デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.163-174(DK440057k) ページ画像

大正3年3月18日(1914年)

是ヨリ先、大正二年七月、文部大臣奥田義人ハ当校ノ東京帝国大学ヘノ合併ニツキ、当校商議員タル栄一ニ諮ル。仍ツテ栄一、中野武営ト共ニ斡旋頗ル努メ、同十二月ニ至リ文部大臣ハ右提案ヲ撤回セリ。是日、当校研究部臨時大会ヲ開キ、栄一及ビ中野武営ヲ招キテ謝意ヲ表ス。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第一九四―一九九頁 大正一四年九月刊(DK440057k-0001)
第44巻 p.163-166 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第一九四―一九九頁 大正一四年九月刊
 ○第四期 四、帝大合併問題
    帝大合併説再燃
 如斯内容充実を期して自己内省の道を辿つて居る間に、外部の形勢も次第に変化して、一橋の前途には再び暗黒の影が投ぜられたのであつた。かの文部当局によつて唱へ出された所の帝大合併説が其れであつた。即ち文部当局の計画によれば、帝国大学法学部の中に新に商業科を設け、既設の経済科及商業科に東京高等商業学校を併合せんとするに在つた。
 之が為にや、教授会の決議による学制改革案は進達を見ることなしに新学年は開始せられた。固より文部当局の計画は秘密にせられて居つて、何人も之を知る者はなかつたが、新学年に際して何処にとなく嵐の前の静けさを思はしむるものがあつた。かゝる処へ右の如き噂何処からともなく伝へられて来たのであつた。
 半信半疑の中に不安の九月も過ぎた。
 愈々十月ともなれば問題は余程具体化して来た。
 商業教育は技術的の訓練で足りる、商業教育に大学の必要はないとする、時代錯誤的な議論は既に行はれなくなつた。商業大学の必要は世上の認むる処であつた。文部当局も此点に留意し、一橋を商業大学
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にして多年の宿題を解決せんとした。そして自らの提案を示して、之が付議を教育調査会に求める事になつた。
 文部省の提案は前述の如く帝国大学側の主張に基いたものであつた要するに該問題は四十二年の申酉事件当時の昇格反対論者に最後の止めを刺さなかつた為に起つたものであつた。事実綜合大学必要論も右の計画に与つてゐよう。然し更に学閥に固執する卑陋な儕輩の裏面の活動も与つて力があつたのである。
 而して之が提案者は、時の文部大臣奥田義人であつた。彼は元来商業大学不必要論を唱へて居つたが、時勢の要求には逆ひ得ずして今は之を認めるに至つたのである。而して彼は商業大学の禍根、否一橋の禍根を、綜合大学主義によつて解決せんと試みたのであつた。
 十月初旬、奥田文部大臣は此の問題を先づ本校の商議員渋沢栄一男爵に諮つたのであつた。次いで二十九日同窓会の臨時常議員会が開かれて該問題の論議が行はれ、次第に紛糾を来したのである。
    一橋側の主張
 学校当局の主なる人々、即ち佐野・三浦・堀・石川等の出身諸教授は毎日毎夜、水道橋々畔の三浦教授の宅に会しては対策を議し、一方坪野校長を鞭撻すると同時に、他方当局及び一般社会に向つて該問題に関する正当なる解釈を要求し
 「商業大学は一橋の地に建設せられねばならぬ。若し是が不可能ならば、厳正なる現状維持は是非とも之を保留せねばならぬ、如何なる事があつても本郷とは断じて合併しない。」
と反覆主張した。又学生側でも一橋会の幹部及び有志は、蹶起して校難の為に東奔西走の労を惜しまなかつた。
 十一月に入つて、問題は次第に一般化した。十一月十四日には復もや同窓会常議員会が開かれた、其結果は委員が教育調査会委員に面会して、詳細なる調査をすることになつた。明けて十五日文部当局は坪野校長を通じて正式に学校側に相談を持ち掛けて来た。之に対し教授会は来る十九日迄に回答すべき旨を述べたのであつた。
