デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
2款 東京商科大学 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.300-309(DK440068k) ページ画像

大正14年9月22日(1925年)

是日栄一、病ヲ押シテ当大学創立五十周年記念式ニ臨ミ、嫡孫敬三ヲシテ祝辞ヲ代読セシム。


■資料

集会日時通知表 大正一四年(DK440068k-0001)
第44巻 p.300 ページ画像

集会日時通知表 大正一四年       (渋沢子爵家所蔵)
九月廿二日 火 午前九時 商人記念式御参列


竜門雑誌 第四四五号・第五九頁大正一四年一〇月 青淵先生動静大要(DK440068k-0002)
第44巻 p.300 ページ画像

竜門雑誌 第四四五号・第五九頁大正一四年一〇月
    青淵先生動静大要
      九月中
健康も日増快復に近く○中略 東京商科大学記念式(二十二日)○中略 等に出席せられたるも、尚ほ摂養に努められつゝあり。


如水会々報 第二六号・第四三―五四頁大正一四年一〇月 母黌創立五十周年記念式典記事(DK440068k-0003)
第44巻 p.300-302 ページ画像

如水会々報 第二六号・第四三―五四頁大正一四年一〇月
    母黌創立五十周年記念式典記事
東京商科大学創立五十周年記念式典は、予定の通り九月二十二日の創立記念日を中心として、九月十九日より同二十四日まで一週間に渉りて挙行せられ、洵に盛会を極めたるが、先づ其の日程を列挙すれば左の如し。
(1)九月十九日 開黌五十周年記念端艇競漕(於墨江)
(2)同二十日 同記念大運動会(於石神井)
(3)同廿一日 同全国高商学生講演大会(於大学本館八番室)
(4)同廿二日 同記念式典(於仮講堂)
(5)同廿三日 同大学関係物故功労者(百有余名)追悼会(於仮講堂)
(6)同廿四日 同記念講演会(出身者)
  以上
右の中にて九月二十二日に挙行せられたる式典には、加藤首相・岡田文相・片岡商相の三大臣を初め、外国大公使・渋沢子爵・鎌田慶応大学長等朝野紳士の参列せる者無慮七百名の多きを算するに至り、実に近来の盛会を極めたるが、当日式典の順序を挙ぐれば左の如し。
      東京商科大学創立五十周年記念式順序
一、振鈴着席 午前正九時
一、学長式辞
一、文部大臣閣下祝辞
一、商工大臣閣下祝辞
一、内閣総理大臣閣下祝辞
一、渋沢子爵閣下祝辞
一、ベルギー大使祝辞
一、教授総代祝辞
一、学生総代祝辞
一、二十五年以上勤続者功労表彰
一、右勤続者総代答辞
一、天皇皇后両陛下万才
  摂政宮殿下万才
 - 第44巻 p.301 -ページ画像 
一、閉式
一、式後別室に於て午餐を呈す
  以上
右学長の式辞及び各大臣其の他の祝辞並に答辞等を紹介すれば、左の如し。
○中略
      祝辞
 烏兎匆々半世紀ヲ経過シ、我カ東京商科大学ハ玆ニ創立五十周年ノ祝典ヲ挙行スルニ至レルハ、老生ノ欣喜ニ堪ヘサル所ニシテ、当局諸彦ニ対シテ厚ク謝意ヲ陳スルト同時ニ、満場諸君ト共ニ本邦経済界ノ隆昌ヲ祝賀セント欲ス
 蓋シ老人ハ未来少キニ反シテ過去ノ経歴ニ富ムヲ以テ兎角過去ヲ追懐スルモノナルカ、本大学ニ付テモ其今日ニ至レル経路ヲ回顧シテハ実ニ感慨無量時ニ或ハ茫然自失スルヲ覚ユルナリ、想フニ本大学カ明治七・八年ノ頃故森有礼氏ノ唱導ニヨリ商法講習所ノ名ヲ以テ創立セラレ、爾来老生ハ其経営ニ参与セシカ、当初我教育界ノ大勢ハ単ニ政治法律兵制文学ニ偏重シテ、生産殖利ニ関スル科学的教育ハ官民共ニ之ヲ貌視スルノ状態ナリキ、老生ハ曩ニ官途ヲ去リ、身ヲ実業界ニ投シ、専心国富ノ基礎タル農工商ノ発展ニ努力セント期念シタルヲ以テ、之カ教育ノ必要ヲ痛感シタルニ其機関ノ如キ亦見ルヘキモノナク、真ニ慨歎セサルヲ得サリシナリ
 当時老生ハ東京府ノ嘱託ニ依リ瓦斯局事業ヲ管理シ、其瓦斯製造ニ従事スル仏人技師ヲ邦人ニ代ヘントシテ帝国大学ニ依頼シ、応用化学出身ノ学士ヲ選定シ入局ノ事ヲ約セシモ、後ニ其学士ハ瓦斯局ノ事業ハ向後民業ニ移ルヘキヲ予想シ其意ヲ翻シテ入局ヲ謝絶セリ、而シテ其理由ヲ推問シタルニ、民業ニハ何等名誉ナキニ依リ当初学ニ就クノ趣旨ニ反スル旨ヲ答弁セリ、以テ世間一般ノ趨勢ヲ知ルニ足リテ、老生ハ憂苦措ク能ハスシテ実業教育ノ斯ノ如ク蔑如セラルルハ官民一般ノ不注意ヨリ生スル過失ナリト揚言シ、爾後本大学ノ卒業証書授与式ニハ勉メテ演壇ニ立チ、商工業ニ名誉ナシトハ何人ノ定義ナリヤト喝破シタリキ、天運循環シテ社会ハ駸々乎トシテ進展シ、本大学モ亦種々ノ変遷ヲ経遂ニ商科大学トシテ商業教育ノ最高学府タルニ至レルハ真ニ欣快ノ至リナリ、然リト雖モ凡ソ物一ヲ得レバ更ニ又他ヲ要望スルハ人生自然ノ情ニシテ、今ヤ経済界ノ発展ヲ喜フト同時ニ人々我利的ノ意念ニ偏シテ其極世界ヲ通シテ共存同栄ノ真理ヲ忘却スルニ至ラントスルハ深ク顧慮セサルヘカラサルナリ、故ニ老生ハ切望ス本大学ノ如キ最高教育機関ニ於テハ切ニ経済ト道徳トノ合一融和ヲ主義トセラレ、学成リテ後実業界ニ活動セラルヽ諸士ハ飽クマテ此主義ヲ拡張シ、実業界ニ生スル随時ノ濁流ヲ清メラレンコトヲ、聊カ蕪言ヲ述ヘテ祝辞トス
  大正十四年九月二十二日
                      渋沢栄一
  (老子爵は静養中の病躯を押して列席せられ、右祝辞は嫡孫敬三君をして代読せしめられたり)
 - 第44巻 p.302 -ページ画像 
○下略


竜門雑誌 第四四五号・第一―八頁大正一四年一〇月 商科大学創立五十周年祝典に会して 青淵先生(DK440068k-0004)
第44巻 p.302-306 ページ画像

