デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.646-648(DK440173k) ページ画像

大正11年3月29日(1922年)

是日栄一、当校第十九回卒業式ニ臨ミ、訓辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK440173k-0001)
第44巻 p.646 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年        (渋沢子爵家所蔵)
三月廿九日 水 午後一時半 日本女子大学校卒業式(同校)


家庭週報 第六五八号大正一一年四月七日 賢哲は良き女性より出づ 渋沢栄一(DK440173k-0002)
第44巻 p.646-648 ページ画像

家庭週報 第六五八号大正一一年四月七日
    賢哲は良き女性より出づ
                      渋沢栄一
 御目出度い今日の卒業証書授与式に一言の祝辞を申述べますことは私の光栄にも感じ、又愉快にも思ふところであります。
 只今麻生校長から本大学に一身を投ぜられた処の前校長成瀬さんの御話があり、その心霊が玆に存在して本校の発展を導いて居るといはれましたが、皆さんは又成瀬さんと共にこの女子大学のために力を尽されて、今は故人となられた方々の沢山ある事を記憶しておいて戴きたいのであります。それは即ち土倉庄三郎氏・広岡浅子刀自・内海男爵・森村翁、近くは大隈侯爵等その他沢山の人々があつて夫等の方々の心霊は成瀬校長と共にこの女子大学を守つて居られるのであります私もやがてその一人になるのでありませうが、まだ今日はかうして皆さんと御話をする事が出来るのであります。
 私が成瀬さんと御目にかゝつたのは明治廿九年で、大隈侯爵の御紹介によつて始めて女子教育に就て御話したのであります。其頃私は教育に就ては何の経験もなく、況して女子教育に就ては論ずる何の資格もなかつたのでありますが、たゞ未来の我が国家をよくするといふ事に於ては皆さんに譲らぬ希望を持つて居りまして、それには御婦人方を立派にしなければならない、昔の戦国時代のやうに女子を道具にしてゐる事は甚だよろしくないといふ位は始終考へて居つたのでありま
 - 第44巻 p.647 -ページ画像 
すから、成瀬さんの御考は至極結構なことだとは思ひましたが、女子大学を建てるといふ事はまだ早くはないか、如何に成瀬さんが熱心になり多数の援助者があつても、世の中の一般から見て果してどうなるものであらうかといふ事をかなり懸念したのであります。併しながら出来てみると勿論種々の困難はありましたが、段々立派に成長して今日ではもう我が日本になくてならぬものになつたのであります。而も成瀬さんはこの女子大学を愈々完備せる女子教育機関たらしめたいとの希望から、大正八年の一月廿九日には病躯を押して女子綜合大学の腹案を此の場で熱心に述べられました。それは皆さんも忘れる事の出来ないかの告別演説であつたのでありますが、爾来私共はその遺志実現のために力を尽さうと決心してゐるので、まだ完全に綜合大学に応ずる事の出来ぬのは財務委員の私として赤面の至りでありますが、どうか将来満足の結果に立たしめたいと森村男とも協力して居るのでありますから、どうかその点に御諒察を願ひたいのであります。
 又私はこの学校の創立を危ぶんだと同様に始めて本校より卒業生を出す時にも甚だ危ふんだのであります。此の人達は社会に出たらどうなるものであらうか、まるで水の中に油を混ぜたやうなものにはならぬか、或は又社会に立つて役立つどころでなく所謂生意気といはれるやうな事になりはしないかと時勢相応の心配を持つたのでありますが併し十九回の卒業生を出す今日となつては心配どころではなくどうか皆んなに出て貰つてどしどし社会の改善に努力して貰ひたいといふ信頼を持つやうになつたのであります。今も麻生校長が申されたやうに今日の社会は一体に甚だ不真面目になつてゐます。女子は左程でないにしても男子は甚だ利己的になつてゐて上は高貴の人々より下は役人労働者に至るまで非常に不真面目な潮流が現はれてゐるのであります故に私共は本校の卒業生にどうかこの社会に這入つてその柱となりこの風潮を堰きとめる役になつて貰ひたいと思ふのであります。古来から賢哲はよき女性の処より生るといふ事は東西洋おしなべて歴然たるものであります。
 昨年米国旅行中私は二・三の御婦人にあひましたが、いづれも皆立派な婦人でありました。必ずしも外国の事を真似よといふのではありませんが、よき処は何処までも学んだ方がいゝと思ひますから序にその人々の名を紹介しておきますが、一人は先年我国に来られた事のあるラモント氏の奥さんであります。夫人は此の学校にも来られてこの席上で一場の演説をされましたが、その時も実に知徳兼ね備はつたお方であると思ひましたが、今度御目にかゝつて、一層私は感心し敬服したのであります。又ヴアンダリツプの奥さん。この方も一昨年この学校においでになつた方でありますが、矢張り学問もあり知識もある所謂賢夫人であると思ひます。ラモント氏は都の中心を一寸離れた所に、数学の学校を設立して居られますが、是非私にもこの学校を見るやうにと進められたので行つてみました処、学校のすべての事は大抵奥さんによつて支配されてゐるやうで、建物といひ、学生といひ、其の行き届いて居る所、全く立派な人格者によつてでなくてはなされぬ事だと思ひました。それから、も一人はカーネギーの奥さんでありま
 - 第44巻 p.648 -ページ画像 
す。此の方の事に就ては、カーネギーの自叙伝を読んで感心したのでありますが、目のあたりに見ると、又成程立派な方であると思ひました。(挿話略す)
 これは単に二・三の人々の話でありますが、米国にはかういふ婦人が続々と輩出してゐるのでありますから私はどうか我国にも追々とかういふ婦人の輩出するやう、そしてわが日本女子大学では夫等の婦人が常に養成されつゝある事を信じて深く喜んで居るのであります。今回卒業して行く人は勿論、学窓に残つて学ぶ人達も才学共に優れた人になつて、日本の国風を婦人の力で立派に造り上げて行くやうに努力して戴きたいと思ふのであります。これ私が数十年来女子大学のために力を尽して居る所以で、今日此の意味を寓して祝辞の代りに申述べたのであります。