デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
2款 財団法人埼玉学生誘掖会
■綱文

第45巻 p.224-237(DK450076k) ページ画像

大正6年2月13日(1917年)

是ヨリ先当会ハ、栄一ノ喜寿ヲ記念スル奨学資金ヲ募集シ、是日栄一ノ誕辰日ニ当リテ、上野精養軒ニ於テ、奨学資金贈呈式ヲ挙行ス。栄一出席シテ謝辞ヲ述ベ、之ニ金五千円ヲ加ヘテ当会ニ寄付ス。当会ハ是ヲ渋沢奨学資金ト称シテ別口資金トナス。


■資料

集会日時通知表 大正六年(DK450076k-0001)
第45巻 p.224 ページ画像

集会日時通知表  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
二月十三日 火 午後四時 渋沢奨学資金贈呈式(上野精養軒)


竜門雑誌 第三四六号・第六七頁大正六年三月 ○渋沢奨学資金贈呈式次第(DK450076k-0002)
第45巻 p.224 ページ画像

竜門雑誌  第三四六号・第六七頁大正六年三月
    ○渋沢奨学資金贈呈式次第
 渋沢奨学資金贈呈式は、二月十三日午後四時より、上野精養軒に於て開かれたり。今その次第を記さんに、林学博士本多静六氏「開会の辞」を述べ、次で諸井四郎氏の「事務並会計報告」あり。次に本多博士の「奨学資金贈呈の辞」、法学博士高田早苗・久米良作・埼玉県知事岡田忠彦諸氏の祝辞あり、最後に青淵先生の答辞ありて、式を終へたりといふ。渋沢奨学資金贈呈の辞は左の如し。
      渋沢奨学資金贈呈ノ辞
我埼玉県ノ先進
渋沢青淵先生ハ夙ニ大志ヲ抱キ、少壮出デテ国事ニ奔走シ、大政維新ノ後一旦擢テラレテ朝ニ立チシモ、国富ノ欧米ト相馳騁スルニ足ラザルヲ知ルヤ、慨然官途ヲ去リテ身ヲ実業界ニ投ジタリ、爾来四十余年専ラ我カ商工業ノ振興ヲ計リテ大ニ国運ノ発展ニ寄与シ、其功績顕赫名声遠ク海外ニ及ブ、而モ先生匆忙ノ裡能ク県下育英ノ事業ニ竭サルルコト既ニ久シ、今ヤ齢喜寿ニ達シ断然実業界ヲ退カレシモ、猶徒ニ塵外ニ余生ヲ楽マントセズ、更ニ力ヲ国民精神ノ向上及ヒ育英慈善ノ事業ニ効サントス、其高潔ナル風格ハ洵ニ一代ノ師表百世ノ摸範ニシテ、吾等ノ斉シク欣仰ニ堪ヘザル所ナリ
玆ニ吾等同郷ノ有志胥謀リ、先生有終ノ偉績ヲ頌シ、併セテ将来ノ清福ヲ祝センガ為ニ、渋沢奨学資金ヲ醵集シ、謹テ先生ノ座下ニ呈ス、冀クバ微衷ヲ納レ奨学資財ノ一端ニ充テラレンコトヲ
  大正六年二月十三日


竜門雑誌 第三五一号・第五〇―六五頁大正六年八月 ○埼玉県有志青淵先生喜寿祝賀会に於ける祝辞及答辞(DK450076k-0003)
第45巻 p.224-235 ページ画像

