デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
2款 財団法人東京女学館 付 女子教育奨励会
■綱文

第45巻 p.5-12(DK450002k) ページ画像

大正7年5月25日(1918年)

是日栄一、当校ニ於ケル当校卒業生等ノ同窓会ニ出席シ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK450002k-0001)
第45巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正七年 (渋沢子爵家所蔵)
二月十三日 晴 寒
○上略 女学館ニ西田氏ヲ訪ヘ要事ヲ談ス○下略


集会日時通知表 大正七年(DK450002k-0002)
第45巻 p.5 ページ画像

集会日時通知表 大正七年 (渋沢子爵家所蔵)
五月廿五日 土 午後二時半 東京女学館同窓会(同校)


青淵先生演説速記集(一) 自大正六年三月至大正七年十月 雨夜譚会本(DK450002k-0003)
第45巻 p.5-12 ページ画像

青淵先生演説速記集(一) 自大正六年三月至大正七年十月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
          大正七年五月二十五日於東京女学館同窓会
    渋沢男爵の講話
女学館の設立からして私は関係を致し居る身柄であります。併し時々の卒業式等にも毎回参上すると云ふことが出来得ませぬで、兎角御無沙汰勝に相成つて居ることを恐縮に存じます。今日の御会合に是非出るやうと云ふ西田さんからのお申越を得ました、平日の怠慢を幾らか償ふ為めに是非参上致すとお請合を致したのでございます。此処に出まして皆様に教育上のお話をすると云ふ程の私は知識を持つて居りま
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せぬから、それは出来能はぬことでございますが、此女学館の起り、今日までの経過、其間に御婦人方の学問の追々に世間全体からの希望と、又御自身がそれに就学なさる経過に就て、年取つた身柄からは多少見聞して其沿革を述べ、或は其沿革中に斯くあつたら宜からうと云ふ事も差加へて申上げることが出来やうと思ひます。蓋し学者の話と違つて、全く側面からの観察を其儘に申上げるのでありますから御参考の足しにもならぬかと恐れますけれども、前にも申します通り始終惰けまして今日こそどうぞ其お申訳に十分お話をしやうと思うて出たのでございます。
当女学館の御婦人方へ対する教育の方法の成立しましたのは大分古い事でございまして、却々東京とばかりでなしに、日本の御婦人方へ対する教育に就ては、殆ど其初を為したと申しても宜い位でございます固より此婦人方に対する教育法が明治の初から男子教育を進めると共に斯くあつたら宜からう、斯様したいと云うて評論もありましたし、又中には亜米利加などから実地を練習されてお帰りになつた方の着手になつた事もありました。けれども玆に此学校の開かれた事柄は、唯単に御婦人のお方々に欧羅巴式教育をするとばかりでなしに、第一社会上の風習を大に日本従来のものに西洋式を加へやうと云ふ、多少政治趣味を持つたものでございます。時を回想しますと明治十八年であつて、丁度此政治界の処置が其以前は太政官、各省が民部・大蔵などと云うて、今の省と云ふ名は其時分からの儘存して居りますけれども昔の省には卿と云ふ是は大宝の令から起つた一の役所の制度であつて八省であれ九省であれ、省と云ふものに対しては、省の卿と云ふものが大宝令に定つて居る制度であります。其省と云ふ名は今も尚ほ旧名を存して居りますけれども、其制度はまるで其時分とは変つてしまつた。