デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
13款 財団法人東京育英実業学校
■綱文

第44巻 p.502-505(DK440114k) ページ画像

大正8年12月20日(1919年)

是ヨリ先、大正三年十一月、粕谷義三郎、東京市外代々木ニ東京育英実務学校ヲ創設ス。大正七年三月、中島力造・本多静六等ヲ介シ栄一ニ助力ヲ乞フ。栄一当校設立ノ趣旨ニ賛シ、維持費トシテ金千円ヲ寄付ス。更ニ是日栄一、当校ノタメニ資金勧募ノ計ヲ立テ、金千円ヲ寄付ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK440114k-0001)
第44巻 p.502 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十九日 寒強シ 少ク曇ルモ雨ニ至ラス
○上略
午前諸井恒平氏来リ煉瓦会社ノ事ヲ談ス、粕谷氏ヨリ申出タル学校補助ノ事ヲ協議ス


渋沢栄一 日記 大正八年(DK440114k-0002)
第44巻 p.502 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
五月十四日 晴 軽寒
○上略 粕谷義三郎氏来リ学校増設ノ事ヲ談ス○下略


粕谷義三郎談話筆記(DK440114k-0003)
第44巻 p.502-503 ページ画像

粕谷義三郎談話筆記             (財団法人竜門社所蔵)
                   昭和十二年九月十八日聴取
    育英実務学校ト栄一トノ関係
子爵トノ関係ハ大正七年頃ニ始マル。当時子爵ニ御目ニ掛ラウトシテモ仲々御目ニ掛レズ、文学博士中島力造氏ニ骨折ツテ頂キヤツト御目ニ掛ル事ガ出来寄付金ノ件ニ就キ御願シタ。其後暫クシテ此学校ノ建築ガ始マツタガ、中途ニ於テ資金ガ欠乏シテ来タノデ、林学博士本多静六氏ニ御心配ヲ願ツテ、是マデノ御援助者ニ現場ヲ見テ頂クコトニシテ、本多博士名義デ子爵外大勢ノ方ニ手紙ヲ差上ゲタ。所ガ失望シタコトニハ当日本多博士ト子爵トシカ御見エニナラナカツタ。タメニ皆様ニ集ツテ頂イテ御相談シヨウトシタ計画ハ水泡ニ帰シタワケデアル。然シ他ノ人ハ来ナイノニ子爵ノミガココマデ御出デ下サツタコトニハ此上ナク有難ク感ジタ。コレハ大正八年十月ノコトデアル。其後御礼ヲ兼ネテ依頼ノ手紙ヲ出シタラ御直筆ノ御返書ヲ頂イタ(大正八年十月十八日附)。其ノ内容ハ依頼ノ件ハ困難ダラウトイフコトデアツタ。其後暫クシテ本多博士ト諸井恒平氏ト御二人カラ、日本煉瓦会社ノ事務所ヘ来テ呉レトノ御話ガアツタノデ早速伺ツタラ、ドウモ学校経営ノ問題ハ至難ナ故、学校ノ方ハ断念シテ寄宿寮ノ如キモノヲ経営シタラ如何デアラウカ。ソレモ社会ノ要求シテヰルコトダカラ宜イデアラウトイフ意味ノ御勧告ガアツタ。然シ私ハ骨ガ折レテモヤハリ初志ヲ貫徹シタイト述ベテ別レタ。
其後方々御願シタ結果兜町ノ事務所デ皆様ニ御目ニ掛ツタ(大正八年
 - 第44巻 p.503 -ページ画像 
十二月初旬カ)。其ノ結果子爵カラソレデハ自分ノ名義デ依頼状(後出)ヲ出サウ、ソレニ就テハ本多博士ヲ教務顧問ニ渋谷正吉・諸井恒平・渡辺得男ノ三氏ヲ会計顧問ニスルコトニシヨウト言ハレテ、子爵ガ依頼状ヲ書イテ下サツタノデアル(依頼状ノ日附ハ大正八年十二月二十日)。
是ハ余談デアルガ、其後子爵ニ御目ニ掛ツタラ、「某日依頼状ヲ書イタ時ハ病床ノ中デ書イタノデヨク推敲シタ積リデアル」ト其ノ日附ヲヨク覚エテ居ラレタノデ、何日頃デアツタカ忘レテ居タ自分ハ非常ニ恐縮シタコトガアル。
其他ニ本多博士ノ御口添ヘガアツテ指田義雄氏ガ一万円ヲ寄附シテ下サツタノデ漸ク校舎ハ出来上ツタ。新校舎・雨天体操場・寄宿舎等ハ他ノ方面カラ御援助ヲ願ツテ出来タガ、勿論子爵カラモ御助力ヲ賜ツテヰル。
子爵ハ何分御多忙ナ方ダツタノデ御目ニ掛ル機会モ多クナカツタ。最後ハ子爵ニ此ノ学校ニ掲ゲテアル額ヲ書イテ頂イタコトデアルガ、自分ハ御願ハ致シタモノノ、当時揮毫申込ハ何千ト溜ツテヰタト言フカラ何時貰ヘルダラウカト内心心配シテヰタ所、子爵カラ一寸来ルヨウニトノ御手紙ヲ頂イタノデ伺ツタラ、額ガ出来テ居ルカラト言ハレタノデ大変ニ喜ンダコトガアルガ、是ハ子爵ガ教育ニ就テ特ニ深イ御関心ヲ持ツテ居ラレタ例証ノ一ツデアラウ。
   ○当校ハ東京育英実業学校ノ前身ナリ。