 回答期日の前日即ち十一月十八日、教授会は商大問題に関して各自の意見を開陳して慎重なる熟議を行つた。而して談論風発の結果、公正の立場より、合併不可能なる事実を一々指摘して、合併には絶対的に反対なる旨を決議し、佐野・堀の二教授が渋沢男爵の事務所に出頭して此の旨を述べた。
 同日の午後五時から上野公園韶松亭に於て第十二回投書家懇親会が開かれたが、該問題は端なくも談論の中心となり。是迄は只幹部及有志の者以外に知る者のなかつたのが、こゝに全一橋に喧伝さるゝに至つた。翌日は直ちに各クラス会選出の委員四十八名と一橋会理事とより成る全校委員会が組織せられ、池上章平を委員長として此の問題の解決に努力することゝなつた。委員は身命を挺して狂奔し、当局者・教授・先輩を歴訪し、一橋の憂惧を訴へたのであつた。
 二十日には三度同窓会常議員会が開かれた。当日八十島親徳を通じての商議員渋沢栄一の言によれば、文部大臣は目下考慮中である由。然し同窓会は如何なる事情の下に於ても飽く迄合併に対して反対をな
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す可き決議をした。
    当局と教授会の交渉
 次いで二十四日には、佐野・石川・堀の三教授が文相に会見して覚書をば提出した、次で二十八日教授会は大要次の如き条件ならば合併するも差支なき旨を文相に通達したのであつた。
  一、形式。札幌及駒場農学校を農科大学となせし如くに、高等商業学校専攻部を商科大学となす事、及び帝国大学内にある経済科及商業科の廃止を勅令を以て発布すること
  二、内容。商科大学内に商科及経済科の区別を設けず、只単に商科大学となすこと。
  三、場所。授業は総て一橋の校舎に於て之を行ふこと
  四、入学資格。東京及神戸高等商業学校本科二年修了生及び他の高等商業学校卒業生を高等学校卒業生と同等に取扱ふこと
  五、商業教育の実を挙ぐる様に講座を設けること
 之に対して文部大臣より次の如き回答があつた。
  一、考慮しやう。然し当局の最初の考へでは専攻部は之を廃止する予定であつた。
  二、商科は之を経済科と併置したい
  三、経済科を併置するためには一橋は校舎と云ひ敷地と云ひ余りに狭隘に過ぎる。故に本郷に置くことが望ましい
  四、平等に取扱ふことは出来ない、高商側を四分一位の程度に止めたい考である。
  五、異議なし
 於是教授会の意見は文部当局のそれと全然相容れざるに至つた。次いで二十八日に至り専攻部委員は、次の如き決議をしたのであつた。
  一、綜合大学主義は之を認むるも、経済科とは断じて合併はしない
  一、一橋の系統を失はざる範囲に於て綜合大学主義は是認する
  一、現在の高等商業学校教授を悉く商科大学教授となすこと
  一、東京・神戸・小樽・山口・長崎の五高等商業学校出身者を以て正系となすこと
 此くて形勢は日々に険悪に傾いた。頑強なる当局の態度は徹頭徹尾一橋の存在を脅かした。然しながら生長を阻害し、生命の根を断つて其処に何の解決があらう。一切か然らずんば無である。既に交渉も無益となつた。
 徒らに騒擾を繰返すよりは緊張を持して待つの外なかつた。
    奥田文相提案を撤回す
 かゝる中に世人の同情は翕然として一橋に集り、形勢は一変して輿論は終に一橋単科大学論を唱ふるに至つた。事玆に至つて文相も止むなく該問題より手を引くことを非公式に声明した。
 十一月は多端の中に過ぎて十二月の声が掛つた。其の月の四日、渋沢栄一・中野武営・池田謙三の三商議員は文相と外相官邸に会したが此の時に文相は商大問題も予算案編成の時日が切迫した為めに一先づ之を延期する旨を告げた由、坪野校長を通じて報告があつた。然るに
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十二月七日文相は自ら渋沢栄一を事務所に訪ひ友人の助言もあるによつて帝大内の商科と合併するならば、商業科と経済科とを分離せしめても可なる旨を伝へた。然し是明かに四十年の歴史を無視して一橋を帝国大学の支配のもとに隷属せしめんとするものに外ならなかつた。
 八日、佐野教授以下数名は渋沢栄一と事務所に会して、帝国大学の商業科及経済科を合併して一橋の地に商業大学を建設せんことを教授会は決議した旨を、彼を通じて奥田文相に伝達した。而して学生側の委員会に於ても亦同じ様な決議をしたのであつた。
