デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.174-179(DK440058k) ページ画像

大正3年7月7日(1914年)

是日栄一、当校第二十四回卒業式ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三一四号・第七〇―七一頁 大正三年七月 ○高等商業学校卒業式(DK440058k-0001)
第44巻 p.174 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第七〇―七一頁 大正三年七月
○高等商業学校卒業式 高等商業学校卒業式は七月七日午前同校講堂に挙行、坪野校長の報告、一木文相の祝詞(松浦局長代読)、卒業生の謝辞、青淵先生の演説ありたり


東京高等商業学校同窓会会誌 第九五号・第三〇―三八頁 大正三年九月 男爵渋沢栄一君演説(DK440058k-0002)
第44巻 p.174-179 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第九五号・第三〇―三八頁 大正三年九月
    ○男爵渋沢栄一君演説
 臨場の諸閣下、学生諸君、一両回病気又は差支へで此高等商業学校卒業式に参列することを欠きましてございますが今日幸に此所に列席することを得たのを自分は大いに愉快に感じます、唯今坪野校長さんの御報告に依りますと、今日の卒業生は専攻部、本科其他で三百二十人さうして従来卒業生の総数は五千人に近いといふことでございます追々に盛況を見るのは満場の諸君、学生諸子と倶に商業教育の普及す
 - 第44巻 p.175 -ページ画像 
ることを深く喜びます、年寄は昔のことを考へ出しますけれども、商法講習所時分に三人ぐらゐ卒業生を出すと、最早卒業生を出したと言つて大いに喜んだことがある、三人が三百人と言へば百層倍以上になりますから、国家が其れ程進んだと云ひたいけれども、或部分に於ては左様に進んだものもあるかも知れぬが、或部分に於ては三人出した時の方が宜いと思ふことが無いとも申せぬ、是は人数が余計出たからと云つてそれで偉らいとばかり思はぬ方が宜と私は考へるのでございます、併し一方から論じますと、左様に三人とか三十人といふものが三百人以上になり、総計で五千人に近いといふ卒業生が出て、単り東京高等商業学校ばかりでなく、神戸に山口に又其他にも甲乙種の商業学校もある、斯の如く頻々学者が出て来たら、商売社会は学者で埋つて仕舞つて仕事をする場所はどうなるか、人間が過剰して仕事が無くなりやせぬかといふ疑が学生諸子にも起るだらう、私共にも時々さういふ感じが致します、余り学者が多くなりてどうするか、供給が過ぎて困りやしないかといふ疑問を起すことがございますけれども、現在の所一般の観念は、只今校長さんの御説の通り、年一年に志望者が多いといふのは世の中が商業教育を望むといふことは、明瞭にして少々づゝでも年々上進しつゝあるのでございます、翻つて此実業界が教育ある商業者を容れる範囲はどうなつてあるかと云ふに、日本の国が如何に進むと言つても、三・四十年間に百倍も広くなる訳には往かず、事業も左様に進む訳には往かない、銀行家でも運輸業でも鉄道線路でも貨物の運搬数でも総て年一年に増しては来ますけれども、今申す如く学生の数が上る程増しは致しませぬが、併し今までの事業の執り方は学理に由らぬといふ有様が多かつたのに、追々に其風習が改まつて事業が学問的に傾いて往くといふことは、即ち事物の増す割合よりも学問を修めたる人が余計無ければならぬといふ訳になるのであらうと解釈して宜からうと思ひます、故に之を一の農業に譬へて見ると、昔の農業は極粗笨の仕方であつたから一反から得る収穫物は少ない、又其労力も少なかつた、故に仕事が緻密でなくて、道理にも適はねば学理にも応じない、総じて肥料を用ゐるとか、耕耘をするとか、水利に注意をするとか、種々なる方面から其農業に知識と労力とが加はつて来ると一反に付いて米が四俵取れたのが、七俵にも八俵にもなつて往く、甚だしきは十俵にもなるといふ位に進歩するは決して怪しむべきことでない、商業と雖も其通り、段々各人の取扱ひが緻密になる程、其仕事が小さい範囲に進んで来る、従つて之に従事する人は知識を沢山要することになる、斯う考へると完全に勤学をした学問の出来る人が世の中の職務に就く範囲は其学者が出て事物を経営する程、従つて其範囲が広まる、仮令日本の面積は広くならぬとも決して是から先き学生は何所へ往つたら宜しからうといふ御心配をなさるに及ばぬ、必ず従事すべき場所は沢山あるといふことを御安心になるやうにしたいと思ふ、併し是は空に安心する訳には往かぬ、矢張り左様言ふ吾々が其範囲を段々開拓して我位地を広めたる如く、諸君も倶に努めねばならぬ、不肖ながら私は三・四十年其事に付いて努め来つたことである知識が少ないから大した仕事は出来得ぬが幾らか商工業の範囲を広め