渋沢栄一書翰 粕谷義三郎宛(大正八年)一〇月一八日(DK440114k-0004)
第44巻 p.503 ページ画像

渋沢栄一書翰 粕谷義三郎宛(大正八年)一〇月一八日 (粕谷義三郎氏所蔵)
御細書拝見来示一応御尤と存候点も有之候得共、全体之御企望ニ於て老生ハ頗る困難事と思惟仕候、昨日本多博士御意見之如く或る有力者単独ニ引受呉候ハヽ好都合なるも、目下一寸其人ありとも申上兼候様被存候、去り迚後援会を組織いたし候も巨額之募集ハ如何哉と存候、殊ニ其維持ニ付而も充分之予算相立申間敷、旁以容易ニ加名候人さへ無之哉と存候、兎ニ角尚本多博士其他之諸氏と協議ハ尽し可申候も向後之成行如何相成申歟と懸念不少候、依而今朝も電話ニて其段博士へ申通置候、御伝聞被下候事と存候、右貴酬まて匆々如此御坐候 敬具
  十月十八日
                      渋沢栄一
    粕谷義三郎様
        拝復
   ○右ハ前掲「粕谷義三郎談話筆記」中ニアル大正八年十月十八日付ノ栄一返書ナリ。


粕谷義三郎氏所蔵文書(DK440114k-0005)
第44巻 p.503-504 ページ画像

粕谷義三郎氏所蔵文書
拝啓、益々御清適奉賀候、然ハ粕谷義三郎氏創設之私立育英実務学校付ニ而ハ先般御同様相共ニ其趣旨ヲ賛成シ、応分之寄附金致し候処、同氏は無謀にも学校之拡張を計るに急なる為め、資金の出処をも考慮せすして校舎を新築し、既に其落成に近きも資財不足之趣にて過般来毎度来訪懇請の次第も有之、殊に去る十月中本多博士之通知によりて
 - 第44巻 p.504 -ページ画像 
老生も実地に臨み、校舎建築之現況熟覧いたし候へとも、其規模計画等全然資財との権衡を失し、如何にも惨情見るに忍ひさる有様に御座候、依而本多博士と再三討議致候も折角新築之校舎を此儘抛棄せしめ候も真に残酷之処置と存候間、御同様曩に寄附いたし候金額丈ケを此際更に醵出致し候ものと定め、其集金之範囲内を以て何とか節約之経営方法相立、本学校当初之目的を細々にも維持為致度と存候、就てハ何共恐縮之至に候へとも賢台に於ても金  円を再応御寄附被下候様願上候、右様御依頼申上候に付而ハ向後本学校教務之監督は本多博士に、又其経営に関する財務之取締方は渋谷正吉・諸井恒平・渡辺得男之三氏に御担当相願候筈に御座候、何卒本学校之現状と粕谷氏目下の境遇に御同情被下、既成之仏体に眼睛を点するの思召を以て如上之願意御採納相成候様懇祈仕候、右可得貴意如此御座候 敬具
                      渋沢栄一
          殿
 二申 老生当初之寄附金ハ千円に付此度更に同額之寄附いたし既に払込致候間為念此段申添候也
  一金   諸井恒平     一金   堀越角次郎