 其の翌々日、即ち十日には文相は次の様な回答をもたらして来た。
  一、東京高等商業学校の生徒を帝大の経済科、及び商科に入学せしむることは何等の異議がない。然し高商側を主とすることは出来ない。
  一、一橋にて授業をなすことは不可
と、此く一橋側の主張と当局の主張――其れは主として帝国大学側の主張であつた――との間に一致を見出すことは出来なかつた。是を察した奥田文相は終に其の提案を撤回した。そして其の結果は一橋は復厳正なる現状維持を続けて行かなければならなかつた。
  ○右ニ文部大臣奥田義人ノ初メ栄一ニ諮リシヲ十月初旬トナセドモ、後掲資料ニハ七月トアリ、依ツテ姑ク綱文記文ヲ七月トナス。


東京高等商業学校同窓会会誌 第九一号・第一―三頁 大正三年一月 商大問題之経過(DK440057k-0002)
第44巻 p.166-168 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第九一号・第一―三頁 大正三年一月
    ○商大問題之経過
 明治四十二年母校専攻部の廃止令が天下の耳目を聳動せる一大紛擾を惹起したるは、今尚吾人の記憶に新なる所なり。其後渋沢男爵・中野武営氏等の斡旋に依り先づ六ケ年間存続することとなり、次で右廃止令は全く撤廃せられ、専攻部は永久存続することとなりたるも、四十二年の紛擾の根元たりし商大問題に至ては依然として何等解決の曙光だに認むる能はざりき。然るに曩に奥田文相の文政の任に就かるゝや、平素母校に同情を有せられたる氏は、同問題を永く未解決の儘に放棄するの不可なるを認められ、其腹案を以て関係の各方面に交渉を開かれ、商大問題は玆に再び真面目に討究せらるゝの機運に際会せり然れども其解決案の内容は当初殆と之を知るに由なかりき、吾人の伝聞に依れば、奥田文相は本年七月の交、渋沢男を通じて始て母校商議員諸氏の意見を聴取せられ、爾後新聞紙上屡々商大問題に関する記事を散見せしも其真相に至ては漠然として捕捉すること能はざりき。偶偶十月二十五日本会秋季総会を築地精養軒に開くや 席上同問題も自ら話題に上り、之が討究の必要を認むる者少なからず、尋で同月二十九日臨時常議員会の開催となれり。而して当時諸方よりの情報を綜合せしに、今回の解決案は現在帝国大学法科内の経済学科、及商業学科と母校とを合併し一分科大学として商科大学を設立し、之に従来母校の本科に相当する三年程度の商業専門部なる者を附属として存置せんとするにありしものの如く(其結果母校は当然廃止せられて、新設商科大学とは歴史上正系的連結を有せざることゝなるなり)、吾人の期待せる所とは甚しく径庭するものなりしこと稍々明白となりしかば、
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常議員は皆其意外に驚けり。殊に経済学科の合併の如きは、理論上に於ても実際上に於ても将又従来の歴史に徴するも、実用的人物を養成すべき完全なる商科大学を設くる所以にあらざるべしとの説をなす者多く、其結果成瀬・図師両氏は此意見を齎らして渋沢男爵の教を乞ふ所あり。次で十一月十四日の常議員会に於て経済学科との合併には反対の意味を以て決議する所ありき。之と同時に一方母校側に於ても、坪野校長及此問題に熱心なる数名の数授同問題に就て慎重なる研究を遂げ、渋沢男爵其他商議員諸氏に意見を開陳する所ありしを以て、之に次で開催せられたる母校商議員諸氏の会合に於ては、文相の提議せられたる解決案に対し反対の意見を表明せりと云ふ。是に於て同問題は自然行悩の姿となりて十一月を経過せり。然るに十二月初旬に及び渋沢男爵及中野武営氏は斯く迄進み来りたる同問題の窮極に陥れるを遺憾とせられ、文相並に母校々長教授諸氏と数回の会見をなし、熱心に斡旋の労を取られ、且つ両者の意思の疎通に尽瘁せられしも、当局の意見と学校側の主張との間には、著しき懸隔あり、到底妥協の見込なきを発見せられしかば、同月十日商大問題は終に所謂『円満なる不調』を以て終を告げたり。