 - 第44巻 p.176 -ページ画像 
たと思ふから、学問を修めた諸君は是から益々範囲を広め、後日に入つて来る後進者に好い位置を与へることを御心懸けなさるのが、国を向上せしむる唯一の務と思ふのでございます。
 私は此程支那に旅行をして参りました。日本の従来の有様も一通り知つて居る積りでありますが、更に中華民国の現状を一部分ではありましたが視て来た、如何にも聞きしに勝つた天恵の多い国である、殊に中清の諸事物の豊富なることは、それこそ垂涎に余りありといふ位で、今日は其御話を主として申上げる訳ではありませぬけれども、一・二の見聞を申せば例へば、大冶の鉄山の如き、或は楊子江の流域の如き各方面に莫大なる便利を与へ利益を提供して居る、勿論其間には古蹟もある、風景もある、色々の方面から観察することは出来ますが、先づ商工業といふ目を以て見ましても、実に限り無い富源であると申して宜しいやうであります、而して支那の今日の現況は列強挙つて此天賦の富を開発するに汲々として居ります、支那国民も亦其所に力を入れて居る、けれども有体に申すと我邦より遅れて居る、又其事業に着手する手続が我邦の如く順序立つて居らぬ、資本にしても技術にしても種々欠点が多い、故に両国間に一の合弁会社を作つて、其事業を進めたいと思ふて、昨年来の経営で既に其会社は完全に成立して今や事務の緒に就かむとして居る処でございますが、此会社組織に付いて支那の或部分に多少疑惑、行違ひがございましたから、これを叮嚀に説明する為め私が参つたのでありました、其事の成功したかせぬかは私自身に申述べる程のことはございませぬが、先づ大抵情意は貫徹したと思ひます、実に支那に事業の多いといふことは大いに私の頭脳を刺戟したのでごいざます、既に七十になつたのを機会に内地の仕事に対しては総て其世話方を御免を蒙むると申して、新規創設のことには関係を致さずに居りましたが、昨年来支那の事業に付いては敢て其衝に当つて職を執る事は出来ぬけれども、其創立に付いては一臂の力を添えたが宜いといふ、他の勧告もあつて前に申す中日実業会社を創立し、即ち其会社の事業経営を説明する為めに旅行をしたのである其旅行によつて支那の現状を見ると、仮令此身は老衰の為に敢て当らぬかは知らぬけれども、如何にも彼の天賦の富を其儘にして置くのは残念千万である、殊に支那の官民共に之を憂へて居るから、永い歴史を有つて居て、同種同文の国として、且土地の接近して利害関係の密接なる帝国が、此隣邦の天恵を開発せしむるに於て力を尽すといふことは或は添田君の言はれた義務であるか権利であるか、此権義の判断は姑く措いて、どうしても力を尽したいと思ふのでございます、是等は今日卒業された学生諸君に、今直ぐに支那の事業会社へ大勢の御方が履歴書を御出しになつて採用を望まれても困るけれども、支那に於ける事業に付て、是まで御経営の順序もあるならばお力を尽されんことを諸君に慫慂いたしたいのであります、内地に於て諸君を容れる範囲の広いといふことは、自ら開拓し得るから、何時まで経つても広いと言ひ得ると申す外ない、併し隣国に於て而かも其面積は我に十倍、十五倍ある国が左様に諸君を待つて居るのであります、故に東京高等商業学校が三百人の学生を出すとも、是から先き其お方々は何所で働
 - 第44巻 p.177 -ページ画像 
くだらうかと云ふ憂慮は少しもございませぬ、十分に働く可き先きのあると御安心なすつて宜しい、但し諸君が其実務に就くに於ての注意は、唯今文部大臣から大体を御訓示ございました、又特に校長坪野君から通俗的に御懇切に諸君に向つての御訓戒を私は脇から拝聴して頗る適当の御説、又親切の御訓示と感服いたしましたのでございます、殊に添田君からも人たるの本分に付き懇々諸君に御説諭でございましたから、もう此処に申上げる言葉は無いのでございますが、私は社会に諸君を容れる方面の広いといふと共に、諸君が是から世の中に出て斯く心掛けたら宜からうといふことに付いて、一・二の愚見を玆に申上げるやうに致さうと思ひます。
