デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
7款 少年団日本聯盟 1. 少年団日本聯盟
■綱文

第44巻 p.81-83(DK440031k) ページ画像

昭和2年6月7日(1927年)

是日栄一、少年団日本聯盟ノ顧問タルコトヲ内諾シ、翌三年十一月十二日就任ス。但無任期。


■資料

少年団研究 第八巻・第一一号 昭和六年一二月 噫、渋沢顧問 少年団日本聯盟顧問子爵渋沢栄一閣下の御逝去を悼む(DK440031k-0001)
第44巻 p.81-83 ページ画像

少年団研究  第八巻・第一一号 昭和六年一二月
    噫、渋沢顧問
     少年団日本聯盟顧問子爵渋沢栄一閣下の御逝去を悼む
噫我が日本聯盟の顧問渋沢子爵は、遂に十一月十一日午前一時五十分を以て薨去された。如何なる辞を以て哀悼を意を表すべきか、私には全く不可能である。
 老子爵が国家の柱石として、財界の方面に於ける最大人たる事は言ふべくあまりに顕著なことである。
 又老子爵が維新の直後に於て国事に奔走されて、明治日本の産れ出でんとする時、尽忠報国の至誠に燃え立つ青年として如何に活躍されたかと云ふことも、今こゝに私の述ぶべき分担ではない。
 私は多くの同志に殆んど語つてゐない老子爵の少年団経営方面の最大恩人なることについて語らなければならぬ。
 大正十一年四月に本聯盟が創立された当時、本部の経費、即ち本部が日本の内外に亘つて同志と連絡し、野営訓練に活動する諸経費は所謂有志の任意醵金によつて経理して来た。
 大正十二年四月、後藤新平伯が総長に御就任になつてからは、その広い御交際の範囲から、日本聯盟の経費も多く総長の御努力によつて寄附を得、又、文部省よりも臨時の多額の寄附を得て、遣外少年団の経費も支弁し得たのであつた。
 総じて大正年間の創立時代は、財界の不景気も未だ到来せず、後藤総長の偉大な背景によつて、経理難なるものは甚しくなかつた。
 併しながら後藤総長は、一日私に
 「少年団の経費も最早個人の背景のみを以てして行くのではいけないから、相当の人々の協力を仰ぐ方がよいと思ふ。二荒さん一つ考へて見てはどうであらう」
 と云はれたので、こゝにかねて顧問をお願してある当時日本銀行総裁井上準之助閣下に御相談して、忘れもせぬ、昭和二年の六月七日午後三時より三時四十分に亘つて、丸ノ内仲通二十八号館の渋沢事務所で老子爵を訪ひ、聯盟の成立が 今上陛下御外遊を期して成立せること現代の武士を以て任ずる同志の結束であること等の事を詳細に申上げ今日に於ける聯盟の経営の困難なることをお訴へした所、老子爵は熱心に傾聴せられて、実に謙遜極まる御態度で
 「私は御覧の通りの頽齢でもはやお国のためにも立ちませぬが、か
 - 第44巻 p.82 -ページ画像 
かるよい事であれば、何とか御力添へを致さなければなりませぬ。只自分は到底この年で御助けをする力はございませんから、よく井上さんにも御相談して、御助けをする会の産婆役にはなりませう。そうして、主任になつて働くお方を誰かにお願ひいたしませう。」
 と云はれ、私が願ひ出た日本聯盟の「顧問」たることも快く承諾された。
 かくして私は六月九日に日本銀行で井上顧問に御面会し、七月七日には、後に実際に助成会を御纏め下さつた中島久万吉男爵に御面会して、色色の御指示を頂いたのであつた。
 其の後遂に助成会は成立して、こゝに聯盟の基礎は第一期としては確立したのであつた。これがために後藤総長薨去後聯盟本部の経理については、非常なる困難を生じなかつたのである。
 この助成会に賛同をされて年々御出資を下さつた方々の出資期限は昭和六年を以て第一期として、更に事業の成績によつて、第二期には増額して、益々少年団の運動を盛んにしようと云ふのが助成会成立当初の御話合であつたのであるが、聯盟の事業は予定以上の進度で着々と発展し、内容の充実については私等自分から言ふことは今まで健児道の精神より避けてゐたのであるが、過去三ケ年の事業報告を見れば容易に肯かれる所であるが、これに対して財界の事情は世界的不景気の襲来によつて、日本国内の経済的危機を招きつゝある事は諸君の知らるゝ通りである。
 この経済的国難の時にあたつて、助成会の寄附金の年限は去る昭和六年四月一日に更新の時期になつたので、その前に渋沢子爵に御相談して、一面には経済的危機に日本が瀕したとは云へ、次の代の国民を作るためには、我々は一寸も油断することが出来ぬのみならず、寧ろやがて来るべきより大きな国難にも充分に備へなければならぬと云ふ事を、昨年の六月に飛鳥山の御邸で態々御話し申し、又国際的の少年教育が如何に緊喫であるかも申し上げた時、老子爵は非常に共鳴せられて、「孰れ中島男爵とよく御相談して、更に充分考慮したいと思ひます。」と言はれたのみならず、「自分たちが多少でもあなたの御会にためになつたと云ふことは満足いたします」との意を洩された。
 後日に至つて中島男爵は渋沢子爵と御会見下さつて、色々とお談して下さつた結果、細く計画を立てゝ、最も広き範囲に亘つて助成の事を企てようとする事になり、本年初めよりその方針で進行をしてをり近く具体案を老子爵に御目にかけて、少年団自体として大発展を企画してゐたのであつたが、この事を聞かれることなく遂に薨去せられたことは、国家の損失は固よりながら、我々は実に慈母を失つたが如き感があつて、実に痛恨極りないのである。もし老子爵にして尚一年の齢を保たれたなら、私等は経営に対する整然たる計画を御示して、老子爵が率先して助成会の産婆役をなされた御恩誼に報ひることを得たのであらうに……と、実に残念に思ふ。
 後藤総長は少年団創立の際よりの、対外的諸運動の統括者であつたが、渋沢顧問は創設期後半期の財的確保の統括者であつた。慈父の如き後藤総長を失つた後三年に満ざるに、慈母の如き渋沢顧問を失つた
 - 第44巻 p.83 -ページ画像 
ことは、全国八万の健児の心より哀しみ悼み惜しむ所である。
 我等は誓つて渋沢顧問の御心をよく我々の胸の中に活かして多難なる日本に強く生きて行かなければならぬのである。
                   (一一・一五、二荒記)
  ○二荒ハ少年団日本聯盟理事長二荒芳徳。