竜門雑誌 第四四五号・第一―八頁大正一四年一〇月
    商科大学創立五十周年祝典に会して
                      青淵先生
      一
 私共の受けた教育なるものは悉く漢籍による支那の学問であつた。実際旧幕時代には漢籍が教育の全部の如く信じられて居たから、江戸は勿論地方に於ても、教育のある人とは漢籍の出来る人の事で、先づ四書五経によつて、修身、斉家、治国、平天下の四大眼目を学び、これによつて世に立たねばならぬとされたもので、君主に仕へるに就ても、社会、朋友と接するに就ても、地方政治に携はるに就ても、結局は天下を平かにすると云ふ処にあつた。従つて政治教育は相当段階のあらいものではあつたけれども兎に角皆受けたことは受けた。然し科学的教育、例へば物理とか、化学とかは官にも下々にもとんと左様なものは見出せなかつた。たゞ医学とか天文、地理、歴史は多少あつたが、それとても漢学で、何れも治国平天下用であつた。また一人一個の教としては六芸たる礼、楽、射、御、書、数か学ぶべきものとされてあつたに過ぎないのである。故に農、工、商等に従事する者には教育が甚だ振はず、「塵劫記」と云ふ本に依つて算術の初歩を学び、商人は「商売往来」のみをよむと云ふやうな有様であつた。そしてまた支配階級である武士は生産殖利のことは何等自身に心配せず、人の作つたものを頭から徴収すればよいのが封建時代の制度であつた。牛の肉を得るのによい食物を与へてふとらすことをせず、自然に出来た肉を取つて食ふと云ふ行り方であつて、政治の方から生産力を養はしめることはなかつた。其処で左う云ふ教育もなかつた訳である。
 私共は斯様な幕府時代に成長したから、今から考へてしみしみあの時分の人々はあれ位の教育程度でよく安心して居られたものであると思ふ。私は何時も云ふやうに攘夷論者の一人であつたから、外国の事情は余り重んぜなかつた。食はず嫌で外国を嫌つて居たのである。が併し医術のみは馬鹿に出来ぬと思つて居た。即ち当時私は自分の行往座臥[行住坐臥]には五倫五常の教へを守らねばならないけれど、医術のみは西洋の技術が格別に進んで居て、耆婆扁鵲流では駄目である。其例は種痘の如き、また人の体格の研究の如き、皆向ふの方が偉いと思つて居たこの感想は一ツ橋に仕へる以前に抱いて居たのであるが、廿五歳の時一ツ橋の家臣となり、自身の身柄に一転機を見た。屡々云ふやうに一ツ橋家は幕府の厄介になつている家柄で実力がない、領分はあつたが軍備なども名のみで、主公のお身を守る位に過ぎず、殆んど武力はなかつたのである。然るに時勢の変化につれ、一ツ橋公は京都守衛総督となつた、守護職に会津の松平容保が就いた、その上役であつて、将軍の名代として公武の間を斡旋する調停役のやうなものになられたのである。であるから武備なくては一日も其の任務は尽すことが出来ない。然るに軍隊は前に述べた通り、弓矢刀槍程度の然も僅かな数であつて本式の軍隊なるものは西洋式は勿論日本式のものもない有様であ
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つた。私は新参者ではあつたけれど頻りに此点の不備を当路の人々に非難し「如何に物が判らぬとしても神様のお札では火は消せない事ぐらゐは判らう、御守衛総督を軍隊なくしてやらうとするのは当路者の考へ違ひである、すは事の起つたと云ふ時にはどうするか、その時を支へるだけの武備でも整へて置かねばなるまい」と主張した。当時の用人は黒川嘉兵衛氏で、私共の意見に直ちに賛成した。尤も私共が一ツ橋に仕へたのは、平岡円四郎氏の手からであるが、平岡氏は其前年凶刃に仆れて居たのである。偖其事を黒川氏の執成で慶喜公にも申上げた処「然らば如何にして兵備を整へるか」と仰せられたので、先づ歩兵を組立てる必要がある。