デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
1款 埼玉学友会
■綱文

第45巻 p.107-114(DK450040k) ページ画像

明治44年2月11日(1911年)

是日栄一、当会ノ例会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK450040k-0001)
第45巻 p.108 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
二月一日 曇 寒
午前七時半起床入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、後種々ノ来人ニ接ス、学友会ノ生徒モ亦来訪ス○下略
  ○中略。
二月五日 晴 寒
午前八時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、後古川・亀井・村山ノ諸氏来リ埼玉学友会ノ事ヲ談ス○下略
  ○中略。
二月十一日 晴 寒
○上略 午飧後牛込区ナル埼玉学生誘掖会ニ抵リ、埼玉学生会ノ大会ニ出席シ一場ノ演説ヲ為ス、但演説ニ先テ教育勅語ヲ奉読シ又学生ニ賞品ヲ授与ス、午後五時過帰宿ス○下略


竜門雑誌 第二七五号・第二三―三一頁明治四四年四月 ○埼玉県学友会大会に於て 青淵先生(DK450040k-0002)
第45巻 p.108-113 ページ画像

竜門雑誌  第二七五号・第二三―三一頁明治四四年四月
    ○埼玉県学友会大会に於て
                      青淵先生
  本簾は本年二月十一日、埼玉県学友会大会席上に於ける青淵先生の講話速記なり。
 臨場の諸君、学生諸子、此最も紀念すべき祭日に於て学友会の大会が此処に開かれまして、私会頭として会員の青年諸君に御目に懸かることを深く愉快に感じます、昨年は不幸にして病気のために欠席致しました故に、御集りの皆様に甚だ遠々しく御目に懸るやうな次第でございます、縦し年々に相会同するとしたところが、何んだか棚機さんみたやうに一年一度の会でございまして、若い御方が段々成長なさるから、私を諸君が能く御見覚えであらうが私は諸君を見覚えることが甚だ困難であります、併し斯う若い人達の多数の会合は、老人をして真に愉快の感を起させるのでございます、玆に私が申述べやうといふことは、訓誡的の学生諸子を益するやうな話をするが宜からうといふ幹事の御注文でございましたけれども、今日は幸に教育家・学者方から御講演を願ふ筈になつて居ります、即ち沢柳高等商業学校長又遠藤博士等の御講演がございますから、学説に属し訓示に渉ることを申述べることを寧ろ憚りまして、他の方面の御話をして、若し諸君をして幾らか是から先き学業其他の事柄に奮励する基本たらしめたいと思ふのでごさいます。
 玆に申上げて見やうと思ふのは我が事蹟でございまして、詰り己れの事を喋々するやうになつて、殊に其事柄は極く昔のことであつて頗る御恥かしい次第である、俗に申す恥曝しといふやうな一談話であります、其事を玆に申述べて見やうと思ふ、李太伯の春夜宴桃李園序に「天地者万物之逆旅光陰者百代之過客而浮生若夢為懽幾何」斯う云ふてあります、是は此宇宙といふものは万物の旅籠屋の様なもので過行く光陰は丁度其旅籠屋を通る御客のやうなものである、そこで「浮生若夢為懽幾何」故に春の夜瓊筵を開て花に座し羽觴を飛して月に酔ひ詩を作り文を属し愉快に世を送るが宜からう、是は少しく興を帯びた
 - 第45巻 p.109 -ページ画像 