竜門雑誌  第三五一号・第五〇―六五頁大正六年八月
    ○埼玉県有志 青淵先生喜寿祝賀会
      に於ける祝辞及答辞
  本篇は埼玉県有志諸氏相謀りて青淵先生の喜寿を祝する為め渋沢
 - 第45巻 p.225 -ページ画像 
奨学資金を募集し、以て本年二月十三日、先生の誕生日を卜し、上野精養軒に於て其贈呈式を挙行したる次第は当時の本誌に掲載したりしが、当日の祝辞及答辞は左の如し(編者識)
      祝辞       法学博士 高田早苗君
 今夕は、我渋沢青淵先生が七十七歳の御高齢に達せられました事を先生と郷を同ふする諸君が、大に祝さるゝ御心持を以て、予て集めて居つた奨学資金を先生に呈すと云ふ為めの会合でありまして、此場合に、私に祝辞を申上る様にとの御誘がありました。元より身にとりまして光栄の事で御座いますが、埼玉県出身者は多い事であり、他に適当なる方があろうと存じましたが、折角の御申付でもあり、又男爵を敬慕するの念は、決して人後に落つるものでないと信じて居りますから、失礼ながら一言祝辞を申述べよふと存じます。
 渋沢青淵先生の御一生涯の事業、殊に公に対する長い間の御尽力は既に天下周知の事実でありますから、今更繰返して申上げるに及ばぬ事と存じますが、只私共が埼玉県人として、郷党から男爵の如き御方の出られた事については、少くとも三重の喜びがあろうと考へます。先づ第一に、渋沢青淵先生が、郷党のために多大の御力を尽さるゝことについては、埼玉県人として何人も異論なく喜ばしく思ふ事と存じます。第二に、男爵が七十七歳の大半と云ふ長日月を我日本の為に御力を御尽しになられ、社会公共のために至大の御貢献をなされたと云ふ事で、此れは或る意味から申すと、埼玉県人を代表されて、国家のために御働き下されたと申上げてもよいと考へます――此の如き――男爵の如き御方が、埼玉県から出られたと云ふ事は、此上の喜びはないと存じます。第三に、今日の男爵の地位は世界的でありまして、名声が世界的である許りでなく、実際に御尽力になり、御努力になることが世界的に認めらるゝのであります。此の事もある意味から申しますと、私共埼玉県人を代表して世界的に御働き下さるゝと云つてもよいと考へられまして、私共の非常なる喜びばかりでなく、誠に肩身の広い事であります。
 斯の如き、我渋沢青淵先生が、然も七十七歳の御高齢に達せられて今後も尚社会公共の事業に御力を尽さるゝことにつきましては、前申上げた様に、少くも三重の喜びがある次第で御座います。
 我埼玉県は、過去に於いて知名の士が無かつたと云ふのではありませぬので、殊に鎌倉時代==には、有名の人がありました。例へば花の盛の敦盛を打つて無情を悟つたといふ熊谷直実とか、腕の強いので評判の三保谷四郎とか名声の轟いた人を出しましたが、其等の人々の仕事はたかの知れたことで、一朝風雲に乗して起つた頼朝の驥尾に附して戦争をしたに過ぎないので、仕事の性質は埼主県の誇りとなることは少いのであります。此等のものを男爵に比すれば、日輪の前に光りを失ふ星の如きものであります。我埼玉県が渋沢男爵の如き世界的の偉人を出し、其方が七十七歳の御高齢迄郷党のため、国家のため、世界のために御力をつくされ、今後も尚つくさるゝと云ふ次第でありまするから、此れを埼玉県人の誇として、私共埼玉県人が御祝ひをすると云ふ事は当然のことでありまして、今日の会合あるは誠に已を得
 - 第45巻 p.226 -ページ画像 
ざる次第と存じます。
 先日も、男爵のための或る祝宴の席上にて申しましたことでありますが、近来偉人の名が安売をさるゝ様になつたと私は考へまして、誠に嘆息に堪えぬことゝ思つて居ります。偉人の字は、容易に人に与ふべきものではないのであります。偉人とはgreat-manであります、great-manと云はるゝ人は容易にないのであります。
 先づ偉人の資格の一端を申しますと、世界的に名が知れなければいけぬのみならず、西洋の人は言語思想の関係上、政治上と、文学上とを問はず、じきに名が知れるのであります。これに反して、我日本の如き国にありましては、名声が世界的となるのは容易のことではないのであります。指を屈すれば先一人か二人であります。今日の社会に於て、偉人と云ひ得る人は、大隈侯と渋沢男爵でありますが、日本の如き小国が二人迄現在偉人を有して居ることは、勿論日本の誇りでありまして、外国では一人も偉人の無い所があると思ひます。
 先支那では、四百余州の地と、四億万の人口がありますが、曾国藩李鴻章死して以来一人の偉人なく、英国には「グラツトストン」死して以来一人もなく、又仏国には「チール」「ガンベツタ」死して以来一人もなく、独逸には「ビスマルク」「モルトケ」死して以来同様であり、伊太利には「カブール」「ガリバルヂー」「マジニー」等逝いて以来何人も無いのであります。然るに、我国の如き辺僻の地から、世界的偉人である大隈侯・渋沢男爵を出したと云ふことは誠に喜ぶべきことでありまして、然かも其中の一人が吾が埼玉県から出られたと云ふことは、誠に喜ばしい次第であります。殊に偉とし珍とする所は政治界からは従来偉人が出で易い、又政治界の人は偉人になり易いので西郷・大久保・木戸の三傑より、降つて伊藤公・大隈侯等は、皆偉人と申してもよいと思ひますが、皆政治家である。然るに渋沢男爵は非政治的非官僚的で、然かも純然たる民間から出でゝ偉人となられたと云ふことであります。
 又金を儲ける点から偉人と云ひ得るなれは、米国辺には沢山ありましよう。とても我が実業家などは比べものになりません。然し人格の点になりますと、中々偉人と云ひ得る人は米国にも尠ないのである。我渋沢男爵が我日本の実業界から出でられて偉人と称せらるゝと云ふことは、実に偉とし、珍とするに足ると考へます。
 我埼玉県は、かゝる偉人を出し、然もこの偉人である男爵が、七十七歳の御高齢に達せられても尚、国家のため、世界のために、尽力をいたさるゝと云ふことで御座いますから御喜び申上るのは当然だと信じます。我等が御祝ひ迄に奨学資金を集め、男爵に差上ることになりました。其額は少いので誠に御恥しい感じが致しますけれども、其目的は、男爵が今後一層力を尽さるゝと云ふ教育の奨学資金として呈する次第でありますから、男爵も御嘉納下さる事と思ひ、又それを希望する次第であります。
 男爵の過去の御功労は、何人も周知の事実でありまするから、私が玆に改めて呶々する必要もないと存じます。私は此の席に於きまして只男爵が将来御健康をつゞけられまして、国家の為め、世界のため一
 - 第45巻 p.227 -ページ画像 
層の御尽力あらんことを希望し期待する次第で御座います。
      祝辞             久米良作君