それには領分から希望者を募集すればよいと云ふことを御答し、御許を得て愈々実行するに決つたのであつた私はこの軍隊のことも医術と同様、西洋式にせねばならぬと深く考へて居た。斯う云ふと私は大変智恵があつたやうに聞えるが、決してさう云ふ訳ではなく、只攘夷論者としては多少先見の明があつたと云へやうか。そして智恵の少い私に色々のことが出来たのは、それから二年ばかり過ぎて仏国へ民部公子のお伴として渡航することになり、仏国其他を視た為と云ふてよいと思ふ。欧羅巴へ行つて見ると、社会の有様が全然異つて居り、商工業の如き大に進んで学理も緻密になつて居る。殊に機械工場や、兵器工場を、仏国・英国・伊国等で見ては驚くことのみであつた。実際私は之等の事は殆んど知らなかつたから、見るもの聞くもの驚歎の種ならぬはなかつたのである、中にも鉄に関する工業の発展振りには感心し、その必要の観念を力強く引起した。また一面日本に於ける商工業の力が真に乏しいと切実に思つたのである。そして予定の学問は出来ないで帰国したが、兎に角実地の有様を見て私の信念はその時から商工業を以て国を富ませ、商工業の地位を引上げやう、従来の如き有様では残念である、いや斯の如きは国家の為めでないと云ふに定つた。其後一時大蔵省へ出たが、それは色々の事情の為めであつて、間もなく大蔵卿井上さんの辞職が断行され、私も断然たる行動に出でて、実業に従事すると云ふ素志を達する第一歩に踏み出したのであつた。
      二
 当時森有礼氏は米国在勤の領事か何かの職にあつたが、米国での実業教育が旺んであるのを見て、日本にも是非同様のビジネス・スクールを建て度いとて、東京府知事であつた大久保一翁氏に助力を頼んで来た。処が大久保氏は結構なことであるから助けたいとは思ふが東京府には資金がない、然し何とかし度いと種々考へた末、その昔白河楽翁公が江戸の人達に節倹を勧めて貯蓄した金が共有金と云ふ名称で残つて居る、それを用ひてはどうであらうかと、共有金の取締をして居た私に相談があつた。私は予て実業教育の必要を感じて居たので、森氏の説に応じた方がよいとして、直ちに関係者の会議を開いて皆に同意させた。その際商業教育に経験あるホイツニーと云ふ教師を雇うことにして、学校の費用は一万円位入用であると云ふことであつたから共有金の内から八千円ばかり出して助力することにした。其処で森氏は自分からも一万円程出して木挽町に「商法講習所」と云ふ小さい学
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校を建てて一年ばかり経営して居た、処が森氏が公使として支那へ行くことになつたから、学校の世話が出来なくなるので、後を誰がやるかと云ふことが問題となり、また私に相談があり遂に府のものとして経営することにし、更に共有金の内から資金を支出して維持するやうに話が纏つた。これは明治八年頃のことである。其後商法会議所が明治十一年に出来たので、費用は共有金から支出し、経営の大体は府でやるけれど、直接の世話は商法会議所でやることになつた。私共は教育には緑の遠い方であるから十分に自分の思ふ通りにも行かなかつたが、その教育は教員の人々に聞いて見ると、中々学理的で昔の商売往来などとは格段の差がある。私には教育方面の素養がないので、之を如何に進めるかと云ふ方針は立たないけれど、更に然るべき人を頼んで大いに進めて行かねばならぬと思ひ、またそれだけ国家は此方面に力を致さなければならぬと考へながら、なほ商法講習所として経営して居たのである。然るに明治十五年頃、府会が「商法講習所」は府で経営する必要はないと云ふことを決議した。