る一の楽観説でございます、併し之を反対に悲観的にすると又大に説が変つて来る、現世は誠に短いものである、人間は未来を考へねばならぬ、後世極楽を願はなければならぬといふ筆法から、矢張「天地者万物之逆旅光陰者百代之過客」といふ感想が起るのであります、故に此感想は悲観しても出来れば又楽観しても出来る、併し私が玆に申述べるのは、さういふやうな仏説でもなければ又前に述べたる如き文人墨客の楽観的意味でもない、詰り光陰は百代の過客で、私の一身が物心覚えてから五十有余年を経過し、其間に種々な事がございましたが其種々な事の一つが此程偶然にも他から問合せがあつて一奇談となりましたで、其事を申述べて渋沢が若い時分斯ういふ人であつたといふことを、或点からは御笑を被りませう、或点からは縦令間違つては居つたにせよ、なかなかに慷慨悲憤の士であつたと或は御同情を寄せて下さる御方が無いでもなからうと思ふのであります、故に我が経歴を斯る御席に於て述べたくはないが、臨場の諸君は別にしまして学友会諸子の御参考になることかと思うて御話しをするのであります。
 一月の中旬頃でありましたが、私は少しも識らぬ人でありますが備後の神辺といふ処に重政雄造といふ人があります、其重政雄造といふ名も手紙が来たので初めて承知したのでありますが、突然にも送られた其書状に、私が四十有余年前五言の古詩を額に書いた其写が添へてあつた、其詩といふのは其時分私が攘夷説を主張した詩であります、私は詩作が至つて拙劣だが、五十年前は上手であつたとは申せぬので今より尚下手に相違なかつた故に、熟練の御方から見れば詩にも語にもならぬと仰しやるか知らぬが、兎に角五言古詩として作つたものであります、それを添へて手紙に曰く、是は青淵小史と書いてあるからお前の書いたものゝやうに思ふ、まだ一度も御目に懸つたことは無いが多年実業界に在つて頻に仁義道徳を唱へて経営して居るといふ其為人を窃に欽慕して居つた、偶然にも斯ういふ額面の剥しを見付けたから自分は尊重して居つたけれども果して実物かどうか分らぬ、紙も大変汚れてある、処々に斑点がある、落款はあるけれどもそれがはつきり分らぬ位に磨滅して居る、旁々以て事実お前が書いたものであるか而して其詩はお前の作つたものであるか、又此処に応双竜舎主人之需と書いてあるがそれは何人であるか、それこれを尋ねる、と斯ういふ手紙が参りました、見ましたところが其詩は五十字ばかりの詩でありますが、至つて貿易を嫌ふた田家感懐といふ意味で、頗る時勢を誹謗した作である、其善悪は第二に措いて、自分は一向其時分に其様な詩を作つたことは記憶して居らぬ、唯其中に一二の覚えがある、確か安政戊午の年と覚えて居りますが、時の大老職井伊掃部頭の命令で、天保時代に作つた小判を更に値を上げて一両の小判を三両一分二朱に通用させるといふことがあつた、其時分の伝説には、自らさういふ政令を布いて自分で密に他より小判を買はせたといふ、それは誹謗であつたかも知りませぬが、兎に角井伊掃部頭は暴政を行ふ人であると云ふて、既に安政の疑獄といふては今も世人のやかましく言ふところである、当時の幕府の親藩又は堂上方・学者総ての人を一網したといふ程であつたから、私も田舎の百姓として、怪しからん政治家があるもの
 - 第45巻 p.110 -ページ画像 
だ、此様な人は肉を啖はねばならぬ、此様な人は骨を挫かねばならぬと云ふて憤慨して居つたのです、而して其詩の中に其事が少し意味してある、それから最一つには安政条約以後貿易の有様は多く生糸を売るだけであつて、他の貿易品は殆んど無かつた、そこで私共の郷里は養蚕地方であつたからして頻に生糸を製造して居る、其生糸を売る為めに農業を十分にしなければ機を織ることも十分にせぬ、唯糸を繰ることばかりを努めて居ると云ふて、憂国の士が大層憂ひて居つた、今日から見れば胡盧であるけれども其憂ひたことが其詩の中にある、それは私が二十歳から二十五・六までの間に頻にそういふことを論じて居つたのでありますから、どうも其詩が或は自分の作であつたらうと思ふたが、今日草稿も何も遺つて居りませぬから確かに分らぬ、故に此重政といふ人に下の如く答へてやりました、どうも写しだけでは一向分りませぬ、併し私は備中に旅行したことがあるから、果して書いたものか何か遺らぬとは限らぬけれども、唯是だけでは自分が書いたのかどうか分らぬから、願はくば其実物を送つて見て下さいと斯ふ云ふてやりました、やがてそれを送つて寄越した、叮嚀に見ましたら果して自分の書いたのに相違ないのです、若しそれが願はくば偽物であつたならと思うて居りましたが悲いかな実物であつた、其時分私の考の間違つて居つたことは今更慚愧に堪へぬ次第でありますが、其送つて来たものを唯返さうかと思ひましたけれども余り興のない話になりますし、五十年後であつても多少申訳をしないと面目を失ふことになりますから、一つ小品文を作つて而も当月の初に其送られた額面に更に添書をして返しました、其事柄を一つ御話をしやうと思ふのであります、即ち此処に其詩を写して持つて参りましたから、其詩及其詩に添書をして申訳をした文章を玆に申述べて、渋沢は昔斯ういふ説を述べたものだが、今日は斯う変つて居るといふ即ち光陰は百代の過客で其光陰に依つて万物の逆旅中にいろいろ御客が変化する有様を御話するのであります、其詩といふのが斯うです、余程拙劣ですから玆に喋喋することは御恥しうございますけれども一通り誦んで見ませう。
  世末人趨利。姦富恣横行。不奪則不厭。
  豈遑顧忠誠。果然蠢爾輩。渇声驚昏盲。
  尸位汝何者。漫成城下盟。天権漸売却。
  銖鎰争重軽。偸安又怙息。将掩天日明。
  天日縦可掩。豈奪忠義晴。感窮情自切。
  事大志愈精。不謂心事非。狂瞽任人評。
  嗚呼彼冥者。夷貢偏経営。不織又不耨。
  只有繅車鳴。
   偶録旧製田家感懐之詩以応双竜舎主人之清嘱
                  青淵小史
 是は二十六の時に書いたのでありますが、詩はもう少し前に作つたのでございます、他のことはそんなに間違つて居りませぬが「不織又不耨。只有繅車鳴」機も織らなければ耕作もしないで、唯糸繰車を鳴らして居るだけである、と斯う言つて慨歎した渋沢が今日は生糸輸出を盛にしなければならないと頻りに奨励するのは甚だ自家撞着で面目
 - 第45巻 p.111 -ページ画像 
ない訳ですが、其時分の考は、貿易は国を富ますといふことを私は知らずして、唯生糸を製して売るといふことは殆ど夷狄に貢を納めるやうな感じを持つて、此の如き詩を作つたのです、決して自分は人を欺く積りで言ふたのではなかつた、併し五十年後の今日は其考の間違であるといふことを覚へて居りますから、既に昨年も生産調査会に於て蚕種を統一して生糸を奨励すべしといふ意見を述べ、現在も口を開けば其事を唱導して居ります、何んでさういふ考が違うかと云へば、畢竟智恵が至らなかつたのでありますが、其頃の形勢に対しては唯愚なる考とばかりと侮られぬかも知れぬのです、何んに致せ余り其儘返却しては、折角寄せて呉れた人に申訳も無く、又興味も薄いと思ふたから跋文体のものを書いて此程送つてやりました、是も大方に御目に懸ける程のものでもございませぬが、其理由を漢文に書いたに過ぎぬのです。
  後備神辺重政雄造君頃日寄予旧時所書五言短古扁額一面見請其鑑定閲之紙面蒼古多生斑点想是慶応丑寅之交予官遊一橋府備中領地之日応地方人士之需所揮毫其詩則為先是数年前頻唱導攘夷鎖港慷慨悲歌秦檜可斬国辱可雪之秋所作者而詩書皆存予之旧態不容一疑点也但双竜舎主人者雖無記憶必応吉備之一志士耳蓋慶応丑寅距今年辛亥実四十有六七年其間国運一転世態変遷予之説亦有与当日不同者今対此故紙不止生桑滄隔世之感亦不能以無慚愧之情也因書其事由以復之
   明治四十四年立春前五日
                  青淵老生識
