デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
3款 神戸高等商業学校
■綱文

第44巻 p.400-404(DK440080k) ページ画像

明治43年4月23日(1910年)

是日栄一、関西旅行ノ途次、当校ヲ訪レ、生徒ニ対シ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK440080k-0001)
第44巻 p.400 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年         (渋沢子爵家所蔵)
四月二十三日 曇 軽暖
○上略 十時半再ヒ梅田ニ帰リ、夫ヨリ神戸行ノ汽車ニ搭ス、十一時半神戸第一銀行支店ニ抵リ、店員ト会話シ且午餐ス、畢テ高等商業学校ニ抵リ、学生ニ対シテ一場ノ演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第二六四号・第五一頁 明治四三年五月 ○青淵先生関西紀行(続)(DK440080k-0002)
第44巻 p.400 ページ画像

竜門雑誌 第二六四号・第五一頁 明治四三年五月
    ○青淵先生関西紀行(続)
△二十三日 ○四月(土曜日)
○上略 午後二時半神戸高等商業学校に到り、同校講堂にて職員生徒一同に向ひ約一時間に亘る演説をなせり、(演説欄参照)
○下略


竜門雑誌 第二六四号・第二四―三〇頁 明治四三年五月 ○神戸高等商業学校に於て 青淵先生(DK440080k-0003)
第44巻 p.400-404 ページ画像

