デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.576-578(DK430117k) ページ画像

大正8年10月11日(1919年)

是日、当団本部ニ於テ、当団主催顧問森村市左衛門追悼会開カル。栄一出席シテ追悼ノ辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三七六号・第六三―六四頁大正八年九月 ○森村市左衛門翁逝く(DK430117k-0001)
第43巻 p.576-577 ページ画像

竜門雑誌 第三七六号・第六三―六四頁大正八年九月
○森村市左衛門翁逝く 去月中旬来病臥せられし森村男爵は爾来疑勢日に増し険悪に赴き、遂に九月十一日闔焉として永眠せられたり。享年八十有一、越て十三日芝高輪の自邸に於て其告別式を執行せられ、生前親交なりし青淵先生には特に之に列席せられたり。先是翁病重しと伝へらるゝや、青淵先生には、多忙の間を屡々翁の病床を見舞はれて其快癒を祈られたるが、左の記事は翁に関する青淵先生の談話なりとて九月八日の東京朝日新聞に掲載せられたるものなり。
 森村さんの病床を訪ねた時に、森村さんは「渋沢さん、斯うなつて見ると神の有難さが一層判ります、人間界の事凡て神のお蔭です」と語られた。基督教に熱心な
 △敬虔な 態度を持つた人丈あつて、其性格は自と立派で、悪を責めるに秋霜烈日の峻厳さはありますが、至つて飾り気の無い思つた通りに行る人で毅然とした点に特長があつて、温乎玉の如しといふ風には乏しい方であつた様だ、私が森村さんとの知合はズツと以前の福沢先生などゝ貿易事業を行られた頃は知らず、明治二十二年の頃森村さんが日本銀行の
 △監事と となつた時が抑です、私は銀行の創立委員でもあつたし一時は相談役もした関係上、森村さんと顔を合せたのでした、それ以来に親しみを加へたのは彼の女子大学の事からで、故成瀬校長の事業に賛し『女子大学は必要だ』と進んで多額の寄附をされ、殆ど数十万円を其為めに投じられた様に記憶します、当時渋沢と相図るによしとあつて、私に持つて来られたもので、私も氏のお話から相当の
 △援助を 与へたものです、森村さんは同校に小学校を設け又一方に高千穂学校を設立され、世の官僚式な形式主義の注入教育に慊たらず、自発教育がよいとの趣旨から、深く其の点に力を注がれた、森村さんも右の如く私に相談されるが、私の修養団も森村さんに相談すると喜んで補助もして呉れ、共に扶けられて今日を致す基礎を堅め、趣旨とする
 △虚栄や 軽躁や浮薄等の排斥に就ては非常に賛成され、物質上に
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も精神上にも尽して呉れた、も一つはかの帰一協会の事業で、あれも宗教・儒教以外に倫理観念を養つて一種の東洋道徳の論理の上から表はし行ひたいとの趣旨で、これにも至極賛成して尽力された、私は斯かる方面に於て森村さんの人格的事業は
 △諒解も して居るが実業方面の事では別に一緒に事を為た事がないので、曾て生糸輸出の会社を起した時渋沢も入つて呉れと申されましたが入らなかつた、宗教家丈に人としても事業上にも誠に一点の非を打つべき所もない人であると思ふ、云々。


向上 第一三巻第一一号・第二八頁 大正八年一一月 森村顧問追悼会の記(DK430117k-0002)
第43巻 p.577-578 ページ画像

向上 第一三巻第一一号・第二八頁大正八年一一月
    森村顧問追悼会の記
 顧問男爵森村市左衛門翁の昇天せられたるはつい昨日の事と思うてゐたのが、早や一月余りを過ぎた。されども翁を追慕する思念は弥増すばかり、本部では十月十一日午後より翁追悼会を催す事になつた。孤鶴秋旻に横はるといふ今日此頃の空、雲一ひらも見えず、ぽかぽかと日和やかに輝き渡り、翁の最後のそれのやうにいと平安に、いと穏和に、もの皆な天地の恵みを讚えるかの如く見えた。『死後の手向は庭前の草花一枝にて足れり』と仰せられし翁の遺言に基き、一切の虚礼一切の虚飾を廃して本部楼上に設へたる式場には、是れといふ装飾も施さず、正面黒布を纏ひたる壇上には翁の御姿をかゝげ、傍に蓮沼夫人が手作りのダリヤ・菊花などを供へたのみであつた。来会者は弐百余名、いづれも翁の生前、直接間接に指導誘掖を受けたる同志のみで森村開作氏御一族及び渋沢顧問・二木博士も臨席された。式場はぎつしりと詰つた、やがて定刻の時間に達したので司会者後藤幹事長が立つて一場の挨拶をされた。悲痛な調子を帯びた一言一句が列席者の心の中に喰入らねばやまなかつた。『どうか今日の追悼会を無意義に終らしむる勿れ、故翁の大精神は此の祖国を興隆せしむるに在つた、国民は今迷うてゐる、囚はれてゐる、之を覚醒せしむるは吾徒の責務である、翁の此の大精神を継承して一大決心の下に着々実行の歩を進めて頂きたい』と、結んだ。此時翁の愛誦せられた讚美歌二百四十九番を合唱して一同翁の霊前に額づいた。参会者一同の霊、翁の霊又通じたるにや、壇上の菊花、風なきに揺めくを見た。
 礼拝後瓜生幹事は感慨に堪へざるが如く、翁の同君に与へたる教訓を述べ、蓮沼主幹は翁から受けた書翰を繰りひろげつゝ、翁の修養団に尽されたる献身的努力を回顧し、病中殊に我が同胞我が国土の上を憂慮し、秘かに上天に祈つてゐたと説き来るや、語つゞかずして声を呑む、涕泗潜として流るゝ主幹の胸懐を思いやりつゝ同志の者も到頭泣かされた。
 田尻団長も御臨席になる筈であつたが公務多用の為、妹尾幹事が追悼の辞を代読した後、渋沢顧問が立つた、翁を深悼するの余り双眸をうるませつゝ、『今日は自分は親友森村翁の御追悼を申上るのであるが、老の身の明日をも計り難く、或は御追悼申上げる此席上に於いて自分も翁の如くに諸君から追悼を受けねばならぬかと思ふと、今更乍ら人生の無常を感ずる』と云つて声を落し、『自分と翁とはお互に実
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業家であるが、実業方面では提携したる事なく、不思議にも精神的事業にのみ手を携へて今日に及んだ』と述懐せられ、いろいろと翁の追悼談を試みられた。云ふ者も涙、聞く者も亦涙、いづれ涙ならぬはなく、式場はしんみりとしてカタリと云ふ音もしない。
 宇津木勢八先生は翁の晩年の聖き生涯を追慕せられ、『翁は自分の親しい人々の名刺に依つて毎日毎日其の幸福と繁栄とを祈つてゐた、此れは形式的に説教してゐる牧師などより、遥かに秀れたる行為である』と其徳を讚へて座に就いた。
 つゞいて、地方支部、有志者より送られた電報書翰二百数十通の発表あり、地方団員の翁に対する敬慕の一心が如何程迄に熾烈であるか此の一事でも推せらるゝ。
 二木先生は遅れて参会あり、翁の奮闘的生涯を讚美され、一同の為に激励の辞を寄せられ、参会者一同はたとへなき光栄の中につゝまれて、いつか暮色迢々として式場に漂ふさへも忘れてゐた。終つたのは午後五時二十分。