デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.571-581(DK440140k) ページ画像

明治43年8月4日(1910年)

是日ヨリ同月十六日ニ至ル期間、当校ヘノ寄付金募集並ニ女子教育ノ必要ヲ説カンガタメ、栄一、当校校長成瀬仁蔵、当校評議員森村市左衛門等ト共ニ信越地方ニ旅行ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK440140k-0001)
第44巻 p.571-574 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年         (渋沢子爵家所蔵)
七月十五日 雨 暑
○上略成瀬仁蔵氏来話ス、近日信越地方旅行ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
八月四日 半晴 暑
午前六時起床入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、後旅装ヲ整ヘ、八時二十二分王子発ノ汽車ニ搭ス、信越地方ヲ巡回シテ女子教育ノ必要ヲ説キ、且女子大学ノ為寄附金勧募ヲ勉ムルニ在リ、王子ヨリ森村市左衛門・成瀬校長同行ス、十二時汽車中ニテ午飧シ、午後二時軽井沢ニ抵リ下車シ、先ツ三泉寮ニ於テ在学中ノ生徒ニ面会シ、且勉学ノ事ヲ訓示ス、又広岡夫人ノ寓居ヲ訪フ、後三笠ホテルニ抵リ、更ニ桂総理大臣ノ別業ヲ訪ヘ、種々ノ談話ヲ為シ、九時ホテルニ帰宿ス
○下略
八月五日 曇 冷
午前四時半起床、直ニ朝飧ヲ食ス、六時軽井沢ヲ発シ小諸・上田・長野等ヲ経テ北越ニ入ル、上田・長野ニハ女学生来リ迎フ、北越ニ入リテヨリ来リ迎フル者更ニ多シ、十二時柏崎ニ抵リ車ヲ下リ天京ト云フ旅亭ニテ午飧ス、松井・内藤・牧口其他多数ノ人士来リ迎フ、食後女子高等学校ヲ一覧ス、畢テ地方人士ノ催ス処ノ歓迎会ニ出席ス、一場ノ謝詞ヲ述フ、宴畢テ車ヲ馳テ鯨波ナル牧口義矩氏ノ別荘ニ抵リテ止宿ス
別荘ハ海ニ面スル断崖ノ上ニアリ、眺望佳絶ナリ、且主人能ク客ヲ遇シテ款待甚努ム
此日女学校ニテ揮毫ノ依頼アリ、十数枚ヲ書ス
八月六日 曇 冷
午前六時起床、朝飧後揮毫ノ請求ニ応シ十数枚ヲ認ム、九時過日本石
 - 第44巻 p.572 -ページ画像 
油会社ニ抵リテ工場ヲ一覧ス、内藤・松方及専任技師案内ス、畢テ天京旅亭ニ休憩ス、午飧後小学校ニ抵リ講演会ニ出席シ、女子教育ノ必要ニ付一場ノ演説ヲ為ス、畢テ汽車ニ搭シ四時頃長岡ニ着ス、来リ迎フ者頗ル多シ、若松亭ニ投宿ス、入浴後種々ノ来人ニ接シ、午後五時半六十九銀行ニ抵リ、行員ニ一場ノ訓示ヲ為ス、六時過長岡館ニ抵リ地方有志者ノ歓迎会ニ出席シ、経済ニ関スル一場ノ演説ヲ為ス、畢テ酒席ニ於テ数十人ノ献酬アリ、夜十一時散宴帰宿ス
八月七日 曇 暑
午前七時起床、昨夜少ク喘息ノ気アリシ為メ睡眠充分ナラス、朝来気色快然ナラス、朝飧後揮毫ヲ試ム、午前九時長岡座ニ抵リ新築ノ劇場ニ於テ女子教育奨励ノ演説ヲ為ス、来会者千余名、満場余地ナキニ至ル、講演畢リテ若松亭ニ帰リ、午飧後揮毫ニ努ム、又東京留守宅ニ一書ヲ発ス、種々ノ来人アリ、加茂石田氏来リ、明日同地ニテ経済談ヲ請ハル、午後六時ヨリ六十九銀行・宝田石油会社・長岡銀行等ノ催ニテ旅宿ニ於テ宴会アリ、来会者二十名余、饗応頗ル鄭重ナリ、種々ノ余興アリ、夜十時散会、十一時就寝ス