以前の各省には卿があり、太政官には左右大臣参議と云ふやうな向があつて、さうして各省の事務は総て省の卿が取扱つて、其頃は外へ出ては省の大臣となり、内に入つては内閣大臣となると云ふ仕組ではなかつた。明治十八年に其事が改つて、内閣と云ふものを組織して其時に内閣の総理大臣に故伊藤博文公爵がお立ちなすつた、此時から始めて大宝令の省と云ふ字は変へないけれども制度を幾分変へて、さうして大臣と云ふ名を附けるやうになつたのであります。職制官制を左様に変へると同時に、此頃より専ら欧米式に成べく総ての事物を移して行きたいと云ふが当時の為政家の希望で、役所事務ばかりでなしに、此御婦人方の交際にまで之を及ぼさうと云ふ考が強く起つたのであります。それで此御婦人方に対する女子教育奨励会と云ふものが起りまして、当時英吉利の人で、多分カークスと申したと覚えて居ります。或は古い事でありますから、名前を覚違へて居るかも知れませぬ大分身柄なお婆さんであつて、御婦人の交際上の事などは余程誦んじて居る人、又教育上にも相当なる思慮のある人のやうでございました其日本に来て居られたのはどう云ふ縁故であつたか、其処まで私は覚えませぬが、此カークス婦人と共に、多分此教育に従事すべき人々が五・六人一緒に来られまして、一方には御婦人方の社交上、一方には妙齢の御婦人方の教育上、此二つに大に力を入れやうではないかと云
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ふことが其時分の一の問題となりまして、玆に其御婦人の社交と婦人に対する高等教育と二つが現はれた。其末に此女学館と云ふものに相成つたのでございます。故に明治十八年でございますから、もう殆ど三十年以上の歳月を此学校の起りには持つて居るのでございます。古い事で或は覚違ひがあるかも知れませぬが、今閑院宮御邸になつて居る雲州屋敷が其始め一方には婦人方の交際諸式を習ふ場所、一方には教育をする場所で、学校と一の会堂――会堂と云ふは少し穏当でないか知らぬが社交的倶楽部やうなものと、教育を与へる学校と、此二つを彼処の場所に取設けて、両面にそれそれの人があつて力を添へたのであります。私などは敢て教育に充分な考を持つて居る訳ではありませなんだけれども、先づ以て御婦人に欧羅巴式教育を進めて行くのは甚だ必要であると思ふと同時に、先輩の言はつしやる事を尤もと思うて、一方からは是は政府の費用でやる訳ではない、民間の有志の寄附金を集めてやると云ふ仕事に組立てたのでございまして、其寄附金募集に就ては、最も私共専任して取扱はねばならぬ位置に立つて、軽少ながらも自分も寄附し、其頃からして三井・三菱などゝ云ふ者は、有力な左様な新規な事柄には多く力を添へるお家であつたが為めに、主としては是等の人々にお頼みして、其金額が幾ら集りまして、どう云ふ経過にあつたと云ふ事まで尽く此処にお話する程明瞭なる記憶はありませぬが、何でも五・六万円の金を集めたと覚えて居ります。其時分の五・六万円の金の働きは今の五・六万円とは大分違ひます。殆ど十倍の力を持つと云うても宜い位であるが、随て其金を集めるの困難を論ずれば其頃六万円の金を造ることは今日の百万以上の金を造ると同じ位の骨が折れたと云ふことは決して誇張した言葉ではございませぬのです。此一方には学齢の御婦人方に学にお就かせ申すと共に、一方には奥さん方が其カークスに依つて時々に会合をして、或は婦人の訪問会があるとか、茶話会をするとか申すやうなこと、更に進んで例の舞踏が沢山ありました。色々な踊があつて、私なども御用踊を仰付かつて時々出ましたけれども、斯う云ふ身体で、甚だ不器用であつたものですから到頭私は頗る質の悪い――外の事でも質は良くありませぬが別して踊はいけないと云うて始終ハネられた方であります。