少年団日本聯盟助成会書類(DK440031k-0002)
第44巻 p.83 ページ画像

少年団日本聯盟助成会書類         (渋沢子爵家所蔵)
拝復、盛夏の候益々御清穆奉慶賀候、陳者少年団日本聯盟並に助成会に対し子爵閣下の御関係事項其他に付御照会の趣敬承仕候、右は左記の通御承知被下度、此段御回答申上候 敬具
  昭和五年八月十六日
                少年団日本聯盟秘書
                     田村金吾
   渋沢事務所
    中野時之殿
        玉案下
○中略
一、少年団日本聯盟及助成会ノ役員名及任期
   昭和三年十一月十二日少年団日本聯盟顧問ヲ御委嘱ス(無任期)
   昭和三年九月以来助成会ノ為中島男爵ト共ニ御尽力ヲ煩セリ。
○下略
  ○右ハ渋沢事務所ノ問合セニ対シテ回答セラレタルモノナリ。
  ○栄一ノ顧問就任内諾ノ年月日ヲ、前掲資料二荒芳徳記ハ昭和二年六月七日トシ、右掲回答ハ就任ヲ三年十一月十二日トセリ。何レカニ誤記アルカト思惟セラルルモ姑ク綱文ハ右回答ニ従ツテ記セリ。
  ○少年団日本聯盟ハ、大正十一年四月十一日静岡市ニ開催セル全国少年団代表者会議ニ於テ成立ス。爾後少年団指導者ノ養成、海洋部ノ創設、野営訓練、奉仕事業及少年団国際会議トノ連絡等ニ従事シ、総裁子爵後藤新平、理事長伯爵二荒芳徳ノ統制下ニ、昭和五年六月加盟団七三二、団員七一九二〇名ニ達ス。(「少年団日本聯盟事業概要」ニ拠ル)



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正八年(DK440031k-0003)
第44巻 p.83 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年           (渋沢子爵家所蔵)
六月二十五日 晴 暑
○上略 伊崎陸軍少将来リ少年団ノ事ヲ談ス○下略
  ○少年団日本聯盟ノ結成ハ大正十一年四月ナレド、其以前ヨリ栄一ガ少年団事業ニ関係アリシコトハ本資料ニヨリテ察知セラル。