八月八日 晴 暑
午前六時起床、入浴シテ日記ヲ編成ス、又揮毫ヲ試ム、八時朝飧シ九時旅宿ヲ発ス、岸・松井・小畔其他諸氏来訪セラル、九時三十分長岡発ノ汽車ニテ十時半加茂ニ抵リテ下車ス、松井・長部・渡辺・今泉等ノ諸氏同車ス、加茂農林学校ニ於テ一場ノ経済演説ヲ為ス、蓋シ昨日来此地石田友蔵氏等ノ請求ニ応シタルナリ、畢テ学校ニテ午飧シ、一時三十七分発ノ汽車ニテ二時過新潟市ニ達ス、来リ迎フ者地方人士頗ル多シ、篠田旅館ニ投シ休息後数多ノ来訪客アリ、午後六時行形亭ニ開催セル地方人士ノ歓迎会ニ出席ス、開宴前一場ノ経済演説ヲ為ス、畢テ宴会アリ、来会者百余名、酒間一場ノ謝詞ヲ述ヘ、夜十時過帰宿十一時就寝ス
八月九日 曇 暑
午前六時起床先ツ入浴シ、畢テ新聞紙ヲ一読シ又日記ヲ編成ス、七時朝飧ヲ食ス、佐田左市氏等来訪ス、其他種々ノ来人アリ、午前九時新潟師範学校ニ抵リ講演会ヲ開ク、女子教育ノ必要ヲ種々ノ方面ヨリ説示ス、畢テ鍵富三作氏ノ招宴ニ応シテ行形亭ニ於テ午飧ス、後揮毫ヲ試ム、午後七時此地有志者ノ開催セル宴会ニ鍋茶屋ニ抵リ饗宴ヲ受ク銀行者悉ク来会ス、依テ公債証書ニ関スル近状ヲ説明ス、夜十時過散会帰宿ス、此夜女子大学ニ対スル寄附金ノ事ヲ鍵富・斎藤・白勢・桜井等ノ諸氏ニ依頼ス
八月十日 雨 冷
午前五時起床直ニ朝飧ヲ食シ、鍵富・佐田其他送別ノ為メ来訪セル人人ニ接ス、五時半篠田旅宿ヲ発シ、五十分新潟停車場ニ抵リ、市人士多数ノ送別ヲ受ケ直ニ発車シテ三条ニ抵リ下車ス、地方人多ク来リ迎フ衆楽館ニ於テ休憩ス、地方人ノ依頼ニヨリテ揮毫ス、九時過同地小学校ニ抵リ女子教育ニ関スル講演ヲ為ス、畢テ衆楽館ニ於テ午飧シ、且地方人士ノ開催ニ係ル歓迎会ニ出席ス一場ノ謝詞ヲ述フ、午後一時過発車ノ下列車ニテ新津ニ抵リ、菓城寺ト称スル寺院ニ於テ一場ノ講
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演ヲ為シ、時ニ風雨強クシテ同地ノ油田ヲ一覧スルヲ得ス、演説後少憩シテ五時過発ノ上リ列車ニテ出立ス、沿道三条及長岡・柏崎等ノ各駅ニ地方人出テ行ヲ送ラル、夜十時四十分高田ニ達ス高陽館ニ投宿ス
八月十一日 晴 冷
午前七時起床、髪ヲ理シ八時朝飧ヲ食ス、阿部中頸城郡長来話ス、新井幸吉氏来リ羽二重会社ノ景況ヲ説明ス、長岡銀行支店長来話ス、佐藤某来訪ス、成瀬・堤氏等来話《(塘)》ス、女子大学卒業生数名来訪、依テ将来ノ心掛ニ付テ種々ノ訓戒ヲ為ス、十二時半午飧ヲ食シ午後一時過ヨリ町内大漁座ニ抵リ実業者ノ道徳修養ニ関スル一場ノ講演ヲ為ス、畢テ羽二重会社ヲ一覧ス、新井幸吉氏ノ案内ニヨル、一覧畢テ金子水力電気会社取締役及新井氏等ト上越倶楽部ニ抵ル、今夕ノ歓迎会場ナリ午後七時ヨリ開会シ町長歓迎ノ辞アリ、依テ之ニ答ヘ且女子教育ニ関シテ各地講演セシ事、又ハ大学ノ内容等ヲ演説ス、此日会スル者約七八十人名、宴畢リテ十時帰寓ス
午前歩兵大佐堀内文次郎氏来訪、朝長岡師団長ヨリ来書アリ
八月十二日 晴 冷
