばならぬと云ふ考へから、実業界の大動脈とも称すべき銀行事業に対し主として働く事にしました。其後工業に、運輸に漸次尽力しまして今日に及びました日本の実業界は今日に於てこそ或点に於ては欧米を凌駕して居る点もないではありませんが、喜多方や若松市までは真正なる物質文明は行き渡つては居ないと云ふても過言でないと思はれます。由来人間と云ふものは決して自己だけでは智識にせよ、富にせよ、開発が出来るものではありません。極端ではあるが、若し世界全部が吾物になつたならば夫れは全く失つたと同様であります。自己が立たんとするならば、人を立てねばならぬと云ふのは之の為であります。
 - 第43巻 p.528 -ページ画像 
経済的に考へても、自己のみでは富みもせねば、栄もせぬではありませんか、私が微力を以て欧米の例に習ひ合本組織を興して参りましたのも斯の次第からであります。自分の力が今日現れ来つたと思ひはしませぬが、一般の観念が玆に到達して、遂に吾が実業界が昔日に比して雲泥霄壌の大発展を見るに到つた事は真に喜悦に堪えぬ次第であります、当地方の発展の如きも鉄道と云ふ物質文明の賜であつて、猪苗代水電の如き直接喜多方、若松地方にこそ電力の供給はせないが関東方面に益することは容易のものではないと思ひます物質文明が国家の富力を増進すると言ふ事は私が事新らしく言ふ迄もないことであります。而して多くの事業は一人々々の資本でなく株式組織で以て利害関係者を多くしてやるのでなければ発展するものではありませぬ。然し此組織は只今では単に中央のみならず、全国に行き渡つて行はるゝ様になりまして洵に賀すべき次第であります。さて欧洲戦乱は吾国各種の方面に大なる発展を招来せしめたには相違ありませんが、一方成金の多く出来た事は憂慮に堪へぬ次第であります。吾国の戦争参加は宣戦の詔勅にもある通り軍国主義・侵略主義は世界の平和を乱すものであるから之を打破するために奮然として起つたので、戦争は儲かるものであるなどゝ国民の思想上に悪感念を与ふる如き態度は大に謹まねばならぬ事であると思ひます。国家が成金的に富の増進すると共に堅実なる国民の性情を堕落腐敗せしめたならば、其富も何等価値ある富と言ふ事は出来ず却つて害毒を流すに到るのであります。自分は実業界の進歩をして堕落や虚栄の満足に資しようとは思ひませぬ、蓮沼門三君の修養団に力を添へつゝあるのも理由は玆にありまして、其事業は微弱でも此大精神を徹底せしめんと努力する団員諸君の随所にある事を歓ばぬ訳には参りません、前にも述べた如く富に附随して滔々濁浪の如く押寄せるのは腐敗であり堕落であります。是れを防止し掃蕩して国家の富をして健全ならしむるには流汗鍛錬・同胞相愛主義の修養団員諸君の力に俟つものが尠くないのであります。
 講演を終るや直ちに腕車を連ねて停車場に到り、午後五時一分発の汽車に搭じ、午後五時四十分若松につき、薄暮の内を腕車にて東山に向ふ。若松市の有力家諸氏も共にせられたることゝて人目を引きぬ。此時風寒く、殊に若松を出でゝより野を吹く風の身に沁みるを覚えたり。かくて午後六時半東山新滝に着せられし頃雨は粛々として降り出で幽に聞ゆる渓声と相応じてしめやかなりき。○下略


向上 第一一巻第一一号・第一一〇頁 大正六年一一月 郡山支部報告 △渋沢顧問講演会(DK430101k-0007)
第43巻 p.528-529 ページ画像

向上 第一一巻第一一号・第一一〇頁 大正六年一一月
    郡山支部報告
      △渋沢顧問講演会
 渋沢男爵は若松より福島への途次、十月十二日午後五時五分万障を排して郡山町に御立ち寄り下され、子守教場に於て当支部の為めに一場の御講演を賜はりたるは団員一同の深く感激するところなり。男の着せらるゝや、庭前に於て川崎知事・加藤理事官其他郡町有力家、修養団幹部等陪席記念の撮影あり、小憩の後会場に臨席、支部幹事松山
 - 第43巻 p.529 -ページ画像 
政治氏の紹介にて講演あり、要は物質的文明に傾く結果として兎角質実の気を欠き、浮薄軽佻に流れ易し、修養団は之を防ぎ質実剛健なる同胞相愛的なる人格を作らん目的なり、同顧問たる森村氏及び予等は永らく実業方面にあり、物質文明には多少貢献したる積りなり、而して精神界に於ける修養上の欠点に於て同じく遺憾として憂ふる所ありたるに際し修養団の成るあり、予等は年代も相違し居ることゝて共に奔走も為し兼ぬるより、之を援助すべく即ち顧問として応分の御助力をする覚悟なりとて其関係を述べ、更に修養団員になりたりとて直ちに人格の向上すべきにあらず、道を聞きても行はざれば価値なし、団員も唯知るのみが目的にあらず、知つて実行する時初めて団の目的を達すべきなりとて実行の大切なるを説き、更に岩越線に対する回顧談等あり、終りて根本町長の歓迎の辞あり、男爵の挨拶ありて閉会、男は小憩の後多数の歓迎を受け福島に向つて出発せられたり。


