デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
11款 東京高等工業学校手島工業教育資金団
■綱文

第44巻 p.493-497(DK440109k) ページ画像

大正10年5月26日(1921年)

是ヨリ先、大正八年一月故手島精一ノ一周忌ニ際シ銅像建設ノ議決セラル。是日、当校校庭ニ於テ
 - 第44巻 p.494 -ページ画像 
除幕式挙行セラル。栄一之ニ臨ミ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一〇年(DK440109k-0001)
第44巻 p.494 ページ画像

集会日時通知表 大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
五月二十六日 木 午前八時半 故手島校長銅像除幕式(高等工業学校)


竜門雑誌 第三九七号・第六五頁大正一〇年六月 故手島精一氏銅像除幕式(DK440109k-0002)
第44巻 p.494 ページ画像

竜門雑誌 第三九七号・第六五頁大正一〇年六月
○故手島精一氏銅像除幕式 東京高等工業学校にては五月廿六日午前八時より故手島校長銅像除幕式を挙行せられしが、当日は青淵先生にも出席せられたる由。


中外商業新報 第一二六四二号大正一〇年五月二七日 蔵前賑ふ高工の記念日 手島氏銅像除幕(DK440109k-0003)
第44巻 p.494 ページ画像

中外商業新報 第一二六四二号大正一〇年五月二七日
    蔵前賑ふ高工の記念日
      手島氏銅像除幕
年中行事の一となつてゐる蔵前高等工業の記念日は廿六日から三日間催される、第一日は特に招待した学校関係者や工業関係者や卒業生のみで二十七日・二十八日の両日は
 入場券 を持つてゐる一般の人に縦覧を許すことになつて居る、それでも学校の附近は夥しい人で混雑してゐる、門前には各科の受付があつて学生諸君は応接に忙しい、午前八時から多年同校に功労のあつた故校長手島精一氏の銅像除幕式があり、渋沢子・後藤男・知事代理其他知名の士多数出席して
 晴やか に式があつた、先づ応用化学教室では機械を動かして石鹸香水・人造樟脳等の製造を実地に見せて観客非常に喜こんでゐる、それから紡織科の木綿毛織物作業、染色科のホツプ皮革の染色、木綿物の型置実演、建築科の耐震耐火家屋の模型、窯業科の陶器・硝子器の製造方等何れも
 興味が 深い、外庭には各科の即売店が年来の評判で其界隈の雑沓は一通りでない、電化工場や機械工場は観覧者が少い方であつたが、電気工場では自動車や電車モーター等の動力の説明に相当に見物を集めてゐた