午前五時半起床、長岡師団長ヘ昨日ノ返書ヲ作ル、七時朝飧ヲ食シ旅装ヲ理ス、八時前高陽館ヲ発シ停車場ニ抵リ、送別ノ為メ来レル数十人ニ謝意ヲ述ヘ八時十五分発車ス、十一時半長野ニ達ス、長野有志者停車場ニ迎フル者頗ル多シ、藤屋ニ投宿シテ午飧ス、午後二時城山館ニ抵リ、有志者ノ開催セル講演会場ニ於テ商工業ト教育トノ関係ニ付テ一場ノ演説ヲ為シ、畢テ更ニ同所ニ於テ有志者ノ催セル歓迎会ニ出席ス、謝詞トシテ一場ノ演説ヲ為シ、酒間種々ノ談話アリ、夜八時半帰宿ス
長野ニテハ大山知事始銀行者名誉職ノ人々多数来リ迎フ、大沢辰次郎飯島正治其他ノ諸氏周旋甚タ勉ム、講演後大学寄附金ノ事ヲ諸氏ニ依頼ス
朝阿部郡長ノ需ニ応シテ揮毫ス
八月十三日 曇 冷
午前六時起床、先ツ入浴シ畢テ昨夜大山知事ヨリノ来書ニ回答ヲ発ス
七時過朝飧ヲ食シ後来人ニ接ス、八時県吏前田氏等ノ案内ニテ善光寺ヲ参拝ス、又大勧進ニ抵リテ宝物ヲ一覧ス、畢テ旅宿ニ帰リ直ニ旅装ヲ整ヒ、十二時長野発ノ汽車ニ搭シテ上諏訪ニ赴ク、鉄道線路中姥捨ノ名所松本市等アリ、此道路ハ全ク初回ノ通行ニシテ見ル物皆目ヲ怡ハスノミ、午後五時過上諏訪ニ達ス、牡丹屋ニ投宿ス、諏訪ニ接近セル地方ハ有名ノ製糸業繁盛ノ地ニシテ比屋白壁粲然、戸々頗ル殷富ノ状アリ、蚕業ノ地方ヲ潤沢スル一見其概況ヲ知ルニ足ル
牡丹屋ニ藍田・股野氏来リ寓ス、又浜半別荘ニハ三島中洲翁モ来リテ股野氏ト共ニ観月ノ約アリト云フ
八月十四日 雨 冷
午前五時起床、直ニ朝飧ヲ食シテ旅装ヲ理シ牡丹屋ヲ発シ、六時上諏訪発ノ汽車ニテ九時頃韮崎ニ抵リ、鉄道線路損破ノ処アルニヨリ轎ヲ僦フテ塩川ノ橋梁ニ達スルモ、頃日来ノ洪水ニテ線路ハ破壊シ、橋梁ハ断落シ且濁流奔騰、小舟ニテ渡航スルハ頗ル危険ナルニヨリ、已ム
 - 第44巻 p.574 -ページ画像 
ヲ得ス更ニ上諏訪ニ帰リテ道路ノ改修ヲ待ツ事ト定メ、塩川ヨリ踵ヲ反シテ韮崎ニ抵リ午飧ス、食後二時発ノ汽車ニテ五時上諏訪ニ抵リ再ヒ牡丹屋ニ投宿ス、此夜紀料ヲ読ミ、日記ヲ編成シ僅ニ小閑ヲ偸スルヲ得タリ
八月十五日 晴夕雷雨 暑
午前六時半起床、温泉ニ浴シテ後朝飧シ、又髪ヲ理ス、朝来揮毫ノ需ニ応シテ十数枚ヲ書ス、此日ハ鉄道梗塞シテ当地滞留ノ筈ナレハ十時ヨリ小汽船ニテ湖水ヲ航シ下諏訪ニ抵リ、神社ヲ参拝シ、宝物ヲ一覧ス、三島中洲・股野・藍田・森村・成瀬其他同行ノ人随伴ス、松葉楼ニテ午飧ス、地方銀行者ヨリノ饗宴ニ係ル、席上各詩ヲ賦シ文ヲ論ス頗ル清興ナリ、宴散シテ又小舟ニテ湖水ヲ航シテ湊村ニ抵リ、浜半兵衛氏ノ涵秋楼ニ小憩ス、黄昏ニ至リ更ニ舟ヲ〓テ帰寓ス、六時頃ヨリ地方人士ノ需ニ応シテ学校ニ抵リテ実業ト教育ニ関スル一場ノ講演ヲ為ス、時ニ雷雨頻リニ至ル、夜ニ入リテ歇ム、八時頃帰宿夜飧ス
八月十六日 曇時々雨 冷
午前五時起床、直ニ朝飧シテ旅装ヲ理シ、牡丹屋ヲ発シ、上諏訪六時発ノ汽車ニテ八時半韮崎ニ抵ル、一昨日ノ洪水ハ大ニ減水シテ塩川ノ鉄道線路仮橋ニテ人ノ歩行ヲ便ス、徒歩数丁ニシテ汽車ニ搭シ竜王ヲ経テ甲府ニ抵ル、若尾氏令息及家人来リ迎フ、贈品アリ、十時過甲府ヲ発シ笹子ニテ線路破壊ノ処アリテ十数丁徒歩ス、後初狩大月間又多摩川鉄道等破壊ノ箇処アリテ、都合四度ノ徒歩スル処アリシモ午後七時過漸ク新宿ニ着スルヲ得タリ、新宿ニハ多人数来リ迎フル者アリ、夫ヨリ飯田町ニ抵リ馬車ニテ王子ニ帰宿セシハ九時過ナリキ


渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)七月一七日(DK440140k-0002)
第44巻 p.574 ページ画像

渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)七月一七日 (松井三郎氏所蔵)
拝啓益御清適奉賀候、然者此一書を以て御紹介申上候ハ東京女子大学之校長成瀬仁蔵と申人ニて、今般同学校之実況を越後地方へ御披露旁基金募集之事務を兼て罷出候ニ付、貴台ニハ特ニ御助力被成下候様御願申上候、右ニ付而ハ内藤久寛・山口達太郎氏等へも添書いたし候、又昨日当地ニて鍵富徳次郎氏来訪ニ付、右之段申談候処、鍵富氏之考ニてハ時節あしきニ付此際ハ見合候様と再三被申候得共、成瀬氏ニ於てハ是非学校之真想をも地方之諸彦へ詳細ニ申上其上幸ニ御同情を得候ニ於てハ幾分之御寄附も相願度ニ付、来月ニ入候而老生ニも出張候様切ニ依頼有之、当初より世話致来候学校ニも有之候旁老生も罷出、御懇親之方々へハ共ニ拝願之積ニ御坐候、就而ハ右等之都合をも成瀬氏より御聞取之上、可然御心配被下度候、新潟地方へハ前陳之如く鍵富氏へ依頼仕候ニ付、別ニ出状ハ不致候、是又成瀬氏と御打合之上、老生出張之際相応之応援を得候様前以御計画被成下度候、右添書と共ニ拝願仕候 匆々不一
  七月十七日
                       渋沢栄一
    松井吉太郎様
        梧下
   ○添書略ス。
 - 第44巻 p.575 -ページ画像 


竜門雑誌 第二六七号・第五四―五五頁明治四三年八月 ○青淵先生信越地方御旅行(DK440140k-0003)
第44巻 p.575-576 ページ画像

竜門雑誌 第二六七号・第五四―五五頁明治四三年八月
    ○青淵先生信越地方御旅行
青淵先生は、劇暑にも拘らず女子大学の要務を帯て森村市左衛門・成瀬仁蔵諸氏と与に四日午前八時五分上野発列車に便乗し信越地方に向はせられ、左の如き日取にて各地を巡回し、十六日午後八時飯田町に無事帰着直に飛鳥山邸へ帰館せられたり
  八月 四日午前八時五分   上野発
  同   日午後二時十四分  軽井沢着
  同  五日午前六時     同地発
  同   日午後一時二十七分 柏崎着
  同   日夜        有志家歓迎晩餐会
  同  六日午前九時まで   工場学校参観
  同   日同九時      講話会
  同   日午後一時三十七分 柏崎発
  同   日同二時五十九分  長岡着
  同   日夜        有志家歓迎晩餐会
  同  七日午前九時     講話会
  同   日夜        銀行会社有志者歓迎晩餐会
  同  八日午前九時十四分  長岡発
  同   日同十時二十五分  加茂着、講話会
  同   日午後一時三十五分 加茂発
  同   日同二時四十三分  新潟着
  同   日夜        有志家歓迎晩餐会
  同  九日午前九時     講話会
  同   日正午       鍵富氏開催午餐会銀行会社有志者歓迎晩餐会
  同  十日午前五時五十分  新潟発
  同   日同七時二十分   三条着
  同   日同九時      講話会
  同   日正午       有志者歓迎午餐会
  同   日午後一時十一分  三条発
  同   日同二時九分    新津着、講話会
  同   日同五時十三分   同地発
  同   日同十時四十六分  高田発
  同 十一日午後二時     講話会
  同   日同四時      工場参観
  同   日夜        有志者歓迎晩餐会
  同 十二日午前八時十五分  高田発
  同   日午前十一時二十分 長野着
  同   日午後一時     講話会
  同   日夜        有志者歓迎晩餐会
  同 十三日午後〇時十分   長野発
  同   日同五時二十二分  上諏訪着
  同 十四日         同地滞在
 - 第44巻 p.576 -ページ画像 
  八月十五日         同地滞在
  同 十六日午前六時     同地発
  同   日午後八時     飯田町着