当時母校側の主張の要点を仄聞するに、経済学科との合併は現下の事情に於て、商科大学の発展上不利少からずと思惟せらるるも、仮に百歩を譲りて同学科を合せて商科大学を設くるとせば、我母校たる東京高等商業学校が商科大学となりたる歴史を法令上明白にすること恰も彼の工部大学校・東京農林高校・札幌農学校等の前例の如くならざるべからざること、並に新設の商科大学内に経済学科と商業学科とが依然として対立し軋轢を生ずるが如き禍根を残さゞらんが為には、各学科の授業は一ケ所に取纏て之を行ふべく、而して之を行はんには母校の歴史を尊重して之を一橋に集合すべきや勿論なり、一半は一橋に、一半は本郷に置くと云ふ如き、一分科大学を二ケ所に分設するは斯道の教育上頗る憂慮に堪えず、若し之を一橋に置かずとすれば、四十二年の専攻部廃止の暴挙と何等撰ぶ所なき結果となるに至るべしと云ふに在りき。而して当局も右母校側の主張に対しては、大体に於て無理ならぬことと認めたるが如きも、目下の事情は到底其実行を許さず、且つ予算編成期日も切迫したる等の為に解決を他日に譲ることとなり、明年度予算には同問題に関する事項を計上せざることとなれり。同情ある文相と、懇篤熱誠なる渋沢・中野両氏の斡旋を以てして九仭の功を一簣に欠くに終りたるは、洵に長大息に堪へざる所なり。吾人は往年商業に大学程度の教育機関の必要を認めずとさへ放言せる知名の士ありし時代を追想し、今や当局者も世論も商業大学要不要の論を口にするものなく、如何にして完全なる商業大学を建設すべきかを焦慮するに至りたる事実を考一考するに、時世の変遷とは謂へ、吾一橋関係者の努力が無益の業にあらざりしを喜ぶものなり。遮莫母校の地位は尚頗る不安なるを感ぜざるを得ず。所謂商大問題が常に世人の話頭に上り、此問題の起る毎に母校関係者並に学生をして常に危惧の感を抱かしめ、一橋々畔暗雲漂ふの念を絶つ能はざるは啻に母校の不幸のみならんや、吾国商業教育界の不祥事と謂はざるべからず。而して之を解決するの途は一に母校出身者の奮励努
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力にあるや疑を容れざる也。


東京高等商業学校同窓会会誌 第九〇号・第一三頁 大正二年一一月 臨時評議員会(DK440057k-0003)
第44巻 p.168 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第九〇号・第一三頁 大正二年一一月
    ○臨時評議員会
十月二十九日(水曜)午後五時半より、本会事務所に於て臨時常議員会を開催せり。
 出席者
  石川君  伊藤君  堀君   和田君
  横田君  滝沢君  図師君  成瀬君
  永富君  藤村君  郷君   安藤君
  下野君  菅川君
当日の会合は、前項秋季総会の決議に基ける常議員選挙の件、及び近近教育調査会の問題として現はるべき母校年来の懸案たる商科大学問題に関し特に熟議を遂げんが為めに開催せられたるものなるが、商大問題に就ては、各自意見の有る所を充分に披瀝し、其の結果、図師民嘉・成瀬隆蔵の両氏本会常議員の意見を齎らして一応渋沢男を訪問せらるゝ事に決し、常議員の選挙は之を幹事に一任することに決したれば、右選挙の結果は追而本誌にて報導せらるべし。当夜以上の議事終結を告げしは、十一時過ぎなりき。


東京高等商業学校同窓会会誌 第九一号・第三頁 大正三年一月 ○常議員十一月例会記事/○臨時常議員会記事(DK440057k-0004)
第44巻 p.168-169 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第九一号・第三頁 大正三年一月
    ○常議員十一月例会記事
十一月十四日(金曜)午後五時半より、本会事務所に於て例会を開く
 出席者(○印アルハ新任者)
  石井君  石川君 ○西沢君  堀君   大野君
  横田君  滝沢君  図師君  塚口君  成瀬君
  永富君 ○中岡君  山本君  藤村君  郷君
  安藤君 ○君塚君  宮川君 ○谷君
                 (以上拾九名)
当日協議の項目並に其決議の要預を順記すれば、則ち左の如し。
(一)○略ス
(二)○略ス
(三)商大問題に関する件