手島精一先生伝 手島工業教育資金団著 第一三三―一三七頁昭和四年八月刊(DK440109k-0004)
第44巻 p.494-496 ページ画像

手島精一先生伝 手島工業教育資金団著 第一三三―一三七頁昭和四年八月刊
 ○第二篇 第三章 第二節 東京高等工業学校
    三十八歳より六十八歳に至る
○上略
 大正八年、先生逝去の一周忌を機として、東京高等工業学校関係者及卒業者等によつて、先生の銅像を建設する企てがあり、越えて十年五月二十六日、東京高等工業学校創立第三十回の紀念日に、その除幕式が挙げられたのであります。これは先生の謦咳に接した程の人が追慕の熱情が溢れて、企てられたのであつて、先生が工業教育に関し、偉大なる功業を建てられたることに、如何に多くの人々の敬慕欽仰する所となられたかを証するに足るのであります。而して建設の位置を東京高等工業学校の本館直前に選んだのは、国家に対する功業を紀念
 - 第44巻 p.495 -ページ画像 
し、併せてその人格を、永遠に象徴せんが為めであるといはねばなりませぬ。
 銅像建設委員の一人、登阪秀興氏の報告に
  「故手島先生銅像建設の事たる大正八年一月先生の一周忌会に端を発し、阪田校長以下各科長、及出身者等三十六名の発起に始り、乃ち其趣旨書を学校関係者、並に出身者に頒ちて賛成を求め、爾来資金の醵集を図ると共に、建設の位置を選定し、且つ銅像に就ては之を指名競技に附し、慎重審査の結果、原型製作、及台石の考案据付を沼田一雄氏に托し、津田信夫氏鋳造のことを担任し、以て其工を竣れり。而してこの挙を賛して、資金を醵出せられし者、二千九百七十二人、この金額一万八千七百十円四十五銭を計上し、今日迄に支出せし経費、金一万六千二百六十九円六十四銭なりとす。尚、未支出に関する諸経費を精算し、残額は之を母校たる高等工業学校に委托して、将来に於けるこれが維持費に充てんとす。右の如くにして銅像建設の事業終り、その顛末を報告するに至るを得しは、吾等委員の深く欣幸とする所なり」
とありまして、銅像建設に至る経過が知られるのであります。尚ほ銅像建設委員総代大石鍈吉氏の除幕式の式辞、及銅像裏面の銘記は、左に記す通りであります。
  故東京高等工業学校長正三位勲一等手島精一先生の銅像建設の工を竣へ、本日を以て其の除幕式を挙行す、惟ふに先生は我邦工業教育界の先覚者にして明治維新の当初夙に世界の大勢に鑑み、富国の基は一に工業の振興に在るを首唱し、明治二十三年母校長に任に就き爾来身を終るまで斯界に尽されたる功績は既に世の周知する所なり、今日世人が封建の因襲的思想より目覚め、工業立国の要を的確に知得するに至れるは畢竟其の時代進運の然らしむる所と雖も、抑も亦先生か名聞利達を外にして一生を工業教育の普及振興に委ねられし賜ものにあらずんばあらず、今や先生の銅像新に成り、母校創立第四十一回記念日を以て其除幕式を挙ぐるに会す、惟ふに先生の我邦工業教育に尽されし偉績は、其穆々たる温容と共に永く不朽に伝るべきを信ず、聊か所懐を叙して式辞と為す。
    銘記
  東京高等工業学校長手島先生銅像
 先生名精一、菊間藩士、明治初遊学欧美、研鑽多年、帰来首唱富国之基在於工業、明治二十三年任本校長、経営拮据念有七年、不求名利以養人材興工業為楽、功績昭著世、推為斯界泰斗、学徒之視先生如其父母、今玆故旧門生胥謀、鋳模懿範、建之校庭、略存典型、以伝不朽
 大正十年辛酉五月
 かくして先生の銅像は、蔵前の東京高等工業学校の校庭に建設されたのであるが、大正十二年の関東大震災は、先生の苦心経営の結晶たる蔵前の校舎設備を烏有に帰せしめた結果、東京高等工業学校は、東京市外千足池の畔り大岡山に移転し、且つ先生の在世中より企図せられた所謂昇格問題が実現することゝなつて、昭和四年四月より東京工
 - 第44巻 p.496 -ページ画像 
業大学となるに至つたから、先生の銅像も亦、従つて新設の東京工業大学の校庭に移されるのであります。


向上 第一五巻第七号・第七〇頁 大正一〇年七月 △故手島先生銅像除幕式(DK440109k-0005)
第44巻 p.496 ページ画像

向上 第一五巻第七号・第七〇頁大正一〇年七月
    △故手島先生銅像除幕式
 我が工業教育界の大功労者であり、本団○修養団の大恩人であつた故手島精一先生の銅像除幕式は初夏の微風が青葉を渡る五月廿六日午前八時より行はれた。未亡人の手によつて綱がスルスルと曳かれると、椅子に倚つて笑めるが如き先生の像が朝日にキラキラと照らされた。渋沢子爵は像を仰ぎ仰ぎ感慨に堪へぬ如く語られた。委員の報告などあつて会は閉ぢられたが、先生の像は蔵前健児を諭すが如く温顔を永久に向けられて居る。


向上 第一五巻第八号・第三八―三九頁大正一〇年八月 融通のきく人格者 故手島精一先生 子爵渋沢栄一(DK440109k-0006)
第44巻 p.496-467 ページ画像