竜門雑誌 第二六七号・第五五―五六頁明治四三年八月 ○青淵先生の消息(DK440140k-0004)
第44巻 p.576 ページ画像

竜門雑誌 第二六七号・第五五―五六頁明治四三年八月
    ○青淵先生の消息
別項記載の如く信越地方に赴かれたる青淵先生の消息に就て同地より報道の概略左の如し
○男爵一行来越 女子大学基本金勧募協議の為め、来越の渋沢男爵・森村市左衛門・成瀬仁蔵氏一行は五日午後一時廿七分着下り三番列車にて来柏せられたり。是より先内藤久寛・牧口義矩の二氏は途中の駅迄出迎へ、柏崎駅プラツトフオームには稲田郡長・西巻町長・佐藤代議士・沢吹高等女学校長其他有志数十名の出迎あり。同一行は直ちに天京旅館に入り、三時頃迄休憩の上前記数氏の案内にて柏崎高等女学校を参観し、四時より当町阿部楼に於ける有志の歓迎会に臨み、今夜は鯨波牧口氏別荘に投宿せられ、明朝は午前七時牧口別荘出発、内藤牧口其他数氏の案内にて日本石油会社工場を視察(高野日本石油会社製油課長説明)し、同九時より十一時迄柏崎小学校に於て講演あり、天京旅館にて昼食の上午後一時卅七分発下り三番列車にて長岡へ向け出発せらるゝ筈なり(石油時報所載)
○渋沢男一行(七日長岡発電)渋沢男・森村市左衛門・成瀬女子大学校長の一行六日午後当地着、同夜長岡館の歓迎会に臨み渋沢男の演説あり、七日は長岡座にて三氏の教育に関する演説会あり、八日午前当地出発加茂町に到り加茂農学校の講演会に臨み直に新潟に向ふ筈
○加茂に於ける渋沢男の一行 渋沢男・森村翁並に成瀬日本女子大学校長の一行は昨日長岡二番にて加茂へ向け出発されしが○中略
○渋沢男八月九日新潟着 予記の如く男爵渋沢栄一・森村市左衛門・成瀬仁蔵諸氏の一行は、昨日午後二時四十八分着の列車にて来港、停車場には吉田市長・須佐警視・桜井市作・鳥居了次郎・白勢春三・小出喜七郎・鍵富三作其他の諸氏十数名出迎へ、更らに柏崎・長岡方面よりの同行者も尠なからず、軈がて一同車を聯ねて入市直に旅館篠田及び室長方に分宿したるが、本日は別項記載の如く、新潟師範学校に於て女子教育に関する講話をなし、明日は新津・三条の両町に立寄り高田に赴かるゝ都合なりと(新潟新聞所報)