唯時時狩出されて御婦人方の手を持つて彼方へ廻れ此方へ廻れ――間違つて叱られた事などもあります(笑)鹿鳴館の出来たのも其頃であつたか、私の穂積の所へ参つた娘なども、もう其頃から多少舞踏仲間に這入り得る位であつたからして、矢張自分の家庭にも其お仲間に加つて社交に携はる者もあつたと申す位でありました。併し其事は今の教育の方は別として婦人社交的の事柄は余り急激な進みをさせた為めでありましたか、大に又反対の議論が生じて、斯の如きは甚だ国粋をまるで打壊してしまふのだ、所謂国粋保存の議論が起つて、今日も大分束髪の方が多うございますけれども、何でも婦人は丸髷でなくてはいかぬとまで論ずる、今日は大分社会の様子が変つて来ましたが、怪しからぬ話だ、女は内を守るべき者だのに外を歩き出して、人と無暗に饒舌つたり何かする、婦徳を損するものだと云ふ議論が却々八釜敷うございました。敢て其企てたお人々が其説に閉口して止めやうとは言は
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なかつたけれども、大に其人気が一時のやうにはございませぬで、此社交的風習は十八年から十九年に懸け、一年余りで段々に反対な傾を為して、カークス氏も多分一年位居つたと思ひますが到頭英国へ帰ると云ふやうなことであつた。故に其教育奨励会の二つの仕事の中一方の働きは大に衰へた。さりながら教育は甚だ必要だと云ふ事からして教育に従事した英国の婦人方は、三年であつたか四年であつたか、矢張其時来た人が継続して教育に従事しました。場所も移り変つて当館に来たのは何年であつて、どう云ふ沿革であつたと云ふことを私は今詳しく存じませぬけれども、何でも雲州屋敷を他の必要から立退かなければならぬと云ふから此方へ代つて参つたやうに記憶致します。
右やうな古い歴史を持つて居る此女学館でありまして、今お集りの皆様方には左様な御老人は無いやうですから、其昔にお学びなすつたお方は必ずあらつしやらぬでありませう。併し此学校の歴史と云ふものは頗る古いと云ふ事は、どうぞ皆様も一の御紀念として、又或る点からは誇として戴きたいと思ひます。而して此学校から段々御卒業になつたお方々の各方面に追々に立派なお働を為してござる、尽くのお方を私は覚えて居りませぬけれども中にはもう既に昔此学校の生徒であつたお人でお孫様を持つお方もあります。余りお名前を指して申すと其人を大層年寄らしう致しますから、それは遠慮しますけれども、大分私の記憶にも存して居る位であります。私共其頃からして今日と同じやうなる観念を以て此婦人方の教育を、自分が為し得られぬでも希望として申述べ居りますので、今の歴史を申上げると共に、自身が其頃から称へ来つた希望を玆に更に申述べて見たいと思ふのであります蓋し此事はもう度々申す事でありますから、それ位の事はもう皆様百も御承知と仰しやるであらうと思ふ。決して名案でも新聞でもございませぬけれども、併し御婦人方に取つて智恵を進めるのと、婦徳を成たけ完全に保存して行くのとは、事に依ると背馳する場合がございます、是は余程御注意なさらぬといけませぬ。丁度之を比較して論ずると、大変向の違ふことではありますけれども、男子が事業を為して富を増すと云ふことと、其人格を完全にして行くと云ふことゝが、兎角一方に偏すると一方が衰へて来るのでございます。一方のみに拘泥すると一方は甚だ進まぬ。或る点には似た場合がありますので、其似た意味からしてお話をしたならば、皆様方には男子の事業とか人格とか云ふ方の事とは、お身柄が違ひ関係が薄いけれども、併し是は何方がお察し下すつても解る事でありますから、御婦人方へ望みましても、成程さう云ふ意味を此渋沢が希望して居るのだと云ふ事は御了解下さるであらうと思ひます。