向上 第一五巻第八号・第三八―三九頁大正一〇年八月
    融通のきく人格者
      ==故手島精一先生==
                    子爵 渋沢栄一
 日本が世界の列強と仲間になつて行くには、怎うしても商工業、即ち実業の方面を進めねばならぬと確く考へましたのは、私が幕末に欧洲に参つてあちらの事情を親しく視察することが出来ましてから後のことであります。維新後日本に帰朝してしばらく政府の役人をして居りましたが、明治六年野に下つて多年心懸けてゐた、実業界に入りました。
 其後四十余年の間、微力ながらこの方面に聊か尽したつもりであります。故手島先生が実業界の一方面である工業界の進歩発達を計らんが為めに、工業教育の方面に早くから力を尽されて居りました。我国の今日の工業界が、先生に負ふ事はどれだけ大きいか知れないのであります。
斯様な風に私は一般の実業界に、故先生は工業教育の方面に尽力されて、両者の志す方面が同一であつたため、屡々お逢ひする機会がありまして、其の中にお互に性質も知り合ひ、私は先生の高潔なお人柄をお慕ひ致し、先生の方でも私如き者を可愛がつて下さつたので至極懇親な交際を続けてゐたのであります。
 先生は確か私よりも八・九歳お年下と記憶しますが、そのお若い先生の方が先きに逝かれ、老いた私の方が後に残り、その銅像除幕式に参列いたし、古い友人の一人として私が此処に立つといふ事は、私自身には長生きして芽出度い様でもありますが、心中感慨に堪へない次第であります。
 或る時、東京の瓦斯会社で先生に社長になつて戴き度いといふので私がその交渉方を頼まれて先生にお話し申上げた事がありました。先生は「飽くまで工業教育者として終りたいから」と断然之を刎ね付けられたのであります。交渉に行つた私は却つて先生の高潔な堅固なお人柄に痛く感激させられて帰つた事がありました。
 斯様に先生は物慾に迷はされぬ、極めて高潔な方であつたのであり
 - 第44巻 p.497 -ページ画像 
ます。が、私が更に先生に感服いたしますのは、啻に高潔なお人柄といふばかりでなく、又一方面に於て極く解りのいい融通の利くお人であつた事であります。
 世間の所謂人格者と言はれる人は兎もすると、潔いばかりで融通がきかず頑固に陥り易いものでありますのが、先生は人格者であつて、且つ極めて解りのよい融通の利いたといふ方面をも備へられてゐた人であります。
 私の多年関係致して居ります修養団は、社会の浮薄な気風と戦つて質実な気風を養はんと流汗鍛錬・同胞相愛・献身報国を主義として主張して居る団体であります。この修養団の事務所を何処かに作らねばならぬといふので、その土地を所々方々に探して居たのであります。先生はその事情を聞かれて、予ねてから修養団に共鳴して居られたのですが、何とか自分も骨折らうといふので、高等学校の土地を高等工業学校の方に譲つて貰つて、その土地を無償で修養団に貸与致されました。今日の修養団本部及び其れに附属して居る第二向上舎のある土地がそれであります。
 官立学校の校長として、一私設の団体にその土地を無償で貸し渡すといふやうな事は、到底尋常一様の人で出来る事ではないのであります。此の一事を考へても、先生が一面人格者で、一面融通の利く而かも善いと信じた事に就ては、断行する力に富んだ人であつたといふ事を知る事が出来るのであります。
 斯様に力を尽して下さつた修養団も其後幸に堅実な発展を致して参り、今日では全国に共鳴の同志七万人を有し、各方面から其の質実真摯な精神を認められるやうになつて来たのであります。
 之は一に先生の御尽力の賜であると、関係者の一人である私として深く感謝に堪へぬ次第であります。
 先生の御尽力された工業界は時勢の要求に伴れて益々発展し、又修養団も斯くの如き現状であるといふ事を地下の先生がお知り下すつたならば、定めし御満足下さる事と考へる次第であります。
 今生けるが如き先生の御像を仰ぎまして、感慨無量のあまり平素先生についてお慕ひしてゐる一端を述べます。