竜門雑誌 第二六七号・第三〇―四二頁明治四三年八月 ○女子と高等教育 青淵先生(DK440140k-0005)
第44巻 p.576-578 ページ画像

竜門雑誌 第二六七号・第三〇―四二頁明治四三年八月
    ○女子と高等教育
                      青淵先生
  本篇は青淵先生が信越地方旅行の際八月七日長岡に於て演説せられたる要領なり
○満場の淑女、紳士諸君、私は玆に教育のことに就て愚見を申上ることを頗る愉快に存じます、私は御聞及びの通り実業家で御座います、実業上の事に就ては御当地へは数回参上致しました、然し教育談を致す為めに参上したことはありません、今日が初めてゞ御座います、斯
 - 第44巻 p.577 -ページ画像 
の如く新築の長岡座で斯く多数の諸君の面前に於て愚見を申述べますことは、暑中休暇中……老の身として頗るお恥しいことでありますが又一方非常に愉快に存じます。
○先刻から一行中、共褒めを致して居りまして、成瀬君は森村・渋沢を褒める、森村君は成瀬・渋沢を褒める、お交際に私も両君を褒めなければならぬ番になりましたが、之れは謹まなければならぬ、然し成瀬君が献身的に女子教育に尽されて居ることは何卒諸君の御諒察を願ます、又森村君は先刻成瀬君の云はれた通りでありますが、森村君の事業を御観察下され同君をお知りを願ます、之れ丈は最も正直に掛直のない事を申上ましたのですが、私に対しましての両君の述べられた効能は、薬は効能程利かぬと云ふことを、よくお聞き解けを願ます。
○女子教育のことを申上げますには、日本の婦人が如何なる有様であつたかと云ふことを、聊か学問的に申上ませんでは、今日教育の必要なりと云ふ問題に入ることが六ケ敷御座います、元来維新以前、幕府時代の有様は頗る女が卑下せられて居つたのであります、然し日本に於ける其昔が、男女の間の階級が甚だしく、女が卑められて居つたかと云ふと決してそうでない。
○先刻も森村君の云はれた通り、男女は車の両輪である、然るに一方の車が三尺もあつて、一方の車が五寸しかないと云ふやうなことでは無かつたのであります、神功皇后は女儀の御身で、三韓の征伐までなさつた、恐多くも上御一人にして既にさう云ふ風であります、下つて紫式部・赤染衛門・清少納言・和泉式部の如き、中には種々徳操の完全でない女儀も見へるやうですが、其才貌と申し、学識と云ひ、世間から重ぜられて居つた。鎌倉の尼将軍政子の如き徳操の上にこそ非難があれ……政子のありし為めに源氏は三代にして潰れたと云ふも過言でないが、然し女としては実に偉い、又重ぜられた者である。
○武家政治の時代になつてから、世の中に婦人が押し下られてしまふた、何が故に斯くなつたかと云ふに、其原因は種々でありませうが、一ツ二ツ私の思ふことを申上て見ませう。
○男尊女卑の起つたのは戦国時代からである、戦国時代は斬ツはツの世の中、弱いものゝ肉は、強いものゝ糧となる、強い者は一国を支配するやうになる、勢ひ婦人の関係も出来て来るのは是亦人情の免れぬ処でありまして、豊太閤の如き、随分婦人に関することが多い、之れが幕府時代になりまして、支那の教へが一層前の習慣を助長して、男尊女卑を形作りました、婦人は家を治める職分と云ふ処の必要から、他国に対する関係のない鎖国三百年の間は、勢ひ婦人は内に押へ付られて居つた、此押付主義を主張したのは貝原益軒で其著女大学は、彼の人の婦人に対する教育は、前に申上た主義に止められて居る、国を閉ぢて他との交通を止めて内々だけに事なくして行かるゝならば、貝原主義或は可ならんも、我国は五十六年前に国を開き、四十三年前の大事変を以て王政維新となり、各国と対等の交際を為し、去二十七年と、三十七年との国難を経て、列強の伍班に入つた今日としては夫れでは到底行けないのであります。
○併し此列強の伍班に入つたと云ふ事も、諸君に之れで満足なりとし
 - 第44巻 p.578 -ページ画像 
て居られます乎、只戦争をして支那や露国に勝つたから、先づ以て列強の伍班に加はつたと云ふに過ぎぬ、其実際を考へて見ましたならば第一富と云ふ点に於きまして英吉利や、仏蘭西や、若くば亜米利加・独逸に対して遜色がないと申されませう乎、単り富と云ふ物質的のもの計りでなく、学問上に於ても知識の上に於ても、機械の発明と云ふが如き、形而下の事ばかりでなく、精神上即ち宗教的事柄に於ても、充分完備して居るでありませう乎、私は遺憾ながら然りとは申されません。
○女子に学問を授けるとハイカラになるとか、お転婆になるとか非難をするものがある、之れを以て女子教育に反対説を述べる人がある、然し之れは実は浅見極まる議論で、若し学問して悪くなるやうの女子に、仮りに学問なからしめたならば如何である乎、前に申上げました女流秀才には徳操の欠くる処があつたが、彼の人等に若し学問がなかつたならば、今一層甚だしい、不貞・不徳の女になつてしまつたでありませう。
○非難説に今一ツある、成程女子に教育を授くると云ふことは誠に宜い、然しながら、一体日本の経済界又一般社会の生活程度から見て女子をして完全に大学の教育を修めしむる迄に手が届き得るものでないと云ふことであります、之れは前に申上ました非難説よりは、更に一歩を進めた議論である、然し国家の為め、渋沢等が声を嗄し、諸君の耳を爛らして女子教育の必要を説くものは、女子教育を今日の程度に止め置くは国家未来の為め頗る憂慮に堪ない、何卒女子にも大学程度の教育を修めしめたい、全国の婦人残らずがと云ふ事は、固より出来得べくもないが、成るべく多数に此教育を及ぼしたいと云ふのであります。