 私はかゝる席に於きまして祝辞を申上る資格は御座いませんが、只今高田博士の祝辞演説がありましたから、次に何か実業界方面から祝辞を申上る様にとの事でありました。埼玉県から実業方面に出て居らるゝ方々には、先輩としては尾高・大川・田中・諸井諸君を始め其数中々多いのでありまするが、是等の諸君は渋沢男爵とは、御婚戚の間柄であるから遠慮すると云ふ理由で、御辞退でありました。そう致しますると、山中君は最も年長者であり、極めて適当の御方でありまするが、山中君は御自分の郷里である秩父より、私の郷里なる児玉の方が、男爵の御郷里にも近いし、又私の代りに祝辞を申上てくるゝなら都合がよいとの事でありましたから、山中君の名代かたかた一言祝辞を申上ようと存じます。
 扨て、祝辞を申上る事は、実に重荷で、やせ馬に重荷の感が御座いますが、誠に光栄の至りで御座いまするから、不及ながら光栄と云ふ点より奮発して申上ようと存じます。
 渋沢青淵先生が、常に郷党のため御尽力になります事や、国家社会のために御力をつくさるゝ事、又世界的の御働きをなさるゝ事、又更に実業界から世界的偉人を出したことは頗る珍とするに足ること等に付ては、只今高田博士より、埼玉県人として、三重の御喜びを申述られましたから、私から重ねて申上る必要はないと存じます。男爵から見ますると、甚だしく後輩である私が、此の世界的偉人を祝すると云ふことは、所謂盲者の大象をさぐるの感がありまするが、然し今暫く実業界の方面から、一言御祝辞を述べて見ようと存じます。
 抑も東洋の実業界は広しと雖も、日本を中心とすることは疑ない事実と存じまする。而して日本の実業界に於ける百般の商工業は、皆我渋沢青淵先生を中心として発せざるものは殆んどないので、此のことは私の盲断でもなければ、過言でもないと信じます。
 実に先生は東洋実業界の泰斗であり、又日本の実業界を守護する福の神として此世に出でられたる大権現であります。我等は同県の出身と云ふ因縁で、常に親しく御教訓を先生から受け得らるゝと云ふことは、誠に日本一の果報者であると存じます。
 先生が未だ曾て郷関を出られないずつと以前には、御商売の御用で藍の仕入れに児玉町には時折御見えになりました。私の分家には久米習斎名を篤太郎と申しました人がありました。それ等の宅には御立寄になられて、縁側に腰しかけられて、詩を御作りになられたと聞いてをりまするが、それ等のものから見ると私なぞは孫のやうなものでありますから、他の方々よりは特に先生のジキジキの御教訓を仰いだ点に付て、一層深く感謝いたさねばならぬと信じます。
 先生は先に皇室より授爵の恩命を拝されました。此れは御維新の世の中とは云へ一口に申さば、商売人の中より出でられて、爵位を拝せられたる者の内では、日本一の早い御方でありまするのみならず、御一門の中から、穂積男爵・阪谷男爵の御二人が、同様の恩命を拝せられました。先生は又福禄円満具足の大長者として、御子孫の数多きこ
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と他に比類なしと申すべく、現に令息四人息女三人あられて、又令孫は男女合せて二十人、曾孫は既に十二人に達せられまして、此れらを合計するときは四十何人と云ふ数に相成ります。まだ此外にも御腹の中にあるものも多いことゝ存ぜられます。斯の如く御目出度きことを重ねられまして、御家門の繁栄極まりなき上に先生は七十七の御高齢を超へられ、然も益々矍鑠として壮者を凌ぐ有様で活動せられて居らるゝので御座います。
 只今は高田博士から、先生は世界的の偉人であると云ふ御説を承りましたから、私は先生が常々漢学の御話しが御座いますから、少しく方面をかへて和漢にわたりまして福禄円満具足の人ありやと云ふことを尋て見ようと存じます。
 唐の郭子儀、これは諸君が御目出度き時に御祝の席に用ゆる床の間の掛物の画題となるものゝ中で蓬莱山とか、天保九如の図とか、或は又人物に於て、寿老とか、郭子儀とか云ふものは、最も広く世の中に知られて居りまする。就中郭子儀と云ふのは頗る多くの子孫に囲まれてをる画であります。此の故事からして郭子儀と云ふ人物を思ひ出しましたから、今少し調べてみました。人名辞典に依れば、唐の玄宗皇帝時代、華州鄭の人で、身の丈七尺二寸、玄宗の朝に於て朔北節度使たり、安緑山の叛乱以来国事の為め大に尽力せし人で、玄宗皇帝より徳宗に至る四朝に歴事して、官は尚父大尉中書令汾陽王に至るとありまする、此の老人は身を以て天下の安危を為すもの三十年、功は天下を蓋ふて主疑はず、位人臣を極めて衆疾まず、中書令を校すること凡そ二十四考、家人三十人、八子七婿皆顕る、子孫数十人あり、此等のもの安を問ふ毎に尽く弁ずること能はず、之を領すのみ、徳宗の建中二年卒す、寿八十三とあります。
 今此の郭子儀の伝を見ますると、少からず案外の思ひがするので御座います。思つたより大いした代物ではないと云ふことを発見した。先づ第一に、身を以て天下の安危をなすもの三十年と云ひますが、之は長きようにはあるが、我渋沢青淵先生が実業界に於ける年数と比較すれば遠く及ばない。第二に、家人三十人、八子七婿皆顕るとありまするが、爵位を拝受したるものは自分独りだけであるやうに思れる。第三に、子孫数十人安を問ふ毎に之を頷つくのみと云ふに至つては、老耆も又甚しと云ふ体であります。之は文章に過ぎて居る故でもありましようが、少し恐れ入る次第で御座ります。猶又世寿八十三とありますが、此の点も余り珍とするに足らないのであります。
 此等の点を我渋沢青淵先生に比較するときは、何れも遠く及ばない愈々以て事玆に到りては、以来日本の画家に命じて御目出度きときの掛物の画題を、むしろ取り更へてほしいと思ふのであります。私も数年来日本画会の世話を、末松子爵と共に致してをりまして、日本画の大家に知人も多くありまするから、此等の人々に、御芽出度き掛物の画題として郭子儀の図なぞは画かぬことにして、是より後は青淵先生に御願申上たらよからうと考へる。就ては王子の御邸にでも出掛けて御指図を受けるがよろしかろうと思ひます。誠に後世恐るべしとは是等の事を申すもので世に伝はりたる故事来歴も、朱を入れて大に改正
 - 第45巻 p.229 -ページ画像 
せしむること、温古知新の理に叶ふものと云ふべしである。諸君以て如何と為す乎。
 夫れは却説をきまして、私は玆に謹んで青淵先生の御家門繁栄、子孫長久を祈ると同時に、先生の御健康を祝し奉り、愈々益々齢芝を重ねられて鶴寿無彊ならんことを祈るのであります。
 古人尭を祝して言へることあり、曰く聖人は富多く、寿多く、子孫多しと、余も亦此の言を仮りて以て先生を祝さんと欲するものなり。本日は、先生の七十八回の御誕生に当りまして、祝辞を申上げたることは、最も光栄の至りに堪へざる次第なりとす。
      祝辞      埼玉県知事 岡田忠彦君
渋沢男爵閣下並に満堂の閣下諸君
 今日は此の光輝ある御芽出度き席に臨み、県に職を奉ずる故を以て一言祝辞を申上得ますことは私の光栄とする所であります。