日本の古来の御婦人方へ対する希望は、所謂良妻賢母――其良妻賢母と云ふ意味が成べく優美に柔和に緻密に、而して婦徳即ち貞節とか貞操とか云ふやうな事は最も大切にせんならぬ。さう云ふやうなことが婦人に対する甚だ必要条件であつて、私は多くの昔の婦人教育の書物は能く覚えませぬが、支那から来た小学などに説く所は最も其点が男女に対して丁寧に教へてある。幕府となつて以来の先づ婦人に対する幾分の教育主義を発揮した貝原益軒の女大学、是等は誰も能く知つて
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居る一の教科書と云うて宜いのであります。詰り其支那式の教育の主義として、先づ家に在ては父母に従順でなければならぬとか、又夫を持つ場合は殆ど其家に帰すると云ふ字を書いて帰きて再び帰らぬものであるとまで論じて居る。即ちあれは貞操を厳しく重んずる所から起つたのであります。苟くも多弁はいけぬとか余り物を知つても知識張る様子はもう既に徳を損するのである、成べく内輪に随て先づ従来の日本の御婦人方の立前は少し身柄の進む程益々費消的経済関係は持つけれども、生産的経済関係は薩張持たぬ。下級の婦人になるとさうでない、夫と一緒に野に出て作物を耕すとか、取入をするとか或は自分で商売をするとか云ふやうな事をやらぬでもございませぬが、もう都下の上流のお方々に於ては悪く申すと小遣を節約すると云ふのが最も御婦人方の重要の務めであつて、外部に対し余り事をせぬのが御婦人の常としてある。支那の教は男は外女は内と云ふのである。随て此主義を満足に行はうとすれば、どうしても多くの物を知ると云ふことは出来得ぬ訳である。甚しきは知るが悪いとまでしてあつた。婦人が余り物を知ると却て優美を損するとか、婦人字を知るは徳を損するの始だなどゝ云うて、婦人に物を教ゆるは猶悪徳を教ゆる如きものであるとまで古の教育家が論じた文字さへある。尤もそれは其人の僻見であつたらうけれども併し斯の如く其時分の識者が論じたのはさう云ふ風の弊害が多くあつたからと言はざるを得ぬのである。随分昔から婦人の才能あつた人を論ずると、其人が真に徳望のあつた人は甚だ少い。支那日本共に名の勝れた婦人には、多く悪徳の加つたのがあつたからして自然とさう云ふ教育の必要があつたのかも知れませぬ、例へば中朝王室の盛な頃才媛と云うて、賢い女が沢山出ました。紫式部・清少納言・和泉式部・赤染衛門、幾らもありますけれども其中本当に婦徳の修つた人は蓋し稀だと云ふことである。私は細かい歴史は知りませぬけれども僅に紫式部は稍々貞操を全うしたけれども其他の人は才能には長じて居つたが、人格としては随分忌むべき点が多かつたと書物に記してあるやうであります。自然とそんな事から一方に此抑付ける教育が出て来たものでは無いかと思はれます。甚しきは婦人に対して最も甚い例があります、徳川家の始め京都の所司代になつた板倉勝重――京都の所司代は大変に勢力のある者で殊に将軍の目付同様にして京都に行つて居るのだから、其時分の所司代と云ふ者は余程の声望のあつた者である。勝重が此所司代を言付かるときに多分家康でありましたらう其事を相談したら、家へ帰つて家内と能く評議した上でお請を致しませうと答へた、妙な挨拶であつたが、マア能く考へてと云ふので家へ帰つて其事を細君に話すと、御名誉の事でございます、お慶びを申上げます、イヤお前と相談した上で決めやうと思つて帰つて来た。いえ私はさう云ふ事は存じませぬ。イヤさうでない。斯かる顕職に居ると必ず色々な権門の希望が方々から来る、其請託は多く直接に来ずに所謂細君から来る、さう云ふ事に屹度お前が携はらぬと云ふ事を堅く誓ふならば、私は此お役を受けるけれども若しさう云ふ事があられると私は此職を完全に遂げ得られぬかも知れぬからそこでお前と評議してお答すると申上げた訳である。是は改つた仰せでありますが