竜門雑誌 第二六四号・第二四―三〇頁 明治四三年五月
    ○神戸高等商業学校に於て
                     青淵先生
  左の演説は「青淵先生関西紀行」にもある如く、四月二十三日神戸高等商業学校の請に応じ、同校生徒の為めに講話せられたる筆記なり
只今玆でお若い皆様とお目にかゝるのは愉快に思ふのであります。水島校長からお話しの通り、私は今度大坂迄来たのでありましたが、序に当校に来て何かの話をする様にと、長い且厚い御懇意の水島校長の御懇請があつたので、只今参つたのですが、考へて見ると今日は土曜で早く御休になるべきのを只今まで永く御待せ致したのは、誠に御気の毒に思ふのであります。
併し私は腹案を持つて来た訳ではありませぬ、只諸君の参考になれかしと思ふまゝに雑感を述ぶることゝ致します、故に話に系統なく不順序に陥ることがあらうかと思ひます。
私は去年アメリカ旅行を致しました、前後四ケ月に捗つて海陸二万一千哩を通過し、其間五十三の都会を視察しました様な大旅行を致しました、旅行中には大学も見た、中学も見た、実業学校も見た、孤児院の様な特殊教育も見た。
さうして是等の教育の状況はといふと地方により科目により、夫々異つて居る特長を持つて居るのが見える、だが概して見た所教育の意義が日本と異る所があるやうに思うた、此異なる点に就ては、学ぶ人も教へる人も十分に考ふべき事だと思ふ。
 - 第44巻 p.401 -ページ画像 
総じて米国では私設の学校が頗る繁昌して居る、政府や州や市が設立したものは第二流第三流のもので、却て私設学校に劣つて居る、此原因はと云ふと、私設のものが財源豊富だからであらう、例へばシカゴ大学の如きはロツクフエラー等の巨額の醵金がある、こんなに資金の豊富な学校には、善い校長も善い教員も聘用して置くことが出来る、詰り才学のある人物を任用することが出来るから、自然に私設の方が設置万端行届くことになるのである、従て学校の資格も第一流の地位を占める、之に反して官公立の方は資金の自由が左程に行かぬ所から第二流第三流に落ちて来るのであらうと思はれる、実例を挙げて見ると、米国の大学中で、其名の高いハーバードやエール、コロネル、シカゴ、ウヰスコンシンなど、何れも国立でも州立でもない。
日本だとて富国となるときにはさうなるだらうが、併し之は永遠を期すべき事で、ロツクフエラーの醵金弐千万弗といふやうな、そんな金を我が邦で見るのは急に出来難いことである、だから此点を外にして急に学び易い点に就て注意すべきであらう。
尤も私等の視察はそんなに細かな点にまで及んで居ない。故に話が自然概論になる、併し視察の不足は深く咎めて貰うては困る、実際に於ける視察の状況はといふと、例へば神戸の様な一市に朝九時頃着したと仮定する、さうすると九時半頃迄に朝飯を済せる、夫れが済むと市長やら知事やらに会見する、挨拶がある、終ると直に水道・公園・店舗(例へばデパートメント・ストアの如き)等に案内される、神戸でいふと須磨辺までも自動車で案内される、軈て一ノ谷辺で午餐会がある、午後は学校に行く、大勢の客が大勢の主人に引廻される、其主客が一々細かな質問や答弁を遣つて居ることは迚も出来ることで無い、斯んな訳だから見る所は多かつたが、観察の細かなることは望まれない、自然皮想的の観察に陥ることもあらう、是も事情已むを得ないのである。
さて此の様な皮想的観察で以て彼の教育と我のと比較して見ると、日本では其教育法がどうも鋳形詰になつて居る、科目が多過ぎて居る、従て卒業が遅くなる、加ふるに日本人は六十以上になると衰へるのだから、三十歳で卒業する人は働き時が僅に三十年しか無い、是が若し二十で卒業せらるゝものであつて、私の様な七十歳まで働かるれば、五十年間もある、三十年間と五十年間とは六と十との比例である、日本人の働き得べき力の上に、六が十となり得べしとすれば、夫こそ大変な差が起る訳である。
尤も教育の当局者に聞いて見ると、日本人には特に漢籍といふ障害物がある、更に語源を異にする外国語がある、漢籍も一種の外国語である、こんなに外国語の数種に日本人は苦心せねばならぬから、欧米人のやうに教育年限を縮め難いと言はれる、成程是も一説である。だから私は出来るだけ科目を減じたいと思ふのである。又さうした方が却て自修の観念が多くなるであらうかと思ふのだ、けれども之は私の今主論とすべき点でない、尚是以上日本の教育風が米国のそれに学ぶべき点があると思ふのである、それは日本では学問上はかうだが事実はかうだと、其処に学問と事実との区別がある。米国には此区別は無い
 - 第44巻 p.402 -ページ画像 
此区別がない様にならねば教育は其発達を示したものとは言へない。どうも学問が事実と一致しない、即ち其間に区別があるといふことは学問が生学問になつて居るからだ、生煮えになつて居るからだ、生煮えだ又生学問だといふのは、畢竟学問が齟嚼されないからである、齟嚼されないから消化されない、従て吸収されない、滋養にならない、こんなでは大層な先生が、折角勤労せられても功が挙らない訳だから誠に遺憾至極である、だから教へらるゝものはどうしても、生学問をしない様にせねばならぬ。
種々に比較して見ると、学問の活用には日本人がどうも負けて居る、法律の上に見ても、日本では人間が法律に使はれて居る傾が見える、火災予防法の実行の如き又銀行の信用を保つ方法の如き、規則は堅く守らねばならないが、元来規則を守るといふことも其度程を過ぎては所謂柱に膠して瑟を弾ずるので、学問が不消化に且つ常識に外れるから此の弊に陥るのだ、学問倒れをするのである、人格が進み常識が発達すればこんな学問倒れがない事になる。
尤も米人の仕事は大胆で突飛で、日本人とは正反対なことがある、日本人は常に謙徳を守るのに、彼れ米人は反対に自己を吹聴するに勉める。だから自分の店は米国一だ、此工場は世界一だなどといふ説明に出逢つた事が甚だ多い、極端なものになるとチツポケな市の人が其市を誇らんが為めに、我市は人間が少いけれども其割に仕事が多い、是が他に類がないことだなどゝいふ、又或る処で瘋癲病院に往つて見ると是が米国第一の瘋癲病院だと説いて居る、考へ様に依ると何だか瘋癲の多いのが自慢の種になつて居る様にもある、或は又亭主が其細君を天下一の美人と紹介するもあれば、細君が其夫を押除けて喋舌るのもある。こんなに随分甚しいのがある、謙徳は何処に在るのか分らぬ程突飛で大胆である、私は是等が皆日本人の学ぶべき長所であると言ふのではない、けれども是等米人の学問に関する注意は甚だ良好だと称賛するを憚らない。