時の府知事は芳川顕正氏の兼任であつたと思ふが、府の方では斯くて学校を三菱へやると云ふのであつた。当時三菱会社は海運を一手に引受けて勢力を張つて居たと云ふのは明治七年の台湾征伐とか明治十年の西南戦争等に沢山の船を必要として、政府は三菱の厄介になることが多く、又政府も之に力を致したから自然さうなつた訳で、経済上のことは何んでも三菱と云ふ有様であつた。それを妬むではないが斯様なことは頗る面白くないことであると、私も人も感じて居た際とて、勢ひ私共と三菱とはその時分反目の形にあつた。従つて私は学校を三菱へやらうとすることは以ての外であると反対し、暫定的に農商務省で経営維持し、後独立させる要があるとて、基金募集を初め三万円ばかりを集め漸くにして学校を継続することになつた。さうして居る内森有礼氏が明治廿一・二年頃文部大臣となり、十年前の縁故があるので、学校をそのまゝにして置くことは出来ないとて、直ちに文部省の直轄とし、高等商業学校と改称した。そして大学とは別途の官立学校として相当の施設を為すことが出来るやうになつたのである。即ち明治七年頃森有礼氏が商法講習所として創立し、明治十一年頃東京府の経営に移り、明治十四・五年頃まで商法会議所の世話で維持し、次で明治十六・七年頃から農商務省で管理せられ、下つて明治廿一・二年頃官立となり.高等商業学校としてその基礎を固めた、これが即ち東京商科大学の古い大体の歴史である。蓋し社会の進むにつれて商業教育の必要が認められ、斯の如くこの学校をして発展せしめたのである。
      三
 私は商業教育が大いに進まなければ商人の考へ方が旧式で、金さへ儲けるならばよいと云ふ域を出でないであらう、それでは困つたものであると考へ、新らしい商業教育の必要を痛感し、工科大学があるから、商科大学が出来てもよい筈である、また出来ない筈はないと考へて居た。商業には商業地理もあれば、商業歴史もある、広い意味から科学も経済も商と云へぬことはあるまい、商人にも高尚な意見がなければならぬ、士農工商などと一番後へ置かれる様では困ると考へて居
 - 第44巻 p.305 -ページ画像 
た。殊に此感を強めたのは、過日商科大学創立五十周年祝賀の祝詞中でも云つた通り、私が丁度東京市瓦斯局の事業経営を委嘱せられて居た時のことであるが、瓦斯局の技師は仏人でペルゲレンと云つた。私は之を日本人技師と取代へやうとして、日本人で此方面の技術の出来る人をと物色した末、帝国大学応用化学科出身の人を高松豊吉氏の世話で入れる事になり本人も応諾した。然るに其人が「今後瓦斯局の経営はどうなるか」と云ふから「民間の事業として経営する筈である」と答へた処「左様ですか、それでは折角入社のお約束をしましたが私はよします」と云ふから「何故か」と聞くと「私の学問したのは名誉を得たいからである、民業には名誉はありません、従つて民業に従事すると云ふことは、私の学問をした趣旨に反しますから御断り致します」と云ふ。実に意外なことを聞くものであると思つたから、私が十年ばかり前大蔵省に居り、やがては大蔵卿にも成れるのをよして、民間の事業に携つて居る理由などを懇々と話し、其の意を翻へさせやうとしたが「貴方はそうであるかも知れませんが私達はさうは思はぬ、貴方は変り者である」と云つて中々聞かない。私はこれだから商業教育が必要であると強く感じた。これは単に此人のみの話ではなく、当時一般に斯様な考への者が多く、商業は蔑視せられ勝であつたのである。私は斯様なことがあればある程、教育の力に依つて商業を尊敬せしめる様にせねばならぬ、との感が強くなつて来た。勢ひ帝国大学には各種の学部があるに拘らず、商科大学なるものはないから、之を設置する要がありとして色々に心配し、それには東京高等商業学校を大学に昇格したらよいと思ひ、各方面の人々に此事の主張を為した。