 実は会々地方官会議があり、殊によると時間に間にあはぬかと心配いたしました。然し必ず御祝辞を申上ねばならぬと云ふことは私の職務上の義務とも信じましたから、万一出席致し兼ぬる場合には祝辞を代読してもろうために内務部長を呼び寄せて置きましたが、幸にも親しく御祝辞を申述ぶることを得まして仕合の至りと存じます。
 男爵は独り我郷党の誇りのみならず我国民の等しく敬仰する所、又盛名天下に馳せ世界的偉人なることは只今高田博士の御言葉の通りであります。此の郷党の誇りなる男爵は本日七十七歳の御高齢を重ねられ、玆に県下の名流と共に御祝ひの席に臨みえますることは、県に職を奉ずる知事として幸福の次第と存じます。
 本日の出資者名簿を拝見致しますと、資金募集に応ぜられた御方は五百名に余り、その御顔振れは或は政治・実業・農業の各方面に亘り県下の名流を網羅せられてをり、又此の席に御会合の百八十名の御方に置きましては御職業の如何を問はず政党政派の如何を問はず、県出身の在京者又は県下の一流の御方を選り抜いて居らるゝと云ふことは男爵の徳望が如何に全県下に洽ねきかと云ふ実際の例証で御座いまして、誠に御芽出度き会合と思ひます。
 然らば此の御芽出度き会合に臨みまして、如何なる言葉を以て御祝辞を申上たら最も適当なるものでありましようか。
一、男爵は少壮志を立てられて国事に身命を賭し、後我国将来の発達は国富を作るにありと着眼せられ、終始一貫我国商工業の発展に努力せられたのである。当時男爵にして依然廟堂に残つて居られたならば政治上顕要の地に登らるゝことは期して待つべしであつた。然るに男爵は我国の将来は国富の増進にあると一念決せられた以上、断然官職を〓げ遂に今日に至つて、其初志を貫徹せられ、今や又既に其事の大成するに及んで決然として実業界を隠退せられ、国家公共の事業に世界平和の事業に御志を向けられたと云ふ、此の志操の堅実にして信念の篤きことは、我埼玉県下青年子弟をはじめ広く我国民の模範とすべきものと思ひます。
二、誠に御無礼なる申条ながら、男爵は実業家として或る意味に於ては成効せられて居らぬと考へます。如何となれば男爵の富は我国富豪
 - 第45巻 p.230 -ページ画像 
中の十指に屈せられませぬ。即ち富をなすことに於ては成効せられて居らぬのであります。然しこゝが男爵を敬慕すべき大なる点で御座います。男爵の此れ迄の御径路を見、御閲歴を読みますると、男爵の富を作ると云ふ目的は自己の為ではありませぬ。国家のため、公共のために富を作らんと御着眼なされたので、国家社会を主眼とせられたことは明であります。殊に我国に零細なる資金を集めて大事業を営むと云ふ銀行組織を輸入し、然かも卒先其事に当られましたので、今日に於ける我国諸銀行活動の種を蒔かれたのであります。果して然らば我国現在の非常なる富は男爵の力大に与て功あるもので、百万の長者よりも更に富めるものと云はなければなりません。特に小資本を集めて大運用を期すると云ふの主義を確立せられたる一事は、我国社会政策の発達上大に謝せなければならないことゝ思ひます。近来動もすれば世間の拝金者流が富を唯一の目的と信じて、専ら利己に走り風紀を紊乱し、青年子弟を荼毒せんとする時に当りまして、男爵の如き光風霽月の心を持せらるゝ御方が在らるゝと云ふことは、私共が県下の青年子弟を誘導する上の実物教育ともなりえまして、埼玉県人の幸福であると感謝する次第であります。
三、先程高田博士は埼玉県人として三重の御喜びを述べられ、其一つとして男爵は世界的偉人であると云ふことを申された。中に英国の例をとられ、英国には「クラツドストン」死して以来偉人なしと申されましたが、私は若し忌憚なく自己の説を吐露することを容されますれば、英国現在の宰相「ロイドジヨージ」其人は世界的の偉人であると思ひます。「ロイドジヨージ」氏は其名声四海に轟くようになりましても眷々として郷里を思ひ「アイルランド」に帰つて自分の生れたる家を偲び、父兄と起臥した小屋を愛惜して之を保存し、又幼時其名の頭文字を「ナイフ」で刻した小川の橋の上に立ち尽して往時を追懐せられる。かくして常に郷党の子弟の訓育に意を注がれると云ふことを聞きます。此の一事は誠に床しきことでありまして、多少の成効をすれば動ともすれば郷党を忘れてしまうことが普通でありますのに、世界の偉人となられても常に郷党のことを念頭にかけて忘れぬと云ふは英雄の心中必ずや普通の人と異なる所のものがあると思ひます。男爵が今日迄常に郷党のことに御力を尽さるゝと云ふことは、県人の深く感謝せねばならぬことと信じます。
四、更に渋沢男爵は所謂牙籌をことゝせらるゝ。此商売と云ふことゝ文事とは甚だ縁が遠い。然るに男爵は漢学を嗜み又詩を賦して懐を遣られ、誠にものゝふのあはれを知ると云ふことで、此の事は世の中に欽慕すべきものゝ中の最も床しきことゝ思ひます。一体埼玉県と申す所は豪健の気はあり余りますが、風韻と云ふ点に於て欠けて居りますので、言葉を換へて申せば「レフワイン」され居らぬ点があると思ひます。私は我郷党にもう少し優美即ち「グレースフル」の風を養ふと云ふことは必要なることゝ信じます。男爵が御多忙の身でありながら詩歌に懐をやらるゝと云ふのは、我々職にあるものゝ最もよい教訓であると信じます。
五、更に子々孫々の多くして御家門の繁栄を極められると云ふことは
 - 第45巻 p.231 -ページ画像 
最も祝すべきことゝ思ひます。渋沢男爵の如き偉大なる人格が清福なる家庭を作らるゝ好例を以て、県民を導いて行きたいと思ひます。今日は凡て小学中学校に於て郷党の研究を致して子弟を督励して居りますが、徒らに過去のことでなく、眼のあたり存在する渋沢男爵をとつて以て青年子弟を教訓し、県下一般の気風を改善しうることは幸の至りと存じます。
 之を要するに渋沢男爵の志操堅固にして撓まざることが青年子弟の教育に多大の効果あること、実業界にあらるゝ身を以て公共のことに心を尽さるゝこと、郷党のために常に御尽力をなさるゝこと、御多忙の中に床しき御心を持せらるゝこと、家門の繁栄に渡せらるゝこと等は我埼玉県下の時弊を救ふに十分にして余りある所と信じます。私は渋沢男爵の徳風を広く県下一般に及して以て青年子弟が男爵を模範とし、更に一人の渋沢男爵を出し尚ほ進んで多数の渋沢男爵を作り興すと云ふことは豈独り我埼玉県の幸福であるばかりでなく、亦以て我国家全体の幸福であり世界人類の幸福を増進せしむるものと考へます。
 今日醵出されたる奨学資金は実は余り十分の額とは考へませぬ。願くは県下有志の士は以後冠婚葬祭の費を割き、本日渋沢男爵の慶事を基本として集められたる資金に実をつけ皮をつけて、少くも十万円位の資金を作り、奨学の資に当て我渋沢男爵の如き人を作り出したいと存じます。
 本日は此の御芽出度き席にのぞみまして一言御祝辞を申上るに当り男爵閣下の御健康を祝すると同時に将来も尚郷党に対する御尽力を御願ひ申上る次第であります。
