デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
4款 京華高等女学校
■綱文

第45巻 p.50-52(DK450016k) ページ画像

明治43年10月10日(1910年)

是日栄一、当校講堂ニ於テ、生徒ニ対シ訓話ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK450016k-0001)
第45巻 p.50 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年        (渋沢子爵家所蔵)
三月二十日 曇 軽暖
○上略 塩島仁吉・磯江潤二氏来リテ高等女学校○京華ノ事ヲ談ス○下略


竜門雑誌 第二七〇号・第三七―四〇頁明治四三年一一月 ○昔と今の婦人 青淵先生(DK450016k-0002)
第45巻 p.50-52 ページ画像

竜門雑誌 第二七〇号・第三七―四〇頁明治四三年一一月
    ○昔と今の婦人
                      青淵先生
  本篇は小石川原町京華高等女学校の請ひにより、十月十日同校講堂に於て青淵先生が特に同校学生の為めに訓戒せられたる大要にして現代婦人に極めて有益なる活教訓なりとして、時事新報紙上に連載せるものなり(本誌編者識)
△度々申す事 私は学校教育と云ふことに就ては、別段に之れと云ふ程、深い経験がありませぬから、無論貴女方のお為めになりますやうなお話を致すことは出来ませぬが、唯昔の日本婦人は何うであつたかと云ふ事を、聊か御参考までにお話いたし、併せて現今の婦人に対し私の希望を申上げる考であります。これは私が度々申すことでありますが、果して真理に適して居るや否やは判りませぬ、併し自分では確にさうと確く信じて居る事柄でありますから忠実に申述べます。
△古の女子教育 現今の女子教育を維新前後のそれに比較して見ますと、実に隔世の感がする程非常に変つて参りました、否明治十五年頃までは、未だ世人が女子教育に付いて何等の声も放ちませんでした、之れを思へば今日の女子は誠に幸福であります、昔の婦人は悪しい言葉で云へば男子の奴隷の如くに使はれて居たもので、女子と小人とは養ひ難し之れに近づけば狃れ之れに遠ざかれば怨むと謂はれた位で、生れ落ちると直ぐ男と女とは非常な懸隔を以て待遇されたものです。
△婦人の虐待 それからずつと以前に溯りますと、其時代には婦人を或る政略の道具に使つて居たことが歴史に残つて居ります、彼の豊臣氏は徳川氏と和睦します為めに、一旦他家に縁付いて居たものを取戻して、徳川氏に嫁入らせたと云ふ話があります、其外甚しいのに至つては現在の生みの母を人質に送つた事や、信長が美濃の斎藤秀竜の娘を娶り、後に其妻を偽つて、美濃の二将を姑から離間せしめたることや、或は家康が大阪を平定する為めに、自分の孫女を秀頼の妻にして大阪落城の際には井伊直政をして婦人だけを助け出して秀頼を火中に自刃せしめた後、其妻を本多忠政に再嫁せしめた事抔に至つては、事実上婦人を虐待したものと云つて宜しいでせう、尤も徳川政府に於きましても大奥許りは随分婦人の勢力もあつたのです、それでも決して
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政治には婦人をして喙を容れしめなかつたのです。
△政子と淀君 源右府頼朝公の未亡人として有名な尼将軍政子は、其の初め頼朝が落魄して居た頃、頼朝に嫁したのですが、後に頼朝が総追捕使となつて征夷大将軍の栄位に昇るや政子は天晴れな奥方となりました、而して頼朝が死んだ後は、簾を垂れて天下の政を聴き、頼家を憎んだり、実朝を鍾愛したり、大江広元のやうな勲功のある忠臣の諌言に耳を傾けず、侫奸の臣を愛した為めに遂に里方の北条氏に其隙を狙はれ、可愛い実朝は公暁に弑せられ、次で公暁も北条氏の毒手に罹つて殺されましたから、玆に於て源氏の血統は全く根絶する事になりました、之れに拠つて見ますと、源氏を亡ぼしたのは政子であると云はれても仕方がない訳です、又豊臣秀頼の母たる淀君は、信長の妹が浅井長政に嫁して出来た総領の女子でありまして、有名な美人であつたさうですが、秀吉の死後、内政は淀君の掌中に帰したが為めに、関東の徳川と端なくも確執を生ずる事となり、片桐・木村のやうな忠臣を退け、却つて大野兄弟を信用した為めに、大阪城は邪推虚栄を以て充され、それが原因となつて、豊臣家は僅かに三代で亡びました、其当時徳川家の勢威は非常なもので、天下の権力は到底挽回することの出来ない事となりました、初め淀君が若し斯様な手段に出なかつたならば、後世豊臣の祀を絶つ迄には至らなかつたでありませう、して見ますと政子や淀君は、実に悪政を流布して徒らに其家を亡ぼしたやうなもので、これ等が太だしく婦人の地位を引き下げた原因の一つではあるまいかと思はれます。
△新時代の教育 貝原益軒先生の女大学は、維新前までは、結構な書物でありましたが、維新後福沢先生が欧米の文明を旺んに鼓吹され、新女子教育の一新機軸を開かれてからと云ふものは、自ら世間の形勢が一変して、人々も是より後は夢が覚めたやうに女子教育に力を注ぐ様になりましたので、今日の女子は実に幸福であります、今日では高尚な向の教育を受けて世に立つて居る婦人もありますけれど、先づ高等女学校の教育を受ければ、女子の名誉であります。
△此母に此子あり 福沢先生を初め、世人が一般に婦女子を尊敬し、頓に女子教育の事業を重んずるやうになりましたのは、其処に大なる理由があります、彼の皆さんも読本やお話でも御承知の、合衆国最初の大統領になりましたワシントンの阿母さんや、豊太閤の阿母さんや近江聖人中江藤樹先生の阿母さん抔は、皆賢婦人でありました、又彼の世界の富豪として事業家として、有名な米国のカーネギー氏の如きはもともと英国スコツトランドに生れた人で、氏は故郷に博物館を初め、其他公益に供する建物二千余個を設立しました、実に豪い人でありますが、此等の人も矢張り母親が賢婦人であつたさうです、斯様に古今内外の賢人が皆賢い阿母さんの胎内から産れ出でゝ居るのでありますから、婦人を尊敬するのは当然のことであります。
△適切な答 併し世が益々文明に赴くに従ひ、性質許りで賢母となることは、難かしいのです、是非とも知識が伴はなくてはなりませぬ、而して其知識は教育を受けるより外に道はあるまいと思ひます、先刻教場を参観しました時、理科は何の為めに学ぶかとの先生の問に、或
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生徒さんが、家事の知識を得る為めでありますとお答へになりましたが、誠にお説の如くで、至極最もな答と窃に感服いたしました、要するに女子は家庭上の知識を得ることが極めて肝要でありますけれど、知識許り長じて、姑を理窟で云ひ窘めるやうでは一家は決して治まりませぬ、地方の諺に「女子の強きと菜汁の鹹きは口が付けられぬ」と申しまして、知識と共に柔順なる徳を養はねばなりませぬ。
△実賤躬行 学校では智育徳育の方は勿論、体育・礼法等に至る迄、学課が整然と完備してをるのですから、能く能く受持の先生の教へを遵奉して、専心一意に之れを実修すれば、他日家庭を円満に治むることが容易に出来ます、然し之れを実賤躬行しない人は、啻に自分だけ一人の不名誉になるの許りでなく、延いては学校の不名誉にもなり、大にしては日本女子教育の偉大なる汚点となりますから、万望貴女方は一人も残らず、明治昭代の名誉に伴ふ、婦女子の責任を完うして下さい。(完)