デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
16款 其他 13. 松山商業学校
■綱文

第44巻 p.545-549(DK440132k) ページ画像

大正4年10月1日(1915年)

是ヨリ先、栄一、第一銀行広島支店・同熊本支店開業式参列ノタメ西下ノ途次、山下亀三郎ノ懇請ニ依リ、是日松山市ニ到リ当校ヲ参観シ、終ツテ同市公会堂ニ於テ当校並ニ愛媛県立師範学校・同松山中学校・私立北予中学校・愛媛県立農業学校・松山市立工業徒弟学校ノ上級生徒及ビ職員等ニ対シ、講演ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK440132k-0001)
第44巻 p.545 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
十月一日 曇
○上略 八時過松山商業学校ニ於テ植樹シ、又来会ノ学生ニ一場ノ訓示ヲ為ス、十時公会堂ニ抵リ中学及師範学校生、農商学校生ノ会同ニ於テ教育ノ変遷ト題スル問題ニテ一場ノ講演ヲ為ス、聴集九百余名ナリ○下略


竜門雑誌 第三二九号・第六九―七〇頁大正四年一〇月 ○青淵先生西南紀行 随行員 白石喜太郎記(DK440132k-0002)
第44巻 p.545-546 ページ画像

竜門雑誌 第三二九号・第六九―七〇頁大正四年一〇月
    ○青淵先生西南紀行
                随行員 白石喜太郎記
  第一銀行に於て這般支店を広島・熊本両市に開設し、広島支店は十月二日に、熊本支店は同月四日に、其の披露の宴を夫々催す事
 - 第44巻 p.546 -ページ画像 
となりたるに付き先生には御渡米前殊に御多忙なるに拘らず、特に繰合せられ之に臨席の為西下せらるゝ事となれり。会ま予てより其顧問として尽力せられつゝある大阪市公会堂の定礎式が月の八日に挙行せらるゝ筈なりしを以て、帰途之に列席せられ、尚序を以て各地に於て明治神宮奉賛会に関する要務をも果さるゝ事とし、十月一日京を発し、同じく十一日御帰京の事に予定せらる。然るに出発の数日前山下亀三郎氏の懇請により途中松山市に立寄らるゝ事となり、為に出発の期を九月二十九日と変更せられたり余は幸に随て此行に在り、同日午前八時三十分出発せられてより十月十一日午後八時三十分帰京せらるる迄、前後十三日間常に先生の左右に侍するを得たり。依て其間見聞したる処の一班を録し玆に会員諸彦の劉覧に供ふ。
      一、梗概
九月二十九日 午前八時三十分発特別急行列車にて出発せられ、松山市へ東道の主人山下亀三郎氏同車せらる。午後九時十一分三ノ宮着、直に自動車にて西常盤に到り一泊せらる。
九月三十日 午前七時十九分三ノ宮発列車にて尾ノ道に向はる、山下氏及び杉田富氏同行せらる。午後零時三十二分尾ノ道着、山下氏が特に準備しありたる快走船紅葉丸に移乗せられ、直に出帆、航走四時間余にして午後五時四十分高浜着、伊予鉄道株式会社の好意により仕立られたる特別列車に搭乗せられ午後六時四十分松山着、直に県公会堂に於ける官民合同の歓迎会に臨席せられたる後、午後九時過道後に到り鮒屋旅館に投宿せらる。
十月一日 午前八時四十分旅館を出で伊予鉄道株式会社社長井上要氏の先導にて人力車を連ね道後公園を経て午前九時松山商業学校に到り記念植樹をせられたる上校庭に於て生徒に対し一場の訓諭あり、それより午前九時三十分よりの県公会堂に於ける中等諸学校生徒に対する講話、午前十時三十分よりの農工銀行楼上に於ける商工業者に対する講話をせられたる上、松山城天守閣に於ける各銀行会社聯合の午餐会に臨席せられ、記念撮影の上更に午後二時三十分より県公会堂に於て女学校及婦人会の為に講話せらる。午後三時四十分松山発列車にて高浜に向はれ午後四時十分同地着、直に紅葉丸に乗船出発せられ、午後八時三十分宇品着、出迎の西条峯三郎・松井万緑両氏の案内にて広島に到着、長沼旅館に投宿せらる。出発以来始終同行せられし山下氏は玆に袂を分ち即夜帰神せらる。
○下略