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私は貴所の御務向の事に就て何の喙を容れませう。決して何も申しませぬから、御安心なすつて下さいまし。屹度左様か。如何にもさうでございます。翌日お請に出るときに態と袴の襞を引操り返して出やうとした、細君後から袴が裏返しになつて居りますと言ふたら、そら口を利いたと言つて叱つたと云ふ話があります。是は少し意地の悪い話で、さうまでせぬでも宜ささうなものでありますが、言はぬと言ふた言葉を堅く取る為めに極く厳しくやつたものと見えます。常山紀談であつたか何かの書物に書いてあつたのを覚えて居ります。果してそれは事実であつたか、若くは仮託した言葉であつたか分りませぬけれども併し此請託の弊と云ふことが決して無いではありませぬので、左様に厳格に言はしつたと云ふことは、或は尤もと言はなければならぬかも知れませぬ。今日でも間々さう云ふやうな事は多く内から乱れて来ると云ふ弊は屡々聞く事でございますから、自然と其従来の婦人に対する教育が甚く抑付けることを主義としたと云ふことは、或点から言ふと甚だ間違つた事であるけれども、或点から言ふと弊害を防ぐと云ふことに、其当時の人が看做したかも知れない。其弊が段々悪く伝つて御一新まで御婦人方が甚く抑付けられたものと私は見て居る。それですから一概に教育の方針が悪いとのみは言へぬ、或は其弊を造らしめた悪い原因もあつたに相違ない。併し其弊の及ぶ所遂に御婦人方をして知識を進めると云ふことを殆ど閑却せしめてしまつた。お集りの皆様方に対しては、さう云ふ事を申すのは失礼の話で、今日お集りの方々が左様だと申すではないが、日本の当世教育の無い御婦人は何としても知識が乏しい、学問の無い以上は知識のある筈はございませぬ歴史を知らず地理を知らず、物理を知らず化学を知らず、経済も知らなければ衛生も知らない。斯う云ふやうになる事は已むを得ない訳である。斯様であつてはいけないと云ふのが、即ち今日の教育制度を設けて、婦人方に対して高等教育を与へると云ふ必要の生じた所以であるが、併し是は前に申す通り、物を識るや其識る為めに益々天性の美質を発揮すれば宜いけれども――知識が増すと共に其婦徳の根源が弥増せば宜いけれども、知識の増す其反比例に婦徳を減すると云ふ事になつたならば、一方には得たが一方には失ふと云ふことに相成る。是は余程御注意をなさらぬといけませぬぞと言はざるを得ぬ。私は能く例に申しますが、物質の文明を進めて商工業を発達せしめ、各人の富を増す、其富が増すと同時に成べく自分の富を増したいと云ふから、自然と道徳とか仁義とか云ふやうなものが疎かになつて、知恵は進むけれども人格は段々に下劣になつて来る。此例は必ずしも適切でないかも知れませぬが、或点からは一方の進むに対して一方が衰へて来ると云ふことは必ず有り得る事でございます、有り得ると云ふよりは寧ろ甚だ多い例を見るのでございます。
当学校の教育の大趣意は私は細かに斯かる課目、斯かる課程と云ふことを能く心得て居りませぬけれども、常にさう云ふ弊害を防ぐことに注意されて、教師方が努め居らるゝやうに承知致します。又段々卒業になつたお人々を拝見しましても、所謂生意気とか唯才女と云ふ方でなしに、所謂知恵のある良妻賢母を段々多くお出しなさるやうであり
 - 第45巻 p.11 -ページ画像 
ますから、今申す弊害は此学校には甚だ少いけれども、併し以前の教育の主義が東洋流に左様であつたと云ふことは、繰返して申す通り、或は其間に少し偏した弊害が強かつたと云ふことはあるに相違ないけれども、御婦人方の少し抑へられる事情と云ふものが、或は今日の婦人には無くなつたか知らぬが、婦人の性格として或はさう云ふ事が免れぬものではないかと云ふことも思はざるを得ぬのであります。さうして見ると此知識は成べくお進めなさいと云ふ事は固より論を俟ちませぬけれども、同時に婦徳を充分に修め且つ高めて行くと云ふことをお忘れ下すつてはいけないと深く思ふのでございます。