処が之には高等商業学校に力を致した人々の中にまで反対者があつた、中にも益田孝氏など最も有力なる反対説で「商人は意張つてはならぬのに学問を尊重すると気位が高くなる弊がある、然るに高い商業教育は此傾向を助長するだらう、商人に虚名はなくてよいではないか」と云ふ一応尤もな説である。併し私は之に反対で「商人には見識が必要である、舜も人なり我も人なり、と云ふ考へがあつてこそ発達して行く、踏みにぢられても得をすればよいではいけない」と唱へ商人も負けぬ気の強い、耐忍力も奮発力もある様でなくてはならぬ、理由のないのに人に一歩譲るやうでは困る。経済、理財は決して卑下すべきものでない、一国の政治に付ても国民が財政に付て理解する所がなければその財政を整へることさへ出来なくなる、又兵備も理財なくては行へぬ訳である。大分古い例ではあるが、彼の大閤秀吉が小田原征伐をやつた時、大軍が押寄せるので関東地方の米の値段が高くならねばよいがと心配して居た、然るに徳川家康は早く既に米価騰貴を察知して関西から大量の米を輸送して来たので却つて米価が低下したといふことが外史にある。昔の名将は斯かる点にまで明かであつたのである。故に重要な生産殖利を蔑視するのは間違つてゐると私は当初から信じて居たので、老人としては私がいはゆる第一線に立つて高等商業学校の大学昇格を主張し且つ其実現に努力した、又高等商業学校の出身者である成瀬隆蔵氏も私と同説であつたから、学校卒業生として之れに活動し、一般の気勢を強めた。然るに文部大臣小松原英太郎氏などは
 - 第44巻 p.306 -ページ画像 
商科大学必要論に対し、帝国大学の方に法科の一部として商科大学を置き、一ツ橋の方は高等商業学校のまゝで置かうとしたから、学生が之に対し大反対運動を起し、彼の明治四十二年の大騒動となつた。私はその時米国へ行く前であつたが、半月ばかり善後策の為め大いに奔走した。それから数年にして大学昇格と決せられ、東京高等商業学校はこゝに商科大学となつて今日に及んだので、此間五十年を経過し過般五十周年の祝典が挙行せられたのである。
      四
 斯様に私は東京商科大学に対しては相当の丹精をしたのであるが、その効空しからず、現在の盛大さを示したので真に歓喜に堪へないのである。当日は病後のことゝて演説が出来ぬから祝辞を草し、敬三に代読させた。(青淵先生説話集参照)○前掲祝辞ト同ジそれから成瀬隆蔵氏が卒業生総代として祝辞を述べられたが、其時此大学に関する議論のあつたことを思ひ出し、感慨無量であつたから、演壇に立ち出で「老人では私、卒業生側では成瀬君が大いに協力して大学説を主張しました、今日の盛大な祝典に大学となつた此学校の講堂に斯うして会するのは実に何とも云へず嬉しい、此喜ばしさをこめて此処で両人が握手をします」と云つて二人で握手した程である。従つて当日出席して居た人人は病人の私が押して出席したと云ふので、非常に喜んでくれ、翌日は佐野学長がわざわざお礼と見舞とを兼て来訪され
 「学生が是非今日子爵の処へお見舞に行つてくれと頻りに申出ました、私は是非お礼に出なければならぬと思つて居るから必ず伺ふと申して玆に参つたのでありますが、斯様な次第で今日は私一人で参つたのではありません、このお礼とお見舞の言葉は学校全体の意志でありますから、そのお積りでお受け下さい」
とのことであつた。これにつけても思ひ合されるのは、当日講堂を出ると学生が全部校庭に集つて如何にも嬉し相に私の自動車を中心にして拍手したり、敬礼をしたりして居たことである。其処で商科大学の発展に就て私がその功を専らにする意味でこれを話すのではないが、この学校の五十周年祝典に会したので、それに就ての話を思ひ出したまゝ此処に話した次第である。(十月二日談話)