      答辞              青淵先生
閣下並に諸君
 何等の光栄か斯の如き御席に参上しました事は感極まりて涙多き次第で御座います。皆様が特に申合されて斯の如き資金を醵出致されて私の喜寿を御祝ひ下され、此資金を以て将来県下育英の事に尽力せられんとするの企図は、私の素志に合するのみならず、事柄埼玉県全体に関係すると思ひますと、別して感謝の念に堪えませぬ。殊に本日は私が生れまして満七十七歳の日で御座いまして、かゝる日を以て此祝宴を開いて下さる事の御注意深いのを喜ぶ次第で御座います。加ふるに此資金募集に就きまして、会長よりの趣意書の御朗読及び高田・久米・岡田県知事諸公の御懇篤なる御演説を承りましては、同じ埼玉県人の御会合の事ではありますが、少しく溢美の嫌がありまして誠に恥しく思ひまして、一身の面目と存じながらも寧ろ恐縮する次第で御座います。
 斯る場合に於て只難有ふと申上げるのも余りに単調と思ひますから私の七十七歳に至る迄の経歴を申し述べやうと存じます。但し此の経歴談は種々なる席に度々申述べた事でありますから、重複は御詑を申上げて置きます。
 私は今年で七十八歳の誕生日に至る迄生存しましたが、元来本県大里郡八基村大字血洗島の農家に生れまして、父の督励の下に農間の稼ぎに藍玉の掛売を致して居りました。幼少の頃より父又は師友より漢
 - 第45巻 p.232 -ページ画像 
学を学びましたのが、幸か不幸か私をして郷里に安んじて居る事の出来ぬやうに立至らしめたのであります。是れは当時の憂国者一般の有様で、私一人が特に国家を思ふ念の強かつたのではありません。試に嘉永安政の時代にあらしめたならば、満堂の諸君も各其業に安んずる事が出来なかつたと信じます。蓋し国を思ふの念と同時に、自己の意志が行はれて天下に雄飛しやうとする考もありました為めに、少しく乱暴なる計画を組立てたるを親友から諫止され、此際寧ろ農民を変じて家を離れた方が父母に対して孝行だらうと勧められ、又私も故郷で縲紲の辱を受けて親戚にまで迷惑をかけるよりも早く旧里を去らうと決心致しました。是れが私の農民から浪人となりました理由で御座います。
 京都に残つて一橋公の家来となつた後は只主家を強大にしやうとの心を持つて専一に勉強しました。私の考ではもしも幕府が倒れたならば、勢の向ふ所に帰着するであらうと信じましたから、一橋公を英主として事に当り其の間に成すあらんとしたのであります。此頃山路愛山氏が、渋沢は論語を愛読するが一橋公に奉仕せし時代の行動は果して論語主義であつたらうか、詰問的の論法で云はれたのですが、私は自己の君を当時に雄飛せしむるには相当の力を持たねばならない、此公をして現に衰頽に瀕した幕政を改革しようとの希望を持つたのであります。やがて公が将軍職になられると云ふ事を聞きまして、実に過まつた事をされると思ひましたが、既にこうなつては諫めても詮方ないと断念しまして、数年間の勤労も全く無駄であつたと云ふ感じが致しました。其れは慶応二年の八月でありました。
 幾程もなくして私は徳川民部公子に随行して仏国行を命ぜられ、忽ち其方向を変じた次第でありますが、私の留守中に幕府が如何に成行くかと云ふ事に付て遠い将来は判り兼ねましたが、近眼的に徳川幕府が倒れると云ふ事だけは思ひ浮むだのであります。私も此の時分には政治家を以て身を立てる所存でありましたから、随従して居る民部公子を英主として他日為すことあるようにしたならば、依つて以て自己も国家に微力を尽し得らるゝだらうと云ふ希望を以て居りました。
 慶応三年の十月には慶喜公が政権を返上されると云ふ大変革がありましたが、海外にありました私共は是等の事を知りませんで、仏国に於てナポレオン三世が公子を優待する有様は今の皇族方を待遇する如くに歓待をしてくれましたから、他の欧洲の国々からも非常に優遇されつゝ無事を喜むで居りましたが、本国の政変は次第次第に報知され殊に慶応四年即ち明治元年一月、伏見鳥羽の一戦にて幕府の権威全く地に落ち、次で王政維新となりました。其事が仏国に通知せられたのは三月頃であつたと記憶しております。斯くなると本国の事が非常に心配になりましたが、民部公子は少年の事であるから帰国にも及ぶまい、自分等二・三人と共に仏国に止つて数年は勉学する資金もありましたから、充分に学んで帰らうと思ひましたが、それも違却してしまいました。それは当時水戸藩主慶徳と申される慶喜公の兄君が薨去されて、その子に鉄千代と申される御人があるにも拘らず、党争の軋轢から過激派が勝を得て、軟派の嗣子たる鉄千代に相続させないで、民
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部公子を立てる事になり、特使を以て仏国より迎えられて、仏国に残つて居た二・三人の者一同御供をして帰国致したのであります。横浜に到着して見ますると日本は非常の変り方で実に驚かされた次第であります。
 私は最初憂国の心から郷里を離れて一橋公に奉仕し種々計画した事の跡を顧みますれば、総して失敗に終つたのであります。
第一、青年の頃討幕の志を立てゝ失敗に帰し
第二、一橋公に仕へ公を補佐して英主と為し、天下に事ある場合に於て雄飛せむとせし企望も徒労に帰し
第三、仏国に於て民部公子を御教育申上げ、自己も欧洲の学を修め他日帰朝の後為すあらむと欲せしも、幕府の瓦解及公子の水藩相続のことによりて水泡に帰した。
 斯る有様にて明治元年の十一月日本に帰着しましたが、其時はまだ実業界に身を立てんとするの念は深くありませんでした。帰国して見ると実に世は滄桑の大変化で、親友は多く函館に行つて賊軍となつておるが、今更自分もと云ふ心もなく、是れから先如何しようと云ふ考案もつきませんので、先づ第一に慶喜公の御様子をと考へて静岡へ参りますると、実に情ない御様子で御座いました。勿論私も最初は階級制度打破の念も強く持ちましたが、既に幕臣となつたからは三世の君主と仰いだ昨日の将軍が、静岡なる宝台院といふ寺内の狭い座敷に蟄居せらるゝのを拝しました時には、余りの変り方に一言も発し得ず涙に咽んで坊主にならうと思つたのでありました。
 既に再三の失敗を重ねた身ではあるが、是れも自分の不都合から起つたと云ふのでもないから、将来の方針に付て熟考を重ねました結果全く政治界から去つて商工業の有様は未だ幼稚なる時代でありましたから、此方面に尽力しやうと決心したのでありましたが、それも自己の富を増し自身の幸福を欲したのでなく、商工業そのものが道理正しく発展する事を企図した次第であります。