竜門雑誌 第三三〇号・第六三―六六頁大正四年一一月 青淵先生西南紀行 随行員 白石喜太郎記(DK440132k-0003)
第44巻 p.546-549 ページ画像

竜門雑誌 第三三〇号・第六三―六六頁大正四年一一月
    青淵先生西南紀行
               随行員 白石喜太郎記
      三、松山
○上略
        (二)講演より講演へ
腕車を連ねて松山商業学校に到れば、生徒等門前に堵列して出迎ふ。
 - 第44巻 p.547 -ページ画像 
先生には陶山校長の案内にて図書室を一覧せられ、記念として玄関脇に五葉松樹を植栽せられ、更に庭前に集れる生徒に対し一場の訓諭を与へられたる後、又車上の人となり県公会堂に向はる。
公会堂に到れば松山中学校・北予中学校・師範学校・農学校・商業学校並に工業徒弟学校等の上級生徒合計八百余名及主なる教員並に前田内務部長、三辺理事官、其他有志数十名既に着席して先生の来着をまてり、故に先生には直に会場に入られ、山路師範学校長の紹介にて演壇に立たれ、約一時間に亘り大要左の如き講演をせらる。
 余は今回斯る大講堂に於て斯の如く多数の学生諸君に向つて愚見を述ぶる事を得るは誠に欣喜の至である、余は元来学者でもなく、教育家でもなく、将又弁士でもない、然しながら、諸君は渋沢と云ふ老人が奔走し居る事を新聞等に於て知り、余の来松を機として面接し度いと思はるゝであらう、余も又機会ある毎に広く諸君に接して愚見を述ぶる事を喜ぶものである。
 さて維新以前の教育は極単純なものであつて大体二途に分れる、即ち一つは漢学と一つは普通の実業教育とであるが、実業教育の方面は殊に浅薄粗雑なもので、教ゆる所は商売往来・塵功記・名頭国尽の様なものが重なもので、稍進んで四書を学ぶ位のものであるから今日の実業教育に較べると気楽なものである、諸君が今日諸種の学科に苦しめらるゝのは生れ時が悪かつたと思つて諦めねばならない漢学の法は江戸に林家が主導者となつて居つた聖堂と云ふ大学が一つと其他は所々に私塾が在つた計りで、教ゆる所は所謂治国平天下の学で士太夫以上の者でなければ学ばなかつたのである。
 斯の如く学問は単純なものであつた上に国の政治は少数の家柄に限られ、商売の範囲と云へば日本の内に限られたのみならず、国々で出来る米の如きも其移出入は大名の手で行はれた、即ち政治の方で行はれたので商人と云へば単に其小売をするに留つたものであつた此時に当り我国は俄に外国と接せねばならぬ事となり、社会の状態を一変する事となつた、素より其初めは全国民挙つて外人を異端禽獣と罵つた、之れは専ら外国人は我国を犯すものと誤信したからで一般が外国を了解する迄には可なりの時日を要した、即ち嘉永六年初めてコンモドール・ペルリが浦賀に来てから後約二十年間に於ける我国の波瀾は一通りではなかつた、余の如きも此社会状態の動揺に依つて廿四歳で百姓を止め浪人になり、一橋の慶喜公の家来になり仏国に遊び、帰つてから駿河に謹慎せられてゐた慶喜公に従ひ一生を終る積りでいたが、明治二年政府の召に応じて六年迄役人生活を為し、其れが又々実業界に入るなど個人としても甚だしい境遇の変化を見た、此時期に於て西郷・木戸・岩倉等所謂明治の功臣は沢山あるが、慶喜公が何等の不平も弁明もなく恭順を致し、謹慎の態度を取つた消極的の功に至つては恐らく天下に一人の及ぶものがないと思ふ。
 それから孝明天皇に於かせられては極力攘夷の御方針で居らせられたが、明治天皇に於かせられては万機公論に決し広く智識を世に求めされられたので、教育の方面は此より一大変化を来し欧洲式の教
 - 第44巻 p.548 -ページ画像 