中外商業新報 第一四二〇五号大正一四年九月一五日 開校五十年にして今日の一大学府 子爵渋沢栄一氏談(DK440068k-0005)
第44巻 p.306-307 ページ画像

中外商業新報 第一四二〇五号大正一四年九月一五日
    開校五十年にして今日の一大学府
                子爵 渋沢栄一氏談
 渋沢子爵はなほ病臥中のことゝて訪問した記者は遺憾ながら会見するを得なかつたが、何分商科大学と子爵とは創立当時から深い関係があるので、取次の人を通じてその感想を請うた処左の如く語つた
東京商科大学は明治八年森有礼氏が米国に行つてその地のビヂネス・スクールが非常に発達してゐるのを見て、日本にも是非かやうな学校を起したいといふので創立されたもので、当時商法講習所といつた、そしてその創立費用も少かつたゝめ、かの白河楽翁公が市民に節約を勧めて積立てられてゐた共有金の内から若干金を支出したもので、私はその金の保管を引受けてゐた一人であつたから、自然それに関係す
 - 第44巻 p.307 -ページ画像 
るやうになつた、また私としても実業界に身を投じた以上、日本に実業教育を振興せしめねばならぬと信じてゐたから、森氏が支那に全権公使となつて赴いた後府立となつた時など、同所委員の一人として経営の相談に与つた、その後農商務省に移管せられ、また森氏が文部大臣になつてから文部省へ移されなどしたが、次で高等商業となり、商科大学となり、兎に角開校後五十年にして今日の如き一つの大学府となつたのである、洵に同学のためには日本国家のためにも欣喜に堪えない次第である