桜楓会通信 渋沢男爵・森村翁・成瀬校長の信越地方巡回(DK440140k-0006)
第44巻 p.578-579 ページ画像

桜楓会通信               (渋沢子爵家所蔵)
    渋沢男爵・森村翁・成瀬校長の信越地方巡回
 母校評議員渋沢男爵・同森村市左衛門氏・成瀬校長の三氏は堤幹事同行、信越地方の教育家並に有志家の招聘に応じ、女子教育奨励の為八月三日同地に向け出発せられたり。
 森村翁は折から少しく不快の処、押して氷嚢を戴き同行され、一同深く其の後を懸念せしが、三日会長が軽井沢より本部に寄せられたる書信に依れば、追々快くなられ、一行非常なる元気にて、長野に向はれたる由なり。
 時下炎暑の候に際し一般に山間に海辺に暑を避け身心の休養を計る時に於て、渋沢男爵・森村翁の如き実業界にありて、平素寸時を争ふ劇職に従事さるゝ方々が、熱砂都門の暑気にも勝る長野・新潟地方に老体を以て長途の旅行を続けられ、女子教育の為に貴重なる時を十幾日さかるゝは実に感謝に堪えざる所にして、一行は其後各地に於て非常なる歓迎を受け、随所に女子教育に就て講演を試みられつゝあり。
 一行の予定は十四日帰京の筈の所、水害にて交通々信杜絶し、如何ともせらるゝに由なく、本日は(十五日)長野県諏訪に水害を避けて鉄道の開通を待たるゝ事とせられたりと。電文簡にして詳細は知るに
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由なきも、昨日都下の諸新聞に、一行が軽井沢三笠ホテルに滞在、三笠ホテル流失の為辛じて避難されたりと報道されたるは、何かの誤報なるべく、一行は無事にて鉄道開通次第帰京せらるべく、詳細は次号に報ずべし。
   ○此通信ノ号数及ビ日付不明。


日本女子大学校四拾年史 同校編 第一六二―一六三頁昭和一七年四月刊(DK440140k-0007)
第44巻 p.579 ページ画像

日本女子大学校四拾年史 同校編 第一六二―一六三頁昭和一七年四月刊
 ○第三章 成瀬校長時代(その二)(明治四十四年―大正八年)
    一 女子高等教育反動時代
○上略 一本の大根よりも百万の毛細根、これが女子大学の力を伸ばし、女子高等教育を発展せしめる要素であつた。此の将来の根を養ふ一つの方法としてとられたのが、明治四十三年八月の北越地方講演行脚であつた。
 此の旅行は、渋沢男・森村氏・成瀬校長及び随行の人々から成る一行で、八月上旬越後の柏崎を振り出しに、新潟・新津・高田・長岡・上諏訪・長野の各地に於て、三伏の炎暑を冒してなされたものであつた。新潟は成瀬先生ゆかりの地であるが、女子教育の反動的空気は最も強く、学校当局者自身が女学校以上の希望者なきを公然と喜ぶ有様で、地方有力者の女子高等教育に対する理解も深くはなく、むしろ実業家としての渋沢・森村両氏が、かく迄女子高等教育の普及に力をつくされる理由を解しかねるといふ有様であつた。然し此の地方は若干の卒業生は既にあるとは言へ、謂はば処女地で、今回の行脚は啓蒙的意味に於て意義があつた。
○下略


渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)八月二七日(DK440140k-0008)
第44巻 p.579-580 ページ画像

渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)八月二七日 (松井三郎氏所蔵)
過日ハ尊書被下候処多忙ニ紛れ拝答も延引致し等閑之段陳謝之至ニ候然者小生等一行貴地参上之節ハ容易ならさる御厄介ニ相成、殊ニ種々御丁寧なる御饗応ニ預り難有奉存候、帰途長野ニて東京及各地之水災を聞知し、中山道不通之為無拠中央東線ニて漸く帰京仕候、然処御聞及之如く東京府下其他各県とも非常之大水害ニて、其善後救済等ニ苦配罷在候、貴地も信濃川之氾濫ニ付而ハ定而其害を受られ候事と御察申上候
女子大学寄附金之義ニ付而ハ目下各地之災害中申上候も如何ニ付、追而時機を見て成瀬氏罷出此上とも御心添可相願と存候、御含置可被下候、新潟柏崎方面へも同様小生より二・三之方へ書通いたし置候、是又御承知可被下候、岸君より御丁寧之来書有之候ニ付一応謝状さし上置候、御序よろしく御伝声可被下候
小畔君・長部君等へも何卒御鶴声頼上候、右乍延引拝答旁如此御座候
                           不宣
  八月廿七日
                      渋沢栄一
    松井吉太郎様
        梧下
 - 第44巻 p.580 -ページ画像 
「越後国長岡六十九銀行」 松井吉太郎様 拝復親展 「東京兜町」 渋沢栄一
八月廿七日


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK440140k-0009)
第44巻 p.580 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年        (渋沢子爵家所蔵)
十月二十二日 雨 冷
○上略
女子大学寄附金ノ事ニ関シ、新潟桜井・長岡松井氏ヘ書状ヲ発ス


渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)一〇月二二日(DK440140k-0010)
第44巻 p.580 ページ画像

渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)一〇月二二日 (松井三郎氏所蔵)
拝啓益御清適奉賀候、然者先頃御出京之際御打合申上候東京女子大学基本金募集之義ニ付而ハ新潟及柏崎之諸君とも便宜御照会被下候事と存候、就而成瀬校長罷出候方可然候ハヽ、時日御申越次第出張可致ニ付其御含ニて御心配可被下候、柏崎内藤よりハ此程成瀬氏へ書状被差送同氏之寄附ハ五ケ年賦ニて金五百円差出候筈通知有之候由ニ候、是又御承引可被下候、又新潟地方も先日白勢・鍵富二氏へ宛書状相発し置候も更ニ桜井氏へも依頼之方と存し今日出状仕候ニ付、新潟御越之際ニハ桜井氏とも御協議被下度候、右之段書中可得貴意如此御坐候
                           不宣
  十月廿二日
                      渋沢栄一
    松井吉太郎様
         梧下


渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)一〇月二四日(DK440140k-0011)
第44巻 p.580-581 ページ画像

渋沢栄一書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)一〇月二四日 (松井三郎氏所蔵)
拝読益御清適抃賀之至ニ候、然者兼而相願置候女子大学寄附金勧募之事ニ付而ハ爾来種々御心配被下忝存候、来示之如く此際ハ各方面ニ於て不適当之時機と存候間、寧ロ明春ニ延引之方と存し候、成瀬氏へ申談し新潟へも柏崎へも其段挨拶仕候、就而ハ明年四月頃ニハ是非御心配被下小額ニても御取纏め被下度候、将又長岡柏崎地方のミならす、三条・新津・加茂等之事も御序ニ明年春ニハ学校より誰か罷出可申ニ付幾分之御助力被下度と申事委員之人々へ御打合置可被下候、右ニ付而ハ昨日特ニ電報も被下候得共、此書状ニて御答仕候ニ付別ニ回電ハ不仕候、尚内藤・牧口・白勢・鍵富又ハ桜井之諸氏へも御面会之場合有之候ハヽ、可然御伝声可被下候、貴地之委員諸君へも御同様御申通し被下度候、右拝答旁匆々得貴意候 不宣
  十月廿四日
                      渋沢栄一
    松井吉太郎様
 - 第44巻 p.581 -ページ画像 
          拝復



〔参考〕東京毎日新聞 第一二六五二号明治四三年八月一八日 想像以上の大水害 渋沢男の帰京談(DK440140k-0012)
第44巻 p.581 ページ画像

東京毎日新聞 第一二六五二号明治四三年八月一八日
    ○想像以上の大水害
      △渋沢男の帰京談
女子大学基本金募集のため森村市左衛門氏と共に去る七日信越地方に赴きし渋沢男爵は市中大洪水の報に接し急遽帰京の途に上りし所交通杜絶の為め漸くにして十六日の夜十二時中央東線にて帰京せしが、其の談に曰く、何は偖て置き今後心痛に堪へざるは洪水後の衛生状態に在り、此上は如何にかして此憂ひを除くやう上下挙つて斯事に当るの外なし、予は十一日夜軽井沢にて市内洪水の事を知り翌十二日碓氷を経て帰京せんと試みしかど汽車不通の為め中央線に一縷の希望を嘱し同線に依りて諏訪より韮崎駅へ向ひしが、此処も塩川と釜無川氾濫し渡船などとは想ひ寄らぬ有様なるより、止むを得ず諏訪に引返せり、偶々同地には三島中洲・股野藍田等の風流人ありて湖上に月を賞せんとするに出合ひたれば余も亦端なく此清遊に預り、偖て十六日の一番列車にて東上の途に就き、今回は韮崎駅の仮橋を辿り且つ十丁程徒歩の上汽車に投じて甲府に着し、夫より笹子にて十四・五丁の徒歩大月初狩間にて四・五丁、更に立川手前にて徒歩し、其間例の無情の猛雨を浴び海松の様になりたる衣服を辛くも工夫、部屋にて温め抔して七時過ぎ漸く新宿に着したり、而して其通過せる土地の到る所人家及び田畑が濁流に浸さるゝを見て東京の被害を聯想して心痛せしに帰来、匆々出水の情況に就て見聞するに実に予想外の惨害たることを知ると共に、減水後の困難始末一方ならずと察せらる、尚今回の如き異変不規則の場合に於ける汽車旅行に就て、余等一行が甚しく不快の念を催せるは各駅長及び駅員の没常識、不親切、無責任なることにて、第一乗客をば荷物同様に心得居り、渋沢と名乗り出れば今更の如く東奔西走するなど苦々しき限りなりと