デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
5款 財団法人修養団後援会
■綱文

第44巻 p.60-61(DK440021k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当後援会ヨリ弔詞ヲ贈ル。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六一頁 昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK440021k-0001)
第44巻 p.60 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第二〇―六一頁 昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺  午前九時四十分。
 一、葬儀開始    午前十時。
 一、葬儀終了    午前十一時三十分。
 一、告別式     午後一時開始三時終了。
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業団を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀終了した。
○中略
    弔詞
○中略
尚ほその他弔詞を寄せられたる重なるものは左の如くである。(順序不同)
○中略
 修養団後援会
○下略


向上 第二五巻第一二号・第四〇―四六頁 昭和六年一二月 渋沢翁を偲ぶ名士の感談(DK440021k-0002)
第44巻 p.60-61 ページ画像

向上  第二五巻第一二号・第四〇―四六頁 昭和六年一二月
    ◇渋沢翁を偲ぶ名士の感談
○上略
◇後援会の会長振り
                      津崎尚武
○九十余年の光輝ある生涯に対する各方面の感想は、応接に遑ない位で、割合に関係の深くなかつた私共が多くを申す必要もない、然し私として忘るゝことの出来ないことは、子爵が修養団後援会長としての会長振りの一事である。
○一昨年頃の後援会の折であつた、老子爵は会長として自ら出席し、数字に付て細かに御話があつて、そして何時も乍らの親切で、修養団の当局を教へられる有様、これが九十歳の老人かと、全く感服したのであつた。
○由来修養団には計画を超越した方面がある。各種の事情から蓋しやむを得ざる事と思ふが、其の精神的団体たる修養団が、今日の盛大をなした所以の一は、全く子爵の慈愛の結果に外ならぬことは申すまでもないが、其の中でも数字に関しての子爵の御力が最も大事であつた
 - 第44巻 p.61 -ページ画像 
ことは忘れてはならぬ。
○計画に関する問題のあつたあとのこと、会議を終へて雑談の折、『津崎さん、あなた方若い者から見て此の老人はぼけては見えませんか』と問はれて、若い私は全く恐縮して仕舞つた。
○国宝渋沢翁は九十二歳の高齢を以て長逝せられたが、然も日本帝国の存在する限り、世界の存する限り、永久に生くべき尊い方であり、日本国の嘗て有せし最大偉人の一人として、吾等は片時も此人を忘れぬであらう。