竜門雑誌 第三五四号・第九七―九八頁 大正六年一一月 青淵先生北越及奥羽旅行(上) 随行員 白石喜太郎記(DK430101k-0008)
第43巻 p.529-530 ページ画像

竜門雑誌 第三五四号・第九七―九八頁 大正六年一一月
    青淵先生北越及奥羽旅行(上)
                随行員 白石喜太郎記
○上略
      七 福島へ
○中略
 午後五時少し前郡山に着き下車せられ、松山政治氏の先導にて直ちに同氏の尽力しつゝある子守学校に赴かれたるが、早速記念撮影あり時已に薄暮の事とて光線頗る弱く為めに数秒を費す。かくて休憩室に入り折柄来合せられたる川崎福島県知事と挨拶を交はされたる後講堂に赴かれ、大要左の講演をせられたり。
  お集りの諸君は修養団の郡山支部員と、御当地の有志諸君との事でありますから、先づ修養と言ふことに付てお話をしたいと思ひます、此の修養と言ふことは決して容易のことではありません。近来到る処に修養の鼓吹を聞き、且つ之れに関する団体の設けられるは誠に喜ばしき現象であります。然し之れを仔細に見聞するに、兎角口に筆に、理論はまことに宜いが実行之れに伴はざるの感なき能はずであります、志と実行とは伴はねばならぬのに、其の多くの場合実行難く折角修養を口にしても、遂に唯口にするに過ぎないのは甚だ遺憾であります。志と実行と相伴ふて始めて人間として完きを得べく、志しを実際に行ふてこそ修養の価値を認むべきであります。諸君は宜敷実行の人となられたいものであります。
とて、玆に話題を一転し、今回の東北旅行の目的は東北振興のためにして、明日以後福島を初めとして東北六県を巡回する筈なる旨を述べて東北振興会の説明に入り
  今や東北振興問題は天下の一大問題として取扱はれつつあるは何人も知る処であります。中央に於ては大正二年東北振興会なるものを設立し、私は之が会長となり爾来振興上の考慮と研究とを重ねて居りますが、其実効を現はすには決して短時間を以てすることは出来ませぬ、仮令ば耕作にせよ今日播種して明日直に収穫することの
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出来ないことは明かな事実であります、東北振興問題も亦その通りでありますから、明日以後各地を巡回しまして直ちに東北振興が出来るかと言ふに、決してそれは出来ないことでありますが、幸に各地を親しく視察し見聞し、此問題解決の参考資料を得たいものと希望して居る次第であります。
とて更に話題を一転し猪苗代水力電気会社視察談をせられ、安積・会津方面に亘りて水力電気事業及化学工業の盛況に一驚を喫したる旨を述べられ、就中猪苗代水電の如きは其規模の大なること想像外にて先年視察せる「ナイヤガラ」発電所にをさをさ劣らず、又広田の日本化学工業会社の如き、大寺の亜鉛工場の如き出来得べくんば地方人の手に依りて経営されたしと希望せられたる後
  元来金融及経済に境域なきことは言を俟ちませぬが、地方民の脳裡に此の覚悟がなければ地方振興上大なる齟齬を来すことあることも贅言を要しませぬ、此の意味に於て先づ東北振興問題を解法せんとならば、差当り奥羽の関門たる郡山地方民諸君の奮起を切望する次第であります。而して此覚悟を得たる諸君は、前段述べました志行一致の実現を期せられたきものであります。
と結ばれたるが、約四十分に亘り聴衆約五百、咳の声さへなく、一語をも洩さじと只聞きほれぬ。次て根本町長の歓迎の辞あり、先生之に対し挨拶せられ、午後六時之を辞し、停車場前太田旅館に休憩せられたる後、午後六時半発の汽車にて福島に向はれたり。
○下略


向上 第一一巻第一一号・第一―三頁 大正六年一一月 ○渋沢顧問東北地方団員激励(蓮沼主幹よりの通信)(DK430101k-0009)
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