デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
10款 東京高等蚕糸学校
■綱文

第44巻 p.477-478(DK440103k) ページ画像

大正5年10月29日(1916年)

是日、当校創立第三十年記念式挙行セラル。栄一之ニ臨ミ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK440103k-0001)
第44巻 p.477 ページ画像

集会日時通知表 大正五年        (渋沢子爵家所蔵)
十月廿九日 日 午前十時 高等蚕糸学校記念式


中外商業新報 第一〇九七六号大正五年一〇月三〇日 ○高等蚕糸学校記念式(DK440103k-0002)
第44巻 p.477 ページ画像

中外商業新報 第一〇九七六号大正五年一〇月三〇日
    ○高等蚕糸学校記念式
府下西ケ原なる東京高等蚕糸学校にては二十九日午前十時より創立三十年記念式を挙げたり、折柄雨天なりしも裏手広場に天幕を張り定刻一同着席するや君が代の奏楽に次で本多校長の式辞、寺内首相の祝辞(代読)、岡田文相の祝辞、仲小路農相の祝辞(代読)、後藤内相の祝辞(代読)、山川帝国大学総長、大日本蚕糸会会頭清浦子爵、渋沢男其他の祝辞あり、続いて三十年勤続の同校農夫初鹿野米吉及額田勝五郎の表彰式あり、同校生徒の校歌合唱ありて正午式を終り、午餐の後一同協賛会の主催に係る展覧会を一覧して午後二時頃散会せり


蚕糸学校 第一巻第三号大正五年一一月 東京高等蚕糸学校創立三十年記念式 【渋沢男爵演説の大要】(DK440103k-0003)
第44巻 p.477-478 ページ画像

蚕糸学校 第一巻第三号大正五年一一月
    ○東京高等蚕糸学校創立三十年記念式
○上略
      渋沢男爵演説の大要
 閣下校長並に臨場の淑女紳士諸君、私も此式に列する光栄を担ふに当り一言お喜び申述べたいと思ふ、然し玆に祝辞を文章として持参せなんだのは甚だ失礼であるが、私は此の機会に際し寧ろ祝辞より一場
 - 第44巻 p.478 -ページ画像 
の昔語りを陳べんが為に参りました、我蚕糸業今日の有様は実に盛んなものでありますが、本校創立当時の三十年以前はドウであつたか、更に溯つて明治初年の状態は果してドウであつたかと考へると、実に微々たるものであつた、斯くこの微々たる当時の蚕業が今日の大を致したのは丁度細い流が相合して大河を形作り、小さな二葉が遂に大木となつたと同じ様に考へられる、過ぎし昔を繰り返すのを老の繰言とか往事逐ふ可らずなどゝ却ける人もあるが、これは徒に昔に執着してクヨクヨするなと云ふことで、古い昔を偲ぶのが則ち新なることを知る唯一の道である、孔子も温古知新と云はれた位である。
 私は今此の学校の盛典を祝するに際して、明治当初の規模不完全なりし昔を述べるのも穴勝ち無用のことのみでもあるまい、自分は玆で祝辞を呈する資格がないかも知れぬが、両隣に住んで居る関係から云はゞ御近所交際の意味から申述やうと思ふのである。私も既に事業界を退き老境頽齢に達したが、今日まで農工商の三つに対し聊か微力を尽して来たのである、その農工時代に於ける当時蚕業の不振なる際に一・二の斯業に尽力した先覚の事蹟を述べて昔を偲ぶ一端と致したいと思ふ。
 私の郷里は此処から二十里許の処で埼玉県の蚕の本場と迄は行かぬが、その附近には群馬の島村が在る為めに蚕業には親み深い土地であつた、其処に私の叔父に当る渋沢宗助と云ふ人物があつて、丁度安政二年今より六十一年前に養蚕手引抄と云ふ本を著して居る、勿論今日から見れば組織的でなく万事不完全極るものであるが、この小なる流が今日の盛況の淵源をなして居るとも云ふことが出来るであらう、此の意味からして斯る一小冊子も昔を偲ぶ材料の一となつて居る、これをこの機会に於て本日校長に呈したいと思ふ、又我蚕糸業今日の隆盛は唯春蚕計りによつて成し就けられたものではなく、実に秋蚕に負ふ所が少なくないのである、我国土、我気候と秋蚕は如何に適合して居るか、同じ年に二度三度の飼育が出来、同じ蚕室で二度三度の収獲がある、桑と秋蚕の関係はこれを秋蚕に用ゐたらば春季の収葉の減少するのは事実であるが、これを按配調和すれば立派に経済的に行へる、此の秋蚕の功労者に関して一寸申述べて置きたいことがある、今はあれ程盛況を呈せる秋蚕も其の昔を尋ねれば明治七・八年頃に始まつて居る、私の従兄に尾高藍香と云ふ人物があつたが、此の藍香は秋蚕に対して頗る辛酸を嘗めて居る、彼は当時富岡製糸場の経営者であつたが、この秋蚕奨励の為め時の政府の秋蚕禁止の方法に背馳し、偶譴責を蒙るに立ち到つた、然しその熱烈なる秋蚕鼓吹の精神は益々熾烈で遂に今日隆盛の素地を作つたのである、玆にその遺子尾高次郎から寄せた秋蚕奨励の事蹟を携へ来たからこれも校長に呈したいと思ふ、玆に渋沢宗助と尾高藍香の六十年前、或は四十年前の事蹟を述べたのは如何にも我親戚の功労を説いて、自家の為めにせんとするやうであるが、実は温古知新の一端に寄与せんとする意味に他ならぬのであります。