追々に教育を受けたる御婦人方が世の中に立つやうになつて参ります私は其初め此処でも申したことがあります、他の方面に於ては小石川の日本女子大学、是も世話をして居ります為めに、時々其卒業式若くは紀念日等のお集りの際には能く申しました。未だ多数から論ずると完全な教育を受けたる御婦人の分量は少ないから、却々其間で調和を取ることは仕悪い、変つた種類の人と交るやうになる。其初め吾々の商売が、幾らか規則立つた欧羅巴式商売をやらうとすると、多数は昔からの古風の商売人、是と接触して商売をして行くのであるから余程六ケ敷い。余り此方の主義を強めると、生意気に理窟ばかり言ふ商売人だと言ふ。又古風に泥んでしまへば彼等をして改進的商売人に導くことが出来ない。彼に引付けられないやうにして彼に悪まれぬやうに交を重ね方法を講じて、成だけ之を改進的商売に勧めて行かなければ世を進めることは出来ないと云ふことは、実業に従事しても却々の骨折であるが、御婦人方も教育を受けたお人が教育を受けぬお人と相接触して相反目せぬやうに交つて行く、さうして追々に教育を必要と感じさせるやうにして行くのは却々に六ケ敷いことであるから、御注意をなさらぬといけませぬ、却て下手な事をやるとナニ学問した人だと云ふけれども、あんな馬鹿な事をやると、数の少ない間は余計目を著けられる。斯様に屡々申した事でありますが、併し是は未だ女子教育の初の間の考であつて、今日は大分さうでなくなつた。もう追々に新式の教育を受けた人が一の社会を為すやうになつて来ました、年を取つたお方は別であります。故に其点は大分為さり好くなつて来たけれども、其代り又さう云ふお方々が余程御注意を為さらぬと云ふと、折角相当なる教育を受けた御連中が自然と御婦人社会を成したけれども一向其社会を成した有様が、昔の学問も無いお方々と同一である。或は寧ろ劣つたと云ふならば、折角お学びなすつた効能は何処にある、斯う又一方からは非難を受ける訳になつて来る。吾々多少学問的の事業をやると云ふ者が、初には極く種類違ひの中に交つて居るのだからどうも斯う人数が違つて居つては旨く行かない筈だと云うて申訳も出来ますけれども、其種類の者が段々広つて行つて而して其仕事はいつも悪るい、或は競争が激しいとか、粗製濫造の弊があるとか、動もすると損得から争でも起す、甚しきは賄賂を使ふ、刑事に触れると云ふやうな事が屡々ありとしたならば、洵に改進的商売人何の態かと言はれる訳になる。故に矢張御婦人方も相当なる学問をしたゞけ、それだけ一般の風が成程昔とは変つて来た、奥さん達が打寄つても社会の事
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も能く解れば学問的の談話も出来る。さらばと云うて優美な点も失はない。斯く言はれてこそ学問ある御婦人方であると斯う思ふのであります。此処に至らうと云ふには矢張始終のお心掛が甚だ必要ではなからうかと思ひます。
先づ第一に私は此学校が斯様な歴史を持つて居ると云ふ事を、皆様も大抵お聞及もあつたらうと思ひますけれども、どうぞ実際に触れた私が申上げる事でありますから、成程さうであつたかと御理解を戴きたし、それから又此文明式教育に対しては斯う云ふ沿革でありますと云ふ事、又其教育を受けた御婦人方は斯様な態度斯様なお心掛があつて欲しいと云ふ、唯今最終に申述べた事を私は希望するのであります。故に知識は飽迄もお進めなさいまし、道徳は所謂国粋とも云ふべきものに依つて、日本の従来尊まれる御婦人たることを飽迄もお心掛けなさるやうに希望して已まぬのでございます。甚だ御益にもならぬ事を申上げましたが、古い関係を丁度斯う云ふ機会にお話をしたら宜からうと思うてお聴に達した訳でございます。(完)