 斯ういふ文章を加へて返したのでございます、一面識の無い人で、どのやうな位地どのやうな境遇であるか存じませぬが、手紙を見ますると、ちよつと漢籍の素養などあるらしう見受けまするか、重政雄造なる人は如何なる身柄であるか、又何故に反古の様なものを穿鑿して珍重して殊に私に照会の手紙を寄せて来たか、其意志のある処は頓と分らぬけれども、彼の言ふ所は、平素渋沢を崇拝して居つたから其断片でも欲しいと思うた処、幸に之を得たから保存しやうと思つたが、果して真実でないと残念だから之を質すといふことです、是は誠に私の経歴中の昔語に過ぎぬのでありますが、私が当時頻りに攘夷鎖港を論じ、貿易は国家衰亡の基なりと考へたことは甚だ恥づべき訳でありますけれども、併し唯単に是が恥辱とばかり私は思はぬのでございます、斯様申すと尚既往の誤謬を弁解する如く聴えますが、丁度此事に似寄つた一の談話がありますで、続けてこれを御話を申上げたいと思ふのであります。
 一昨年私は亜米利加に旅行した、此旅行に於て到る処に歓迎を受け種々なる演説も致しましたが、殊に一日、少し興に乗じて亜米利加の人々にも激昂的な口調を用ゐたと認めらるゝ演説を致したことがあります、それが丁度前の話に似た所がある、十月の初日でありましたがスラキウスといふ処へ参りました、此処にフルベッキといふ人が居ります、此人は昔し長崎に居つた人で、其親が和蘭人で宣教師であつたやうに思ひます、今スラキウスに居るフルベッキ氏は其日本に永く居
 - 第45巻 p.112 -ページ画像 
つた人の子で、日本に産れ日本に生長した人で日本語を能く使ふ、其人が士官学校体のものをスラキウスに建てゝ居ります、其処に実業団の或る一部の人を招いで、学校をも観せ在学の生徒にも会見をさせ饗応をしたいから来て呉れといふので、市街から丁度一時間程も要する位距つて居る田舎でありましたが、一部の人々が招かれて参りましたそこで学校を観、種々なる饗応を受けましたが、多くは士官を養成する学校でありますから軍人が多く来会した、一行が参観を了つてから一食堂で立食の宴がありまして、其処に出てフルベッキ氏も演説しましたが、特に演説した人がグリフイスといふ人で、日本帝国といふ書物を作つた人であります、是は日本の事情を余程精しく知つて居る、維新の初頃日本に永く居つて、日本の状態は斯様である、日本の開港は斯ういふ訳であると総て帝国の事を詳密に取調べた人でありまして日本の事態を能く知つて居る、此人が日本通を以て任じて居りますので、安政の頃の事に説及ぼして、前にも申述べました大老井伊掃部頭を頗る称讚し、井伊掃部頭があつたに依つて始めて日本の開国の基礎が定つたといふやうに演説をしたのであります、是は私共から論じますと事実を少し誤つた言葉であるに因て私は大に之を弁駁せざるを得ぬで、グリフイス氏の演説に対して大にこれを論破し殆んど討論会的の演説をしたことがあります、グリフイス氏の言葉に依れば、其当時の日本人、西洋の事情を知らぬ人達が西洋人を目して唯夷狄である野蛮人である禽獣である、来る人は必ず国を侵略するのであるといふやうな観念を持つ場合に、井伊掃部頭はさうでなく、是非開国に限るといふ決断を以て条約を締結した為めに日本が開国になつたといふ称讚の言葉である、それに対して私の弁駁は右の論説は少し趣旨が違ふ、グリフイス君は日本精通者を以て自ら御任じなさるであらうけれども日本人はグリフイス君より尚精しく日本の事情を知つて居る、殊に外国人より観たる当時の事情は或は揣摩もあり臆測もあらうが、其実況を審にして居る者は今日は沢山ありませぬ、私は其時分官途に居らぬから細かに知らぬけれども安政五・六年の頃は二十才ばかりになつて国家の事に多少心を用ゐて居つたから井伊掃部頭の為人がどうである彼のペルリの来た時国の交は斯様である、其時分の攘夷を唱へた人の精神は如何であるといふやうなことはグリフイス君より私の方が精しく知つて居る、亜米利加の「コンモンドル」ペルリは日本の誤謬を釈かう日本の鎖港を開かうと思うたは好意に相違ないが、併ながら其時分の外国が皆好意的行動であつたかなかつたかは御考ありたいと思ふ其外国中には何か釁隙があつたら是に乗じやうといふ内心のあつたことも事実分つて居る、苟も我国を大切に思ふ人民であつたならば、敵愾心の有るといふことは、洵に宜べなることであるから徳川幕府の末に憂国の志士が鎖国の主義を執つたといふことも、日本の開明を遅らせたといふ虞はあるけれども、当時に於ては果して誤謬とばかり云へぬのである、現に安政条約の一年前に、或る大国が対島を借用しやうと言つたことを貴君方は御耳に入つて居らぬか、若し是等の国をして其需めに応ずるといふことであつたならば、日本は今日如何なる有様になつたであらうか、吾々が実業団として今日米国に旅行するやうな