如水会々報 第二六号・第七〇―七五頁大正一四年一〇月 母黌創立五十周年記念同窓有志晩餐会(DK440068k-0006)
第44巻 p.307-309 ページ画像

如水会々報 第二六号・第七〇―七五頁大正一四年一〇月
    ○母黌創立五十周年記念同窓有志晩餐会
母黌創立五十周年の祝典は、既に母黌に於て頗る盛大に挙行せられたることは別項詳記の通りなるが、此の祝典は出身者に取りては洵に千歳一遇の慶事たるを以て、更に同窓有志の催しとして特に一大祝杯を傾けんとの意味に於て、其の翌二十三日午後五時半より、帝国ホテルに於て、同窓有志晩餐会の開催あり。当日は斯る意義ある会合なりしを以て、東西各地より遠来の同窓者も尠からず、其の参加者の数実に二百七十八名の多きに達し、往年の大阪大会に次げる一大会合たりしなり。先づ出席各位の氏名を列挙すれば左の如し。
   ○氏名略ス。
是れより当夜の実況を速記録を以て紹介すれば、則ち以下の如し。但し速記訳文は専ら編者の校正に係るものなれば文責全然編者に在り。
                       九月二十三日
      ○              成瀬隆蔵君
 諸君、例に依りまして私より一言申上げます、今日は斯くお目出度い席に、殆ど滅多にお目に懸らないお方も大分お顔が見える真に愉快に堪へない、斯の如く御多人数がお寄合になりました時に於ては、商科大学が今日までに発展した其前はどうあつたかと云ふ古い事を御話をしたく存じます、然るに私が述べました後で各地からの祝電の朗読があり、或は又神戸の高等商業学校の代表者の御祝辞があり、それから此中の雄弁家が十数人五分間演説をなさると云ふことで、して見ますと下手な私が長らく述べて居ると云ふやうなことは甚だ妨げでございますから止めます、併し唯一言皆様にお諮りをしたいことがある。
 申す迄もなく母校を今日までになし来つたには功労者が大分あります、非常に我々が感謝して居る方がかれこれあります、就中今日まで御存生で、尚ほ力を尽して居られる所の渋沢子爵は非常な功労者であります、十二年でございました時に、商法講習所の経費を半減した時に、其半分は先生が主として他に醵金を募つて平日の通りに補つたと云ふやうなことでございます、それから其翌年は却つて経費が非常に殖えましてございますが、其次には廃校するといふことになりました其時の渋沢君は実にうまいものでございまして、幾らかの高の金は私が出すことを御請合をする、其以上は他に謀つて出し得るだけを醵金しやうと何をしやうと、斯う云ふ場合に至つては教員諸君が続いてやつて下さると云ふ考へが無くては迚も続いてはいかぬことであるから
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して、之を強ひる訳にはいかぬ、全く教員諸君の考へに任せる、但し私共はどうかして此学校は維持したく思ふのだ、万々さう思ふ、けれども決して強ひないからどうぞ御熟考下さるやうにしたい、斯う云ふことを矢野校長を通して申出られました、それに付ては、大分劇的のこともございますけれどもそれ等は略します、それで私立として既に東京府へ教員連名で願書を出した後に、農商務省からの補助で再興をするやうになりました、是等は全く渋沢子爵の力、我々も、渋沢子爵が若しお前達がやらぬければ、銭を払つて居る間はやる、銭が無ければやらぬなんと云ふことは怪しからぬぢやないかと云ふことを一面では言はれたのであります。我々はまだ至つて弱年でありましたから世の中から恩沢を受けぬ奴であるだから社会に尽す義務はない、社会から恩沢を被つて居る奴のやる仕事であると云ふやうなことを言ひかねないのでありますけれども、そこをどうもうまくやられた、うまくぢやない先生の真意である、さう云ふやうなことで今日迄に至つたのでございます、そこでそんなやうな関係からして胸像が出来て居つたのが、震火災で痛んで仕舞ひましたけれども、是は如水会でもつて再び拵へられることゝ思ひます、昨日も病中で医者は断然お止しなさいと云つて止めたんだそうでございます、然るに先生はどうかして行きたい、今のやうな関係があるものでございますからどうも落著いて居ることが出来ない、そこで頻りに出やうとするものでございますから、医者も若し強ひて止めたら、俺はもういけないと思ひはしないか、さう云ふ感を与へるよりいつそ出した方が宜からう位のことで出したのださうでございます、さうして昨日お出になつた御方は御承知でございませうが、あの通り一言されて、お孫さんが祝辞を郎読されて、頻に私に向つて握手をなすつた、さう云ふやうな感じを今日尚ほ有つて居られる御方でありますからして、御同様に何か先生の為にしたいものだと云ふ考へがあるのでございます、先生は富其他総ての事を有つて居る人なんであるから、我々がどんな大した事をした所が差したる感じもないと思ふ、そこで唯多勢の出身者が集つて斯う云ふことをしたと云ふ感じを与へたらよくないかと云ふ御説が大分出まして、それを皆様に御諮りをして見たらどうか、之には委員を拵へて、委員の御方に総てを御任せするが宜いか、唯成るべく人数を少くして何事をするにも金が要る、金は要るが其金を多く出さないで、五円とか何とか低い高をきめて、さうしてどうするが宜からうと云ふやうなことは委員に任せたら宜からう、そんなやうなことも御諮りをしたらどうか学校の方でも何か考へがあるかも知れない、学校学生にはどう云ふ考へがあるかも知れないが、愈々の運びに至つたらそれ等と聯絡がつく方が宜いか、付けぬ方が宜いか、事実一緒になるかならぬかと云ふやうなことは別問題として、御同様出身者で一人五円位を醵出して、成るべく多くの人が集つて出して、それを委員に任せて、最も適当な方法で子爵に献ずることにしたら宜い、即ち物になりますから何になりますか、最も子爵の満足をされるやうな方法を執りたいものだ、斯う云ふ御説が彼れ此れございます、そこで皆様にお諮りをして幸に御同意を得れば一つ委員を選定するのは如水会の方でそれぞれどなたに願つ
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たら宜からうと云ふ考へも付いて居る、何人設けるが宜しいか、それ等もお任せして頂いて、御同意下されば洵に幸ひだと存じます、それだけを私からお諮りをして、今日は下手な長談義はやめる事に致します。(拍手)皆さん如何でございます。
  〔「賛成々々の」声と共に拍手起る〕
 それは洵に有難うございます、彼れ此れ心配されて居られる御方は嘸ぞ満足されることゝ思ひます、必しも五円と決めなくても宜からうと思ひます、或は最高五円としてそれぞれ適宜に出金すると云ふやうなことになつても宜らうと思はれます、それ等も委員のお考へに……どなたが委員になられるか知れませぬが、委員のお考へに任せたいと思ひます、どうぞさう御承知を願ひます。(拍手)