 本件に就ては去る十月二十九日特に臨時常議員会を開きて巨細の評議を遂げられたる結果、図師・成瀬の両君本会常議員の意見を齎らして、一応渋沢男を訪問せらるゝ事と成り居たるは、前号既報の通りなるが、その後十一月四日に至りて、成瀬君(図師君は当日不得已事故の為めに成瀬氏独り渋沢男を訪問されたり)渋沢男と会見を遂げられ、吾人同窓者の主張の有る所を充分に同男に伝へられたるを以て、此の点に就き成瀬君より詳細なる報告あり、続いて尚ほ本問題に対する当面の措置上に関しても精細凝議せらるゝ所ありたり以上の議事を了へて、全く散会を告げしは十時過なりき。
    ○臨時常議員会記事
十一月二十一日正午十二時より本会事務所に於て商大問題経過報告旁
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特に臨時常議員会を開く。
 出席者
  石川君  泉屋君  堀君   土肥君  金井君
  図師君  塚口君  成瀬君  山本君  八十島君
  福井君  藤村君  安藤君  佐野君  三浦君
  (以上十五名)
奥田文相より渋沢男へ懇請の結果、十一月十九日特に商大問題の為めに実業家側の母校商議員会の開催あり。而して其の前日即ち十一月十八日に、渋沢男の求めに依り、佐野・堀の両君同男に会見せられたるが、其の会見前後に於ける詳細なる顛末に就て堀幹事より報告あり。次に又八十島幹事は、前記の十一月十九日開催の母校商議員会評議の顛末に関し、渋沢男より聴込まれたる点に就て詳細なる報告あり。
尚一同慎重なる討議を遂げられたる結果、今回の文相案は、吾人同窓者の理想とする所の商大教育の本旨とは、全然相容れざる所あるを以て、之を拒絶すべしとの議論に帰着し、且つ当分は只本問題の成行きに就て着目する事に決して散会せり。


一橋会雑誌 第九四号・第九七頁 大正二年一二月 一橋日誌 十一月二十一日―十二月十二日(DK440057k-0005)
第44巻 p.169 ページ画像

一橋会雑誌  第九四号・第九七頁 大正二年一二月
    一橋日誌
      十一月二十一日―十二月十二日
○上略
十一月廿五日(火)
 理事会各クラス会委員を集会所一・二番教室に招き、第一回委員会を開く。
○中略
十二月十日(水)
 第七回委員会集会所一・二番教室に開かる。商業会議所に於ける連日の会議今夕終了し、当局は原案全部を撤回す。校長、報を齎して委員会席上に臨まれ、校運の隆盛なるべきを報ぜらるゝや、満場感極り鳴咽して万歳を唱ふ。


東京高等商業学校同窓会会誌 第九二号・第二頁 大正三年三月 臨時常議員会(DK440057k-0006)
第44巻 p.169-170 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第九二号・第二頁 大正三年三月
    ○臨時常議員会
大正二年十二月十五日正午より、本会事務所に於て商大問題成行き報告旁臨時常議員会を開く。
出席者
  石川君  泉屋君  堀君   大野君  成瀬君  永富君
  中岡君  山本君  丸岡君  藤村君  郷君   江口君
  守藤君  佐野君  下野君
当日は最初に堀幹事より商大問題の経過に就て報告あり、同幹事の報告は其の大体を云へば、最近迄に行はれたる文相と渋沢・中野両氏との間に於ける交渉の顛末並に右両氏と母校長、教授との間に於て十一月十八日以来前後数回に渉れる会見の顛末等なりしが、其の報告の内容は頗る詳細を極めたり。
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次に又佐野善作君にも本件の経過に就て一・二自己の気付きの点を述べられたるが、右両君報告の要領に就ては已に前号会誌の巻頭に掲載あり。
右報告終りを告げたる後、本件の善後策に関し一同互に意見を交換せられたるが、結局当日は左の二項を決して散会せり。
 一、本問題が斯く両度までも不結果に了りしは如何なる原因に基くやを研究し、且将来に於ける本問題に対する吾人の方針を統一確定するの必要あるを以て、其れが講究を同窓会幹事及母校教授中の同窓会常議員に一任する事
 二、渋沢・中野両氏斡旋の労に対しては成瀬隆蔵君を通じて特に謝意を表する事
    以上
 因みに記す、成瀬君には右第二項の決議に基き、本会常議員を代表して、其後直に渋沢・中野両君を訪問して、親しく謝意を表せられたり。