 - 第45巻 p.113 -ページ画像 
時機をも或は無からしめたかも知れませぬ、故に日本をして今日あるを致さしめたのは、敵愾心ある国民の力であるといふても宜いのであれば、井伊掃部頭が日本を存立せしめたといふ評論は其当を失つたことである、若し果して御説の如くであるなら渋沢は徹頭徹尾冥頑不霊の者になるが、之に反して私の前に述べた説が正当であるといふならば、グリフイス君の御説は誤りと云はなければならぬのである、要するに折角の日本精通な御方であるけれども、もし一歩進んだ所迄を御知りなさらぬのは外国の御人で已むを得ぬ事と思ふによりて日本人として叮嚀に弁駁して置かねばならぬ、斯る御席に於て学者たるグリフイス君の御説に対して駁撃的のことを言ふは好まぬが、私の位地として已むを得ず此処に申述べるのであると、例を引き事実を挙げて論駁したのであります、演説が了るとグリフイス氏が手を握つて、左様仰しやれば或は聴違ひがあるかも知れぬ、私は形跡から言つたので事実を知らぬから、貴君が形跡以外の真相を述べたるは日本人としては御尤である、私は駁撃を受けても貴君に対して御怨みは申さぬ、或はつまらぬことを言ふと思つたか知らぬが向ふもさるもの、さういふことがありました。
 是は前の拙作の詩を四十七年後に弁解をしてやつたと同じやうな話でありますが、維新以前の有様といふものは、今日から論ずれば攘夷論鎖国論をした人々は実に冥頑不霊のやうに見えますけれども、唯頑冥でばかりあつたとは云へぬのである、是等の事は今日の青年に話しても何等の効能は無い、併し或る場合には聞かぬ気といふものが効能を持つといふことを考へねばならぬ、唯敵愾心と云へば喧嘩好きのやうな語弊を生じ、人は敵愾心を存せねばいかぬと云ふと穏当な教訓になりませぬけれども、併し唯人は柔順にして時に宜しくといふばかりでは真正な人間に成り得られぬ、といふことを覚悟して欲しいと思ふのであります、私は此の如く弱年若くは青年の時代に時を誤り考を違へたことは、五十年過ぎて大に後悔すべき点も多いけれども、其後悔すべき点の中にも或る場合に其心のあつたのが多少己れをして奮励せしめ、己れをして努力せしめたと思ふこと、なきにしもあらずであります、故に此重政といふ人の来書に対する話、或は亜米利加に於てグリフイス氏の演説に対して反対した事柄は、余り誉れとして御話することではありませぬけれども、詰り自分の信ずる所を一歩も枉げぬといふ精神だけは御諒し下さることであらうと思ひます、どうぞ若い御方々にはさういふ気力さういふ精神を持つて欲しいと思ふのであります、況んやそれをして考を間違へ地位を誤らずして其方針を始終立て通すに於てをや、今日は唯私が頃日斯ういふ書面を送られて応答したこと、申さば古い恥辱を此処に表はして而して其間に多少の弁解の言葉があらうと思ふので其事を述べて、諸君の気力を旺盛たらしめたいといふことを希望した次第でございます、是で御免を蒙ります。
                         (拍手)



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四四年(DK450040k-0003)
第45巻 p.113-114 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
十一月三日 晴 寒
 - 第45巻 p.114 -ページ画像 
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、後学友会幹事若山氏ノ来訪ニ接ス
○下略