 畢生の力と希望とを此の点に集中して、慶喜公が静岡に居られますので其の関係上、静岡の商工業を合本組織に改良する為め約一年経営致しましたが、明治二年の冬中央政府の命を受けて大蔵省の役人となりました。私の考は前にも述べた通り実業界と志を決した故に、役人になる事は望みませぬから断りましたが、たつてと勧められ、私も再考して見ますると、役人となつて将来の素養をするは悪い事ではないと思ひましたから、遂に大蔵省に勤仕する事となりました。其後数年間役人となつて居りましたが、どうも予約した所と違ひますので、断然役人を罷めて実業界の人となりました。此の実業界へ入りました事につきては、卓識と褒られた事もありましたが、私は当初から終身役人で居らうといふ希望はなかつたので、実際私の身にして考へましたら、大蔵省にある間に商工業に関する相応の学問が出来たと思つております。
 上来申上げました如く実業界に身を立てようとの素志を達して、先づ銀行業を経営して、商工業界に合本組織をひろめ度いと考へました爾来種々苦心も致し努力も致しまして、少し手前味噌ではありますが
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此の方面からは多少国家に尽し得たと信じております。満場の諸君が御存じの如く、私は第一銀行には四十三年間頭取を勤務して居りました。他の権勢又は資本の力によらずして、常に多数から選ばれた重役となり、時には配当を増せとか進歩が少ないとか云はれた事もありますが、全体の株主から信用され、世の中の進歩と其歩調を同じくして絶えて株主の物議もなく、毎時の総会も投票数によりて位置を繋いだと云ふ様な事もなく経過したのは、合本組織はかくあるべしとの模範を示したと言い得る事と信じて居ります。
 銀行経営で富を増進させようとの念も強かつたが、同時に他の事業を進めるのも必要である。何事も個人経営ではいけぬ、株式組織にせなければならぬと考へましたから、自分が率先してやらなければ事業の進歩も遅い、其信用も増すことを得られぬので、各方面の事に関係致しました。郵船会社・鉄道会社・瓦斯会社・人造肥料会社・紡績会社・織物会社等皆私の創立又は関係致しましたもので、是れは責任を持つて自身で担当するのが進歩が早いと考へました結果、1が2となり3となり、終には人から謗らるゝ程如く関係しましたが、是れは拡張の念が第一であつた為めであります。然るに其後世間の経過を見ると、人も進み事も発達しました故に、何時迄も同様に関係しておる事は宜しくないと思ふて、明治四十二年各会社の関係を断ちましたが、第一銀行は尚数年を経て昨年七十七歳になつたのを機会として、経済の事業には一切の関係を断ちました。天海僧正は百八歳迄生きられたと云ふから、私から見ますれば尚ほ三十年の歳月がありますが、私はそれ程の慾望もありませぬ。近来段々老衰も致しますから、先づ自己の為めにする利殖上の事は断然御免を蒙つたのであります。然し根が実業から出た身でありまするから、国家経済の事につき相談を受ける場合に、一切応じない訳にもなりませぬが、主として道徳経済の一致資本労働の調和、感化救済の施設又は教育に外交に意にとめております。又亜米利加と支那とにつきましては、自己利害に関係せぬ範囲に於て相談に応じられる事が出来れば幸福と思つております。所が前申上げた事丈で中々多忙でありまして、閑日月どころでなく拮据経営して居ります。曾て申上げた様に覚えますが、銀行を辞する事も出来るが、国民は辞する事は出来ぬ、故に此の方面に於て最善の力を尽さうと考へております。
 先刻再三申上げます如く、今日此の如き多数の諸君から私の七十八の誕生日を御祝ひ下され、記念として奨学資金を贈られると云ふ事は実に有難いので御礼の辞に苦しむのであります。そこで私は此の頂戴した金を如何にしたらよいかと考へましたが、自己の家に存して置くを寧ろ益なきと考へましたから、私が会頭を致しておりまする埼玉学生誘掖会に寄附して埼玉県下子弟の奨学資金に当て、尚余力ある場合には書籍の購求又は出版の資に当てられ度いと思ひます。而して只今頂戴した金額を其儘差出しするのも余りに興がありませぬから、軽微ながらこれに金五千円を差加へまして、誘掖会に進呈しまして可然御処理を願ひます。何れ近日書面を添えて差出す考であります。昔の諺に命長ければ恥多しと申しますが、私は恥多いとは思ひませぬ。然し
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ながら長命しますと色々の事があります。即ち大正六年の一箇月間にも、喜ぶべき事と悲しむべき事がありました。其悲とは正月早々明石照男に嫁した娘の女孫が疫痢にて死去しました。七歳になるませた女児であつたから少なからず無情を感じました。引続いて私の生れた血洗島の家で、私に代つて旧里の家を相続した市郎が大患に罹り其十九日に死去しました。七十一の高年でありましたが、私よりは七歳も下で、且つ私の生家に力を尽した人であるから、愛情からも関係からも真に悲傷の極でありました。是迄は悲しい方面を申上げましたが、喜びの方を申上げますと、一月十六日に皇后大夫の大森男爵が、私が社会政策の一つとして四十三年間世話をしております養育院へ見えられ丁寧に起源沿革及び将来の希望などを聞かれて帰られました。其十八日には、特に宮中に出よとの電話でありましたから早速罷出ましたら在院者一同へ 皇后陛下より御菓子料を頂戴致しました。殊に拝謁して御礼を申上げるやうとの指揮に従ひ御前に出ると、四十三年と云ふ長い期間多数の人の困難を救ふて世の中を益したとの御褒詞を下されまして、馬齢七十八歳と上申致しますと、見掛よりも若いから尚ほ健康を保存して貧民の世話を続けよと有難い仰せを被りました。私の些細なる骨折が多少にても社会を益した事につきまして御言葉を頂戴すると云ふ事は真に有難い次第であります。今日は丁度十三日でありますから先刻立寄つてまゐりました。
 更に一の喜ばしい事は、聯合軍慰問会の設立であります。私は此際国民全体が相当の力を合せて、聯合国の傷病兵を慰問すると云ふ事を国交上からも人道上からも極めて必要の事と考へまして、過日来各方面に説き廻りました所、幸に政治家も経済家も皆一様に賛成してくるる事となりました。是は決して私一人の仕事でなく国家的の公務である。四・五日前にも首相官邸に於て、地方長官各位にも其の趣旨を申上た次第であります。既に寄附金の募集に従事致しておりますから、やがて相当の金額を集め得まして、適当の慰問使を選定して聯合軍を慰問致しましたならば、日本の国情を知らしむる上に於きましても多大の効果があらうと信じます。微力ながら私も首唱者の一人たり得ました事を誠に光栄とする所であります。
 斯く喜ばしき事が重なりましたが、二度ある事は三度あるとの古諺から、何かもう一つ喜ばしい事があるかも知れぬと内心待ちもうけておりました所が、今日此の喜ばしい御席に出ます事を得ました。此れも全く長命の御蔭と喜んでおります故に、命長ければ恥多しと申す事は私には当りませんで、私は命長ければ喜多しと改めたいと思ます。此れを以て本席の御礼の言葉と致します。
  ○右高田早苗祝辞以下全文ハ、後掲「渋沢青淵先生喜寿祝賀記念録」ニ収メラル。