  一金   大川平三郎    一金   松本留吉
  一金   田中栄八郎    一金   内藤久寛
  一金   増田義一     一金   原六郎
  一金   小池国三     一金   神田鐳蔵
  一金   小倉房蔵     一金   成瀬正行
  一金   緒明圭蔵     一金   早川千吉郎
  一金   神谷伝兵衛    一金   服部金太郎
  一金   和田豊治     一金   大倉孫兵衛
  一金   滝沢吉三郎    一金   渋谷正吉
  一金   古賀春一
   ○右ハ前掲「粕谷義三郎談話筆記」中ニアル栄一ノ依頼状ナリ。


竜門雑誌 第三五八号・第九四頁大正七年三月 ○青淵先生と私立育英実務学校(DK440114k-0006)
第44巻 p.504-505 ページ画像

竜門雑誌 第三五八号・第九四頁大正七年三月
○青淵先生と私立育英実務学校 埼玉県選出代議士粕谷義三氏が府下代々木山谷に於て経営せられつゝある私立育英実務学校の教育方針には、青淵先生にも至極賛同の意を表せられ応分の援助をも与へらるゝ筈なりとて読売新聞(三月九日の同紙)の報ずる所は即ち左の如し。
    △生徒一人、教師一人の学校
  今回渋沢男を始め林伯爵・本多静六博士・小池国三・大川平三郎小倉房三の諸氏は代々木山谷なる私立育英実務学校を援助して其発展を企画する事となつた、之には一場の興味ある物語がある、昨年の夏本多博士が明治神宮造営工事の為め同校前を通行すると先生が一人に生徒が一人である、ツトと入つて校長粕谷義三君に会つて見ると彼は米国スタンフオード大学に遊び教育・文学を攻究して帰朝したが、日本の教育の形骸的に流れて居るのに慨嘆し、「人間を造り度い」――「今教へた学問が今直ちに応用出来るやうな教育を施して見度い」と同地に学校を建てたが、生徒募集の方法を知らず「百
 - 第44巻 p.505 -ページ画像 
人の骸骨を出すよりは一人の人間を出す事が愉快だ」と許り平然として一人の生徒に教へて居つたといふ、其近代稀なる風格に惚れ込み直ちに渋沢男に推挙し男の援助を受ける事となつたのだといふ。
   ○埼玉県選出代議士粕谷義三氏ノ経営トアルハ誤記ナラン。


竜門雑誌 第三七〇号・第七六頁大正八年三月 ○育英実務学校(DK440114k-0007)
第44巻 p.505 ページ画像

竜門雑誌 第三七〇号・第七六頁大正八年三月
○育英実務学校 健全なる人格教育と商工的能率増進の実務教育を施すべく、生徒二名、教師五名の奇観を呈しつゝ開校したる、既報府下代々木の育英実務学校(校長粕谷義三郎氏)は、其後青淵先生初め早川千吉郎・服部金太郎氏等の尽力により、新校舎建築に着手し、近く四月の新学期より百名の生徒を収容する由。