東京高等商業学校同窓会会誌 第九二号・第二―七頁 大正三年三月 ○商大問題善後策委員会/○常議員会一月例会記事/○母校問題善後策委員会(DK440057k-0007)
第44巻 p.170-173 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第九二号・第二―七頁 大正三年三月
    ○商大問題善後策委員会
大正二年十二月二十日(土曜)正午より、麹町区有楽町生命保険会社協会内に於て商大問題善後策に関する委員会を開く、但し同月十五日開催の臨時常議員会決議に基けるものなり。
 出席者
  石川文吾君   堀光亀君   藤村義苗君
  江口定条君   佐野善作君  三浦新七君
  下野直太郎君  関一君
   右の内江口君は委員の請に依りて特に出席されしなり。
 客員
  平生釟三郎君
当日は先づ藤村幹事より前回の臨時常議員会決議の主旨並に善後策講究の急務なる所以を述べられたるが今其の大要を記すれば左の如し。
 我が母校は先年専攻部廃止の厄に会ひ、今度は復表面母校の発展にして其の実母校の歴史を没却し去られんとするの厄に遭遇したり。
 併しながら幸にして専攻部は既に復活せられ、今回の文相案亦母校側の主張を諒として已に其の撤回を見るに至れり。
 以上母校の二大災厄とも云ふべきは、唯公然外部に発露せる事実のみに過ぎずと雖も、其の他六・七年以来の母校内部の事実を挙ぐれば、先づ諸設備の点を始めとして、或は海外留学生派遣の割合、又或は教師の待遇等、主務省の方針総べて極端なる消極主義なり。故に今日と成りては、主務省に依頼して母校の向上発展を期待するが如きは、到底不可能なるべきは勿論なり。加之ならず、吾人にして母校の現状に対して此の際若し袖手傍観したらんには、第一に母校歴史の存続さへも危かるべきは、前述の二大災厄当時の事情より推して明白なり。
 之を要するに、母校は従来自己の歴史の力に依りて纔かに現状維持
 - 第44巻 p.171 -ページ画像 
の状態を保ち得たりと雖も、今日は更に一歩を進めて実に危急存亡の秋に逢着し居れり。故に此の際吾人の間に於て、母校の現状に対して、何ぞ具体的の援助策を講ずる事は、其の結果自然母校の歴史を附け加ふることを得べきを以て、少くとも母校の現状維持を鞏固ならしむる上に、頗る急務なるべしと思はる。
右藤村幹事の説明に基き、一同互に意見の有る所を充分に吐露し、頗ふる慎重なる評議ありしが、今其の結果の要領を列挙すれば即ち左の如し。
 一、専ら母校の内容充実を期する事
 二、当日協議の趣旨に基き更に案を立つる事
 三、来春大正博覧会開催の際大会を催す事
以上の協議を了へて、一同退散せしは午後四時頃なりき。
    ○常議員会一月例会記事
一月十五日午後五時半より、丸の内生命保険会社協会内に於て例会を開く。
 出席者
  石川君  堀君   土肥君  大野君  和田君  渡辺君
  加藤君  金井君  横田君  谷君   永富君  村瀬君
  間島君  丸岡君  藤村君  郷君   安藤君  佐野君
  宮川君  三浦君  下野君
当日は旧臘二十日開催の商大問題善後策委員会の決議に基き、主として母校の善後策問題に就て凝議せられたるが、其の決議の要領を挙ぐれば則左の如し。
 一、母校内容充実の為めに其の資金を醵集するは必要なり、依て其の醵集に関する一切の講究を遂げんが為め特に委員若干名を設くること。
宮川君は右第二項の決議に基き当夜直に左の十五君を指名せられたり
  成瀬隆蔵君  中島久万吉君  江口定条君
  村瀬春雄君  横田清兵衛君  永富雄吉君
  間島与喜君  福井菊三郎君  郷隆三郎君
  関一君    図師民嘉君   八十島親徳君
  藤村義苗君  堀光亀君    宮川久次郎君
   尚右委員会開会の折には、委員以外の母校教授中の常議員及専ら如水会の常務に関係ある安藤兼三郎君にも、特に列席を乞ふ事に決せり。
以上の評議を決するには、問題の已に重要なりし丈に又其の評議も長時間を要せしかば、全く散開を告げしは十時過ぎなりき。
    ○母校問題善後策委員会
