デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
12款 其他 1. 日本女子美術学校
■綱文

第45巻 p.87(DK450030k) ページ画像

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■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK450030k-0001)
第45巻 p.87 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年       (渋沢子爵家所蔵)
三月六日 曇 軽寒
○上略 四時谷中初音町女子美術学校ニ抵リ、生徒ノ出品セル絵画刺繍其ノ他ノ陳列品ヲ見ル、福島氏其他ノ来会者ト談話ス○下略


竜門雑誌 第二三四号・第二八―二九頁明治四〇年一一月 ○日本女子美術学校(DK450030k-0002)
第45巻 p.87 ページ画像

竜門雑誌 第二三四号・第二八―二九頁明治四〇年一一月
○日本女子美術学校 日本女子美術学校は本社員福島甲子三氏が今回引受けて校則を改正せしものにして、校舎は岡倉覚三氏の設立せる谷中初音町の元日本美術院なり、新校主は女子教育の方法として該校を三部に分ち、第一美術部は日本画・西洋画とし、第二技芸部は刺繍造花科・裁縫編物科・絵画図案科に分ち終業年限を各三箇年とし、選科を一箇年乃至三箇年とし、時間に乏しき婦人の為め其任意の学科を選択するを得せしむることゝせるが故に、各自将来の志望及び現在の状況に応じ、如何なる人も其好む所に従ふて目的を達するの便あり、而して子爵秋元興朝氏は校長に、画伯小山正太郎氏は教頭に、帝室技芸員荒木寛畝、同熊谷直彦外十数氏は教授に、千家男爵・牧野子爵・清野長太郎・富田鉄之助・古市公威・尾高幸五郎・肥塚竜・林謙三・戸野周二郎・杉原栄三郎・斎藤孝治・西村小市・伊藤定七・江間俊一等市会議員、市区学務委員等朝野の名士数十名は商議員として尽力せらるゝことを諾せられたりと云ふ
   ○日本女子美術学校ハ明治三十六年本郷区千駄木林町ニ創立サレ、四十年下谷区谷中初音町ニ移転、四十四年東京市ニ移管サレ、東京市立第一女子技芸学校ト改称、更ニ四十五年東京市立第一実科高等女学校ト改称、大正五年下谷区池ノ端茅町ニ移転、昭和四年東京市立忍岡高等女学校ト称ス。
    (昭和一二年刊「東京府史」行政篇第五巻ニヨル)