第二に米人が突飛で大胆であるに反して学問を重ずることは大に日本人と異つて居る、彼等は学理を重んずるが故に、深く量り遠く慮りて事物を処理して居る、是れ米国の駸々として進む所以である、之に反して生学問をしてヘボ見識に満足すれば、却つて之が進運を阻害することになる、かうなつては折角学問しても父兄教員及び自分の勤労に報ひない結果に陥つて仕まう、だから学問はなるべく能く消化するやうに注意して、所謂学問負けをせぬ様にせねばならない、又学問の進歩と共に人格常識を並行して進歩せしめねばならぬ。
第三には私が老人丈けに老人相当の昔の教育状況を申上げて見よう、一体日本の御一新前の有様を見るに、五・六百人も集る程の学問組織は無かつた、一般人の普通教育としては村の御寺様にイロハ位を教はるであつた、又商業教育としては商売往来を教はる位である、商売往来は今日の皆様には一日で全く呑込めるものだ、私も其当時三・四日位で学んだ、此外には商人として何も学問は習はない商売人は極下等の人間でよいとしたものだ、「売据を唐様で書く三代目」の川柳の通り、商売人で漢学などして唐様の文字などを習ふやうでは、軈て売屋
 - 第44巻 p.403 -ページ画像 
敷の張札を書くやうに、却て家運を傾覆するとしたものであつた、斯く漢学は商人に取つては亡家の具であると認められたが、学問は全然社会から捨てられたのではない、士族以上の人は漢学をした、併し又学問といつて只文字のみを習つたといふのではない、六芸を習ふのである、即ち礼・楽・射・御・書・数といつて礼儀作法をはじめ種々の事を修業したものだ、ナゼ士族以上の人は学問をするかといふと、人を治むるに入用であるからだ、商売人に学問の入らぬのは治むることが無くて只治めらるゝに止るからだ、人を治めるとなると昔でも学問を要したものだ。
殊に維新の政変に際して社会にありて嶄然頭角を露したのは、皆学問した士分以上の人である、特に故人今人の名を挙ぐるも憚り多いが木戸とか大久保とか伊藤とか山県とか大山・松方とかの諸公は皆其人である、処が学問特に人を治むる所の政事の学問をした人が、政変以来政権の枢軸を握られて、威権赫々たるものがあるので、夫からは天下靡然として政治学を研究した、今から三十年前には商業学をするものはない、凡そ世の中の事はマニラの富札、競馬の籖などに当るものがあると、我も我もと真似るものが生ずる、と同じやうに誰も彼も皆役人となるを目的として世間の人が学問した。
然るに、世は政事家のみで発達するものではない、之よりも尊重すべき実業が進んで、前者を凌駕するやうにならねば国家は発達するものでない、当時私等は斯く主唱した、政事家も亦之に賛成することゝなつた。
其後世態は大に移り変り、愈実業家の世になりて種々なる経済団体、法人組織等が出来る、其社長や頭取抔が馬車にも乗る、栄燿をするものもある、斯うなると世人の目が、政府や役人を離れて法人とか会社とかの方に向つて来る、実業教育の学校にも立派な青年が年々益々殖える。
所が今度は卒業生の売口に困る、実業界も多々益々収容し尽すといふ訳には行かぬ、校長さんが売つて廻つても、売口が減少すると買手が見くびつてかゝる様な状況も生じて来る、従て学校が多過ぎるとか卒業生の生産過多とか、種々の説も沸いて来る、併し私の考では是が畢竟学ぶ人が企望を誤つたのでこんな現象を呈したのであらう。
元来学問は己の為にするのである、自己の一家を治むるに、学問があるのと無いのとは大に違ふ、だから学問する、詰り自家を善く斉へ修むる為めに学問するといふので無ければならぬ、此心ありて学問すれば他に売る必要はない、校長をして売らしむるにも及ばない、昔の弊は役人とならうと思ふて学問するのであつた、今の弊は法人に使はれようと思ふて学問するのである、願くは使役さるゝ為に学ぶことなく自分の為めにする学問にして、校長をして売らしめないやうに考を付けて貰ひたい。
今一ツ学問する人の為めに心得方を申上げよう、水戸義公の訓戒中に「主と親とは無理なるものと知れ」といふ語がある、善い教訓だと思ふ。
元来職業といふものは、人が与へるものでなくて己が取るのである、
 - 第44巻 p.404 -ページ画像 
強奪するのでは無いけれども又紙に糊付けて貼りつけるやうにするのでもない、丁度磁石が物を吸寄せる様に行かなければならぬ、古人の帝舜に対する形容にも「所居成聚、二年成邑、三年成都」といふことがある、之は古聖人が自ら人を吸寄せたのだ、「あいつは出来るから遣らせろ」といふ、遣らせるには他人がするのだが、出来るのは自分がするのだ、自分がする其事が、他人をして自ら遣らせることゝなるのである。
所が世間を見ると学生から就職して事務を執る方では、学問のない課長には閉口だとか、主人が目が見えぬから困るとか言つて頻りにコボす、すると主人たり課長たる方からはあいつはブツブツ理屈ばかり言つて仕事が出来ぬからといふて仕事を任せない、斯様な事情の下に己が職業を満足に引受けることは迚も六つかしい、之に反して主人や課長は初めから無理をいふものとして措いて、扨其職業は与へらるゝのではなく、自ら取るのだと思うて熱心誠実に事に当つたならば、自然に成蹟も挙つて来る、重用せられて来る、勢力が付く、富貴が増して来るのである、斯んなに勢力富貴などと言ふと或は道徳上に障害があるやうにも思はれるが決してさうでない、「君子本立而道生」である「子貢曰、如有博施於民、而能済衆、何如、可謂仁乎。子曰、何事於仁、必也聖乎」熱心誠実に業務をとり其成蹟も挙り、博く施し能く済はゞ仁ともなり聖ともなる、仁には必ずしも慾得離れたものでない、又利用厚生と別なものでもない、だから青年が世に出でたならば無理と思ふ処にも孝悌の心を以て勤勉しなければならぬ、希望が嘱せらるれば其人には自ら富貴勢力が附くのである。
諸君の中には近々に学成りて社会に出る人もあらう、又学成る迄に間がある人もあらう、けれども何れにしても将来実業界の為に尽す人である、考へて見ると今日まで私等のした実業界の開拓は荒こなしに過ぎぬ、是からの人々が二代・三代で立派に後の事を遣つて呉れるのである、諸君は其後事を為すべき善き孽であると思ふと私は実に喜に堪えぬ、真に諸君を思ひ愛するの余り如上の言を述べたのである、中には無理な注文もあるかも知れないが、所謂主と親とは無理なるものと知れば夫も承知が出来ることであらうと思ふ。(了)