一月十五日開催の常議員会例会の決議に基き、同月二十一日午後正五時より丸の内生命保険会社協会内に於て、母校問題善後策委員会の開催あり、先づ当日出席の氏名を挙ぐれば左の如し。
  成瀬君  中島君  江口君  間島君   福井君
  村瀬君  横田君  宮川君  郷君    八十島君
  藤村君  堀君   永富君(以上委員)  安藤君
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  石川君  佐野君  三浦君  下野君
   外に母校教授志田鉀太郎君には、昨冬商大問題に関し母校出身の教授諸君と協力して特に尽力せらるゝ所ありたる為め、今回母校問題善後策に就ても種々考慮せられ、今夕も特に委員会に臨席して一応意見を陳述したしとの申込ありたるに因り、開会前藤村幹事より其の旨委員諸君に諮り、一同の快諾に依りて列席せられたり。
定刻に至りて一同着席、先づ藤村幹事より、母校善後問題を以て、直に我が同窓会の一問題として講究するに至れる順序、並に前会の決議に基き遂に今日の会合を催すに至れる顛末等に関し詳細なる説明あり然るに当日出席者諸君中にて、江口・間島・福井の三君には他に先約の時刻ありて、正六時までには退席せらるゝことに成り居りしを以て大体の協議は当日食後に於て為されたるも、先づ食事前に於て当日の先着者のみにて右江口君等の意見と志田教授の談話を聴く所ありしが今其の要点のみを順次略記すれば概ね左の如し。
  志田鉀太郎君
 私は今夕の御会合を好機として学校の現情並に将来に就て私の卑見を述べて、一は諸君の御参考に供し、一は又諸君の御援助を仰ぎたいとの存念よりして、若し御差支なくんば、今夕の席末を汚したいものと予而藤村君まで其の旨願出で置きしに幸に御聴き済みになりしは、私に取りて何よりも仕合せに存ずる所なり。
然るに所謂商大問題は、諸君も御承知の通り旧臘既に一段落を告ぐるに至れり。併しながら私の見る所を以てすれば、商大問題には猶ほ其の前途に於て二様の暗流が横りつゝある様に思ふ。即ら其の一は
 一、早晩高商専攻部に供するに、現在の帝大法科中の商科を以てして総合大学の一分科大学と為すこと。
又他の一は
  一、新に単科大学制を設けて現在の我が高商に対して独立の商科大学たる事を認許すること。
 私は早晩必ず右二様の中にて何れかに決すべきものと思ふ。而して若し右第一案にして成立するものと仮定するときは、表面は高商に併合するに帝大商科を以てするが如きも、其実高商が帝大に併呑せられたる結果となるは自ら明白なるべし。若し又第二案にして実行せらるるものとすれば、設備其の他経済上の点等よりして総合大学には到底一着を輸せざるべからず。
 如上の観察にして若し果して誤らざるものとすれば、高商は何れにしても将来必ず不利益の地位に立たざるべからざるものと思ふ。然るに翻つて現行の帝大商科は今後如何に成り行くものなるやと観察するに、此の方は漸次必ず大なる発展を遂ぐるものと思ふ。私が商大問題に関して帝大側より種々聴き込みたる所を綜合するときは、現行の帝大商科は何処までも之を持続するのみならず、鋭意其の内容の充実を計り、大に将来の発展を期しつゝあるが如し、若し果して然らんには行く行くは教師の点に於ても、又入学生に人材を得るの点に於ても、且つは又諸設備の点に於ても、兎に角我が高商は帝大に一歩を譲らざ
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るべからざる時期に早晩到達するものと思ふ。要するに我が高商の将来は誠に憂慮すべきものなりと云ふべし。故に私は今夕右の卑見を述べて、此母校善後策問題に就て諸君が充分の講究を遂げられ、母校の将来に向つて大に御援助を賜はらんことを、切に希望する次第であります。
右志田教授の談話終りを告ぐるや、一同別室に移り晩餐を共にしたる後、愈々当日の本会議に遷れり。
開会劈頭に於て、藤村幹事より、議事の進捗を期せんが為め、成瀬隆蔵君を座長に選挙したしとの動議ありしに、之に対し満場の賛成ありしを以て、成瀬君座長席に就かれたり。
先づ藤村幹事より、本問題の由来並に母校援助の急務なる所以且又如水会と母校援助問題との関係等に就て自己の意見を述べられたるが、此の藤村君の意見に対しては、満場の賛成ありて終に全会一致を以て左の二項を可決するに至れり。