渋沢青淵先生喜寿祝賀記念録 巻頭石版(大正六年)刊(DK450076k-0004)
第45巻 p.235-236 ページ画像

渋沢青淵先生喜寿祝賀記念録  巻頭石版(大正六年)刊
拝啓益御清適欣慰之至ニ候、然者過般我か埼玉県下有志諸君ニ於て老生之喜寿祝賀之記念として、奨学資金を募集せられ、特ニ上野精養軒ニ盛大なる式典御挙行相成、右金額を御贈与被下候ハ老生之感謝措く
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能はさる処ニ御坐候、就而右資金保管及処理ニ関し種々愚考仕候得共寧ロ之を貴会ニ委嘱し永久其御措置相願候を以て最良之方法と相信し候ニ付、玆ニ軽微なから金五千円を差加へ、別紙目録之通り提供仕候間御受納被下度候、右者疾く具申可仕之処、爾来旅行又ハ病気之為メ乍思延引仕候、此段拝願如此御坐候 匆々敬具
  大正六年四月七日
                       渋沢栄一
    本多静六様
         梧下
  ○「渋沢青淵先生喜寿祝賀記念録」ハ編者・発行者・発行年月日ノ記文ヲ欠クモ、当会ノ記念刊行タル事ハ明白ナリ。巻頭ニ栄一ノ肖像・筆跡ヲ写真版トシテ掲ゲ、次ニ右掲書翰ノ石版刷ヲ収ム。全頁四八頁。和装仕立パンフレツトナリ。