 第一に言ひたいのは、総じて物を世の中に広めるといふことは、自ら売るといふことを意味する、商売人が頻りに広告をして自個の信用を広めるといふ風があります、甚だしきは歯磨とか仁丹とかいふ売薬抔に至つては毎晩灯火を点けて広告して居る、蓋し努める方から言へば、決して悪いとは申しませぬが、若し其仁丹が広告にて披露する程の価値が無いならば、謂はゆる羊頭を掲げて狗肉を売るといふものである、故に此広告といふものは、其品物の実質を能く考へなければならぬ、世の中に於て事を為すには、己れを売るといふ意味が満更無い訳には往かぬが、歯磨とか売薬とかいふやうな広告的観念を持つのは甚だ宜しくない、私も常に校長さんの御訓示のやうなことを申して居る、学生が実務に就くと兎角に不足を言ふ、己れの広告をするけれども其広告をするに付いては、夫れだけの働きをしなければならぬ、世の中の事業といふものは人が持つて来て与へるものではなくして、己れの力が吸収するものである、其吸収するだけの力が無くして誰か与へるだらうと待つて居るのは、抑々其人の能力が無いのである、能力がない癖に、己は是位学問があるのに人が事務を与へて呉れぬと言ふことがありますが、是は其与へられる程の能力が無くして、不平の言葉を以て自分の無能を広告するのになるといふことを始終私は申して居ります、校長さんの御訓戒も其言葉は違ひますけれども、精神は此所に在ると思ふ、故に実質を第二に置いて広告を努めるのは止めなければならぬと思ふ、是等は諸君に申さぬでも御理解なさつて居るだらうけれども、今日は世間到る処に其弊害がある、即ち広告を先にして事実を第二に置いて其人を上下するやうな弊害がございます、即ち広告に務めて実質を顧みぬといふことになるのだから、是から先き学生が世務に就くにも余程御注意ありたいと思ふ。それから凡そ世に人たる者は先天的に義務があると添田君も言はれた、義務と権利とは綯へる縄の如くで始終関聯して居りますから、何れから論じても宜いやうなものだか、兎に角人たる者は、此世に立ちてどうするが宜いといふことに付いて考へなくてはならぬ、我行く先きは極所まで往つたら、どうかなるだらうといふのは、即ち意義の無い人である、私は少年の時分に諸君の如く規則立つたる学問は学ばなかつた、ですからして諸君に較ぶれば寧ろ無学の人である、けれども私は若い時分から意義ある人になりたい、酔生夢死の人にはなりたくない、世に在る以上は斯る考を以て世に立つといふことだけは是非ありたい、是は当然のこと
 - 第44巻 p.178 -ページ画像 
である、吾々は此帝国の臣民たる者は、即ち意義ある人として一生を終るといふことに心懸けたいものである、左ればと云つて大革命でも企てるとか、世の中を驚かせる事を成せといふのではございませぬ、私は誠に平々凡々を好むのであります、華々しい事業は出来もしなければ、又する気もありませぬ、けれども、人は斯ういふ考を以て、一生を送りたいといふことは、私が物心を覚えてから始終忘れませぬ観念であります、其間に幾分の変化はございます、此れは世の変遷に伴ふ自然の結果といふてよからうと思ひす、但し明治六年から今年まで四十二年の間は聊も変化いたしませぬ、只其以前に於て例へば攘夷鎖港を主張し、或は主治者の位地に立つて見たいと企望したのが変じて開国主義となり、又国家の富を増すことに努めて見たい為めに、被治者となりて実業を発達させることを努むるも、前にいふ多少意義を有つたる生活を為した積りであります、但し其間に間違つた考へもある又道理に合はぬ行為も決してないとは申せぬかも知れませぬが、自分が覚悟した意義は通した積りであります、是は其の人の才能の大小、又学問の有無にも由りますが、唯だ酔生夢死、方向無しでは如何なる船乗りも到底彼岸に達することは出来ませぬ、夫れ故に私の望む処は凡そ人たるものは斯ういふ主義を以て世に立ちたいといふことを是非御考へになるやうにしたい、但し商工業者となるなれば、人を治めるとか人を教へるとかいふ事に関係するのは、それは間違ひである、学者は人を教へ、政事家は人を治める如く、商工業者は我本分に順ひ、小売商人であらうが問屋であらうが、卸売であらうが、其目的を立て自己の把持する主義を以て商売をして往きましたならば、哲学者・政事家と同じく楽は其間に在ると思ふ、故に人たる者は我一身に付いて一の目的を立てゝ謂はゆる主義ある人たることを心懸けなければならぬ、多く実業界に従事し商工業者となられる諸君であるが、唯今添田君から御戒めのあつた通り、此実業界で最も陥り易いのは貨殖をするといふ為に、事物の道理を分別せず唯だ利之れ努むるといふことである、私は常に之を論じて居ります、生産殖利は必らず仁義道徳と一致する、私の言ふことは支那の熟語であつて欧羅巴ではどういふか分りませんが、孔孟の教旨たる仁義道徳は、博愛之謂仁、行而宜之、之謂義、由是而之焉、之謂道、足乎己無待乎外、之謂徳、是は仁義道徳を韓退之が原道といふ一文章に説明した言葉であります、果して此説明が適中して居るとは申さぬが、兎角仁義道徳の文字は生産殖利に直ぐ適切する言葉ではございませぬ、仁を為せば富まず富めば仁ならずといふこともある、斯の如き仁義道徳は必らず貧乏になる、又富を努めれば仁義道徳に背くといふことになる、是は誰人の言にて如何なる書物にあつたか正確に記憶しませぬが、多分孔子の言葉ではないと思ふ孟子も仁義に付いて利と異る所以を詳細に説明して居る、孟子の第一巻を披いて御覧になれば、孟子見梁恵王、王曰、叟不遠千里而来、亦将有以利吾国乎、孟子対曰、王何必曰利、亦有仁義而己矣とある、大学にも不以利為利以義為利也と利と義との分別を明瞭にしてあります生産殖利と仁義道徳とは、是まで論語・孟子其他の経書に由つても或場合には甚だ間違ひ易い、詰り両方を満足にすることは出来難いと言
 - 第44巻 p.179 -ページ画像 
ひ做したことが沢山ありますが、蓋し欧羅巴の哲学ではさうは言つてないだらうと私は思ふのである、それは欧羅巴には斯ういふ説がある斯様な論があると此に諸君の御耳に入れるだけの学問はないが、英国人などの生産殖利に対する観念は支那語にいふ仁義道徳と相一致して富を為して居る人が沢山ある、一例を申せば今日は亜米利加人であるが実は蘇格蘭人であるカーネギーといふ人の如きは、或は生産殖利と仁義道徳を全く兼用して行つて居ると思ふ、斯の如き偉人は隣りから隣りと算へる訳には往かぬけれども、仁義道徳と生産殖利と一致するものといふことはカーネギー其人だけの行動に由つても玆に証拠立てられるから私は決して空論でないと思ひます、近頃は世間頻りに唯利益にのみ走るのはいかぬといふ声が高くなつて居ります、私も或場合には頻りに此ことを言つた、どうも知育だけ進んで物質にのみ重きを置いて、道徳の観念が甚だ乏しい、畢竟教育の制度が悪いといふやうにまで云ひましたが、是は甚だしく中庸を失する、反対に武士は食はねど高楊枝、賢者は清貧に安んずるといふ様になりて、生産殖利に対して甚だ疎くなるといふことも由々しき大事でありますから、私は如何に仁義道徳が大事でも生産殖利を忘れる仁義道徳はいかぬと思ふ、故に是は全く一致するものだといふことを諸君が宜しく考へて、是から先き実業に従事する様に致したいと思ふです。要するに諸君は、一通りの知識学術は既に修められたのであるから、此先き諸君は人格を磨くと云ふことが肝要である、但し人格と云ふと唯二字を以て能く分るやうでありますが、其人格とは如何なるものぞと云ふに至つては、私も叮嚀に人格の定義を論じ尽す訳に往かぬ、人は唯品格を善くして辺幅を修め、苟も戯談などは言はぬといふのを人格と見るが、私はさうではないと思ふ、想ふに人格には血もあり涙もある、逞ましい精神を持たなければならぬ、唯品が宜しい、濫りに放言せぬ、成るべく人に先に口を利かして一番後で物を言ふ、是等を以て人格と心得るものもあるが、斯様な人格には敢て敬意を表すべきではない、要するに此人格は誠といふものが籠らぬと完全なるものとは言へない、人格といふものは至誠である、至誠を以て総ての事に当り、又人に接する其間に人格といふものが存するのである。或は言語も慎まなければならぬ又見聞きする事柄に付いて是非を弁別する力も無くてはならぬ、種々のものが綜合して完全なる人格となり得るのである、然らば人格中何が最も以て肝腎かと云つたら、至誠が根本であると言ひたい、故に諸君は是から先き実業界に其力を尽すと云ふには既に修められた知識で決して不足とは言はぬ、事に当つて其知見を拡大することに心懸ければ宜しい、唯其人格を修養して確かにこれを保つといふことが必要である、其人格たるや私が諸君に希望するのは、至誠を以て根本となさるやうにしたい、玆に諸君が数年勤学の労を積まれて業を卒つて、社会にお出なさることを深く喜び、社会は諸君を歓迎すること、而して諸君が社会へ出てからは斯くありたいといふことは、校長其他の諸君から種々御訓戒がありましたけれども、折角此演壇に立ちましたから私も玆に蛇足を添えたのでございます。(拍手)