 一、母校ノ内容充実ヲ計ルハ実ニ焦眉ノ急ナルヲ以テ先ヅ之レニ要スル資金ヲ醵集スルコト
 一、右醵集ノ方法トシテハ本件ヲ以テ如水会ノ一事業ト為シ、同会会館建設ノ資金ト共ニ尚同会事業資金拾五万円ヲ併セ募ルコト
以上の評議終結を告げて、一同散会せしは殆ど十一時に近かりき。


渋沢栄一 日記 大正三年(DK440057k-0008)
第44巻 p.173 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年       (渋沢子爵家所蔵)
三月十八日 雨 軽寒
○上略 午飧後高等商業学校ニ抵リ、生徒一同来会シテ一場ノ講演ヲ為ス蓋シ先般文部大臣ト本校ノ事ニ関シテ交渉セシ事アルヲ以テナリ○下略
  ○栄一ノ講演筆記ヲ欠ク。


一橋会雑誌 第九八号・第一一七―一一八頁 大正三年四月 研究部臨時大会記事(DK440057k-0009)
第44巻 p.173-174 ページ画像

一橋会雑誌  第九八号・第一一七―一一八頁 大正三年四月
    研究部臨時大会記事
 三月十八日正午より研究部臨時大会を催す。朝来の春雨まづ大地を霑ほし人の心を潤す。此の日我研究部は一橋四十年来の擁護者たる渋沢男爵、中野東京商業会議所会頭を招待す。蓋し昨冬一橋臨時大会の際提出されし動議を実現せんとする也、開会前既に満場立錐の地も見出し難し、定刻、渋沢・中野両氏の姿会場に現はるるや満場急霰の如き拍手を以て迎ふ。理事池上氏立ちて全員の起立を乞へば会衆起立して両氏に対ひ敬礼し、池上氏一橋会を代表し両氏が我一橋の為めに常に甚大の同情と保護とを与へられ、殊に又最近一橋に問題の起りしに際し、幸に円満なる解決を得たるは、一に両氏の御尽力に依りしものなる事を述べて深く感謝の意を表す。かくて中野氏は壇上に立ちて約二十分に亘りて懇篤に説かるところあり、次に渋沢氏約一時間に亘り温容諧謔を交へて一橋問題最近の経過を演説せらる。会場極めて静粛にしてたゞ親和の気堂に充つるを覚ゆ。外は細雨しきりに樹梢に濺ぎて若き芽生を促すに似たり。此時昨冬の陰雲暗澹として橋畔を鎖ざせし時の様を想起して感慨に堪えざりしもの、豈吾人一人のみなりしならんや、一橋は実に大なる保護者を得たりと謂ふべく、本日の集会は
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正に之れ一橋の将来のある意味の裏書を為すものたり。あゝ祝すべき哉や一橋の前途。
 会閉ぢて後学生集会所に両氏並に教授、学生代表者相寄りて茶話会を催す、因に中野氏は所用によりて欠席されたり。(三月十八日記)
  ○同校一覧ニヨレバ此年ニ於ケル商議委員左ノ如シ。(就任順)
    渋沢栄一  和田垣謙三  近藤廉平
    真野文二  添田寿一   森村市左衛門
    池田謙三  中野武営   早川千吉郎
  ○本資料第二十六巻所収「東京高等商業学校」明治四十二年五月二十三日ノ条参照。
  ○合併問題ニ関スル経過大要左ノ如シ。(「一橋五十年史」附録第三四―三五頁ニヨル)
   大正二年 七月 文部大臣奥田義人商業大学問題の解決につき本校商議員渋沢栄一に諮る
        九月 本校同窓会臨時常議員会に於て商大問題の協議をなす
       一〇月 学生有志商業大学問題に付き奔走を始む
       一一月 一橋会編纂部主催第十四回投書家懇親会開催す
       一一月 商業大学問題に関する各クラス会委員会並に一橋会理事会数次開かる
       一一月 本校同窓会は定例及臨時常議員に於て商大問題を審議す
       一二月 五回に亘りて商業大学問題全校委員会開かる
       一二月 十日商業大学問題文部省側意見と本校の主張との間に到底妥協すべき余地を見出す能はず遂に不調に了る
       一二月 十一日一橋会臨時大会を開き委員会に於ける商業大学問題の経過を報告し円満なる不調を祝して一橋の将来を議す
   大正三年 一月 本校同窓会々誌第九十一号に「商大問題の経過」報告せらる
        三月 一橋会研究部臨時大会を開き渋沢栄一中野武営を招待して大正二年末に於ける問題に対する其尽力に謝意を表す