渋沢青淵先生喜寿祝賀記念録 第一―四頁(大正六年)刊(DK450076k-0005)
第45巻 p.236 ページ画像

渋沢青淵先生喜寿祝賀記念録  第一―四頁(大正六年)刊
  渋沢青淵先生喜寿祝賀記念録
    一 渋沢奨学資金募集事務概要
大正五年七月三十日上野精養軒に於て、貴族院議員田島竹之助氏露国訪問に付、在京県人間に於て送別会の催あり、席上渋沢男爵の喜字の齢を迎へられたるを祝せんとの意見出で、結局奨学資金を募集して之を男爵に贈呈し、其用途の選択を請ふことに満場一致を以て可決し、出席者二十七名全部委員となり、更に本多静六氏を募集委員長に、山中隣之助氏を会計委員に、諸井四郎・斎藤阿具の両氏を専務委員に選定し、直に事業の進行に着手せり
○中略
二月十三日○大正六年予定の如く上野精養軒に於て奨学資金の贈呈式を挙行す、出席者は、主賓渋沢男爵、陪賓岡田県知事・成毛同内務部長其他総員百八十二名にして、其詳細は別項の如し、式後直に男爵喜字の祝賀宴に移り、歓を尽して解散したるは午後九時半なりき、以上の経過にて事業を進行したる結果は実に次の如し
 発起人承諾者      百四十二人
 寄附金申込者      五百六十五人
 寄附金総額       金一万八百四十三円
 贈呈式出席者      百八十二人
四月七日、渋沢男爵には埼玉学生誘掖会副会頭本多静六氏に礼状を送られ、曩に贈呈せる奨学資金に、更に金五千円を加へて之を同会に寄附し、其用途を一任せられたり、巻頭に載せたるは即ち其写なり


竜門雑誌 第五七八号・第一七頁昭和一一年一一月 埼玉学生誘掖会と青淵先生 斎藤阿具(DK450076k-0006)
第45巻 p.236-237 ページ画像

竜門雑誌  第五七八号・第一七頁昭和一一年一一月
    埼玉学生誘掖会と青淵先生
                      斎藤阿具
○上略
 大正五年には、先生喜寿に達せられたので、本会にては其の記念として、奨学資金募集の事業を企て、翌年二月十三日即ち先生の誕辰を以て、上野の精養軒で祝賀会に兼ねて右資金の贈呈式を挙行した。其
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際先生は之を快受され、之に巨額の金を加へられて、更に之を本会に寄贈された。是が渋沢奨学資金といふ名義で、本会の別口資金となり爾来其の利子を以て、学資に窮せる優秀学生を救済しつゝある。祝賀会席上述べられた答辞に於て、先生は昨年七十七歳を機として第一銀行始め諸会社との関係を断つたが、今後は主として道徳経済の一致、資本労働の調和、感化救済の施設、教育事業其他外交殊に米支との国交に余力を尽す意嚮である旨申され、其中に『銀行を辞することは出来るが国民を辞することは出来ぬ』といふ語があつた。是は実に金言名句と感心して、今尚私の耳に留まつてゐる。
○下略



〔参考〕(埼玉学生誘掖会)評議書 大正四年壱月―(DK450076k-0007)
第45巻 p.237 ページ画像

(埼玉学生誘掖会)評議書  大正四年壱月―
                   (埼玉学生誘掖会所蔵)
                           (大井)
 大正六年十二月十九日              主事(印)
  会頭 栄一
   副会頭
    理事 (印) (印) (印) (印) (印)
     回議
  斎藤阿具氏ニ謝状並ニ目録ヲ贈ル件
理事斎藤阿具氏、今回専務並ニ寄宿舎監督ヲ辞任相成候ニ付、左記謝状並ニ目録ヲ贈ル事ニ取計ヒ可然哉
     謝状案○略ス



〔参考〕渋沢栄一書翰 斎藤阿具宛大正六年一二月三一日(DK450076k-0008)
第45巻 p.237 ページ画像

渋沢栄一書翰  斎藤阿具宛大正六年一二月三一日  (斎藤阿具氏所蔵)
拝啓、霜寒之候益御清適奉賀候、陳者貴下去る明治四十年以来本会寄宿舎副監督之任ニ膺リ、専心舎生を指導して誘掖之実を挙け、第二寄宿舎之増設せらるゝや、其管理及監督法に改善を加へ鋭意舎風之振興を努め、遂に模範寄宿舎之声誉を博し、本財団設立後理事に挙けられ尋而大正三年以降専務理事及寄宿舎監督之重任ニ膺られ、舎生監督之余暇本会々務ニ御尽力被下、本会今日之基礎を築成せるに至り候其功績之顕著なるは、会員一同之感銘措く能はさる所ニ御坐候、今回理事改選之結果専務並寄宿舎監督御辞任相成候は実ニ遺憾之至ニ候得共、引続き理事として会務御担任被下候ハ本会之光栄ニ御坐候、玆ニ多年之御尽瘁ニ対し感謝之微意を表する為め別封目録を座右ニ進呈仕候、御存留被成下候ハヽ本懐之至ニ御坐候 敬具
  大正六年十二月三十一日
                 埼玉学生誘掖会々頭
                   男爵渋沢栄一
    斎藤阿具殿
        貴下
  ○別封目録ヲ欠ク。