育方針が立つ事となつたのである、但し欧洲式と云ふも尚ほ其時の教育なる者は全く政治学であつた、即ち治めらるゝ者の学問でなくて人を治める学問であつた、之れは当時先づ何より先きに政治家を養成するの必要より起つたものであるが、当時新学問を治めた者の少い時に当り、之等の政治学を修めたものは皆々国家重要の位置に就く事が出来たので天下の人心は之を見て凡て政治学に志し、教育を授くる者も受くる者も未だ未だ被治者の学問又は実業教育と云ふ方面には気が付かなかつたのである、前述の如く実業教育が忘られて居た時に当り明治八年に森有礼氏が外国のビジネス・スクールに做ひ、東京に実業学校を建設したのは達見と云はねばなるまい、実際当時の傾向と云へば甚しい者で、今其一例を挙げて見ると当時東京瓦斯会社が未だ東京府経営の瓦斯局と云つた時、余は其局長を務めて居たが、技師としては仏人を頼んでいたのでどうか日本人に行らせ度いと思つて東京帝国大学の応用化学科を修めた者に交渉を初めた処、其人が直接自分の処に来て瓦斯局は将来如何になり行くだらうかと云ふ事を問ひ合せた、で自分は瓦斯局は目下東京府の経営であるが何時かは民業に移し度いものである、只今は試験中の事であるから止むを得ず府の力に依つて行つていると云ふ事を話すと、其者は民業に成るならばお断り申すと云つて交渉は不調に終つた、之は確かに明治十三年の頃だつたと思ふが、当時の思想は斯んな有様で大学と云へば役人か教師を作る処であると生徒も教授も考へて居たものである、誠に愚かな考へではないか。
 学問は役人や教師になる為めに修む可き者か、又は国民として修む可きものか、之れが判らないとは残念である、殊に実用を目的とする応用化学を修めたものが役人でなければ奉職せぬとは驚いた話ではないか、此の事に就いては当時余は大学の総裁であつた加藤弘之氏にも話した事であるが、当時の学生の傾向はザツと斯んなものであつた、それが明治二十年頃から段々と変つて来て教育と云ふものは政治や法律計りではない、実業教育も亦重んじなければならないと云ふ様になり、明治二十二年頃今の高等商業学校が文部省の直轄になつてから大に此方面の教育が盛になつたのであるが、此実業教育に就いても亦曩の政治教育に於けると同様の誤りがあると思ふ。即ち以前に学問と云へば政治と云ふ風であつたのは、其の初め政治を学んだものが学識と云ふよりも寧ろ人物の少かりし為めに悉く重要の位置を占めた為め、天下の人心は悉く政治学に向つたが、軈て人才の過剰の為めに多数の者は失望落胆の境に陥つたと同様、実業教育に於ても二十三年頃より諸種の事業が起り、殊に明治廿七・八年の日清戦役は事業の勃興前古其比を見ざる程であつたから此時実業教育を受けて居た者は悉く用ゐられ、諸種の会社の社長又は頭取となり、自働車で奔走する身分となつたが、其後此等社長や頭取を目当にして此方面の教育を受けて来たものゝ多くは今日は失望落胆の境に呻吟しているのである、斯の如くなつた理由は一つに教育を受くる者も其父兄も亦之を授くる者も、唯售れると云ふ方面計りを見て教育に従事した為めである。
 - 第44巻 p.549 -ページ画像 
 昔と較べると今の教育は大に権衡を得る様にはなつたが、それでも尚ほ尚ほ仕入れ向きに適せしめる為めに教育を受け又授けつゝあると思ふ、斯く云へばとて余は今日の教育其物を決して非難するものではない、凡ての方面に於て教育は何処迄も盛んならしむべしである、唯之を受くる者は自己の才と資力と並に世の変遷の有様に鑑みて学に志し、又之を授くる者も其考にて教育をしなければならないのである。
 終りに教育に依て智識の方面は大に進んでいるが精神の修養は頗る不充分である、此点に至ると昔の漢学の教育は至れり尽せりであつて武士道も之が為めに発揮され、維新当時の人は死を見る事帰するが如くであつたが、今や世をあげて功利に走り地位と富貴を得るものは其手段の如何に関せず世の尊敬を受くる世の中となり武士道も漸次消磨しつゝある、例へば智識と云ふ新しいものが注入された勢に依つて以前から在つた道徳が駆逐さるゝ観がある、斯くて個人の人格が零となる訳であるから青年諸氏に在つては充分此点に注意して貰ひたいものである。